第弐話 怪異 1





 
(急がねば…)

 終業のホームルームが終わると同時に、緋勇龍麻ひゆうたつまは相変わらず機械のごとき正確さで教科書類を鞄に詰め込み、急いで席を立った。

 しかし、机に椅子を収納するほどの余裕もなく、軽い声がかけられる。

「よぉ、緋勇」

蓬莱寺ほうらいじ、自分は今忙しい」

 これが他人であれば、実も蓋もない言い方であったろう。しかし既にこの男は、龍麻がそういうしゃべり方をする人間だと心得ている。ついでに龍麻のボケっぷりと、思い切り外すギャグセンスも。

「…なんか急いでるみてえだな。大したこっちゃねえ。一緒に帰らねェか? うまいラーメン屋があるんだよ」

「ラーメン…。あのコレステロールと塩分が多そうな食べ物か。あまり食指は動かんが…」

「…なんかお前が言うと、凄まじく健康に悪そうな食い物に聞こえるな。よッしゃ! 俺がお前にラーメンのうまさを教えてやる!」

「自分はまだ承諾していない」

「カーッ! 固いコト言うなっての! あんなうまいものを知らないなんて、一生を棒に振るようなもんだ!」

 抗議むなしく、ズルズルと引きずられていく龍麻。何かを観念したらしい龍麻は、長距離可能な衛星電話とラジオ、電子手帳などをチェックする。そんな二人の前に、もう一人の壁が立ちはだかった。

「ひ・ゆ・う・くーん! 一緒に帰りましょー!」

「その申し出は拒否する」

 襟首を掴まれたまま答える龍麻。しかし龍麻の冷たいと言える返事にも、その妙な格好も新聞部部長遠野杏子、通称アン子を怯ませるには足りなかった。

「なによお! 冷たいわねえ。昨日の一件のコトだってあるんだし、取材させてよ」

「では聞きたいのだが、その昨日の一件の事、なぜみんなが知っているのだ?」

「うッ…それわ…」

 明らかに動揺するアン子。

「この教室における目撃者は八名。それ以外に事件の事を知っているのはこの蓬莱寺、醍醐、生徒会長殿の三人だけだ。いずれも情報漏洩の可能性は低く、また、情報展開の早さからして、情報源は君以外にありえない。なぜそのような事を?」

「だ、だって、久しぶりに血沸き肉踊る事件だったし…」

 マスコミにとって他人の騒動は飯の種。アン子にもそれはきっちり当て嵌まるらしい。

「おかげで生徒たちからは暴力人間との風評が立ち、今日一日質問攻めにされた。教師陣にも呼び出され、叱責を受ける羽目にもなった。生徒会長殿に報告したのは自分の身を案じてくれたからだろうが、その後の顛末においては伏せておいて欲しかった。今日はまる一日、落ち着いている暇がなかった」

「ゴ…ゴメン…」

「反省しているのならば良し。ただし、次回は検閲するぞ」

 おお、と京一は龍麻の言葉に喝采を送り、すぐに考えを改めた。アン子の情報収集力に恐れをなした者たちが今まで何度となく反抗作戦を展開していたが、いずれも玉砕の憂き目を見たばかりか、弱みを握られている事で無理難題を吹っかけられても逆らう事ができないという有様なのだ。いずれ龍麻も、アン子の恐ろしさをその身で体験しかねない。

「それで、何か用があるのか。目下のところ、蓬莱寺に拉致されている身で話しか聞けんが…」

 一転して、アン子の顔がぱっと輝く。

「そうそう! それよそれ! 昨日は佐久間に邪魔されたけど、一緒に帰ろ。こうなった以上、やっぱりいろいろ聞いておきたいし」

「却下」

 こう答えたのは、龍麻ではなく京一だった。龍麻の口調が移ったらしい。

「俺たちはこれからラーメンを食いに行くんだよ」

「何よ。京一、いたの?」

「いたの? じゃねえよ。俺たちがラーメンを食いに行く事は既に決定事項だ」

「ナニ緋勇くんの口真似してるのよ。大体あたしの取材とラーメン、どっちが大事だと思ってるのよ!」

「ラーメン!」

 間髪入れないとはこの事だろう。そしてここまで言い切れれば立派だ。さすがのアン子もとっさに言葉が出てこない。

「…こういう次第だ。ラーメンなるコレステロールと塩分が溜まりそうな料理を口にするのは本意ではないが、何事も経験だ」

 龍麻にまでそう言われては、アン子も不承不承頷くしかない。今日一日の龍麻の気苦労の原因を作ったのは自分だと、多少なりと反省しているのだ。

「いいわよ、いいわよ。男二人でラーメン屋で寂しくデートでもしてなさいよ」

「へへっ、わりぃな、アン子。腹いせに下級生とか襲うんじゃねえぞ」

 京一が言い終わるか終わらぬかという時、アン子の手から風を切って何かが飛来してきた。しかし龍麻はその軌道が自分には向いていないのでじっとしていた。

「ぐわッ!」

 飛来物が京一に直撃する。音は軽いが、かなり痛そうだ。ついでに、ぶつかった衝撃で粉が舞い散り、京一はゲホゲホと咳き込んだ。

「うーむ。黒板消しにあのような用法があるとは…」

 敵に対する打撃と同時にガス(チョークの粉)による幻惑も行う。このシステムは使えるなどと、呻く京一をほったらかしにしてなにやら一人納得する龍麻である。

「ははは、見ていて飽きないな、お前たちは」

 野太い笑い声がかぶさるように降ってくる。

「醍醐か…見てたんなら止めろよ。見ろ、でけェコブができちまった」

「悪い悪い、あんまり面白いんでな」

 豪快に笑う醍醐に、京一は恨みがましい目を向けた。

「それよりなんでこんなトコにいるんだ? 部活はないのか?」

「それを言うならお前も同様ではないか、蓬莱寺。お前も部長殿だろう?」

 そうなのだ。この二日の間に龍麻が名前と顔を一致させた人間は、みんなそれなりの肩書き持ちなのである。

「ああ、ちょっとな…。京一、ちょっと緋勇を借りていいか?」

「いくら出す?」

 昨日も佐久間にこれを言ったとは、京一も醍醐も知らない。また彼のボケに付き合わされてはかなわないと、京一も醍醐も本人を無視して話を進める。

「ははあ…さてはお前、昨日最初から見てやがったな?」

「何のことだ?」

 醍醐はそらっとぼけた返事を返すが、口元の笑いは消せない。ニヤニヤ、ニタニタ。醍醐のような巨漢でいかつい顔立ちの男がやると、結構気持ち悪い。

「ちッ、相変わらず嘘の下手な奴。お前がそうやってニヤニヤニタニタ変な顔をしているのは、プロレス中継を見ている時か、嘘を付いている時しかねェだろうが」

 京一は龍麻の肩に手を置いて続ける。

「大方、俺と佐久間が闘り合うのを見るつもりだったんだろうが、コイツが一人で全員片付けちまった上、見たことのねえ技まで使いやがるから興味を持った…と、そんなトコだろ」

「驚いたな。そこまで判っているとは。しかしそこまで頭が切れるのに勉強は最悪なんだ?」

「最悪とはなんだ、最悪とは! せめて、思わしくないとか、芳しくないとか…」

(彼らはいつまで続ける気だ?)

 一人所在なげに、時計と睨めっこをしている龍麻に、ようやく醍醐が向き直った。

「と、いう訳だ。緋勇、少し付き合ってくれないか?」

「拒否する」

 即答であった。考えての返事ではない。

「自分はこれからラーメンなるものを食する所存だ。そして自分には時間的余裕がない。これ以上の予定外の行動はリスクが大きい」

「…別に佐久間の敵討ちという訳ではないぞ。俺は純粋にお前と闘いたいだけだ」

「それではなおさらいかん。自分が身に付けている格闘術は、スポーツのそれではない。昨日はうまく行ったが、そういつまでも手加減できるものではない」

「なッ…!」

 昨日のアレで、手加減をしていたと言うのか? ナイフで武装した不良と、佐久間を相手に!?

 これは面白い。醍醐はふつふつとこみ上げる喜びに、こう言っては悪いがますます気色悪く頬を緩ませた。その言葉が真実であるなら、もしかしたら自分さえも圧倒するかもしれない。いや、するだろう。しかしこの湧き上がる闘志はどうだ? 背筋に寒いものが走っているのに、肉体が喜びに打ち震えている。

「大して手間は取らせないつもりだ。ラーメンも俺が奢ってやる。とにかく、来てくれ」

「――しゃあねえなあ。緋勇、こうなったら醍醐はしつけェぞ、あきらめて付き合ってやれよ」

 実のところ、京一も龍麻と醍醐の勝負に興味がない訳ではない。いや、むしろ見てみたい。真神の総番長、醍醐雄矢。この緋勇龍麻と闘ったら、どうなる!?

「考え直せ。何も得はないぞ」

「ラーメン一杯ただで食えるチャンスじゃねえか。付き合えよ」

 自分の言葉が度重なる醍醐への挑発になっているとも知らず、龍麻は訥々と抗議したが、京一に襟首をつかまれて引きずられていってしまった。

 さて、今回は醍醐が龍麻に話し掛けた事で、クラスに残っていた同級生たちはさほど緊張する事もなく、彼らの話に耳を傾けていた。そして今度は噂の転校生対真神総番長というスペシャルマッチが成立したとして、賭けまで始まった。醍醐ならば、たとえ勝ったとしてもやりすぎる事はないので、それほど心配する事態にはならないという考えである。佐久間を倒した事により本人の承諾なしに発足した《緋勇ファンクラブ》なる女子の集団も賭けに加わり、本人たちの預かり知らぬところで異様に盛り上がる。

 しかし彼らは、後に知る事になる。緋勇龍麻という男が、自分たちの常識では測れぬ男である事を。





「うむむ…」

 レスリング部の部室に足を踏み入れると、春だというのにむっとするほどに熱気のこもった空気が龍麻を襲った。レスリング部ということだったが、部室中央に四角のリングが設置され、トレーニング器具もバーベルやダンベルに混じってサンドバッグやキックミットなどが用意されているところから、むしろプロレス部と言った方が近いのではなかろうか。窓を締め切ってトレーニングするのは、わざと熱気をこもらせて汗を出しやすくするためで、プロレス道場やボクシング・ジムでは当たり前に行われている。

 ただし、熱気はこもっているものの、部室内に人影はなかった。

「何だよ。他の部員はいねェのか?」

「ああ、昨日、佐久間たちが歌舞伎町で他校の生徒とモメてな。相手が入院するほどの怪我をしたらしい。ウチの学校からはまだ何も言われていないんだが、向こうの学校のPTAからいろいろと苦情が来ているらしい。だから謹慎の意味もこめて自主的に休部中だ」

 ゲ…と京一はチラッと龍麻の方を見た。図らずも昨日、龍麻が言った通りの結果になってしまった訳だ。

「ンなモン、ばっくれちまえばいいじゃねえか」

「ははは、そういう訳にもいかんだろ」

「ちッ…カタブツが。それにしてもあのバカ、アレだけやられておきながら良くそんな元気があったもんだぜ」

 そこまで言って、京一は慌てて口をつぐんだ。

「半端な力を誇る者はいずれ自分の身を滅ぼす。やはり、あの場で止めを刺しておくべきであった」

 冷然と龍麻が呟く。ただしそれは醍醐を責めている訳ではなさそうだ。止めを刺さなかった自分の不甲斐なさに腹を立てているような、どこか奇妙な感じである。

「緋勇…。確かにお前の言った通りになってしまったようだ。しかし、やはり俺は、あの場でのお前の行為は認められない。一人の強い人間の思惑で他人の一生が左右されるなど、あってはならない事だと思う」

「自分はこの瞬間、貴重な時間を浪費させられているが?」

 これが嫌味でないというのは、ある意味凄いのではなかろうか。龍麻は事実しか述べていない。好意も悪意も、およそ自分の感情というものを表に出さないのだ。それも、かなり徹底して。

「その件に関しては先に謝っておこう。ところで、京一…いつまでここにいるつもりだ?」

「カーッ、そこがカテェって言うんだよ。いいじゃねェか、別に」

「出て行けと言われて出て行くお前でもないか。仕方ない。手は出すなよ」

「誰が好き好んでバケモン同士の戦いに手ェ出すかよ。それにしても醍醐、また顔が緩んでるぞ。こいつと闘うのがそんなに嬉しいのか?」

「ああ、こんな怪物と闘えるなんて滅多にないからな。自然と頬が緩んでくる」

「野生の豹は――」

 龍麻が口を挟んだ。

「獲物の間近にまでうまく忍び寄れると、嬉しさのあまり尻尾を振ってしまい、獲物に気付かれてしまう事もあるそうだ」

「うん? 何の話だ?」

 醍醐がそう言って龍麻に向き直った時であった。醍醐の視界一杯に、黒い鞄が迫っていた。

「なっ――!!」

「うっ!!」

 一瞬。まさに一瞬の出来事であった。醍醐と京一が空中の鞄に気を取られた瞬間、矢のように飛び出した龍麻が醍醐の背後を取り、その首筋にナイフを突き付けていたのである。

「…これで、君は死んだ」

「――ッッ!!」

 極めて自然な口調で、龍麻は言った。

「俺の言う闘いはこういうものだ。卑怯でえげつないと言いたいだろうが、俺の戦場においてフェアプレー精神はむしろ悪徳なのだ。…君の負けだ。理解したか?」

「あ…ああ。しかし――」

 龍麻がナイフを下ろすが早いか、醍醐は強烈なフックを振り向き様に放った。龍麻は流れるような動作でそれをかわす。

「俺が目指す《真の武道家》に近付くためには、どうあってもお前と闘わねばならん!」

 醍醐がプロレスで言う《手四つ》に構えたのを見て、京一はうおっと飛びのいた。

 それは、醍醐の本気の構えだった。今までにニ度闘い、一勝一敗している京一だけはその恐ろしさを知っている。もともと醍醐が得意とするのは打撃系の技であり、レスリング部に入ったのは、肉体を頑強に鍛え上げる設備が充実している事と、プロレス流の闘い…組技と打撃技の連携にこそ最強への道があると信じているためだ。そんじょそこらの不良相手なら、単純なパンチやキックだけで片を付ける。しかし強敵相手にしか使わぬ《掴んでからの打撃》をする構えが、この《手四つ》なのだ。

「武道家か…そう言われると弱いな」

 龍麻はナイフをポケットにしまうや、ひらりとリングに上がった。

「君も上がれ。武道家としての君ならば相手になろう」

 一体どこにその判断基準があるものか、あれだけ闘いを渋っていた龍麻が自ら手招きする。醍醐はやや拍子抜けしながらも、いや、これこそ油断ならぬと気を引き締めてリングに上がった。





「…ルールは?」

 互いにリングの対角線上…コーナーに付き、龍麻が口を開いた。

「武器以外は基本的に何でもありにしよう。相手の戦闘不能、もしくはギブアップで終了だ」

 そう醍醐が告げると、京一がリングの下から口を挟んだ。

「俺が審判をやるぞ。俺が《止め》といったら止める事。それと、相手に致命傷やら後遺症を与えるような攻撃は極力なしだぜ。眼突きや金的攻撃、鼓膜破りは厳禁だし、関節を砕くのもいかん。それ以外に関してはまあ、何をやっても良い」

 珍しく真剣な京一の声を聞いているうちに、醍醐の頭はすうっと冷静さを取り戻していた。

 この男が振るう技は、いわゆるスポーツ化された武道のそれではない。あの《掌打》一つを見ても判るように、武術が殺人技と同義とされた時代の危険性を残す《古武道》だ。実践はおろか練習すら、危険な技が多すぎて衰退していった《古武道》の技を使いこなせる男。一瞬の油断が、たとえ京一を審判とした試合形式と言えど、たやすく死を招く事になるだろう。

 だが、今更後には引けない。既にこれはただの腕比べではなく、醍醐の信念をも問われているのだ。強さを求めていった先にあるだろう、胸の中で燻っている痛みの答え。この緋勇龍麻と闘う事で、何かが見える気がする。

「いいな? では、始め!」

 おお! と叫んで醍醐は全身から闘気を発して身構えた。《手四つ》で。





 龍麻は特に構えることなく、醍醐の出方を窺った。

 《用意ドン!》式の闘いにおいては、体重差は重要なファクターとなる。まして醍醐は龍麻の闘いを見ているから、まず油断はするまい。と、なれば龍麻から仕掛けるのは不利である。古武道の闘いにおける《先手》とは、その一撃で相手を死に至らしめるものだ。殺し合いならばそうするが、試合となればどうしても手加減せねばならず、また、中途半端に手加減をすればまず反撃を食らう。従って龍麻は、その場を動こうとはしなかった。

(むう…!)

 傍目にはただ立っているように見える龍麻だが、対峙している醍醐は唸らずにはいられなかった。

 隙だらけのようでいて、どこにも打ち込めない。パンチでもキックでも、入れた瞬間にカウンターを取られそうな気がする。

 醍醐はフットワークを使い、龍麻の周囲を回り始めた。

(マジかよ…!)

 京一にとっても、そんな展開は想像していなかった。もしフットワークを使うとしたら、それは龍麻の方で、ややスピードに欠ける醍醐の攻撃をかいくぐりながら連撃を加えていく。そして醍醐は自らのタフネスで龍麻の攻撃をしのぎつつ、彼を捕まえに行く――そんなところだろうと思っていたのだ。

 だが実際はまるで逆である。巨漢の常で意外とスタミナのない醍醐はフットワークなど使わない方が良いに決まっているのだ。

(背後に廻ってもまるで隙がないとは…! とても無傷で勝てる相手ではないな)

 ならば…と、醍醐は龍麻の最も意表を突くであろう、真正面から重いパンチを放った。

「――ッッ消えッ!?」

 パンチが空を切ったと知った瞬間、醍醐の背筋を氷刃が貫いた。絶望的な思いで振り返る醍醐の視界が塞がれる。龍麻の手であった。

「ぬうん!!」

 あの《掌打》が来る! 醍醐は捨て身の頭突きを放った。龍麻の《掌打》がパワーを開放しきる直前に、頭突きのパワーがそれを迎え撃つ。攻撃の失敗を悟った龍麻はするりと二歩ばかり下がった。醍醐は、頭を押さえて激しく振る。不発だったとは言え、かなり強烈なめまいが彼を襲ったのだ。

(ええい! ままよ!)

「うらあ!」

 雄叫びを上げ、醍醐は丸太のような廻し蹴りを放った。一撃で終わりにはしない。二発、三発と、左右の廻し蹴りを放つ。龍麻が廻り込もうとする時には、左右のフックで牽制し、あるいはローキックで足を止めようとする。醍醐の狙いは、龍麻をコーナーに追い詰める事であった。路上で逃げ回られたらとても追いきれないだろうが、リングは醍醐の戦場だ。なるほど確かに龍麻は路上の実戦ではとてつもなく強いようだが、リングという限定された空間では動きにくいのか、みるみるコーナーに追い詰められていく。

(捉えた!)

 龍麻の背がコーナーポストに当たる。醍醐は両腕を広げ、彼を左右どちらにも逃がさぬようにしながら突進した。龍麻がどんな技を繰り出そうとも、一〇〇キロを越えるタックルを真正面から跳ね返せる道理はない。醍醐は自分の勝利を確信した。

「…いいね」

 その時京一は、絶体絶命の窮地で龍麻が笑うのを見た。次の瞬間――!

 ドゴッゴゥッッ!!

 肉打つ響きとは思えぬ凄まじい打撃音と共に、一〇〇キロを越える巨体が吹き飛び、ロープに叩き付けられてバウンドした。

「ガッ…ハァッ…!!」

 中身をほとんど絞り尽くされた肺が酸素を一気に吸い込み、勢い余って吐き出したかのような呼気を上げた時、醍醐の意識は完全に飛んでいた。

「――ッッ!!」

 声にならぬ悲鳴を上げたのは、それを見ていた京一の方である。

 あの醍醐が、新宿で最強と呼ばれた男、その勇名が東京都全域に轟き、畏怖と尊敬の対象になっている男が、一撃で倒された。《新宿には醍醐がいる》、《真神の醍醐には逆らうな》、《新宿でトラブルを起こすな》と、不良たちの間では生きた伝説と化している男を、一見優男風の軍事オタクが一撃で倒したのである。

 だが、今のはどういう技だ!? と、言うより、そんな動きが人間に可能なのか?

 突進してくる一〇〇キロの肉弾に対して、龍麻もまた、真っ向から突進し、カウンターの前蹴りを醍醐の鳩尾に叩き込んだのである。しかし彼の技はそこで終らず、蹴り込んだ鳩尾を踏み台にして踵の飛び蹴りを醍醐の胸の中央部…壇中と呼ばれる急所に浴びせたのだ。一〇〇キロと八〇キロの肉体が高速で激突する衝撃を二大急所に正確に叩き込まれては、いかに醍醐がタフであっても耐えられる道理はない。龍麻の完全勝利であった。

(なんてヤロウだ…!)

 京一は木刀を握り締めている手が震えている事に気付いた。

 恐怖ではない。興奮と、歓喜だ。退屈で怠惰で、張り合いのない日常を消し飛ばす新風。それがこの男、緋勇龍麻だ。こいつがいれば、絶対に退屈などしない。まるで京一は自分の精神のみか、肉体の全細胞が歓喜の雄叫びを放っているかのような錯覚を覚えた。その、握り締めた木刀までが、喜びに打ち震えるのも。

「蓬莱寺」

 京一の感激も知らぬげに、龍麻はやや焦った調子で言った。

「醍醐の介抱を頼む。済まんが、思わぬ時間を食いすぎた」

「あ…ああ」

 名実ともに新宿一の男を倒してのけた男は、汗の一筋も流さず、息の一つも乱さず、しかし何かに焦りまくって鞄から電子手帳…モバイルコンピュータを取り出し、その画面を見ると血相を変えた。

「それから、意識が戻ったら醍醐に伝えて欲しい。《武道家としての負けではない》と。それなりに手加減はしたものの、本来模擬戦では使ってはならない技だ」

 つまり、あの技は本来、殺人技であるという事か。京一は自然にそれを受け入れた。それでも、龍麻が精一杯手加減した事も。もし龍麻がその気であれば、二撃目の蹴りは醍醐の顎に叩き込まれた筈だ。あの急角度であれほど凄まじい蹴りを食らえば、顎が砕けるどころか、頭ごともぎ取られているだろう。

 そこまで言うと、龍麻は衛星電話を取り出しつつ、足早にレスリング部を後にした。昨日もそうだったが、何やら忙しい身らしい。これほど凄まじい技の使い手なら、それも似合っている気がした。

「ううっ…!」

「醍醐!」

 手前勝手な感激にかまけて、親友の事を忘れていた。京一は慌ててリングに駆け上がり、醍醐のもとに駆け寄った。

「醍醐! 大丈夫なのか!?」

 龍麻があまり注意を払わなかった事もあって、まずは問題なかろうとは思うのだが、何しろあんな技を食らった醍醐だ。真剣に心配である。

「あ、ああ…京一…か。大丈夫だ…。ところで…緋勇…は?」

「お前を頼むって行って帰っちまった。また、なんだか偉く慌てていたぜ」

「そうか…」

 ふうぅ…と醍醐は大きく息を吐く。呼吸器系はまず順調に回復しているようで、京一はひとまず安心した。

「しっかし、醍醐雄矢ともあろうものが、見事にやられたもんだな。一介の…というにはかなり無理があるが、転校生だぜ」

「全力を尽くして闘って負けたんだ…仕方ないさ。…緋勇龍麻か…一体どこであんな技を覚えたんだ?」

「さぁな? でも、ありゃ本物だぜ。とんでもねェバケモノだ。今ならあいつが本物のネイビー・シールズだとか、IMFのエージェントだって言われても信じるぜ、俺は」

 過激だが、実際のところそれ以外の適当な表現など、龍麻に対しては見つからなかった。京一にしろ醍醐にしろ、競技者としてのレベルは並の高校生のレベルを超えていると、自他ともに認めている。だが龍麻のそれは既に達人…いや、それ以上のレベルに達しているようだった。あの人間を超えた運動能力を獲得するために、彼はどんな鍛錬と実践を積んできた事か。

「どうだ? お前も…」

「冗談じゃねェよ」

 考えないでもなかった。あの男なら、自分の《本気》を受け止められる。醍醐と鎬を削る事でも腕は磨かれるが、あの男となら真の意味での実戦が出来そうだ。と、そこまで考えて、京一は戦慄とともにその考えを振り払った。

(あんな蹴りを食らったら、一発目の蹴りで腹をぶち抜かれるぜ)

「お前がやられたんだぞ。俺なんか一分ともたねェよ」

 わざとおどけて言うが、多分それは真実だ。たとえルールに乗っ取った試合でも、結果は同じだろう。

「食えない男だ。自分がどうなろうと、やり合いたいと思っているくせに」

「う、うるせェな」

 それもまた、真実だ。龍麻の技に畏怖を抱きつつも、彼と本気でやり合いたいと望んでいる自分がいる。

「そんな事より、ホラ、立てるか?」

「…いや、まだ無理だ。視界がグニャグニャだ」

「そうか…無理ねェよな。あれだけ正確に急所を蹴り込まれたんじゃあな」

 しかし、醍醐は妙にさっぱりとした表情で息を吐いた。

「そうなんだが…なぜか実に良い気分だ。何かこう…憑き物が落ちたような…良い…気分だ…」

「お、オイッ! まさかそのまま逝っちまうんじゃねえだろうな!?」

「ははは…それでもいいくらい…清々しい…」

「ふっ、ふざけるな! こんな所でお前に死なれてたまるかってんだ! オイ!」

 京一の必死の呼びかけもむなしく、醍醐は言葉どおり実にさっぱりした顔で再び意識を手放した。





 翌日、クラスメートの質問地獄の中にあっても、なぜか龍麻は終始上機嫌であった。

 転校初日にクラスのガンである佐久間を、二日目には真神の総番長との闘いをこなした彼は、既に学校中の注目を集めているといっても過言ではなかった。当初は独特のしゃべり方と雰囲気に話し掛けづらかったのだが、それなりにハンサムだし、何より機嫌が良さそうな雰囲気が、昨日までの壁を更に薄くしていた。彼特有のしゃべり方も慣れてしまえばどうという事もなく、彼の周りには男女を問わぬ人の輪が出来上がっていた。

 特に、クラスメートの関心事は、龍麻対醍醐の決着に付いてであった。総番長とは言うものの、悪い事をする訳ではなく、真に武道家たらんとしている醍醐のことだから、きっと正々堂々の勝負だったに違いない。しかしその結果は知らず、醍醐はおろか、一緒について行った京一までが学校を休んでいる事が様々な憶測を生み、龍麻にしても真実をそのまま語るのは醍醐の承諾なしにはいかんだろうと適当にごまかしていたら、なにやら噂だけが大げさに一人歩きを始めてしまっていた。

 そのため、担任のマリア・アルカードから呼び出しを受けた時だけは、ほんの少し暗澹たる思いにとらわれた。ここで受ける懲罰はなんだろう? 転校三日目にして籍を剥奪されるか、営倉入りか。十時間ほどの超過勤務ならいいのだがと。





 職員室に入る前、龍麻は鏡を見て服装と表情を引き締めた。

「緋勇龍麻、入ります」

 ノックをしてから、胸を張って職員室に入る。彼の習慣において失礼にあたらぬよう、視線を天井に上げた龍麻であったが、職員室には誰もいなかった。

 いや、一人いた。

「よぉ、どうした。職員室に何か用か?」

「肯定であります、犬神先生。マリア先生に呼ばれて参上いたしました」

 直立不動のまま、そして視線を合わせぬように天井を見たまま言う龍麻に、犬神はふっと鼻先で笑った。無愛想が板に付いている彼にしては珍しい反応であるが、龍麻には解らない。

「今はいないみたいだな。まあ、すぐに戻ってくるだろう。その辺に座って待っているといい」

「はっ、恐縮です」

 犬神に言われた通り、壁際にあるパイプ椅子に座る龍麻。椅子に座っても背筋をピンと伸ばしたままの龍麻に、犬神は苦笑した。

「いつもそうやって肩肘を張っていると疲れるぞ。――それより緋勇、彼女に気を許すな」

 僅かに雰囲気が変わった犬神に、龍麻は再び立ち上がって聞き返した。

「発言の意味が不明瞭です。どういう事でしょうか?」

 しかし犬神は、質問をはぐらかすようにタバコを取り出した。今ではなかなか手に入らない《しんせい》である。

「今のところはそれでも良い。じゃあな」

「?」

 言うだけ言って立ち去る犬神と入れ替わりに、マリアが職員室に入ってきた。龍麻はやはり、直立不動で敬礼して彼女を迎えた。

「あら、緋勇クン。もう来てたの…待たせちゃってごめんなさいね」

「いえ。問題ありません」

 一礼し、示された椅子に座る。前髪のせいでマリアからは目が見えないが、視線は天井に向ける。上官と目を合わせないのは軍隊としての礼儀なのだ。

「緋勇クン。学校にはもう慣れた?」

「はっ、おおむね良好であります」

「そう。それは良かったわ。そういえば、蓬莱寺クンとはもう友達になれたみたいね。蓬莱寺クンは素直じゃないけど優しい子だから、仲良くするといいわ」

「肯定です」

 短い返事の中に、龍麻の本心が現れていた。転校初日に普通の(社交辞令ではない)言葉をかけてきたのは、厳密には彼だけである。(葵に関しては生徒会長兼クラス委員長という立場上、小蒔に関しては葵の親友という行きがかり上と、龍麻は認識している。佐久間たちは問題外)

「話は変わるけど、緋勇クン、あなた美里さんの事、どう思う?」

「質問の意味が不明瞭です」

 どう思う? という質問は、龍麻には難解である。状況に合わせて最良の判断を下す能力は高いが、そのようなあいまいな表現を許さぬ世界に、彼は生きているのだ。

「確かに…いきなりこんな事を言われてもピンと来ないわね。彼女は生徒会長という重い立場にいるし、色々と悩みもあると思うから、できれば相談に乗ってあげたりして欲しいな、と思っただけなの。あなたなら変な先入観なしに彼女と接しられると思ったから…。変な質問してごめんなさいね。ありがとう。もう帰っていいわ」

「はっ、失礼します」

 質問の意図がまったく判らないまま、しかし龍麻は敬礼して職員室を辞した。もしかしたら犬神の忠告は、マリア先生には突然意味不明の発言をする事がある、との警告だったのかも知れない。

(いや、そう考えるのは早計だ。あのような意味不明な質問を浴びせる事で、生徒の中に危険思想の持ち主がいないかチェックしているに違いない)

 と、この軍事オタクの誤解コンボ男はそう考え、足早に職員室から離れたのであった。





「よぉ、緋勇、遅かったな。何やってたんだ? 今日は用事はないのかよ」

「蓬莱寺。授業は既に終了しているぞ」

 言わずもがなの事を龍麻は言う。規律にはうるさいのだ。

「そりゃ判ってるよ。サボりだ、サボり」

 平然と答えて見せる京一に、龍麻は報告書を読み上げるような口調で言った。

「本日授業開始の〇八〇〇時より、昨日の一件について生徒間の質疑応答が盛んに行われていたぞ。自分は情報提供していないが、憶測情報が拡大解釈されて広まっている。少なからずお前と醍醐の立場に影響を与えるぞ。早急に対処すべきだ」

「…判りやすく言うと、どういう事になっているんだ?」

「自分がお前と醍醐を再起不能にした事になっている」

「なンだとォッ!?」

 「自分が真実を告げようにも、やはり醍醐の承諾なしではいかん。そう思っていたら憶測情報が限りなく拡大した。お前と醍醐が休んでいた事も原因だ」

「くッ…やっぱり今日は登校するべきだったぜ」

 そこで京一は、ふと、龍麻が妙に饒舌な事に気付いた。

「そういや、なんだかお前、今日は妙に浮かれてやがるな。ひょっとして、醍醐に勝ったのがそんなに嬉しいのか?」

「ルールある試合というものを考えた場合、あれは自分の敗北と言える。従って、そんなところに隠れている必要はないぞ、醍醐」

 校門の陰から動揺の気配が伝わってきて、すぐにあきらめたように醍醐が姿を現した。

「もう普通に動けるとは、見事だ。だが手加減は最小限しか出来なかった。謝罪する」

「い、いや、こちらこそ悪かったな。無理に付き合わせてしまって」

 勝った男に頭を下げられて、醍醐は戸惑う。いっそ勝ち誇られた方がすっきりすると思っていただけに、これほど友好的に迎えられるとは思わなかった。なるほど、京一の言う通り、今日の龍麻は機嫌が良さそうに見える。

「しかし二人とも、授業は既に終わっているぞ。蓬莱寺、今日の自分には時間的余裕があるが、お前まで自分と闘うなどと言い出しても、自分はそれを受けるつもりはない」

「いくらなんでも昨日の今日でそんなコト言うかよ! ほれ、昨日ラーメン食いに行こうって言ってただろ? 誘いに来たんだよ」

「ラーメン…小麦粉と卵黄で麺を作り、スープの味付けは醤油、味噌、塩、豚骨などを用い、付け合せには肉や野菜を用いる…。やはり栄養バランスに難があると思うのだが、醍醐、お前もラーメンは好きなのか?」

「ン!? ああ、手軽で安いし、何より美味いのがいい」

「そうか…」

 たかがラーメンでなんでそんなに悩むんだよ、とツッコミを入れたくなった京一だったが、次の龍麻の発言で慌てて口をつぐんだ。

「うむ。そこまで言うならば、何事も経験だ。今日は自分が奢るとしよう」

「な、何!? いいのか!?」

 目の色を変えた京一の頭を、醍醐が軽く小突く。

「そんなにはしゃぐな。本来なら俺が…俺たちが奢らねばならん立場だろう?」

「ンなコト別にいいじゃねえか! 緋勇が奢ってくれると言ってるんだぞ? 人の好意は素直に受けなきゃなあ。それじゃラーメン屋にレッツ…」

「ゴー!」

 と、第四の、それも女の子の声がしたので、龍麻は振り向いた。

「おや、これは桜井殿」

 多少砕けた感じにはなったものの、やはり敬礼する龍麻。小蒔も彼の真似をして敬礼する。

「やあッ、緋勇クン。…って、何で京一と醍醐クンがここにいるのさ!? 全身骨折で生死の境を彷徨っているんじゃなかったの?」

 冗談事ではない、小蒔の驚愕の声に、さすがに京一と醍醐も無反応ではいられなかった。龍麻の口ぶりからはそこまで噂が飛躍しているとは判らなかったのだ。

「小蒔! 誰がそんなこと言ってやがんだ!」

「えッ!? だってアン子がそう言ってたよ。二人がかりで緋勇くんに向かっていって、一撃でやっつけられちゃったって」

「くッ…! あのヤロウ…!」

「桜井…噂を真に受けないでくれ…」

 しかし二人とも、反発にも力がない。もし二人がかりでやったとしても、その通りの結果になる事だけは判っているのだ。

「桜井殿…。自分たちはこれからラーメンなるものを食しに行くのだが…」

「へえ〜っ、いいなーッ。ボクも行ってもイイ?」

「問題ない」

「やったーッ! 当然、京一の奢りだよね?」

 いささか勝手な言い草であるが、嬉しそうに飛び跳ねる小蒔を見て龍麻は何も言えない。

「ちょっと待てィ! 誰がンなコト言った。今日はこの緋勇が俺たちに奢ってくれんだよ!」

「えーッ、転校してきたばっかりの緋勇クンに奢らせるなんて、二人とも、サイテー!」

「うッ…それは…」

 そう言われては立つ瀬がない。二人ともどもったのだが、当の龍麻がフォローを入れた。本当に機嫌が良いようだ。

「桜井殿、二人を責めてはいかん。今日は自分が奢ると申し出たのだ。もちろん桜井殿の分も自分が払うが、拒否するのは自由だ」

「あーッ! うそうそ! ボクにも奢って!」

 両手を合わせて拝む小蒔に、龍麻はうむと頷いた。

 機嫌が良いのは良いが、今後たかられるんじゃないか? と、余計な心配をしてしまう京一と醍醐であった。





「オヤジさーん、俺、いつものね」

「こら、京一。緋勇が先だろう?」

「いいじゃねえか。初めてなんだからじっくり選ばせてやれって」

「ボク、醤油ラーメン!」

「問題ない。醍醐、先に注文しろ」

「そうか。ではチャーシュー麺を」

 あいよ、とラーメン屋の主人が声を上げる。京一と醍醐は馴染みのようだが、新顔が二人もいる事が嬉しいらしい。

「緋勇は何にするんだ? どれを頼んでもここのラーメンは絶品だぞ」

「何事も最初が肝心だ。トッピングはいらん。ノーマルなものを頼む」

「ノーマル…ってコトは、やっぱり塩だよな」

「何言ってんのさ、京一。ラーメンといえば醤油が基本だろッ!」

 脇でぎゃあぎゃあおっ始める京一と小蒔を、やれやれといった顔で眺めながら醍醐は言った。

「あれは放っておいて、本当にどれでも美味いぞ。まあ、さっぱりした味が好みなら醤油か塩だ。こってりしたのが好みなら、やはり豚骨だな」

「塩分の採り過ぎは良くない。まずは醤油と行こう」

 それで注文は解決し、ラーメンを待つ間、ひとしきり彼らは談笑した。とは言え、小蒔が混ざった事でやはり話題の中心は昨日の勝負の事に至る。

「…ふええ。それじゃアン子の話もまんざら嘘って訳でもないんだ!?」

「まァな」

 京一はさらっと言ったが、醍醐は難しい顔をしている。あまり、小蒔には知られたくなかったらしい。しかし龍麻が決着に付いて黙っていたという事もあり、彼の配慮に報いるためにも醍醐は自らその事を教えたのである。

「凄いんだね、緋勇クンって。…でもその話だと、醍醐クンに勝ったから機嫌が良かったって訳じゃないみたいだね。緋勇クン、なんか良い事があったの?」

 それは、京一も醍醐も聞きたい事であった。初日の佐久間の件にしろ、昨日の醍醐の件にしろ、龍麻はやけに時間にこだわっていた。佐久間など、ほとんど八つ当たりで倒したようなものであったらしいのだ。その彼が今日は一転して機嫌が良く、時間に余裕がある上、気前よくラーメンまで奢るというのである。どんな良い事があったのか、多大の期待と多少の嫉妬も込めて、ぜひ聞いてみたい。

「うむ。実は私財の投資に成功してな」

「へ…?」

「このところ下降気味だったダウ平均株価が政府の梃入れで回復したのだ。二日前のロンドン市場では取引に出遅れたのが災いして一万ドル以上の損害が出たが、昨日の段階で買い注文が伸び始めてな。ニューヨーク市場で持ち株を天井で売りさばけたのだ。純利益で一八〇万ドル。それで今度は安定株を購入し直してな。派手な値動きこそないものの持ち株一〇パーセントの株主として、月平均五万ドルが収入となる。…どうした? 面白い顔をして?」

 龍麻の言葉を理解するのに、この三人の頭では実に一分近くを必要とした。

「緋勇…つまりそれは、お前が株を売り買いしたという事なのか?」

「肯定だ」

 即答である。

「ウチの学校はアルバイト禁止…いや、待て。そもそも高校生が株取引などしていいのか?」

「問題ない。代理人を立てている」

 そういうものなのか!? 何かどこかが間違っているのでは!? そう思いつつも、自分たちの想像を遥かに上回る事であるため、何も言えなくなってしまう三人であった。

「一応断っておくが、無条件で奢るのはこれきりだぞ。どれほどの資産があろうとも、無意味な散財をしてはあっという間になくなってしまうし、そもそも金と労働のありがたみが薄れるからな。自分の今回の成功も、東京、ロンドン、ニューヨーク市場の動きを全てチェックしていたからこそ出来た事だ。決して、楽な訳ではない」

 ちなみに、龍麻が急いで帰ろうとしていた訳は、時差の関係からロンドン市場が開かれるのが夕方の六時から七時前後だからだ。ニューヨーク市場は早朝である。そして東京市場は午前九時開始。要するに、龍麻は授業をサボっているのだが、それは黙っておく。

 格闘の技術も並外れているが、経済感覚も高校生の枠に当て嵌まらないらしい。

「そ、そうだ。緋勇クンがそんなに強いなら、三人して旧校舎の幽霊騒動を解決しちゃえば?」

 いい加減、自分の理解の及ばぬ世界の話をされて頭がショートしていたのだろう。小蒔が突然、話を切り替えた。

「旧校舎?」

「何バカ言ってんだよ」

「ゆッ、幽霊!?」

 三者三様、それぞれに返事を返す。龍麻はふと真剣になり、京一だけがいつもと変わらず、醍醐はなぜか声を裏返す。

「旧校舎にゴーストが出るというのか?」

 龍麻に顔を覗き込まれ、小蒔は少し頬を染めて頷いた。

「うっ、うん。ボクは聞いただけだけど、あそこで幽霊を見たって人がいるんだよね。それも、一人や二人じゃないらしいよ」

「何が幽霊だ。馬鹿馬鹿しい。どうせ何かの見間違いだろ。なァ、醍醐」

「うっ、うむ。京一の言う通りだ。そもそも幽霊は夏に出るものと相場が決まっているだろう。なあ、緋勇」

 わざとらしく京一に話を振られてうろたえた醍醐は、更に龍麻に振った。しかし、龍麻は、

「ゴーストに季節は関係なかろう。ポル・ポト派に滅ぼされた村の跡地では、昼夜を問わず出現していたぞ。もちろん夜の方が圧倒的に多いが、あれには困った。《苦しい》とか《助けてくれ》とか言われても、実体のないゴーストでは応急処置もモルヒネも効かんし…」

「……」

 自分を見つめる三対の目に気付き、龍麻は慌てて口をつぐんだ。

「…忘れてくれ。…ところで、具体的にはどのようなものなのだ?」

「え!? うっ、うん。えーと、赤い光が浮いているのを見たって言う人とか、誰かが歩いているような音を聞いた人とか…」

「…その情報提供者に聞いてみたいものだ。どうしてそんな所にいたのかと」

 おお! と思わず京一も醍醐も相槌を打つ。

 よくテレビ番組などで幽霊スポットと言われる場所を、《人気のない》、《近所の人も近付かない》などと紹介するが、それはむしろ当然の事であろう。特に用事もないのに、誰が廃病院や廃屋などに近付くだろうか? それに本来そこは、誰かの所有地である筈だ。許可なく入り込む事は、住居不法侵入に当たる。

「そうとも。旧校舎の入り口は、閉ざされて近付く事も出来ない筈だからな!」

 なぜか力説する醍醐。

「いや、抜け道があるらしいぜ。ウチの部の奴が言ってた。大方良い事をするつもりでこっそりと忍び込んだ奴だろうよ」

「うん。アン子も同じこと言ってたよ。スクープをモノにするんだって、張り切ってた」

 すると龍麻が、先ほどより真剣な顔つきになった。

「桜井殿…その話、いつ聞いた?」

「アン子のこと? ん〜…緋勇クンたちと会うちょっと前かな?」

 にわかに表情が険しくなる龍麻に、三人ともあっけに取られた。その後の行動にも驚いたが。

 龍麻は僅かに残っていた麺とスープを一気に喉の奥に流し込んだのだ。小さなげっぷを洩らし、

「栄養バランスはともかく、これは病み付きになる食べ物だな。お前たちの好物だという理由が良く判った」

「そうだろそうだろ。…って、いきなり慌ててどこに行くんだよ?」

 いきなり慌しく動き始めた龍麻は、有無を言わせず一万円札を店主に差し出した。

「実に美味いラーメンだ。釣りはまた来る時のためにツケておいてくれ」

 どうやら《ツケ》の意味も間違えているらしい龍麻は、そのまま店を出ようとしたが、醍醐がその腕を掴んで止めた。

「オイ、一体なんなんだ? 何をそんなに慌てている?」

 「幽霊の正体とやらに興味が湧いたのだ。《善は急げ》と言うだろう」

 と、その時、龍麻の手が触れるより早くドアが開き、真神の制服を着た女子高生が勢い良く駆け込んできた。

「あ、アン子!? どうしたんだ、そんなに慌てて…?」

 京一が尋ねたが、アン子は息を整えるのに精一杯である。どう見ても様子が普通ではない。

 と、見る間に、アン子はテーブルにあったコップを引っ手繰り、一気に飲み干した。

「アァッ!? 俺の水〜ッ!」

 女子高生らしからぬげっぷを洩らし、やっと息を整えるアン子。汗びっしょりで、肩で息をしている。どうやら全力で走ってきたらしい。

「テメエ、俺の水〜ッ!」

「水一杯で騒ぐな! …遠野、どうしたんだ?」

「良かった、いてくれて…。お願い! 美里ちゃんを探して!」

 一瞬、店内の空気が凍りついた。

「葵が…葵がどうしたの? アン子?」

「あ、あたし、旧校舎の取材がしたくて、美里ちゃんに鍵を取り寄せてもらって、そして…」

 そこまで言ったところで、だっと駆け出そうとする龍麻。しかしまたしても醍醐に、今度は襟首を掴まれてグエッと呻く。

「…なかなか痛いぞ」

「何なんだお前は! あそこに付いて何か知っているのか!?」

「何も知らん。だが、美里葵嬢が危険だ」

「なんだと…?」

 そこに、京一が割って入る。

「醍醐! 今はそれどころじゃねえだろ。とにかく美里を探しに行くぞ!」

「そ、そうだな。桜井は…」

「ボクも行くよ! 親友だもん!」

「ダメだ。危険だからお前は残って…」

 パシイッ、と音がして、龍麻の襟首を掴んでいた醍醐の手が空を掴んだ。どうやったのか判らないが、龍麻が外したのである。

「議論をしている場合ではない。来たければ来い。ただし、自分の指揮下に入れ。反抗は許さん。それが絶対条件だ」

「え…?」

「それが守れなければ死ぬ。理由なくして怪異な現象は起きぬのだ。お前たちも同じだ。確実に生き残るためにも、自分の指示に従え。…決断しろ。イエスか、ノーか」

「……!」

 なぜ龍麻が突然こんな事を言い出したのか、そしてなぜこんな言葉にこれほどの説得力があるのか、皆、一様に戸惑いを隠せない。龍麻の言葉には、人を無条件で従わせてしまうほどの威圧感というか、雄々しさがあるのだ。

「ここでこうしてても仕方ねえだろ。イエスだ、イエス。それでいいんだろ?」

 こういう時に、京一はアクションのきっかけを作るのが上手い。考えるより先に行動するタイプだが、場合によってはそれが有利に働く事もあるものだ。

「肯定だ。他の者は?」

「…分かった。行こう」

「ボクも!」

「そ、それじゃあたしが案内するわ!」

 龍麻は一同をざっと見回し、小さく肯いた。

「よろしい。《美里葵救出作戦》を決行する。各自装備を確認。出撃する!」

「オー!」

 と、反応したのは小蒔だけで、京一も醍醐もアン子も、この龍麻の妙なノリに付いていって良いものか、とっさには判断できなかった。どう見ても龍麻の横顔は、ふざけているもののそれではなかったからだ。





   第壱話 怪異 1    完



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