第四話 鴉 3





 
「すげえや…数え切れねえぜ」

「うっわー、こんなにいると、さすがに恐いね」

 代々木公園に着くなり、六人に増えた一行を、折り重なって響く何百もの鴉の鳴き声が押し包んだ。樹木、電線、柵――ありとあらゆる場所に黒い禍鳥が鈴なりになっている。そして何より不気味なのは、いかにテリトリーを荒らされようとしているとは言え、全ての鴉の視線に、人間しか持ち得ない憎悪と恨みが感じられる事であった。

「人は…さすがに誰もいないよね」

「俺様もなるべく人を近づけないようにしてきたんだが、噂じゃ中に入った奴が何人か出てきてないらしいんだ」

「それって…もしかして、鴉に?」

 小蒔はぶるっと身を震わせたが、先頭を行く龍麻はきっぱりと否定した。

「それはない。奴は天野嬢を十人目だと言っていた。鴉だけが独自の判断で人間を襲う事はない」

「でも、いつ襲われるか判らねえぜ?」

「それもない。奴はこの物量に絶対の自信を持っている。そして先ほどの挑発に乗った奴は、自分の主義主張を語らずにはいられまい。開けた地形で襲われたらさすがに勝ち目はないが、あのような男がそんな地形を本拠地に使う筈がない。おそらく、この周辺で一番高い建物を根城にしているのだろう」

 雨紋は驚き呆れ、天を仰いだ。

「何でそんな事まで判るんだよ。確かにあいつの言う《城》はこの先にある建設途中の鉄塔だ。それに、何であいつが鉢植えのサボテンを育ててる事や、藤X詩Xのファンだって事まで知ってんだよ?」

「そう! それ、ボクも気になってたんだよね。なんか唐栖って人、グサッて来てたみたいだったから」

 あの悪口雑言が唐栖を挑発し、攻撃を自分たちに集中させて他に被害者を出さないようにし、物量作戦をも封じる一石二鳥の策であった事も驚いたが、それが尽く的中したという事実に、誰もが驚いた。それは小蒔でなくとも聞きたくなるだろう。

「FBIのプロファイリングによる分析だ。行動と言動から性格を読み、実生活から服装、風貌に至るまで、ある程度の予測が可能だ。おそらく奴は背こそ高いが、体格は良くない。色白で細面、長髪だ。そして黒いロングコートを着ている」

「…だからなんでそこまで判るんだよ…」

 全部当たりだと、雨紋は驚愕しっぱなしだ。考え様によっては周囲を埋め尽くす鴉より、この緋勇龍麻の方が何倍も恐ろしいのではないか? などと考える雨紋であった。

「お前が来た理由も判る。分析して欲しいか?」

「い、いや! いい! 俺様は…もう無関係の人間が死ぬのを見たくなかっただけだ」

 その時、かすかに龍麻が笑ったように見えた。ほんの少しだけ、口の端が上がったのである。

「雨紋くん、優しいのね」

 葵もそれに同調したのか、《真神の聖女》に相応しい微笑を浮かべた。

「ハァ!? な、なに言ってんだよっ!?」

「だって、自分も危険なのに、他の人を心配するなんて、なかなかできる事じゃないわ。そうよね、龍麻?」

「肯定だ」

 葵の微笑と、龍麻の短い返事の中に込められた誠意に、雨紋は照れたように頭を掻いた。《力》を持つ者が雨紋や京一たちのように精神的に強ければ、こんな事件は起こらなかったと、龍麻は暗に言っているのだ。

「俺様はただ、自分の育ったこの街を自分で守りたかったんだ…。美里さんだっけ? アンタがさっき言ったのと同じさ…」

「ケッ、格好付けやがって」

 年下の雨紋がタメ口なのが気に入らないのか、京一はまだ不機嫌だった。

「京一がそんなコト言ったら、笑うトコだけどねッ」

 そんな掛け合いに、龍麻は手を振って終止符を打った。

 行く手に、鴉の群れが舞い集う、鉄塔が見えてきたのであった。





「あいつが…唐栖亮一からすりょういちが俺様の通う神代高校に転校してきたのは先月の事だ。やけに暗そうに見えるんでクラスに馴染めないでいたが、俺様とは席が近かったせいか、よく話をした。ロックとクラッシックの違いはあったけど、音楽が趣味だった事もあってな」

 雨紋が苦しそうな顔をして切り出したのは、鉄塔を昇り始めようとする直前だった。おそらく、対決の前に自分の中にある迷いを全て吐き出しておこうというのだろう。それが判っているのか、龍麻は黙って聞いていた。

「…あいつだって、最初からああだった訳じゃない。あいつがおかしくなったのは、つい最近さ。普段から人間嫌いな事を言う奴だったんだが、ある時、俺をここに呼び出して…」

 雨紋はそこで言葉を切った。彼にとっては一番つらい日の事だろう。雨紋の唐栖に対する態度からしても、《ただの同級生》以上の友人であった事は間違いなさそうだ。

「俺様に言ったんだ。《神を信じるか?》ってな。そして《僕は神に選ばれた。神から授かったこの《力》で人間たちを粛正する》ってよ…」

「《力》…」

 雨紋の独白に、一番衝撃を受けているのは、やはり葵だった。《力》の事で悩み、苦しみ、龍麻の助言もあって、《力》に意味を見出そうとしている葵だ。《力》をこのように歪んで捉えられたら、ショックを受けない筈はない。

「まったく同時期に、俺様にもこの雷撃の《力》が目覚めた。あいつはそれを知って、俺様に同志になれって言ったんだ。だが俺様は、そんな事の仲間にはなれないと突っぱねちまった。あいつがそんなに悩んでいたなんて考えもしなかったんだな。あいつが本格的におかしくなったのはその頃からだ」

 なぜこの、割と不遜な態度を取り続けていた雨紋がこんな話をする気になったのか、龍麻を除く四人はようやく理解した。《この街を守りたい》という雨紋の言葉は本心であるが、同時に唐栖をそこまで追い詰めた事に対する責任めいたものを感じていたのだ。

「やれやれ。まったく、今年になってから訳わかんねえコトばっかり起きやがるぜ」

 沈んだ雰囲気を吹き飛ばすのは、いつもこの男だった。京一は龍麻の方を見るとニヤッと笑って続けた。

「旧校舎でバケモン蝙蝠に襲われるわ、中央公園では妖刀を振り回す殺人鬼に出くわすわ、人間を鴉どもの餌にしようとする奴は出てくるわ…。中でも極め付けは変な技は使うは、本物の拳銃は振り回すは、《ちゃん》付けされても動じないは、超口は悪いはの鬼軍曹が現れたって事だよな」

「まったく同感だ」

 表情も口調も変えず、龍麻が同意した。

「懲罰を覚悟の上でそのような事を言える男はそうはいない。お前は新聞部で二週間の超過勤務だ」

「なッ、何! ひーちゃん、お前は俺を殺す気か!?」

「一週間の霊研行きに変更しても良いが」

「クッ、ひーちゃん…」

 まるっきり馬鹿丸出しの二人の掛け合いだが、雨紋の悲壮な覚悟に共感して重苦しい雰囲気に包まれていた一同は、これで常態の気力を取り戻した。龍麻は戦闘のプロフェッショナルであるが、それ故に精神状態が戦闘力に与える影響も良く考えている。普段の生活の中でなら思い切り外すギャグセンスもそこから来ているのだ。

 雨紋もようやく、相好を崩す。

「さあって、湿っぽい話はここまでだ。ここからが本番だぜ。時に緋勇サンは、高いところは平気かい?」

「問題ない」

「まッ、ナントカと煙は高いところが好きだって言うからな」

 あ、と京一たち四人の目が期待に輝く。

「好きという訳ではないが、実戦では四回、地上三〇〇〇メートルからの超高空降下を経験している。コロンビアでは新月の深夜に降下して、限界高度二八〇メートルを割ってしまったが、ラムエア・キャノピーだったので助かった」

「……」

「行くぞ」

 目が点になった雨紋の脇をすり抜け、龍麻はいまだ骨組みしか出来上がっていない塔の階段を昇り始めた。

「このくれえでいちいち驚いてちゃ、ひーちゃんとは付き合えないぜ。ほら、行くぞ後輩」

 戦闘前の無駄な緊張を払拭した男は、ちょっとは感謝しろと言わんばかりに雨紋の肩を叩き、龍麻の後ろに続いた。

(何て連中だよ…。)

 自分も結構いろんな人間を見てきたつもりだったが、龍麻を筆頭にこれほど特異な人間たちに会うのは初めてだ。しかしこの連中と一緒なら、きっと何かやれると、一人で戦い続けてきた雨紋はそう思った。





「…なんか俺、真剣にひーちゃんの事が恐ろしくなってきたぜ」

「俺も同感だ。初対面の相手をこうまで言い当てるとは…」

「すっごーい。ひーちゃん」

 鉄塔の最上階、鉄骨の骨組みに作業用の渡り板を渡しただけのフロアに、まさしく龍麻が分析した通りの男、唐栖亮一が待っていた。この陽気に詰襟学生服をきっちり上までボタンをかけ、その上に黒のトレンチ・コートを引っ掛けている。色白で線が細く、長い黒髪をなびかせる様は、性格さえ良ければそれなりに美少年として人気者になれただろう。しかしその目は暗い欲望と破滅願望に満ち、口元に凍りついたような嫌な笑いがこびりついている。

「やァ、待っていたよ。ここから見ると、まるで地面を這い蹲る虫のように見えたがね。…クックック」

「ケッ、こんな高いところから見下ろしてりゃさぞ気分が良いだろうよ」

 視線だけは油断なく周囲の足場に配りながら、京一が毒づく。想像以上に足場が悪い事に、誰もが緊張している。

「クックック…。もちろんだよ。ここからは、この汚れた世界がよく見渡せる。…神の地を冒涜せんと高く伸びる高層ビル――汚染された水と大気――そして、その中を蛆虫のごとく醜く蠢く人間たち――。人間とは、愚かで汚れた存在なんだ…」

 龍麻の分析通り、唐栖は長々と長広舌を始める。龍麻は体の陰にした手指のサインだけで各自の配置を指示していた。当然、唐栖の言葉など、自分にとって有利な時間稼ぎとしてしか捉えていない。

「…もはや、人間という生き物に、この地で生きる価値はない…」

「勝手なコト言うなよッ!! そういう君だって、人間じゃないかッ!!」

 小蒔が激発して唐栖に噛み付く。醍醐は一瞬、止めるべきか迷ったが、龍麻が何も言わないので自分を押しとどめた。

「僕が? 君たちと同じ、人間だって!? …クックック…冗談じゃないね。僕は、神に選ばれた存在なんだ。僕はもうすぐここから飛び立つ。堕天使たちを率いて、人間を狩るためにね…」

「冗談もほどほどにしなッ。この世に選ばれた人間なんていやしねェ。テメェだって、わかるだろ? 腐った街なら、これからオレたちで変えていけばイイじゃねェか。なッ? 唐栖。オレ様とやり直そうぜッ」

「相変わらず、甘い事を言っているんだな、雨紋」

 ザワ、と妖気が高まり、鴉たちの声がより一層濃くなった。龍麻は彼らの話を聞き流しながら、冷徹な眼差しを周囲の状況にのみ注いでいる。各自の戦闘能力から導き出される、理想的な足場の配置、鴉どもの襲撃コース、そして、もっとも速く、もっとも確実に唐栖を制圧しうる作戦を猛スピードで組み上げている。

「この東京で、何を信じろって言うんだい? 日々起こる、殺人、恐喝、強盗。犯罪の芽は、摘んでも摘みきれないほど、この世に溢れている…。粛清が必要なんだよ…この東京には…!」

「唐栖…!」

「黒い水に、たった一滴、澄んだ水を垂らしたところで、その色が変わろう筈もない。…それより雨紋、君はどうして僕に従わない? 君だって、神に選ばれた証の《力》を持っているのに。君たちもそうだぞ。特に…君」

 唐栖が指差したのは、葵であった。

「そう、君だよ。美里葵…」

「なぜ…私の名前を…?」

「鴉たちが教えてくれたのさ。僕の可愛い鴉たちがね…。僕たちの《力》は、この東京を浄化するために、神から与えられたものだ。そして君の美しい姿は、新たな時代の王たる僕の側にいるのが相応しい。そこにいる戦争屋などよりもね」

「ッッ!?」

 雨紋はおろか、京一たちの間にも驚愕の波紋が広がっていく。いくら龍麻が唐栖の容貌から性格まで言い当てたとは言え、同じ事を唐栖ができるとは思えない。日本の《常識》をわきまえれば、ティーンエイジャーの元兵士など存在する筈はないのだ。

「…この子達は人間など及びもつかないような事も知っているよ。…緋勇龍麻…君が片目を失っている事も、銃を持っている事もね。それから…君が沖縄の嘉手納基地でやった事も僕は知っているんだよ」

「……」

「君と美里葵…君達二人の《力》は雨紋を含めた他の者たちより遥かに強い。君たちならば、神の代行者たる僕の側にいる事こそ相応しいと思うけどね。仲間を全滅させられながら、アメリカ一国をさえ震撼させた君ならば」

 この男は、自分たちの知らない龍麻の何を知っている!? 龍麻の目に付いて触れた唐栖に凄まじい怒りを感じた京一たちは、しかし同時に嫉妬にも似た凄まじい好奇心をそそられた。多くを語らぬ龍麻の秘された過去。だがそれを聞いた途端、自分たちが龍麻の側にいられなくなるような気がして、必死にその誘惑を振り払った。

「…何を言っているのか判らんな」

 どうして龍麻は、これほどに落ち着いていられるのだろう? 彼の口調にはいささかの焦りも緊張もない。常に前に進み続ける男には、過去など何の関心もない事なのかもしれなかった。

「だが一つ判った事がある。貴様は所詮、その程度の小物だという事だ。下らん厭世観に取り憑かれ、全て壊れてしまえといじけているところで《力》を得て、さぞいい気分だろうが、それは街のチンピラが銃を手に入れたのと大差ない。無闇に乱用すれば、無様な死を迎えるだけだ」

「なに…?」

「世界のため、神の意思と言いながら、お前のやっている事は何だ? 被害者はいずれ、貴様に対して暴言を吐いた程度の関係だろう。そのような弱い者しか襲えない貴様が、神の代行者を語るとは笑えぬ冗談だ。そもそも自分のみが絶対正義だと言う貴様に、仲間など必要あるまい? 貴様は自ら人間である事をやめた。その拙い《力》が破られれば何も残らぬというのにだ。そして取り返しのつかない事をしたからと言って、傷を舐め合うしかない同類を求めているだけだ。もっともらしい理屈を並べ立ててな。雨紋はそれを拒否した。当然の事だな。貴様のようにぬるい頭でしか人生を考えられぬ者に付いていく者など一人もいる筈がない。貴様はどこまでも一人で戦い、一人で無様に死んでいくがいい。テロリストにもなりきれない敗北主義者め」

 出た! 龍麻の長台詞! と、素直に喜べればいいのだがと、京一たちは考えていた。

 唐栖は人を殺している。もっともらしい理由を付けているが、所詮は自分の我がままの果てに。対して、龍麻は《主義主張のためならば多くの命を平然と奪うテロリスト》と戦ってきた男だ。京一たちは敢えて触れないが、龍麻もその手をテロリストの血で汚している。それも一人や二人では済むまい。そんな龍麻にとって唐栖は、哀しいほどに小物過ぎるのだ。

「フ…君だって人殺しに変わりないくせに、僕に説教するつもりかい?」

 唐栖は失望したように、実際は龍麻を恐れて、葵に視線を移した。

「君はもういいさ。美里葵…君なら判る筈だ。この世の偽善が。そして人間の罪を具現化した、その男の邪悪さが…!」

「私は、あなたとは行けません」

 龍麻の真似をした訳ではあるまいが、葵は、もはや哀願するような唐栖の訴えを途中で遮った。

「私には、大切な仲間がいます。共に信じ合い、助け合える仲間たちです。たとえ今は穢れていようと、私は仲間を想い、人を信じる人の心こそが世の中を変えていけると信じています」

 おぞましいほどに血と闘争、偽善にまみれた現実を知っている龍麻と異なり、葵のそれはひどく優しい、現実を知らない理想論であった。しかしそれ故に、理想と現実の狭間に押しつぶされ、人の道を踏み外した唐栖にとっては、何より雄弁な拒絶の言葉となった。

「…判ったよ…。せっかく神の力を授けられながら、虫ケラのように生き続ける事を選んだ愚か者たちに、神の意思が理解できる筈もなかった。僕に逆らう奴らは…みんな、死んでしまえ!」

 唐栖が両手を広げると、ロングコートが堕天使の翼のごとく広がった。彼の声に応え、空を埋め尽くすほどの鴉たちが龍麻たちに襲い掛かってきた。





「チイッ! 数が多すぎるぜ!」

「桜井! 美里! 俺たちの陰に入れ! 龍麻! どうするんだ!」

 ある程度予測はしていたものの、ここで闘うにはあまりに不利な条件が揃っていた。足場が狭くて動きが制限される上、制空権は完全に鴉どもにある。龍麻、京一、醍醐、雨紋が円陣を組み、中央に葵と小蒔を置いた陣形を組むが、それとてこの物量相手ではたちまち押しつぶされる事は必至だ。それが判っているためか、唐栖はわざと鴉どもに対して間合いを持たせ、攻撃が届かない位置で周回させる。これをやられると目標が定めにくくなり、せっかくの陣形に穴をあけやすくなる。

「なぶり殺しにしようってのかよ! クソッタレが!」

「龍麻! どうするんだ!?」

 京一と醍醐は焦りの声を上げるが、龍麻はこの状況下でさえ冷静に周囲の状況を見極めていた。

 現在の都会に棲む鴉は約二万羽。その全てがこの代々木公園を根城にしているとは言わないが、それでも周囲に集まった鴉の数は一〇〇や二〇〇では利かないだろう。いくら龍麻があらゆる戦闘のプロフェッショナルとは言え、この状況をどう打開するのか? 

「――雨紋」

 ややあって、龍麻が口を開く。

「奴と決着を付けたいか?」

「そ、そりゃあそうさ! だけどこれじゃ…!」

 無理だ、と言おうとした雨紋の言を、自信もここに極まれりという、龍麻のきっぱりした声が遮った。

「俺が道を空けてやる。何が起ころうと驚かず、お前は一直線に奴のもとに向かえ。葵、物理攻撃防御。京一と醍醐は残存戦力を掃討。小蒔、雨紋を援護しろ」

「ッッ!?」

 いつもと違う、落ち着いた指示である。しかし、まだ一羽も倒していないのに《残存戦力》とは!? 龍麻が、何かやるつもりなのか? 

「ククク…どうあがこうと、君たちが生き残る道などあり得ない。僕の子供たちに全身をついばまれ、神に逆らった愚かさを噛み締めながら死ぬがいい!」

 自らの勝利を確信して揺ぎ無い、唐栖の陶酔しきったような笑い声。龍麻はそれに対し、顎に手をやって考え込むような仕草をしながら鼻で笑った。えらく、人を馬鹿にした態度である。

「鴉がお前の子供か…。さすがは神を名乗る男。これだけの鴉を仕込むには相当の体力を必要としただろうな」

「はあ!?」

 これは京一の声である。しかし、この場の全員の代弁であろう。唐栖でさえそうだった。《僕の子供たち》は、あくまで比喩であり、この鴉たちが本当に唐栖の子である事などあり得ない。そんな事、わざわざ確認するまでもない事だ。

「しかし困ったものだな。人間と鴉との間に子供ができるなど。ただでさえ不実の子が世に氾濫しているというのに、この上鴉までとなると、もはや収拾はつけられんな」

「君は…まだそんなふざけた事を言っているのかい? これから死ぬというのに」

「愚か者め。貴様ごときに殺せる俺ではない」

「どんなに強がっても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないよ。君の銃はコルト・ウッズマン・スポーツのクイックドローカスタムだろう? 銃身を切り詰めた銃ではせいぜい必中距離一五メートル。加えてこの子供たちの包囲網は、二二口径では崩せないよ」

 クックック、と、龍麻は悪役風の笑いを見せた。だが、表情が上手く作れないので今ひとつ滑稽である。

「よく知っているな。しかし、所詮は素人の知識。安直な考えはたやすく身を滅ぼすぞ。戦いは非情なものだ。藤X詩Xを相手にするのとは違うぞ」

 またか!? この男、一体なにを考えて――!

「うるさい! 貴様のような愚劣な奴は一番最初に殺してやる! さあ行け、子供たちよ!」

 唐栖は大声で叫び、大きく息を吸い込んで、美しい意匠を施された唐笛を口にした。

 その瞬間、龍麻のコートが跳ね上がり、その両手が鉄と木でできた棒を引き抜いた。そして――

 ドッドオン!!

 龍麻の左手で特徴あるダブルバレル、水平二連装の散弾銃の銃身と銃床を極限まで切り詰めたソードオフ・ショットガンが立て続けに吠え、飛び交う鴉の壁に一瞬だが大穴があく。その瞬間を逃さず、龍麻の右手が、西部劇に出てくるようなレバー・アクション・ライフルを突き出す。そちらもカスタムで、銃身と銃床が切り詰められているが、それでもライフルの長銃身は拳銃の比ではない。発砲。そして同時に、唐栖の手元で笛が砕けた。

 数百の鴉の包囲網が、一瞬にして瓦解した。

「行け!」

 銃声に度肝を抜かれながらも、龍麻の叱咤に弾かれて雨紋が飛び出した。

 龍麻に策ありと見ていた分、京一と醍醐は即座に左右に展開する。算を乱した鴉は一斉に逃げ出したものの、十羽ほどが混乱の果てに襲い掛かってくるのを迎撃する。雨紋に近づくものは小蒔の担当だ。今日、使えると判ったばかりの連射で片端から鴉を撃ち落す。鴉は一羽たりとも雨紋に近づけない。仮に近付いたとしても、龍麻が話術で唐栖の注意を引いている間にかけておいた葵の術で無効化されてしまう。

(マジですげえぜ! アンタらは!)

 槍を握り締め、雨紋は全速力で唐栖に迫った。

(あとは、俺が決める!)

 唐栖には肉弾戦闘能力はない。龍麻の言った通り、その《力》を破られたら、彼には何も残されていないのだ。

「唐栖ッ! バカヤロォッ!!」

 雨紋の魂からの絶叫と共に繰り出された槍の石突が、棒立ちの唐栖の鳩尾を深々とえぐった。

「ああ…」

 衝撃に息を詰まらせながら、唐栖は天に向かって手を伸ばした。

「鴉たちよ…僕も…僕もあの空へ…」

 その望みをかなえるべき鴉たちは、全てどこへともなく逃げ去っていた。





「…死んだのか?」

「いや、気絶させただけだ。しかし《力》を込めた一撃だったからな。さっきまでの邪気が嘘のようだ」

 長々と倒れる唐栖を、一同は半円状に取り囲んで警戒していたのだが、どうやらその必要はなさそうだった。唐栖の《力》は、龍麻が破壊した唐笛によって発現させていたものらしく、唐栖だけでは《力》を発揮させる事はできないのであった。

 だからこそ、唐栖は仲間を求めたのだろう。《神》を名乗ったのも、自分に目覚めた《力》が特別なものだと信じたいがために。

「唐栖…」

 雨紋は槍を抱えたまま、唐栖の前に座り込んでしまっていた。決着を望んでいたとは言え、果たしてこんな形の決着で良かったものか? 別のやり方があったかもしれない。争わずとも、判り合えたかも知れない。そんな想いが今、雨紋の中で渦巻いているかのようだった。

「唐栖…人間ってヤツはそんなに捨てたモンじゃねぇぞ…。人間も鴉も、堕ちるのは簡単さ。だが…だがな、心まで腐らなきゃ、希望ってヤツに飛んで行ける翼を持っているんだ…。だから…俺様は信じている…。人の心ってヤツを…」

 それは、雨紋の独白であったかもしれない。しかし、応えがあった。

「………甘いよ…雨紋…」

「唐栖…!」

 もはや指一本すら動かせないのか、唐栖は視線だけ雨紋に向ける。その口元には、まだ最初と変わらぬ嫌な笑いがこびりついていた。

「君が一滴の清水になろうとも…この街を満たした黒い水は変わらない…。クックック…いずれ…君にも判るさ…。どれほど人間に期待したところで…それが徒労に過ぎないって事がね…。君たちだってそうさ…そんな理想論を振りかざす限り…人間の愚かさを見続ける事になる…」

 負け惜しみでも、そこに込められた毒は強い。葵は首を横に振ったが、完全に否定するには余りにも弱々しかった。

「そんな…そんな事…!」

「ないと言いきれるかい? クックック…まあいいさ…いずれ…僕が正しかったと思い知る事になるさ…」

 最後に唐栖は、虚ろで乾いた笑い声を立てた。心底人を馬鹿にしきったような声音に、京一が木刀を握り締めて前に出た。

「テメェ、こっちが甘い顔してりゃいい気になりやがって…!」

 しかし、その肩を掴んで止める者があった。

「放せよ、ひーちゃん! このヤロウ、一発ぶん殴らなきゃ気が済まねェ!」

「それは徒労だ。雨紋、そこをどけ」

 龍麻の手元で、カキンッと金属音が鳴った。ウッズマンの安全装置を外したのである。

「あ、アンタ! 何を…!」

「既に充分しゃべらせてやった。そして、お前の誠意もこいつには伝わらなかった。これ以上生かしておく理由はあるまい?」

「なっ…!?」

 そうなのだ。龍麻はこういう男なのだ。絶句する雨紋を脇にやり、龍麻は唐栖をまたぐようにして、その眉間にぴたりと狙いを付けた。

「ちょ、ちょっと待て! 龍麻!」

「ひ、ひーちゃん!」

「い、いけないわ! そんな事をしては…!」

 しかし、龍麻は耳を貸さない。

「もとよりこのような事件に、これ以外の決着は望めなかった。生かしておけば、形は違えど、こいつは同じ事をするだろう。テロリストは完全抹殺する。それが、世界の常識だ」

 冷徹極まる龍麻の言葉に、唐栖の笑いも凍りついた。龍麻の正体を知りながら、まだ雨紋や葵たちの存在から、甘い期待を抱いていたのだろう。自分が、殺される事などないと。

「ク…ククク…僕を殺すのか…君はやっぱり、ただの人殺しさ…。僕と…どこが違うって言うんだい…?」

「簡単な事だ。貴様には覚悟がない」

 たっぷりと毒を含んだ唐栖の声に、龍麻はいささかも動じない。

「人を一人殺せば犯罪だが、百万人殺せば英雄――チャールズ・チャップリンの言葉は真実だ。貴様が真に人間の未来を憂うならば、五人や十人ではなく、百万人を殺すべきだった。それができないばかりか、死ぬ覚悟もできていない貴様が、俺と同じ訳がなかろう。闘い続ける限り、俺にもいずれ、同じ運命が訪れる。腹をぶち抜かれ、首を切り落とされ、路傍に死体を晒すだろう。だが俺はその瞬間が訪れるまで、自らの信念に従って生きる。いつどこで果てようとも、俺に後悔はない」

 恐ろしく物騒な、しかし、究極的な正論であった。龍麻が人を殺せるのは、自分が殺される覚悟ができているから。自分の死をも容認しているからこそ、人を殺せる。人を九人も殺しておいて、なお罪に問われる事はないとタカをくくっていた唐栖とは根本からして違っているのだ。

「は…ははは…それこそ…理屈じゃないか…僕を殺せば…君こそ犯罪者だ…」

「ふむ。それもそうだ」

 龍麻はあっさりとウッズマンを下ろした。その行動には雨紋も、京一たちも、唐栖でさえ目を疑った。

「貴様のような小物一匹に、貴重な弾丸を使うまでもない。来るがいい。貴様の望みを叶えてやろう」

 そう言うなり、龍麻は唐栖の襟首を掴んで塔の縁まで引きずって行った。

「た、龍麻! 何をッ!?」

 京一たちが叫んだが、彼は一顧だにせず、唐栖を中空へと吊るし上げた。

「お前を自由にしてやろう。どこへなりと飛び立つがいい。ただし地球には重力という《力》が働いている。誤って落ちたら、ただの自殺だな。その場合もお前の好きな鴉の餌になるだけだ。それも本望だろう。では、さらばだ」

「――――ッッ!!」

 そして龍麻は、手を放した。

「唐栖ゥッッ!!」

 雨紋が飛びつくが、タッチの差で間に合わない!

「ううッ……ウワアアアアアアァァァァッッッッ!!」

 唐栖の絶叫が尾を引き――――

「え…っ!?」

 地上に激突寸前に、唐栖の身体は逆さまに中空にぶら下がっていた。

「あ…あ…!」

 この男はどこまで人の意表を突くのか、唐栖の身体は、龍麻の手首から伸びる高張力ワイヤーによって最初から繋がれていたのだった。

「ひ、ひーちゃん…!」

「…本気で殺すと思ったか?」

 平然と龍麻は言った。

「俺一人ならばそうしていたがな。死の恐怖を知らぬ者ほど、他人の死に無頓着なものだ。これで少しは殺される者の気持ちが判っただろう。死とまともに向き合う事ができぬ者に、死を賭けた戦いの勝利などない」

 龍麻はワイヤーを仕込んでいる時計を操作し、唐栖を地上に落とした。

「これで《力》はおろか、二度と馬鹿な考えを起こす事もあるまい。雨紋、あとはお前次第だ」

「え…?」

「《力》に頼った者が《力》を失うのだ。もとより人を九人も殺した身だ。まともな生活など覚つかなろうが、多少なりと奴に責任を感じているのならば、お前が始末をつけてやるがいい。しかし、奴が今後同じような事をした時には、確実に俺が殺す」

「判った…その…ありがとう…」

 先の事は誰にも判らない。唐栖のやってきた事は間違いなく罪であろうが、龍麻は雨紋の想いを尊重し、一度だけ唐栖の命を預けようと言うのだ。《堕ちるのは簡単》。その言葉を誰よりも知っている龍麻だからこその判断だと、京一たちも理解した。

「現時刻をもってこのミッションは終了とする。全員速やかに撤退。痕跡を残すな」

 先程の銃声を聞きつけたものか、遠くからパトカーのサイレンも聞こえてくる。六人は急ぎ小蒔の矢を回収し、塔を駆け下りた。夕闇迫る代々木公園の空には、唐栖の命令を離れた鴉が、やはりまばらな群れを作って鳴いていた。

「…人間の罪か。あの鴉とて、山を追われてきたものがほとんどだろう。その男が言う事全てが、間違っているとは言い切れんな」

 気絶した唐栖は、今は雨紋の背に担がれている。あの場に放っておけば警察の介入もあり、色々と面倒な事が起こるだろうと、雨紋が運んでいるのである。

「龍麻…」

「しかしそれが、一個人の考えを押し付けるものであってはならない筈だ。この《力》にしろ《権力》にしろ、同じ事が言える」

 いつになく神妙な龍麻の声に、全員が押し黙る。

「他にも…俺たち以外にもこのような《力》を持つ者がいるのだろうか…」

「俺様たちだけとは…思わねェ方がいいだろうな」

 その可能性は大である。唐栖も、雨紋も、《力》を持つ者は自分たちだけと思っていた。しかし今日、いきなり五人もの《力》を持つ者が現れたのである。たまたま彼らは、《この街を護る》という強い信念のもとに集った者たちであったが、もし彼らが唐栖と結託する事を選んだら…恐ろしくて想像も適わぬ雨紋であった。

 そして、この緋勇龍麻。

 噂に名高い魔人学園の醍醐と蓬莱寺を従え、高校生の身でありながら拳銃はおろか散弾銃やライフルまで携帯する男。絶体絶命と思われた状況を、一瞬にして勝利へと導いた男だ。一体この男は何者なのか。

「雨紋、お前はこれからどうするつもりだ?」

 いきなり名指しされ、雨紋はうろたえる。

「あ? いや…俺はこれからは、普通の高校生活を送るさ…。そろそろ帰るよ」

「エッ、もう帰っちゃうの?」

 唐栖を背負っているのだから雨紋がそう言うのも無理はないのだが、小蒔は寂しそうな声を上げた。

「ああ、こいつの始末も付けなきゃならないし…なんでだよ?」

「だって…僕たち、力を合わせて一緒に闘ったのに、これでさよならなんて…寂しいじゃないか」

「今回はお互いの利害が一致した…ただ、それだけだろ?」

「そ、それはそうだけど…。ねえ…ひーちゃん…」

 助けを求めるように龍麻を見る小蒔だが、龍麻は元々、自分たちが闘う事にも難色を示していた事を思い出して押し黙った。

「肯定だ。しかし今後、同じような事件が起こらんとも限らん」

 それは一種、未来に対する不吉な予言にも取れたが、この言葉が雨紋を決心させた。龍麻は二者択一を迫るのではなく、自分の事は自分で決めさせる男なのだ。

「まあ、あんたらとつるむってのも…悪くねェかもな。もしこんな事件がまた起きた時は…俺様も力を貸すぜ」

「一度踏み出せば、後戻りはできん。いいのだな?」

「男に二言はねえよ。ヨロシク、龍麻サン」

「良かろう。歓迎するぞ、雨紋雷人」

 龍麻は、雨紋が差し出した手をぐっと握り返した。





 遠野杏子…新聞部非公開日誌より抜粋。

 ――渋谷区における連続猟奇殺人事件は、これによって無事終結した。警察の発表によると、代々木公園からは、数多くの白骨化した死体が発見されたという。現在もこの件は連続猟奇殺人事件として捜査が進められているが、この事件の真実を知るのは、もはや鴉のみになってしまった。なお、この代々木公園内で起こった謎の銃声と、射殺された鴉が、この一件とどう関わりがあるのかは定かではない。これからもこのような事件が起こっていくのだろうか。これからも…





 エピローグ

「ところで、ひーちゃんよ。何で藤X詩Xなんて知ってるんだよ?」

「あれか…。実は図書室で高校生の行動心理に関する書籍を捜していた時に、図書委員に勧められたシミュレーションソフトの中に登場したので覚えていたのだ。しかし、余計混乱した気分だ」

「混乱? 何で?」

「うむ…。この藤X詩Xなのだが、なにぶん怒りっぽくてな。非常に扱いに難儀した。様々な会話を選択していくシステムなのだが、《水着を買いたい》と言うので《一人で行け》と言ったら怒り出したのだ」

「そりゃそうだろう? 藤X詩Xは、お前に水着を選んで欲しかったんだよ」

「そこが理解できん。そもそも俺は民間人の、それも十代の少女の服飾に関して素人だ。だから断った。そこで怒られても困る」

「だから、そうじゃなくてよ…」

「それではいかんと言うのだろう? 俺もやり直し、買い物に付き合ったのだが、そこでやはり水着の選択を迫られた。俺は日本における高校生の経済状況を鑑み、もっとも布地の面積が小さなものを選択したのだ。するとまた怒り出した」

「それは…お前…」

「あれほど怒りっぽい女が一番人気が高いと聞く。不可解だ。唐栖にしろ、お前にしろ、本性はマゾヒズムに汚染されているのか?」

「ひーちゃん! その発言は全国のオタクを敵に回すぞ!」

「しかし、別のシミュレーションに登場した女性は違ったぞ。誠意ある対応には誠意で応えてくれた。彼女はなかなかの人物であった。結X瑞Xと言ったか」

「なに? 結X瑞X?」

「うむ。多少無防備で人を信じやすいタイプではあったが、好感が持てる。それなりに友好的な関係を続けていたら、最終的に肉体関係を…」

「ちょっと待てい! それはいわゆる《一八禁》の《下X生》じゃなかったのか!」

「それがどうかしたか? 日本ではどうか知らんが、一八歳となれば既に肉体的には大人だ」

「もうちょっと待てい! するとお前はその…結X瑞Xちゃんと最後まで…!」

「うむ。きっと陰の努力もあったのだろう。彼女は自分を子供だと言っていたが、その後は急速に大人の女性らしく色々と成長を…」

「ワーッ! そんな事、でかい声で言うんじゃねえ!」

「そ、それは置いといて、ところで、龍麻サンよ。あんた、何でそんなもの持ってるんだ?」

「これか? 俺はスティーブ・マックイーンとメル・ギブソンのファンなのだ」

「…答えになってねえよ…それ…」





 第四話 鴉 3    完



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