第零話 龍の刻 1





 
 ――余りにもたやすく手に入るものを、我々はともすれば軽く評価しがちなものである…《自由》ほど高貴なものを、もし高く評価しないことがあるとすれば、まさに奇怪も極まれりと言うべきであろう――

                   ――トーマス・ペイン





 明日香学園高等学校



「それじゃ今日はここまで」

 チャイムと共に男性教師がそう告げ、教室がにわかにざわめきを取り戻した。

 英語の授業は彼にとってさしたる問題とはならなかった。無意味なほど難解に組み上げられた文法に、日常会話ではまず使わない構文。それでも彼本来の母国語であるはずの日本語より英語の方を得手とする彼ならば、適当に聞き流していたとしても満点を取れる授業だ。

(一〇三〇時。次は生物の授業の為、教室移動の要あり)

 他のクラスメートたちが「購買寄って行こう」、「ああ、かったりぃなあ」などと言い交わす中、彼は英語の教科書とノート、辞書類を机にしまい、生物の教科書とノートを取り出した。ただそれだけの動作の中にも流れるような動きと機械のように正確な動きがある。立ち上がり、左手に教科書他を持って歩く様も背筋がピンと伸び、颯爽としている。これで一八〇センチを超える長身に目鼻立ちの整ったなかなかのハンサムだから、さぞ人気者であろうと思われるのだが、彼に声をかけるものは男女を問わず一人もいない。

(生物か。特に問題のない教科だが、予習しておくか)

 今時の高校生としてはかなり特殊とも言える思考のままに、彼は教科書を開き、授業の範囲となりそうなページをめくった。

 本当に読んでいるのかと思えるほど素早くページをめくっていた彼だが、ふと、背筋に違和感を覚えて何気なく振り返った。

「ん――おい、あの入り口のところにいるの、A組に来た転校生じゃねェか?」

「そういえば…確か莎草さのくさとかいう奴だぜ。何、ウチのクラス覗いてんだ? キョロキョロして、誰か捜してんのか?」

「何か、ウチの女共の事見てるぜ…」

 クラスメートの、そんな会話が耳に届く。

 しかし、《彼》は先程の奇妙な違和感が、その少年の発しているものだと知って何気なく観察の視線を送った。

(…女生徒を見ているのか? 肉食獣が獲物を選定しているような目だが…)

 その視線が露骨だったのだろう。女生徒の一人が声を上げた。

「ちょっとッ、あんた、何かウチのクラスに用?」

 クラスの女子の中で、一番元気な女生徒だ。元気なだけでなく、気も強い。クラスの人気者だ。

 しかし、莎草というらしい少年は、女生徒をじっと見るだけで、何も答えない。肉食獣というより、蛙を見る蛇の目つきだ。なにやら酷くねちっこい。

「何じっと見てんのよ。…あたし達の事、そんないやらしい目で見ないでよッ」

「ちょ、ちょっと、止めなよ」

 誰かを捜している訳でもなく、他のクラスを覗き、聞かれた事にも答えず、女生徒だけをじろじろと見続ける少年。女生徒だけでなく、男子生徒にとってもそれは不気味だった。

「気持ち悪い奴…」

 女生徒がそう言った途端、少年の雰囲気が変わった。その目の奥に突如吹き上がった、ぞっとするほど冷たい憎悪の炎。

(暴走するか――!?)

 理性の制御を受けない行動を、彼は《暴走》と称する。《人間》が極私的理由から他人に害をなすことは異常行動の一つである。その場合は、ある程度介入しなければなるまい。彼女にはそれなりに世話になっている。だが、少年は自らの内で何事か決心したのか、そのまま何も言わず踝を返した。

「なっ、なによあいつ――」

 まともにその視線を浴びた女生徒は、さすがに気圧されたのだろう。声が少し震えている。

 しかし、一応の脅威は去ったと見える。彼は教科書を手に取り、席を立った。きびきびとした足取りで教室を出る。

「あっ…!」

「むう…?」

 なまじ急ごうなどと思ったのが裏目に出た。教室を出た途端、彼は一人の女子生徒とぶつかってしまった。

「ごめんなさい。大丈夫?」

「…肯定だ」

「え…?」

 味も素っ気も、およそ感情の動きというものが感じられない、しかしある意味強烈に個性的な返事に少女は少し引いた。

「そ、そう。良かった。…荷物を持ってて、前が見えなくて…」

 彼は廊下に散らばった参考書に目をやった。目が隠れるほどの長髪なので、口元くらいしか表情を読み取る場所がないが、そこが少し歪んだところを見るとさすがにこの量を少女一人で運ばせていることに不快感を感じたようだ。

「…手を貸そう」

 表情も口調も変えず、彼は簡潔に言った。

「え…? いいわよ。一人でも大丈夫」

「否定だ。その量を一人で運ぶには危険が伴う」

「あっ――」

 少女がそれ以上何か言う前に、彼は機械の正確さで参考書を積み上げて抱え上げた。量の比率は少女を一とすれば彼は五である。

「あ…ありがと…」

「問題ない」

 本当に問題ないのか、細身に見える肉体は一抱えもある参考書を手にしてふらつく様子は一切ない。

「本当はね、結構大変だったんだ。…早く行かなきゃ。授業が始まっちゃう。じゃ、付いて来て」

「うむ。了解した」

「……」

 同じ高校生としてはかなり常識外れの言葉使いに面食らいながら、しかし少女は少年の行為を素直に受けることにして先に立って歩き出した。

「あたし、二−Aの青葉さとみ。ブルーの青に葉っぱの葉、平仮名のさとみ。あなたは?」

 連れ立って歩きながら、少女…さとみはにこやかに長身の少年に笑いかけた。

 すると少年はぴたりと立ち止まり、直立不動の姿勢を取った。一抱えもある参考書は器用に左手で支え、右手でぴしりと敬礼する。

緋勇龍麻ひゆうたつまであります。所属は二年C組、出席番号一八番であります」

「……」

 昨日今日身に付いたものとは思えない、その挙動。さとみはしばし呆然としてしまった。この体格とルックスでありながら友人が皆無であるという理由が《これ》であることを、この時のさとみはまだ知らなかった。

「ひ、緋勇君か。こうやって、知り合えたのも何かの縁かもしれないし、よろしくね」

「うむ」

 無愛想もいいところだが、龍麻がすぐに頷いたことでさとみの笑顔からぎこちなさが消えた。

「違うクラスだけど、仲良くしましょ。…でも、不思議ね。あなたみたいな人がC組にいたら、気付きそうなものだけど…。今までウチの学校にいたなんて気付きもしなかったわ」

「う、うむ…」

 女生徒としゃべるのは苦手なのか、龍麻の表情が少し固い。

「教材を運ぶように言ってくれた先生に感謝しなくちゃね」

「う、うむ…」

 さとみが向ける笑顔に、龍麻は同じ返事を繰り返すだけだった。なぜか頬に一筋汗が流れ落ちる。

「あ、ごめんね。あたしばっかりしゃべっちゃって」

 つい一方的にしゃべってしまっていたので龍麻が困っているものと解釈したのか、さとみは話を打ち切った。いつの間にか教室の前にも達していた事でもあるし。

「それじゃ、ここでいいわ。ありがと、手伝ってくれて」

「問題ない。いつでも力を貸そう」

「うん。ほんと、助かったわ。じゃ、またね。…きゃっ」

 頷いて二−Aを立ち去ろうとした龍麻であったが、最後まで自分から目を離さぬままに教室に入ろうとしたさとみが、また誰かにぶつかったのを知って立ち止まった。

(……)

 僅かに、常人にはそれとまったく気付けぬレベルで、龍麻は足の踏み位置を変えた。もっとも理想的な重心を確保したのである。

 さとみにぶつかったのは、先程龍麻のクラスを覗いていた、暗い目つきをした細身の少年であった。派手なバンダナを頭に巻き、髪を赤く染めている。先程の印象通り、一見するとそこらにいくらでもいる不良のようだが、どこか病的な威圧感を漂わせている。それが龍麻に警戒信号を与えたのだ。

「あっ…荷物が…!」

 再び散乱した参考書に、しかし少年は何の興味も示さず、さとみの全身を上から下へ、下から上へと舐めるように眺めているばかりだ。当然、参考書を拾ってやろうという気配はまったくない。

「おいっ、ちょっと待てよ――」

 龍麻が少年を警戒して動けない代わりに、二−Aの教室内から元気の良さそうな声が響いた。

「ぶつかっといて、あやまりもしないのかよ?」

比嘉ひがくん…」

 どうやらさとみの知り合いらしい。それも仲の良さそうな。

「落ちた荷物くらい、拾ってやってもいいんじゃないか? え、莎草?」

「……」

 こいつは動かない。龍麻はそう判断した。莎草という少年の放つ不穏な雰囲気に、ごく自然な足取りで場所を移動する。その時、さとみが顔を上げた。

「あっ、比嘉くん、あたしは、大丈夫だから――」

「……」

 それを聞いた途端、莎草はぷいっとそっぽを向いてその場を立ち去った。

「あっ、おいっ――。…何だ、あいつ…」

 同じ無視するにしても、最も相手を虚仮にするやり方。真っ向正面から無視して去った莎草から悪態の一つも付かぬままに視線を外し、

「さとみ、大丈夫か?」

「うっ、うん」

「ほら、拾うの手伝ってやるよ」

「ありがと、比嘉くん」

 龍麻はその会話を傍らに聞きながら、視界から完全に莎草が去ったことを確認してから警戒を解いた。親指で頬に走る汗をぬぐう。

「――ん?」

「あっ、そうそう――。紹介するわ。彼、C組の緋勇龍麻くん」

 自分の名を呼ばれたことに気付き、龍麻はようやく振り返った。

「緋勇…? そういえば、なんとなく、見覚えあるなァ」

 値踏みするような視線は一瞬で、比嘉はすぐに淡い笑顔を見せた。元々人懐こい顔立ちの為、誰とでもすぐ友達になれそうな雰囲気を持っている。

「俺は、さとみと同じ2−Aの比嘉焚実ひがたくみ。焚実でいいよ。…緋勇は、何て呼ばれているんだ?」

「なんと呼ばれているか?」

「いや、つまりあだ名だよ、あだ名」

「あだ名…? コードネームのことか。それはナンバーな…いや!」

 龍麻は自分で言葉を切り、顔中に脂汗を浮かべた。友人のいない彼はあだ名などというものにはまるで縁がなかったのだ。

(む…そういえば…)

 龍麻は自分でも既にあやふやになるほど昔になる記憶の中から一つの《あだ名》を引っ張り出した

「自分は《ひーちゃん》と呼ばれている」

「ひ、ひーちゃん――ね」

 比嘉が一瞬引いた理由を龍麻は考え付かなかった。しかも比嘉は即座に話題を切り替えてしまったのだ。

「あ、そうそう。さとみとは、幼馴染って奴さ。まっ、いわば、腐れ縁って奴ね。はははっ」

 幼馴染。幼い時より共に過ごしてきた友人。そのくらいの意味は龍麻にも判った。彼にも友人とは違う《仲間》がいたが、彼らと共有した時間は果たして長いのか短いのか――。

「さっきの奴も、うちのクラスなんだけどな。莎草さのくささとるっていって、三ヶ月くらい前に転校してきた。東京都内に住んでいたらしいんだけど、今は、どこに住んでいるか、誰も知らないって話だ」

「友達もできないみたいだしね…。ちょっと、心配だわ…」

「まぁな」

 あの少年ならばそうだろう。龍麻は冷めた頭でそう思った。あの男の放つ雰囲気は、他人との交流を拒絶するものだ。自分と似てはいるが、《来るものは拒まず、去るものは追わず》という自分とは根本的に異なる。

「はははっ、何か湿っぽくなっちゃったけど、緋勇って言ったっけ、これからよろしく頼むよ」

「うむ」

 相変わらず無愛想に聞こえる返事は、しかし莎草の一件があった後だけに聞こえは良かったらしい。比嘉は笑みをこぼした。

「おっと、さとみ、早く教材持ってかないと――」

「そうね。緋勇くん、じゃあまたね」

「今度、どっか遊びに行こうぜ。じゃあな」

 龍麻は頷き、二−Aを辞してから気付いた。

 予習を忘れていた。この後の生物の授業は一瞬の油断も許されまい。しかしながらこの僅かな移動時間で知り合った二人との他愛のない会話が、自分の気分を軽いものにしたことは良いことであると気付いた彼であった。





 今日も授業を滞りなく消化することに成功し、さとみとの一件を目撃してやや態度の軟化したクラスメートに声をかけられつつ、龍麻は校門を出た。

 龍麻はクラブには所属していない。高校に通ってはいるものの、本来なら人との接触はなるべく避けるようにしている龍麻である。授業さえ終われば彼は真っ直ぐに帰宅し、誰かと遊びに行くこともない。

 おかしな一日だった。まさか自分が、自ら他人に関わろうとするなど。

 そんな事を考えていると、龍麻は自分の名を呼ぶ男がいることに気付いた。

「緋勇龍麻くん…だね?」

「そうであります」

 思わず直立不動の姿勢を取って応える。歳の頃は四五、六歳か。ウェーブのかかった肩まである長髪に、見事な口髭をたくわえた紳士であった。体格もスーツの上から見て判るほどに鍛え上げられ、挙措にもまったく隙が窺えない。

「ははは。私とは初対面のはずなのに、随分と、友好的なんだな、君は」

「……」

「だが、気に入ってもらえたようで光栄だよ」

「はっ、恐縮であります」

 自分のこういう態度が、平和な世界ではかなり変わっているらしいと、龍麻はこの数ヶ月で自覚するにいたっている。それを《友好的》と取られたことは、彼にとって新鮮な驚きであった。

「緋勇龍麻。明日香学園高校在学中。両親とは、幼い頃、死別。以来、伯父夫婦に引き取られ、ごく平凡な学園生活とごく平凡な日常生活を送り、今日に至る…」

「……」

 この男は何を言おうとしているのか?龍麻は本日二度目になる、重心を移動させるだけの警戒をした。もっともこれは、今のところ安全にその場を離脱するためにしか使っていない。だが、この男相手に通じるだろうか?

「学業・スポーツに関する成績も平凡そのもの。交友関係も平凡――。とりたてて、他の若者と違った点は、見受けられない。それが――昨日までの君だ」

「……!」

「私の名前は鳴滝冬吾なるたきとうご

 龍麻の警戒を知ったか、男は自ら名を名乗った。

「君の――。君の実の父親――緋勇弦麻ひゆうげんまの事で話がある」

 ふわ、と風が吹き、龍麻の前髪を吹き散らした。

 その中で刃物のように光ったのは、緋勇龍麻と名持っていた少年の眼光であった。





「この辺りでいいだろう」

 鳴滝は龍麻を学園近くの、それでも人気の少ない児童公園に誘った。

 知らず、龍麻の視線が周囲に走る。ジャングルジム、ブランコ、シーソー。子供の遊戯物はいざ闘争となった時に有利にも不利にも作用する。地形変化の把握はどんな時にも重要事項だ。

「突然、学校まで会いに行って、迷惑だったかもしれんが、どうしても、早く君に会う必要があってね。許してくれ――」

「…問題ありません」

 どうやら今のところ、この男は敵にまわる者ではないらしい。はっきりと確認できる訳ではないが、《この男は敵ではない》と、ある特殊な事情から培われた勘がそう囁いている。

「ありがとう。君の寛大な心に感謝するよ」

 それはまだ早い、と龍麻は口には出さなかった。どれほど友好的に接していても、次の瞬間には敵になる。彼が生きる世界はそこにあるのだ。

「多分、君の記憶の中では私に会うのは初めてだろう。最後に会ったのは、君がまだ、言葉も喋れないぐらい、幼い頃だったからね」

 それから鳴滝は、「失礼だが」と前置きして、龍麻にいくつか質問をした。産まれはどこか、誕生日はいつか、血液型は何かなど。実のところ、血液型以外は龍麻自身が自分で確認したことのない情報ばかりであった。明日香学園高校に編入される際に、既に抹消されていた戸籍のデータを検索して知ったことばかりである。そして龍麻はそれらを全て包み隠さず話した。それらは所詮、過去の記録でしかなく、今の彼に直接影響を与えるデータではないからだ。

「…どうやら、間違いないようだ」

 本人にとってどうでも良くても、鳴滝には合点が行くものであったらしい。

「君の両親である弦麻や迦代さんの面影がある…」

 それから彼はじっと深く黙考し、胸に詰め込んでいた重いものとともに言葉を吐き出した。

「随分と…大きくなったな…」

 深い感慨にふけっている鳴滝には悪いが、龍麻はそれが自分に向けられているという実感がまるで湧かなかった。自分にそんな事を言う人間が残っているという事実が、まだ認識できないのだ。自分は既に過去と決別している。

「…ずっと、私は、敢えて、君とは関わりをもたなかった。何故だかわかるかね?」

「……」

「…それが、弦麻の遺言だったからだ…」

 それから鳴滝はしばらく言葉を切った。

 龍麻も黙って、鳴滝がしゃべり始めるのを待った。鳴滝に対する警戒は既にない。この男の言葉には信ずるに足る響きがあったし、何よりも初対面だと断っておきながら、こうして明らかに隙と見える考え事も行う。もし敵であれば恐るべき相手と言わねばならないが、この男が漂わせている重厚な雰囲気からは、なぜか懐かしい匂いもするのだ。

「…すまない。ちょっと昔を思い出していた」

「……」

「君は、両親の事を何も知らないんだったな」

「肯定です」

 隠す理由はない。そしてそれは自分にとって、必ずしも重要な問題ではない。

「私の口からは、何も言えないが、いずれ、知る事もあるだろう。いずれ…」

 なにやら含みのある言い方は多少気になるものであったが、それでも十数年前に死んだ両親とやらが、今の自分の境遇に何らかの変化を与えるとは考えにくい。もし両親がテロリストや、それに敵対する勢力であった場合はその限りではないが。

「…あァ――だが、一つだけ教えておこう」

「……」

「昔――、君が産まれるずっと前、君の父親と私は、表裏一体からなる古武道を習っていた。とても…歴史が古いものでね。無手の技を極め、その継承者は素手で岩をも砕いたという。弦麻が表の――陽の技を、私が裏の――陰の技を習っていた。お互い、違う師に就いていたが、言わば、同門の徒だった訳だ。特に、緋勇家は、先祖代々、陽の技を伝承する家系でね。つまり、君の身体には、その血が連綿と流れている。……・フッ、いきなりこんな話をされても理解できないだろうが」

「…肯定です…いや…」

 初めて、龍麻は口ごもった。自分の中に流れる――血。何か、いまだ形も見えていない謎の核心にいきなり触れてしまったような、あやふやな手ごたえ。良い傾向ではない。

「そうでもない…という事か。フッ、まあ良い。君は弦麻が何故――」

 そこまで言って、鳴滝はまたも言葉を切った。龍麻は内心ほっとした。情報は多いに超したことはないのだが、自分自身に関わる問題で、しかも初めて聞く情報ばかりでは整理がつかない。

「ああ、そうだ。それより最近、君の身の周りで変わったことが起きなかったか?」

「肯定です」

 今日、自ら積極的に他人と関わろうとした。それだけでも十分おかしなことだが、その過程で出くわした莎草という少年。彼と目が合った時、《こいつは俺の敵になる》と思った。向こうはじろりと睨んだきりだったが、少なくとも龍麻はそう感じたのだ。そして、《経験》に裏打ちされている龍麻の勘は外れた事がない。

「友人として、忠告する。私が、君に会いに来たのは、忠告をするためだ」

 すると、これがようやく本題か。これが他人ならば判らないが、龍麻は素直に耳をそばだてた。意識を集中して、鳴滝の言葉を待つ。

「異変というものは、平穏な日常の陰から、いつでも、現世の世界に、這い出て来ようとしている…。君が、望むと望まないとに関わりなく、それは、やってくる――。その事は、深い因縁――因果によって定められている事だ。…私の言っている意味は、まだ、判らないかもしれないが、覚えておくんだ。私の掴んだ情報が正しければ、ここ数日の内に、この街で、何かが起こるだろう。私の方でも、それに対処するために動いているが…。いずれにせよ、くれぐれも、気を抜かない事だ。ここ一、二ヶ月の間に、君に近づいてきた者にも注意するんだ。いいね?」

「…了解です」

 龍麻がそう言うと、鳴滝はほっとしたように大きく頷いた。

「君の父親の友人としての忠告と受け取ってもらって良い。何かあったら、ここを訪ねるといい。私の道場がある」

 最初から龍麻に渡すつもりで書いておいたものだろう。鳴滝は簡単な地図を書いた紙片を差し出した。

「仕事で、近い内に海外へ旅立つが、しばらくは、そこに滞在している。…また会おう」

 それじゃ、と黙礼した鳴滝に対して、龍麻はきりっと胸を張って敬礼した。

 今までの社交辞令的意味合いの濃いものではなく、多少なりと心のこもった敬礼であった。





 第零話 龍の刻 1    完



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