第伍話 夢妖 1





 
 夢はもう一つの世界である。それは脳の生理的信号が生み出した幻覚などではなく、いまだ知られぬ細胞に刻まれた記憶や、時間や空間を越えた事象を知覚する能力によって描き出される、うたかたの世界である。

 夢見る事は自由だ。恐ろしい夢。楽しい夢。哀しい夢。――それは現実を生きる者にとって、何ら影響を与えるものではないと考えられているからだ。しかし、もし、我々が住むこの世界すら、誰かが見ている夢に過ぎないとしたら…



 三年C組、現地時間一五三〇時。

「…今日はここまで。次回は小テストを行うからよく復習しておくように。特に、蓬莱寺」

 生物の犬神が宣言し、龍麻は席を立って号令した。

「総員起立! 犬神先生に最大の敬意を表し、敬礼!」

 他所よその人間が見たら何事かと思うだろうが、これが、龍麻が日直に当たった時の号令であった。何度言っても龍麻がこれを改めようとせず、逆に《教師に敬意を表するのは当たり前》という、教師と生徒の関係が崩れつつある日本の教育界では天啓のごとくありがたい言葉の前に、既に教師たちはこれを注意するのを止めている。犬神は《やれやれ》とかぶりを振って、教室を出て行った。

 席に付くなり、京一が不平をぶちまける。

「ちっくしょー! 何で俺ばっかりなんだよッ!?」

「自業自得だ」

 不機嫌丸出しの京一の愚痴を、龍麻は涼しい顔で斬り捨てる。

「犬神のヤロー、俺だけ四回も当てやがって!」

「授業中に寝ているお前が悪い」

「ホントだよ。指名されるまで熟睡してたくせにさ」

 小蒔が加わり、これで二対一だ。京一はますます不機嫌になる。

「ンな事言ったって、午後の授業なんて眠くなるに決まってんじゃねえか」

「《寝る子は育つ》という諺が日本にはあるが、お前のそれは惰眠としか思えん。自らの技能向上をなんと心得ている。それ以前に、お前がなぜそこまで眠れるのか不可解だ」

 一日の平均睡眠時間が三時間だという龍麻に、そんな事を言われたくない。

「京一、俺も一日中寝ているお前が不思議だぞ」

 醍醐が加わり、これで三対一。京一、圧倒的不利である。

「醍醐…テメェまでなんだよ…」

「これが海兵隊なら、一週間の懲罰房行きだぞ。技能の向上は将来に役立つ。もっと真剣に取り組むべきだ」

「でもさ、京一、何で犬神センセーの事そんなに嫌うのかな? そんなに嫌なセンセーじゃないと思うけど」

 これ以上突っつくと自分にも火の粉が降りかかると見たか、小蒔がさりげなく話題を変える。すかさず京一はそれに乗った。

「あいつは陰気なんだよ! 嫌味は言うわ、タバコ臭いは、マリアセンセーの尻は追っかけるわ…!」

「それは教師としての能力とは関係ない。生徒に学ぶ意思があれば、知識が正しく身に付くような教育をしておられる」

「だーッ! お前と話してると俺ばっかり悪者に思えてくるぜ! あんな奴庇ったって何もいい事なんかありゃしねえじゃねえかよう」

 ただでさえ三対一でいじめられ、更に龍麻の正論攻撃にいじける京一であった。

「ははは、嫌われたもんだな、犬神先生も。まあ、あと一年ちょっとの付き合いだ。その間はひたすら耐えるんだな、京一」

「そのとおりだ。一年もの教育期間があれば、どれほどの知識が得られるか。この貴重な時間を無駄にしてはいかん」

「俺は勉強なんかで貴重な青春を潰したくねえんだよ! 俺はお姉ちゃんたちと楽しい時を過ごしたいんだ!」

 遂に、龍麻の顔が呆れ顔になる。

「その発想はいまだに理解できんな。戦場で日々強いストレスを受けている訳でもないのに、なぜ女性に安らぎを求める必要がある? お前の性格からして、女性を性欲処理の道具などとは考えまい。ましてや、子孫を残そうと考えているようでもないが」

「た、龍麻…!」

「ひーちゃん…露骨過ぎ…」

 醍醐も小蒔も顔を真っ赤にして言うが、龍麻はそこで、声が一つ足りない事に気づいた。

「ふむ。これは多数の意見を求めたいところだな。しかし葵がいないようだが、どうしたのだ?」

「葵にそういう話をふっちゃダメだって…うーんと…生徒会の用事だって言ってたから、今は新聞部じゃないかな?」

「新聞部〜ッ!? あんなところに行ったら美里がアン子に食われちまうぜ」

「相変わらずむちゃくちゃ言ってるなあ。…あ、葵」

 ちょうどその時、葵が教室に戻ってきた。

「どうしたの? みんなそろって」

「うむ。実は京一の脳組織と下半身の神経接続について討議考察していたのだ」

「ひーちゃん! 止めろって!」

「うふふ、なにそれ…」

「……?」

 葵は微笑を浮かべたが、なにやら元気がない。元から色白だが、今は心なしか青ざめているようだ。

「…何かあったのか、葵」

「え? 何が?」

 龍麻は無造作に葵の手首を取り、次いでその額に手を当てた。この男は時々、不意打ちでこのような行動を取る。葵はびっくりしたようだが、今日はいつもほど顔に赤味が差さなかった。

「…不整脈がある。呼吸にも乱れが見られる。体温はやや下降気味だ。病気とは言わんが、かなり調子が悪いのではないか?」

「ホントだ…顔色悪いよ、葵。…大丈夫?」

「調子が悪いのなら、早めに帰ったほうがいいのではないか?」

「アン子に悪い病気でも移されたんじゃねェのか?」

 最後の京一の台詞は、バシッという音と共に遮られた。

「いちいちアンタは一言多いのよ!」

 京一を殴りつけたのは、やはりアン子であった。

「ヤッホー…お待たせ…さは、みんなでげんひにかへりまひょうか…」

「アン子、眠そうだな」

 大あくびをするアン子に、龍麻が言わずもがなのことを言う。

 実際、アン子は眠そうだった。長い髪はくしゃくしゃだし、目は半開き、眼鏡がずれているのも気にしていないようだ。しかし、うら若い娘の姿としては少々はしたない気もする。

「あら…よく判ったわね…。原稿仕上げるのに朝までかかっちゃってさあ…授業で起きてるのが大変だったわあ…今日は…帰ったらゆっくり寝たいわね…」

「ほう、遠野の口からそんな言葉が出るとは意外だな」

「あによお…あたしだって何も考えず、ゆーっくり寝たい時くらいあるわよお…。龍麻だって…そうでしょ?」

「肯定だ。何も警戒することなく寝られるというのはいい事だ。やりすぎると緊張感がなくなるという危険性はあるが」

「そうだね。ボクなんか夕べは変な夢見ちゃってさあ、ちょっと寝不足気味なんだよね」

 小蒔の言葉に何か思うところがあったのか、アン子の顔が少しシャンとする。

「ふうん。ねえ桜井ちゃん、それってどういう夢だったの?」

「え? えっとねえ…」

 夢というものは、見た記憶はあっても、それを思い出すとなると難しい。小蒔は腕を組んで考え込む仕草をした。

「ええと…一本道があって…その先が二股に分かれてて…そのうちの一本を選んで歩いていったら…広場があったんだ。そこに飛行機と…列車と…バイクがあったんだっけ」

「飛行機に列車にバイクゥ? でたらめだな、お前の夢も」

「うるさいなあ、夢ってそういうもんだろ! それで…そうだ! 結局何も乗らないで歩いていって、歩き疲れたなと思ったら目が覚めちゃったんだ」

「疲れて目が覚めたか…桜井、何か心配事でもあるのか?」

 京一が天井を仰いで笑う隣で、醍醐が心配そうな顔をする。

「やだなあ、考えすぎだよ、醍醐クン」

「夢に意味を持たせる学問は古くからあるが、その多くは単なる心理的投影だとも言う。夢の事で考えすぎる必要はない」

「あら、そうかしら」

 龍麻の言葉に対し、腹に一物あるような顔で、アン子はにやっと笑った。

「夢占いって知ってる、桜井ちゃん? 結構これが面白い解釈とかあるんだけど、占ってあげましょうか?」

「ホント!? やってやって!」

 どうして女というものは占いとか、夢とか、あまり現実的でないものに興味を示すのだろう? 龍麻はそう考えていた。これは京一も同じ意見らしく、《これだから女ってのは…》とぶつぶつ言っている。

「そうね。まず…道っていうのは人生そのもの。そこを歩き出したって事は、旅立ちや人生の転機を暗示する…。乗り物は…列車がレールに乗った無難な人生。バイクは機動性と自由、そして危険。飛行機が…解放。確かこんな感じだったわね」

「でも、ボク、自分で歩いたよ」

「そう、そこが桜井ちゃんらしいところよね。歩くって事は、自分の力で人生を切り開くって事だから。ただ、歩き疲れて目が覚めたって事は、人生に悩みがあるのかも…」

「悩み…かぁ。確かに進路とか、まだ決まってないけどね」

 夢の話から一気に現実に引き戻され、龍麻を除く全員が少し固い表情になる。

 そう、彼らはもう三年生なのだ。真神でも進学組みと就職組みの比率は半々といったところだ。そして一応、二年生の時に大体の進路を定めるようにとも言われている。そろそろ、進路指導がやかましくなってくるころである。

「この中では、確実性が高いのは美里だけか。美里は大学進学だろう?」

「ええ、でも、私もまだ自分が何をしたいのかはっきりしなくて…龍麻は?」

「定まった展望はないが、臨機応変に対応する」

 龍麻の物言いは、ある意味いい加減とも取れた。京一が言った、「その時考えるさ」に匹敵する。

「あら、龍麻、進学しないの? 編入試験をほぼ満点でクリアしたくらいの実力があるのに…」

「事前情報があれば、後はそれを記憶するだけだからな…」

「え!?」

 その言葉に、耳ざとくアン子たちが反応する。

「…忘れてくれ」

「…貸しにしとくわよ。ところでアンタたち、最近の《夢》に関する事件って知ってる?」

「はあ?」

 一同の声が、これには龍麻も唱和する。

「ふっふっふ。夜見る夢に、将来の夢。一口に夢といっても色々あるけど、夢は、醒めるから夢なのよ。それがもし醒めなかったら…」

「…ディックの著書なら全て読破した。原典の《荘周》に関してもな」

「さすが龍麻。それなら話が早いわあ」

 アン子が感心したような、嬉しい時の声を上げる。ちなみにディックとは、アメリカの作家フィリップ・K・ディックの事である。彼の著書は中国思想の《荘周》の影響を受け、夢に関するものが多い。代表作には《アンドロイドは電気羊の夢を見るか?》がある。(ちなみにこれは《ブレードランナー》のタイトルで映画化されている。監督はリドリー・スコット。主演はハリソン・フォードである。)

「おいアン子、また事件だなんて言うんじゃねェだろうな?」

「ふふん…まだそうと決まった訳じゃないけどね。みんなは、墨田区周辺で起こっている事件を知ってる?」

 一同は顔を見合わせ、醍醐が口を開いた。

「確か…原因不明の突然死や、謎の自殺が頻発しているというやつか?」

「そう…。既に一週間で六人。それまで普通に生活していた人が突然自殺したり、朝、起きてこないのを不審に思った家族が起こしに行ったら、布団の中で冷たくなっていたとかね。――警察はこの点については注目していないんだけど、どうやら被害者全員が、悪夢に悩まされていた、って事なのよ」

 一同は再び顔を見合わせた。今度は京一が口火を切った。

「悪夢ったって、ただの夢だろ? そんなのでいちいち死んでいたら切りがないぜ。なあ、ひーちゃん」

「そうだな…夢で殺されるなら、俺は毎晩殺されている」

 龍麻は何気なく言ったのだろうが、全員がはっとなって彼を見た。

 先日戦った相手、唐栖が言っていた。彼の仲間は全滅したと。この責任感が人一倍強い男が、それを苦にしていない訳はない。

「しかしアン子、犠牲者ではなく、被害者と言ったのは、そこに人為的な力が働いていると考えているのか?」

「そう! あたしが言いたいのはまさにそこよ!」

「人為的な力…《力》か…」

 醍醐が重々しく頷いた。

「それって、渋谷の事件の時と同じようなものだって事…? そう言われれば確かに…犠牲者ってボクたちと同じ世代の子ばかりだよね…」

「偶然の一致とは、考えにくいわよね? 特にあたしたちには、でしょ?」

「…言いたい事は判った。だが、却下だ」

「え!?」

 アン子が問い返す間もなく、龍麻はするりと葵に近付いた。

「葵、大丈夫か」

「ええ…龍……・」

「ッ葵!」

 小蒔が異変に気付いた時には、もう葵は龍麻の腕の中に倒れこんでいた。顔色は真っ青を通り越して、土気色になっている。

「葵! 葵ッ!!」

「ど、どうしたのよ美里ちゃん!!」

「美里ッ!」

 仲間たちが口々に叫ぶ中、龍麻は再び彼女の手首を取った。

「おかしい。脈拍の乱れはさっきと同じだが、体温だけが下がっている。こんな現象は生物学的にありえん」

「ひーちゃん! 落ち着いている場合じゃないよ! 早く葵を保健室に連れてかないと!」

「…この症状は普通ではない。対処を間違える訳にはいかん。小蒔、葵の手を握れ。回復術を使う時の要領で、《気》を葵に送り込むイメージをするのだ。合谷…親指と人差し指の間を掴め。俺は印堂穴から《気》を送り込む」

「うッ、ウン! やってみる!」

 印堂穴も合谷も、中国の気功療法士が良く使うツボの一つである。何も気功に限らず、鍼治療や按摩などでも良く用いられる、健康回復に直結するツボだ。ちなみに印堂穴とは、眉間にある頭骨の窪みである。

「当座は凌げそうだが…いかんな。こちらの《気》も吸い取られているようだ」

「ボクがいけないんだ…最近、葵が怖い夢を見るって言ってたのに、調子に乗って夢の話なんかするから…!」

「ちょっと待って桜井ちゃん…! それって、いつ頃の話?」

 アン子の質問に、全員がはっとなる。

「え…? 確か先週、墨田区のおじいちゃんちに行った時からだって…まさか!」

 龍麻は葵を抱えて立ち上がった。

「小蒔、お前はもういい。アン子と先に霊研に行って、裏密を捕まえておいてくれ」

「れっ、霊研ッ!?」

「この症状は尋常ではない。普通の病院では手の打ちようもないだろう。このような事態には裏密が適任だ。先導しろ、京一、醍醐。俺とて《気》を無尽蔵に使える訳ではない」

 裏密を頼るのは不本意で、京一は何が何でも反対したかったのだが、絶対に弱音など吐かない筈の龍麻が初めて危機を表明した事で、即座に腹を括った。

「しゃあねえ! 気張って行くぜ、醍醐!」

「う、うむ!」

 そして一同は、霊研へと走って行った。





「うふふふふ〜っ、オカルト研へようこそ〜」

 いつもの挨拶に、いつもと同じく怪しげに登場する裏密であった。しかし、

「精神的緊張のアスペクト天蠍宮と双魚宮を結ぶ時〜、囚われの精神は悲しみの闇に沈む〜。決して醒めぬ夢の迷宮〜」

「――見事だ、裏密。ならば用向きは判っているな?」

「う〜ん。いいよ〜。見せて〜」

 なぜ裏密が事情を知っているのか、そしてなぜ龍麻がこうも平然としているのか、京一たちにしてみれば、一種こちらの方が怪異であったろう。そんな一同をよそに、裏密は霊研のソファーに横たえた葵の前に立ち、掌を彼女の身体に触れる寸前まで近付けたり、顔の前で往復させたり、なにやら意味深な呪文を唱えたりした。見てる方はじれったいが、いつになく裏密が神秘的な雰囲気を持っているので、誰も何も言い出せない。

「う〜ん、キルリアン反応が弱まってるね〜」

「キルリアン反応?」

突然飛び出す専門用語に、全員が聞き返す。

「旧ソ連の放射線技師キルリアンが開発した、物質の持つオーラを電気的に増幅し、写真に撮ったものの事だ。原理はユーゴスラビアのニコラ・テスラが原点だが、こちらの方がより鮮明な写真を撮る事ができたので彼の名が与えられている。単純に、《気》と考えていい」

「さすが〜、ひーちゃん〜」

 京一と醍醐は裏密の声にビビリまくっているが、龍麻は静かに問い返した。

「それで、そうなった原因は判るだろうか?」

「まかせて〜」

 この霊研にはただでさえ怪しげなものが揃っているが、中には恐ろしく値段が張りそうなものがいくつもある。裏密が恭しく取り出した水晶もその一つだった。

「これから〜あたしの魂を二分して〜その片方を葵ちゃ〜んの意識に同化させるわ〜。うまくいくと〜あたしの視たものが〜この水晶に映し出されるわ〜」

「う、うまくいくと?」

 龍麻以外、全員が声をハモらせると、裏密はニヤ〜っと笑った。京一と醍醐が、更に引く。

「うふふふ〜、大丈夫よ〜。この術で廃人になった被術者は〜世界中合わせても〜たったの六人しか〜いないから〜」

「充分に危険だ。だが、頼む」

 龍麻の声は苦しげだ。醍醐にはそんな余裕はなかったが、京一にはそれがなんとなく判った。この男は自分の痛みにはとてつもなく強いが、他人の痛みにはかなり弱いと。

「大丈夫〜。まかせて〜」

 裏密の声には緊張感がないが、呪文を一心不乱に唱えつづけるうちに、彼女の頬を汗が流れ落ち始めた。胸前で組んだ印がぶるぶると震え、やがてふっと動きを止める。その時、気の感覚の鋭い者…龍麻と京一は裏密の体から何かが抜け出て、葵の中に入ったのを感じた。葵の体がびくっと震え、そして――

「なッ――!」

「こ、これは…!」

「葵…!」

「……」

 それは一体、この世界のどこの情景なのか。延々と続く砂漠に、空を覆い尽くした灰色の雲。殺伐として荒涼として、ひどく凍てついたイメージ。その中心に、葵がいた。古めかしい十字架に、鎖で磔にされた姿で。

「なんなの…ここって…ドコ…?」

 小蒔が呆けたように言う。そして、もっとよく見ようと顔を水晶に近付けた。その時!

「裏密! GEBACKもどれ!!」

 その瞬間、龍麻は二通りの事をした。

 小蒔と裏密の襟首を掴んで仰向けに倒れ込み様、気を込めた蹴りを水晶球に向けて繰り出す。コンマ一秒ほど遅れて水晶球が炸裂したが、その破片は全て龍麻の蹴りに弾き飛ばされた。

「す、すごい力〜」

 龍麻と同じように床に倒れながら、裏密が頭を振り振りやっと言う。どうやら、葵からの脱出は間に合ったらしい。小蒔も無事だ。京一、醍醐、アン子も辛うじて、破片の被害を免れていた。その代わり、破片が飛び散った方向の壁は散弾銃の一撃を食らったように穴だらけになっていた。

「無事か。良かった。何か判ったか?」

 今の出来事など忘れたかのような、冷静な龍麻の声に、裏密も我に返って語りだす。

「葵ちゃんの深層心理に〜何者かが侵入してるわ〜。このままじゃ危ないわ〜」

「危ないって…ミサちゃん! どういう事なのッ!?」

「本来〜人間の深層心理は〜本人でさえも気付かない〜魂の領域なの〜。そこに侵入されるということは〜自我の崩壊を〜意味するわ〜」

 そこで一旦、裏密は言葉を切った。あまり見た目に変化はないが、真剣に何事かを考えているようだった。

「みんな〜、桜ヶ丘中央病院って知ってる〜?」

「さ、桜ヶ丘だとォ!?」

 激しい動揺を示した京一に、「知ってるの!」と小蒔とアン子が厳しく詰め寄った。

「し、知ってるだなんて! そんな! ケガラワシイ!」

 普段のこの男の言動からしても、このような高音のカタカナ言葉になる事などありえない。図らずも、京一はその病院の場所も意味も知っているということを暴露してしまったのである。

「京一く〜んは知ってるみたいね〜。そこの院長を訪ねてみて〜。あそこは〜こういう患者の専門家なの〜」

「い、い、院長だとォ! じょ、冗談じゃねェ!」

 必死の形相で一同に背を向けようとした京一は、しかし胸倉を掴まれた上に巨大な二つの銃口を突きつけられて凍りついた。

「京一、お前に選択権はない。案内してもらおうか」

「ひ、ひーひゃん…ひゃんべんしひぇくれひょう…!」

「醍醐、葵を頼む」

「お、おう」

 殺気すら含む、有無を言わせぬ口調。醍醐は慌てて言う通りにした。

「アン子、タクシーの手配を。小蒔、先導しろ。裏密、礼はこの件が片付いたらきっとする」

「いいよ〜。役に立ってないから〜。じゃ〜ね〜」

「ひょっひょまへ、ひーひゃん。ほれは…あそほにはいひひゃくない…!」

「何を言っているのか判らんな。さあ、右向け右! 前へ進め!」

 とことん有無を言わせず京一を連行していく龍麻に、醍醐たちは笑えばいいのか怖がればいいのか判らなくて、なんとも複雑な表情を浮かべつつも、その後に付き従っていった。





 第伍話 夢妖 1    完



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