第四話 鴉 2
速やかなる行動がモットーの龍麻は、早くも渋谷駅前に到着していた。 新宿から山ノ手線で僅か駅三つ分しか離れていないというのに、こうも空気が違うものか。排気ガスその他、都市特有の空気は新宿も似たものの筈だが、原宿駅から渋谷駅に至る間に、龍麻は空気の質が劇的に変化するのを感じた。 理由は不明だが、空気が重い。旨く言えないが、大気の中にこの街特有の微粒子でもこもっているような。 そして、人の多さにも龍麻は辟易した。 若者の流行はすべてこの街から始まるといっても過言ではないのだが、龍麻にしてみればこの人波は、反政府デモか、労働者の抗議集会か、さもなければサッカーの試合を見に来たフーリガンの群れにしか見えない。これで華やいだ雰囲気でもあればリオのカーニバルのようなお祭り騒ぎとも取れるのだが、道行く若者の顔は無気力、無感動、無関心で、時折起こる笑いも薄っぺらな享楽にしか感じない。およそ意味不明のファッションにメイク。龍麻の手が思わずコートの中へと飛び込むような、魔物さながらの化粧をした女子高生までいた。 (うむむ…これは、俺が長居すべき場所ではない。迅速に偵察し、撤退せねば…) しかし、およそ武道の達人クラスの運動神経を誇る龍麻と言えど、無秩序、自分勝手に動きまわる人の群れである。人にぶつかっても謝るどころか、他人が避けて当然という者ばかりで、中には龍麻が避けたにもかかわらず「気を付けろ!」と怒鳴り付ける者までいる始末だ。もっと酷いのになると、スリでもないのにわざとぶつかってくる。 (なんという街だ…。イスタンブールやバンコクも人は多いが、これほど無秩序な街は初めてだぞ) いっそこの群衆に向けて機銃掃射か、ナパーム弾でも撃ち込んでやりたいなどと、龍麻がいささか物騒な事を考え始めた時だった。 「キャッ!」 またしても、人を避けるつもりでかえって別の人間にぶつかってしまった。相手は女性…少女で、しかも尻餅まで付いてしまう。 「し、失礼…。大丈夫か…?」 見た目こそ栗色の髪をリボンで結んだ、おとなしそうな少女だったが、この街では外見などほとんど意味はなさそうだ。こんな少女に怒鳴られたらやりきれないだろうな、と思っていたら、 「ご、ごめんなさい…。少しボーッとしていたものですから。…あの…大丈夫ですか?」 「自分は問題ない。しかし君はどうだろうか? 打撲や骨折に伴う発熱や吐き気はあるか? 動悸や息切れなどの症状は?」 ちょっとぶつかったくらいで、ここまで言う人間は珍しいだろう。その少女は呆然としたように龍麻を見つめていたが、ふと破顔した。 「そこまで心配なさらないでも良いですよ。あの…学生さん…でいらっしゃいますよね?」 「肯定だ」 少女はもう一度、変な応対をする龍麻を見つめた。それから、照れたように、 「あ…あの…もしよろしければ、名前を教えていただけますか?」 初対面の、それも通りすがりの少女に名前を教えるのはどうかと思ったものの、後々発生するかもしれない治療費の請求などには応じなければなるまいと、龍麻は名乗る事にした。 「東京都立真神学園三年C組、緋勇龍麻であります」 往来の真ん中、それも人込みのど真ん中で、直立不動の敬礼付きで名乗られ、少女はさすがに身を引いた。周りの通りすがりも、立ち止まりこそしないものの、何事かと二人を眺めていく。これはさすがに恥ずかしいだろう。 「ひ、緋勇、龍麻さん…ですね。ちょっと…珍しい名前ですね」 「……?」 「あ! すみません。…おかしいですよね。初めて会った筈なのに、なんだかそんな気がしなくて…」 その時、人込みをかき分けてやって来る一団が、龍麻の名前を呼んでいた。 「む? なぜあいつらが…?」 すると少女が、用事を思い出したかのように少し慌てて言った。 「あ、私、もう行かないと。それでは緋勇さん、失礼します」 「む…」 少女はお辞儀を一つして、人ごみの中に小走りに消えていった。どうやら急いでいたらしいが、なにやら自分に妙な親近感を抱いたらしく、名乗るのまで忘れてしまったようだ。 (まあ良い。この街は俺向きではない。二度と遭う事はあるまい) それきり龍麻は、今の出会いの事を黙殺した。 それよりも、当面は待機を命じた四人の仲間の事が重要だった。 「良かったぜ。追いついて…」 真っ先に京一が龍麻の元にたどり着き、後の三人も合流する。 「お前たちには待機しているように言った筈だが? 」 「済まん! 龍麻!」 開口一番、京一は龍麻に手を合わせて謝った。彼がやるとふざけているようにも見えるが、本人は真剣だ。現に《ひーちゃん》とは呼んでいない。 「俺たちが間違ってた。自分の腕が未熟なのを棚に上げて、実戦だのなんだのと言い過ぎた。だがもう絶対に足手まといにはならねえ! だから頼む! 俺も連れて行ってくれ!」 「………何の話だ? 」 「つまりだな…龍麻。俺たちはお前に特訓してくれと頼んでおきながら、とうとう耐え切れず逃げ出してしまったんだ。お前がどれだけ俺たちの事を考えているか理解もせずに、目先の辛さから逃げてしまった。お前の言う通り、俺たちは本当に未熟だ。しかし、だからと言って、やはりお前一人を行かせられん。どうか俺たちに、もう一度チャンスをくれ」 「ゴメン、ひーちゃん。特訓してる時のひーちゃんって、鬼みたいに怖かったから…でも、もう逃げたりしないから連れてって!」 「龍麻…。ごめんなさい。いつだってあなたが正しかったはずなのに…。本当にごめんなさい」 この春の陽気にトレンチコートを着ている、前髪が長くて目元の見えない怪しい風体の学生に、同じ学校らしい少年少女が四人がかりで謝っている図というのは、この渋谷の人だかりの中では目立ちに目立っている。もしここにテレビカメラが一台あれば、ドラマの撮影か何かと思った事だろう。一人でも充分個性的な彼らだ。しかも美形が揃っている。 「何を言っているのか今ひとつ判りかねるが、大げさだな。今は偵察だけだぞ」 変な注目をかわすべく、人ごみから外れた龍麻は首を捻りながら言った。 「それが…どうもそれだけじゃ済みそうもないの」 「あの後、みんなで話し合ったんだ。犬神先生が言っていた裏密の占い…禽とは、鴉の事ではないだろうか?」 「……」 「そして未…これは南西の意味だ。新宿から見て南西は、この渋谷だ。つまり裏密の予言は、この事件の事を指しているのではないかと思うんだ」 ふむ、と龍麻は顎に手をやって思考モードに入った。 裏密の予言は、先の妖刀事件を当てた通り、かなり信頼性があるようだ。今回の件にしても、裏密は自分たちがこの事件に介入する事を予知した上で、この暗示を伝えようとしていたのだろう。すると… 「では、獣とはなんだろうな?」 「それはまだ判らんが、裏密の言う事だ。きっと何かあると思う。それで…頼む。俺たちも連れて行ってくれ」 龍麻は一同を見回した。 皆、真剣な顔つきだ。それも、一皮剥けたような。自分を甘やかす弱さを認めた者が、その弱さを克服せんとする時の顔であった。 「…命令は守れるな?」 龍麻は以前、《覚悟を決めろ》といった時と同じ口調で言った。 全員が力強く肯く。彼らなりに、ありったけの覚悟を決めてきたのだ。 「ゾロゾロと大人数で偵察もないと思うが、まあ良かろう」 ほとんど決死隊のような覚悟で来た一同が拍子抜けするほどあっさりと、龍麻は同行を承諾した。この男のやる事はいつも意表を突いているから、彼らもだいぶ慣れてきたつもりだ。それでも、一言二言の押し問答は避けられないと思っていたところを、また覆された。 「何をしている? 行くぞ」 「あ!? ああ。でも、どこに行くんだ? 渋谷ったって、結構広いぜ」 「…京一、置いていかれたいのか? 少しは頭を使え」 いつもと変わらぬ口調の龍麻だが、京一は頭をぶん殴られたようなショックを受けた。 「ひ、ひーちゃん! お前、今、思いっきり馬鹿にしただろ!」 「うるさいなあ、京一は。でも、本当にどこなの?」 「小蒔…。今度の相手は鴉なのよ…」 京一と同レベルになってしまっている親友に、葵は優しく諭すように言う。 「都会にも鴉は多いが、大抵はねぐらを木の多いところに求めると聞く。と、なると、代々木公園か」 「被害者の内七人までが代々木公園で発見されている。行方不明者も少なくないそうだ。聞けば都会の鴉の何割かはそこを根城にしているそうだし、鴉のリーダーを気取る奴がいるとすればそこしかないだろう」 何気なく龍麻は言ったのだが、京一や醍醐は、そこまで推理を働かせていた龍麻の真意を少なからず汲み取っていた。 (やっぱり龍麻の奴…一人でケリを付けるつもりだったな) (忘れていた…。この男は、闘いから逃げられない事を…) なまじ悲壮な覚悟を固めるタイプではない分、龍麻の思考を読み取るのは難しい。それでも、たった一つだけはっきりしていて、自分たちが決して忘れてはならない事がある。それは龍麻が、いつだって真剣だという事だ。 人でごった返すセンター街を抜け、さらにスペイン坂を上がり始めた時である。人影がだいぶまばらになりかけた坂の途中で龍麻が立ち止まり、耳を澄ますように言った. 渋谷独特の、こもったような空気を切り裂いて届く、女性の悲鳴。 「聞こえた! 聞こえたぜ! 俺に助けを求めるお姉ちゃんの声がァ!」 勇んで京一が走り出す。しかし一〇メートルと行かない内にビターンと漫画的擬音を立て、京一は地面にへばりついた。 「まったく…学ばない奴だ」 「た、龍麻!? それは…?」 見れば龍麻の左手から伸びた細い糸が、京一の足まで伸びているのだった。その先端には極小のアンカーが仕込まれ、圧縮空気で発射するようになっている。 「うむ。最近手に入れた新装備だ。直径一ミリほどの糸だが、これで二〇〇キロ以上を支える事ができる。本来は岩登り用なのだが、京一を繋いでおくにも良いかも知れん」 そんな馬鹿な会話を交わしながら、龍麻たちは悲鳴が上がった路地へと急いだ。近づくほどに切羽詰まった若い女性の悲鳴と、数十羽に及ぶであろう鴉の声が大きくなる。 そして、彼らは見た。ホラー映画さながら、数十羽の鴉が一人の女性を襲っている様を。 「こ、これは!」 予想はしていても、実際に目にすると、その光景は凄まじいものであった。空中にホバリングしながら鋭い嘴で、爪で襲い来る鴉。人々は鴉を忌み嫌うが、こんな光景を見れば、誰でも鴉を恐ろしいものと信じるだろう。 「はっ、早くあの人を助けないと!」 小蒔がそう叫ぶのと同時に、横合いから男の、少年の声がかかった。 「おい! あんたら! レディが助けを求めてるんだぜ! その気があんなら手を貸しな!」 「なんだとォ!?」 京一が声のする方を見上げる。塀の上に腰掛けていたのは、派手な金髪をツンツンと逆立てた、ミュージシャンのような風貌の少年だった。ギターでも持っていれば、ああ、なるほどと納得できそうだが、どこに行くにも木刀を放さない京一以上に不釣り合いな、長柄の槍を持っていた。 「そらっ!」 金髪の少年が塀から飛び降りるや、充分に腰の入った突きでたちまち二羽の鴉を撃墜する。 (む…!) 龍麻の視線が鋭く金髪少年を射抜く。金髪少年の放った技こそ、槍術の基本中の基本である中段突きだが、その穂先が鴉を捕らえた瞬間、確かに《力》が弾けるのを感じたのである。 「チイッ! 俺たちも…!」 「待て! 京一!」 負けじと飛び出そうとする京一を、醍醐が止めた。 「醍醐! なんで止め――!!」 文句を言いかけた京一は、醍醐ではなく、その背後の龍麻に目を留めた。 命令に従う。それが絶対条件。さもなくば、生き残れない。自分たちは、龍麻の指揮を待たねばならない。 金髪少年から視線を戻し、龍麻は胸を張って口を開いた。 「本日この場を持って、貴様らは訓練を終了する!」 訓練の時の、《鬼軍曹》と陰口を叩いていた時の声で龍麻は言った。 「各自任意に展開! 敵を殲滅しろ!」 「――――!!」 意表を突かれるのは、これで今日何度目か? しかしもうそんな事はどうでも良かった。龍麻は自分たちを認めたのだ。訓練を終え、真に戦力として歩き出したと。 「よっしゃあ! 行くぜ!」 「よし! 来い!」 「いっくぞーッ!」 木刀を構え、京一が猛然と前衛に飛び出す。その後に醍醐が続き、小蒔は数歩前に出たところで弓を構えた。 「葵はここで待機しろ」 「龍麻…? 龍麻は行かないの?」 「俺の出番ではあるまい。それに今日は実戦訓練をするつもりだった。まさかお前たちが逃げ出すとは思わなかったが、この際ちょうど良い」 「…ごめんなさい」 責める口調ではないのだが、やはり葵は居たたまれなくなって謝ってしまった。そんな葵に龍麻は首を横に振った。 「俺にとっても一種の賭けだった。あれでお前たちが手を引くようなら、それでも構わないと思っていたのでな。それより葵、周囲を警戒しろ。おそらく鴉のリーダーだろうが、どこかからこっちを見ている」 「え…?」 「ここが戦場なら、ライフルかロケット砲の出番だろうが、そこまで警戒する事はない。だが、もう一波乱は必至だ。それに備えろ。もっとも、今の彼らの実力を知って逃走するかも知れないが」 「――――!」 周囲を警戒しろとは言われたものの、葵は龍麻の言葉の真意を探るべく、仲間たちを見た。そして、知った。葵は肉弾戦闘の事は良く分からないが、彼らの動きが以前とは段違いだという事を。 もちろん、それは闘っている本人たちが一番良く分かっていた。 (すげえ! こいつらの動きが全部分かるぜ!) (体が軽い! それに、思い通りに動く!) (凄いや! 鴉の動きが止まって見える!) 鴉の総力は約二十羽。やや出遅れた感のある京一たちであったが、先の金髪少年が数に押され気味のところに駆けつけるや、凄まじい勢いで鴉たちの掃討にかかった。 京一の木刀が唸る度、鴉が撃墜されるのはもちろんだが、上下左右前後から襲い来る鴉に対し、全身が感覚器であるかのように攻撃を見切り、確実にカウンターを加えていく。鴉の嘴や爪は、未だ京一にかすりもしない。 醍醐は敏捷性を増した自覚があるものの、それを過信せず、背後に壁を背負った。必然的に鴉は醍醐の前面から攻撃する事になるのだが、豪腕の一振りで簡単に叩き落とされてしまう。防御に関しても、京一のようには行かないが、最小限のダメージに押さえるべく体が自在に動く。制服にいくつか裂け目が走ったものの、肉体に傷は受けていない。 そんな二人の後方から、上空で攻めあぐねいている鴉に向かって次々に矢が唸り飛ぶ。日本式の弓はストロークが長く、連射向きではない筈なのだが、小蒔は射落とした鴉が地表に達するよりも早く、次の鴉を射抜いていた。狙いは正確無比で、時に目標が一直線上に並ぶや、必殺の《通し矢》で数羽の鴉をまとめて射落とした。 (なんなんだ、コイツら…!?) 威勢良く飛び出した筈の金髪少年は、この三人の勢いに圧倒され、既に傍観者と成り果てていた。彼の槍捌きとて相当なレベルなのだが、この三人は根本的なところから成長していたのだ。 「…二分か」 龍麻がそう呟いた時、京一が最後の鴉を叩き落として、戦闘は終了した。 「どうだ? ひーちゃん。俺たちもなかなかのモンだったろ?」 「及第点をやろう。良い動きだった。醍醐も良く冷静に対処した。小蒔は連射が早くなったな」 そうだった、と三人は、正確には四人は思い返す。 基礎体力を付けるために、全員が重しを担いで走り廻らされたが、京一に対して龍麻が突然振り返って攻撃してきたのは不意打ちに対する感覚を養うため。醍醐がひたすら鶏と追いかけっこをやらされたのは、敏捷性を養うため。小蒔が大量のボールを投げ付けられたのは、視野を広げるため。 家に帰ってから苦痛に喘ぎ、涙に暮れたつらい訓練は、全てこのためだったのだ。そして短期間にここまで鍛え上げるためには、それまで培ってきた技に対するプライドを粉々にする必要があった。そのため龍麻はどんなに憎まれようと、決して訓練内容を手直ししようとはしなかったのである。 心身一如という言葉がある。肉体と精神を、真に一致させるという意味の、仏教から来た言葉である。精神がどれほど高尚であっても、貧弱な肉体はそれを受け入れる事ができず、どれほど優れた肉体を持とうとも、精神が未熟ではその能力を生かしきれない。龍麻は武道家として未熟な彼らに、この段階を歩む道筋を付けたのであった。 「まったく、アンタも懲りない人だな。俺様もこれ以上は面倒見切れねえぜ」 ほんの一時、闘いの余韻に浸っていた三人は、金髪少年の言葉で、意識を現実に引き戻した。 「フフフ…これであなたに助けられるのは、もう三度目になるかしら」 襲われていた女性は、どうやらこれまでにもトラブルを起こしているらしい。それに、あれほどの鴉に襲われた後だというのに、もう落ち着きを取り戻している。 「あなたたちにもお礼を言わなければね。私は…こういう者です」 カメラやらメモ帳やらが入ったバックから、女性は名刺を取り出し、葵に差し出した。龍麻がまだ警戒の雰囲気を発していたからである。 「ルポライター…天野絵莉さん?」 良く見ればかなりの美人なので、京一などは喜んでいたのだが、その職業を聞いてさっと表情を引き締めた。ルポライター…世間に情報をうるさいほどに喧伝するマスコミ関係者。そんな職業を持つ人間の前で、尋常ではない《力》を使ってしまった。その迂闊さを呪おうにも、既に天野という女性の目は、アン子のそれと同じ光を放っている。 「ええ。この渋谷で起こっている連続殺人事件をルポするために来ていたのだけれど…あなたたちの《力》は一体…」 「それに答える義務は自分たちにはありません」 龍麻はきっぱりと言った。 「そして、そこにいる少年の言うように、自分もこの一件から撤退する事を進言します。あの鴉は一つの意志によって統率されていた。次に襲われた時は、確実に命を落とします」 「あ、あなたは…?」 明らかに年下である少年に圧倒されつつ、天野は必死に聞き返した。他の四人も高校生にしてはやけに迫力があるが、この少年だけは桁が違っている。天野は与党の大物代議士を相手にした時さえ、これほど圧倒された事はないと、身震いするような戦慄を覚えた。 それには答えず、龍麻は肩で風を切って振り返った。 「行くぞ。矢を回収次第、当初の予定通り代々木公園に向かう」 「な、何だって!? オイ、ちょっと待てよ! アンタら、今あそこがどういう情況か知ってんのか?」 「知らん」 事も無げに、龍麻は言い放つ。 「だが、推測通りならそこに敵の本拠地がある筈だ。これほど露骨な事件を起こされては放っては置けん。探し出して、殲滅する」 「アンタら…伊達や酔狂で言ってる訳じゃねえみてえだが、半端な気持ちで首を突っ込もうってんなら手を引いた方が良いぜ。あそこには――」 「無意味な忠告だ」 龍麻はにべもない。 「自分たちが手を引いたところで、被害者が出続けるだけだ。警察は鴉が操られている可能性を最初から無視している。従って、ある程度事情をわきまえている我々に責任がある」 「事情って…何か知っているの?」 天野は気負いこんで聞いたが、龍麻は耳を貸さなかった。どんな相手にも礼儀正しい龍麻らしくない。いや、京一だけは、一度だけ龍麻が煙たそうな表情を向けた相手を知っている。それは、アン子だ。天野と同じ、ジャーナリズムの人間…。 「判っているのは一つだけだ。放っておけば、また人が死ぬ。それを止められるのも、恐らく我々だけだ」 「えらく自信ありげだけどよ…アンタら、一体何者なんだ?」 「……」 龍麻が黙っているので、京一が執り成すように言った。 「なあ、ひーちゃんよ。このままこの二人と別れたって、結局は事件に首を突っ込む事になるんじゃねえか? それだったら、ある程度の事情を話して手を引いてもらった方が良いと思うぜ」 「うむ。俺もそう思うぞ。遠野のように趣味でやっているのならばともかく、天野さんはそれを仕事としているんだ。やはり安全に手を引いてもらうには、それしかないと思う」 「ひーちゃん…ボク、天野さんなら信用してもいい気がするんだけど…」 「龍麻…」 口々に言う仲間たちを、龍麻はぐるりと見回した。 「――お前たち、俺が向こう側の人間だという事を忘れていないか?」 「……!」 「お前たちも向こう側に片足を突っ込んでいる身なら、その立場の危険性は認識している筈だ。本来ならこのような事件に関与する事すら危険だ。俺がなぜお前たちに訓練を課したか、まだ解らないのか?」 「う…!」 結局のところ、四人がかりでも、龍麻の正論にはまったく敵わない。しかし、五人の不穏な様子が気になったか、金髪の少年が間に入ってきた。 「おいおい、何だか知らねえが、仲間割れは止めてくれよ。第一、代々木公園は鴉の群れに占領されてる。中に入るどころか、近づくだけでも危ない状態だぜ」 「それは有益な情報だ。つまり敵は、そこに潜伏している」 「だ、だから俺様は危ないって言ってるんだぜ! その制服、新宿の真神だろ? 昨日もうちの連中と真神の奴がやりあってたが、アンタらんトコは皆、そんな風に人の話を聞かない自分勝手な連中なのかよ!?」 「む…」 龍麻の表情が一瞬、緊張する。 そう言えば、逆に目立つかもしれないものの、変装しているのは龍麻だけで、後の四人は制服でここに来ているのだ。男子制服は胸の校章さえ見られなければ一目では判りにくいが、スカートまで白のセーラー服など滅多にないから、一発で学校がバレる。その可能性を無視していたのは、龍麻の不注意と言うより、常識を知らない間抜け加減だ。 「…悪ィ、ひーちゃん。そこまで考えてなかったぜ」 「…次善の策としては、この二人を口封じしておくという手があるが…」 「だーッ! だから止めろって! どうせただでさえ異常な事件なんだから、俺たちがこの件を片付けたって誰も本当の事だなんて思いやしないって!」 京一の言葉に、龍麻も少し考え込むような仕種をする。《枝を隠すなら森の中》と言って、龍麻にとって学校は絶好の隠れ蓑なのだが、こういう時、学生という身分は身元調査をされやすい。このまま情報を与えず天野と金髪少年を帰したところで、調べようと思えば簡単に調べられてしまう。 「…仕方ない。しかし次からは身元の分かる服装はなしだ。そしてお前たちも、我々の事を世間に公表しようなどと思わぬ事だ。その場合は速やかに家族もろとも――ムググ! 何をする!?」 見てくれは一介の高校生でありながら、とてつもない脅し文句を口にする龍麻を、天野も金髪少年も呆然と見ている。龍麻の放言をこれ以上許さぬようにその口を押さえながら、醍醐は金髪少年に言った。 「昨日、君のところの生徒と揉めたのはウチの生徒だ。迷惑をかけたようだ。済まない」 その事は、ラーメン屋に向かう途中でアン子から入手した情報だ。何でも佐久間が《目が合った、合わない》で、この渋谷で他校の生徒と乱闘騒ぎを起こし、自分もろとも三人を病院送りにしたのだそうだ。 「あ? ああ。良いって事よ。喧嘩なんて、どうせお互い様だし。ところで、あんたの名前は?」 「俺は、新宿真神の醍醐雄矢と言う。そしてこっちが――」 「神速の木刀使い、蓬莱寺京一だ」 余計な一言も加える京一。しかしそれで、天野の態度も軟化する。 「ボクは桜井小蒔。みんなと同級だよ」 「私は、美里葵と言います」 それぞれ名乗ると、天野はともかくとして、金髪少年の顔付きが変わる。 「魔人学園の醍醐に蓬莱寺か…」 「知っててもらって光栄だな」 「そりゃあそうさ。俺たちみたいな人種で魔人学園の醍醐や蓬莱寺の名前を知らないなんてモグリだぜ。それで、そのアブナイお兄さんは?」 やっと醍醐が手を放し、龍麻はぷはっと息を付いた。 「醍醐。上官反抗で営倉送りにされたいか?」 「…この場合は仕方ないだろう。お前も無茶を言い過ぎだぞ」 「そうか。逆らうのだな。この作戦の終了後、貴様は一週間の営倉送りだ」 やけに迫力ある声で断言する龍麻に、京一が呆れたように言う。 「営倉ったって、ひーちゃんよ。ウチの学校にはそんなものはねえぞ」 「いや、ある。懲罰としての営倉送りならあそこほど相応しいところはない。霊研だ」 その単語の持つ恐ろしさ! 醍醐の顔は一瞬で青くなった。 「なっ、なに!?」 「今回、貴重な情報を提供してくれた彼女に対するささやかな礼に、お前を労働力として提供する」 「ちょ、ちょっと待て龍麻! それだけは…!」 顔一杯に脂汗を溜めて言う醍醐を無視し、龍麻は金髪少年に向き直った。 「既にこちらの女性からは名刺をいただいたが、人に名を聞く時には自分から名乗るのが礼儀だ。違うか?」 別段口調を強める訳でもなく、仲間たちと話す時と同じような態度で接する龍麻に、しかし金髪少年は気圧された。 噂に聞く新宿魔人学園の醍醐に蓬莱寺。都内の不良たちの間では半ば伝説化している男たちを、まるで子供扱いするように手玉に取る男。口調にしろ使用する単語にしろ、およそ軍事オタクとしか思えないが、それ以上に、男として、槍術使いとして腕を磨いてきた彼の本能が、この男の正体を告げる。強い男だと。いや、とてつもなく強い男だと。 「俺様は…渋谷神代高校二年の雨紋雷人 「新宿真神学園三年、緋勇龍麻」 いつものように《やるぞ》と思っていた京一たちは、珍しく龍麻が敬礼をしなかったので、少し拍子抜けしてしまった。骨の髄まで軍人気質の彼を笑う訳ではないのだが、彼の挨拶を聞いた時の一般人の反応をなんとなく楽しみにしてしまっている節があるのだ。 「自分たちはある事情から、この事件に対する調査を行うところだった。そしてそちらの天野嬢が襲撃されている場面に遭遇し、鴉と鴉を操っているものを我々の敵と認識、殲滅した。この後我々は敵の本拠地と目される代々木公園に向かう。事情説明は以上だ」 「以上って…それ、ぜんぜん説明になってないぜ、ひーちゃん」 「なぜだ? 必要な事は皆話したぞ。そして実際に、明確な殺意を持った鴉に襲われている。手を引くには、それだけで充分理由になる筈だ」 「鴉が明確な殺意を? アンタら、そんな事を本気で考えてんのかよ?」 雨紋が呆れたように肩を竦めたが、どこか不自然な仕種だった。何かを知っていて、それをごまかそうとしている。 「俺たちも、今までは半信半疑だった。しかし天野さんが襲われているのを見て確信が持てた。確かに、鴉以外に何者かの気配を感じたしな」 「ボクにも分かったよ。どこかからじいって見られてる感じだった」 「ああ。あんな《気》を発する奴は、少なくともまともじゃねえ。早いところケリを付けねえと、ひーちゃんの台詞じゃねえが、これからも犠牲者が増える一方だぜ」 口々に言う彼らをもう一度見据え、雨紋は言った。 「なあ、アンタら。さっきも言ったけど、半端な気持ちであそこに行こうってんなら――」 「半端なのはお前の方ではないのか?」 突然、龍麻が鋭く切り込んだ。 「なっ、なにを…!」 「どうやらお前は、敵の正体に付いて何らかの情報を持っている。そしてお前は、そいつと敵対関係にありながら、同時に我々の行動を妨害しようともしている。明らかに二律背反行為だ。一般市民を守ろうとする姿勢は評価されてしかるべきだが、それだけでは根本的な解決は望めん」 「……!」 「…お前が望むなら、我々の作戦行動に参加させなくもない」 「何だって!? ひーちゃん?」 この言葉には、雨紋よりも京一たちの方が驚いた。まさか龍麻が、いくら強そうだと言っても、部外者を巻き込むとは思えなかったのである。 「物事を杓子定規で考えていたのでは、勝利を約束された闘いにも敗北する。さて、雨紋。お前の目的と我々の目的はさほど異なるものではないようだ。お前一人では果たせぬ目的も、我々と行動を共にすれば果たせるかも知れん。我々としても、お前の情報があればより有利な戦術を組みたてる事が可能だ」 「…それは俺様に、協力してくれって事か…?」 「軍事作戦において、一部隊だけの判断で行動する事は希だ。情報部の掴む情報、現地勢力との提携、補給部隊からのバックアップがあってこそ、作戦の成功率が上がる。これ以上被害者を出さず、我々の中からも死傷者を出さぬためにも、お前の協力が必要だ」 「……」 龍麻が他人に対し、これほど心情を吐露するなど、これまでになかった事だ。京一たちは、龍麻の態度の変化の中に、自分たちに対する信頼と、指揮官としての責任感を見た。 同時に雨紋も、このとてつもなく強い男が、会ったばかりの自分にこれほど信頼を寄せているという事実に驚いていた。そして、自分の心情を鋭く見抜いた洞察力にも。 《それ》が起こったのは、雨紋が何事か口を開こうとした時であった。 キイイイイィィィィ……!! 「な…なんだ…!」 「なに…この音…!」 まず天野が、続いて葵と小蒔が耳を押さえて蹲る。京一と醍醐、そして雨紋は必死で耳を押さえて耐えるが、今にも膝を付きそうになる。 「何者だ?」 その中で、たった一人だけ尋常な様子を保っていた龍麻は、誰にともなく空中に問い掛けた。 「クックック…僕たちの他にも《力》を持った人間がいたとはね。良かったじゃないか、雨紋。仲間が大勢できて…」 「…唐栖 雨紋が持てる限りの声で叫ぶ。それに応えるかのように、耳をつんざく高周波は潮が引くかのように消えていった。 「いろいろと邪魔してくれていたようだけど、そろそろ僕と決着を付けたくなったかい? いつでも来るといいよ。僕の《城》へ」 馬鹿にしたような口調は、しかし若い…少年のものであった。大人びた口調の中に見え隠れする、未成熟な精神。無邪気さと残酷さが抜けきっていない、子供の精神だ。 「あなたは…あなたは一体誰なの!?」 比較的早く立ち直った天野が、やはり誰にともなく叫ぶ。声の発現点がまったく判らないからだ。遠いような近いような、周り中から響いているようにも聞こえる。 「おや、あなたは…無事でしたか。残念ですね。せっかくあなたを十人目の犠牲者にしてあげようと思ったのに。クックック…」 「目的は何だ? 何のために殺人を繰り返す?」 周囲を警戒しながら醍醐が叫ぶ。返答は…鼻先の笑いだった。 「フッ、神の意志さ…。君たちのように地面を這いずり回るだけの虫ケラどもに、偉大な神の意志が理解できよう筈もない」 唐栖は続けて言う。 「さっきから君たちは、僕を止めるとか言っていたようだけど、それはまったく愚かな行為だよ。神に選ばれた僕に戦いを挑もうなんて…」 「――黙れ」 龍麻の一言に、空気そのものが動揺した。雨紋や天野はおろか、京一たちも驚きを隠せない。 「勧告する。速やかに降伏し、投降しろ。さもなくば殲滅する」 並の者が言ったのならば、虚勢もここに極まれりといったところだろう。しかしそれを口にしたのは他ならぬ緋勇龍麻であった。 「…凄い自信だね。だけどそれが人間の愚かさでもある。神である僕に逆らおうなどとは――」 「自己陶酔に浸るのはそこまでにしておけ」 二度に渡り、唐栖は自分の言を遮られた。 「本来ならば貴様のようなナルシズムに取り憑かれた変態ごとき、俺が相手をするまでもない。そのような台詞は自宅で育てている鉢植えサボテンの前で言うがいい。どうせ貴様のようなXXXXXのXXXXは、XXXXXXでXXXXXXと決まっているものだ。さっさと逃げ帰って《ときXきメモXアル》の藤X詩Xとやらを懸想しつつXXXでXXXXするがいい。神に選ばれたとか言う貴様だ。さぞXXXXXがXXでXXXXなのだろうな。貴様は株式会社エXフの《X作》にそっくりだ」 唐栖という男の何が気に入らなかったものか…多分どこもかしこも気に入らなかったのだろうが、鬼軍曹モード(京一命名)が起動してしまった龍麻は目に見えぬ敵に向かって延々と《教育上、不適切な表現》で罵った。雨紋が唖然としたのは初めてだから仕方がないだろうが、既に葵と小蒔は真っ赤になった顔を押さえ、彼女らよりずっと大人である天野も、無表情プラス抑揚のない口調で《お下劣》な言葉の暴力をふるう龍麻を、口をパクパクさせながら見ている事しかできない。 「やめろ! ひーちゃん!」 ようやく、京一が止めに入った。 「藤X詩Xを汚すな!」 『そっちかい!』 天野を除く全員がツッコミを入れた時、恐らくは呆然としていたであろう、唐栖と名乗る男の声が再び響いた。 「ふふ…ふふふふ…ふははは…。本ッ当に…良かったじゃないか…雨紋。すごく…すごく心強い仲間ができて…。僕は…僕は逃げも隠れもしない…。待っているよ…僕の城で…!」 鬼軍曹モード時の龍麻の口の悪さは筆舌に尽くしがたいものがあるが、初対面(?)ながら唐栖という男の胸にもグサグサと突き刺さるものがあったようだ。笛の音と共にフェードアウトしていく彼の笑い声は、心なしか虚ろに乾いていた。 「ひーちゃんってば、お下劣…」 「って言うか、自分でも意味判っていないんじゃ…」 当の龍麻は、何事もなかったような顔で雨紋に言った。 「雨紋とやら、奴の言う《城》とはどれの事だ? ここまで来る途中にもいくつか城が建っていたが」 「はあ?」 それがいわゆる、ラブホテル街を指しているのだと、地元民の筈の雨紋でさえ、気付くのにたっぷり十数秒かかった。 (こいつ、本当に何者なんだ? マジボケか?) 少し困ったような醍醐が前に出てきてフォローする。 「あー、つまりだな。雨紋、あの唐栖という奴が潜伏している場所を教えて欲しい。このまま、あんなかなり普通でない奴を放っておく訳には行かないだろう?」 「…俺様はそっちの兄さんのほうがよっぽど普通じゃない気がするんだけど…」 「と、とにかくさ! ほっとけないよね、あんなの!」 小蒔も醍醐をフォローする。 「ああ。あんな奴は早いトコぶちのめすに限る!」 「そうね…アン子ちゃんには悪いけど…」 それは間違いなく彼ら一同の決意表明であったろう。しかし、しかしである。龍麻の言葉の暴力を聞いた直後では、彼らが場の雰囲気を必死でごまかしているようにも見えた。 「あなたたち…一体ドコまでが本気なの…?」 「全てだ」 龍麻は即答する。 「作戦通り、敵は自分を標的と認識した。後は予定通り、敵と交戦して殲滅する。これで事件は解決だ」 作戦だったのか!? あれが!? しかし《鉢植えのサボテン》とか《ときXきメXリXルのX崎X織》とか、《エXフのX作》って…? 「…でも、危険よ。確かにいろんな意味でただ者じゃなさそうだけど、一介の高校生がそんな事を…。ここは警察に任せるべきだわ」 《いろんな意味で》の中に、自分たちは含まれているのだろうかと、龍麻以外の四人は考えたが、やはりここは中心人物が応えた。 「奴が捕まって、罪に問われるならばそれもやぶさかではない」 「……!」 「しかし、現行の法律では、これは不可能犯罪とされる。科学的根拠のある証拠が提出されない限り、奴を裁く事はできない。また、仮に証拠があったとしても、未成年者の犯罪だ。九人殺したとしても、二年以上服役する事はあるまい。いずれにせよ、警察はあてにならない」 これは理路整然としていて、天野も納得せざるを得ない。彼女自身、この殺人事件の異常性から、犯人が《人間ではない》と薄々感じていたのだ。しかし警察内部の情報網を活用しても、現場の刑事たちは《何かおかしい》と感じつつも、《人間》が犯人であるという前提のもとに捜査している。現代の警察はリアリズムの世界なのだ。 そして、《犯人》は未成年で、《鴉を操る能力》を有している。そして犯人を追う者も、犯人と同じ未成年で、不思議な《力》を有する者たち。オカルティズムをコメディ・タッチとしてしか受け入れられない、自分を含めた大多数の大人たちには到底理解できない世界だ。 「天野さん…私たちは…私たちなりにこの東京を守りたいと思っているんです。子供が…と思われるかもしれませんが、住んでいる街や人の事を思う気持ちに、年齢は関係ないと思います。私たちの《力》が何のためにあるのかは判りませんが、それでも、この《力》で誰かを守る事ができるのなら――」 「そうそう、ひーちゃんの言う通り、こんな話を警察が信用する筈ないって」 葵が、そして京一が言葉を継ぐ。しかし、やはり最大の説得力を持つのは、龍麻の言葉であった。 「世界には、答えのない疑問の方が多い事は、ジャーナリズムの世界にいるあなたなら知っている筈だ。重ねて言う。この件から手を引け。誰も何も知らぬ間に、事件は解決する。それが誰にとっても良い結末の筈だ」 十数秒の沈黙。天野はその間、龍麻の顔を見詰めていた。長い前髪のせいで、彼の表情を読み取るのは非常に困難だ。しかし引き締められた唇には意志の固さが、ぴんと背筋を伸ばしたまま胸を張る堂々たる態度には、困難に満ちた人生を踏みしめつつも前に進んできた者の風格さえ感じられる。それが、それなりに《人間》を見続けてきた天野を決断させた。 「解ったわ。私にとってもこれはビジネスだもの。記事にできない事件をいつまでも追っている訳には行かないわね。その代わりと言ってはなんだけど、私の持っている情報はあなたたちに提供するわ。彼が《神》にこだわる理由が分かるかもしれないから。必要でしょ? 《敵》の性格を知る上でも」 「肯定だ。そして、感謝する」 龍麻は、そこで初めて、天野に敬礼した。 天野から得た情報は、鴉の生態に付いてこそ、アン子の話と大差なかったが、その歴史的背景に付いては非常に興味深いものがあった。 今でこそ単純に、《気味悪い》、《声がうるさい》、という事で忌み嫌われる鴉だが、実は世界中の神話に登場している、いわば神の眷族であったというのだ。ギリシア神話では太陽神アポロンが、北欧神話の主神オーディーンが鴉を寵愛していたし、日本神話にも一つ目で三本足の八咫烏が登場する。かの旧約聖書の《ノアの洪水伝説》にも、陸地を見つけるために放たれた鴉が、結局陸地を見つけられぬために罰として足を切られたという話がある。 しかし、ほとんどの神話において、鴉は最後に神の座を追われ、下界に落とされる事となる。そのような伝説と、全身が黒いというところから来る堕天使のイメージ、栄養となるものは何でも食する超雑食性、そして実際に鳥類の中でもかなり知能が高い事から、鴉は《忌むべきもの》との烙印を押されたのである。 「それってつまり、昔は鴉の方が人間より偉かったって事だよね? でも、だからって鴉が人を殺していいって事にはならないじゃない!」 丁寧な天野の説明のおかげで話に付いて来ていた小蒔が反論する。 「そうね。でも彼の口ぶりからすると、彼は単なる快楽殺人ではなくて、彼なりの正義に基づいて行動しているのかもしれないわ」 「ナンセンスだ」 ジャーナリストとして、公平な意見を述べようとした天野であったが、龍麻はそれを一刀両断に切り捨てた。 「かつて神に喩えられながら人間に虐待されたのは鴉だけではない。たとえば狼がそうだ。しかし人間に限らず、あらゆる生物にとって、他の生物に行っていい事は唯一、《食べる事》だけだ。鴉という《種》自体が望んで人間を捕食するならば、それは自然の摂理だが、一連の事件は唐栖という《一人の人間》が鴉を使って行っている《無差別殺人》に過ぎん。そこには正義も信念もありはしない。死と破壊をもたらす暴力があるのみだ」 他の人間ならば、ひどく熱い思いがこもるであろうこんな言葉も、龍麻の口からは淡々と、無感情に流れるばかりだ。しかし、それだけにひどく残酷で重い響きがあった。京一たちも恐ろしいので聞く事ができないでいるが、対テロリスト部隊として実戦に参加したという彼は、こんな場面にいくつも遭遇しているのだろう。一部の者が己の意見を強引に主張するために、弱い者を犠牲にする――それがテロリズムだ。恐らく龍麻にとって唐栖は、不倶戴天の敵であろう。 その唐栖と対面した時、龍麻はどんな行動を取る? それを考えた時、京一たちの背に氷の槍が突き立ったが、龍麻は天野に礼を言い、もう一度敬礼した。 「貴重な情報の提供を感謝する。気をつけてお帰りを」 「そうね…。あなたも気をつけて」 結局龍麻は己の正体を語らず、天野は名残惜しい様子であったが、この先自分の出る幕ではない事を悟り、皆に別れを告げて去っていった。龍麻としても、意外と柔軟な天野の考え方に好感を覚えたようで、京一の《俺たちの事、記事にしたりしねーだろうな》という問いには首を横に振った。 「あの女性は敵に回るまい。それよりも今は、当面の敵を排除する。雨紋、重ねて問う。我々と作戦を共にするか? もちろん、拒否権はある」 今度は自分にお鉢が廻ってきたので、雨紋はどうしたものかと頭を悩ませた。 この男は、どうやら口先だけの夢想家とは根本的に異なるらしい。唐栖を《殲滅する》というのも、ただのはったりではあるまい。既にこの男は、唐栖との殺し合いを決意している。 自分はどうだ? 人には《半端な気持ちで》と言ったが、先ほど龍麻に指摘された通り、自分こそ事情を知りながら、唐栖との対決を怖れていたのではないか? 「奴の罪は別として、お前が来れば、奴の命だけは助かるやもしれん」 「!!」 やはり、この男の方が一枚も二枚も上手だ。唐栖の言葉から、雨紋が唐栖の知り合いだという事を見抜き、心理戦を仕掛けてきた。雨紋が付いて行かなければ、唐栖は確実に《抹殺》される。逆に付いて行けば、唐栖の助命のチャンスもあると。 「ねェ、雨紋くんも一緒に行こうよ」 「そうだな。お前にも《力》が備わっているという。槍の腕前も見事だった。お前が仲間に加わってくれると心強い」 京一だけは何か不満があるのか反論しようとしたが、醍醐はそんな彼を強引に黙らせた。 「…判った。ちょうど…俺様もあいつとは決着を付けなきゃならないと思ってたところだ。アンタらと一緒に行くよ」 「良かろう」 龍麻は肯いた。 「有望な人材が加わる事は喜ばしい。歓迎するぞ」 そう言う龍麻は、非常に偉そうだった。 第四話 鴉 2 完 目次に戻る 前(鴉 1)に戻る 次(鴉 3)に進む コンテンツに戻る |