第壱話 転校生 2





 
   終業のチャイムが鳴り、ホームルーム終了を告げたマリア・アルカードが教室を出ると、龍麻は速やかに帰り支度を始めた。

 この街には不案内な事が多い。最低でも自宅であるマンションの周囲二キロ圏内の事は熟知しておく必要があるのだ。バイクを使ったとしても、今夜は徹夜になるかもしれない。その前にも、やらねばならぬ事があるのだから。

 それが雰囲気に現れていたのか、機械のごとき正確さとスピードで鞄に教科書を詰める龍麻に、今まで一度も彼に話し掛ける機会を持てなかった女生徒たちは歯噛みしていた。そして追い討ちをかけるように、全く物怖じしない台風のごとき少女が現れた。

「緋勇くーん! 一緒に帰ろー!」

 隣のクラス、三−Bの遠野杏子の登場である。三−Cの女生徒にとっては獲物を横から掻っ攫われた気分だろうが、小蒔の快活さに貪欲さをプラスした彼女には面と向かって文句を言える者はいなかった。

「遠野さんか。取材ならまたにしてくれ」

 丁寧に断ったつもりだが、アン子にはまるで通じなかった。

「遠野さんなんて他人行儀ねえ。アン子でいいわよ」

 と、これまで話した女子の中では一番フランクに話し掛けてくる。結局、語彙に勝るアン子に押し切られる形で、一緒に帰る事が決まった。しかし取材は断ると言っているのに、もうインタビューをやる気満々でいるアン子を見て、龍麻は《沈黙》を実践する事に決めた。

 だが、それは杞憂に終わった。正確には、別のトラブルが発生したのである。

「オイ、緋勇。ちょっとツラ貸せや」

 京一が《頭に血が上りやすい》と称した男達が発する、とことんオリジナリティーに欠ける台詞。これまで何度も同じ言葉をかけられた経験のある龍麻は、今回も同じ台詞で返した。

「いくら出す?」

「なに?」

「自分は今忙しい。《ツラを貸せ》というのは、自分に時間を浪費させろという意味だろう? その保証にいくら出せるのかと聞いている」

「なっ、なんだあ、テメエ…!?」

「《時は金なり》という言葉は真実だ。諸君らの都合で時間を浪費する事により自分が多大の損失を蒙った場合、その損失を補填できるのかと聞いているのだ」

「……」

 男達は顔を見合わせた。

 他人を脅す人間は、まず相手を呑みにかかる。一度相手を圧倒すれば、後はいくらでも脅しが効く。しかし意表を突かれて相手を威圧しそこなうと、それを取り戻すのは難しい。龍麻はただ一言で、四人の不良全員を呑んでしまった。周りを取り囲まれているというのに、表情一つ、口調一つ変えない。彼らのリーダーである佐久間の存在自体を無視してのけた龍麻である。しかも、明らかに彼らの専売特許である「金を出せ」と来たものだ。怒る事も呆れる事も、虚勢を張る事さえ不良たちは許されなかった。

「ちょっとちょっとッ。なによ、アンタたち」

 そこに、絶妙なタイミングでアン子の援護射撃が襲い掛かった。

「――なんだァ? 文句あんのか?」

「文句あんのか? ――じゃないわよッ! アンタたちが緋勇君をどうするつもりかなんてコト、そこらの小学生にだって想像できるけど、そのでかい図体の使い道がそれ以外にないってんなら、ウチの部で荷物持ちくらいになら雇ってあげてもいいわよッ。――ああッ!? なによその顔は? ヘェ〜、ひょっとしてプライドが傷付いちゃったのかしら? アンタたちにもプライドなんてモンがあったとは、さすがのあたしも想像できなかったわ。――アラ、なに? グーをプルプルさせちゃって。ああ、そーなの。アンタたちの脳みそじゃもう言葉が打ち止めだから暴力に訴えようって訳ね。言っとくけど、あたしの新聞部は、アンタたちみたいな能無しに売られた喧嘩なら、いつでもどこでも買ってやるわよッ。そうねェ、まずは次の真神新聞に、一面トップで載せて上げましょうか?」

「…ぐッ…クソ…!」

 相手が女であればと虚勢を取り戻した彼らであったが、京一を戦闘前離脱させたマシンガントークの前に言い返すタイミングすら掴めない。手を出そうにも、ここには周囲の目がありすぎる上、学校新聞としては稀に見る売上を誇る真神新聞の編集者である。迂闊に手を出せば、自分がひた隠しにしている秘密さえ大々的にばらされるかもしれないという恐怖が、更に彼らを萎縮させていた。

「てめェら…使いも満足にできねえのか?」

 ようやく、寝ぼけたナマケモノのように(龍麻主観)うっそりと佐久間が立ち上がった。

「す…すいません、佐久間さん!」

 使い慣れない敬語など使っているのがみえみえの不良たちに、佐久間は肩を揺すって道を空けさせた。

「ケッ…。オイ、緋勇。転校生の癖に、ずいぶんと態度がでけえじゃねえか」

 相手を威圧するにはそれが一番だと言わんばかりに、佐久間は肩を揺すって小馬鹿にしたように笑った。

「転校生である事と、態度が大きいということには何ら関係ないと思うが?」

 もともと目が前髪で隠れている龍麻だから、視線が合っているかどうかも判らない。だが龍麻の方が身長が高いため、見ようによってはどちらが脅しているのか判らない図だった。どうしても見上げる形になるため、ただでさえいかつい造作の佐久間の顔が、上目遣いのために更に凶悪になる。

「そういう態度が気に入らねえってんだよ。ケッ、女に囲まれてさぞご満悦だろうな」

「君に気に入られようと気に入られまいと、自分には関係ない」

 龍麻はきっぱりと言った。自己紹介の時と同じ、堂々たる宣言だった。

「女子に囲まれて喜んでいるなどと思うのも多大なる誤解だ。自分は親切に報いているだけだ。女性に囲まれていれば即幸せという安易で俗な考えは君独自のものだ。従って、自分には関係ない」

 自分を含め、五人もの不良に囲まれてこれほどの口を聞ける者がいるなどと、佐久間の顔がますます歪む。昼休みに徹底的に無視された事もあって、全身から噴出した怒気が筋骨たくましい肉体を更に膨れ上がらせたかのようだ。

「テメエ、気にくわねえんだよ。ちょっと付き合ってもらおうか」

「最初に言ったぞ。いくら出す?」

 あくまで冷徹な態度を崩さない龍麻に、遂に佐久間は咆えた。

「うるせえ! 黙って付いてくりゃいいんだよ!」

 教室中の誰もがびくっと肩をすくめるほどの怒声。だが龍麻はその時、かすかに笑みを浮かべた。

「ダメよ緋勇くん、こいつは…」

「遠野、余計な口出しするんじゃねえぞ。テメエも、嫌だって言っても無理矢理来てもらうがな」

 佐久間の目配せを受けて、不良二人が左右から龍麻の腕を引っ張った。

「…リフォーム代も出してもらうぞ」

 この期に及んで、龍麻はまだ口調一つ変えない。さすがに無気味になったものか、龍麻の腕を取った不良は声も上げなかった。

「いつまでそんな口が聞けるのか楽しみだぜ」

 佐久間が先に立って歩き出し、クラスメートたちが慌てて道を空ける。佐久間の強さを知っている彼らは、転校初日に佐久間に目を付けられた龍麻の不幸を哀れむ事しか出来なかった。

 だが、彼らは気付かなかった。龍麻の堂々たる態度が虚勢でもなんでもないことに。むしろ自分の危機に無頓着にさえ見える龍麻に、アン子はあっけに取られてしまった。

 それでも、龍麻と佐久間たちの姿が消えると、アン子は「何とかしなければならない」と頭をフル回転させ始めた。

 教室に残っている生徒たちは論外だ。後々のことを考えると、教師もまずいだろう。と、なれば思い浮かぶのは二つの名前だ。

(醍醐くん…は今日は見なかった。とすると、京一か…!)

 新聞部の部長などやっているせいで、佐久間の強さは直接目にしている。新宿で五本の指に入るという噂も決して誇張ではない。龍麻の自信がどこから来るものかは判らないが、佐久間を含め五もの不良と戦って勝てるとは思えなかった。

(こんな時にあのバカ…どこに行ったのよ…!)

 アン子は廊下に飛び出し、一目散に走り出した。





 不良同士の喧嘩やリンチには定番の体育館裏で、龍麻は両腕を取られたまま佐久間たちと対峙した。

 途中で見張り役の少年二人が加わり、総勢七人。しかし一人しかいない龍麻はそれでもまるで動じなかった。

「あーあ、こんなところまでノコノコ付いて来やがって」

「転校早々入院とは、ついてねえな、お前も」

「そうそう。佐久間さんに目ェ付けられちまうとはな」

 不良たちは口々に侮蔑の言葉を浴びせたが、龍麻は所在なげに周囲を見回すだけで、彼らの言葉を聞いている様子はまったくない。それどころか、

「お前たちだけか?」

「ああ!? なんだって?」

「お前たちの人数の事だ。自分を相手にしようというのに、たったそれだけかと聞いている」

 龍麻が常識外れの事を言うのは不良たちにも判りかけていたようだ。一瞬鼻白んだ不良たちは、次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。

「馬鹿だコイツ!マジでいかれてやがるぜ!」

「あんまり怖くて頭おかしくなっちまったのさ! けっ、だらしねえ!」

 不良の一人がポケットから不良の定番アイテム、バタフライ・ナイフを取り出す。ろくな手入れもされていないのか、銀色の刃は濁った光を跳ね返した。

「今更ビビって小便ちびったって許してなんざやらねえよ。その済ましたツラァ、切り刻んでやるぜ、コラァ」

 龍麻の両腕はずっと捕まえられているので、反撃など絶対にあり得ないと完全に彼を舐め切って、ナイフを彼の鼻先に突きつける。

「どこから刻んで欲しい? 鼻か? 耳か? それとも真っ先に目でもえぐってやろうか? いいんだぜ、やせ我慢しなくたって」

 殊更に脅すようにナイフをちらちらさせる不良。龍麻の口元が《不満》げに歪められた時――

「――おいおい。転校生をからかうにしちゃ、ちょっと度が過ぎてるんじゃねえか?」

 突然降ってきた陽気な声に、不良たちが愕然と周囲を見回す。どこから声がしたのか解らなかったのだ。

 龍麻だけが頭上を振り仰ぎ、不良たちはその視線を追った。

「テメエ! 蓬莱寺!」

 昼休みから一体どこに消えていたものかと思えば、どうやら木の上で昼寝を決め込んでいたらしい。よっと一声上げ、京一は木の上から飛び降りた。

「だから言ったじゃねえか。気を付けろってよ」

「テメエ、蓬莱寺…今日来たばかりの転校生に味方すんのかよ」

 佐久間が肩を揺すって凄むが、もう二人とも聞いていない。

「うむ。人の貴重な時間を割かせておいて金も払わん連中だ。この際実力で取り立てようと思っていたところだ」

「おいおい。それってマジで言ってるのか? 相手は五人もいるじゃねえか。何なら手を貸すぜ」

「必要ない。お前が持っているのは木刀だ。殺すだけなら簡単だろうが、それで手加減するくらいなら最初から何もしない方が良い」

「けどよお、人数的に不利だぜ?」

「――そうかな?」

 龍麻がそう言った途端、彼の両腕を掴んでいた不良二人が、糸の切れた操り人形のように地面に崩れ落ちた。

「なっ…!?」

 一体この二人に何が起こったというのか、地面に倒れた二人は断末魔の虫のように全身を痙攣させ、口から泡を吹き出す。凄まじい苦痛に襲われているようで、声すら上げられずに悶絶しているのだ。

「て、テメエ! 何しやがった!?」

 まるで手品のように二人の部下を失った佐久間が喚いたが、龍麻は袖のほこりを払っただけで取り合わない。そこで初めて京一は悟った。この緋勇龍麻が、佐久間など始めから歯牙にもかけていないことに。

「二桁にも届かぬ人数で自分を制圧しようなどとは、思い上がった奴らだ。彼らのような輩を最初に処分しておけば後々楽だと思ったのだが、うまく行かないものだな」

「あ、ああ。そうだな」

 にっこりと、初めて笑顔を向けられ、京一は頷くことしかできなかった。しかし――

「ナメんじゃねえ! この野郎ォッ!!」

 何がどうなったのか判らぬ内に二人も倒され、逆上した佐久間が吠えた。それを合図に残る二人の不良もナイフを腰溜めに構えて突っ込んでくる。

「チッ…俺の側を離れるんじゃねえぜ、緋勇!」

 木刀を正眼に構えて前に出ようとした京一は、しかし胸前に置かれた龍麻の手によって止められた。

「これは自分のトラブルだ」

 だから任せろということか!? ナイフを持っている不良二人と、新宿で五本の指に入る強さを持つ佐久間を相手に――!?

「死ねや! 緋勇!」

 右側から迫る不良がナイフを突き出す。それに対して龍麻は一歩だけ前に踏み出し、右掌を振り出した。しかし、やけにスローモーだ。やられる!

「え…!?」

 今にも血がしぶこうかという瞬間、不良の動きが止まった。いや、時間が止まったように硬直した。肩の付け根に触れている、龍麻の掌によって!

 龍麻の手首がひょいと動いた。

「ギャブウッ!!」

 人間とは思えない悲鳴を上げ、不良がきりきり舞いして吹き飛んだ。そのまま地面に倒れた不良はあらぬ方向へとひん曲がった肩を押さえて絶叫する。ほんの軽い、手首のスナップだけの掌打が、肩の関節を脱臼させてしまったのだ。

「凄ェ…!」

 京一が感嘆の呻きを洩らすが、既に龍麻はもう一人の不良に向き直っている。

 がむしゃらにナイフを振り回す腕に、下から跳ね上がった龍麻の掌が当たったと思った瞬間、不良の手からナイフがすっぽ抜けて龍麻の手の中に落ちた。唯一の武器を奪われながらも蹴りを放ったのは不良としての意地か。しかしその時にはまたも一歩踏み込んだだけで間合いを奪った龍麻の掌が不良の頬に触れていた。

 龍麻の掌が、手首を中心に三〇度ほど回転する。用法は異なるが、それも掌打だった。そして、その効果は――

「――ッッ!!」

 バクン! と不良の口が限界を超えて開かれる。今の僅かな動きで、顎まで外してしまったのだ。その痛みたるや、佐久間の一の子分は声にならない悲鳴を上げつつ顎を両手で押さえてのた打ち回った。

「て、テメエ!」

 あっという間に一人きりになった佐久間は、自分たちがとんでもない相手に手を出したことにようやく気付き、唸り声を上げて身構えた。しかし、この緋勇龍麻を相手に佐久間にどんな策がある? 新宿で五本の指に入る強さ? そんな風評は綺麗さっぱり京一の頭から吹き飛ばされていた。

「来い」

 龍麻の挑発は短く、簡潔だった。

 この一言で、佐久間が遂にキレた。

「ウオオオオオッ!!」

「――っやべえ!!」

 たった一つ、佐久間が龍麻に勝つ策があるとすれば、正にこれだった。上体を思い切り低くしたレスリングのタックル。並外れたタフネスが売りの佐久間だ。いかに龍麻の技が鋭くとも、一撃や二撃でその突進を止められるとは思えない。近年の《何でもあり》スタイルの試合では、打撃系格闘技はことごとく、このタックルをきっかけにして寝技に持ち込まれ、手痛い敗北を喫しているのだ。

 だが、龍麻は――

「ッッッ!!」

 上背こそないが、レスリングで鍛え上げた八六キロの佐久間が、それこそアクロバットのように空中で二回転し、地面に張り付くように叩きつけられた。京一が見た限りでは、龍麻は身体の軸線のみ佐久間のタックルの軌道から外し、下から振り上げる掌打で佐久間の顎をかち上げたのだ。突進のベクトルを急激に変化させられた佐久間の身体は勢いに乗って宙に跳ね上がり、凄いのはここからであった。龍麻はなんと、重力の束縛から離れて回転しつつ跳ね上がった佐久間の身体を、更に回転に加速をつけて放り出したのだ。それも、片手で!

「く、くそお…!」

 さすがに数秒は痙攣していたものの、辛うじて肉体のタフさが勝ったか、佐久間は両手を突っ張って立ち上がった。

「殺してやる…ぶっ殺してやるぞ…!」

 狂犬でも対決を避けそうな、ぎらぎらと殺意に燃える視線。人間はかくも醜くなれるのかという見本がそこにいた。

 しかし、龍麻は冷然と、

「火器を使用しても不可能だ」

 きっぱりと言い切った。

 この一言で、京一は佐久間の中で何かが壊れる音を聞いた。不良のプライド。暴力への信仰。今まで集めてきた畏怖。そういった、佐久間を今の佐久間たらしめているものがこなごなに砕け散り、崩壊する音だった。この男、緋勇龍麻の前では、佐久間もごく普通の少年と変わらなかったのだ。

「があああっっ!!」

 それを認めたくない、否、認める訳には行かない佐久間は魂からの咆哮を上げた。自分の存在を否定される恐怖が、佐久間という男の肉体を衝き動かした。

 本気で闘うとしたら、油断は出来ないと京一も認めていた佐久間のパンチが唸り飛ぶ。それは一歩たりとも動かない龍麻の鼻先を素通りしただけであった。何気なく差し出したようにしか見えない龍麻の靴底が、踏み込んだ佐久間の前足の膝を止めていたのだ。踏み込みの位置がずれれば、パンチの軌道もずれる。武道の達人が相手の攻撃をセンチからミリ単位でかわすのを《見切り》というが、自らかわすのではなく、相手の攻撃位置をずらす事で空振りさせる技術など、京一は見るのも聞くのも初めてであった。

「ぬうっ!」

 自慢のパンチを三度空振りさせられ、佐久間は龍麻に掴みかかった。先ほどのを踏まぬように、パンチをフェイントにして龍麻の制服を掴む。

「ッッ!?」

 龍麻が肩を軽く揺すった。

 八六キロの肉体がきれいな弧を描いて地面に叩きつけられる。背中をまともに打ちつけた佐久間は喘鳴を洩らし、身体を弓なりに反らして痙攣した。

 それでも佐久間は立ち上がった。もはや意地でもなんでもあるまい。ほとんど自暴自棄になっている。龍麻がとどめを刺さないせいだ。

(――まさかこいつ、楽しんでいるのか!?)

 他の不良たちは一撃で仕留めたのに、佐久間に対しては最初の一撃以外、攻撃らしい攻撃をしていない。絶望的な攻撃を繰り返す佐久間は隙だらけで、いつ攻撃しても仕留められるだろうに、龍麻は攻撃しないのだ。その様はまるで猫が鼠をいたぶり殺しているような残虐さがあった。佐久間は徹底的に嫌いだが、京一にはそれ以上見ていられなかった。

「もういい緋勇! 仕留めろ!」

 その瞬間、京一は自分がとんでもない事を口走ったような気がした。

 もはや拳を上げるどころか、立っているだけで精一杯の佐久間に向かって、龍麻は一歩踏み出し、佐久間の分厚い胸板に掌を当てた。

 ズシン! と、人間の肉体が発するとは思えない音が響き、遂に佐久間は大の字にひっくり返った。

 手助けをするべく出てきたはいいが、完全に傍観者となってしまった京一は、おののきを隠せないままにこの転校生を見つめた。

(最初の二人はなにをやったのか判らねェ。ナイフを持った奴を二人同時に相手をして、佐久間まで子供扱いかよ…! バケモンだぜ、コイツは…!)

 そんな京一をよそに、龍麻は佐久間に歩み寄った。何をするつもりだ!?

「て…め…ぶっ…殺して…やる…!」

「自分より弱い相手ならそうするだろう。いや、してきたと言うべきか」

 五人と闘った直後だというのに、龍麻は息も切らせず、口調も全く変えていない。ほとんど動いていないのだから消耗していないのは当然として、理不尽な喧嘩を売られた怒りさえないのは、ある意味異常だった。まるで、機械のようだ。戦闘マシン。京一は龍麻にそんな感想を持った。

「ぶ…殺す…!」

「それは、永久に無理だ」

 パチン、と龍麻の手の中で音を立てた物を見て、京一は目を疑った。龍麻が手にしているのは不良の一人から奪ったナイフだったのだ。

「緋勇! なにをするつもりだ!」

「この男を処分する」

 ゴミを捨てる、くらいの気安さで、龍麻はそう言った。

「安心しろ。殺しはしない。両腕の腱を切るだけだ。そうすればこの男は二度と人を殴れなくなる。ついでに両目もえぐっておくか? こいつらも他人にやってきたであろう行為だ」

 一片の躊躇なく、龍麻は佐久間の髪を掴んで引き起こし、佐久間の顔にナイフを当てた。佐久間の凶相がはっきりとした恐怖に歪む。

「よせ! やめろ緋勇!」

 コイツは本気だ! そう悟った瞬間、京一は全力で龍麻を止めていた。龍麻は京一が思っていたよりも簡単に手を放したが、そうしなかった場合を考えて京一は背筋が寒くなった。もしこの場で自分が龍麻と闘う事になったら? たとえ得意の木刀を持っていても、この男に勝てるかどうか。

 京一さえ恐怖を感じたくらいだから、まともに殺意を向けられた佐久間は必死に地面を引っかいて後じさった。まともに動けるほど体力は残っていなかった筈だが、肉体が恐怖の対象から逃れるべく動いたのだ。

「て、てめ…テメエは…!」

「そこまでだ、佐久間」

 恐怖による侮蔑か命乞いか、とにかく何事か言おうとした佐久間であったが、威厳ある野太い声がそれをかき消した。

「もうやめて、佐久間くん。緋勇くんも…」

 最初の声の影から、葵が今にも泣きそうな顔を出す。こんな修羅場とは縁がなさそうな彼女が、なぜここに!?

「醍醐か…」

 最初の声の主、高校生にしては並はずれた大男を見て、京一はふうっと息を吐き、龍麻の手を放した。

「佐久間、ここで止めれば私刑リンチのことは目をつぶってやる」

「…」

 佐久間はパクパクと口を動かしただけで、何も答えない。無理もないと京一は思う。ここに龍麻を連れ込んでリンチを加えようとしたのは佐久間だが、一方的に、完膚なきまでに叩きのめされたのも佐久間なのだ。醍醐が現れたことでむしろ助かったのは佐久間であった筈なのに、醍醐は佐久間の方が悪いと断じてしまったのである。

「佐久間!」

「わ、わかった!」

 葵も泣きそうな顔で佐久間を見つめているが、泣きたいのは佐久間の方だろう。身の程知らずにも熱を上げていた相手にこんな醜態を見られたばかりか、ボロクソに敗北した身を一方的に悪いと決め付けられ、それを認めねばならなかったのだ。

「わかったもなにも…そんなもんじゃねえだろうが…」

 京一としては、恐らく一生に一度きりの、佐久間に寄せた同情の言葉だったが、佐久間は醍醐がいれば龍麻も無茶はしないと踏んだのか、ありったけの闘志の残りカスを集めて京一を睨みつけた。

「よさんか! 京一も、余計な挑発はするな!」

 龍麻の誤解癖が醍醐にも感染したかと、京一はバカな考えにとらわれて憮然とした。そうでもしないとどうにもやりきれない気分に陥りそうだったのだ。

「行け、佐久間」

 佐久間は一瞬、すがるような視線を醍醐に向けたのだが、自分が完全に悪者扱いされている事を悟ると、醍醐、京一、葵の順番に睨みつけて、よろよろとその場を去っていった。龍麻の方はとても目を向けられなかったようだ。残りの不良たちも、置いてけぼりにされる事を恐れて、激痛に泣きながらも逃げ去っていった。

 完全に不良たちが立ち去った事を確認し、醍醐が重々しく口を開いた。

「まったく、俺がいないときに騒ぎを起こしてくれるなよ」

「起こしたくて起こった訳じゃねえよ。そういや今日はそのデカイ図体を見なかったな。どこ行ってたんだ?」

「トレーニングジムにこもりっきりだったのさ」

「ふんッ、格闘技オタクが。こっちは散々だったってのに」

 その会話をよそに、龍麻は服装の乱れを直し、立ち去ろうとしていた。心なしか、急いでいるようだ。

「おっとと、ちょっと待ってくれ。うちの部員が迷惑をかけたようだな。すまん。謝るよ」

「君は何もしていない。謝る事はないと思うが?」

「そうもいかん。これでもレスリング部の部長なのでな。お前と同じ三−Cの醍醐雄矢だいごゆうやだ。よろしくな」

 あ、やるぞ、と京一が思ったら、やはり龍麻は直立不動の姿勢を取り、敬礼した。

「緋勇龍麻であります、部長殿。以後、お見知り置きを」

 案の定、龍麻のボケっぷりをまったく知らぬ醍醐は目を白黒させた。京一と葵は、もはや苦笑するしかない。

「いいんだよ、緋勇。そいつは俺のダチだ。俺と同じようにしゃべっていいんだよ」

 龍麻は素直に「そうか」と頷く。

「と、とにかくよろしく頼む。…って、どうした?」

 眼は前髪で見えないが、顔が少し上向いている事で自分を見つめている事がわかる。醍醐はそこはかとない緊張感を覚えて聞いてみた。

「先ほどの件だが、なぜ止めた?」

 醍醐としては誠意を込めて謝ったであろうに、この返答である。それも喧嘩の後では仕方がないかと、醍醐は顎に手をやって一人納得した。

「意外と執念深いんだな。しかし非はこちらにある。部長として責任は取らねばならないのでな」

「肯定だ。しかしそれは自分に対してのものではない。他の四人はあれで充分だが、あの男だけが中途半端な結果に終わってしまった。あの男はこれからも他人を傷付けるぞ。己より弱い者の血を吸う癖がついている」

「…だからと言って、何もかも暴力で片付けるわけには行くまい? 腕の腱を切るとか、眼をえぐるとか、そんな事をすれば君こそ犯罪者だ」

「今まで彼らにそうされた連中にそう言え」

 こんな事を言う時、人間なら必ず幾ばくかの感情を言葉に込めるだろう。しかし龍麻のそれはただの単語の羅列であった。口調が実に平然たるものなので、怒っているのか悲しんでいるのか、それさえも判らない。表情も読み取れない事であるし。

 このままでは醍醐とも一戦やりかねない。そう思った京一は話題をそれとなく変えた。

「ところで醍醐、どうしてここが判ったんだ? それに、何で美里がいるんだよ?」

「え? わ、私はアン子ちゃんから緋勇くんが危ないって聞いて、それで…」

「で、ちょうど学校に戻ってきた俺に彼女が知らせてくれたんだ。美里に感謝するんだな。美里のあんな真剣な目を見たのは初めてだぞ。「緋勇くんが危ない」ってな」

 頬を赤くしてうろたえる葵を、《これで二度目だな》と横目で見ながら京一が呟く。

「二人一緒に来なかったら、危なかったのは佐久間たちの方だったぜ…」

 これは京一の実感だ。この超絶誤解コンボ軍事オタクは、かなりバイオレンスなところもあるものの、それなりの分別は備えているようだ。今、やや意見が対立している醍醐に襲い掛からないのがいい証拠である。本性から野蛮な男なら、とっくに醍醐と一戦交えている事だろう。

「まあ、それはいいとして、緋勇、今日は俺が駆けつけたから良かったものの、君もあんまり粋がらないことだ」

「まあまあ、いいじゃねェか」

「京一。お前は…」

 そこで醍醐は、京一が珍しく真剣な目をしている事を知った。口調は軽いが、「余計な事を言うな!」と眼で訴えている。

 醍醐は改めて龍麻を見た。

 およそ格闘技をやる者とは思えない、長い前髪のせいで眼から感情を読み取る事が出来ない。しかししきりに時計を見ているところを見ると、焦っているようだ。息一つ乱さず、五人の不良を倒した男が、である。

「ともかく緋勇、わが真神にようこそ。いや、この際だからもう一つの名前も教えておこうか。誰がいつ言い出したものか知らんが、この学園はこう呼ばれている。――《魔人学園》と」

「魔人学園…」

 龍麻はなぜか、その呼び名を噛み締めるように口にした。

 ふわりとした挙措で体育館を見上げ、次いで校舎に、その先にある旧校舎へと視線を向けていく。なにを考えているのかはまったく判らないが、どこか神秘的な雰囲気に打たれて、葵も、京一も、醍醐も押し黙っていた。

「…ぴったりだな」

 やがて、龍麻が重々しく口を開いた。

「何が…だ?」

 京一が問う。龍麻はそんな京一を真っ直ぐに見て言った。

「頭に《ひ》をつければ、まさにお前にふさわしい学園だ」

「え…?」

 三人とも一斉に首を傾げ、それぞれ頭の中で《魔人学園》に《ひ》を付けてみる。

「暇人学園」

 本人はいたって大真面目に、びしっと京一を指差して言った。

 運動場でクラブ活動をしていた陸上部の生徒たちは、体育館裏から美声と野太い声による爆笑と、やや高い声でなにやら叫んでいる声を聞いたと言う。

 それが緋勇龍麻の、真神学園転校初日の事であった。





 第壱話 転校生 2   完



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