第零話 龍の刻 3





 
 授業時間はともかくとして、休み時間は一瞬たりとも気を抜けないまま、龍麻はその日の放課後を迎えた。

 クラスメートたちは突然同級生を襲った悲劇に、いまだあちこちで輪を作ってひそひそ話をしている。目を刺した少女はクラスのムードメーカーだった。うるさいほどに明るく人懐こく、また世話好きで、少なくともこのクラスで彼女を嫌っている者はいなかった。《根暗》な《軍事オタク》の龍麻に対しても、ごく普通に接していた数少ない人間の一人である。そして誰も、噂のように彼女が受験ノイローゼの果てに自ら目を刺したなどとは思っていない。

 皆、気付き始めたのだ。何かが動き出している事。退屈な日常が緩やかに、しかし確実に侵食されている事を。

 相手は、解っている。しかし、動くべきだろうか? 自分はもはや、一介の高校生に過ぎないはずだ。自ら動いて、今の生活を乱すべきか? 目立たぬ事こそ、最高の生き残りの手段だというのに?

 クラスメートたちのやや冷たい視線を背に浴びながら、龍麻は帰り支度を済ませ、教室を出た。

「あ…!」

 扉を開けると、そこでばったりとさとみに出くわした。

「あ、あの、緋勇くん…」

「…ここではまずい。場所を変えよう」

 この数日の龍麻の行動に、クラスメートが注目し始めている。奇しくも、龍麻が彼らしからぬ行動を取った時を境に、日常が崩れ始めたのだ。口には出さずとも、龍麻には少なからぬ疑惑が向いている。

「緋勇くん…今日、比嘉君と話をした?」

「肯定だ」

「…朝までは普通だったのに、午後になってから彼、様子が急におかしくなったの。何か妙に塞ぎこんで、悩んでいるみたい。緋勇くん、何か聞いてない?」

 幼馴染とは、こういうものか。さとみの相談を引き受けたものの、それが自らの身の危険に対するものではないと知って、龍麻は少し驚いていた。

 莎草が転校してきたのは三ヶ月前。その間大人しくしていた理由は不明だが、この数日の間になにやら得体の知れない力を振るって事件を起こし始めた。今のところ、女生徒に対する脅迫等のレベルであるが、あの独裁者的発想と自己抑制のできない未熟な精神の持ち主であれば、近いうちにより大きな、他人を大勢巻き込むような事件を起こすだろう。

 そんな男に狙われているさとみだ。普通人である自分にボディーガードを依頼するとは思えないが、不安や恐れを口にするものと思われたのだが、比嘉の事で話があり、彼が心配だと言うのだ。

(これが、他人を思いやるという事なのか? 非論理的ではあるが、何故だ? 心地良い気分になる)

 他人の事を考え、自らを犠牲にしても、なんら得はない筈だ。しかし、《隊長》はそれこそが《人間である証》だと教えてくれた。ならば、と龍麻は考える。

「実は今朝、〇八〇五時に莎草と接触したのだ。焚実は君の事について彼に注意を喚起したのだが、その要求を聞き入れられぬばかりか、逆に脅迫を受けたのだ。忠告する。さとみ、莎草は危険思想の持ち主だ。可能な限り接触は避け、一人での行動はなるべく自重しろ。必要ならば、警察機構への通報も実行するべきだ」

「うっ、うん…。でも…」

「?」

「緋勇くん。比嘉くんを助けてあげて。彼、凄く苦しんでる…。知り合って間もないあなたにこんな事を頼むなんて、変かもしれないけど…」

「……」

「そ、それじゃあ。」

 自分で言っておきながら、やはりかなり無理がある事に気付いたのだろう。しかし特に訂正する事はなく、さとみは立ち去った。

(…最後まで、自分よりもまず他人か。莎草に対する脅威を認識していない訳ではないというのに…。この一件に介入する事は本意ではないのだが…)

 自分が介入するとなると、この一件、受験ノイローゼの果ての凶行では済まなくなる。悪くすれば自分の存在が明るみに出、裏世界の住人が騒ぎ出す恐れもあるのだ。そうなればさとみや焚実だけではない。クラスメートが、全校生徒が危険に晒される恐れもある。

 実際に、昨夜、名前も名乗らぬ男から警告を受けた。

《この件には関わるな。現在の生活を続けろ。おかしな考えを起こすな》

 それだけを一方的に言い、電話は切れた。

 明日香学園に転入して、約一年。その間、決して絶えた事のない監視者からの連絡は、これが初めてだ。《彼ら》もこの事態を異常なものとして捉え、自分が介入する事によって発生する影響を懸念しているのだろう。

 だが、龍麻の足は自然に二−Aに向かっていた。

 自分の行動が非論理的である事も、無益な事だともわかっていた。しかしさとみの願いを無視する事は、《隊長》の言葉に反する事のように思われたのだ。

 焚実は一人、教室に残っていた。龍麻に気付き、この世の終りでも来たような深刻な顔から、一転して笑顔を見せる。だが、少し固い。

「なんだよ、俺を捜しに来たって…まさか、デートのお誘いじゃあるまいな?」

 冗談まで冴えない。今朝の一件は彼に重大な精神的ストレスを与えたようだ。

「そうだ、緋勇。一緒に帰らないか?」

「肯定だ。俺はそのために来た」

「…ありがとう」

 常と変わらぬ龍麻の態度に、焚実も僅かばかり表情を緩ませる。しかし、肉食獣の潜んでいるジャングルを行く草食動物のような、おどおどとした態度までは変えられなかった。

 彼の警戒の理由はただ一つ。莎草との遭遇を恐れているのだ。そして、朝の一件があったにも関わらず、まったく態度を変えない龍麻に対し、堪えきれなくなったように言葉を吐き出した。

「なあ、緋勇…。お前…平気なのか? 何も…感じないのか?」

「……」

「俺は、この学校が怖い――。こうやって、この場にいるのが怖い――。明日になれば、また何かが起こる…きっと。…誰も、あいつに逆らえる訳がない。あいつ――莎草に」

 龍麻が何も答えないのも、気にかける余裕がないらしい。龍麻に聞かせるというより、自らに言い聞かせているかのようだ。恐怖はその対象を抹消するか、その庇護下に入る事でしか消せない。

「あいつは…普通じゃない。きっと…また、誰か狙われる。だけど、俺たちのような普通の人間には、どうする事もできない。あいつのあの眼で睨まれた時、俺は、身体が動かなかった。あいつ…あいつは――」

「…焚実。その辺りで止めておけ」

 龍麻は、だんだんと大きくなる焚実の声を遮った。

「人間を殺すのは、《あきらめ》だ。前に進む事を《あきらめ》ては、何物も手にする事はできない。昨日より今日、今日より明日。《あきらめ》を拒絶し、挑み続ける者には、必ず掴むべき未来がある」

「緋勇…?」

 この無口な男の発する、凄まじく重い言葉。とても同じ歳の少年の言葉とは思えない。彼の口調はいつもと変わらないのに、人生の辛酸を嘗め尽くした大人の響きを含んでいる。

「緋勇くん――」

 突然の龍麻の変化に、焚実が戸惑っていると、落ち着いた声が校門の陰からかけられた。

「そろそろ下校する頃だと思ってね。待たせてもらったよ。少し、君と話がしたくてね。いいかな?」

「…恐縮ですが、自分は…」

「何か――あったんじゃないかね?」

「……」

 この鳴滝という男も、目下のところ正体不明だ。敵ではないが、味方と言うには早計だ。少なくとも今は、焚実とさとみを優先せねばと思ったのだが、いきなり核心を突いて来た。《なにか》を《調査している》事は知らされていたが、まさか、この事だったとは。

「あッ、あのッ!! 何か知っているんですかッ?」

「君は?」

「あッ、すいません。俺は、緋勇と同級生の比嘉焚実っていいます」

 そうか、と言って、鳴滝は焚実を静かに見つめた。

「さっき、何かあったんじゃないかっておっしゃいましたけど、この学園で、起こっている事を何か、知っているんですか?」

 気負い込み過ぎだ、と龍麻は思ったが、口には出さなかった。焚実は自分とは違う。多くの場合において、まず自分で問題を解決しようとし、また、解決してしまう能力を身に付けた自分とは。

「ここではなんだ。付いて来たまえ。私の道場に行こう」

 鳴滝は、自分の乗ってきた黒い乗用車を示した。

 促されるまま、龍麻は焚実とともに車に乗り込んだ。





 先日渡された地図の道場とは、鳴滝が校長を勤める拳武館という高校の道場の一つであるという事であった。本校は東京にあるらしいが、日本の各地にこのような支部道場があるらしい。建物の造りは比較的新しいものであったが、総檜張りの床や壁は流した血と汗を染みこませつつ、入念に磨き上げられた年輪を経ている。精神を落ち着かせる効果のある檜の香りの中にも、ここで汗を流した者たちの気配が色濃く残っていた。更に龍麻には、ここで行われる鍛錬が市井の格闘技道場を超えた、極めて高度で実戦的な訓練を行っている事が感じ取れる。この道場に染み付いた気配は、血とアドレナリンの香りが濃すぎるのだ。それはかつて、自分のいた《あの場所》を彷彿とさせた。

 寛いでくれ、と言われたものの、焚実は居心地が悪そうだ。無理もない。彼は本当に、普通の人間なのだ。

「この世界には、君たちが想像もできないような《力》が存在する」

 一刻も早く、少しでも情報が欲しい焚実を押さえるように、鳴滝は彼らと差し向かいに座って話し始めた。

「今年の始めから、猟奇的な事件が東京を中心に多発している。君たちが体験しているような事件がね…」

「……」

「今、私も、その事件を調査中だ。いずれ、解決するだろう」

「いずれ――って、異変は今、起こっているんですよ。今、俺たちの学園で――」

 再び、莎草の目を思い出したが、焚実がぶるっと身を震わせる。しかし、鳴滝の答えが彼の望むものと違う事を、龍麻は予測していた。

「やり過ごす事だ」

「えッ――?」

「関わり合いにならない事だ。今の君たちにとって、それが最善の方法だ…」

 当然、焚実は納得がいかない。それも、龍麻の予想通りだ。

「いったい、何が起こっているんです?」

「君が、それを知る必要はない」

 鳴滝の言葉は氷の刃を思わせた。ごく普通の少年よ、お前にはそれを知る権利がない。暗にそう言っているかのようだ。

「もう時間も遅い。奥に休める場所がある。今日は、道場に泊まっていくといい」

「ま、待ってください! 俺たちの同級生たちが襲われているんですッ。それを見てみないフリをしろっていうんですかッ? 友達を見捨てろと――」

「そうだ」

 鳴滝は断ち切るように言う。

「そんな事、できる訳ないじゃないですかッ。そんな事…」

 焚実は、どこまでも真っ直ぐだ。純粋で、毒がない。むしろこんな時でも、他人を分析している自分に、龍麻は胸の内で苦笑した。所詮他人でしかない同級生だが、それが傷付けられた時、人間とは怒るものらしい。

「それでは、聞くが、君たちの力で、敵う相手だと思っているのか?」

「……」

「君たちが、立ち向かって、倒せる相手だと」

 それこそが、焚実を恐怖に陥れている原因だ。鳴滝は容赦なく切り込んでいった。

「敵わない相手に戦いを挑むのは、勇気ではない。それは…犬死にだ」

「……。」

 焚実が遂に一言も言い返せなくなるほどきっぱりと断言し、鳴滝は部屋を出て行った。

「そんな…そんな事って…緋勇、お前はどう思うんだ? 同級生を――友達を見捨てられるか?」

「判らん」

「緋勇!」

 思わず激昂したのだろう。焚実は龍麻の胸倉を掴んだ。しかし龍麻はびくともせず続けた。

「残念ながら、鳴滝氏の言う事にも一理ある。そもそも、お前は言った筈だ。《誰もあいつに逆らえない。普通の人間が、敵う相手じゃない》と。鳴滝氏が言った事も同じ事だ。焚実、酷な言い方だが、お前は鳴滝氏に何を期待した? 自分を守ってくれるヒーローだとでも思ったか?」

「ッッ!!」

「…彼も、普通の人間だ、俺たちと同じ、ただの人間だ。鳴滝氏とて、悪気があって友を見捨てろと言った訳ではあるまい。感情を押し殺していたが、酷く辛そうだった。お前なら判るだろう?」

「……」

 焚実は脱力したように龍麻から手を放し、床にへなへなと座り込んだ。

「悩んでいるのも、恐れているのも、お前一人ではない。さとみが心配していたぞ。俺も奴の脅威を肌で感じている。さとみには奴に近づかぬように警告しておいた。明日、他の者にも同じように伝えよう。いいか――」

 長い台詞を言いづらそうにしながらも続ける龍麻の顔を、やっと焚実は見上げた。

「奴の力は恐ろしい。だが、絶対ではない。奴は普通ではないが、あれ以外はただの人間だ。必要以上に恐れるな」

 この男は、どうしてこれほどまでに強いのだろう。焚実はそんな顔で龍麻の顔を見上げている。龍麻の目は相変わらず見えないから、その真意を探る事はできない。しかし、彼の身体は少しの震えもなく、恐れや不安など微塵も感じさせない。それどころか、その声を聞いて焚実は少しだけ身体が軽くなったような気がした。

「今日は休もう。何をするにしても、体力は必要だ」

「ああ…そうだな…」





 深夜、龍麻は焚実の寝息が深くなった事を確認し、そっと布団から抜け出した。

 向かう先は道場だ。勘が正しければ、鳴滝はそこにいる。

「眠れないのかね?」

 予測通り、鳴滝はそこにいた。

「私も仕事があってね…。今夜は徹夜になりそうだ」

「……」

「そういえば…焚実くんは君の親友かね?」

「肯定であります。出会ってからまだ三日ですが」

 三日の付き合いで、親友と言い切るとは。鳴滝は驚き、しかし何事か納得したようだ。

「君は、強くなりたいという願望はあるかね?」

「肯定であります」

「…何のために? 強くなってどうする?」

「自己を鍛え、全体のために奉仕します」

 少なくとも、あそこではそう教えられた。厳密には、普通の者たちはそうやって教えられているのだ。自分たちには、そんな教えは一切なかった。必要なかったからだ。

「全体? 他人を…という事かね? …そんな事を、本気で考えているのか? そんな事が本当にできると…。それでは、もし――もし、仮にだ…。君の親友でもいい、大切な人が、今回の事件に巻き込まれたらどうするね? 事件を引き起こしている者と闘うかね? 相手に勝てないとわかっているとして…だ」

「肯定であります」

 龍麻は即答し、鳴滝の反応を待った。

 ややあって、鳴滝は搾り出すように言った。

「誰かを護るために、自分の命を賭けるなんて、馬鹿げているッ。誰かを――何かを護るために死ぬなんて、愚かな行為だ…。後に残された者の気持ちを考えてみろ。その者たちの想いを――お前は、それを、どうやって、受け止めてやれるんだッ。お前は――ッ…」

「……」

 冷静沈着が身に染み付いているような鳴滝が激昂した事に、龍麻は少なからず驚いていた。

 悪い言い方をすれば、龍麻は鳴滝を試したのである。自分の返事によって、彼がどのような反応を示すのか。真に、敵ではないと言い切れるのか。結果は、龍麻の想像以上だった。鳴滝は龍麻に、誰かの面影を見たのだった。

「…すまない」

 思わず我を忘れた自分を恥じるように、鳴滝は謝罪した。この時初めて、龍麻は彼に気を許した。この男もまた、人間なのだ。

「不思議だな…。君と話をしていると、まるで弦麻と話をしているようだよ。ひどく懐かしい気にさせられる…」

「……」

「私は、君には平穏な暮らしをして欲しいと思っている。それが――私が、弦麻と迦代さんから託された、願いなんだ。…何かを護ろうとすれば、それが、かけがえのないものであるほど、人は、大きな代償を支払わなければならない。君には、そういう生き方をして欲しいとは思わない」

 これは、顔も知らぬ両親の想いだけではなく、鳴滝自身の想いも込められているようだった。その意を汲み、龍麻はじっと黙って彼の言葉を受け止めていた。そして知った。自分もまた、決して世界と無縁ではない事を。

「明日も学校だ、少しでも、休んでおくんだ」

「了解です。鳴滝さん」

 龍麻は初めて、彼の敬称を呼んだ。





「おはよッ!」

 変哲もない朝ならば、心が浮かれるような明るい声。鳴滝の道場から学校へと直行した龍麻と焚実は、元気一杯のさとみに声をかけられた。

「比嘉くん、今日は緋勇くんと登校?」

「あッ、ああッ…」

 昨日の今日だ。焚実の声はまだ固い。

「…あのね、比嘉くん。何か悩み事があるなら――」

「なッ、何だよ。そんな顔して。さとみは、元気だけが取り柄なんだからさ」

「……」

 ははは、と力なく笑ってごまかす焚実だが、さとみには通じない。

「ほらッ、行こうぜ」

 龍麻はフォローを試みようとしたのだが、この二人の間に口を挟む最良の言葉が見つけられないまま、焚実が強引に話を切り替える。この辺りの呼吸は、一日二日で身に付くものではない。

 しかし、良くも悪くも厄介事に気付いてしまう焚実であった。

「あれは…莎草!? 学校から出て、どこ行こうってんだ?」

 関わり合うな。龍麻はそう言うように、焚実を見つめた。焚実は一瞬気圧されたものの、すぐに頭を振った。

「やっぱり…俺にはできないッ。よしッ、行ってくる」

「待って! 比嘉くん!」

 こういう場合は、龍麻よりさとみの方が焚実を止める術を知っている。彼女は焚実の腕を掴んだ。

「上手く言えないけど…嫌な予感がするの。すごく…。二人とも、莎草君には関わらないでッ。ねッ?」

「肯定だ。心配はいらん。焚実、お前も――」

 しかし、焚実は何かを振り払うように首を振った。

「駄目だよ…駄目なんだよ…! 俺は、やっぱり、このまま見過ごす事はできない。見て見ないフリなんて、できない――」

「だ、だからって、何も比嘉くんが行く事はないじゃない!」

「さとみッ! ここで…ここで行かなかったら、俺は、自分の心に負ける。弱い――自分の心に負ける事になる…」

「比嘉くん…」

「それに、あいつらは俺たちの同級生だろ? 友達を見捨てる訳にはいかないよ。…緋勇ッ、さとみを頼むぜ!」

 その気になれば、龍麻なら自分を止められると知ったからであろう。焚実はぱっと身を翻して走り出した。

「比嘉くんッ!」

 思わず追いかけようとするさとみの腕を、今度は龍麻が掴み止めた。本当は、焚実を止めるべきだったのだが。

「さとみ。焚実は俺が追う。君は教師にこの事を告げろ。奴が、莎草が焚実を殺すつもりだとな」

「ええっ!?」

「頼んだぞ。行け!」

 焚実が校門を抜けるのに遅れる事三十秒ほどで、龍麻も校外に出た。しかし、莎草たちはおろか、焚実の姿も見当たらない。校門を出てすぐに、住宅街に入り込んだらしい。

 こういう時は、闇雲に動いても目標を捉える事はできない。龍麻は学校周辺の地形を考えた。まだ早朝とはいえ、高校生が集団で学校とは違う方向に向かっているとなれば嫌でも目に付く。そしてそういう不良がたむろするにふさわしい場所は、時間的に限られている。

(恐らく、明日香公園)

 そう答えを導き出すのに、三十秒とかけなかった。そして明日香公園は、走れば一分の距離にある。

 人気の少ない住宅街の路地を走る事十秒ほどで、なにやら威勢のいい声が上がっている。莎草の傘下に入った連中の声だ。そして龍麻は、殴られて地面に転がった焚実と遭遇した。

「目障りなんだよ! 比嘉ッ!」

「ん――なんだぁ、テメエは? 余計な事に首突っ込むと、お前も痛い目見るぜ」

 龍麻は答えず、周囲を見回した。

「……?」

 莎草の姿が見当たらない。手下の数も一人足りないようだ。焚実の処理をこの三人に任せて、既にどこかに移動してしまったのだろうか?

「テメエ、聞いてるのかっ!」

 三人は吠えたが、龍麻は耳を貸さず、焚実の元に歩み寄り、彼を助け起こした。

「ひ、緋勇…」

「お前の行為は正当かも知れんが、無謀だ。自分の戦闘力をわきまえろ。さあ、学校に戻るぞ」

 そう言う龍麻は、三人の不良にはまったく注意を払っていない。その自信に満ちた態度は、不良たちの癇に障った。そして、いずれもほんの三日前までは、それほど荒れていない、少しばかり反発心が強いだけの生徒だった筈なのに、今は妙に強気で、邪悪さを滲み出させている。

「テメエ、無視するんじゃねえ!」

「どけ。自分は、お前たちに興味はない」

 龍麻は焚実に肩を貸したまま、きっぱりと言い切った。

「なンだとォ…?」

「お前たちが誰に尻尾を振ろうが、知った事ではないと言っているのだ。当然、お前たちの生死にも興味はない」

 自分は焚実とは違う。はっきりと堕落への道を選んだ者たちに救いの手を差し伸べてやるほど、自分は善人ではない。それが判っているからこそのこの台詞だ。

「ヤロウ…」

「…少し、痛め付けておくか」

「馬鹿な奴だぜ…。へっへっへ…」

 三人が周囲を取り囲む。ニヤニヤと笑いながら、拳を固める。

「強い味方ができて心強いか。お前たちにぴったりの言葉を知っている。《虎の威を借る狐》だ」

「うるせえ! この野郎ッ!」

 三人は一斉に飛び掛ってきた。

 勝負は一瞬で付いた。

 焚実に肩を貸したまま、龍麻の右足だけが振り上がり、瞬時に三人の顎を蹴り抜いたのである。それはボクシングのフックと同じく、不良たちの脳を揺さぶり、脳震盪を起こさせた。不良たちは自分たちに何が起こったのか理解せぬまま、地面にへたり込んだ。

「こ、コイツ…強ェ…!」

 影のように印象の薄い男が垣間見せた《牙》に、素に戻る不良たち。自分より強いものを見抜く目がなければ、不良などやっていられない。

「お、お前たち…どうして莎草に…」

 自分は殴られた方だろうに、焚実はまだ彼らを気遣う。龍麻には彼の心情がまるで理解できなかった。既にこいつらは敵対した。本来なら、殲滅してしかるべきだというのに、この男は…。

「比嘉…俺たちに関わるな」

「え…?」

「お前のためを思って言ってるんだぞ…! あいつは、莎草は…!」

 襲撃者とは思えない、真摯な響き。龍麻は耳を疑った。この不良たちが、焚実を気遣っている?

 しかし、その疑問は異常な光景に打ち消された。そこまで言った不良が、自ら自分の首を締め始めたのである。

「うおッ、首が絞まる…!」

「くッ、苦しい…!」

 そして、その男が悠然と現れた。

「余計な事をしゃべってんじゃねえよ…」

 みるみる顔を青紫に染めていく不良たちを、ひどく冷たい目で見下ろし、莎草は笑った。

「よォ、比嘉。人形劇へようこそ…」

「ひ…が…!」

 不良はもはや、息絶える寸前だ。顔色が青紫を通り越し、チアノーゼ症状を起こす。もってあと、十数秒――

「止めろ! 莎草ァ!」

 龍麻に肩を借りたまま、焚実が叫ぶ。最悪の状況に陥った事を龍麻は知った。この男、莎草に真っ向正面から戦う事はできない。状況判断のできない素人はこれだから――と、ずっと封印していた意識が甦りかける。

「もうすぐだよ、比嘉。もうすぐ、この学園が――この町が、俺に支配される。くくく…裏切り者には、死あるのみだ」

「ウオオオッッ!」

 一旦首から手が離れ、肺に息を取り込んだ不良であったが、次の瞬間にはもう一度、さっきよりきつく指が喉に食い込んだ。

「ほらほら…締まれ締まれ――」

「かっ…はっ…!」

 ぐる、と不良が白目を剥いて地面に転がった。それでも手は首を締め続ける。

「莎草ァ!」

 とても見ていられず、焚実がバッと飛び出した。拳を握り、莎草を――

「…俺を殴るのか? くくくッ」

「なッ、何がおかしいっ!」

 その笑いだけで、拳が止まってしまう焚実。既に迫力で負けている。

「果たして殴れるかな? 臆病者の…お前に」

「フッ、フンッ! 訳の判らない事ばかり言うな! これでも、くら…!!」

「!」

 まただ。焚実は殴りかかる姿勢のまま、その場に硬直した。無理やり動きを止められたような、ストップモーション。

「かっ…身体が、また動かないッ!」

「そうか? それは本当に動かないのか? 動かないんじゃなくて、動かせないんじゃないのか? お前の本能が、恐怖を感じているだけじゃないのか?」

 よく言う、と龍麻は、ひどく冷静に状況を分析していた。

 焚実が動けないのは、間違いなく莎草の仕業だ。原理は判らないが、自分の力を誇示するために、あえてそんな事を言って焚実を挑発しているのだ。自分を恐れろ、我をあがめよ。龍麻はそういう人間を何人も見てきた。実際は大した事のない力なのに、自分を必要以上に誇示し、誇ろうとする人間を。

「細胞に刻み込まれた恐怖が、俺と闘うのを拒否しているだけじゃないのか? 逃げてもいいんだぜ、比嘉くん。尻尾を巻いて、なりふり構わず、友達を見捨てて逃げたところで、誰もお前を責めやしないさ。誰も、お前の弱さを責める事などできやしない。たかが、人間のお前をな…」

 くくく、と、莎草は喉の奥で笑う。だが、その笑いに唱和する笑いがあった。

「なッ…緋勇…!?」

 莎草とともに笑っているのは、龍麻であった。さすがに莎草が振り返る。龍麻の笑いが理解できないのだ。

「そいつの言う通りだ。焚実、逃げてみろ」

「な、なに…!?」

「逃げられるものなら、逃げてみるのだ、焚実。それができないのならば、お前は恐怖など感じていない。そうとも、こんな屑に、恐怖など感じる訳がない」

 感情のこもらぬ、いつもの口調。それはこの状況では、凄まじい侮蔑となった。

「テメエ、何様のつもりだ? 誰に向かって口を聞いているんだ?」

「細かい事でいちいちキレる、誇大妄想狂とだ。突発性自爆体質とも言う。あるいは変態三面記事男とでも呼ぼうか? そう、いずれも、お前の事だ。」

 今度は、思い切り嘲るように言う。莎草の顔色が変わった。龍麻が、少しも自分を恐れていないと悟ったのだ。その怒りが我を忘れたか、不良の手が首から離れ、焚実も硬直が解けて地面に倒れこむ。

「テメエ…!」

「それ以上口を聞くな。お前の口は臭い」

 一度挑発すると、龍麻は容赦しなかった。拳を振るわずとも、言葉だけで充分な暴力だ。

「学校を、街を支配する? お前が? 政治家にでもなるのか? それともショッカーの首領か? 実に見事な妄想っぷりだ。きっとお前の相手は仮面ライダーかスパイダーマンなのだな。なるほど。お前ほど楽しい馬鹿を相手にするのは、普通の人間には荷が重過ぎる。焚実、それからお前たちも、早く逃げるがいい。こいつの脳を黴付かせている病気は、伝染するぞ」

「て、てめえ…!」

「先程からそればかりだな。いよいよ、ココがおかしくなったか?」

 頭の横で人差し指を廻して見せる龍麻であったが、突然、その手が龍麻自身の首に食い込んだ。

「…ッッ!」

「舐めやがって…テメエはここで死ねェ!!」

「そ…れ…は…不可能…だ。おま…え…は…屑…だ」

「ッッ!!」

 龍麻の指が急激に締まる。だが、なんという事だ! 龍麻の青紫に変色していく顔には、凄まじい笑いが浮かんでいるではないか。

「緋勇…!?」

 焚実も、他の不良も、その凄まじい闘いから目が離せない。どう見ても勝ち目のない龍麻が、笑っているのだ。

 だが、その決着を見る事は叶わなかった。その時、絹を引き裂くような女の悲鳴が上がったのである。

「チイッ! 誰か来たか!」

 瞬間的に、龍麻の息は楽になった。手の動きが自分の意思に戻る。驚くべき事に、まず《それ》を確認する龍麻であった。

「緋勇くん! 比嘉くん!」

「さとみッ!?」

 しかし、それは救助の手ではなかったようだ。そこにいるのはさとみだけだ。龍麻は小さく舌打ちした。あれほど来るなと念を押しておいたのに、何故一人でここに!?

「さとみ! 逃げろ! こいつは――!」

 焚実の声は途中で止まった。莎草が術をかけたのだ。

「ククク…こいつは良い。おい、青葉を連れて来い」

「はい――」

 逆らえば仲間さえも、まるで弄ぶように殺そうとする莎草。残りの不良が逆らえる筈もなかった。たちまちさとみは二人の不良に押さえつけられた。

「止めろ! 莎草!」

「おっと、二人とも動くんじゃねェよ。動けば…判ってるよな? くくくッ…」

「判っているとも――」

 たった今、殺されかけたばかりの龍麻の声は、信じられぬ事に、まったく普通であった。

「貴様に未来はない。脅迫、暴行傷害、誘拐、殺人未遂、殺人を犯した犯罪者だ。その拙い力があるために、貴様は《人権》すら与えられる事はない。行く末は、アメリカ辺りの研究所で薬漬けの標本だ」

 これ以上はない、異常な《力》に対する最大限の侮蔑。莎草はキレた。今度こそ、完璧に。

「やれッ! 殺せ!」

「あッ、比嘉くん、危ないッ!!」

 焚実にとって、振り返る瞬間が致命的だった。莎草に対する恐怖のはけ口を焚実に求めたか、不良は狂ったように焚実を殴りつけた。

 同時に、龍麻も――

「お前たちも、未来を捨てるか?」

「うるせえんだよォッ!!」

 龍麻は身構えようとして、それが叶わぬのを知った。莎草が、龍麻に術をかけたのだ。特殊警棒の強烈な一撃が後頭部を襲い、目の奥で火花が散る。だが、倒れない。莎草の術のせいだ。二撃、三撃。龍麻の唇が切れ、血が飛ぶ。

 その時、流れた前髪の中に、赤く光を放つものがあったのを、誰が気付いたろう。いや、それは誰も気付く事はなかった。さとみが呼んだ教師が、おっとり刀で駆けつける声が聞こえてきたのだ。

(貴様は俺の敵にまわった。覚悟を決めろ。お前は終りだ)

 教師たちが駆けつけ、大声を張り上げる中、術が解けた龍麻はゆっくりと地面に倒れ込んだ。

 そしてそのまま、意識を暗黒にゆだねた。





《ボウズ、強くなれよ。誰よりも強く、俺よりも強く、ちいっとばかり人の世話焼きができるくらいにはよ。そして、まあ、なんだ。叶うのなら、そこそこ平凡な一生を送ってくれ》

(勝手な事を言うな)

《俺はお前の成長を見届けられねえ。情けねえがな。まあ、許せ》

(自分は、お前など知らない)

《だがもし、宿星ってやつがお前に闘えってんなら、友のために闘え…。かけがえのない友のためにその拳を振るえ――。護るべきもののためにその技を使うがいいぜ――》

(仲間は全て死んだ。俺に命令するな!)

《力ってやつぁ、何かを護ろうとする心から生まれるもんだ。その心が力になる。そいつを忘れんじゃねえぞ――龍麻よ》

(……!)





 龍麻はかっと目を見開き、身体にかけられていた布団を跳ね除けて起き上がった。

「…目が覚めたかね?」

 檜と血と汗とアドレナリンの匂い。静粛な雰囲気。そして、落ち着いた声。ここは、拳武館支部道場であった。

「随分と手酷くやられたものだな。あれほど、今回の件に関わるなと忠告したはずだが。…君たちが、どうにかできる問題ではない」

「さとみはどうしました?」

 鳴滝の説教を無視し、龍麻は言った。殴られた後頭部に手を当てる。手当てがされていたため、腫れはだいぶ治まっているが、まだズキズキ痛む。

「私が連絡を受けて明日香学園に赴いた時、君しか残っていなかった。そのさとみとかいう少女の事は、教師たちの話には出てこなかったが、部下からの報告だと、明日香学園の少女が一人、攫われたそうだ。今、行方を追っている」

「焚実…比嘉は?」

 口の中に手を突っ込み、歯の状態を調べる。運が良かった。一本たりともぐらついている歯はない。腕や肩の打撲も、骨には届いていない。

「いや、その少年の姿はなかった。君の隣に寝かされていたそうだが、いち早く抜け出したようだな。後を追ったのかもしれん」

「そうですか。…世話になりました。失礼」

 布団の脇に畳まれていた制服に手を伸ばす。一瞬、憮然とした顔になる。制服はあちこちが裂け、見るも惨憺たる有様だった。

「君は休むべきだ。後頭部の打撲と、身体に複数の裂傷。まだ激しく動いていいものではない」

「…ままならない世の中です」

「気持ちは判るが、今の君では、どうしようもない。闘ってみて、充分判った筈だ。普通の高校生相手になら、互角以上に闘えるかもしれないが、倒すべき相手は、人間ではない…。いわば、《魔人》だ。人が――それも、一介の高校生が勝てる相手ではない。《人ならざる力》を持った者に、人間が勝てる道理はない。現実は、非情だ。ただ、悪戯に犠牲者を増やす訳にはいかない。君にも、それが判っている筈だ」

「……」

「攫われた君の仲間の事は、放っておくんだ」

 鳴滝の表情のない顔は、龍麻には苦渋に満ちて見えた。

「行けば、間違いなく、命を落とすだろう。自分を犠牲にして、誰かを助けようなどと、思わない事だ。死んでどうなる…。死んで何かを為せると思っているのか? 君は、生き続けるんだ。弦麻と迦代さんの分まで――」

 龍麻は、しばらく黙っていた。しかし、それ以上鳴滝の説教が続かぬ事を知ると、ぴしりと敬礼した。

「話は終りですか? では自分はこれより、青葉さとみ、比嘉焚実両名を救出に参ります」

「なッ…君は私の話を…御両親の想いを無にすると言うのかね?」

「自分に、両親の記憶はありません」

 遂に、龍麻は口にした。

「それに、鳴滝さんは自分の事を誤解なさっておいでだ。自分が平凡な生活を送ってきたと、本気でお思いですか?」

「……」

「自分は、誰かのために死ぬつもりは毛頭ありません。それ以前に、何故あなたがあの程度の相手をそれほど恐れるのか、理解に苦しみます。さとみと焚実は救い出します。そして自分も、生還します。顔も知らぬ両親のためではない。自らの信念に従い、散って行った仲間たちと共にあらんがために、自分は生き続けます。自分が生き続ける限り、我々は終りではない」

 龍麻は、長く伸びた前髪をかき上げた。

 そこにあるものを見て、鳴滝の顔が初めて驚愕に彩られた。

 続けて龍麻は、Tシャツを脱ぎ捨てる。怪我の治療の時には見えなかった、全身に刻まれた弾痕とナイフ傷、そして、左肩の刺青が露わになる。その紋章を、裏社会に生きる顔を持つ鳴滝が知らぬ筈はなかった。

「自分に対する妨害行動は、これを敵対行動とみなし、実力を持って排除します。父親の友人と言えど、自分に例外はありません」

 きっぱりと言い切る龍麻に、鳴滝はやや圧倒されつつ、ようよう言った。

「なるほど…。今までどうしても見つからなかったのに、極めて平凡な経歴が揃っているものだと不思議に思っていたよ。君が、そうだったのか」

「納得できたのならば、行かせて下さい。二度は言いません」

「いや、どうしても行くと言うのなら、私の部下たちと闘ってからにしてもらおう。いずれも――鍛え抜かれた武闘家ばかりだ。君の《力》を私に見せてもらおう。君が、大切な者を護りたいという想い、その想いの強さを私に見せてくれ」

 ずわり、と道場内に殺気が満ちた。鳴滝の部下が姿を現したのである。鳴滝の言葉に嘘はなく、滅多にお目にかかれないほどに高圧的な気をまとっている。腕前も相当なものだろう。

「いいでしょう。ただし、三分だけです」

 風もないのに揺れた龍麻の前髪の中で、真紅の輝きが一つ、妖しく光った。





(さて、どうするか)

 闘うと表明したものの、正直なところ、龍麻はこの戦いに意味など見出せていなかった。鳴滝を納得させるだけの腕前を見せろと言うだけなら簡単だ。この場で彼の門下生五人を叩きのめす事はたやすい。だが、それは無駄な体力の消耗を誘うだけであり、そしてこれから戦いを挑む相手は常人を超えた――鳴滝言うところの《魔人》だ。この戦いは予行演習にもならないのである。

 しかし、鳴滝の門下生はやる気満々だった。相手がどういう人間か知らされているせいか、龍麻がまだ構えていないのも構わず一人目が突っかけてくる。実戦というものを少しは弁えているようだ。

「せやっ!」

 古武道とは言いながら、近代格闘のセオリーである左ジャブから左右のワンツー。そしてローキック。腕試しに呼ばれただけあって、なかなかの使い手だ。リズムがあり、攻撃も良く伸びる。フットワークには古武道の足捌きを用いているので、体重移動もスムーズだ。正式な試合ならばまずトップクラスであろう。

(長引かせると面倒だ)

 真横に隙ありと見て、一人目がストレートを龍麻の側頭部に叩き込もうとした瞬間、龍麻は猛然とダッシュした。

「!!」

 まさか自分たちが狙われているとは、彼らは夢にも思わなかったに違いない。龍麻が狙ったのは完全に構え切っていない二人目と三人目であった。彼らは完全に虚を突かれ、二人目は基本中の基本、真っ直ぐ突き出す《掌打》を顔面に浴び、三人目は《掌打》と同時に繰り出していた龍麻の横蹴りに水月をえぐられた。二人ともその場に垂直に崩れ落ちる。真に強力な打撃が決まった証拠であった。

「しまった!」

 とは口にしなかったものの、残る三人の表情がそう語る。龍麻が多対一の挑戦を受けた事で、この事態を想定しなかったのは致命的なミスだった。ましてこの男は――!

「シイィッ!!」

 残る四人目と五人目が前蹴りを繰り出す。杉板なら十枚を軽くクリアーする蹴りであった。命中すれば、皮膚を突き破って内臓を破壊しうる――

 当たれば、だった。

 龍麻は身体の軸線のみずらして蹴りをやり過ごし、彼らの軸足を軽く払った。蹴りを放った姿勢で軸足を狙われて、何でたまろう。二人ともあっけなく床に転がリ、受身を取り損ねた四人目がそのまま昏倒する。龍麻は軽く、しかし容赦なく五人目の喉を爪先でえぐって悶絶させた。

「来い」

 ここまでで、僅か十秒。あっという間に一人になった男の背に戦慄が走り抜けた。

 仲間の腕前も、コンビネーションを組んだ時の強さも熟知している。だがこの少年は、それを雑草を刈り取る無造作さで、あっという間に倒してしまったのだ。

 次の瞬間、龍麻は男の目の前にいた。

「ッッ!!」

「遅い」

 軽く見えるが、腕をバネのようにして弾き出す《掌打》の刻み打ちを三発。男の目の前で火花が散った。はっと気付くと、既に龍麻の腕は男の喉に絡み付いていた。いわゆる裸締め、チョークスリーパーである。

「眠れ」

 まるでそれが呪文であったかのように、男は失神して床に転がった。

「……!」

 鳴滝が精鋭だと保障した五人を、一分とかけずに倒してのけた。しかも、極めて無傷に近い状態に手加減して。龍麻の強さは、完璧に作り上げられた兵士のそれであった。

「さすがは…。いや、それが、君の答えという訳か」

「答えなどではありません。彼らは自己を鍛えただけの者。そして自分は殺人技術だけを磨いた者。結果は判っていた筈です」

 淡々とした口調は、五人の能力を馬鹿にしたものではない、ただ事実だけを述べているに過ぎなかった。それを口にするのは、結果の判りきった戦いを仕掛けた鳴滝に対する疑問があったからだ。

「因果は巡る…か。かつて君の父親も、似たような事をよく言ったものだよ。――人間の肉体を破壊するという行為に、気合だの根性だのは必要ない――とね」

 自らの部下が五人も倒されても、鳴滝もまた、落ち着いた口調を崩さない。龍麻の言う通り、彼にとってこれは判りきった結果だったのだろう。

「――今こそ話さねばならんな。弦麻は《人ならざるもの》と闘って命を落としたのだ。人を超えた《力》を持つ――《魔人》と闘って…」

「……」

「君にとっては無意味な事かもしれない。だが、敢えて言っておこう。――人の心には誰しも陽と陰がある。風の流れ、川のせせらぎ…この世界を形造る森羅万象にも、同じように陽と陰がある。その陰に魅入られた者は、外道に落ちると言われている。人ならざる――異形の存在へ。そしてそれを人為的に行う法は《外法》と呼ばれ、今もなお、密やかに受け継がれている」

 そこで鳴滝は一旦言葉を切った。龍麻の表情はまったく変わらない。だが、話は聞いているようだ。

「今回の事件や東京を中心に起こっている数々の事件も、そういった《外法》が絡んでいるのではないかと、私は睨んでいるんだ」

「奴が最初で最後ではない――そう仰るのですか?」

「…断言はしない。だが、いずれにせよ、人には過ぎた代物だ。――明日香学園の近くに廃屋があるのは知っているね? 部下から、そこに君の探す人物が連れ込まれたという情報が入った。そこに行くという意思が変わらぬのならば、せめてこれだけは言わせてくれ」

「……?」

「《陰》に魅入られた者を倒すには、単に肉体を破壊し、命を奪う術だけでは駄目なのだ。君の戦闘能力をもってしても恐らく無理だろう。だが、もしかしたら、君の仲間を護りたいという、その心が、陰を照らし、道を切り開くかもしれない。真の《力》というのは、そういうものから生まれる。今の君には興味のない話かもしれないが、最後に勝利を収めるのは、そういう心の強さなのだ」

「…覚えておきます」

 龍麻には、半分も理解できない話である。心の強さ? 自分には《まだ》そんな感情はない。《それ》らしいものはあるが、それだけだ。しかし龍麻は敢えて、そう答えた。人として生きるという事は、恐らく鳴滝の言っている事と一致するだろう。《人》であろうとする自分がそれを否定してはならない。

「…生きて帰って来い。…必ず」

「了解しました」

 龍麻は両足を揃え、背筋を伸ばし、鳴滝に最大の敬意を表して敬礼した。





 第零話 龍の刻 3    完



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