第四話閑話 イリーガル・スチューデント 1
「うむう…」 緋勇龍麻は悩んでいた。 他人から見れば、実に些細な事である。彼は文庫本を読んでいたのだ。ただ、本の内容はいつもの経済関係ではなく、兵器関係でもなく、はたまた漫画でもなく、海外の小説であった。 「やはり…理解できん」 呟き、僅か五分で読み終えた文庫本を置く龍麻。本のタイトルは《フランダースの犬》。 「そうか…。やはりお前には、理解できないか…」 重々しく頷き、腕組みする醍醐。その脇では葵と小蒔が難しい顔をしていた。 事の起こりは、ごくごく些細な事である。いつも難しい本ばかり読んでいる龍麻が、葵が本を読みながら涙ぐんでいるのを見て声をかけたのだ。なぜ、泣いているのかと。 血と闘争の世界で、血臭と硝煙を呼吸してきた男、緋勇龍麻。――それは判っているのだが、やはりもう少しくらい戦争や闘争から離れられないものかと、葵たち一同は考えていた。彼はこの東京に戦いに来たのだと言っていたが、あんな異常事件がそう何度も発生するとも思えず、《訓練》時の鬼軍曹っぷりももう少し何とかならないかと、葵たち一同は水面下で《緋勇龍麻普通の青少年化計画》を画策していたのである。 その一環として、葵は自分が読んでいた感動的小説を龍麻に読ませたのだが、まともに読んでいるかどうかも定かではない速読でページをめくっていく彼の顔は、むっつりへの字口の角度が鋭角になっていくばかりで、少しも感動した様子が見られなかったのである。 「う〜ん…。どうして判らないかなァ? このネロって子がかわいそうとか思わない?」 「まったく思わん」 きっぱりと、それこそ実も蓋もないくらいに龍麻は言い切った。 「この少年は典型的な敗北主義者だ。最初こそ貧困の中にも前向きに生きようとする姿勢が見られるが、それは独立意識に基づいたものではなく、日々の生活に追われ、その状況に甘んじているだけだ。周囲の劣悪な環境に影響されやすい性格もいかん。自分が成功者だからと他人の趣味に難癖を付けるような輩など無視すれば良かろうに、友人の父親であるという理由だけでそれを受け入れてしまう軟弱さ。祖父が亡くなった途端に手のひらを返した人々に対して、いつまでも未練がましく信じようとする偽善的態度。あまつさえ、虚飾の世界の二面性も知らず、日々の生活に追われる身でありながら、一握りの者しか成功せぬ芸術の世界に足を踏み込んで身を立てようなどという傲慢さ。――このような少年のどこに感動しろと言うのだ?」 あれでちゃんと読んでたんだな、と納得する京一と醍醐の脇で、あああ…と頭を抱える葵と小蒔。《世界名作劇場》としてアニメ化もされたイギリスの感動小説が銃撃で穴だらけにされた上、爆破までされてしまう。 「言うねえ、念入りに。――なあ、ひーちゃん。とりあえずそこらの一般人は、これを読んで感動するんだぜ?」 「そうなのか? ――ならばそれは、サディズムとマゾヒズム両方に汚染されているに違いない」 「た、龍麻…ちょっと待て…!」 醍醐が執り成そうとするが、龍麻の口は動いてしまっていた。 「この少年が人生経験不足なのは認める。しかしこの年齢で労働の世界を覗いているならば、そこから人心の変遷、社会情勢、政治情勢が多少なりと推察できてしかるべきだ。例えば――」 経済新聞の折り込み広告を示す龍麻。内容は香港旅行だ。 「――香港や台湾の華僑の子供達は、物心付いた時から親の経営する店を手伝い、経済感覚と経営ノウハウを身に付ける。その間に勉学に励み、語学や地理、政治経済など、将来に役立つ知識を学ぶのだ。そして何よりも、彼らはいずれ親の店を引き継ぐのだからと、労働に対する報酬…アルバイト代も出ない。しかし、そのように育て上げられた子供達だからこそ、大人になった時に立派に商売人として成功する事ができるのだ」 更に、広告の中にある観光名所を示す龍麻。 「しかも華僑には、事業で成功した暁にはその収入の一割程度は必ず公共に還元するという素晴らしい慣習が定着している。このタイガーバーム・ガーデンなどはその典型だ。――彼らは他人の成功を喜び、祝福する。この小説に登場する富豪のように、他人を蔑んだり精神世界を踏みにじるような真似はしない。そしてこの主人公のように、周囲の声に惑わされる事もない。自らが見、体験し、学んだ事だけが行動の指標となるのだ」 それは比較対象が違い過ぎると思うのだが、きっぱりと言い切る龍麻に反論の余地がない一同であった。 「行動の全てが空振りに終り、挙句につまらぬ言いがかりを付けられ、反論もできずに真冬の最中に住む家も追われ、振り返る者も関わろうとする者とてなく、一人空しく死んでいったとは。――自分の力で生きようとしなかった者が、下らぬ利己主義者の群れの中でただ無様な死を迎えたというだけの話ではないか。今際の際に一度見たかったという教会の絵を見て精神世界を満足させたからと言って、あらぬ疑いをかけた富豪や、少年の苦境に背を向けた町の人々が改心したからと言って、当人が死んでしまっては何にもなるまい。厭世観にとらわれた社会不適合者が自殺したのと何も変わらん。――犯罪に走れなどとは言わん。だが最低限の自己主張くらいはするべきだった」 もはや誰も何も言えない。彼の酷く冷たい物言いは、全て彼が実体験し、その目で、その耳で見聞きしてきた現実から来ている。彼は世界中で、住む家もなければ、今日食べるものもない人々を見て来ているのだ。人々を感動させようとして創作された物語の美しさなど、彼には偽善と虚飾の塊にしか見えない。悲劇などわざわざ創作するまでもなく、少し視野を広げれば世界中に転がっているのだ。何より彼自身が、とんでもない経歴の持ち主なのだ。 「同じ物語ならば、俺は《トム・ソーヤーの冒険》を推奨する。こちらの主人公トム・ソーヤーは子供でありながら尊敬に値する。年齢的な未熟さゆえに危険な行為も見受けられるが、周囲の大人たちの声に惑わされず、自らの好奇心と冒険心を満たすべく何にでも挑戦する姿勢は実に見事だ。そして、浮浪少年ハックルベリーを決して蔑まぬ高潔なる精神。罰から逃げぬ潔さ。――このトム・ソーヤーならば、将来大人物になる可能性を秘めている」 それは以前、比嘉焚美から薦められ、彼自身が面白いと思った物語である。そして龍麻は特に意識していないが、《トム・ソーヤーの冒険》を引き合いに出した事で、京一たちの心境がほんの少し軽いものとなった。まあ、《フランダースの犬》に関してはいろいろと言ってやりたい事があるものの、龍麻が文学作品をまったく理解できない冷血人間ではない事が判ったのだ。そして、これだけの論評を展開できるという事は、人間に対する洞察力も優れているという現れだ。 とりあえず小難しい文学作品に対する論評はそこまでと言うように、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。 「――うむ。そろそろ出るか」 「あン? ――どこ行くんだよ、ひーちゃん」 今日は京一たち四人とも用事があるが、生真面目な龍麻の事だから一人で旧校舎に行くのだろうなと思っていた矢先である。 「うむ。雨紋と約束がある」 「雨紋クンと?」 「そうだ。この記事を見ろ」 龍麻が広げて見せたのは、我が真神学園新聞部の真神新聞である。 「アン子のコメント欄を見ろ。そこがどうも気になるのでな」 「…《鴉の事件は解決》…いや、《日比谷公園内で多数の白骨死体発見》ってトコか…?」 軽く頷く龍麻。 「唐栖が殺したのは九人だ。これは死体も発見されているから間違いない。奴自身、嘘を付く必要もないところから、その白骨死体は別件だと推察できる。雨紋はそれを調べたいらしい。そこで、俺の手を借りたいそうだ」 「――オイオイ、ひーちゃん。そういう大事な事だったら俺たちにも言えよ。そっちの方がよっぽど重要だろうが」 京一以下、皆、渋い顔をする。龍麻が極力仲間を危険に晒したくないと考えている事は判っているのだが…なんとなく水臭く感じる。 「――何を言うか、京一。今日はお前の姉が嫁ぎ先から遊びに来るのだろう? それに醍醐も。――俺はまず、各々の生活を大事にしろと言った筈だが?」 「そ、そりゃ判ってるけどよォ」 「それにこの一件は《力》とは関係あるまい。普通の事件ならば警察に任せる。心配は無用だ」 パサリ、とダークグレーのコートを羽織る龍麻。例によって、銃器類はその下に装備されているのだろう。 ふと、京一は疑問が湧いた。 「なあ、ひーちゃんよ」 「――なんだ?」 「この街…つーか、この東京…どんな風に見える?」 醍醐も、小蒔も、葵もやや緊張したような顔を作る。この《一応》平和とされる日本の首都東京で、銃器を手放す事ができない男。その男の目には、この街はどう映る? 「…とても平和な街だ」 ごく簡潔に、龍麻は言った。 「銃声も悲鳴も聞こえない。それは、とても良い事だ」 そう言い残し、龍麻は教室を出て行った。 「――済まねェ、龍麻サン。ついこの前あんな事があったばかりだってのに、わざわざ来てもらってさ」 「気にするな。俺もこの一件には興味がある。地元のお前にいてもらえるとありがたい」 これは龍麻の本心だが、実は彼にはもう一つ本音がある。雨紋には悪いが、どうもこの渋谷という街、龍麻は馴染めそうになかった。オフィスビルと歓楽街が微妙に重なっている新宿と違い、プレイスポットが程よく固まっている渋谷は、遊びに来た人間の密度が非常に高い。しかも何かを買いに来たとか、見に来たという明確な目的もなく、ただフラフラしに来たという輩が大多数を占め、その怠惰な雰囲気が龍麻の神経を逆撫でするのである。無気力、無関心、無感動、無軌道…規律の中で生きてきた龍麻には理解しがたい若者達であった。 「それで、どの程度の情報を得ているのだ?」 まずは死体発見現場の日比谷公園に向かおうという事で、路地を辿り始める二人。こういう時、裏道を知っている地元民がいると心強い。ただフラフラしているだけの輩が群れている大通りを行かずに済むからだ。 「ああ。なんでも被害者は全員、若い女性らしいって事かな。それもせいぜい十代から二十代。身元が判るような物は一切合財、何もなかったって話なんだよ」 「――着衣もか?」 「そうらしい。骨以外は何も…いや、骨の方もその、なんと言うか…歯が全部なくなっていたり、手足の骨が多かったり足りなかったり、妙に損壊が激しかったりしているって話だ。親が警官やってるダチの話じゃ、早くも捜査が難航しそうだって事だし」 「ふむ…」 軽く腕を組む龍麻。無表情ではあるが、これが考え事をしている顔だ。先の事件の時、彼の凄まじい推理能力を見せられた雨紋は口を挟まない。 「――歯型から身元を検証するのは無理か。首都圏における行方不明者は年間数百人。警察では時間がかかりそうだな。もう少し情報が欲しい所だ」 やがて日比谷公園入り口に辿り着く龍麻たち。先の鴉事件から一週間が過ぎているが、白骨死体が発見された事から、噴水広場周辺を除いてはまだ封鎖が続いているようだ。唐栖と闘った塔の周辺も、工事が再開されたために一般人は立ち入り禁止になっている。 「雨紋――唐栖はこの件について何も言っていなかったのか?」 「え!? …ああ、特には…と、そう言えば、本格的におかしくなる前に、妙な事を言ってたな」 「ほう。どのような事を?」 「ちょっと待った…え〜と、確か…」 ――雨紋、君は神を信じるかい? ――僕は信じているよ。神は僕らのすぐ近くにいる。 ――神は血を好む。だから、生け贄を捧げねばならない。 ――僕は今、忌まわしき輪廻を断ち切る《力》を得たんだ。 「確か…そんな事を言っていたよ。あいつが鴉を操る《力》を俺サマに見せたのはそのすぐ後だったと思う」 神という単語を持ち出しながら、内容は酷く暴力的。龍麻は僅かに口元を歪めた。 「――唐栖は犯人を目撃しているな。最低でも、死体を見ている。――見込まれたな」 「…見込まれた!? なんだよ…それ?」 なにやら酷く不穏な響きを持つ龍麻の言葉。――彼は世界の現実を見てきている。それが時として、言葉に凄まじい重さを持たせるのだ。 「異常な犯罪、猟奇的な事件というものは、本来忌避されてしかるべきだ。多くの場合、そのように対応される。だがごく一部の人間、特にその現場、死体、犯人を目撃した者の中には、時としてそれらに魅せられてしまう者が出るのだ」 「魅せられるって…人殺しに!? 龍麻サン、いくらなんでもそれは…!」 龍麻は片手を上げた。 「まあ聞け。――人間は精神活動を活発化させる事により、自然のシステムから逸脱した存在だ。獣は生きるために他の獣を襲って食わねばならんが、人間は肉体を維持するための栄養の他、精神を維持するためにも栄養を必要とする。――お前の場合は音楽だ。醍醐は格闘技だな。人によっては絵画に、映画に、書道に――ありとあらゆる文化、趣味などが精神を豊かにする栄養となる。生物として生きる上には本来必要のない行為――それが文化だ」 「ああ…それなら解る…と思う」 「正直だな。――話を戻そう。人間の精神が栄養を必要とするのは確かだが、肉体に作用する麻薬があるように、精神に作用する麻薬も存在する。解りやすいのはスリルとスピードだ。スカイダイビング、フリークライミング、ドラッグレースなどだな。いずれも命の危険があると解っていながら、その緊張感がたまらぬらしい。そして、強い刺激はより強い刺激を求めるようになる」 これは、自分にも言える事だから雨紋も頷く。彼の趣味は音楽と、バイクだ。決して良くない事ではあるが、制限速度を無視して突っ走るのは気分が良い。使い古された、少々照れ臭い表現を使うならば、自分が風になったような気分を味わえるのだ。 もっと手近で解りやすいものを上げるならば、絶叫マシンがそうだ。ほんの一昔前までは曲がりくねったコース上を高速で走り抜けるだけだったジェットコースターが、宙返りもスラロームも当たり前、垂直に昇り垂直に降り、立ったまま乗る物や宙ぶらりんで乗るジェットコースターまで存在する。これらは年々、より刺激的に、より過激に改良され、留まる所を知らない。 「だが、人間の精神は貪欲だ。刺激を求める精神に限界はない。その癖、酷く脆い面も持ち合わせている。――残虐な行為に対する忌避感と同時に、それを求めてしまう精神が存在する事を完全に否定する事はできないのだ」 「……!」 「俺もいくつかの戦場で、そのような人間を見た事がある。大抵は殺人の恐怖から逃れるべく狂った新兵だが、中にはベテランの兵士も含まれていた。彼らは敵の死体から切り取った耳で首飾りを作り、国に帰ってからも力なき者を襲っては猟奇的殺人を繰り返していた」 龍麻はそこで一旦言葉を切った。外回り中のサラリーマン風が缶コーヒー片手に二人の傍らを横切ったからである。 龍麻は何気なくその男を目で追ってから、続けた。 「もう一種類は、最初から救いようのない性質を持つ、あるいは育てた人間達だ。――こちらは非常に厄介だ。表面上は社会的にも対人関係においてもごく普通の、あるいは周囲から尊敬を集めるような人間を偽装している場合が多い」 「つまり…見た目じゃ判らない?」 「肯定だ。この街を歩く人間の九九・九パーセントまでは善良な人間だろうが、ざっと千人に一人が脛に傷持つ身だとしたら、この街だけで何百の犯罪者が紛れ込んでいる事か」 恐ろしくシビアな事を言う龍麻であったが、雨紋は反論できない。この矛盾多き現実の中で、それを憂いていない者が果たして存在するだろうか? 怠惰な日常に飽き飽きし、ストレスを抱え込み、それを爆発させる切っ掛けを虎視耽々と狙っているのではないだろうか? ――唐栖などはその典型だ。《力》に目醒めさえしなければ、彼もそのような人間の一人として社会に埋没していた筈なのだ。 逆に言えば、《力》に目醒めた者が第二第三の唐栖になる確率は高いのだ。社会に、政府に、職場に、学校に…不満の種をばらまく環境は数多い。 「まあ良い。今必要なものは情報だ。情報屋をあたるとしよう」 「情報屋って…龍麻サン、心当たりがあるのかい?」 「大きな街には多くの情報が集まるものだ。当然、その情報を売り買いする者も多く存在する。――まずは、歩く事だ」 龍麻と雨紋は代々木公園を出て、渋谷駅へと戻ってきた。人込みの嫌いな龍麻だが、情報屋というものは多くの人々の間に紛れ込むものだ。必要な情報を得る為にはやむを得ない。 自堕落な若者の群れを縫いつつ渋谷駅まで戻ってくると、有名な《ハチ公前》はフーリガンの集会のような有り様であった。ファッション雑誌の《今年のトレンド》という言葉を鵜呑みにした、没個性の塊のような格好をした若者が好き勝手に集団を作り、無駄話に花を咲かせ、下品な笑い声を立てる。極限まで丈を詰めたミニスカートの女子高生が通りがかると、いい年をした中年男性がやに下がった声で「お嬢さん、いくら?」などと声を掛けている。 雑多な賑わいならばまだ許せる。だが周囲の声は尽く龍麻の神経を逆撫でしているようだ。従って、龍麻にこんな声が掛けられた時、雨紋が割って入った。 「よォ、若ェの。煙草、恵んでくれねェか?」 見ればそれは、灰色の古着を纏った浮浪者である。顔は皮脂でべた付いている髭で覆われており、白髪混じりのざんばらな頭も不潔感丸出しである。どこのスーパーからかっぱらって来たものか、小型の買い物カートには古雑誌やら破れた毛布やら、恐らく彼の全財産が乗せられていた。 「悪ィけどよ、オッサン。他をあたってくれ」 漂ってくる異臭に少し顔を歪め、それでも雨紋はなるべく穏便な口調で言った。 「そんな事言わずによォ」 たかり専門なのか、しつこい浮浪者だ。そこで雨紋はもう一言付け加えようとしたのだが―― 「…煙草は持っていない。ロッテのチョコレートならばある」 「チョコなら森永だが、それでも良いぜェ」 厚かましく手を差し出す浮浪者。龍麻が言葉通り、チョコレートを包装紙ごとその手に乗せたのを見て雨紋が顔を顰める。 「ありがとよ。――コイツは礼だ」 雨紋の顔がますます歪む。それはロッテのグリーンガムであったが、既に中身は半分しか残っていない。それに、貰った相手が相手だけに、ちょっと食べる気がしない。 ところが―― 「…このところ、夜中まで遊んでいる女の子が何人か姿を消してる」 突然、浮浪者がそんな事をぼそぼそと喋り始めた。 「《プチ家出》とかしている連中がほとんどだが、中には本当の通りすがりもいるらしい。下は小学生から、上はOLまで。これがどうも風俗に売り飛ばされたとか、腐れ餓鬼に拉致られたとか、そういうのじゃないらしいんだな。二週間ほど前に行方不明になった女の子が、スナッフ・ムービーに出ていたそうだ」 「……!」 ピク、と龍麻の頬が引き攣る。雨紋には何の事やらさっぱり判らない。そもそも浮浪者が龍麻にそんな事を話している事自体、信じられないのだ。 「…ビデオを扱ってる店の場所はそン中に入ってる。だが気を付けろよ。どうやらかなりヤバいバックがいるみたいだぜ」 「…了解した」 龍麻が肯くと、浮浪者はチョコレートと共に渡された数枚の一万円札を腹巻きの中に挿し込み、買い物カートを押しつつ元来た道をよたよたと歩き去って行った。 「…龍麻サン、今のって…?」 「彼が情報屋だ。この界隈ではもっとも情報量が充実している実力者だという」 「マジ…?」 呆然とする雨紋。既に浮浪者は雑踏に紛れて見えなくなってしまっている。 「人を見掛けで判断しない事だ。――しかし、スナッフ・ムービーとはな。厄介な事だ」 「そう! それそれ。スナッフ・ムービーってなんなんだい? 龍麻サン」 「うむ。いわゆる殺人ビデオの事だ」 表情も口調も変えぬ龍麻であったが、雨紋はうろたえた。 「さ、殺人ビデオ!? そ、そんなものがあるのかよ?」 「肯定だ。数年前、幼女を誘拐し、虐待死させた上、死体の一部を家族に送り付けた男がいただろう? あの男が好んで視聴していたビデオの中に、そのような作品がいくつかあったという」 げ…と呻いて口を閉ざす雨紋。それほど昔の事でもないのに、世間はあの事件を記憶の片隅に追いやっている様だが、子供心に恐怖を感じた雨紋はその時のニュースを鮮明に覚えている。――嫌な事件だった。事件の内容もさる事ながら、犯人の趣味や性癖が公開されるに連れ、世間の、特にジャーナリズムの独断と偏見から、アニメーションやコンピュータゲームを愛好する者たちが犯人の同類と見られた事があったのだ。 「先程も言ったが、残虐な行い、残酷な光景は時として人を惹き付ける。かの事件の犯人が視聴していたビデオは作り物でしかないが、それでも精神に与える影響は大きい。《十三日の金曜日》シリーズに代表されるスプラッタ・ムービーや《ナイト・オブ・ザ・リビングデッド》などのホラー・ムービーが廃れぬのはそこに原因がある。そしてアンダーグラウンドでは本物のスナッフ・ムービーが出回る事は珍しくない。需要があるからこそ商品が提供され、新たな商品を作成する為に、新たに人が殺される。アメリカ一国でも年間の行方不明者は十万人とも二十万人とも言われる。全てとは言わんが、少なからずそのような事件の被害者と化している者はいるだろう」 「……」 雨紋はもう声もない。 「まずはビデオの線から当たってみるとしよう。雨紋、この場所は分かるか?」 グリーンガムの包み紙から取り出したメモを広げる龍麻。雨紋は慌ててそれを受け取った。 「ああ。判るけどよ、この界隈は俺サマもあまり近付かないんだ。ヤバい連中が多くてさ」 「賢明な判断だ。危険だと判断したらその場で引き揚げ、警察に匿名で情報を流すとしよう。――行くぞ」 「お、おうっ」 思いがけず大事になった事に内心うろたえながら、雨紋は肯いた。 この渋谷でも特に人通りが激しいと思われるセンター街を歩いていると、軽薄な笑いと陰惨な目つきと、グループを作って地べたに座り込んで煙草を吹かしている少年少女の群れが目に付く。未成年者の喫煙は犯罪であるのに、大人は誰も注意しない。ただ、関わり合いにならぬよう、目を逸らしながら足早に通り抜けて行く。無関心、無感動…そんな言葉が良く似合うところだ。 この町は汚れている――唐栖の言った事も、あながち的外れではない。街行く人々のモラルは地に堕ち、自浄作用など期待するべくもない。 雨紋がそんな事を考えていると、不意に龍麻が話し掛けてきた。 「――雨紋。お前は神を信じているか?」 「え?」 いきなりの質問だった。しかもその文句。あの唐栖に聞かれたのとまったく同じである。 「俺サマは…どうだろうな…。信じているのかな…?」 まさか龍麻がそんな質問をぶつけてくるとは思わなかったし、問われて初めて、そんな事を考えたような気がする。 「本当に神様がいるとすれば、もう少し人間が良くなっていてもいい気はするし…ただいるだけで何もしないってんなら、神様なんて必要ないとも思えるし…。良く…判らないな…」 「……」 「あ! でもさ! 本当に神様なんてのがいるとして、皆がそいつに頼ってちゃいけねェだろ? 俺サマは別に、神様はいてもいなくてもいいよ。ただ――本当にいるなら、せめて頑張っている奴には何かしてやって欲しいと思うぜ」 その時雨紋は、龍麻が口元に微笑を刻むのを見た。 彼が軍の特殊部隊の出身だという事も、どのような立場にあるのかも、《仲間》と呼ばれた時に説明されてある程度は知っている。しかし彼の笑みは、その正体から推察される印象などとは程遠い、とても美しいものだった。それこそ―― 一生の思い出になるほど。 「雨紋。お前は本当に良い男だな」 「な、なに言ってんだよッ、龍麻サン!」 龍麻の口調に、からかう響きはない。彼は真剣に、雨紋を賞賛しているのだった。 「神や悪魔といった概念は、人間の欲望や因縁が複雑に絡み合って生み出されたものであると俺は考える。そこには自分ではない他者の力を借りて楽をしたい、あるいは自らの行為を正当化する存在が欲しいという願望が見え隠れする。だがお前は、神の存在そのものを許容しつつ、自分より他人に力を貸してやって欲しいと言う。――お前には自立心も向上心もある。それはとても良い事だ」 「そ、そうかなッ!?」 照れ臭そうに頭を掻く雨紋。龍麻は肯き、しかし笑みを消した。いよいよいかがわしい雰囲気が周囲に立ち込め始め、周囲に群れているグループからは剣呑な視線しか飛んでこなくなったのである。 「…ここだな」 地図が示したビデオ店は、雨紋でも入り込まないという、いかがわしい店の乱立する裏通りの、雑居ビルの中にあった。打ちっぱなしのコンクリートの階段は狭く、明らかに消防法違反だが、誰も気にしてはいないらしい。壁一面に張られたピンクチラシは落書きだらけ。中にはこんなところでXX行為に及んだものか、ポスターに映った女優の裸体に汚液が貼り付いているものまであった。その為空気には異臭がこもり、龍麻の顔を顰めさせた。 「雨紋、お前は表通りで待て。学生服ではここには入れん」 「わ、判ったけど、龍麻サン、一人で大丈夫か?」 口にしてから、雨紋は自分が酷く馬鹿げた事を言った事を知った。 緋勇龍麻。この歳にして、アメリカ軍の特殊部隊上がり。数々の銃器を駆使し、素手でも恐るべき格闘技術と、《魔人学園》の名に相応しい脅威の技を振るう男。 「援護が必要な時は呼ぶ。携帯の電源は入れておけ」 《一人で大丈夫》と言わないところが、逆に雨紋に敬意を覚えさせる。この男は自分を過大評価せず、他人を過小評価しない。真神学園に存在する《旧校舎》なる場所で彼の訓練を受けた時にも感じた事だ。彼は常に、他人を正当に評価し、更なる成長を促せる。 曲がりくねった路地を雨紋が去って行くのを見送り、龍麻は雑居ビルに足を踏み入れた。 監視カメラの類はない。どれほど巧妙に隠されていようと、龍麻の《勘》を欺くのは非常に難しい。龍麻はショルダーホルスターから取り出したウッズマンの遊底を少しだけ引き、薬室 ビデオ店は四階だ。曲がりくねった階段を上って行くと、《プシキャット》という看板の出ているビデオ店で一人の男とすれ違った。まだ明るい内からこんな店に出入りするとは良い御身分である。 手動のドアを開き、店内に入った途端、濃密な臭気が龍麻の鼻を衝いた。 匂いの強い芳香剤と、コロンの匂いである。店内は思ったより広く、所狭しと並べられたビデオテープと、金網で仕切られたカウンター、ドアのない視聴用個室が並んでいる。 しかし、龍麻の鼻を刺激したのは、芳香剤の匂いだけではなかった。 「――今の男か!?」 記憶を呼び起こす龍麻。黒ぶち眼鏡、背広の色、髪型、ネクタイの柄、コーヒーの匂い――日比谷公園にいた男と同一か!? あの時も今も、剣呑な気配は微塵も感じさせていなかったが!? 個室の中に、三人の若い男が折り重なって倒れている。一人は首の骨を折られていたが、後の二人はナイフによる傷が致命傷であった。一人は背中から腎臓の真上を一刺し、もう一人は喉を抉られて、やや粘り気を持つ血が安っぽいタイルに斑模様を刻んでいる。 龍麻は素早く、店内の監視カメラの映像を求めた。それはすぐに見つかったのだが、映像を納めるビデオデッキの上に消しゴムほどの大きさの、強力な磁石が置かれていた。これでは店内の監視映像関係は全て解析不能になっている事だろう。 これではお手上げだ。龍麻は店内をざっと見回し、証拠となりそうなものがないと悟るや、素早くビデオ店を出ようとした。その時―― 「店長ォ〜、間に合わせのブツ、持ってきたぜェ〜。この前のビデオは入ってるかい…って、なんだコリャあッッ!?」 龍麻がカウンターに身を伏せ、気配を断った直後、若者の悲鳴が狭い店内に響いた。 「こいつはヤベェ…!」 担いでいた荷物を放り出し、ぱっと身を翻して階段を駆け降りて行く若者。一瞬だが、龍麻は若者の横顔を見る事が出来た。歳の頃は龍麻と同程度。顔立ち、髪型、ピアスの位置――全て記憶した。向こうは気付いていない。 長居は無用だ。龍麻は店内から去ろうと、若者が落として行った荷物を飛び越えた。するとその時、そのダンボールから何か生き物の呻き声のようなものが微かに聞こえた。 「!?」 素早くナイフを取り出し、ダンボールの包装を解いた龍麻の表情が厳しさを増す。中から出てきたのは、両手両足を縛られた、小学校一〜二年生くらいの女の子であった。目を真っ赤に泣き腫らしているが、口にガムテープが貼られているので声にならない。 「――もう大丈夫だ」 龍麻は少女の縛めを切り裂き、口のガムテープはそのままにして少女を担いで雑居ビルを走り出た。 周囲を走査。人の気配の感じられない方角へと走る。こんな所を誰かに見られたら龍麻こそ誘拐犯だと言われそうだ。 幸い、誰にも見咎められず、龍麻は小さな公園まで走り出て、素早く少女の口と手足からガムテープを取り去った。 「――大丈夫か?」 途端に、火が点いたように泣き出す少女。さすがに少し慌てつつ、龍麻は雨紋を呼び出した。雨紋は龍麻が移動したと聞いて慌てたが、そこは地元民。すぐに龍麻を見付け出し、同時に驚いた。 「仁美ちゃん!? な、なんで!?」 「――ライトにいちゃん!」 声を上げて雨紋に飛び付く少女。 「――知っている子か?」 「あ、ああ。近所の蕎麦屋の子だよ。でも、何で龍麻サンと一緒に?」 龍麻はビデオ屋での一件を簡潔に説明し、付け加えた。 「逃げた男はこの子を《間に合わせ》と呼んでいた。恐らく児童ポルノかスナッフ・ムービーに使うつもりだったのだろう」 「そんな…許せねェ…! こんな真似をするヤツラ…!」 雨紋の歯がギリギリと鳴り、彼の全身を怒りの《気》が満ちて行く。空気が帯電し、パリパリと音を立てた。 「落ち着け。――まずはその子の安全を確保するのが先だ。雨紋、表通りに出て警察に連絡しろ。俺は先程の男が戻ってくるのを待つ」 「そ、そうか…そうだよな…!」 思わずキレかかった雨紋であったが、龍麻の言葉でとりあえず怒りを納める。最優先事項はこの少女を安全に親元に帰す事だ。 表通りまで戻ってきた龍麻たちは一一〇番通報し、雨紋が少女と手を繋ぎ、龍麻は少し離れたところで経過を確認する事にした。そして、パトカーがやって来た。パトライトはフロントウィンドウの所…覆面パトカーだ。二人の刑事風が車から降りて近付いてくる。 「…早すぎる」 龍麻の《勘》が《危険》を告げた。しかし―― 「動くな! 警察だ!」 その瞬間まで何気ない風を装いながら、刑事たちはいきなり雨紋に、そして少し離れたところに立っていた龍麻に拳銃を突き付けた。 「な、なんだよ! こっちはこの子を助けた方だぞ!」 雨紋が噛み付こうとした途端、完全に油断していた彼の鳩尾に茶の背広を着た刑事風の男の蹴りが食い込んだ。 うっと呻いて地面に膝を突いた雨紋の顔面に、更に膝蹴りが飛ぶ。彼は鼻血を散らして路上に倒れる。 「ライト兄ちゃん!」 少女が雨紋にすがり付くが、刑事は雨紋に手錠を掛けるや、少女の手首を強く掴んで放さない。 「良し! 少女を確保! ――そっちのも早く確保しろ!」 もう一人、龍麻に銃を突き付けている刑事に叫ぶ。だが龍麻は銃口に対し、無反応である。 「手を上げろ! ――上げろ!!」 龍麻は動かない。ただ黙って、刑事を見据えているだけである。 「貴様――聞こえんのか! 手を上げろ!」 「――どっちなのだ?」 ようやく、龍麻は応じた。 「先程は動くなと言った。今は、手を上げろと言っている。どちらに従えば良いのだ?」 「貴様! ふざける気か!?」 「ふざけてなどいない。だが――何を慌てている?」 龍麻の口調に、僅かな皮肉がこもった。 「ニューナンブM60。三八口径五連発リボルバー。――警察が使用しているのは三八スペシャル・ラウンドノーズ。いやしくも警官ならば、周囲の状況を見てから拳銃を抜くべきではないのか?」 「何ィ!?」 「――三八スペシャルの先端の丸い 龍麻の手がゆっくりと上がり、指差したのは眉間であった。――日本の警官、刑事を問わず、絶対に狙ってはならぬ場所である。 「そして俺は、この通り武器を携帯していない。丸腰の被疑者を撃っては、世間の風当たりが強くないか?」 やはりゆっくりと、龍麻はコートをめくって見せる。――野次馬にも見えるように。ただしちょっとしたトリック――ショルダーホルスターごとコートをめくっているのだが。 「さて、その上で聞こう。何を慌てている? それほど忙しいのか? それとも――」 龍麻には演技の才能があるだろう。潜入工作用としては最低ランクと言われた彼だが、周囲の注目を集めるには充分すぎるほどの。 「――本物のパトカーが来る前に捕まえたいからか?」 と、その時、野次馬の一角から声が上がった。 「お巡りさん! 協力しますよ!」 聞けば、若い声である。視線だけ動かすと、そこにいたのは果たして、ビデオ屋に少女を運んできた、あの男であった。 「おお、そうか! 助かります! あの男に手錠を掛けてください!」 本物の警官ならば絶対にやる筈のない行為。刑事は手錠を若者に渡した。――本物ならば、最初に手錠を掛けた雨紋をパトカーに押し込め、しかる後に刑事自ら龍麻に手錠を掛けるのが筋だ。――少女を逃がさぬ為の猿芝居である。 「貴様! 動いたら撃つぞ!」 「――記憶力がないのか? 撃てば周囲に被害が――」 「やかましい! さっさと言う通りにしろ!」 遂に地が出たか、顔中を口にして喚く刑事。さすがにキレかかっている。龍麻は自分の身の安全よりも、周囲に被害を出す可能性を危惧し、ゆっくりと両手を前に差し出した。そこに手錠を掛ける若者。 「どうも、皆さん! お騒がせしました! この通り犯人は逮捕いたしましたので、ご安心ください!」 周囲の野次馬にそう言い、刑事は龍麻と雨紋、そして少女を覆面パトカーに押し込め、走り出した。 周囲を埋め尽くしていた野次馬も「凄いもん見たなァ」とか「ドラマみたい」とか言い交わしながら、元の喧燥の一部へと同化して行った。その後、本物のパトカーが駆け付けてきた時、そこで起こった騒ぎを知っている者は誰一人いない有り様であった。 「――どこまで行くつもりだ?」 「無駄口を叩くな!」 渋谷警察署は駅の近くにある。車ならば数分とかからない距離だった筈だが、パトカーはあっさりと渋谷警察署前を通り過ぎ、龍麻ら三人を何処かへと連れ去ろうとしていた。 「大声を出すな。悪党としても下っ端だとバレるぞ」 「こ、こいつ!」 茶色の背広の方が目をひん剥いたが、運転しているグレーの背広はそんな彼を宥めるように言った。 「放っておけ。どうせ餓鬼の空威張りだ」 「余裕を見せているフリはよせ」 「ッッ!」 間髪入れぬ龍麻の挑発。グレーの背広はキリッと歯を鳴らしたが、挑発には乗ってこなかった。 「そうやって軽口を叩いていろ。向こうに着いたらこの世の地獄だ。生意気な口を利いた分、たっぷりと可愛がってもらうがいいぜ」 「――そちらの趣味はない」 「うるさい! ――餓鬼が、あと少しでそんな口は二度と利けなくなるんだ。歯をぶち折られ、鼻を削がれ、耳を切り落とされ、その傷口をバーナーで炙られるんだぜ。どうだ、恐いだろう?」 「サドの変態が現役の刑事か。――世も末だな」 この期に及んで、龍麻の口調に乱れがない事に、ようやくこの二人も気付いたようだ。 「何なんだよ、龍麻サン。こいつら、偽者じゃねェの?」 「いや、拳銃も警察手帳も本物だった。ただし中身は、悪党に金を貰って腐っているだろう。――誇りを捨てた屑の見本だ」 見た目は高校生の度重なる挑発である。怒りで顔を真っ赤にした刑事は今にも拳銃を抜きかねない勢いで喚いた。 「やかましい! もうすぐその生意気な口を塞いでやるからな! 今の内に覚悟しておけ!」 「お前がやると? ふむ。すると、目的地はお前たちも知っているのだな?」 「――当たり前だ!」 「なるほど。では――」 その瞬間、二人の刑事には、自分たちの身に何が起こったのか理解できなかった。 「道案内は二人も要らんな」 ――ドズン!! 「――ぐぽおッ!!」 突然、シート越しに胴を貫く衝撃を受け、茶色の背広が胃液を吐いて昏倒した。 「な、なんだッ!? どうしたッ!?」 龍麻の手錠は前向きである。つまり、いくらでも自由になるという事だ。特に、彼のような人種に手錠は―― 「――グエッ!」 手錠の鎖をグレーの背広の首に巻き付けて締め上げる龍麻。わざわざ龍麻が両手を前に差し出したのは、手錠を前に掛けさせる為だったのだ。龍麻をただの素人と侮った彼らは、思いがけず龍麻に強力な武器を与えてしまったのだった。 「お、俺がハンドルを握っているんだぞ! 逆らえば…グエェッ!!」 「事故を起こしても、我々は助かる可能性がある。だが、お前は俺が殺す。――勝率は高くないが、お前の敗北は決定事項だ」 再び、ギリギリッ…と締まる鎖。次に呼吸が楽になった時、グレーの背広は全身を汗で濡らしていた。視界が赤い。 「死にたければ走り続けろ。嫌ならば脇へ寄せて停めろ」 「だ、誰が貴様ごときに…!」 「見上げた心意気と誉めてやりたいが、貴様と押し問答するつもりはない。――三秒やる。好きな方を選べ。――スリー…ツー…ワン…」 そのカウントの早い事! もはや否やはなく、グレーの背広は車を路肩に寄せて停めた。――死にたくはなかった。彼には未練と思うものがあり過ぎたのだ。 「雨紋。お前はその子を直接家に送り届けろ。警察には連絡しなくて良い。俺の方で伝 警察がどこまで関わっているか判らぬ以上、警察は頼りにならない。龍麻の脳裏には鳴滝の顔が浮かんでいた。 「OK。――龍麻サンは?」 「…こういう事は根元を断たねば解決しない。――任せておけ」 二人の刑事から拳銃を取り上げ、弾丸を確認する。シリンダーに納まっている弾丸は全て実弾であった。噂のように空砲など入っていない。例の、地下鉄毒ガス事件以降、危機意識が高まったという事か。それとも――悪党ならではの用心か。 「後で連絡する」 龍麻は軽く座席を蹴り、発進を促した。――拳銃を奪われた事以上に、先程首を絞めてきた時の龍麻の殺気を恐れ、グレーの背広は車を発車させた。 みるみる遠くなって行く覆面パトカーを、雨紋は複雑な思いで見送った。 「…龍麻サンの事だから大丈夫だと思うけどよ…」 その時雨紋は、訳もなく背筋がゾクリと震えるのを感じた。 第四話外伝 イリーガル・スチューデント 1 目次に戻る 次(2)に進む コンテンツに戻る |