第弐話 怪異 2





 
 約五分後、龍麻以下四人が真神学園旧校舎前に集結した。

 ラーメン屋からここまで、走れば三分の距離である。五分かかったのは、途中で龍麻が《装備を取りに行く》といって、一人教室に寄り道したからである。

「うわ〜っ、なんか、かろうじて建っているって感じだね」

「建てられてからもう、五、六十年になるらしいからね」

「戦火を潜りぬけてきた建物って訳か」

「そんな事より、早く行こうぜ。夜になったら、なんかやばそうだぜ」

 そんな事を言っていると、怒声に等しい大声で龍麻が言った。

「Attension!」

 映画などで良く見られる、司令官が兵士たちに命令を下す時の第一声であった。四人とも、反射的に《きをつけ》をしてしまう。

「作戦内容を確認する。最優先項目は美里葵嬢の救出。エントリーは五人編成。捜索も同様に行う。美里葵嬢を発見、保護後、速やかに撤退。隊列は先頭が自分、二番手に蓬莱寺、三番手に遠野殿、四番手に桜井殿、殿を醍醐とする。撤退時には自分が殿に移動し、侵入ルートに沿って脱出。以上、質問は?」

 胸を張り、龍麻はぐるりと一同を見回す。質問と言われても、一同は呆気に取られるばかりで、何も言えなくなってしまっている。それに、指示も的確であった。

「質問がなければ作戦を開始する。各自、健闘を祈る」

 龍麻はアン子を促し、抜け道の場所を教えさせた。高い塀をしつらえてあるものの、木の板で作られた塀は長い年月の間に老朽化し、虫食いのごとき綻びがいくつも見受けられる。その一つ、羽目板がすっぽりと抜け落ちている個所を《抜け道》と呼んでいるのだ。普段は別の板で形ばかり塞がれているので、遠目にはちょっとわかりにくい。

「こりゃ先生たちにもわかんねェ筈だぜ」

 京一はそう言って真っ先に抜け道を潜ろうとしたのだが、龍麻は問答無用で彼を押しのけ、抜け道に鏡を差し出して上下左右の安全を確認し、先頭切って中へと侵入した。

「何なんだよ…あいつ…」

 押しのけられた形の京一は、不平そうに鼻を鳴らした。安全確認をするのもいいが、警戒し過ぎだという感が拭えない。それに、いつのまにかリーダーのように行動しているのが、なんとなく気に入らなかった。誰の命令も受けず、自由奔放――それが京一のスタイルだったからだ。

「何をしてるんだ。行くぞ、京一」

「ああ、わーってるよ」

 今は葵を探すのが先決だ。京一は木刀を握り直し、抜け道を潜った。醍醐も、小蒔も、アン子も後に続く。極めて身近な、非日常へと。そして彼らは、そんな自分たちを見ている者がいた事に、まったく気付かなかった。

「この時間からここに入れば、生きて帰るのは至難の技だが…」

 その人物は、よれよれになった煙草をぷいっと吐き捨て、しかしそのまま背を向けて黄昏の中を歩み去った。

 間もなく、夜が来る。いつもと同じ、しかし何かが異なる夜が。





(むう…)

 思ったよりも濃い妖気が立ち込めているのを感じて、龍麻は僅かに顔を顰めた。

 転校先をこの学園に指定された時から、《何か》があるとすればここだろうと踏んでいたが、これほど早くここの調査をする事までは予定外だ。一般人には《不気味な所》としか判らないだろうが、龍麻には《近付くべきではない場所》として捉えられる。人間の生命力を害する《妖気》が吹き溜まりになっている場所だ。昼間は光――陽気が強いのでそれほどでもないのだろうが、宵闇が増すに連れてこの妖気はますます強くなる筈だ。葵の救出を速やかに行わなければ、自分たちにも何が起こるか分からぬ事を、龍麻は肌で感じ取っていた。

 他の四人は、いろいろと話しながら付いてくる。《声を立てるな》と厳命すべきだろうか? 何者が潜んでいるか分からぬ状況下で、この騒音は自殺行為だが、葵の救出が目的である以上、向こうで気付く可能性も考慮しなければならない。そして彼らの会話の中には、この旧校舎に関する情報も含まれていた。

「ここって陸軍の士官学校だったらしいのよ。さらに地下には研究用の地下室とかもあるらしいわよ」

「俺も聞いた事がある。俺のじいさんが職業軍人だったんでな。何でも、何か秘密の実験も行っていたらしい」

「うん。ミサちゃんも同じ事を言ってたわ。ただ研究内容はかなり陰惨な事もあったみたいで、人体実験なんかも含まれていたらしいわ」

「遠野さん、はぐれたのはどの辺りだ?」

 龍麻は先頭を歩いていたので、《人体実験》の単語に対して歪んだ彼の表情を見た者はいなかった。しかし、彼が口を開いた事で全員ぴたりと黙る。

「う〜ん、ここら辺だったと思うけど、ここって似たような構造しているから…」

「なあ緋勇、こうして固まっているより、手分けして探した方が良くはないか?」

 醍醐の提案は建設的ではあったが、龍麻は即座に《却下》と告げた。

「この状況下で分散する事は危険度が増す。俺の指示に従えと言った筈だ。自身が生き残るためにも、そうしろ」

「……」

 自分が一度負けた相手…というだけではないのだが、冷徹さを増した龍麻の言葉に、醍醐は逆らう事ができなかった。他の三人も同様である。しかし、ただ一人、京一だけはこの旧校舎内に漂う妖気を感じ始めているのか、あまり無駄口を叩かなくなっている。

「む…!」

 その時前方に、かすかな光を龍麻は認めた。アン子に、懐中電灯を消すように指示する。すると板で塞がれた窓からかすかに差し込む月明かりの他に、何か懐かしさを感じさせる青い光が教室内から発しているのが見えた。

「遠野…お前が見たのはあの光か…?」

 怪奇現象に弱いらしい醍醐が、それでも固い声で聞く。アン子は首を振った。

「ううん。あたしが見たのはもっと小さな赤い光だったわ。それが一杯…。って、緋勇君! どうするのよ!」

 四人を左手で制し、龍麻は明かりもなしにその教室に素早く走り寄った。教室の窓は塞がれていないから、教室内を見渡す事はたやすい。首を一瞬だけ出して教室内を確認した龍麻であったが、その光の中心に葵が倒れているのを見て、一瞬だが硬直した。

 この光には見覚えがある。三ヶ月前の、あの時と同じ光だ。

(まさか…覚醒か!? この子が、俺と同じ!?)

「緋勇、どうした!?」

「…美里葵を発見した。直ちに保護する」

 内心の動揺を瞬時に打ち消し、龍麻は一同を促して教室へと入り、葵のもとに歩み寄った。

「これは…美里の身体が光っているのか?」

「あっ、光が薄れてく!」

 人間の身体が光を放つという現象を前に、四人はそれ以上近づけないでいる。親友であるという小蒔も例外ではない。

 龍麻一人が、葵に近付いた。光がすうっと消える。

「お、おい、緋勇ッ!」

「周囲を警戒しろ」

 龍麻は片膝を付き、葵の手を取った。

「脈拍…正常。呼吸…正常。外傷はなし。見る限り、打撲もない」

 これなら動かしても支障はなさそうだ。龍麻は葵を抱き起こした。

 すると、腕の中で葵がもぞりと動いた。

「う…ん…。ひ…ゆうくん?」

 葵が目を覚ます。そして、誰の腕の中にいるのか気付いて少し頬を染めた。

「葵! 大丈夫!? …痛いトコとかない?」

「こ…まき? え、ええ、大丈夫よ」

 改めて葵は一同を見回す。そのメンバーは龍麻を除いて、意外なものではなかったようだ。

「私…気を失っていたのね。アン子ちゃん…京一君と醍醐君も、心配かけてごめんなさい」

「まだ早い」

 龍麻が、短く断じた。

「呼吸と脈拍に乱れが生じた。脳にダメージを受けた際に生じる症状に似ている。頭を打ったりしなかったか?」

「え、ええ…」

「身体に違和感はないか? 頭が熱っぽいとか、吐き気を覚えるとか、そういう症状は?」

「ええ。ないわ」

「自覚症状がないだけで安心はできない。戻ったら医師の精密検査を受けろ」

 葵は龍麻の手を借りて立ち上がった。足は、思ったよりしっかりしている。龍麻はああ言ったが、特に問題はなさそうだった。

「美里ちゃん、一体何があったの?」

「…アン子ちゃんとはぐれて歩き回っている内に、何か赤い光のようなものが追いかけてきて…」

「話は後だ」

 龍麻が、その会話を遮った。緊迫感に彩られた声。龍麻の神経はなにものかの接近を関知していた。なにものか、とは、人間ではない。

「即時撤退だ。蓬莱寺、トップに立て! 全速前進!」

 そこでようやく、一同は気付いた。無気味な音が遠くから近づいている事に。そしてそれが、教室の扉に一つ、また一つと取り付き始めた事に。

「こりゃ素直に帰れそうにねえ。ついでに赤い光の正体が確かめられそうだぜ…」

 京一が木刀を袋から取り出す。

「遠野! 美里を連れて逃げろ! 桜井! お前もだ!」

「う、うん! 美里ちゃん、走れる?」

「桜井、お前もだ!」

「ボクは残る!」

 矢筒から矢を取り出し、小蒔は叫ぶように言った。弦は旧校舎に入る前にセット済みである。本人によればこの方が落ち着くからで、こうなる事を予想していた訳ではない。

「ダメだ! お前は…!」

 醍醐がそこまで言ったところで、遂に龍麻は怒鳴った。

「即時撤退だ! 聞こえなかったのか!」

 殺気さえ漂わせた、龍麻の怒声。一同は思わずビクッと身を縮こまらせた。

 これだから素人は…。そう考える事は止めにしようと誓っても、その誓いが守り切れた試しがない。彼らは事ここに至っても、現実認識が足りないのだ。自らが《死ぬ》可能性を否定している。自分は《死なない》と思っているのだ。

 龍麻は違う。どれほど訓練を積み、常人とは違う戦闘力を備えようとも、常に《死》は自分のそばにいる。その死の誘惑をいかに振り切り、生を掴み取るかは、現実に対する認識と己の能力に対する正しい信頼、そして、引き際を見極める事が必要不可欠なのだ。

「自分が三〇秒だけ時間を稼ぐ! その間に出口に向かって走れ! これは命令だ!」

 頭ごなしに怒鳴るその言葉に、京一が激発した。

「なに馬鹿な事言ってやがる! あの数をお前一人でどうこうできる訳ねェだろうが! お前だって、背中に目が付いている訳じゃあるめェ!」

「あの数ではとても防ぎきれんぞ。だが俺なら、盾になる事もできる!」

 続いて、醍醐が太い声で言う。

「ボクだって、援護射撃くらいできるよ!」

 矢を番え、小蒔も叫ぶ。三人とも、既に闘うと決めている。傷付かなければ、死ななければ、この現実を認識できない。しかし、言葉ではどうあっても彼らを追い返す事はできまい。

「駄目だ」

 龍麻は断じた。

「緋勇!」

「当初の目的は達成されていない。従って美里と遠野の脱出援護を行いつつ撤退する。…葵殿! アン子! 合図をしたら全速で脱出! 残りはこの場で交戦! 一〇秒後に後退! 一〇秒間隔でこれを繰り返す! 自分は右翼に付く。京一、左翼に付け! 小蒔は後方から支援射撃開始! 醍醐は撃ちもらしを掃討! 小蒔をガードしろ!」

 皆一角の戦闘技術を身に付けた者たちだ。しかし彼らは競技者であって、兵士ではない。それでも、一人の死傷者を出す事なくこの場を切り抜けるには、自分が指揮を執るしかなかった。それが吉と出るか凶と出るか。残念ながら、結果は終ってみなければ分からない。

だが彼らは、龍麻の指揮に即座に応えた。

「よっしゃぁ! 行くぜ!」

「行くぞ!」

「ボクだって!」

 そして、戦闘が始まった。





「やあっ!」

 小蒔の気合一閃、矢が赤い光の一つを貫いた。ギイッと断末魔の叫びを上げ、床に落ちていく。

「コウモリ!? 赤い光の正体はコウモリだったのか!」

「今だ! 走れ!」

 醍醐の叫びに、龍麻は反応を示さない。敵の正体など、必要な情報以外は関係ないのだ。コウモリが集団で人を襲うという事実も、異常なほど長く鋭い牙も、そのような形態を備えているというだけの事であって、さしたる問題ではないのだ。

「来るよ! 緋勇クン!」

 小蒔が矢を番え、放つまでの間に、数十匹に及ぶコウモリが龍麻と京一、前衛の二人に襲い掛かってきた。接近すると、その異常な大きさが良く分かる。一般的なコウモリは翼長こそ長いが、体長はせいぜい一〇センチ足らず。血を吸う事で有名なチスイコウモリも同程度だ。だがこのコウモリは体長四〇センチ以上に加え、生物的整合性を欠く異常に長い爪と牙を有していた。このサイズのコウモリは東南アジアに生息するフルーツオオコウモリがいるが、彼らはその名のごとく、完全に草食である。

「破ッ!」

「でりゃあ!」

 龍麻は掌打で、京一は基本の上段斬りで次々にコウモリを撃墜する。だが相手の数が多いため、決して優勢とは言えなかった。龍麻は南米でチスイコウモリの群れによる襲撃を経験済みだが、京一は飛び回る目標を相手にするのは初めての上、囲まれているプレッシャーから狙いを絞りきれず、必殺の一撃を加えられないでいる。また、何も前衛の二人にこだわる必要はないと、二人の間を擦り抜けるコウモリが醍醐と小蒔に襲い掛かる。あまり接近されると、当然、弓の狙いは付けにくくなり、また、狙いを定めている最中は京一以上に無防備になる。醍醐はそんな彼女を精一杯庇いつつ闘うが、技自体が力に頼った大振りなものが多いので、超音波で三次元空間を把握できるコウモリには三発に二発はかわされてしまう始末だ。

 分隊としてのバランスは長距離、中距離、短距離、接近戦のできるメンバーが揃ってはいるのだが、内三人は戦闘の素人である。解っていた事ではあるが、たちまち一同は劣勢に立たされた。

「後退しろ!」

 最初の十秒が過ぎ去る。龍麻はともかく、他の三人は生きた心地のしない十秒であった。前衛の二人は醍醐の撃ちもらしを撃墜しつつ、醍醐と小蒔の後ろをややペースを押さえ気味に走る。小蒔の弓を有効に使うためには、前衛の二人は囮の役目も果たさねばならないのだ。

「反転しろ! 小蒔! 矢がなくなるまで連射しろ! 矢がなくなり次第、戦闘離脱! 脱出しろ!」

「ええッ!? でも…!」

「次はない! 逆らうな!」

「ウッ、ウン!」

 彼女としては到底納得できないだろうが、矢の尽きた弓師は戦場ではお荷物になる。近代戦における、戦闘機と攻撃機の違いだ。遠距離支援がなくなるのは痛いが、京一と醍醐をセットにすれば、決してチャンスがない訳ではない。しかし――

「みんな、大丈夫!?」

 ここには有り得ぬ声に、龍麻は激しく動揺した。

「あ、葵! どうして!?」

「だって、みんなが闘っているのに私だけ逃げるなんて…!」

 だから、来たというのか!? わざわざ足手纏いになりに!

 一瞬とは言え、そちらに気を取られたのは致命的であった。

「やべえ! 美里! 小蒔! 逃げろ!!」

 前衛の二人が手強いため、距離を取って残っていたコウモリは、新たに現れた少女の方が狙いやすいと見て、一斉に二人を飛び越えて葵と小蒔に襲い掛かった。この暗がりの中、ただでさえ真神の女子制服は目立つのだ。

「キャアアッッ!」

 一斉に飛び掛かる、鋭い牙の群れ! 二人の少女はもっとも無意味な行動、抱き合ってその場にしゃがみこんだ。

「――ッッ!!」

 だが、予想に反して激痛が襲ってこないので、二人は恐る恐る目を開けた。

「あ…あ…!」

 後は、声にならなかった。

 そこに立っていたのは、腕といわず足といわず、巨大なコウモリを絡み付かせた転校生だった。食い破られた皮膚から血が滴り、古ぼけた床に飛び散る。

「よそ見をするな!」

 生物の牙に皮膚を破られるという、とてつもない激痛が全身を襲っているだろうに、龍麻の怒声は少しも揺るぎ無かった。

「京一! 醍醐! 壁を背負え! 攻撃を前面に集中し、一匹づつ確実に仕留めろ!」

 そう叫び様、龍麻は大きく横っ飛びし、ガラス窓を突き破って教室内に飛び込んだ。

「なッ…! 緋勇!!」

 大量の血の匂いに引かれ、残ったコウモリの大部分が彼を追って教室内に飛び込む。そのため、京一と醍醐を襲っているコウモリは僅かに四匹だけになった。即座に京一が木刀を振り下ろし、醍醐がパンチを繰り出して残ったコウモリを叩き落とす。

「緋勇くん!」

 美里と小蒔、京一と醍醐が教室を覗き込んだのは、ほとんど同時だった。その瞬間、教室内で炎が渦を巻いて走った。龍麻を取り囲んでいたコウモリの群れは一瞬にして炎に巻かれ、その全てが焼き尽くされた。

「《巫炎》…。実戦使用は初めてだが、うまく行ったな…!」

 その瞬間、龍麻はクラッと意識が飛びそうになった。大量の出血に加え、《気》のイメージを炎と変えて打ち出す徒手空拳《陽》の奥義の一つを繰り出した事による急激な《気》の消費のせいだった。  そのため、その教室内に潜んでいたものに気付くのが遅れた。

「あぶねえ、緋勇――ッ!!」

「ッッ!!」

 この世のどこにこれほどのものが存在するのかという、超巨大なコウモリ。醍醐の巨体にコウモリの羽根を取り付けた、まさしく怪物であった。そのネズミのような口がかっと開いた瞬間、龍麻の全身に焼け付くような衝撃波が襲い、彼は机を巻き込みながら弾き飛ばされた。本来は位置把握のために使われるコウモリの指向性超音波を、より指向性を高める事で攻撃手段とした殺人音波であった。弱っていた龍麻に、この攻撃は強烈すぎた。

《ギキイッ!!》

 コウモリが鳴き声を上げる。京一以下、三人はコウモリが笑うのをはっきりと目撃した。人間の言葉に直せば、《死ね》と言ったのだろう。巨大な翼をはためかせ、龍麻の真上に舞い上がる。獲物に襲い掛かるスピードはまさしく猛禽。異常発達した二本の牙が龍麻の肩口に食い込み、鮮血が飛び散る。

「緋勇君!!」

 血相変え、葵が叫んだ。京一も、醍醐も、小蒔も。

「…図に乗るな」

 制服の内側から飛び出した龍麻の手が、青い鉄の輝きを掴んでいる。その先端がコウモリのこめかみに押し当てられ、そして――



 TAN! TAN! TAN! TAN!



 小口径ピストル特有の、乾いた銃声が鼓膜を叩き、蝙蝠のこめかみに小さな穴が空き、側頭部が破裂するように血を噴き上げた。龍麻の愛銃コルト・ウッズマン。マン・ストッピングパワーにおいて最低の二二ロングライフル弾でも、どんな生物にとっても急所であろう頭部に弾丸を集中されては、いかに大型のコウモリといえどひとたまりもなかった。

「…無事か?」

 巨大コウモリの残骸を押しのけ、龍麻が立ち上がる。

 そう百回も聞かれるべきは、龍麻の方であったろう。直接戦闘をした京一と醍醐にしても、手足に少々の切り傷を負っただけで、それこそ《舐めておけば治る》程度のものだ。しかし龍麻は手足の肉を食い破られ、ドクドクと鮮血を垂れ流しにし、超音波による衝撃は全身打撲に匹敵した。まさしく満身創痍である。

「お、お前…どうしてそんなものを…! い、いや、とにかく血止めしなけりゃ…!」

「そ、そうだぞ龍麻! き、気を楽に持て!」

「ひ、緋勇クン…!」

「……!」

 得体の知れない巨大な怪物を倒した、負けず劣らず正体不明の、全身を朱に染めた、日本では違法であるピストルを手にする少年。京一たち四人が混乱するのも無理はなかった。目の前の現実認識すら正しくできていなかったのに、この異常事態を正しく認識しろと言う方が無理なのだ。

「お前たちこそ落ち着け。敵の殲滅は完了した。後は速やかに脱出するのみだ。早く行け」

 そう告げると、手近にあった椅子を引き寄せ、龍麻は息を吐きながら腰を落ち着かせた。左腕はかなり手酷くやられたせいか、動かない。それでも右手だけで器用に制服を脱ぎにかかる。夜目にも鮮やかに、彼のワイシャツは真っ赤に染まっていた。

 それを見て、やっと胸の動悸を押さえた葵が彼に近づいた。

「…何を見ている?」

 葵の凝視に、龍麻はワイシャツを脱ぐ手を止めた。

「傷を…診せて。緋勇くん…」

「拒否する。…触るな」

 龍麻はウイスキーフラスコ(!)を取り出して一口含み、ぱっくりと開いている傷口に吹き付けた。かなり沁みて痛い筈だが、僅かに頬を引き攣らせるだけで、声も立てない。恐ろしく我慢強い男だ。

「緋勇君…」

「触るなと言っている!」

 ぴしりと鋭い声に、葵が固まった。元々、彼がこれほど大怪我をしたのは、ただでさえぎりぎりの闘いの渦中に、直接戦闘手段をまったく持たない彼女が乱入してきたからである。もし彼女が現れなければ、あるいはあのまま作戦通り、せいぜい軽い傷を負ったくらいでコウモリを退けていたかもしれないのだ。

 だが龍麻は、その事を責めているのではなかった。

「獣の爪や牙、唾液などには大量の雑菌が含まれている。それに対する専門知識が君にあるか? ましてこれは、未知の生命体が付けた傷だ。その対処法など、誰にも分かるものではない。接触感染性の細菌がいるかも知れんのだ」

「でも…」

「分からんのか? 素人療法は危険だと言っているのだ」

 わざと冷たく言い放つが、むしろその言葉に京一と醍醐が反発する。

「緋勇、幾らなんでもそりゃ酷ェぞ。大体お前、左腕が動かないくらい重傷じゃねぇか」

「美里だって親切で言ってるんだ。専門知識がなくとも、サポートくらいはできるのではないか?」

 京一と醍醐が非難の言葉を口にするが、やや低姿勢なので説得力には欠ける。やはり、倒した怪物以上に、ピストルを携帯し、自分の大怪我さえも自分で治療すると言う龍麻に畏怖を感じずにはいられないのだ。

「必要ないと言っているのだ。それとも、自分が恐ろしいか? 余計な事を知ったために、自分に殺されるとでも?」

「なっ…!」

 ある意味、図星を刺されたかもしれないという思いが、特に京一と醍醐の胸を刺した。

 龍麻が転校してきて僅か三日。その間に、彼に抱いていた印象は《変な奴》だった。やる事為す事、言う事まで軍人かぶれで、そのくせ、ただのオタクとは思えないほど強く、頭の冴えも水際立っている。それこそ、醍醐が倒された際に冗談めかして言った、《どこかのスパイじゃねえか》が、凄まじい説得力を持って襲いかかってきたのだ。映画やコミックじゃあるまいし、と理性では否定するのだが、ではこの現実はどうだ?と問い返されると、何も考えられなくなる。

「…《悪い夢を見た》で済ませられるのなら、自分はお前たちに手出しはしない。無意味な事だからな。何もかも見なかった事にしろ。自分の正体を知ったら、後戻りできなくなるぞ。判ったら、早く――」

 その時、葵がすっと手を伸ばし、龍麻の腕に触れた。

「自分に触るなと…ッッ!?」

「み、美里…?」

 葵を覗く全員が、龍麻でさえもそれを凝視した。

 葵の手に軟らかな光が満ち、薄闇を照らし出す。それだけでも驚嘆すべき光景だったが、その後はもっと凄かった。見るも無残に爆ぜ割れ、出血の続いていた龍麻の腕の傷口が、みるみる肉が盛り上がり、血が乾いて剥がれ落ち、元の健康的な皮膚を取り戻したのである。

「ヒーリング能力…だと…? まさか、そんな覚醒が…」

「覚醒…?」

 葵は、自らやった事にもかかわらず、自分の手を見つめて呆然としている。

 驚く一同をよそに、龍麻は続けた。

「…前から使えたのか? この能力を」

「い、いいえ。でも、なんとなく、こうすれば良いって、何かが頭の中で聞こえて…」

 なんという事だ。自分の時と、まったく同じような現象ではないか。しかし、発現した能力は治癒能力。《霊治》、あるいは《掌治》と言われる能力だ。しかし、いわゆる《気功法》などの研究が進んだ現在、人の手のひらから出ている生体エネルギーが、自分にも、他人にも治癒能力を授ける事が知られるようになって、もはや《奇跡》と呼ばれるような大袈裟なものではなくなった。だが葵のそれは、明らかにそんな能力とは異なる。縫合しても回復に数週間を要するほどの外傷が、僅か数秒で消え去ったのである。まさしく奇跡。

「一体、何なんだよ。お前、何か知っているんじゃないのか?」

「答えてくれ、緋勇。お前の正体が何者であろうと聞かん。だが、美里にこんな力が芽生えたとしたら――!」

 醍醐がそこまで言った時、教室内を異様な《気》が満たした。

「これは!? まさか――!」

 龍麻はウッズマンを手に取った。しかし、それを構える間もなく、左目に猛烈な熱さを覚えて呻き始める。そこを押さえている左手と、長い前髪の間から、ルビーのごとき深紅の輝きが零れていた。

「まずい…!」

 右手からウッズマンが滑り落ち、龍麻は床に膝を付いた。何事が起こったのかと彼を見つめる一同の前で、龍麻の髪が逆立った。長い前髪も、天に向かって逆立ち、彼の素顔を露にする。

「――ッッ!!」

 誰一人、息を呑まないものはいなかった。彼らは見てしまった。龍麻の左眼。鋭利な刃物で斬られたと思しき傷の走る左眼の、眼窩全体がルビーのごとき輝きを放っているのを!

「逃げろ…はや…く…!」

 龍麻がやっと告げた時、京一も、醍醐も、小蒔も、葵までが同時に苦しみ始めた。

「おかしいのは…緋勇だけじゃ…ないらしい…!」

「お、俺たちの体が…光が…!」



 ――目醒めよ



 あの、莎草と闘った時に聞いた声が、頭の中で再び響いた。

(俺だけではない…まさか、全員が…!)



 ――目醒めよ



「ぼ、ボクも…!」



 ――目醒めよ



「ああッ…!」



 ――目醒めよ



「ぬううッ!!」



 ――目醒めよ…目醒めよ…目醒め…目…………・



(いかん…! ここで倒れる訳には…!)

 かつて体験した事のない、強烈な睡魔。訓練の果てに睡眠時間さえ自在にコントロールできるようになった龍麻でさえ、遂に抗しきれずに床に倒れ付した。





 はっと目を覚ますと同時に跳ね起きた龍麻は、素早く周囲に視線を走らせ、差し迫った危険がない事を確認すると、今度は時間を確認した。

 まだ、さほど時間はたっていない。意識を失ってから一五分後の事だった。改めて周囲を見回すと、そこは旧校舎を囲む塀の外側であった。

 自分で脱出した訳ではあるまい。誰かが運び出してくれたのだろうか?だとしてもこんな場所に放り出しておく意図は不明だ。敵であれば、止めを刺してあの場に置いておけば、別のコウモリが骨まで処分してくれる。味方であれば、この場にいないのは不自然だ。

 龍麻は自分の持ち物を確認した。

 床に落とした筈のウッズマンはヒップホルスターにきちんと納まっていた。残弾を確認すると、きっちり七発残っている。しかし危ない事に撃鉄が起こされたままで、安全装置すらかかっていなかった。自分たちを助けてくれた何者かは、銃に関しては素人らしい。

「緋勇…お前…」

「何も聞くな」

 視線が四人分、同時に背中に張り付くのが判った。自分たちを襲った異変の数々。それを知っているのはこの男だと、恐怖と畏怖と好奇心を織り交ぜた視線を送ってくる。

「ここが境界線だ。お前たちは今、日常と非日常の狭間に立っている。自分は既にこちら側の人間だが、お前たちには進むべき道を選択するチャンスがある。…全て忘れろ。今まで通りの日常に戻るが良い。自分が何者か聞くのもなしだ。本来ならば姿を消すのが妥当だが、今回ばかりはそうもいかん。自分はお前たちに何もせん。だからお前たちも、もう自分に関わるな」

「そういう訳にもいかねえだろ、龍麻」

 京一は木刀を肩に担ぎ、彼の名前を呼んだ。

「わかんねェことを考えてもしょうがねえが、とにかく俺達の身には何かが起こった。この先どうなるのか、俺たちにはまったくわからねェ。そして俺たちよりは何か知っていそうなお前が知らんふりと来た日にゃ、全てを忘れるなんて無理だぜ。せめて事情くらい教えてくれよ」

 口調は軽いが、京一は真剣そのものだ。彼には判ったのだろう。もし龍麻と敵対する立場となったなら、素の意味で命を賭して闘わねばならぬ事を。

「聞けば、後戻りはできんぞ。これを見て、良く考えろ」

 龍麻は、前髪を上げた。

「……!!」

 既に判っていた事とはいえ、改めて見せ付けられると驚愕せずにはいられなかった。龍麻の左眼には大きな傷が走り、眼球は白く濁った球体でしかなかった。しかし、龍麻が全身に《気》を漲らせると、それはルビーのごとき真紅の輝きを放ったのである。

「この状態の時、自分の身体能力は人間のそれを超える」

 龍麻は独白するように言った。

「その気になればオリンピックの世界記録を全て塗り替える事もたやすい。そして――」

 龍麻の爪先が、足元に落ちていたコンクリート塊を空中へと跳ね上げた。

 金色に輝く龍麻の掌! 僅かにスナップを効かせるように放たれた掌打が金色の輝きを打ち出し、サッカーボール大のコンクリート塊を原子に還元した。

「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」

 龍麻の掌とコンクリート塊との間は一メートルは離れていた。その空間を繋いだ光は一体なんであったのか、コンクリートであったものは微細というにも当たらぬ塵と化して、消滅したのである。

 古武道には《遠当て》と言われる特殊な打法が存在する。また、中国拳法少林拳には有名な《井拳功》――《百歩神拳》という、遠距離の相手を触れずして倒す技法が存在するという。しかし、龍麻のそれはそのどちらにも当てはまらぬ、異質な技であった。

「…お前たちにも、いずれ理解の及ばぬ《力》が宿った筈だ。だがそれは人本来の能力とは言えまい。この力を与えたものが神か悪魔か知らんが、常人と異なる能力を身に付け、それを行使するとなれば、時として大きな代償を払わねばならん。その覚悟があればよし。全てを忘れるのもよし。だが、《神に選ばれた》などと《力》に溺れた時、自分は速やかにその者の存在を抹消する。――脅しではないぞ。自分は既に何人もの命を奪っている。…良く、考える事だ」

 そう言い残し、龍麻は茫然自失の体の四人を残して歩き出した。

 今回も三日だったな、と、龍麻は自嘲した。やはり自分には、人付き合いというものができないようだ。こちらから折れようとしないためでもあるが、どうも鳴滝の言う《宿星》とやらが、生き急ぐ事を強いているらしい。それが自分に、この東京で何をさせようとしているのか、今はまったく判らないが、どうも自分には選択肢がないようである。ならばこそ、まだ選択の余地のある彼らには、自分に関わって欲しくはなかった。平和な世界では人殺しでしかない、自分とは。

「へッ、良く考えろ、か」

 最初に口を開いたのは京一であった。

「先の事なんか、誰にもわかりゃしねえだろ。そんな事より、今この現実を考えようぜ。龍麻、ラーメン食いにいかねえか?」

「!?」

 自分の正体を一部でも知りながら、まさかそんな言葉をかけてくるとは!?さすがの龍麻も足を止め、半ば呆然と振り返った。

「そんな顔するなよ。別にお前がIMFのエージェントでも忍者部隊月光でも構わねェ。とにかくお前は今、俺たちを始末しようとはしなかった。俺たち自身に選択権があるとも言った。それだけで、俺はお前を信用するに足りる奴だと思ったんだけどよ」

「…その気になれば、お前たちを始末する事などたやすいぞ」

「でも、その気にはならねえだろ。それで充分さ」

 京一はニカッと笑って見せた。その屈託のない、むしろ何かが吹っ切れたような笑顔。身を削る思いで身に付けた武術を、思う存分振るうことができる歓喜と興奮。京一は怠惰で退屈な、しかし平和な日常から、こちら側に来る事を選んだようだった。

「私も…そう思うわ。緋勇君は、怖い人じゃないわ」

 葵も、やや固さは残るものの、花が咲くような笑顔を見せた。

「なぜ私たちにこんな《力》が目覚めたのかはわからない。でも、きっと何かの意味があるはず。あなたといれば、その答えがきっと見つかるはず。…そう思います」

「ボクには難しいことはわかんないけど、緋勇クン、さっきボクたちの事かばってくれたよね? ボク、それだけで君の事信じるよ!」

 「桜井の言う通りだな。人間、口では理想を掲げても、いざ実行するとなると大変なものだ。それにお前には、真っ直ぐな武道家の心がある。お前の拳を受けた俺にも、良く判るよ」

 驚いた。この四人全員が、自分を否定しないとは。

(ミスター鳴滝。これがあなたの言う《人の心》なのか?)

 同じ境遇にあるもの同士の連帯感? 力を得るという異常事態に遭遇して道連れを求めた?

 そうではないだろう。彼らは、彼ら自身で道を決めた。いまだ現実認識には足りないが、少なくとも前に進む事は決めてみせた。少なくともそれは、賞賛に値するだろう。

「揃いも揃って、バカな餓鬼どもだな。どんなに退屈だとしても、平和なのが一番良い筈なのだが」

 言葉そのものは馬鹿にしているようだが、その根底には暖かい響きがある。今までになかった事だ。少なくとも、三ヶ月前までは。

「自分が教えられるのは、戦い、生き残る術だけだ。その果てにあるものは地獄かも知れない。それでも、いいのだな?」

 念を押す問いに、全員が頷いた。力強く。

「ならばお前たちは《戦士フェダイーン》だ」

 かつて自分を鍛え上げた教官の言葉を、龍麻はそのまま彼らに告げた。そして自らが最も誇りとする、左肩に刻まれた紋章エンブレムを露にする。

「元アメリカ陸軍対テロ特殊実験部隊《レッドキャップス》ナンバー9、緋勇龍麻だ。よろしく頼む。…ただし、俺を番号で呼ぶな。呼んだら…殺す」

 最後のところだけ、本物の殺気を込めて言う龍麻に、全員の肌は粟立った。しかし龍麻が、本来ずっと秘すはずだったであろう秘密を自ら口にした事で、自分たちもまた、信用された事を実感し、笑顔を見せることができた。

「判ったよ。だが、なんて呼べばいい? 名前呼び捨てか? それとも、《ひーちゃん》か?」

 自己紹介の時、教室全体を静まり返させたあだ名である。しかし龍麻は、

「それはほとんど記憶のない幼少時の呼び名だ。それでも使いたければ俺は構わん。」

「それじゃボクは《ひーちゃん》って呼ぶよ。でもさっき、ひーちゃんもボクの事、《小蒔》って呼んでたよね? ボクの事もそっちで呼んで欲しいな」

「了解した。《小蒔》」

 そう呼ぶと、小蒔は非常に嬉しそうな顔で笑った。

「俺も《京一》でいいぜ。なあ、ひーちゃん?」

「了解した」

 ちょっとからかう口調で呼んでみたのに、さらっと無視される。この歳で元軍人というのはいささか現実離れが過ぎているが、この歳で《ひーちゃん》と呼ばれて動じぬ男だ。そのくらい、当然かもしれない。

「俺は、好きなように呼んでくれて構わないぞ」

「では、《雄ちゃん》と行こう」

 どう見てもふざけているとは思えない生真面目な顔で言うものだから、醍醐以外全員が吹き出した。言った本人は何がおかしいのかと首を傾げているのも笑える。

「た、龍麻。それはちょっと止めてくれ」

「なぜだ? 故人だが、有名な俳優と同じ語感だ。《嵐を呼ぶ男》だぞ」

「と、とにかく止めてくれ。醍醐でいい…」

 何がいけなかったのか、なぜ皆が笑うのか、と龍麻は考え込む。この男の思い切り外すギャグセンスを忘れていたのは、醍醐にとって致命的であった。

「良い呼び名だと思うが、仕方ない。了解した」

 良いのか!? 本当にそう思っているのか!? と、京一も小蒔も、葵までがツッコミを入れたかったが、そのセンスが自分にまで飛び火する事態を恐れて皆黙っていた。

 だが一人、肝心の少女が残っていた。

「あ、あの、私は…」

「よろしく頼む。生徒会長殿」

「あ、あの…」

「生徒会長とは、生徒を総括する代表者だ。軍隊なら大将に相当する。そんな重大な役職についている者を気安くは呼べん」

 他の者に対した時と違って、龍麻は直立不動である。ピシッと一分の隙もない敬礼をする。何か急に隔たりを感じて、葵の目に哀しさが揺れた。

「もう! ひーちゃん! いくら生徒会長だって言っても、葵だって普通の女の子なんだぞ!」

「何か、いかんのか?」

 小蒔に詰め寄られて、龍麻が少しうろたえる。こういうところは並みの高校生…以下である。精神の成長する思春期を血と硝煙の中で過ごした者が、《普通》の人間関係がどういうものか、理解するのは難しい。転校前の友人とも、僅か三ヶ月の付き合いだった。それでも《親友》と呼んでいい彼と彼女には、自分との連絡手段を教えてあるのだが。

「いいから、普通に呼んでやれって。なあ、美里? 何ならいっそ、名前で呼んでもらうか? 美里のコト名前で呼ぶ男なんていねえだろ。ひーちゃんが第一号ってコトで…」

「わ…私は構わないけれど…」

 言葉は濁したものの、満更でもないのか、葵は頬を染めている。京一たちどころか、親友である小蒔にしても、そんな葵は初めて見た。

「了解した。葵…殿」

 それを聞いて、再び京一たちはガクッとなった。

「あのな! 時代劇じゃねえんだ。殿はいらねえ、殿は!」

「いや、しかし…自分にとってはこれが限界だ。責任ある立場にいる者には敬意を払う。当然ではないか」

「でも、だからってさあ…」

 京一と小蒔がなおも反論しようとした時、それを当の葵が遮った。

「小蒔、京一君も。私は龍麻君が慣れるまでそれでいいわ。何かこう…懐かしい感じがするし」

「懐かしいィ? 美里、お前、江戸時代の人間かァ?」

 京一がおどけて言うが、葵はニコニコ笑うだけだった。

「いいじゃないか、京一、桜井も。美里自身が気に入ったのならな。それでは龍麻、これから、よろしく頼む」

「うむ」

 龍麻は小さく、しかし力強く頷いた。

 何かが変わろうとしている。龍麻はそれを肌で感じた。東京に行けと言われた理由は知らず、しかし自分の来訪に合わせたかのように、《力》の覚醒を見た四人。まるで計画されていたかのような出会い。龍麻はいわゆる運命論者ではない。自分が誰かの操り人形などとは考えない。もしそうならば、自ら糸を切って舞台に落ちる。そして、どれほどの徒労に見えようともあがきつづけ、いつかは自身の力で立ち上がる。

(仲間…か。なにやら照れくさい。)

 そう思いつつも、龍麻の心は何か温かいもので満たされていた。

「さあさ、いつまでもこんな所に突っ立ってないで、ラーメン屋行こうぜ、ラーメン屋」

「今度は京一のおごりだからね。言い出しっぺなんだから」

「なにィ!? ふざけんな! 俺は男にゃおごらねえ主義だ」

「ボクは、女だ!」

「こらこら、よさないか二人とも」

 …………

(いいのだろうか? これで?)

 若干の不安を感じた龍麻であったが、金鈴を震わせるような声が傍らで言った。

「行きましょう。龍麻君」

「了解した。葵…殿」

 先の事は後で考えればいい。今までの自分なら絶対にしない事だが、龍麻は今だけはそれでも良いかなと考えた。

「何してんの、早く行こうよー」

 小蒔の元気な声に誘われ、龍麻は足を速めた。





 五人が立ち去った後の旧校舎前に、ふらりと一人の男が現れた。

 よれよれの白衣を着て、口にひん曲がったタバコをくわえている。

「因果は巡る…か」

 男は述懐するように呟いた。

「お前と再び遭う事になろうとはな。お前たち…今度はどのような道を歩む?」

 誰一人、この言葉を理解しうるものはいないが、空で青く輝く月だけは、あの時と同じだなと、真神学園生物教師、犬神杜人は思った。





 第弐話 怪異 2    完



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