第伍話 夢妖 3





 
「あんまり遅いから、今日はもう帰ろうかと思ったわよ。ふふふ…あんたたちの事は目的も名前も判ってるわよ。…麗司れいじに聞いてるからね」

 そう言うと、少女はアイシャドウも艶かしい視線で一同を値踏みするように眺めていった。側面にシャギーの入った茶髪の長髪。きつい印象を与える目。化粧は濃いが、素でもかなりの美人である。

「そっちから蓬莱寺京一、醍醐雄矢、桜井小蒔、そしてアンタが指揮官の緋勇龍麻。…どう? 当たってるでしょ。そっちの看護婦ルックは見ない顔だけどね」

「…それで、お前は何者だ?」

 龍麻は冷徹な態度を崩さず、逆に問い返す。少女は口元に手をやってホホホと笑った。

「話に聞いた通りね。まあいいわ。教えてあげる。あたしは墨田区覚羅高校三年、藤咲亜里沙ふじさきありさ

「では藤咲亜里沙。麗司とやらの所に案内してもらおうか」

 龍麻が相手に主導権を取らせる訳がない。案の定、藤咲は少しばかり頬を引きつらせた。

「はン。本当に麗司の言った通りね。その自分の立場をわきまえない口の聞き方とか。まあ、当然かしらね。あんな面白味のなさそうなお嬢ちゃんを助けるためにわざわざこんな所まで来るんだから。アンタら、イカレてるわ」

「なんだと!」

 押さえに押さえていた怒りを激発させたのは、小蒔が最初だった。

「葵はボクにとって一番大切な親友なんだ! そんなコト言うと許さない!」

「ふふっ、バカじゃないの、ムキになるなんて」

「友達の心配をして、何が悪いって言うのさ! 早く葵を解放して! さもないと…!」

「さもないと…何よ?」

 急に藤咲の雰囲気が変わった。嫣然と大人びていた姿から、歳相応の危うさを持つ少女に。そして、怒りと憎しみに囚われた鬼女に。

「アンタたちみたいな甘ちゃんに、あたしたちの何が判るってのさ」

「ケッ、判る訳がねェだろう? こっちはいきなり美里をあんな目に遭わされてるんだからよォ」

 京一が木刀を担ぎ、いつになく真剣な目で彼女を睨む。

「俺達のことが判っているなら、お前にしろ、その麗司という男にしろ、二人だけでは俺たちに勝てる訳がないと判る筈だ。今なら間に合う。美里を解放しろ」

 先ほどまでの、幽霊を怖がっていた醍醐とは別人の、《力》に目覚めた新宿真神の総番がそこにいた。しかし、藤咲は鼻先で笑った。

「いくら粋がったところで、あたし達には勝てやしないわよ。大体アンタたち――」

 藤咲がそこまで言った時だった。

 彼女の周囲の壁で都合五回、瓦礫が激しく飛び散った。一瞬の瞬きの間に出現した龍麻の右手に握られた物を見て、藤咲の笑いが凍りつく。

「――勘違いは良くないな、藤咲亜里沙」

 龍麻の声は恐ろしく冷え切っていた。それを向けられていない京一たちでさえ、心臓を鷲掴みされた気分になるほどだ。プロである龍麻が、一発で済む威嚇射撃を五発も撃ち込んだ事も原因である。――龍麻は怒っている。表情には出ていないが、確実に。

「お前を生かしてあるのは、時間の浪費を防ぐために過ぎん。だがそれ以上無駄口を叩くようならこの場でお前を射殺し、そのビルにロケット砲を無差別に撃ち込む。その麗司とやらが死ねば葵は元に戻るだろう。俺はその方が手っ取り早いと思うがな。――三秒やる。好きな方を選べ。スリー…」

 ポツ、と藤咲の眉間に赤い光点が生じた。龍麻のウッズマンに装着されたレーザー・サイトの光である。もちろん、龍麻の腕を持ってすればレーザー・サイトなど邪魔なだけだし、そもそも短距離戦闘用のウッズマン・カスタムにそれは意味なしである。それなのに敢えてレーザー・サイトを使用したのは、赤外線が当たった個所を確実に狙っているという、心理的効果を狙ったものであった。

「ふ、ふん! そんな脅しに乗るもんか!」

「ツー…」

 龍麻なら本当にやる! 京一たちは止めるべきか一瞬迷った。しかし、藤咲の方が先に折れた。

「ついてきな! 麗司に会わせてやるよ!」

 藤咲はさっと身を翻し、ビルの中に姿を消した。まるで、逃げるように見えたのは仕方のない事だったかも知れない。

 ふう、と仲間たちが緊張のため息を付く中、龍麻はウッズマンを下ろした。

「…心臓に悪いぜ、ひーちゃん」

「相手は素人だ。戦略拠点を自ら暴露した。――どうだ? 今からでも今言った事を実行できるが」

 それはつまり、ロケット砲の無差別攻撃!? まさか本当に、コートの下にそんな物を隠し持っているのか!? 

「ひ、ひーちゃん…。それ、過激過ぎ…!」

「却下だ! 却下!」

「龍麻…いくらなんでもそれは…」

 口々に言いながら、しかし三人は《この男と敵対しなくてよかった》と思うと同時に、彼をここまで怒らせてしまった麗司という男の行く末に思わず合掌してしまった。

「より確実性を高めるために、プラスチック爆弾でビルを倒壊させるという手もあるが…」

「却下ァッ!!」

「むう…」

 一体どこまで…多分最初から最後まで本気であろうが、龍麻はいかにも残念そうにウッズマンをしまった。それで判ったのは、恐らく龍麻一人でここに来させていたら、謎のビル砲撃事件に、死者二名が確実だったという事だ。

「あ、あの〜、あのね〜、緋勇く〜ん」

 本気でシャレにならない問答を繰り広げる一同に、高見沢がおずおずと声をかけた。

「みんなも〜、あんまりあの人を嫌いにならないであげて〜」

「なッ、なんでッ!? あの人が葵を苦しめて…殺そうとしているんだよ!」

 選んだ単語の過激さが、小蒔の怒りの深さを物語っていた。悪党ぶりは龍麻の方が上手だが、藤咲という少女は葵を苦しめ、そのことに何の罪悪感も感じていないどころか、それを助けようとする龍麻たちを「イカレてる」とまで言ったのだ。親友を侮辱され、そしてそれを救おうとする自分たちを侮辱され、小蒔の怒りは頂点に達していたのである。

「そんな事言わないで…。あの人を助けてって、みんなが言ってるのぉ。なんだか…小学生くらいの男の子が…すごく悲しそうな顔で言うの〜」

 そう言ってる内に、高見沢まで泣き出してしまった。

「私も悲しいよぉ。よく判らないけどぉ、すごく哀しい〜」

 わんわんと声を上げて泣く高見沢に、さすがに小蒔も怒りを持続できない。

「…幽霊から何か聞いたのだな?」

 こくんと高見沢が頷く。

「しかし、危険なことに変わりはないぞ。戦いを避けられるよう努力はするが、全ては向こうの出方次第だ。判るな?」

 そう言いつつも、龍麻は戦闘を避けられないことを予測していた。常に戦争は一方的な主義主張から始まっている。そして彼女、藤咲亜里沙は自分たちを倒すもっとも確実な手段、奇襲をせずに堂々と姿を現した。つまりそれは、自分たちの戦力が龍麻たちのそれを上回っている自信があるからだ。それが単なる自己に対する過信であったとしても、自らが優位に立っていると信じている段階で、戦っている相手の話を聞こうとする姿勢は、人類の歴史には存在しない。人間は自らの力を過信し、相手の戦力を見誤り、自らの勝利を疑わぬからこそ戦争を起こすのだ。

「お前たちにも覚悟が必要だ。ここで先制攻撃をしないということは、敵の罠の中に自ら飛び込むことになる。…良いのだな?」

 それと知っていながら、敢えてそう言うとは? 常に有利な戦闘を重視し、こちらの被害を最小限に留める龍麻らしくない。それはつまり、相手の罠に飛び込んでなお、何とかできるという策を持っているからか? 

「行くよ! 葵のためだもん!」

「とにかく、行かなきゃ始まらねえよ」

「そうだな。なぜ美里を狙うのか知りたいところでもある」

 とんでもないお人よし揃いだな、と龍麻は思ったが、気分はそれほど悪くなかった。そもそも以前の龍麻ならば、敵がそこにいると判った段階で既に砲撃を開始している。彼にとって《敵》とは殲滅すべき相手であり、どんな主義主張を唱えていようと関係ないのだ。その上でなお、自ら敵の仕掛けたトラップの中に飛び込もうとしている。これが進歩なのか退歩なのか、今の龍麻には判らなかった。

「行くぞ」

 今できるのは、前進する事。龍麻は一同を率いて、暗いビルの中へと入っていった。





「――この中よ」

 ビル内の一室、元は事務所にでも使用されていたらしい、殺風景な部屋に一同は入っていった。窓は板で塞がれているが、明り取りの窓ガラスから光が入ってくるので真っ暗という訳ではない。しかし壁紙が剥がれてコンクリートが剥き出しになった壁といい、足元にたまった塵といい、見ているだけで気が滅入るような頽廃感がわだかまっている。

「なんだよ、誰もいねえじゃねえか――ッ!」

 そう言って京一が振り返った時、たった一つしかないドアがバタンと閉まり、次いでガチャリと鍵をかける音が響いた。

「畜生! 閉じ込められたぜ!」

 京一がドアノブをガチャガチャやり、ドアに肩をぶつけるが、廃ビルとは言えもともと鉄筋コンクリートの建物である。昨今の手抜き建設とは造りからして違う。

 そしてどこからか、シュウゥー…という、ガスが洩れるような音が響いてきた。

「ね、ねえ、これって…!」

「ガスか!? クソ! 一体どこから!?」

 慌ててガスの流入口を探す京一たちとは対照的に、龍麻は落ち着き払って壁際にいつも持っている経済新聞の読み残しを広げ、そこに腰掛けた。

「ひーちゃん! 何やってんだよ! ガスを止めねえと!」

「心配いらん。マスタード・ガスや青酸ガスなどの刺激臭や呼吸器異常はあるまい? それはただの睡眠ガスだ」

 言ってるそばから、高見沢が「ふにゃ〜」と声を上げて床に崩れ落ちる。

「す、すると奴らは…!」

 日本にあるはずのない砂漠の情景。深層心理に繋ぎ止められた葵。そして、夢にまつわる謎の死。それら全てがパズルのように組み合わさり、導き出された答えは――

「俺たちに夢を見させるのが目的か!?」

「だから言ったのだ。夢はやつらのテリトリーだとな。まあいい。文字通り、《夢で逢いましょう》だ」

「真面目な顔で冗談を言うなァ!」

 京一が叫んだ時、龍麻は既に座禅をするような姿勢で眠りに付いていた。ガスによる強制的な眠りより、自ら望んで眠った方がいいと判断して、自ら自己催眠に入ったのである。

「ボク…もうだめ…」

 まず小蒔が倒れ、続いて京一も崩れ落ちる。醍醐は最後までドアと格闘していたが、迫り来る睡魔の前に遂に陥落し、ドアにもたれるように倒れこんだ。





「…・着いたか」

 空気の質や気温、空間そのものの変質を感じた龍麻は、ゆっくりと目を開いた。

「……」

 裏密の術で一度目にした光景とは言え、自分がそこにいるとなると、さすがに龍麻も唸らずにはいられない。どこまでも続く乾ききった砂漠。重く雲の垂れ込めている灰色の空。そしてなぜか、砂漠に半ば埋もれるようにして、公園にあるジャングルジムやブランコなどがあちこちに散らばっている。

 一応、自分の頬などつねってみる龍麻。痛覚は正常だ。そして、風景こそ異常だが、ディティールがしっかりしている。砂も本物の手触りだ。ただし、砂漠本来の砂とは違う。色は黄色だが、砂の感触は、たとえば日本の海辺の砂に近い。つまりそれは、この世界を作り出したものが《本物》の砂漠を知らないということだ。

 風景も異常だが、龍麻の服装も変わっていた。

 真神の制服にトレンチ・コート姿であったはずの龍麻は、いつの間にかタイガーストライプの野戦服を着て、その上からタクティカル・ベストを装備し、足元はコンバット・ブーツで固めている。手にはM230・四〇ミリ対人榴弾筒を装着したM−16A2、左胸には柄を下向きにして装着したコンバットナイフ。そして頭には無線機とヘッドアップ・ディスプレイを装備したヘッドギア。つまり、かつてのレッドキャップスの戦闘装備であった。

 夢なのだから、それくらい当然かと考え、龍麻は立ち上がって仲間の姿を求めた。

 さほど離れていない砂丘に、四人の仲間が倒れているのが見えた。近寄ってみると、全員、元の服装のままである。なぜそんな違いが出たのか、龍麻にも謎であった。

「起きろ。着いたぞ」

 小蒔と高見沢は揺り起こし、醍醐は蹴飛ばす。京一などはガスで強制的に眠らされたにも関わらず、大口を開けて幸せそうに寝ているので、なんとなくムカついた龍麻は彼を踏んづけた。京一はグエッと蛙のような声を上げ、やっと目を覚ました。

「ここは…?」

「これが…夢の中?」

「そのようだ。まるでダリの世界観だな」

 夢の中で起きているという不可思議な現象も、龍麻の冷静さを覆す事はできないらしい。ちなみにダリとは、スペインの画家サルバドール・フェリーベ・イ・ハシント・ダリの事である。彼の作品には《夢》をモチーフとした幻想的なものが多い。《柔らかい時計》などは、美術の教科書などにもよく紹介されるので、知っている者は多いだろう。

「お前ら! 俺を無視するなァ!」

「京一…復活したか」

 砂の中から這い出してきた京一は、涙目で唾を吐き散らす。口の中にまで砂が入ったらしい。

「クソ! 何でお前らそんなにきれいでいるんだよ! …って、ひーちゃん! なんだその格好は!?」

「知らん。気が付いたらこうなっていた。《俺たち》の標準装備だ」

「……」

 今まで散々、龍麻の軍人気質や戦争バカな部分は見てきたつもりだし、実際に銃の腕前やかなり怖い部分も見たつもりでいたが、こうやって本当に兵士の格好をしている彼を見ると、今更ながらに彼が元軍人であると思い知らされる。服装だけならコスプレでいくらでも真似られるが、本物の兵士には本物の臭いがある。それを真似られるはずもなく、彼からは本物の兵士のみが持つ危険な香りが漂っていた。袖をまくった彼の左腕には、蛮刀を背負い、赤い帽子をかぶった残虐そうな妖精と、《NO・9》という刺青が剥き出しにされている。

 自分を見つめる目も気にせず、龍麻は砂漠をぐるりと見渡した。

 「…向こうに塔…十字架のようなものが見える。恐らく、あれが葵だろう。各自装備を確認しろ。行くぞ。」

 既に戦争をやる装備の龍麻に言われ、京一たちも慌てて自分の装備を確認する。京一愛用の木刀も、小蒔の弓矢一式も無事に夢の中に持ち込めたらしい。あるいは、そんな物を持っていても無駄だという余裕を見せたつもりかもしれないが、龍麻はそれを虚勢と受け取った。

 M−16を肩に担いだ龍麻を戦闘に行軍する事数分、一同は高い十字架に鎖で磔にされている葵の元にたどり着いた。そこには藤咲亜里沙と、どう見ても彼女とは釣り合わない、小柄で色白、貧相な体つきに、苛められ慣れた顔つきの少年が立っていた。

「…今回も当たったな」

「うむ…。見事というより、空恐ろしい気がする」

 そんな場合ではなかろうが、京一と醍醐は龍麻のプロファイリングの正確さに思わず唸る。声までは届かなかったものか、藤咲がそれを誤解して嫣然と笑った。

 「…夢とは現世にも似たまほろばのコト。ようこそ、麗司の国へ。そしてアンタ達はここでおしまい。この世界の王は、この麗司なんだから。」

 藤咲より背が低い少年は、彼女にぽんと肩を叩かれ、一歩前に出た。

「僕はただ…誤解を解きたかっただけなんだ」

「まず名乗れ」

 唯我独尊の龍麻の口調に、少年が怯む。そんな少年に喝を入れるように、藤咲はその背を軽く叩いた。

「ボクは嵯峨野麗司さがやれいじ。亜里沙と同じ、覚羅高校の三年だ。――僕は葵を苦しめてなんかいない。僕なりに見守っているだけなんだ」

「なんだそりゃァ! 美里はなァ、病院で死にかけてんだぞ!」

「…葵は死なないよ。ボクの王国で一緒に暮らすんだから…」

「なンだとォ!?」

 実際に葵が危険な状態にあることを知っている一同には、この嵯峨野という少年の妄想が極めておぞましいものに思えた。《手に入らないものなら殺してしまえ》、《殺してしまえば永遠に自分のもの》という、いわゆるサイコ系犯罪者の思想だ。

「僕は生まれ変わったんだ…あの日…葵と出会ったあの日から…」

 もはや嫌悪の視線など慣れ親しんだものでしかないのか、嵯峨野は神経質そうな笑い声を上げながら、聞かれてもいないのに自ら語りだした。

「僕は…あの日もあいつらにボロ雑巾のようにされて、公園で倒れていたんだ。誰も…誰も僕には見向きもしなかった。そこに葵が現れたんだ。僕に《大丈夫? 》と声をかけてくれた上、きれいなハンカチで血だらけの僕の顔を拭いてくれた。僕なんて死んだも同然だと、何も感じなくなっていたのに、葵だけは違ってたんだ…。その時…僕は決めた。葵は…僕が守るってね!」

 確かに、葵ならそのくらい当然のようにやるだろう。いまどき天然記念物並のお人よし(龍麻主観)だ。それは別に、嵯峨野でなくても同じなのに、この少年はそこを勘違いしているらしい。近年問題視されているストーカー犯罪の第一歩、《自分は彼(彼女)にとって特別な存在なんだ》に、見事に填まってしまったのだ。

「葵の…葵の気持ちはどうなるのさ!」

 人間の持つ異常心理がどのようなものか知らぬ小蒔は、嵯峨野に若干の同情を寄せたようだが、だからといって親友の命まで引き換えにするつもりなど毛頭なかった。

「葵を守るのは僕だ。君たちじゃない。葵だって判ってくれるさ。僕が君たちを倒せばね…」

「おもしれえ…やれるもんならやってみろよ…!」

 これ以上嵯峨野の妄想に付き合っていられなくなったか、京一はキレかかっていた。醍醐はまだ持ちそうだが、腹腔に怒りがたぎっているのが判る。

「そんなの…そんなの間違ってる…! 君は葵の優しい気持ちを踏みにじってる…!」

 大きすぎる怒りのあまり涙目になりつつ言い放った小蒔であったが、それに反応したのは嵯峨野ではなく、その隣にいた藤咲だった。

「はン! 優しい気持ちだって? ぬるま湯に首まで漬かったお嬢ちゃんが、笑わせんじゃないよ! それじゃ踏みにじられた麗司の気持ちはどうなるのさ! いじめなんて、やる方もやられる方も悪いなんていう奴がいるけど、それはやられた経験のない、強い奴の言うセリフさ!」

 さっきまでの高飛車な態度の藤咲はどこに行ったのか、今の彼女はなぜか龍麻には、泣きじゃくっている子供のように見えた。

「やった奴の心に傷ができるのかい? やられた奴が死んだって、《よくある事》で済ませるような奴らに! やられた方は一生消えない魂の傷を、十字架を背負って生きていかなきゃならないんだ! そうじゃなきゃ、弘司だって…!」

 想像するまでもなく、それが藤咲が嵯峨野に協力している理由だろう。小蒔の言葉に激発し、内面の恨み辛みを暴発させてしまったのだ。恐らく《弘司》というのは肉親の誰かで、嵯峨野と同じような境遇の果てに、自ら命を断ったのだろうと龍麻は分析した。そしてその悲劇を繰り返すまいと、嵯峨野を助け、復讐をそそのかした。元は情の深い、優しい少女かもしれないが、そこで道を誤った。

「所信表明演説は終わりか? ならば速やかに葵を解放して我々をここから出せ」

 常とまったく変わらぬ、鋭い口調で龍麻は言った。感情の動きというものが欠如した声。嵯峨野の独白も、藤咲の心情も、龍麻の心には細波ほどの動揺も招かなかったようだ.

「なんだって!」

 藤咲は火の噴くような視線を龍麻に叩きつけたが、無論、そんなことで動じる龍麻ではない。実際、トラに向かって二十日鼠が吠え掛かっているようなものだ。

「お前たちの言う事には理がない」

 龍麻は冷然と言い放つ。

「お前たちがどんな苦痛を受けようとも、それは葵にも俺たちにも関係ない。せいぜいこの先、傷を舐めあって生きていくがいい。お前たちのような負け犬に関わっているほど、俺たちは暇ではない」

「こ、こいつ…!」

 龍麻の言葉は、思わず見せてしまった藤咲の心の傷を大きくえぐったに違いない。藤咲は鞭を握り締めて前に出ようとした。

「いいんだよ、亜里沙。どうせこいつらは僕には勝てないんだ。…僕は葵のそばにいてあげたいだけなんだ。僕に葵を譲ってくれるなら、君たちは無事に帰してあげてもいいよ」

「ふざけんじゃねえぞ…! 心の傷がどうとか言ってるが、美里を殺された俺たちは、小蒔の気持ちはどうだってんだ!」

「そんな事どうでもいいよ…。僕は葵さえいてくれればいい…」

「貴様…!」

 遂に、醍醐までキレそうになった時、突然龍麻は振り返った。その顔の先にいるのは、泣きそうな顔の高見沢であった。

「残念だが、高見沢。交渉は決裂だ。そもそも彼らは自らの歪んだ復讐心から、既に六人の生命を奪っている。葵を七人目の犠牲者にする気はない。元より、平和的解決は不可能だった」

「葵は死なないよ…。だって僕と一緒に…」

「黙れ」

 その一言で、空気が凍りついた。本気の龍麻の、あの声だった。

「お前たちは既に六人もの命を奪っている。歪んだ《力》を振るった以上、自らの《死》も覚悟の上だな」

「い、いい加減なコト言うんじゃないよ!」

 M−16を肩当てに構えた龍麻に向かって、藤咲がヒステリックに喚く。このとき彼女は、なぜ龍麻がそんな物を夢の世界に持ち込めたのか理解できなかった。そして藤咲の動揺ぶりに、実は結構頭の切れる京一がある事実に気付いて叫ぶ。

「てめえらまさか…自分がとっくに人を殺してるってコトを知らねえんじゃねえだろうな!?」

「おかしな言いがかりをつけると、ただじゃ置かないよ!」

「事実だ!」

 醍醐も身を乗り出して叫ぶ。

「墨田区の事件関係者は全員死んでいる! 知らなかったでは済まされんぞ!」

「そんな…そんな事ってあるかい!」

 口ではまだ強がっているが、明らかに迫力が失われている。どうやら本当に知らなかったらしい。

「どうでもいいって言ってるんだよ…僕は…あんな奴ら…生きていたって…」

 ボウ、と嵯峨野の体から血色の炎が揺らめく。見るからにおぞましく、しかし冷たい空虚な炎。恨み辛みを溜め込んだ、それが嵯峨野の力の源であった。

「いいよ。亜里沙…やっちゃうよ…こいつらも…あいつらみたいに…」

「上等」

 龍麻は冷たく宣言した。

「貴様を《敵》とみなし、殲滅する」

 龍麻の親指が、M−16の安全装置を弾き飛ばした。





 自らこの世界の王と名乗るだけあって、嵯峨野が腕を一振りすると、砂漠の中から半透明の子供が現れ、灰色の雲を割って巨大な釜を背負った亡霊が、中空で突然炎が生じて巨大な人魂と化す。

「ケッ、ぞろぞろと出てきやがったぜ!」

「ウッ、ウム! 油断するな!」

 このところ龍麻の指揮のもと、旧校舎の探索で実戦経験を積んでいる一同は、嵯峨野の呼び出した魔物から受けるプレッシャーが、それほど大したものではないと感じられていた。唯一、霊的なものが苦手だという醍醐が及び腰だが、京一の振り下ろした木刀が難なく人魂を分断したのに勇気付けられてか、その防御力を生かす《壁》のポジションにつく。

「各自散開はするな。近付いてくる敵のみ掃討しろ。高見沢、醍醐のそばにいろ」

 散開なし!? このレベルの敵を相手に? 

 既に旧校舎における実戦訓練では、ここより一回り強い敵と戦って勝利している。確かに葵を人質に取られている形だが、龍麻の指示は奇妙に感じられた。散開して各個撃破すれば、後は主犯の嵯峨野と藤咲だけになるはずなのに…。

「これで全てではない。俺の予測が正しければ、こんなものでは済まん。戦力はぎりぎりまで温存しろ。あの二人は俺が片付ける」

「お、おい! ひーちゃん!」

 そんなの納得いかねえよ、と京一が毒づいたが、醍醐はとりなすように言った。

「京一、ここは龍麻に任せよう。銃を使わないところを見ると、龍麻には何か考えがあるんだ」

「けどよ…いつも危険なところばっかり自分でやりやがって…!」

「俺たちがこっちを早く片付ければいいことだ。行くぞ!」

 醍醐は苦手意識を振り切るように、子供の幽霊と死神風の固まっているところに飛び込み、己の体格と重量を生かした回し蹴りを放った。技自体は特に珍しくもない、身体ごと回転させて蹴りを繰り出すスピンキックだが、インパクトの瞬間に軸足を捻る事で蹴り足に全体重を乗せ、更に醍醐の《力》も加わったそのパワーは周囲の敵を文字通りなぎ倒す。夢の中の敵は一定以上の打撃を加えると、細かい色彩の粒子となって飛び散った。

「チィッ! それしかねえようだな! 食らえ! 《剣掌ォ・旋》!」

 超高速で振られる木刀に乗った京一の《気》が超小型の竜巻を発生させ、群れをなす人魂を天高く巻き上げ、空中で分解させる。龍麻を除く四人の中では、京一が一番器用に《気》を使いこなし、その技は多彩だ。単なる木刀が彼の手に握られると、真剣にも劣らぬ切れ味を見せ、本来なら刃の届かぬ間合いにいる敵さえも攻撃しうる。

(強くなったよね、みんな)

 群がってくる敵をものともせず蹴散らす京一と醍醐の背中を、小蒔は感嘆の思いで見つめていた。龍麻による地獄の特訓を受け、実戦参加を許可された今、自分も含めて、みんなめきめきと強くなっている。自分たちの《力》が何のためにあるかは判らない。そして自分たちが《強く》なる事で、何ができるのか、まだ見えてこない。それでも今、この瞬間、葵を救うために自ら闘うことができることは小蒔にとって喜びでもあった。

「みんな〜、頑張ってね〜!」

 小蒔の隣で、高見沢が緊張感ゼロの声援を送ったので、小蒔はおろか闘っている最中の京一も醍醐も思わずコケそうになった。しかしその瞬間、京一と醍醐の身体に金色のオーラがまとわれる。

(この子も防御術が使えるんだ…!)

 高見沢も、ボケて見えるほどに優しいだけの少女ではない。小蒔は彼女に好感を抱きつつも、どこか侮っていた自分を反省した。

 他ならぬ、龍麻が同行を許可したのだ。きっと彼は高見沢の実力も見抜いていたに違いない。まったく、龍麻には驚かされる。

(ひーちゃんは?)

 それだけ相手の実力を見抜ける龍麻が、戦力を温存しろと言い残した。そして小蒔はまだ一本の矢も消費していないし、醍醐も京一も無駄な《気》の消費を押さえて闘っている。まさか藤咲と嵯峨野に、まだ隠された力があるのか!? 小蒔はそう思い、いつでも矢を放てる姿勢を維持したまま、龍麻の方を注目した。





 焦りの表情も露に後じさる二人とは対照的に、龍麻は悠然と、無人の野を行くように二人に歩み寄っていった。

 龍麻の周囲にも、人魂が、死神がいる。それらは確かに龍麻に対して攻撃を繰り返しているのだが、ただ歩いてくるだけの龍麻には攻撃がまるで通じなかった。いや、攻撃が通じないと言うより、素通りしてしまうのである。死神の鎌は彼の首を捉えず、果たしてどちらが夢なのか、闘いそのものが成立していない。

「なんで…なんで僕の攻撃が効かないんだ…!? 僕はこの世界の王なんだぞ…! 行け! 第三幕、第三夜! 白鷺!」

 突如として龍麻の背後に出現した白鷺に似た魔物が、その異常なほど鋭く尖った嘴で龍麻の背を突き刺した。これには龍麻もたまらず、胸まで抜けた傷口から血を迸らせる。白鷺は更に容赦なく傷口をえぐり、その頭部を龍麻の体内にまで潜り込ませていった。

「やった!」

 あまりにも凄惨な光景に息を呑む藤咲とは対照的に、嵯峨野は不健康な快哉を叫んだ。が、次の瞬間に笑いを凍りつかせた。龍麻の右手が上がり、白鷺の嘴を掴むや、彼はなんと、白鷺に己の肉体を突き破らせつつ、体内から引きずり出したのであった。

「そんな…! そんなバカなァ!」

 こんな事が起こり得るのは、ここが夢の世界だからか? 身体にぽっかりと空いた穴から鮮血と内蔵を吹き零れさせていた龍麻であったが、それがまるでビデオの逆再生のように内臓も筋肉も、血の一滴に至るまで引き戻され、彼の身体にはめ込まれていった。最後に残ったのは野戦服の穴であったが、これも繊維同士が絡み合って元通りに復元した。

「悪ふざけはここまでだ、嵯峨野麗司。藤咲亜里沙」

 今の超現象を生じさせたのは本当に彼なのか? 龍麻の声には動揺も恐れも、嵯峨野の攻撃を無効にしたという得意げな響きもなかった。

「再度勧告する。葵を解放しろ。見ての通り、お前たちの軍勢は総崩れだ。これ以上の抵抗は無意味だ」

 後ろも見ずに言う龍麻の背後で、最後の死神が京一によって両袈裟懸けに切り捨てられた。この世界の支配者であることへの絶対の自信を持って放った魔物は、それで全滅してしまったのだ。

「く…! 麗司には指一本触れさせるもんか!」

 ヒュン! と鞭が空を切り裂く。次の瞬間、すっと体を横に流した龍麻の横合いで砂が激しく舞い上がり、一瞬遅れて炸裂音が空中で響いた。藤咲もまた、基礎体力倍化の《力》を発現させ、それを鞭の先端まで行き渡らせることを可能にしているらしい。炸裂音は、《力》が乗った鞭が音速に達し、空気の壁を破った音であった。しかし、それをかわすとは!? 

「葵を解放しろ。それ以上は望まぬ」

「うるさいよっ!」

 振り上げ、振り下ろす動作抜きで、鞭の先端が地上から跳ね上がった。罪人を吊るす絞首台のロープ、藤咲のハングウィップ。龍麻はそれを首だけ傾けてかわしたが、その瞬間に先端部のベクトルが変化し、鞭が彼の首に絡みついた。

「もう誰にも馬鹿にされない! 麗司をあの子のようにさせはしない!」

 必死の形相を浮かべる藤咲の目には、深い怒りと憎悪、そして悲しみが揺れていた。

「それが、お前が戦い続ける理由か」

 静かに言う龍麻に、藤咲が驚愕する。首を締められているだけではなく、《力》によって麻痺している筈なのに!

 龍麻は片手を伸ばし、指で鞭を弾いた。

「ッッ!!」

 指一本で弾いただけで、皮を何重にも織り込んである鞭が切断された。力に頼らぬ、これが《剄》の力である。力いっぱいに鞭を締め上げていた藤咲は、勢いあまって砂に尻餅をついた。

「《巫炎》」

 龍麻の手の中で、切れた鞭がぱっと燃え上がり、瞬時に塵となって消えた。

 格が違いすぎる。力も、技も。こんな男には、なにをどうやっても勝てない。

 直接的には指一本触れなかった龍麻だが、藤咲は完全に戦意を喪失した。もし本当にこの世界の影響下にないのであれば、龍麻はその銃に物を言わせても良かった筈だ。それをしなかったのは、そんなものに頼らずとも、自分たちを倒せるという自信の表れだったのか? 

「嵯峨野」

「ヒイッ!」

 自らの繰り出す魔物も、頼みの藤咲さえもあっさりと退けられ、嵯峨野はもはや後じさるだけであった。もはや彼にとっては第二の本能というべきものになってしまった絶望と諦観。それが恐怖と共に顔面を覆っていく。

「これが最後だ。葵を解放しろ」

「い…嫌だ! 嫌だ嫌だ! 君も…君もあいつらと同じだ! 力で僕を押さえつけようと…!」

「お前の戯言に付き合っている暇はない」

 龍麻はなぜか、時計を見た。夢の世界だという感覚は、彼にはないのだろうか? 

「そもそもお前も、自分勝手な理由で葵を拘束している。そしてこの世界でならば《負けない》という理由で俺たちに戦いを仕掛けた。結果がお前の予想と違ったとて、責められる筋合いはないな。今まで殺してきた者たちのように、抵抗できないなどと思ったのが間違いだ」

「ぼ、僕はあいつらに仕返ししただけだ…! やられた事をやり返して何が悪いって言うんだ…!」

「お前は殺されていない」

 冷然と、龍麻は言い渡した。

「手足もある。頭もある。五体に欠陥などあるまい。確かにお前は殴られ、蹴られ、金を奪われたかも知れん。だがそいつらに、お前を殺す意思はあったのか? それだけの度胸が、そいつらにあったのか? 他人の命を奪って生きるという宿業を背負って生きる覚悟があったのか?」

「……」

「そしてお前だ。その程度の輩に対して、お前は何も抵抗しなかったのか? 強くなろうと、身を守る力を付けようとはしなかったのか?」

「僕の気持ちは…君なんかに判るわけがない…!」

「肯定だ。俺もお前のような軟弱者を見たのは初めてだ」

「――ッッ!」

 敵を掃討し終わり、集まってきた京一たちにとっても、龍麻のその言葉はあまりにも冷酷に聞こえた。闘わずして戦意を喪失している、虐待され続けてきた嵯峨野には辛すぎる言葉だったろう。

 だが、龍麻は言葉を継いだ。

「俺はアフガンで、東南アジアで、南米で、多くの少年兵と闘った。食うものもろくになく、生きるために窃盗や強盗をせざるを得ない子供たちとも。お前のような軟弱者では一日たりとも生き延びられない世界だ。生まれた瞬間から未来を閉ざされ、兵士として戦う事だけを教育され、明日を夢見る事さえ許されずに死んでいく少年兵が世界にどれだけいると思っている? ぬるま湯に首まで漬かり、自分が生きている幸運にすら気付かず自分を嘆いているような幸せ者の考えなど、俺に理解できる筈がない」

「そんな事関係ないよ…僕と君とは違う…」

「…どうやらお前は、虐げられているのは自分だけだと思っているようだな」

 龍麻は、その前髪をかき上げた。

「――ッッ!!」

 龍麻の左半顔に走る刀傷と、光のない目。どうして彼がそうなったのか、京一たちにも話していない。龍麻はそれを嵯峨野と藤咲に見せた。

「この左眼を奪ったのは、俺の祖父と名乗る男だ」

「なっ…!!」

 あまりにも衝撃的な告白に、京一たちまで愕然となった。

 龍麻はそんな反応をよそに、上着のボタンを外し、左肩を剥き出しにした。そこには火傷よりも更にひどく、肉が幅広く爆ぜたような傷があった。

「これも同じく、その男に散弾銃で撃たれた痕だ。俺が五歳の時の話だ」

「そ…そんな…嘘…!」

 ヘナヘナと、小蒔がその場にしゃがみこんだ。

「記憶にはほとんど残っていないが、背中の火傷もそいつの仕業らしい。後に聞いた話では、赤子の俺に日常的に焼け火箸を押し当てていたそうだ。戦う事も抗う事もできない俺だ。今のお前と同じで、さぞ楽しかったろうな」

 そんな凄まじい過去を淡々と語る龍麻こそ恐るべし。

「お前の気持ちは理解できんが、遊び殺されるものの恐怖は知っている。酒で脳細胞の壊れたあの男は、跳弾を足に受けて逃げる事もままならない俺を笑いながら銃撃した。嘉手納山中での事だ。這って逃げるうちに崖から転落した俺は、あの男の追撃こそ逃れたが、両手両足を骨折し、ハブにも噛まれた。そのままなら確実に死んでいただろう。お前がやった事は、つまりそういう事だ。殺意はなかったなどという戯けた言い訳を俺は聞かん。死んだ六人は、お前が殺したのだ」

「やめて!」

 まるで女のような悲鳴を上げ、嵯峨野は頭を抱えてしゃがみこんだ。

「僕は…僕はそんなつもりじゃなかった…ただ…悔しかったんだ…いつもあいつらは僕を笑いながら殴るんだ…だから…だから…!」

「…そのような気持ちが残っているならば、まだやり直せる」

 口調をまったく変えぬまま龍麻の言った事に、全員が「え!?」と聞き返した。

「お前たちのやった事は罪だが、それはお前たち自身で背負うがいい。俺たちは葵を解放してくれさえすればそれでいい。俺たちには、お前たちを裁く権利はないからだ。嵯峨野、これが本当に最後だ。葵を解放しろ。ここから先は死と絶望だけが支配する世界だ」

「ど、どうして…? 僕を…許すって言うの…?」

「――重ねて言う。俺たちに、お前を裁く権利はない」

 嵯峨野には、龍麻の言葉が信じられぬのだろう。彼にとって、世界はまさに弱肉強食。強いものだけが正義だったのだ。そして強者は常に弱者を踏みにじる。それが当然であったのに、龍麻は嵯峨野を許すつもりのようだ。しかし、ここに来て、なぜ――? 

「君は…君はどうしてそんなに強いの…? そんな小さな頃からそんな目に遭わされて…死にたくならなかったの? どうして…?」

 その瞬間、京一と醍醐は、まったく意味不明の悪寒が背筋を走るのを感じた。これから龍麻が言うであろう言葉。その予感だけで、悪寒が走り抜けたのである。

 龍麻の口が、動いた。

「――そう考える前に、感情を抹消した。――殺戮機械に、感情は必要ないからだ」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 今度こそ、本当に今度こそ、嵯峨野の全身から、後ずさりするほどの力さえも消えた。

 目の前に立つ男の、凄まじすぎる過去。――彼は、全てを奪われたのだ。両親も、肉親も、己の片目も、己の生きる場所も、人として生きる権利さえ否定され…遂には、人としての感情まで…!

 自分と彼は違う。それは別の人間なのだから。だが、個人としての違いが生じる前、そんな幼い頃から狂気に満ちた体験を経てきた彼は…。

「――お前はまだ、人間なのだ。この一線を越えてはならん」

「僕は…僕は…!」

 こんな自分を、これほど真っ直ぐに見て…こんな自分を、《人間》と呼んだ…。嵯峨野が声を上げて泣き始めると、砂漠が、空が、天地が鳴動した。深い後悔と哀しみが、この歪んだ世界を崩壊させつつあるのだろう。だが、それでいいのかもしれなかった。これほど冷たく凝り固まった世界など、壊してしまわねばならない。その時こそ、嵯峨野は――

 突如、振動が収まった。

 誰もが顔を見合わせる。空気が重い。耳が痛くなるほどの静寂なのに、世界そのものに奇妙な緊張が見られる。触れただけで弾けてしまいそうな緊張の糸…これは…殺気…!? 

「…まずい」

 他人事のような龍麻の口調。だがそこには明らかに緊張と、恐怖のかけらがにじんでいた。

「泣いている場合ではないぞ、嵯峨野。俺の仲間と、藤咲ともどもこの世界から脱出しろ」

「え…?」

 真っ赤に泣き腫らした顔で嵯峨野が龍麻を見上げる。龍麻はもう彼の方を向いてはいなかった。夢の砂漠の、遥か地平線を、殺気を込めて睨みつけている。その手の中で鳴る金属音。彼がM―16の安全装置を外す音がやけに大きく響いた。

「な、なにあれ!」

 龍麻以外では一番目が良い小蒔が叫んだ。

 砂が、砂漠が波頭となって吹っ飛んでくる。いや、それは砂の津波と言うべきか? それは空の暗雲をも侵食、混ぜ合わさり、夢粒子の混合体となって一同に襲い掛かった。

「うわァァァァァァァァッッ!」

「キャアアァァァァァァッッ!」

 逃げる暇もなく、夢の津波に飲み込まれる一同。だが津波の衝撃こそ凄まじかったものの、それは砂嵐のごとく強風と夢粒子を叩きつけたのみで、彼らを吹き飛ばしはしなかった。しかし強風が納まった時、そこにはとんでもない光景が広がっていた。

「な、なんだよこりゃァッ!?」

 天には晧々と輝く満月。東京では真冬でも見られない満天の星空。だが気温はじっとりと汗ばむほどに暑く、それでいて空気は澄んでいる。

 だが、見渡す限りの平地は、全て人工物で埋まっていた。

 太陽の元では青々と目に映えるであろう緑は、全て人に植えられた芝であり、それ以外の場所は全てコンクリートだ。遠くに見える建物は、航空管制塔であろうか? その向こうには巨大なカマボコ型の倉庫らしきものが立ち並び、サーチライトの光があわただしく夜空を走り回っている。

 どこかの軍事基地…? 幼い頃の両親との思い出…入間いるまの航空ショーに行った事のある醍醐はふと、そんな事を考えた。

 だが、夢の構築はまだ終わっていなかった。

 何もない灰色のコンクリートがぶよぶよと波打ち、膨れ上がるや、そこからジープ…異様に横幅のある軍事用ジープが出現した。一九八三年、アメリカ陸軍が正式採用したHMMWV(高機動多目的装輪車両)――《ハマー》である。

「見て! あっちにも!!」

 小蒔が叫ぶ。その指差した先で砂塵を上げているのは、茶色の鉄の塊。六〇トンに達する無骨一辺倒の車体にゴオゴオと唸りを上げるキャタピラ。正面を睥睨する一二〇ミリ滑腔砲塔――M1エイブラムス主力戦車であった。

「な、なんで俺たちゃこんな所にいるんだよ!? それになんだよ、あの戦車は!? 嵯峨野! お前の仕業か!?」

「ち、違う! 僕はあんなもの知らない!」

 嵯峨野が首を振って抗弁する。必死の表情。嘘ではなさそうだった。

「龍麻! 向こうにもいるぞ!」

 醍醐が叫ぶが、それはいわゆる戦車ではなく、兵員輸送と威力偵察を目的とした歩兵戦闘車M2ブラッドレーだ。こちらに向けられた二五ミリ機関砲銃座に一人、オリーブドラブの戦闘服を着た兵士の姿が見える。

「ひーちゃん! あそこから人が…!」

 そう言った途端、耳をつんざく銃声が龍麻のM−16から迸った。それと同時に、M2からバラバラと展開した人影が、まるでCGのように色彩の粒子と化して消し飛んだ。非現実的な光景でありながら、ぷん、と鼻を衝くのは龍麻のM―16が噴く硝煙ガンスモークだ。しかし驚きも困惑も感じる間もなく、コンクリートの中から立ち上がってきた無数の人影…銃を構えた兵士がこちらめがけて一斉射撃を開始した。

「そこに入れ!」

 滑走路整備員が使用する退避濠に全員を飛び込ませる龍麻。間一髪、その頭上を無数の銃弾が駆け抜けていく。

「なんなんだよ! こりゃ一体、なんなんだよ!」

 銃が相手では剣の振るいようもない。「伏せろ!」と怒鳴る龍麻に従い、京一も頭を抱えているしかなかった。

「――これは、俺の夢だ」

 戦車砲が火を噴き、一同の隠れている退避濠の十数メートル先で爆発する。津波のような土砂を浴び、小蒔と藤咲、嵯峨野が悲鳴を上げた。

「俺の見る夢は大抵これだ。この世界に来た時にこの格好をしていたから、予測はしていたがな」

「落ち着いている場合か! あんなの食らったらどうなるんだ!」

 ほとんどヒステリーを起こした京一を、龍麻はボカッと殴った。

「イッテー! 何すんだ、龍麻!」

「痛いなら、それは現実の感覚だ。撃たれれば死ぬ」

 龍麻は片手でスカーフを取り、ぱっと宙に跳ね上げた。途端に沸き起こる銃撃。着実に距離を詰めてきている。

「――頭を上げるな」

 退避濠からM−16のみを突き出し、銃声の発生点に向けて三点射を三回! 銃撃が沈黙するが、代わりに戦車砲が吠え、さっきよりも更に近い距離に着弾する。

「龍麻! これがお前の悪夢なら、結末はどうなるんだ!?」

「戦車では殺られない。奴は自分の手で俺を殺しに来る」

「奴!?」

 そう言った途端、星空に奇妙なブレが走り、一機のヘリコプターが姿を現した。

 濃緑の機体は威嚇的かつ攻撃的で、高機動と重武装を約束する翼を有し、機体下部には、それを向けられただけで全面降伏したくなるような三〇ミリ・チェーンガンが冷たくこちらを見据えている。アメリカ最高の航空機会社ボーイング社が世界最強の戦闘ヘリとして世に送り出した鋼鉄の猛禽、AH−64《アパッチ》であった。

『ナンバーナイ〜ン!!』

 ヘリの外部スピーカーから、人を小馬鹿にするにも程があるというような声が降ってきた。

『隠れてないで出ておいで。かわいい殺し屋クン。俺の命令を聞かなかった君のお友達はぜ〜んぶ処分したよ〜。お前も早くお友達の後を追っかけなくちゃねェ〜、ナンバーナイ〜ン!』

「…少佐メジャー…ッ!」

 M−16に新たな弾倉を叩き込み、コッキング・ボルトを引いた龍麻の口元が歪む。この沈着冷静な男が、初めて怒りと憎悪も露な表情を見せたのである。

『さあ、そのかわいいお顔を見せておくれ。今なら一発で廃棄処分してあげるよ。試作ナンバーX〇六五五四六、レッドキャップス・ナンバーナイ〜ン!』

「――俺を…番号で呼ぶな!」

 ぱっと退避濠から飛び出し様、龍麻は四〇ミリグレネードをアパッチに向けて発砲した。――直撃! 爆炎がアパッチを包み込む。が、黒煙をローターの巻き起こす風が吹き払った時、そこには傷一つ付いてないアパッチがいた。

『んん〜、ダメダメ。そんなものじゃ俺は倒せないって教えなかったかぁ? それそれ。必死にならないと死んじゃうぞぉ』

 砂丘にガバッと身を投げ出した龍麻のすぐ脇を、三〇ミリ弾の銃撃が引き裂いていく。三〇ミリ機関砲の衝撃波は、一メートル離れていても凄まじいソニックブームで人体を切り裂き、鼓膜を破る。イヤ―パッド装備のヘッドギアをかぶっていた龍麻は辛うじて鼓膜は守ったが、左袖がちぎれ、剥き出しの腕が巨大な青痣に包まれた。

 転げ落ちるように、頭を抱えて伏せる一同の所に龍麻が戻ってくる。

「なんなんだよ! あいつは! 俺たちを嬲り殺しにするつもりか!?」

「…《俺たち》ではない。《俺》を嬲り殺しにする気だ。次に来るのは――」

 突如、退避濠の目の前に人影が立ち上がった。

 京一を突き飛ばしざま、M−16を頭上に掲げる。次の瞬間、Mー16のキャリングハンドルが火花を散らしてひしゃげ、攻撃の失敗を悟った人影が獣のスピードでトンボを切って間合いを取る。

「なッ、なんだよあいつはッ!?」

 そいつは、見れば自分たちよりやや年下の少年であった。せいぜい中学生…十五歳前後と思しい。だが――その全身を彩る返り血の凄まじさ。自身も傷を負っているが、破れた野戦服にべったりとへばり付いているのは彼の血ではない。

 龍麻の口が、絞り出すような声を立てた。

「ナンバー14フォーティーン…!」

「――なんだってェ!?」

 思わずそんな声を上げてしまう京一。しかし、目に映る光景の全てが、恐ろしい事実を物語っていた。――タイガーストライプの野戦服にタクティカル・ベスト。ヘッドアップディスプレイ付きのヘッドギア。そして何よりも目を引く、左肩に刻まれた妖精の刺青…その下の数字は…14。

 14の手が何かを放った。

 ナイフや爆弾の類ではないと察した龍麻は、Mー16を微動だにさせず片手でそれを払い落とした。だが、その正体を知った小蒔、高見沢、嵯峨野、藤咲が悲鳴を上げる。

「――――ッッ!!」

 それは、人の生首であった。左眼球に細身のナイフが突き立ち、後頭部が銃撃で爆ぜ割れている。だが、その口元は固く引き締められ、目にも死魚の濁りが出ているものの、静謐な無表情を留めている。

 ――自身の死に対し、恐怖の表情一つ浮かべなかったのか? 苦痛の片鱗さえ? 

 答えは、龍麻が出した。

「ナンバースリー…」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 この首も、龍麻の仲間!? だがそんな事に構っていられなかった。龍麻が退避豪を飛び出し、M−16を発砲する。次の瞬間、14が真っ直ぐ飛び込んできた。芝生を引き裂き、宙を飛ぶかのようなスピードで!

「――ッッ!!」

 ――速い! この至近距離で五・五六ミリNATO高速弾をかわす14!

 ――ギャリィィ―――ンッ!!

 あっという間に懐に潜られ、心臓に向かって突き出されてきたナイフを、これも左胸から抜いたナイフで受け止める龍麻。ナイフのエッジが火花を散らし、束の間、間合いが離れる。が、その瞬間、14の足が小さく弧を描いた。バネで弾き出されたかのような爪先には不自然な突起! 龍麻はブーツの踵で14の脛を受け止めざま、そこを踏み台に飛び下がる。だが、そこで止まる筈の14は軸足ごと身を捻って龍麻の蹴りの衝撃を逃がしつつナイフを振るった。龍麻の左前腕部がぱっと鮮血を散らす。

『あまいあま〜い! そんなので殺せるお友達じゃないだろう? ナンバーナイ〜ン! 同じ廃棄処分品同士、仲良く壊しあいなさ〜いッ!』

「――ッッ!」

 ギリリッ! と龍麻の歯が恐ろしいほどの音を立て、口の端から血が流れた。対する14はぞっとするほどの無表情。怒り、哀しみ、恐怖、憎悪…戦いに際して人間が覚えるであろう感情の尽くが欠落した、ただ、人の顔を持つというだけの殺戮機械がそこにいた。

 龍麻はこんな《モノ》の一員だったのか!? ただ、人を殺す事のみに造られたというレッドキャップス…虐待経験によるトラウマを背負った幼い子供に洗脳処理と殺人技術を叩き込み、殺人機械として育て上げるプロジェクト…。湾岸戦争に見られるように、ハイテク兵器が闊歩する現代にあってはレトリックの謗りを免れない計画。しかし、対テロ戦術の世界では、まさにそのような兵士こそ求められているのだ。人間が、同じ人間の感情も人格も奪い、息をするのと同じレベルで人を殺す機械に仕立てる…。その完成品が龍麻と、目の前にいる少年だ。いや、アパッチの男の言葉を信じるならば、彼らはその試作品なのだ。

 気合どころか、吐息も洩らさず14が突っかけた。

 見ているだけでも恐ろしい、殺すための技の応酬! 14のナイフの軌跡は全て龍麻の急所を狙っていた。頚動脈、上腕動脈、尺骨動脈、大腿動脈…いずれも、切られれば大量出血を招く八つの急所。――相手が同等の戦闘能力を持っているが故、一撃必殺などありえぬと判っているからこその攻撃であった。対する龍麻はM―16を使って受けたために、逆にMー16を放棄できなくなった。受けに全意識を取られている最中、銃を捨てるという無駄なアクションを突かれれば、その瞬間に急所への攻撃を喰らう! そして、重量のあるM−16はナイフほど軽快には動かせない。

 そして、その時が来た。

「――グッ!」

 M−16が数十回目の火花を散らした時、龍麻の左上腕が今までにない大量の血潮を噴いた。互いに身をすり合わせるほどの密着状態にも関わらず、関節がないのかと思わせるほど柔軟な蹴りが飛び、爪先に仕込んだダガーを龍麻の上腕動脈に叩き込んだのである。

 しかし同時に、龍麻の足も14の軸足を真正面から蹴り砕いていた。さすがに飛び下がる14。しかし――

「なっ…あいつら…!」

 どちらの表情も、まったく動かない! 龍麻はさすがに大量出血している腕を押さえているのが、膝を蹴り砕かれた14は傷を押さえるどころか、痛みさえ感じているかどうかもわからない、完璧な無表情である。

 これが…これが戦闘マシーンという事なのか!? 傷の痛みすら感じることなく戦い続ける殺戮機械…!

 これ以上の戦闘機動ができぬと知ったのだろう。いきなり14の手からナイフが飛んだ。

 速い! ――が、かわせぬ速度ではない。龍麻はぎりぎりナイフをかわす分だけ身を傾け、14に向かって突進し――!

「ッッ!!」

 首筋に走る強烈な殺気! 龍麻は下半身で急制動をかけつつ上半身を殆ど真横にまで傾がせる。一瞬前まで彼の首のあった所を走り抜けていったのは、14の放ったナイフであった。

「ナイフが戻って来たッ!?」

「そんな馬鹿なッ!?」

 だが、その現象をなんと説明する? 何の変哲もないナイフが、突如空中で方向を変え、龍麻に襲い掛かったのである。まるで――意思あるもののように。

 いや、意思はあった。ナイフそのものではなく、それを操る者の意思が。

「な、なんだよ…あいつ…ッッ!」

 14の目が金色の炎を吹くや、ナイフのみならず大量の土砂が空中に舞い上がり、彼の周囲で渦を描き始めたのだ。龍麻がM−16を発砲するが、その弾丸も尽く土砂の作り出す周回軌道上で止められてしまう。

 思念をもって物品を自在に動かす――念動力サイコキネシス

 レッドキャップスにはこんなのまでいたのか!? 対テロリスト部隊を名乗りながら、彼らは一体何と戦う事を想定されていた!? 

「…何度お前を殺せばいい? ナンバー14…」

 立ち昇る炎のような殺気を満身に浴びつつ、ナイフをM−16に着剣する龍麻。念動力相手に銃剣で挑むというのか!? 

「カアッッ!!」

 14が吠えた。次の瞬間、全てのナイフと銃弾と、土砂が津波と化して龍麻に襲い掛かった。――が、それを意に介さず、龍麻は銃剣を手裏剣打ちに投げた。そして――

「破ッッ!!」

 大量の血を撒き散らしつつ銃剣に向けて《掌底・発剄》! M−16は爆発的に加速し、土砂の壁を貫いて、その向こうにいた14をも貫いた。同時に、龍麻にも14の精神波サイキックウェーブが叩き付けられ、彼を吹き飛ばした。

「ッッ!?」

 何が起こったのか解らぬ京一たち。しかし、原理としては単純な物理である。先程14は弾丸を止めて見せたが、マッハ二以上の弾速とは言え弾丸の質量はほんの一〇数グラム。しかし龍麻が投げたM―16はM203グレネードランチャーと銃剣をも装備して六キログラム。これが時速三〇〇キロで襲い掛かる衝撃はいかばかりか。14の精神障壁サイコシールドではスピードこそ三〇〇キロを一〇〇キロに減じたものの、銃剣を完全に止めることは出来なかったのである。

 血煙を上げてどっと倒れる14に向かって、跳ね起きた龍麻が鮮血の糸を引きつつ走る。地面に串刺しにされた14の上に馬乗りになり、予備のナイフで14の喉を――


 プシュウゥゥゥゥゥゥゥッッ!!


 あまりに凄惨な光景に、一同は思わず目を逸らす。しかし、14の喉から吹き上がった鮮血は七色の輝きを放つ粒子であった。それは龍麻の頬に張り付いたが、すぐにぽろぽろと剥がれ落ちる。そして――

「ああッ!?」

 14の身体から力が抜け、手がパタリと地面を叩くや、14の肉体そのものも色彩の集合体となって宙に散華した。《死》をイメージするには余りにも美しすぎる光景。まさに、夢の中の出来事のようであった。

『見事見事』

 龍麻に《仲間》を殺させた男の、心底人を馬鹿にするような声が再び降って来た。

『できそこないの念動力者サイコキノなんかじゃあ、お前を壊せないよなァ、ウン。やっぱりお前は、俺直々に廃棄処分してやろう』

 しかし、「直々に」とは言いながら、戦車も装甲車も唸りを上げて前進を始め、M2の、そして《ハマー》の機銃が地面を引き裂いた。地面に身を投げ出し、退避濠に飛び込む龍麻。

「龍麻ッ! 大丈夫かッ!?」

 銃撃の凄まじさに負けぬよう、大声で怒鳴る醍醐。龍麻は肩の傷に手をやる。14は夢の粒子となったのに、彼の傷から出たのは本物の血であった。高見沢が震えながら、それでも治癒術を彼にかけ始める。――夢の中でも治癒術は効果を発揮し、彼の出血が止まる。

「龍麻ッ! これがお前の夢だと言うなら、どうすればいいんだ!? 結末は――どうなるんだ!?」

「――俺の夢は、奴に殺されて終わる。見ての通り、どんな攻撃も奴には通じない。この世界では、夢でも俺を殺せるだろう」

「そんな! それじゃ勝ち目なんてないじゃない!」

「いや、一つだけ手はある」

 龍麻は頭を抱えて震えている嵯峨野を見た。

「嵯峨野。お前だけが頼りだ」

「え…?」

 恐怖に引きつった顔で、嵯峨野が龍麻を見上げる。

「奴が出て来たことで、これはお前の夢ではなくなった。しかしこの世界に対するお前の支配力はまだある筈だ。俺に、奴を倒す力をくれ。奴さえ倒せば、この悪夢は終わる」

 なおも声が襲ってくる。

『ナンバーナイ〜ン! 隠れたって無駄だぞ〜! 早くこっちに来て遊ぼうぜ〜! そこに隠れているお友達にも、お客さんがいるんだからよォ』

「なに…?」

 銃撃がやんだ事に気付き、恐る恐る周囲を見回した京一たちは、兵士が、戦車が、アパッチがとんでもないものに変化していくのを見てしまった。

「キャアアァァッッ! なにあれ!!」

 人形のように虚ろな顔の兵士がにやりと笑うと、その背中から刺のような剛毛をびっしりと生やした巨大な足が飛び出し、頭部を人間の顔と身体にした蜘蛛に変化した。またある者はばったりと地面に倒れると、両手両足を真っ直ぐにして身体をくねらせ始め、三回ほど身体をくねらせると、上半身のみ人間を残す蛇と化した。ある者はナメクジに、またある者はムカデに、蛾に、ダニに変化する。そういう蟲が嫌いなものか、小蒔と藤咲、高見沢が悲鳴を上げてガタガタ震えだす。

 戦車の変化には、音が伴っていた。どこからともなく響いてくる高音の笛の音と、和太鼓によるドラムロール。口語的表現をするならば、《ヒュ〜〜ドロドロドロドロドロドロ…》であった。その音だけで醍醐は巨体を縮こまらせ、そこに出現したものを見てまたしても魂が抜けた。日本古来の怪談に登場する有名人たちのコスプレをした裏密たちが現れたのである。江戸時代の携帯照明…牡丹灯篭を手にし、『一ま〜い、二ま〜い』と数えつつやってくる、半顔が青く腫れ上がった裏密が見えた瞬間、醍醐の神経活動は停止してしまったのだ。

 だが、真に恐ろしいものを目にしたのは京一であったかもしれない。

『うふふ〜っ、こっちへおいで〜っ、京一ぃ〜っ』

「ヒイィィィィッッ!! お助け! お助けえェ――ッッ!!」

 京一の前に現れたのは、山のごときグラマラスな女性、身長一〇メートル、体重は一〇トンに届こうかという、桜ヶ丘中央病院院長、岩山たか子その人であった。

「…あれは人間の深層心理に潜む恐怖だ。この世界で実体化している以上、俺たち本来の力でもどうにもならん。しかし、お前の力を加えれば、たとえ夢でも倒す事ができるだろう」

「そんな事言っても…どうすればいいのか判らないよ…!」

「俺はこの銃を持ってお前の世界に入った。この銃にお前の力を注ぎ込めば、俺の夢から抜け出し、この世界で実体化した奴らと同等の存在となる。そうすれば、この世界のマスターであるお前の力が加わった俺たちの勝利だ」

「で、でも…!」

 嵯峨野は顔を引きつらせ、龍麻と、実体化した《恐怖》とを交互に見つめた。《恐怖》の中には嵯峨野が恐れていた、あの六人の犠牲者もいた。

『ふざけんじゃねえぞ! この野郎!』

『テメエなんざ、さっさとくたばっちまえよ』

『お前みてえなクソ虫に、人権なんざねえんだよ!』

 口々に嵯峨野を罵倒する、血にまみれ、あるいは青白い顔をした六人の少年たち。自分より弱い者を見つけては、いじめを繰り返し、金をせびり取っていた、龍麻言うところのろくでなしたちだ。

「できないよ…僕には無理だよ! 僕はダメな奴なんだ…何をやっても…僕なんか…僕なんか死んだ方がいいんだ!」

「その《あきらめ》が人を殺す」

 龍麻は厳しい声で言い放った。しかし、先刻のような冷たさはない。

「お前は自分を駄目だと言う。だがお前は何に挑み、何に挫折した? 何も始めていないうちに、駄目だなどと決め付けるな。どんなものにも挑み、あがき、食らいつくものだけが未来を得る。肝心なのは、その一歩を踏み出すかどうかだ」

 小蒔と藤咲、高見沢が虫の群れから必死になって逃げ、醍醐は裏密にまとわり付かれて腰が抜けたまま這い逃げ、京一は「たか子センセー、ゴメンなさーい!」を連発しながら逃げ惑う。そして、アパッチは今、顔に巨大な傷のある厳しくも、残虐な顔つきの巨人へと変わっていた。

『あーはっはっはっ! 無駄無駄無駄無駄ァ! そんな屑に頼ったところで、お前が死ぬことに変わりはねえぜ、ナンバーナイ〜ン!』

「聞け! 嵯峨野!」

 巨人の嘲笑に負けぬように、龍麻は大声を上げた。

「お前にとって、ここが出発点だ! ここに留まり続ける限りお前は負け犬のままだが、ただ一歩を踏み出せば、お前の人としての闘いが始まる! 今こそ踏み出せ! 藤咲がそうしたように、俺も力を貸してやる!」

「君が…僕に力を…葵を苦しめた…僕に力を…?」

「そうだよ! 嵯峨野クンッ!」

 虫どもからほうほうの体で逃げてきた小蒔が叫ぶ。いつの間にか、藤咲に肩を借り、貸している始末だ。

「葵を閉じ込めるんじゃなく、友達になりたいというのならボクは君を歓迎するよ! 君だって《力》に目覚めた、ボクたちの仲間だろッ!」

「僕が…仲間…?」

「そうだぞ! 嵯峨野!」

 辛うじて裏密を振り切った醍醐も輪に加わる。

「俺たちだって、最初から強かった訳じゃない。恥を晒すようだが、今でも怖いものは怖いんだ! だが俺たちはそれに挑んできた! だから今の俺たちがある! たとえ今は駄目でも、挑めば挑んだだけ、自分の力となるんだ! お前にもそれができる! 一人では無理だと思ったのなら、俺たちを頼れば良い!」

「俺も手ェ貸すぜ! だから早く何とかしてくれェ!」

「……!」

 この中の誰一人として、最初から強かった訳ではない。嵯峨野は自らに潜む恐怖の前に逃げ惑うしかない彼らを見て、それを自覚した。そして先程の龍麻の戦いを見て、自分と彼らとの違いが、恐怖に挑んだか、挑まなかった違いである事もわかった。その一歩を踏み出す勇気が、彼らにはあったのだ。そしてその一歩を踏み出すために、彼らは敵であった自分に力を貸すと言ってくれている。それは決して、自分たちがこの場から助かる為だけに言っているのではないと嵯峨野は感じた。

「麗司ッ!」

 藤咲が嵯峨野に向かって叫んだ。初めて彼女と会った時、苛められていた自分を助けてくれた時、《やられたらやり返せ!》とハッパをかけた時の顔。藤咲も本当はあの時、《挑め》と言っていたのではないだろうか? 

「やるよ…! 緋勇君…どうすれば良い?」

 そう告げた時、嵯峨野は龍麻が微笑を浮かべたのを見た。

 肉親から虐待を受け、逃げ延びた先で兵士となり、血と硝煙の中で生きることを余儀なくされた男の…冷たい鉄面皮だと思っていた男の、それを浮かばせたのが自分だと誇らしげに思える、龍麻の笑みだった。嵯峨野にとってそれは、この先に続く生涯の中で一番深く、強く、誇りと共に蘇る記憶となった。それは、そんな笑みだった。

 龍麻と、その仲間たちの恐怖は、いまや一塊のオブジェと化して急成長している。中央に傷のある男の顔。その隣に怪物そのものの岩山、裏密の顔。膨れ上がった肉の塊のような胴には蜘蛛やムカデ、バッタやミミズなどの虫が溶け込み、あるいは這い出してくる途中のようにへばり付き、その中に嵯峨野を虐待していたものたちの顔もあった。人間の中に潜む恐怖や嫌悪を形にすると、このようなおぞましいものへと成り果てるのであろうか? 自分たちの中には、一体どんな怪物が潜む? 

「この銃にお前の力を注ぎ込め! お前の力を加えた銃ならば、奴を倒せると念じるのだ!」

「う、うん!」

 嵯峨野は言われた通り、固く目を閉じてイメージを思い描いた。

(あいつを倒す…あいつを倒す…あいつを倒す!)

 龍麻の握るM−16が、淡い輝きを帯びる。これが夢である証拠か、龍麻の手の中でM―16がみるみるパーツを変身させ、より強力な狙撃銃、H&K・PSG−1へと変形した。

「食らえ!」

 ドオン! とM−16よりも強烈な轟音と共に、白光を引く弾丸が怪物に吸い込まれ、命中寸前で弾け飛んだ。

『ワッハッハ! そんなものが効くかァ!』

『駄目な奴は何をやっても駄目なんだよ!』

『うふふふふ〜』

『ヒヒッ、ヒヒヒッ』

 無気味な笑いに罵声や罵倒が入り混じり、物理的な衝撃を伴って襲い掛かってくる。

「だ、駄目だよ緋勇君! やっぱり僕には…」

「そんな事ないよ! 麗司!」

 藤咲が嵯峨野の背中をバンと叩いた。

「アンタは今、男になるって決めたんだよ! ここで気張らなくてどうするんだい! アンタが男になるってんなら、あたしも力を貸すよ!」

 膝が震えるあまり倒れそうになる嵯峨野の肩を、藤咲はがっしりと掴んだ。

「そうだよッ! 君は駄目な人間なんかじゃない! 君ならやれるんだよ!」

「亜里沙…桜井さん…!」

「そうだぞ嵯峨野! お前は一人ではない! みんなで力を合わせるんだ!」

「俺は弱ェ奴は嫌いだけどよ、お前の根性は見せてもらったぜ! あとは気合だ! あのヤロウをぶっ倒せ!」

 京一、醍醐が龍麻の両肩に手を置く。龍麻と嵯峨野の気を受けたPSG−1に新たな四人分の気が注ぎ込まれ、青い清浄な輝きを帯びる。

 そこに、もう一人加わった。

「みんな仲良し〜! 舞子、とっても嬉しい〜!」

 高見沢が小蒔と藤咲に抱きつき、他の者とは違う癒しの力を注ぎ込む。青い光は徐々に輝度を増し、太陽のような白光へと変わっていく。

「嵯峨野。闘いとは、制圧し、殲滅することを言うのではない。お前にはもう判っている筈だ。自分が今、何をすべきなのか」

(判っている…。ううん。今、判った。この人たちの力は、《護る為》の力なんだ。大切なものを護って、前に進むための力…。――僕もそうなりたい。葵を守りたい。この…みんなと一緒に!)

「僕も、みんなを守る!」

 嵯峨野は力いっぱい叫び、自分の恐怖をも交えた怪物を真正面から睨みつけた。自らの全力をイメージにして龍麻の銃に送り込むその顔には気弱な苛められっ子の面影はなく、闘いに挑む少年の凛々しさが映えていた。

 その時、暗雲を切り裂いて黄金の光が一丸となった龍麻たちに降り注いだ。

(葵…!)

 この《気》には覚えがある。紛れもなく葵の《気》であった。七種類の《気》が相乗効果を起こし、爆発的に膨れ上がり、暗雲を吹き飛ばす。そして龍麻の手の中のPSG−1は金色の輝きを放ち、銃身も機関部も、ストックも溶け、より雄々しく、巨大な武器へと変形した。龍麻の持つ知識を元にしたのか、人間が操り得る最大最強の、黄金に輝くゲパルトM−3へと。

「――くたばれ!」

 そして、龍麻は引き金を引いた。

 一塊になった一同を弾き飛ばすほどの轟音と共に吐き出されたのは、黄金に輝く鳳凰であった。

『ウオオオオォォォッッ――――!!』

 鳳凰の直撃を浴び、《恐怖》の塊が分解されていく。六人の心が生み出した《恐怖》はその一つ一つがちぎれ飛ぶ色彩と化していった。鳳凰が空けた虚空に浮かぶ暗黒の空間に、全ての恐怖と、砂漠の光景が吸い込まれていく。そこに一同は、悔しげなあの男の声を聞いた。

『――忘れるな、ナンバー9…! お前が生き続ける限り、俺はお前を見ているぞ。お前が死する、その時まで…!』

 しかし龍麻は、ゲパルトを肩に担ぎ、ラフな敬礼をして見せた。

「どんなものにも終わりは来るのだ。――アディオス、少佐メジャー

『…オノレ…ガキメガ…ホザキヤガル……オオォォォ…………』

 さながらブラックホールに吸い込まれる流星群のように、光の粒子と化した《恐怖》が虚空に吸い込まれると、暗黒の空間もまた、暗雲の晴れた空の光に吸い込まれるように消え去った。二、三度、稲光と共に空間が歪んだが、それ以上は何事も起こらず、周囲に優しい静寂が降り注ぐ。

「ねえ!? 何がどうなったの!?」

「――判らん。悪夢が消えても、まだ夢の中だ」

 その時突然、天地が激しく鳴動した。

「じ、地震か!?」

 どうして人は、言わずもがなのことを言うのだろうか。醍醐が両手を地に付いてバランスを取りつつ叫んだ。

「麗司!」

 ヒステリックな藤咲の声が、龍麻たちに地震の原因を悟らせた。

「ッ嵯峨野!?」

 嵯峨野の身体が消えかかっていた。ゆらゆらと陽炎のように揺れ、朧にかすんでいく。藤咲がその手を掴もうとしたが、彼女の手は虚空を掴んだだけであった。

「はは…やっぱり僕は駄目だなあ…慣れない事したものだから…《力》を使い過ぎたみたいだ…」

 言葉とは裏腹に、嵯峨野の表情は明るく澄んでいる。新たな生き方を見つけた者の顔だった。その彼に、龍麻は敬礼を送る。

「お前のおかげで救われた。感謝する」

「ははは…お礼を言わなくちゃいけないのは僕の方だよ…でも…疲れちゃったから…少し…休まないと…」

「ああ。ゆっくり休むが良い。目覚めたら、今度は楽しい夢を見させてくれ」

「うん…。約束する…。緋勇君…亜里沙も…みんなも…ありがとう………」

「麗司ィ――ッッ!」

 絶叫する藤咲の前で、嵯峨野麗司は爽やかな笑いのみを残して空気に溶けていった。

 同時に、夢の世界の崩壊が始まる。砂漠に、空に亀裂が走り、パリン! パキン! と薄氷が割れるような音がして、風景が崩れていく。

「おい! やべえぞ! ひーちゃん!」

「慌てるな。葵はどうした?」

 見れば、葵を縛り付けていた十字架は葵ごと消滅している。どうやら一足先に解放されたらしい。

「改めて聞くぞ! あの化け物を倒したのに目覚めなかったとしたら、この世界が壊れたら俺たちはどうなる!?」

「――知らん」

 今度の龍麻はそっけなかった。本当に判らなかったからだ。

「た、龍麻…!」

「ひーちゃんってば、落ち着きすぎ!」

「殴るぞ! ひーちゃん! せめて一発、俺はお前を殴る!」

 しかし、逆に頭をどやされる京一。

「パニックを起こしてどうする。高見沢はまったく騒いでいないぞ。…うん?」

 騒いでいないのではなく、高見沢は既に気絶していたのであった。しかし、その身体はパアッと光に包まれ、夢の世界から消滅する。

「――なるほど。夢の中でも気絶すれば出られるのか」

 龍麻は納得したように頷き、バキバキと指を鳴らした。

 こういう時の龍麻の過激さは、真神の彼らは身に染みてよく知っている。

「た、龍麻! ちょっと待て!」

「ひーちゃん! 顔が怖いよ!」

「お、お前に殴られたら死んじまうだろうが!」

 くい、と龍麻の口元が笑いの形を刻んだ。

「心配するな。全て夢だ」

 そういう問題か!? 全員が突っ込もうとした瞬間、龍麻の神速の掌打が京一たちに飛んだ。

「きゅうぅ〜…」

 一撃で昏倒した三人は、高見沢と同様、光に包まれて消滅した。

「…お前はどうする?」

「あ…あたしは…!」

 間もなく全ての夢が崩れ去ろうかという時、どこか遠くから犬の声が聞こえてきた。

「エル? …エルの声!?」

 そう言った途端、藤咲の額に龍麻の掌が触れた。

「聞くまでもないな」

 ズシン! という音と共に、藤咲も昏倒して消えた。

 龍麻はもう一度、崩壊寸前の夢に目をやり、《悪夢》の消えた辺りに視線を据えて言った。

さらばだアディオス。教官殿…」

 そして龍麻は、目を閉じた。





 第伍話 夢妖3    完



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