第零話 龍の刻 2





 
「ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!」

 息せき切って、龍麻は暗い森を駆け抜けていた。

 いつもの夢だ、と思う。早く覚めろ、とも。判り切った結果を、覆す事の叶わぬ結末を迎えるのは、これで何度目になるだろうか? それでもこの夢は、既に起こってしまった結果を見るまでは決して覚める事がない。

「もっと早く!」

 後方を振り返ると、頭に包帯を巻いている、龍麻と同じ年頃の少年が走っている。その更に後方にもう一人、やはり同年代の少年が喘ぎながら走ってくる。俊足の龍麻に比べて、二人の少年は明らかにスピードに劣り、疲労も激しいようだ。

 だが、休んでいる暇はない。ここからは見えないが、約一キロ後方に敵が接近している。恐るべき敵だ。ほんの数時間前まで一緒に訓練していたから、よく判る。このままでは遠からず追い詰められる事も判っていた。その時は、確実に殺される事も。

 ほとんど崖と言ってもいいきつい傾斜を滑り降りた時、《仲間》が言った。

「僕たちはもう駄目だ。君だけでも逃げろ」

「拒否だ」

「このままでは三人揃って殺される。だが君だけなら逃げ延びるチャンスはあるんだ」

「拒否だ。自分たちは殺されぬために隊を脱走した。逃げるのは一緒だ」

「シイッ! 黙れ!」

 周囲を取り巻く、耳が痛くなるほどの静寂。虫の声一つ、葉ずれの音一つ聞こえない、完璧な無音状態。自らの息遣いが、やけに大きく聞こえる。

「…囲まれた」

「どこにいる? 見えない!」

「完全に先回りされ、自分たちは包囲網に追い込まれた。彼らは配置を完了している。見える訳がない」

 龍麻は酷く冷静な声で《仲間》に言った。

 絶望が、包帯を巻いている《仲間》の顔を覆う。龍麻の《上官》に当たる少年は務めて冷静にしているが、焦りの色は隠せない。

「緋勇、自分が合図したら、右翼の敵を掃討してそのまま離脱しろ」

「了解。お前たちは?」

「自分たちはもう動けん」

 《隊長》は、野戦服の裾を捲り上げた。

「……」

 黒々とした血の塊がポロリと崩れ落ちる。先程の銃撃戦の時に受けた傷らしい。敵の兵力は一個中隊。全員がスターライトスコープ付きのM16A2を装備し、対するこちらはショットガン一丁に、二二口径自動拳銃が二丁あるきりだ。手榴弾があと二発あるが、これとてこの密林ではどれほどの効果があるか。

「命令だ。…いや、頼む。緋勇龍麻。お前は、生き残れ。生きて、俺たちの存在が無駄なものではなかったと証明するんだ。たった一人でも生き残れば、俺たちは終りじゃない!」

「……!」

「行け!」

 《隊長》は自分の銃を龍麻に押し付けた。

「生き延びろ! せめて人間らしく!」

「…来た!」



 パラララ!パララララララララッ!!



「!!」

 五・五六ミリ高速弾が潅木を貫いて三人のすぐ傍に着弾する。見つかった!

「GO! GO Now!!」

 《隊長》の叱咤。命令は絶対。龍麻は肩で風を切り、走り出した。

 背後で凄まじい銃撃音。M−16の銃声は最低でも一〇丁。そこにショットガンの銃声が3度混じり、沈黙する。しかし、戻る事はできない。それは命令に反する。

 前方に敵影――見えた訳ではない。勘だ。龍麻は樹の幹を蹴り、敵の頭上を駆け抜けた。次の瞬間、敵の喉元から墨のような血がぱっと飛び散る。龍麻は敵の落とした銃を拾おうとして身を屈め――

「がっ!」

 耳元を唸り飛ぶ大口径の銃弾。狙撃だ! 鼓膜を叩かれ、三半規管にダメージを受けた龍麻は転倒した。彼はそのまま斜面を転がり落ちる。

 突如開ける視界。密林地帯を抜けたのだ。追われるままに、龍麻は基地へと逆戻りしてしまっていたのだ。

 無数のライトが照射され、龍麻の視界が奪われる。その向こうから強烈な殺意と共に向かってくるジープ、装甲車、戦車のエンジン音。そして、攻撃ヘリの爆音。

「射撃用意!」

 《敵》指揮官の声がスピーカーを通じて全隊員に通達される。

撃てファイア!」

 二〇〇からある銃口が一斉に火を吹き――!!





「…またか」

 時計に目をやると、〇五〇〇時を指している。龍麻は迷わずベッドから降り、寝巻き代わりのスウェットを脱ぎ散らかしながらバスルームに向かった。

 恐ろしく鍛え上げられている肉体の表面は、高校生にあるまじき傷が無数に刻まれている。そして左肩には、蛮刀を手にした残虐そうな妖精の刺青が彫られていた。流行のシールなどではない、本物の刺青である。

 火ぶくれができそうなほど熱いのと、飛び上がるほど冷たいシャワーを交互に浴びる。寝ぼけた肉体と精神を目覚めさせるには、これが格段に効く。

 頭がすっきりしたところで、ボクサートランクス一丁のまま、トレーニングルームに向かう。トレーニングルームと言っても、他に適当な呼び名がないからそう呼んでいるだけで、実際には十畳ほどのフローリングの部屋だ。一人暮らしをしていると、寝室とキッチンを往復するだけで大抵の時間は過ぎてしまう。それだけでは肉体の維持も叶わないので、こうやって定期的な訓練を自らに課している。

 入念な柔軟体操から始めて、一人あるいは複数の仮想敵を相手にしたシャドーボクシング。ただし彼のそれは拳や肘、膝や脛といった、通常の格闘技で武器とする部分はほとんど使わない。多くは掌による《掌打》を用い、攻撃のバリエーションはその用法と変化で無数に組み上げる。たとえば、単純なストレート・パンチでも相手の正面から打つ場合と、僅かに軸線をずらした位置から打ち込むのとでは効果が異なるといった、実戦のさなかで常に変化し続ける状況に合わせてこちらも変化し続ける技で対応する訓練だ。しかも彼はそれを、太極拳のようにゆっくりとした動作で行う。実際に身体を動かしてみれば判る事だが、人間はゆっくり動く事が意外と難しい。まして彼は腰を充分に落とした姿勢で行っているため、特に下半身の運動量は見た目に反して桁外れに多い。訓練を始めて十分もすると、彼の全身には珠の汗が浮かんでいた。

 並の人間ならば一分と保たぬ姿勢でのスロー・シャドーをみっちり一時間こなし、もう一度シャワーを浴びて汗を洗い流してから、彼は朝食を摂った。その内容もまた、一般の高校生の常識には当てはまらない。ボウル一杯のレタスにポテトサラダ、トマト二つ。カルシウム、鉄分、ビタミンAのサプリメント。それらをミネラル・ウォーターで胃の中に流し込んで朝食は終了だ。

 続いて、鞄の中身をチェックする。英語、数学、化学、地理の教科書とノート、各種プリント群。数学の授業で出された課題は昨日帰宅してすぐに済ませてある。筆記用具に生徒手帳。一般の学生が持ち込むような雑誌や携帯電話、ましてやタバコなどは一切持ち込まない。唯一つ特殊な持ち物は、折りたたみ式のプライヤーにナイフ、缶切り、鑢やドライバーが組み込まれた多目的ツール、《レザーマン》が巧妙に隠されていた。以前はスイス製アーミー・ナイフだったのだが、所持品検査に引っかかって以来、こちらを使用している。

 ピシッと折り目のついた詰襟学生服の袖に腕を通し、ボタンを上まできっちりかけ、襟のホックも填める。姿見で服装に違和感がないか確認。どこから見ても完璧な高校生だ。

「問題なし」

 あえて問題点を挙げるとすれば、目も隠れるほどの前髪だが、こればかりはどうしても必要なものだ。教師たちにも許可を取ってあるので、前髪に関して注意される事はない。

「行くか」

 戸締りを再点検後、龍麻はアパートのドアとドア枠に跨るように髪の毛を貼り付け、早朝の空気の中を学校に向かって歩き出した。





 登校してからは、いつものように目立たず、気配を殺して歩く。目立たない事こそ最高のサバイバルの条件だ。そのために勉強もスポーツも務めて平凡な成績に押さえてきた。それが、真に必要だったから。

 しかし、こういう場合はいかんともしがたい。

「緋勇くんッ! おはよ――っ!」

 元気の良い挨拶は、黄色のヘアバンドが良く似合う髪の長い少女のものだった。優しげな目が見る者をほっとさせる微笑を湛えている。青葉さとみ。昨日初めて話した女子生徒だ。

「昨日は、荷物を持ってもらってありがとう」

「いや、当然の事をしたまでだ」

 僅かに口元を歪め…笑ったつもりだがうまくいかない…龍麻は言った。

「うんっ――ホントに助かったわ。あっ、そうだ。こうやって、今日も会えたんだし、良かったら、友達への第一歩として、今日の放課後、比嘉君も誘って、お茶でもしない?駅前に、おいしい紅茶のお店が――っと…、あぶないあぶない」

 さとみはきょろきょろと周りを見回し、声をひそめた。

(あんまり、大声で言う事じゃないわね――うちの学校、放課後の寄り道は、禁止だから。…放課後に、C組に迎えに行くから待ってて)

 龍麻が返事をするよりも早く、

「あっ、もう戻らないと。じゃ、またね、緋勇くん」

「……」

 スカートの裾を翻し、さとみはパタパタと走って去っていく。龍麻は承諾した記憶はないのだが、どうやら放課後に彼女に付き合う事になったらしい。

「――ん? 今のさとみか?」

 背後から男の声がかけられる。気配で判っていたから別に驚く事もなく、龍麻は振り返った。

「おすっ」

 同じく昨日知り合ったばかりの少年、比嘉焚実が軽く片手を上げた。

「緋勇――、さては、さとみに気に入られたか?」

「…よく判らんが、どうやらそのようだ」

 いつも《肯定》と《否定》だけで会話を済ませる彼には珍しく、《わからない》という返事を返す。実際、《友人》という関係について疎いのだから当人は真面目なのだが、焚実はそれを龍麻流の軽口と受け取ったらしい。

「まッ、仲良くしてやってくれよ。あいつ、ああ見えても、意外と奥手だからさ。おっ、そうだ。放課後、喫茶店でも寄ってかないか? 俺と君の友情の証に…さ。何なら、さとみも誘って――」

 ふむ。幼馴染とはごく身近で、似たような環境のもとで育つから、考え方や行動パターンまで似るものなのだなと、龍麻は妙に感心した。だがそんなのんきな考えを打ち払うかのように、女生徒が抗う声がどこからか響いてきた。

「ん?」

「あ…あの…。離して下さい」

 龍麻も焚実も、同時にそちらに視線を向けた。

「あれは、緋勇のクラスの女子じゃないか…?」

 確かにそうだ。名前は…覚えていない。龍麻は記憶力は良い方なのだが、興味のない事にはまったく頭が働かない妙な特性がある。

「いいから、来いよ。莎草さんが、呼んでんだよ」

「きゃッ。止めて――」

 見れば女性とは不良らしき男子生徒に腕を掴まれている。もちろん周囲にも生徒たちがいるが、皆、我関せずという顔をして、見て見ぬふりをしている。

「ちッ、何で誰も助けてやらないんだ?」

「…巻き添えを恐れているのだろう。相手は三人。自分の戦闘能力に自信がなければ容易に手出しはできない。賢明な判断だ」

 またまた珍しい、龍麻の長台詞だが、焚実は最後の言葉が気に入らなかったようだ。

「そういう問題か? …おいッ!」

 問答無用とばかりにその場に向かった焚実に、なぜか龍麻も付いていった。女生徒の腕を掴んでいた不良が振り返って焚実を見、それから龍麻に視線を据えて不思議そうな顔をした。

「何やってんだよ、嫌がっているじゃないか」

「比嘉くんッ!」

 龍麻は同じクラスの生徒なのに、まず焚実の名を呼ぶところからして、焚実の方がネームバリューは上という事らしい。龍麻は興味深げに、焚実と不良たちとのやり取りを眺めた。不良の方もなんとなく焚実に一目置いているのか、あまりとげとげしい態度を取らない。なるほど、これが友人付き合いというものかと感心していると、彼らの会話の中に莎草の名前が出てきて、にわかに雰囲気が険しくなった。

「……」

 言葉の端々に、《あいつは恐ろしい》、《あいつには逆らえない》という不穏な単語が混じる。第三者的立場で彼らを眺めていた龍麻にはそれが判った。彼らは脅えているのだった。

「いずれ…お前も判るさ…!」

 比嘉が半ば強引に彼らから女生徒を引き離すと、不良たちはなんとなく不気味な捨て台詞を残し、去っていった。何がなにやら判らない焚実は、女生徒から事情を聞いてみたのだが、こちらも要領を得ない。なんでもいきなり《一緒に来い》と言われたのだそうだ。

 その時龍麻は、自分を貫いて焚実と女生徒に据えられた視線に気が付いた。

「……!」

 振り返ってはまずい。理屈ではなく、本能がそう告げた。奴は危険だ。速やかにここから離れろ。目立っては危険だ――。

「――ん?」

 どうやら焚実もそれに気付いたらしい。その視線の先にいたのは、莎草だ。

「莎草…」

 どこか病的な自信に満ちた態度に、他人を見下したような目。そしてこちらを見ている彼の目には、どろどろと渦巻く怨念にも似た光があった。目に映るもの全てが気に入らず、何もかも破壊してしまいたいという狂おしい光。そんな目をしている者は、いずれ他人も自分も滅ぼす。

「あいつ…、何を見てたんだ?」

「…問題ないだろう。ただ、そこにいただけだ」

 それが希望的観測に過ぎぬと知りつつ、しかし時にはそのような言葉も必要であると、龍麻はそう口にした。そして、始業のチャイムが鳴った。





   朝の一件以外はなんら変わった事もなく、無事に授業を終えた龍麻であったが、今日は放課後に予定外の行動を取っていた。

 知り合ったばかりのさとみと焚実に誘われ、喫茶店に行く事になっていたのだ。しかしながら宿題を忘れたという焚実が教師に呼び出され、説教が終わるまで待たされたのである。

 待つという行為は、龍麻にとって決して苦痛な事ではない。しかし隣にさとみという少女がいるとどうにも勝手が違った。待つ間はとにかく暇なので、さとみが色々と話し掛けてくるのだが、何しろテレビはおろか、ラジオもNHKしか聞かず、情報源を新聞に依存している龍麻であるから、たとえば芸能人や流行歌の事を聞かれてもまったく判らない。彼の詳しい事と言えば銃を始めとする兵器全般、海外の車の事だけである。唯一彼女と話を合わせられそうだったのが音楽であったが、それも洋楽のハードロック。その中でもかなり特殊な位置と言えるマリリン・マンソンやクイーン、ザ・キッスと来ては、やや大人しいタイプのさとみには付いていけない世界なのであった。

 それでも、自分のポーズは決して曲げないながらも必死に受け答えをする彼に、さとみは悪い印象は持たなかったようだ。昨日荷物を運んでもらった直後から、さとみの耳に龍麻の善悪取り混ぜた様々な噂が届いていたのだが、そのどれもが正しく、また間違っているのだと再認識するに至ったのだ。

 確かにごく普通とされる高校生の基準から外れているかもしれない。だが、それは決して悪いという意味ではない。自分自身のしっかりした物の見方があるからこそ、浮いて見える。ただの《軍事オタク》という言葉では片付けられない、何か信念といったようなものが感じられるのだ。

「いやあ、参った参った。宿題を忘れたくらいでこんなに説教食らうとは思わなかった」

「自業自得だ」

 短く断ずる言葉は冷酷に聞こえるが、既にさとみも焚実も龍麻がこのようなしゃべり方をする男だと判っている。焚実はばつが悪そうに頭を掻き、さとみは困ったような笑顔を見せた。

「緋勇ゥ、冷たいぞ、それ」

「何言ってるのよ。毎回毎回宿題を忘れる方が悪いんじゃない。先生の苦労も判るわ」

「けどよお、小学生じゃあるまいし…」

 そんな何気ない、他愛のない会話。龍麻はそれを無意味な単語の羅列と捉えつつ、人間同士のコミュニケーションには重要な事だと認識するに至った。今までは自分の存在を目立たせぬために他人との接触を極力避けていたのだが、昨日はなぜか常とは違う衝動に駆られてさとみの手伝いをしていた。それがこの現状を生んだのだが、それは必ずしも悪い方向へと向かってはいない――そんな気がした。

「もう! 比嘉くん!」

 しかし、さとみの言葉の中に《莎草》という名が出てきた事で、なにやら胸が温まるような会話に水が差された。

「しっかしこんなさとみのどこが気に入ったのかなあ? 緋勇、お前、解るか?」

「さとみは誰に対しても優しく、気立てが良いチャーミングな女性だ。好意を抱く男がいたとしても決して不思議ではない」

 莎草にいきなり《俺の女になれ》と言われ、やんわりと断ったら《俺から逃げられると思っているのか》と脅されたとかで脅えていた彼女は、龍麻のこの言葉にぷっと吹き出した。

「やだ…。本当にそう思ってる?」

「肯定だ。君はチャーミングな女性だ」

 目は前髪に隠れて見えないし、表情も口調も変えないものだから、本気なのか冗談なのか判断に苦しむが、どちらにせよ本気だろうとさとみは頬を淡く染めた。

「緋勇…お前まで頭がどうかしたのか? さとみは、こんな女だぞ?」

「こんな、ですってえ〜っ!」

 恥らう少女の面影は一瞬に消え、さとみは拳を振り上げて焚実に詰め寄る。焚実はたちまち圧倒された。

 もちろん、焚実が男である以上、さとみと戦えば勝つに決まっている。二人とも特別な訓練をしていない以上、男性と女性という肉体的ハンデキャップは絶対的なものがある。それでも焚実が圧倒されるのは、純粋に《感情的人間関係》というものだ。焚実のこの行為は、さとみに好意を抱いているからなのだなと、龍麻は一人納得した。人間関係とは、まことに奥が深い。

 結局、喫茶店での紅茶代は焚実が払う事で決着したようだ。そして莎草に関しても、明日になったら話をしてみるという事に決まった。龍麻としては、莎草に関わるのは危険だと忠告したかったのだが、向こうからさとみに接近してきたのでは仕方ないと、いつの間にか自分を納得させている自分に気付いて驚いた。

 飲み代の借りを返そうというのか? いや、金を払うのは焚実だ。さとみをかばう事は何の得にもならない。だが、損得抜きでそうせねばならない。何事も合理的に考える自分がそのように思考するのを、龍麻は不思議でならなかった。この二人を、自己を犠牲にしようと守りたいと考えている自分が、どこか恐ろしくもあった。





 翌日、いつものように登校した龍麻は、学園内の空気がやけにささくれ立っている事に気付いた。

 我知らず、五感が研ぎ澄まされ、あらゆる情報収集を始める。平穏そのものだった学園内の空気が、彼がもっとも慣れ親しんだ空気とそっくり入れ替わってしまったかのような感覚。この空気の中では、彼は緊張を解く事を許さない。

《ボールペンで目を刺したんだって…》

《受験ノイローゼじゃないかって言ってるけど…おかしいよね》

 耳に入ってくる断片的な情報を繋ぎ合わせつつC組の教室に入る。情報どおり、このC組でも一番元気な少女の姿がない。昨日の放課後、その席の主である彼女が、ボールペンで自分の目を突き刺したという事だった。

(莎草…)

 龍麻はその机を見下ろしながら、一つの名前を口の中で転がした。

 昨日、目にした光景が情報として弾き出される。明確な暴力沙汰ではないが、少女は莎草とトラブルを起こした。休み時間、莎草はこのC組にやって来て、朝方不良どもに命じて連れ出そうとしていた少女を見ていた。当然、呼び出されそうになった少女は脅え、そんな友をかばってその少女は莎草に啖呵を切ったのだ。「あたしたちをいやらしい目で見ないで!」と。

 その時確かに、龍麻は莎草の目にあの暗い炎が宿るのを見た。比喩的な表現ではない。目の奥でちろちろと燃える憎悪の炎が彼には見えたのだ。その時は、莎草はフンと鼻を鳴らして引き下がったので、龍麻もひとまず安心したのだが…。

「よおっ! 緋勇」

 傍から見れば茫洋と、しかし体奥では神経を張り詰めていた龍麻は、背後から接近する焚実の気配を捉えられず、少なからず驚いた。

「…その顔じゃあ、もう聞いたみたいだな。自分のクラスの女の子の事だもんな」

 どうやら焚実の耳にも、この一件は届いたらしい。彼は沈痛な面持ちで頷いた。龍麻は、直接関係ない女子生徒の一件で心を痛める焚実に、なにやら新鮮な驚きと、敬意を覚えた。自分が怪我をした訳でもないのに、このような顔ができる人間がいるとは、龍麻にはまだ、理解できていなかったのだ。

 教室に向かう道すがら、共に聞いた話を合わせていると、ちょうどそこに莎草が通りかかった。

 龍麻は真相を問いただすのは時期尚早だと思ったのだが、さとみとの約束があった焚実が彼を呼び止めたので、やむなく彼の背後に付いた。

「…という訳でさ、女の子を脅すのはどうかと思うぞ」

 表面上は緊張感を隠しつつ全神経を莎草に集中するという器用な事をやっていた龍麻は、話の前半は完全に聞き流していた。しかし莎草が酷く毒の篭った声で「うるせえ」と呟いたところからは聴覚にも神経を払った。

「うるせえって言ったんだよ! 一人でべらべらと、むかつくんだよ!」

「わ、悪かったよ。そんなに怒らなくても…」

「糞みてえな手で、俺に触るんじゃねえ!」

「――ッ!!」

 この言葉は、龍麻の胸をも鋭くえぐった。「触るな!」。この言葉を、龍麻も過去に幾度となく投げつけられたのだ。

 しかし唐突に、莎草は妙な事を言った。

「人形って知ってるか?」

「人形?」

「に・ん・ぎょ・うだよ! 人形! 人型の事だよ!」

 それは正に、変貌と言えた。雰囲気に漂わせている奇怪な自信を抜きにすれば、それこそ虐めのターゲットにもなりそうな病的なもやしっ子が、顔を醜く歪めて毒のような言葉を吐き付けて来たのだ。

「誰も俺には逆らえない。お前らは俺の操り人形なんだよ!」

「莎草、お前、何を言って――」

 その時突然、焚実の身体がびくっと震え、それきり動かなくなった。

(――何をした!?)

 直感で、龍麻にはそれが莎草の仕業であると見抜いた。しかし、莎草が何をしたのかはまったく解らない。莎草は焚実に触れもしなかったのだ。

「イイ気になるなよ、比嘉ァ――」

「う、腕が、動かない――!!」

 顔をますます醜く歪めて宣言する莎草に対し、焚実が恐怖に濁った声を出す。声は出せるらしい。そして奢った莎草の矛先は、龍麻にも向いた。

「そっちのお前も、俺をナメんじゃねェぞ」

「――何故お前を舐める必要がある」

 龍麻は、あえて冷静に応じた。いつもの表情、いつもの口調で。時として、人を不愉快にさせる冷たい態度で。

「テメエ…俺と闘ろうってのか…」

 ギン、と身体が硬直する。

(むう…!)

 声は出せるようだが、他は指一本動かせない。白昼堂々の、奇怪な金縛りだった。ただ、莎草に睨まれただけで。

「ククク、俺に逆らえると思ってやがるのか」

「……」

 その時、廊下の向こうから男性教師が怒鳴る声が聞こえた。

「チッ」

 ここでこれ以上のトラブルはまずいと思ったのだろう。莎草が身を翻すと、瞬時に金縛りが解けた。

「腕が…動く!?」

 焚実は不思議でたまらないといった面持ちで自分の腕を眺めていたが、龍麻は冷静に、自分の体の動きを確認した。

(右腕よし。人差し指、中指、薬指、小指…よし。左腕…よし。右足、左足…よし。全てよし)

 筋肉や神経の働きには何の異常も残っていない。神経ガスや筋弛緩剤を使用した時とは明らかに異なる症状だ。瞬間催眠の類とも違う。筋肉の疲労から分析すると、何らかの外的要因…全身を指先に至るまで包帯で固められたような状態だった。

「緋勇…大丈夫か? 緋勇!?」

「問題ない。…授業が始まる。急ごう」

 真っ青な顔をしている焚実とは対照的に、龍麻は務めて冷静な声で言った。そんな龍麻を焚実は畏怖さえ込めた眼差しで見たが、彼の考えている事まで推し量る事は困難であった。

(あれは、ただの人間ではない。俺と…同類だ)





 第零話 龍の刻 2    完



目次に戻る  前(龍の刻 1)に戻る  次(龍の刻 3)に進む   コンテンツに戻る