第六話 友 1





 
    ――信頼できる友を最低三人は持て――



        ――戦国武将、北条早雲が斎藤道三に宛てた手紙の一節





 ズダン! …ズドン! …ドドン! …ズドン! …

 今日も旧校舎に銃声が鳴り響く。放課後遅く、一人旧校舎地下で銃を握っているのは、既に真神の名物となりつつある戦争オタクの鬼軍曹こと、緋勇龍麻であった。

 詳しい理由も由来も不明ながら、ここ旧校舎地下に広がる大洞窟は、世間一般の常識など軽く覆す魔所である。その深さは測り知れず、深く潜れば潜るほど、迷信と伝説、悪夢の世界にしか存在しないと思われていた怪物どもが次から次へと現れるのだ。普通ならばしかるべき機関がこの場所を封印し、あるいは科学的調査が行われ、その結果国家の財産として国が土地そのものを接収しているところだが、なぜかここには政府の手が一指たりとも届いている様子がない。

 国家レベルの機密ではない。さりとて、真神だけで押さえている秘密とも思えない。事実上ここの管理者である犬神と交渉し、校長を交えて様々な条件を膝詰め談判の結果、龍麻は旧校舎の利用許可を勝ち取る事ができたのだ。と、言うより、旧校舎を利用する際の厳守事項を提示されただけである。明示は避けたが、校長も犬神も旧校舎の秘密を承知の上で、龍麻が何をするつもりなのかも理解しているようであった。

 とりあえず、深い理由は龍麻には関係なかった。校長にも犬神にも高レベルの機密事項があるのだろうが、旧校舎利用を許可された彼にとってここは手頃な戦闘訓練場兼、射撃訓練場となったのだ。何しろ広さは充分、結界が張ってあるとかで防音対策は完璧、おまけに一般人は入って来られないという重宝さである。また、異形の怪物にはなにやら光物を溜め込む習性があるらしく、どこから供給されるのか知らないが、時代物の武器や道具、薬品などを所持している。その中にはなかなかの値打ち物もあり、万年金欠病の京一や醍醐などは実戦訓練と小遣い稼ぎができるので、全員揃う時には地下校舎探索に参加したがる。近頃急速に実戦経験を積んでいる彼らに対しては、龍麻も二人編成以上でならば、地下二〇階程度までの探索を許している。

 今日のところは、龍麻一人である。昨日仕入れたばかりの弾丸のテストをするためであった。

 銃はレミントンM1100・ピストルグリップ・ソードオフである。アメリカで警察が使用している名銃M870シリーズの後継機で、最近流行りのガスオペレーション・オートマチックだ。弾丸装填時の独特のスライド音が犯罪者を恐怖させるというショットガンのイメージは、急速に凶悪化する犯罪と、とりわけ麻薬中毒患者に対しては何の効果も期待できなくなりつつあるので、強力な散弾を立て続けに発射できるオートマチック化はショットガンにとって必須の課題であった。これまでは発砲時に発散されるガス圧が安定せず装弾不良が起きやすいという欠点があったのだが、米軍トライアル中のヴェネリM4やM−16シリーズから発展したUSAS12、SPASシリーズなど、作動の確実性が高いモデルが次々に開発されている。

 龍麻がM1100を選んだのは、やはりその全長五四〇ミリという携帯性に尽きる。彼の体格ならば上着の内側にも隠せるからだ。

 そして今は弾丸のテストなので、龍麻は一発撃っては双眼鏡で標的の状態を確認し、一緒に持ち込んだノートに散弾の散らばり具合などを書き込んでいく。それを一ケース五〇発分繰り返すには、几帳面な龍麻だけにかなりの時間がかかった。それでも結果は上々だったので、龍麻は意気揚々と旧校舎を引き揚げた。

「よお、今帰りか?」

 龍麻が銃器と弾丸を詰めたザックを担いで旧校舎を出ると、そこには木刀を抱えた京一と醍醐が待っていた。

「何だ二人とも。まだ帰ってなかったのか?」

「いや、久しぶりに部活に顔出してよ。後輩をしごいてやってたんだ。今年の一年は見所のある奴が多くてな」

「俺も部活に出ていたんだが、ついトレーニングに夢中になってな。気付いたらこんな時間になってしまった」

 時計は一九〇〇時を回っている。最終下校時刻はとっくに回っているのだが、真神学園はそういうところが意外とゆるい。

「後輩の指導は重要だ。二人とも、責任重大だな」

「へへッ、まあな。うちには優秀な副部長がいるからあまり顔を出さなくてもいいんだけどよ」

「《剣術》と《剣道》の違いか」

 龍麻の言葉に京一がにやりとする。

 京一が操る《剣術》は、文字通りの実戦剣法である。本来は真剣を用いての斬り合いを行うもので、死中に活を見出し、相手を確実に斬るための剣法だ。対してスポーツ化された高校《剣道》は、もちろんそれ自体も《武道》ではあるが、ルールに乗っ取ってポイントを奪い合う、あくまで《スポーツ》である。《剣の道》とは言うものの、実際には《斬る》のではなく《打つ》技術である剣道は、京一には物足りないものであるのだ。技一つ取って見ても、たとえば真剣での斬り合いでもっとも実戦的且つ効果的な袈裟懸けは、《剣道》では反則なのである。

「まあ、少し遅くなっちまったが、せっかくこの面子が揃ったんだから、ラーメン屋でも寄っていこうぜ」

「そういう訳だ。龍麻も来るよな?」

「ふむ。そろそろニンニクラーメンに挑戦しようと思っていたところだ」

 そんなこんなで、すっかり真神の名物トリオとなった三人は、行きつけのラーメン屋《王華》に立ち寄った。初めてラーメンを食べた時には栄養バランスがどうのこうのと言っていた龍麻も、今では二杯くらいは付き合うようになっている。そして今、全メニュー制覇に余念がない。――《食事》というものが、肉体の維持以上に精神を豊かにする事に気付いたのである。

 久しぶりに戦闘以外で身体を動かした京一も醍醐も、《力》をセーブする事を余儀なくされて疲れたか、京一は三杯、醍醐も四杯食べた。しかしそこまで食べるとさすがに腹が突っ張ってしまったので、夕涼みがてら中央公園をぶらつきつつ帰ろうという話になった。

「しっかし、この前のテストは最悪だったぜ。下手すりゃ夏休みは補習コースだ」

「それは仕方ないだろう。普段居眠りばかりしているからいけないんだ」

「うるせーな。お前だって似たような点数だったろ」

「はははっ、それを言われると耳が痛いな」

「大体美里にしろひーちゃんにしろ、頭の構造がどこかおかしいぜ。なんであんなに公式だの単語だのを覚えていられるんだよ?」

 何やら矛先が自分に向いたのを悟った龍麻は、極め付けの一言を告げた。

「馬鹿に士官は勤まらない。京一も醍醐も、記憶容量を増やしたいのならば、陸軍士官学校仕込みの訓練をしてやってもいいが?」

 薮を突ついて蛇どころか、殺戮妖精レッドキャップを出してしまった京一と醍醐は真っ青な顔をプルプルと横に振った。特に醍醐は《幽霊嫌い》を克服するためと称して放課後の霊研に監禁され、休日は桜ヶ丘に放り込まれるという、彼にとっては空前絶後の拷問を受けている。結局この作戦は成功せず、龍麻は作戦を練り直すと言ってとりあえず中止となったのだが、何のきっかけで彼が思い出すのか知れないので、《訓練》という単語には非常に敏感になっている二人であった。

 だが幸運と言うかなんというか、その時、公園の奥の方から若い男性の悲鳴が聞こえた。

「何だ! 悲鳴だぞ!」

「向こうだ! 行ってみようぜ!」

 そう言ってだっと走り出す京一と醍醐。わずかに遅れて走り出した龍麻は、

(なぜこの二人、これほど慌てているのだ? 特に京一。悲鳴は女性のものではなかったが…? )

 などと考えていた。

 しかし、そんな余計な考えはすぐに払拭される事になった。頼りない街灯のみが光源の暗い路地に、見慣れた制服の男子生徒が倒れていたのだ。

 彼らとは格が違うが、鍛えられた体つきと、短く刈り込んだ頭。

「こいつは、うちの空手部員じゃないかッ!? ――おい! しっかりしろ!」

 醍醐が男子生徒を抱き起こす。

「俺にも覚えがあるぜ。確かこいつ、空手部の副将だ。副将を闇討ちにしたのか? 相手は何人だ?」

 うう、と男子生徒が呻いたのを見て、龍麻がいつものように容体を見ようと片膝を付く。男子生徒は何事か訴えようとしているが声にならない。そこで唇の動きを読む。

「が…い…せ…ん…じ…? …がいせんじ? ――何の事だ?」

「《がいせんじ》!? 確かそれは目黒の――」

 しかし、醍醐の言を龍麻の手が遮った。怪我の程度をチェックしていた彼が、《それ》に気付いたのである。

「…二人とも…これを見ろ…」

 かつて龍麻が、これほど緊張を込めた声を出した事があったか? 京一と醍醐は驚愕しながらも男子生徒の右手を見、押し殺した驚きの声を上げた。

「なっ、なんだよこりゃあ!」

「これは…石!? 腕が石になっていると言うのか!?」

 およそ常識からかけ離れている現象ではあるが、彼ら自身も常識から一歩踏み出している身である。龍麻は男子生徒の袖を捲り上げ、注意深く観察した。

「…薬品や細菌によるものではないな。むしろ呪術…《力》に関するものと思われる」

「…そんな事、解るのか?」

「――勘だ。《我々》はそのように訓練された」

 勘を養成する訓練…どのようなものか聞いてみたい気もするが、今はそれどころではない。

「それでは、やはりあそこだな!?」

 醍醐が男を担いで立ち上がる。彼の荷物は龍麻が取った。

「うむ。桜ヶ丘に急行だ。この瞬間にも石に変化しつつある」

「やっぱり…俺も行かなきゃ駄目か?」

「帰ってもいいぞ。その代わり霊研に一週間だ」

「さあ、急ごうぜ!」

 一週間の霊研詰めより、桜ヶ丘にほんの少しの方がいいに決まっている。京一が先導し、三人は走り出した。

 その寸前、ふと龍麻は路地脇の茂みを振り返ったのだが、醍醐の《早く!》という言葉に促されて二人の後を追って走り出した。

 それを見て、茂みの中に潜んでいた一人の男が歯を剥き出し、声に出さずに笑った。

「相変わらず偽善者ぶったツラしやがって…、醍醐…変わらねえな、あの頃と」





「大変よ大変よ――ッ!!」

 台風のごとき声が三−Cに駆け込んできた時、龍麻はウォールストリートジャーナル(アメリカの経済新聞・オリジナル英語版)を読んでおり、京一は授業が終った事も知らずに眠りこけ、葵と小蒔はたのしげにお喋りをしている最中であった。醍醐は授業終了後すぐに教室を出て行ったので、今はここにいない。

「大事件――!」

 小難しい先物市場の動きを予測している龍麻に気を使おうともせず、アン子は真っ直ぐ彼の席の所までやってきた。

「大事件と言う割に、嬉しそうだな」

 目の前で怒鳴り散らされては、さすがに龍麻も顔を上げざるを得ない。葵も小蒔も何事が起こったのかと、龍麻の席に集まってくる。京一だけが、未だに夢の中だ。

 そんな京一の態度に、アン子は彼の机に向かってずかずかと歩いて行く。

「起きろ! この木刀馬鹿!」

 がくがくと彼の肩を揺するアン子。しかし京一は一向に目覚める気配はない。…と言うか、頑強に寝たふりを敢行しているのだ。

「起きなさい――よっとぉ!」

「おわあっ!」

 机ごとひっくり返され、さすがに京一も声を上げた。

「ホラ! しゃっきり目覚めたでしょ!」

「…アン子? なんでウチにいるんだ?」

 とぼけた事をぬかす京一。さすがに打ち所が悪かったかしらと言う葵に促され、龍麻も席を立つ。

「お、ひーちゃんまで…」

「いつまで寝ぼけてんのよぉ!」

「ぐおっ!」

 身体を張ったごまかしも空しく、アン子の平手打ちが見事に京一の頬に決まった。どっと倒れる京一に、さらに襟首を掴んでがくがくと揺する。

「ふむ。今日はいつになくしぶといな」

 アン子の言う《大事件》が、夕べの事を指していると薄々気付いている龍麻は、そろそろごまかすのは諦めた方がいいのではないかと思いつつ、アン子の情報収集能力にも恐れに近い感情を抱いていた。プロの兵士である龍麻は足跡をうまく消しているつもりなのだが、はっきり言ってしまえば素人であるアン子は、時に龍麻の予想を上回るルートから情報を入手しないとも限らない。現に夕べの事件を見事に入手してみせたのだ。

「イテテ…なんだよアン子。人の安眠を妨害しやがって」

「放っとけば一日中でも寝てる人間が何を言ってるのよ。さあ、昨日何を見たかきりきり話す!」

「あん? 昨日?」

「そうよ。昨日、見たんでしょ? さあ、早く話して!」

 京一は少し考える素振りをしてから、ポンと手を打った。

「ああ、あれか。バッチリ見たぜ。風でスカートのまくれたお姉ちゃんのパ…」

 京一に皆まで言わせず、アン子の右フックが彼の顎に決まった。再び床に沈む京一。

「…いつも思うのだが、どうして女性からの攻撃はかわせんのだ?」

「京一君、女の子には優しいから」

 葵はそう言ってくすくすと笑ったが、優しさと攻撃を避けられないのと、どんな関係があるのかと悩む龍麻であった。何しろ彼は元対テロ部隊。《女テロリストを先に撃て》は全世界の対テロ組織に共通する合言葉なのだ。

「…何をしてるんだ、お前たち?」

 床で寝ている京一の所に集まっている龍麻たちを見て、いつのまにか戻ってきた醍醐が問う。とは言っても、何があったのか大体は想像できているようだが。

「うむ。アン子による京一の拷問耐久度をチェックしていたのだ」

「ちょっと! どういう意味よ、それ!」

 と、矛先を龍麻に向けたアン子であったが、はた、と気付いたように醍醐に厳しい視線を向けた。

「醍醐君、どこ行ってたのよ?」

「ん…ちょっとな…」

 いかにも隠し事をしてますと言わんばかりの醍醐に、龍麻は天を仰いで嘆息した。

「空手部でしょ?」

「う…」

「図星ね」

「うう…」

「まったく、嘘の付けない性格よねえ」

「ううう…」

「アン子、もういい。それ以上醍醐をいじめるな」

 他の者がこんな言葉を吐いたら、醍醐とて激発したろうが、そこはそれ、鬼軍曹殿の龍麻である。下手に逆らうと今度は《拷問耐久訓練》と称して何を始めるか解ったものではない。

「さすがに龍麻は話が分かるわね〜。それで、何を見たの?」

「うむ。白とピンクのストライプであった」

「…………」

 大真面目に答える龍麻に、居並ぶ全員の目が点になった。

「――って、あんたもかい!」

 バッチーン! という音と共に床に沈む龍麻。しかし京一と違ってすぐに上半身を起こす。

「…なかなか痛いぞ。やはりこれは、優しさとは無縁のような気がするが…」

「あんたたちねえ…!」

 どこまでも話をはぐらかそうとする男衆に対し、アン子の身体から怒りのオーラが吹き出す。さすがにそれ以上は見ていられなくなったか、小蒔が口を挟んだ。

「ねえ、一体どういう事? 何があったのさ、醍醐クン?」

「う…うむ」

 まったく意識せず、しかし最大の効果を上げるポイントに最適な質問を浴びせる小蒔であった。

「龍麻、京一。やはりこれは、皆にも話しておいた方がいいだろう」

 申し訳なさそうに言う醍醐に、龍麻と京一は揃ってため息を付く。良いコンビだ。

「…ああ、そもそもお前に隠し事をさせようと言うのが間違いだった」

 せっかくごまかしていたのに、と辛辣な事を言う京一。

「醍醐は色仕掛けに弱い、と」

 と、謎のメモ帳に謎の言葉を書き連ねる龍麻。近頃どうも、真神の総番殿はやられっぱなしである。

「さあさあ、観念したとところで話してもらいましょうか」

「まったく、いつもながら耳の早い奴だぜ」

「当然。あたしの夢は事件を追って世界中を飛び回る一流のルポライターですもの。安心して。悪の結社に捕まったとしてもミンナの事は話さないから。危険を顧みずペン一つで立ち向かう。これぞジャーナリストの鑑ってね。どう、見直した?」

 胸を張って答えるアン子に、龍麻はさらりと爆弾発言をする。

「うむ。お前が人質にされた場合は、苦しまぬ内に本懐を遂げさせると約束しよう」

 ザザザー! と血の気が滝のように引いて行く京一たち四人であったが、当のアン子はいつもの軍事オタク発言かと気にもしない。実態を知らないという事は本当に良い事だと思う京一たちであった。

「まあそれはさて置き、何もただで情報をよこせなんて言わないわ。アンタたちの情報とあたしの情報と交換ってトコでどう?」

「…まあ良かろう。無関心という訳には行くまいからな」

「だがよ、アン子。話はお前からだぜ。お前の事だ、俺たちから体よく情報だけ引き出してハイさよなら――って事もありうるからな」

(チッ、相変わらず変なトコに鋭い奴ね)

 そもそも五対一でここまで遣り合うアン子の方が大したものなのだと龍麻は思ったが、それを口にすると増長しそうなので黙っておく。

「判ったわよ、仕方ないわね…あたしの調べた所によるとね…」



 一 ――昨晩、空手部の生徒四人が路上で襲われた。争った形跡、目撃者なし。



 二 ――被害に遭った三人までは巡回中の警官によって病院に収容。現在面会謝絶。襲われたのはすべて空手部の代表選手であり、次回の大会への参加が危ぶまれている。



「面会謝絶って…そんなに酷い怪我をしたの? それに被害者って四人だったんじゃなかったっけ?」



 三 ――最後の一人…本当は最初の一人は、通りがかった三人の高校生によって発見。保護され、桜ヶ丘中央病院に収容された。



「三人の高校生って…」

 葵と小蒔の視線が、自然に龍麻たちの方を向いた。

「…見事と言うしかない情報収集能力だな、アン子」

 昨日の今日でこれだけ調べ上げたアン子の情報収集の速さに、龍麻は素直に感心した。彼女にはジャーナリストなどより、CIAや内閣調査室などの方が向いているのではないかと、龍麻はシャレにならない未来を思い描きつつ思った。好奇心の赴くままにスキャンダルを暴きたてられる政治家や政府高官たち。大企業の会長や社長。それをネタに強請られる国家中枢。アン子に諜報機関の権力を与えたら、かつてケネディ大統領すら怖れたFBI長官のフーバーさえも凌駕し、世界が彼女の好奇心の前に破滅するかもしれない。

「一つ確認したいのは、なぜ桜ヶ丘に運んだかって事なのよ。あそこは産婦人科でしょ? 少なくとも、表向きはね」

 それこそ、アン子が龍麻たちから得たい情報なのだ。桜ヶ丘の秘密はアン子も葵の一件で知っているのだから。

「そこまで調べ上げていたとは本当に驚きだよ。まあ、隠した所で仕方ない。やった奴は見なかったが、俺たちが空手部員を見つけた時、そいつの腕が、その…石になっていた」

「石〜ッ!?」

 案の定、小蒔が声を上げた。醍醐が口篭もったのも、それが予測できたからだろう。

「石って、どういう事よ?」

「どうもこうもねえ。見たまんまさ。そいつの腕が石になっていたんだよ。――って言うか、俺たちの見てる前でじわじわ石になって行ったのさ」

 人が石になる――実際に目にした龍麻たちでさえ信じがたい現象なのだから、女性陣がにわかに信じられないのは当たり前である。

「岩山先生が言うには、一種の元素転換だろうという事だ。そして現時点では桜ヶ丘特製の抗生物質で石化の進行を遅らせてはいるが、石化が心臓にまで及んだら彼らは死ぬとの事だ」

 こんな言葉をさらりと言ってのけるのは龍麻以外にはない。事態の大きさに声を失う女性陣であった。龍麻たちが当初話をごまかそうとしたのは、そういう反応があると予想しての事だったのである。

「何とか助ける事はできないのかしら?」

 葵が言ったが、それも予測通りの台詞だった。

「大会を控えていた選手ばかりが襲われたんだから、うちの空手部を大会に出させないためと考えるのが自然よね」

「え!? ――そんな酷い事するなんて、許せないよ!」

 同じ武術に携わる者として、アン子の言葉に小蒔が激発する。しかし龍麻は昨夜京一たちと話し合っていたので、首を横に振った。

「その可能性は低い。あからさますぎるし、ただそれだけが目的なら、人間を石に変える必要などない」

「んー、確かにそうよね。でも、一つ見てもらいたいものがあるの」

 そう言ってアン子が取り出したのは、一枚の写真であった。

「なんだこりゃ? …ボタンか?」

「そう。これが電脳研究会に拡大処理してもらったものよ」

「文科系の中でも特に閉鎖的な部だよ。良く協力してくれたね〜」

「そりゃあもう。あそこの部長の秘密の写真を持っているから、あたしの頼みなら何でも二つ返事なのよ」

 将来の事よりも、現時点でさえアン子は真神のフーバー長官らしい。

「そんな事より、良く見てよ」

「文字が書いてあるね。…鎧…扇…」

鎧扇寺がいせんじ

 アン子と醍醐が同時に答えを出す。

「鎧扇寺という言葉から連想できるのは、目黒区にある鎧扇寺学園だけよ」

「うむ。襲われた副将もそれを口にしていた。――確かにあそこの空手部はうちの空手部とは地区予選で互いに代表の座を争ってきたライバル同士だ。一昨年はうちが、昨年は鎧扇寺が優勝している」

「動機は充分という訳か? 早計だな」

 龍麻は何事か考えがあるのか、アン子の推理に否定的であった。

「なによ。龍麻は他に何か証拠でもあるの?」

「いや、ない」

「だったら鎧扇寺に行ってみるしかないんじゃねェか?」

「なぜ?」

 龍麻のこの返事に、既に乗り気らしく木刀袋を掴んでいた京一は盛大にコケた。

「なぜって、決まってるじゃねェか!」

「なにが?」

 龍麻は涼しい顔で切り返す。

「なにがって…」

 ここまで言った所で、京一は何も言葉がない事に気付いた。

 確かに鬼軍曹と陰口を叩かれる龍麻だが、彼自身は一度も《闘え》と言った事はない。一度は逃げ出したりもした訓練とて、自分たちが言い出した事である。龍麻はこの歳にして完成された兵士であるが、それは戦争狂ウォーモンガーという事ではない。むしろ彼は極力戦闘を回避する側だ。一度敵対した者には一切容赦しない彼だが、彼が自ら望んで闘いに赴いた事はまだ一度もないのであった。

「そうだな…。うむ。この事件には普通ではない《力》が介在している可能性が高い。そして俺たちは《力》に付いて多少なりと知識があり、警察では手に負えない事も判っている。そしておそらくこの一件、俺たちと無関係ではない。…そんなところか?」

「及第点をやろう、醍醐。通常の事件ならば、我々の出る幕ではないが、そこに《力》が介在しているとなれば、むしろ標的は我々にあると見ても良かろう。つまり今回は始めから、敵対者がいる可能性が高いという事だ」

「俺たちの《力》の事を、他に誰か知っている奴がいるって事か?」

「あくまで可能性の問題だがな。その覚悟も必要という事だ。戦いを回避できないという覚悟だ」

 一同にもようやく、龍麻の言わんとしている事が理解できた。

 極論するならば、自分たちとは直接関係ない事件に自ら首を突っ込むのかと聞いているのだ。そしてどんな目的があるにせよ、《力あるもの》が人間を石に変えるという行為に及んでいる以上、敵対する事はほぼ確実。興味本位から始まった渋谷の事件や、葵を救うという大義のあった先の事件とは違い、今回は自ら望んで事件に立ち向かう事になる。無報酬で、命懸け。その覚悟を問うているのだ。

「つまり、今回の事件は俺たちが標的かも知れねえって事だろ? なら、受けて立ってやるまでさ」

「そうだな…。もし狙いが俺たちにあるなら、空手部はそれに巻き込まれた事になる。それに無関心を決め込む訳にはいかん。これは、俺たちの問題として捉えろという事だな、龍麻」

 ふっと小さくため息を付く龍麻。但しそれは、彼らの発言に呆れたからではない。

「報酬なしのボランティアに良くそこまで乗り気になれるものだ。それで、葵に小蒔。お前たちも付いてきたいとでも?」

「……」

 この男は、人の先手を取るのが非常に上手い。言いたい事を先に言われて沈黙するしかない葵と小蒔であったが、龍麻はさらっと言ってのけた。

「いささか手間がかかってしまうが、今日のところはお前たちの同行が望ましい。但し小蒔、今日は交渉だけだから弓は持って行くな」

「いいの!? 私たちが付いて行っても」

「無駄足をさせる事になるが、それでも構わぬならば」

「そんな事ないよ! 一緒に行こう!」

 てっきり待機命令とか出されるんじゃないかと思っていた二人は、龍麻の方から同行を呼びかけてきたので喜んでそれに乗った。

「遠野、お前は…」

「ああ、あたしは行かないわよ。あたしは桜ヶ丘に行ってみるつもり」

 いつもならば一同に付いて行くと言う彼女だが、今回のターゲットは襲われた空手部員に決まったらしい。龍麻の推理、《狙われているのは我々》を考慮したのであろう。

「おいおい、面会謝絶なんだろ?」

「知ってるわよ。けどね、誰だろうとあたしの取材の邪魔はさせないわ。なんてったってそれが、真実を伝えるジャーナリズムの使命ですもの」

 ホーッホッホッホとなぜか高笑いするアン子。一同はげんなりした顔をしたが、その中で龍麻だけがポツリと呟いた。

「アン子。六三年のベトナム、サイゴンの街頭で起こった事件を知っているか?」

「え?」

「一人の老僧が反戦を訴えるために全身にガソリンを浴びて火を放ち、平和を祈る経を唱え続けた末に焼け死んだ。それを助けようともせず撮影し続けたアメリカのジャーナリストはピュリッツァー賞を受けた。この話をお前はどう思う?」

「……」

「…忘れてもいいぞ。元々、答えなどない質問だ」

 一同は、龍麻が酷く重要な事を問い掛けた事は判ったのだが、彼の知る情景を思い浮かべる事が事実上不可能なので、その意味を見出す事までは叶わなかった。それが日本の高校生の限界なのだ。

「さて、躍らされるのはいささか気が進まぬが、出かけるとしよう」

 沈黙を生み出したのが龍麻なら、それを破ったのも龍麻だった。

「あ、そうそう。醍醐君、こんな時に言うのはどうかと思うんだけど…佐久間が退院したわ」

「おお、そうか」

 素直に喜色を示す醍醐。

「でも気を付けて。あいつ、醍醐君の事を怨んでいるらしいわ…」

 すう、と喜色が消え、醍醐の顔は苦渋に歪む。

「気にすんなよ。どうせ一人じゃ何もできやしねえだろ」

 ポン、と醍醐の肩を叩く京一。この男はこういう時、ムードの切り替えが実に上手い。

「うむ。そうだな」

 今は彼の事で思い悩んでいる場合ではないと、醍醐は気持ちを切り替えた。

 自分たちはおそらく、闘いに赴くのだ。今は目の前の事に全力を尽くすべきだと、醍醐は心に決めた。





 ぞろぞろと連れ立って階段を降りて行くと、二階に差し掛かる手前で裏密ミサに遭遇した。

「あ、ミサちゃんだ。おーい、ミサちゃん!」

 なんで呼ぶんだよ! と京一が文句を言ったが、するすると滑るように裏密が近づいてきたので、慌てて彼は龍麻の陰に隠れた。

「うふふ〜、みんな揃って〜、どこかへお出かけ〜?」

「うん。ちょっとね。あ、そうだ。ミサちゃん。ちょっと聞きたい事があるんだけど…」

 小蒔がそう言ってから、ちら、と龍麻を振り返る。龍麻は小さく肯いた。その意味を悟ったか、裏密はニヤ〜っと笑い、京一と醍醐を凍り付かせた。

「うふふ〜。我が傍らに在りし知恵の支配者キュリオテーテスが汝のあらゆる求めに応じよう〜」

「うむ。もしかするとお前の専門かも知れん。人間を石に変える能力、または術に付いて知りたい」

「い〜し〜? そうね〜」

 冷静に考えてみると、質問する方もされる方も、およそ常識とかけ離れた会話をしているのに、そこに妙に馴染んでしまっている自分たちが恐いと思う京一であった。

「イビル・アイの一種かな〜?」

「邪眼か。俺も思い当たるのはそれだけだが」

 さらっと言う龍麻であったが、一同は邪眼という聞きなれない単語に戸惑いを禁じ得ない。そこで裏密が簡単に説明する。邪眼とはすなわち、妖術魔術の行使にあたって基礎となる重要な観念である事。邪悪な法を施行し、あるいは視線のみを持って他者に邪悪な力を投射できる能力を指すオカルト用語である事。

「つまり〜相手を石にするだけじゃなく〜、睨むだけで術をかけたり〜、触っただけで人を病気にできるって事なの〜。うふふ〜、便利だと思わな〜い」

「その最たる例が、ギリシャ神話のメデューサなのね」

 余りこのテの話向きではないが、博識な葵が言葉を引き継ぐ。

 メデューサはギリシャ神話の中に登場する、胴体と髪の毛が蛇という妖女である。元々は美しい地方神であったが、浮気性な主神ゼウスが彼女の美しさに惚れ込み、事もあろうに傲慢で嫉妬深い中央の女神アテナの神殿でデキてしまったため、無節操で甲斐性なしのゼウスは主神である立場のおかげで咎められなかったのだが、メデューサは醜い魔物へと変えられてしまったのだ。その結果、メデューサは美しい女性を憎み妬むあまり、睨んだだけで相手を石にする邪眼の力を得たのである。

「じゃあ、この事件の犯人も何かを怨んだり妬んだりしているって事なのかな?」

「そうかもね〜。恨みや妬みは〜強いパワーを発揮しやすいから〜。うふふふ〜。ひーちゃ〜んは邪眼が欲しいと思わない〜?」

「俺は間に合っている」

 龍麻の一言に、思わずドキリとする一同。いつも目元が見えないので失念していたが、彼の左目は常人のものとは異なる。それは戦闘時、特に彼自身が窮地に陥った時に発動し、常人どころか《力あるもの》さえも凌駕する超感覚を彼に与えるのだ。龍麻によると危機に際してアドレナリンが大量分泌され、血流量が増大して目が光るように見えるのだそうだが、事情を知らぬ者が見れば、それもいわゆる《魔眼》であろう。

「他に考えられるのはプラハ系妖術か薔薇十字会系魔術、バビロン系魔術だな。古代ケルト人の原始拳法には《石化拳》という技もあったそうだが、継承者はいないそうだし…」

「詳しいね〜、ひーちゃ〜ん」

 他の者は、龍麻の訳の判らない豊富な雑学に唖然とするばかりだったが、裏密は嬉しそうにニヤ〜っと笑った。

「うふふふふ〜。ひーちゃ〜んたちといると、オカルティックな事ばかり起こるわ〜。あたしも〜ひーちゃ〜んたちに付いて行こうかな〜」

「な、何ィ!!」

 ずっと龍麻の陰に隠れていた京一と醍醐が思わず大声を上げる。

「そうだね。ミサちゃんが一緒にいてくれれば心強いよ」

 小蒔が真っ先に賛同を示し、葵も同意見のようだ。と、なると、後は龍麻の裁量次第という事になる。

「ひーちゃん! 良く考えろ!」

「いいわよね、龍麻?」

「お、俺はできれば留保したい!」

「いいでしょー、ひーちゃん」

 全員の視線を一身に浴びつつ、龍麻は宣言した。

「報酬は基本的にゼロだぞ、裏密」

 それは、藤咲にも言った言葉であった。

「お前の豊富な知識と占いの技術は高く評価している。だが我々と同行する際には命の危険さえあるかも知れん。それでも構わんのか?」

「うふふふふふふふふふ〜。サタンを呼び出すのに比べれば〜、命の危険なんて序の口〜」

「そ、そうか。良かろう、歓迎するぞ、裏密」

 始めから裏密とは普通に接してきた龍麻であったが、この時ばかりは京一と醍醐の気持ちが解ったに違いない。裏密の「いつでも呼んで〜」という言葉を背に受けながら、真神の名物五人衆は何やら薄ら寒いものを感じながら出撃して行った。





 新宿駅から山手線で渋谷駅へ、そこから東急東横線に乗り換えて祐天寺駅へ。その先は徒歩で行くと、高校とは思えない、古風泰然とした門が一同を出迎えた。聞けばこの鎧扇寺学園は禅宗の寺に発祥があるそうだ。教育方針にも《心・技・体》の育成とあり、全国に知られる武道校でもある。

「むさ苦しさ満点って感じだぜ。これだから男子校って奴は…。さっさとその辺の生徒から空手部の場所を聞き出して、用事を済ませて帰ろうぜ」

 下校時刻なので、正門前には鎧扇寺の生徒がひっきりなしに往来している。そんな中での発言だけに、真神の五人衆は訝しげなのと敵意のこもったのと、余りありがたくない視線を浴びせられる事になった。もしこの一件が真神のみならず、ここ鎧扇寺でも起こっていたなら、一〇〇パーセント殴り込みに来たと思われるだろう。

「済まんが、葵と小蒔で空手部の場所を聞いてきてくれ。俺と醍醐はここでこの馬鹿を押さえておく」

「そいつはヒデェぜ、ひーちゃん」

「お前が木刀を持っているのがいかん」

 自分は何を隠し持っているか判らないくせに、龍麻はにべもない。葵と小蒔はさっそく正門前まで行き、すぐに戻ってきた。

「体育館の横に道場があって、そこだって言ってたよ」

「でも、私たちが真神の生徒だと知って、余りいい顔はしていなかったわ」

「問題ない。行くぞ」

 龍麻を先頭に、五人は堂々と正門を潜って行った。下手に遠慮するような態度は却って怪しまれるからである。

「でもさ、ひーちゃんはここの生徒がやったとは思ってないんだよね?」

「肯定だ。さっきも言ったが、闇討ちに超常的な《力》は必要ない。そしてあからさまな証拠は信用できん」

「じゃあ、何でここまで来たの?」

「証拠が道標だからだ」

「?」

「すぐに分かる。…ここだな」

 龍麻は、やはり高校のクラブのためにあるとは思えない、立派な道場の門を見上げた。

「カーッ、意味もなくムカつくぜ。真神じゃ場所がねえからって剣道部と空手部が交代で汚ねえ道場を使ってるってのに」

「立地条件の差だな」

 《空手部》と書かれた大きな桧の一枚板の脇を通り過ぎ、龍麻は道場の入り口に立った。

 そして、いきなり、

「たのもー!」

 と声をかけた。

「た、龍麻…!」

「ひーちゃん! それって道場破りの掛け声だぜ」

「そうなのか?」

 この辺りの常識は龍麻にはない。要らん所だけ博識な彼であった。

「誰かいないか!」

 醍醐も龍麻の事を悪く言えまい。いくら広い道場だからと言っても、これではやはり喧嘩を売りに来たようなものだ。

「合い言葉があるのかも知れん。――《山》!」

 などと馬鹿な声をかけてみる龍麻であったが、当然のように返事はない。

「むう、赤穂浪士ではいかんか」

「あの…龍麻?」

 控えめに葵が止めようとするが、龍麻は聞いていない。

「ちわー! 米屋ですー!」

「……」

「これもいかんか。…酒屋でございまーす!」

「ひーちゃん…」

「酒屋でございまーす!!」

「龍麻…何をムキになっているんだ?」

「酒屋でございまーすッ!!」

「あの、ひーちゃん?」

 果たして、三度目の掛け声の直後に返事があった。

「――誰や!?」

「おお、返事があった」

 なぜか嬉しそうな龍麻は、ひょいと道場の中を覗き込んだ。するとそこに、苦虫を噛み潰したような顔をしている、醍醐をも凌ぐ巨漢が腕組みをして立っていた。

「…よその学園の道場の前で落語をやっているお前たちは誰だ」

「――誰だと言うお前こそ誰だ?」

 龍麻が返すと、むむ、と巨漢は眉間にしわを寄せた。

「誰だと言うお前こそ誰だと言うお前こそ誰だ」

「誰だと言うお前こそ誰だと言うお前こそ誰だと言うお前こそ誰だ?」

「やめんか! きりがない!」

 訳の判らん問答を繰り広げる龍麻と巨漢の間に、醍醐が割って入った。

 ようやく、巨漢が我に返ったように一同を見回す。ノせられた事の照れ隠しか、咳払いを一つする。

「お前たち、魔人学園の者だな」

 やっとまともな交渉になりそうだと、京一はややげんなりした顔になっている。葵も小蒔も、なんで龍麻が落語ネタなんか知っているのかと脱力していた。

「そうだ。俺は醍醐と言う。木刀を持っているのが蓬莱寺、女がそれぞれ美里に桜井と言う。そしてこの男が、緋勇龍麻だ」

 ほお、と声を上げ、巨漢は眼光を鋭くした。龍麻の落語ネタに同調した時とは打って変わって、大山のごとき威圧感が全身から吹き出す。

「魔人学園の醍醐に蓬莱寺…一度会ってみたいと思っていたよ」

 巨漢は居住まいを正し、胸前で交差させた拳を下に払う、空手式の礼をした。

「俺は鎧扇寺学園三年の。空手部の主将をしている」

「知っててもらって光栄だな。…では紫暮、お前に聞きたい事がある」

 紫暮という男の雰囲気に触発されたのか、醍醐の雰囲気も真神の総番に相応しいものに変わっている。口調も有無を言わさぬものなので、人によっては難癖を付けているようにも聞こえる事だろう。

「俺に選択権はあるのか? 力づくでも聞きだそうって顔だぜ」

「済まんがこちらも時間がないのでな。――俺たち真神の空手部員が四人襲われ、重傷で現在も面会謝絶状態だ。現場にはこの学園のボタンが残され、生徒の一人がうわ言でこの学園の名を言っていた。正直、疑いたくはないのだが、そうも言ってられん」

「それで、真神の空手部と繋がりのあるここに来たという訳か。…迷惑な話だ」

 なんだと、と京一が怒りも露に話に割り込む。

「こうしている間にも、怪我をした奴等は苦しんでいるんだぜ。それをテメエ、迷惑だとォ?」

「あんたの所の生徒がどうなろうと、うちには関係のない事だ」

 紫暮は一向に、冷徹な態度を崩そうとしない。

「お前には単刀直入に聞いた方が良さそうだな。今の話に心当たりはないか?」

「ない。だが、そう言ったとして、お前たちはそれを信じられるか?」

「――信じるも何もない。この学園に犯人がいない事は最初から分かっている」

 こう答えたのは龍麻である。

「さて、当初の目的は達成した。帰るぞ」

「な、何!?」

 唐突な物言いは龍麻の得意技だが、紫暮はもちろん、真神の四人もこれには驚いた。

「最初に無駄足になると言っておいた筈だ。一連の事件の犯人は、我々に行動を起こさせるのが目的だ。我々が無視すれば、次に襲われたのはここの部員だろう。被害者を最小限に食い止めるには必要な処置だった。稚拙な陽動作戦だが、無駄足を使わせたツケは犯人に払わせる。では紫暮兵庫。ライバルのいない大会で張り合いはないかも知れんが、大会での健闘を祈る」

「ま、待て!」

 こうまであっさりと背を向けられて、やる気十分でいた紫暮にとってこれほど闘志が空回りする事はないだろう。

「たったそれだけの理由で、敵地とも言えるこの学園にその人数で乗り込んできたと言うのか? もし俺が最初からやる気でいたらどうするつもりだった?」

「仮定の話を論じてどうする? 道場を見た瞬間から、ここの部員の誰一人として、闇討ちなどの手段に訴える者などいないと判る」

「な、なぜ?」

 ああ、と京一たちは納得した。龍麻得意のプロファイリング。

「戦歴をたたえる賞状は多いが、トロフィーやカップは見当たらない。壁に張られた標語の数々。そして道場のどこを見ても塵一つなく、使い込まれていながら良く磨き上げられている床。虚飾や虚栄に惑わされず、掃除さえも身を入れて行える者たちが揃っていなければこうは行かん」

 だからこそ踏み込まず、入り口での落語ネタになったのか? しかしなぜ、落語ネタなのか? 

「それに、春風亭松鶴しゅんぷうていしょかく師匠のネタを知っているような男が、あのような恐ろしい技もしくは術を他人にかける訳がない。武道のみならず精神文化の象徴たる伝統芸能を理解しうる者に、卑怯な手段は相容れない」

 そういうものか? 本当にそういうものなのか? 紫暮も含めた全員が突っ込みたかったが、龍麻の自信たっぷりな口調の前に、やはり反論の余地はなかった。

 いや、紫暮一人がかろうじて食い下がった。

「ま、待て! 待ってくれ! お前が俺たち鎧扇寺をどう分析したのか知らんが、俺自身は一言の釈明もしていないぞ。もし俺が犯人だと言ったらお前はどうする?」

「…笑い転げるだけだ」

「……」

 龍麻という男を知らぬ紫暮は、もはや絶句するしかない。龍麻はあらゆる情況や証拠から、既に犯人が鎧扇寺にはいない事を見抜き、一点の疑いさえ持っていないのだ。

「紫暮って言ったっけ? 止めとけよ。こいつにゃ半端な駆け引きや挑発なんて通用しやしないぜ。それにこいつには、熱血ヤローのお決まりのパターンなんて理解できねえんだからよ」

「し、しかし! 初対面の相手を、しかも疑われてもやむを得ない立場の俺が一言も釈明しないままに疑いが晴れたと言われても、俺自身は納得できん! 俺とて武道家の端くれだ。口よりも拳で語る事で無実を証明してみせよう!」

 台詞だけは、たとえば真面目に武道に取り組んだ者ならば理解できるだろう。一般人でも、あるいはそういうノリを知っていれば大丈夫かもしれない。しかし闘いイコール殺し合いの世界にいた龍麻にとって、それは堂々たる宣戦布告にしか聞こえなかった。

「それはあくまで、私たちと立ち合うという事なのですか?」

「そ、そうだ!」

 取り成すような葵の言葉に、紫暮は真っ直ぐに龍麻を見つめて叫ぶように言った。既に熱意が空回りしているのだ。

 しかし龍麻は、

「主将たる者が、部下に不安を与えるような発言をするべきではない。そこで覗いている部員たちがお前を心配しているぞ」

「な、なに!?」

 紫暮とて一角の武道家だろうに、それに気付かなかったのは、やはり龍麻の存在感と言動に面食らっていたからであろう。龍麻が指差した方向に全員の視線が向けられると、やや動揺を隠せない空手部員たちがぞろぞろと道場内に入ってきた。

「お前たち…もう帰れと言っただろう?」

「いいえ! 主将がそうおっしゃる時は、いつも道場破りを独りでお相手になってました。しかし今回は、空手部ではないとは言え宿敵真神。それもあらぬ疑いをかけて乗り込んできた者たちです! どうか自分たちにも手伝わせてください!」

「彼らは俺たちを疑ってはいない。聞いていたのならば判っている筈だ。彼らと立ち合いたいと言うのは、俺個人の我が侭に過ぎん」

「しかし相手は噂に聞く真神の醍醐に蓬莱寺ですぞ! いかに主将と言えど、二人一度に相手をするのは危険過ぎます!」

「彼らは礼儀をわきまえている。そのような事にはならんよ」

 紫暮と空手部員の押し問答を聞いて、醍醐や葵、小蒔などは思わず顔をほころばせる。ここの空手部員はやたら生真面目な者ばかりのようだ。京一などは「暑苦しい奴らだ」と毒づきながら、まんざら悪い気分でもないらしい。そして今回も龍麻が分析した通り、彼らは一〇〇パーセント、今回の事件には関わっていないと判る。

「…取り込み中、失礼だが」

 一本気な者同士、なかなか譲らぬ押し問答に龍麻が割り込んだ。

「我々は今回の事件に付いて調査中の身だ。よって諸君らの希望に添う訳にはいかん。しかしながらこちらの都合で諸君らに不快感を与えた事も否めん。俺で良ければ相手になろう」

 え…? と、全員が唖然とする。真神の四人は他でもない龍麻がそう言った事に。鎧扇寺の者は、噂に聞く醍醐と蓬莱寺を差し置いて、一見優男な龍麻がそう言い出した事に。

「緋勇と言ったか。俺は構わんが、こいつらも既にやる気になっている。まさかこの人数を独りで相手にする訳にもいくまいが」

「諸君らのレベルを考え合わせるに、あの二人では怪我抜きには納まるまい。俺の指導は荒いが、試合を控えている諸君らに無茶はさせん。遠慮なくかかってくるがいい」

 指導!? 指導だって!? 

 つまりこれは果たし合いでもなければ、試合ですらないと龍麻は言い切ったのだ。紫暮はさすがに表情を変えないが、考え様によってはこれほどの侮辱はないと、他の空手部員たちは顔を真っ赤にして色めきたった。

 しかし、真神の四人は妙に納得してしまう。どうやら龍麻は規律が取れ、精神性も高い鎧扇寺空手部に好感を持ったらしい。そして龍麻名物鬼軍曹モードが発動したのだ。

「紫暮。龍麻の物言いは礼を欠いているように聞こえるかもしれないが、真神の醍醐と蓬莱寺を知っているのならば敢えて言おう。この緋勇龍麻の強さは俺も骨身に沁みている。そして俺も、この男の指導の下、修行する身だ」

「なんと…!」

 ざわめきがすうと絶える。紫暮以下、空手部員たちも、目の前の優男こそ真神の五人の中で最強なのだと知ったのだ。しかも都内で名の知らぬ者はいない《新宿真神の醍醐》を《指導》しているという男…。

「真神の醍醐にそこまで言わせるとは…良かろう! 遠慮せんぞ!」

「うむ。身の為になるかどうかは、諸君ら次第だ」

「…行くぞ! 鎧扇寺空手部の力、とくと見せてやる!」





 第六話 友 1    完



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