
第弐拾話 龍脈 5
映像はそこで途切れ、龍麻は再び、強風の吹き荒れる大地に立っていた。
「……何の…真似だ!? こんなものを見せて、どういうつもりだッ!?」
彼にしては珍しく、苦いものを吐き捨てるような声音。実際、龍麻の全身は酷い悪寒に襲われていた。今の光景を、そのまま実体験したような。まるで自分の死を、追体験したような。
「これは、一つの終焉だ。これを見て、何も感じぬか?」
「…出来の良い映画だ。タイトルを教えてくれ。ぜひ鑑賞したい」
必死の軽口。しかし、今にも嘔吐してしまいそうだ。息も荒く、足元さえ覚束ない。ひしひしと迫る哀愁と、郷愁。【ここ】が、故郷であるかのような――
柳生は天を仰ぎ、片手で顔を覆った。その仕草は、たった今見たばかりの…
「やはり、失敗か。――ならば、ここで終わらせよう」
すう、と上がる、刀の切っ先。判り易いにも程がある、刺突の構えだ。
「ぐぬうっ!」
開掌を胸前に、徒手空拳【陽】の構えを取る龍麻。――まさかこの状態から馬鹿正直に刺突を放ってくるとは思わないが――
トスッ…!
「な…ッ!」
殺意、殺気、初動、空気の揺らぎ――それら一切合財を無視して、目の前に柳生が出現する。その手にした刀は既に龍麻の左胸…心臓を貫き、背中まで抜けていた。
「…お前は良き拳士よ。だが…足りぬ。お前の【力】では足りぬ。それでは【器】足り得ぬのだ」
低く錆びた、韻に篭った声が正面から聞こえる。確かに、龍麻の命を惜しむ声音だった。
(【無拍子】…ッ!?)
刺された。真っ向正面から。この自分が、レッドキャップス・ナンバー9が、【黄竜の器】たる自分がみすみす敵の接近を許し、刺されるまで気が付かなかった。
しかし、それは本当に【無拍子】であったか? 龍麻は、レッドキャップスは一度見た技や戦術に対して対抗手段を練る。かつて空手界の雄、松田勇次郎との【組み手】で超ハイレベルの【無拍子】は経験済みだ。その龍麻がこうもあっさりと…。そして、龍麻の神経は告げる。この刃は絶対に二点間を移動して自分を刺したのではなく、自分の心臓の位置に【出現】したのだと。
(くっ…)
もはや無意味な推論であった。今、目の前に、平穏が見える。記憶もない両親が、レッドキャップスの仲間達が、この東京で得た仲間達が笑っている。血と闘争に明け暮れ、戦いに飢えた自分に安らぎを与えたものたち。自分もそこに――
だが視界は不意に真っ赤に染まった。
顔も知らぬ両親が、レッドキャップスの仲間達が、そして、新たに得た仲間達が、全て血に染まっていた。足元も、空も血の色に染まっている。仲間達が、この世に生きるものたち全ての流した血が海となり、虚空へと吹き上がったかのように。
自分が死ねば、皆その通りになる――龍麻は自分の意志とは違うところでそれを感じた。
――死ねない。まだ死ぬ訳には行かない。こんな所で、終わりにはできない。
龍麻の右手が制服の内側に飛び込んだ。
「ゴフッ!」
調和の乱れが招く出血! その瞬間、龍麻に現実の感覚が戻った。
――心肺部損壊! 肉体損傷率レッドゾーン突入! なお上昇中!
――全機能停止まで、七秒…!
ドオン! ドオン! ドオン!!
銃口が前を向くのも待たず、コンバット・パイソンが咆哮した。龍麻の胸から鋼が抜け、彼の身体は支えを失ってぐらりと揺れる。そのまま倒れそうになるのを必死で踏みとどまり、龍麻はパイソンを両手保持で構えた。激しく揺れる銃口の先では、静謐な表情を崩さぬまま柳生が刀を八双に構える。先程と同じく、真っ向勝負。
「俺は…死ねん…!」
龍麻はそう言った。いや、言ったつもりであった。だが言葉は全て血となって吐き出され、視界が激しく揺れた。パイソンの重量も支え切れず、トリガーを引く力さえも失われていく。
「…いや。ここまでだ」
柳生は無造作に、刀を横薙ぎに払った。
「――!?」
パイソンの銃身…クロームモリブデン鋼が音もなく断たれ、宙に舞ったが、本来の狙いであった龍麻の首は宙に舞わなかった。――龍麻が倒れたのである。精神ではなく、肉体が【死】を受け入れ、ばったりと、仰向けに。
「…今度こそとの思いはあったが、やはり人の身。脆すぎる」
そう言って柳生は刀を緩やかに振り上げる。心臓を貫かれ、明らかに【死んでいる】龍麻にとどめを刺そうというのだ。だが、その首めがけて刃が光った瞬間!
――ズドォォォォォンッッ!
「――む!?」
虚空に光の弾痕を刻み、巨大な弾丸が柳生に襲い掛かった。マッハ二・七で襲い来る四四マグナム強装弾を【難なく】かわす柳生! しかし――
ズドオォッ! ズドオォッ! ズドオォッ! ズドォォォォォンッ!!
立て続けに発射された、光輝を纏って直進してくる弾丸! 【死】と【無】を纏うそれは柳生の背筋を【警戒】の一刷毛で撫で、彼に身を退かせた。弾痕を刻まれた空間がガラスのように砕け、そこから舞い降りた、白銀に輝く優美な銃身を持つ大型自動拳銃を構えた青い学生服の青年は――
「――貴様は…!」
殺気も何も――何をしたとも見えず、しかし青年の顔前で弾ける【気塊】! 放った者も受けた者も、時間感覚など最初から無視していた。
「――そこまでだぜ、柳生」
青年が歯を剥いて笑って見せた。それはさながら、強敵を目の前にした肉食獣の笑い。高く結い上げた髪と青い長ランが風もないのに激しく揺らめく。――青年の放つ殺気であった。
「やはり生きていたか。九角――天童」
死んだ筈の男――【鬼道衆】頭目、九角天童の出現に、しかし柳生は面白そうに含み笑いを漏らした。
「ああ、おかげさんでな。ついでに、【向こう側】って奴も見せてもらったぜ。二度と見たくねェアトラクションだったがなァ」
「ほほう。それで、次は俺を殺しに来たか。―――ふふ、大した飛び道具のようだが、まさかそれだけで俺の相手が勤まるなどとは思ってはいまいな?」
「――勿論さ。味方だってちゃんといるぜ」
優美なフォルムを持つAMTオートマグで額を掻きつつ、九角は傍らに立つ、細っこい影を促した。――あらゆる意味で九角とは対照的な、詰襟学生服の少年である。
「――緋勇君は…皆は殺させないよ」
およそ九角が頼りにするとも思えない、小柄でいかにもひ弱そうな少年に、柳生の眉が寄る。
「ククク、血迷ったか、天童よ。そんな輩を宛てにするとはな」
「――そうかい? そう舐めたモンでもないぜ。何しろこいつは、龍麻のダチだからなァ」
ガア、とどこかで鴉が鳴いた。
その声を合図に、さあっと周囲に霧が満ちた。
「!?」
次の瞬間、風景が一変する。見渡す限り砂の海、砂漠である。ただし照りつける太陽はなく、空はどんよりと曇り、何もかもが灰色に染められた、ただでさえ気が滅入りそうな世界だ。枯れ果てた木に群れ集う鴉も、陰気さに拍車を掛けている。
「ここは、もともと僕がいたところだ」
小柄な少年が口を開く。
「辛い現実から逃げ出した僕が閉じこもった世界…。だけど緋勇君は、僕をここから出してくれた。立ち上がる勇気をくれた。笑い方を思い出させてくれた。今度は――僕が緋勇君を助ける番だ!」
かつてのひ弱さが嘘のような力強さで、少年――嵯峨野麗司は言い放った。
「ほう。するとここは、貴様が作り出した亜空間という訳か」
す、と嵯峨野に視線を移す柳生。それだけで嵯峨野は硬直した。心臓を鷲掴みにされるような恐怖。龍麻ほどのものでさえ硬直を余儀なくされた柳生の殺気である。嵯峨野はそれこそ、視線だけで睨み殺されそうになった。しかし――
「僕を…殺す? ――良いアイデアだけど、あなたには分が悪いよ…」
「何?」
僅かに視線を鋭くする柳生。今度こそ本当に、嵯峨野の心臓は止まりかけた。だがその前に九角が割って入る。
「この空間は、ただの亜空間じゃねェ。コイツの見ている【夢】なんだぜ。柳生――テメエならこの意味が判るだろう?」
かすかに、本当にかすかに柳生が戸惑いを見せた。
「…ここは僕の見ている【夢】だ…。そして、今ここにいるあなたも、僕が見る夢の世界にいる…。僕が死んだら…この世界はどうなるだろうね…?」
「……」
「この世界でも、あなたを殺す事はできないだろうね。だけど、閉じ込める事くらいならできると思うよ。試してみる? この世界を夢見る僕が死んだら、この世界がどうなるのか…。何も起きずに元の世界に戻れるかも知れないし、永遠にこの不毛の世界に留まり続ける事になるかも知れない。確立は五分五分。――どうする?」
まさか、あの嵯峨野が、龍麻すら問題にしなかった男に脅しをかけるとは!? 嵯峨野の能力、【夢見】。それは本来、相手が夢を見ないと効力を発揮しない筈であったが、桜ヶ丘という稀有な病院で霊的治療を受け続け、龍麻のように誰かの為になれる強い自分を願い、イメージし、修業を積み…遂に起きている相手を夢の世界に引きずり込むほどにもなっていたのであった。
「時間がないんだ。僕を殺すなら早くやるといいよ。言っておくけど、緋勇君を殺したら、僕は九角さんに殺してもらう。分の悪い賭けだけど、あなたを永遠に閉じ込めるチャンスがあるのなら、僕はためらわない」
「…フン」
まったく迫力に欠ける静かな脅しに、龍麻を一撃で仕留めた男が唇を歪めた。
「面白い。それがヒトの――想いの強さという奴か。ならばその強さとやら、この俺が見極めてやろう」
ゴウ、と柳生の刀が燃え上がった。
否、燃え上がったのではない。噴き出した深紅のオーラが余りにも強力かつ濃密であった為、炎と見えたのであった。それどころか、炎の揺らめきは蛇か龍のごとくうねくり、宙へと散華する際にも鳥か蝙蝠かと見まごう形を成して散っていく。――この【力】は一体何であるのか!?
「フン。――光栄だぜ、柳生。龍麻を雑魚扱いしたテメエでも、俺相手じゃ得意の武器を抜いたかよ」
にい、と凶暴な笑みを浮かべる九角。きらりと光る八重歯は、今や牙と化していた。
「そいつは正しい判断だぜ。もっとも俺も、一人でテメエをどうこうできるなんて思ってねェ」
ガア、と鴉が一声鳴き、一斉に飛び立った。
右手後方に出現した気配に、そちらを見もせずに刀を振るう柳生。しかし気配の主はあっさりと断ち切られて無数の鴉の羽と化し――
「む?」
一挙に十倍以上もの重みを増した刀に、柳生の眉が僅かに顰められる。見れば刃に鴉の羽が無数に纏わり付き、それらがあろう事か石になっているのであった。魔人の振るう刃を封じる、鞘となるように。
「うひょう! おっかねえェッ!」
気配の主…正確には気配の陰に身を潜めていた人物が大きく飛び退く。身体にフィットするレザー・スーツを纏い、顔や腕に派手なペイントを施した…大柄な少年であった。額から冷や汗を流しつつ、不敵に笑って見せる。
「その面差し…察するに凶津の息子か」
「おうよ! 俺に取っちゃどうしようもねえクソったれ親父だったけどよォ、ああなっちまった原因がテメエだってんなら――親父の仇、取らせてもらうぜ!」
威勢良く啖呵を切る凶津煉児に、ふ、と笑いを見せ、柳生は石の塊となった刀を振った。
「〜〜〜ッッ!」
刃の形を成してない物を振って、この威力か!? 乱れ飛んだ真空把が正確に九角、嵯峨野、凶津を捉え――次の瞬間、彼らは無数の鴉の羽と化して散った。
「――ほう。やるな」
静かな感嘆に応えたか、鴉がガアと鳴く。それを合図に、虚空に次々と鴉が現れて巨大な群れを作り、その一群が地上で一つの人影を造り出した。
「僕は元々、あなたと同じ側だった…」
黒のトレンチコートを纏った、長身だが痩せ型の、神経質そうな顔立ちの少年が言った。
「今でもその考えに変わりはない。人間は罪深き、裁かれるべき存在…泥水に一滴の清水を垂らしても何も変わらないとね。でも緋勇君は、一滴の清水から大きな流れを生み出しつつある。僕が正しいのか、彼が正しいのか…こんな所で僕たちの勝負を邪魔しないでくれ」
少年〜唐栖亮一が両手を広げると、無数の鴉が天で渦を巻いて飛び、黒羽を繚乱と撒き散らした。たちまち柳生の視界は薄暮に閉ざされ、周囲に無限数の凶津と鴉、そして九角の幻影が出現する。そのどれもが本物と等しい存在感と気配、殺気を湛え、柳生の口元を笑いの形に歪めさせた。
「貴様も時代の棟梁に引き寄せられた者か。殺戮機械ごときが、友の多い事だな」
「――お兄サンを、機械と呼ぶな!」
突然、柳生を襲う姿なき質量体! 彼の周囲だけ、一挙に二十倍の重力がかかったのである。
「トニー!」
「OK! Take Get You Fiend!!」
金髪の少年…イワンの声と同時に、小柄な黒人少年〜トニーは念動力で発生させた弾丸を柳生目掛けて撃ち放った。しかし柳生はこの重力場のさなかで刀を掲げ、弾丸を弾き返してのける。しかも弾き返す方向まで計算して。
「凶津サン! 伏せて!」
「うおっとぉっ!」
少女〜サラの声を受けて地上に身を投げ出す凶津。弾き返された弾丸は、彼が元いた空間を何事もなく通り過ぎた。サラの能力〜千里眼の恩恵だ。
「フン…ッ! 負け犬共が、揃い踏みという訳か」
「まあな。だが、雑魚呼ばわりはさせねえぜ」
いきなり【鬼道閃】を三連射! さすがにイワンの過重力場内では自由に動けないか、一歩のみ横に身をかわし、残りの斬撃をその場で受け止める柳生。その隙を突いて凶津が、柳生が移動した先で待ち構え――
「食らえ!」
未来位置を狙った凶津渾身のパンチを受け止める柳生。しかしその左腕がみるみる石に変わる。――触れるだけで対象を石に変える、凶津の【イビル・ハンド】だ。
「そのまま石になっちまえ!」
「行け! 鴉たちよ!」
凶津は素早く身を引き、入れ替わりに無数の鴉が柳生目掛けて突進する。更にその後方からトニーの【PKマグナム】の連弾が浴びせられ、いかに柳生とてこの同時攻撃の前には見せるであろう隙を狙い澄まして、九角が【気】を刃に漲らせ――
「ふっ」
鼻先で笑う柳生。良い出来だと褒める笑みであった。
「なっ!?」
石となった左腕を一振りする柳生。その途端、彼に襲いかかろうとしていた全ての鴉が、そのまき散らす羽もろとも石と化し、トニーの放った弾丸を弾き返す盾となった。しかも…石が落ちない!? イワンが歯を食いしばって術を強めたが、重力場が逆転されて半重力場と化している。
「驚くにはあたらぬ。技も術も、その源流を知れば、模倣はたやすい」
パチン、と、柳生は人肌を取り戻した左の指を鳴らした
「ッッ!」
柳生の周囲で滞空していた石が、つぶてとなってサラを襲う。柳生に放つ筈だった気刃で、サラを襲う分だけ正確に撃ち落とす九角。サラはそれを予知したから動かなかったのではなく、恐怖の為に動けなかった。彼女が予知したのは、何をしても見透かされている、という未来であった。
「時間稼ぎの余裕は与えぬ。――そこか」
虚空を切り裂く妖刀の一閃。立ち並ぶ枯れ木が色彩の断片と化して飛び散り、その下に龍麻が出現した。
「くっ! 第三幕、第三夜! 白鷺!」
「かかれ! 烏たちよ!」
突如として出現した泥沼に沈みもせず歩き出した柳生に、白と黒の禍鳥が無数に襲い掛かる。全方位からの同時攻撃には、さしもの柳生も対処しかねるかと見えたが、彼は何もしなかった。それも道理。禍鳥たちの鋭い嘴が柳生の身体を捉え――そのまま突き抜けたのである。果たしてどちらが【夢】であるのか、白鷺も烏も、柳生の身体を素通りしてしまっていた。
「夢も夢を見るものよ。夢である事を疑わねば、どのような攻撃も効かぬ」
それはかつて、龍麻もやっていた事だ。彼の場合は肉体を突き刺さった白鷺を引きずり出すという荒技をやってのけたが、柳生のそれは地味でも遥かに高度な防御術であった。すべては夢、幻と断じる事で、あらゆる攻撃を無効化させたのである。
「――同じく、夢の中の生も、夢が覚めれば潰える」
「っっ!」
嵯峨野の見る夢の中であればこそ、まだ龍麻は生きているのだ。しかし夢の影響力を無効化されてしまえば、止めを加える必要すらなく、龍麻は絶命する。柳生に触れられた時が、龍麻の最期――
「チイッ!」
「このヤロウッ!」
のしかかってくるようなプレッシャーを気合で跳ね除け、九角は刀を両手で握り、身体ごとの刺突を放った。同時に凶津も、柳生の背後から捨て身のドロップキックを放つ。
「ぐうっ!」
「何ィッ!」
左右からの同時攻撃が、同時に止まった。いや、止められた。九角の刀も凶津の蹴りも、空間に光の波紋を散らすような障壁に阻まれ、それ以上は一ミリたりとも進めずにいる。そして、光の波紋がぐうっとたわみ――
「チイィィッ!」
「ぐわあァァ――ッ!」
形質を変化させた障壁のエネルギー流を、凶津はまともに浴びて吹っ飛ばされた。二転三転どころではなく、数十回以上砂地を跳ね、血だるまになって地に伏す。九角は刀を縦に構えてそれを切り裂く事で凌いだが、二つに分かれたエネルギー流が反転し、大蛇の形を取って襲い掛かった。剣士としては予測不能、回避不能の、大蛇の絞め技であった。
「ぐがあっ!」
九角ほどの者でも、こんな異常な攻撃はたまらない。彼の両足と両腕は一瞬で砕かれ、辛うじてトニーとイワン渾身の攻撃で大蛇の胴が千切れて即死を免れる。しかしそれも、柳生が加減したからだと知れた。
「九角天童。貴様は良く働いてくれた。せめて、この世の行く末を見極めるが良い」
もはや止める手段もなし。龍麻に向かって、柳生の刀が振り上げられた。
「――負けるもんか――ッ!」
絶叫を放ち、飛び出す嵯峨野。術も何もなく、ただ柳生の前に飛び出し、両手を大の字に広げただけ。柳生ならばその細っこい身体など藁のごとく分断し、龍麻を斬り捨てるであろう事は想像に容易く、しかし嵯峨野は全身で刃を止めるという気迫のみで立ちはだかった。その時――
――ヴン!
無造作に振り下ろされた刃が嵯峨野の鼻先を掠め、しかし何ら影響を与えずに素通りする。柳生が目測を誤ったのではなく、目と鼻の先にいる嵯峨野たちとの間に、無限の隔たりが生じているのであった。刀の切っ先から迸ったであろう気刃も届かぬほどの距離が。
「――間一髪、というところでしたか」
パチン、と扇子を鳴らしたのは、陰陽師の東の棟梁、御門晴明であった。その背後には厳しい表情の芙蓉と、驚愕に唇を噛み締める村雨もいる。
「――龍麻ッ!」
その惨状を目の当たりにして、真っ先に悲鳴を上げたのは葵であった。一同の眼前から忽然と姿を消した彼が、血だまりの中に倒れていたのだ。悲鳴を上げない方がおかしい。それでもなお、身体だけは適切に動いたのは、さすがは【真神愚連隊】の衛生班長であった。
「――さやかちゃん! 雛乃さん!」
「は、はいっ!」
「〜〜〜っっ!」
必死の形相で龍麻に飛び付き、治療術をかけ始める三人を護るべく、京一たちも前に飛び出す。
「テメエ! テメエが柳生かァァッッ!」
赤い髪、赤い服、燃えるような【気】をまとった日本刀、そして赤く光る目…。全てが劉に聞いた通りの男を前に、京一は吠えた。強大過ぎる怒りが、本来はそこにいる筈のない男〜九角天童の存在すら黙殺させた。
「貴様が…貴様が龍麻をこんな目に…!」
醍醐の形相が変わり…一気に白虎へと変化する。その全身を覆うオーラは、先程の劉と同じく紫色へと変じていた。いや、彼だけではない。如月も、アランも、マリィですら、龍麻を傷付けられた怒りを露わにし、その身に陰の気を宿し始める。
「黄龍に付き従う神威たちか」
低く錆びた声で、柳生は静かに言った。
「棟梁が棟梁なら、その手下どももなんと弱い事か。誰一人として、時代の役には立たぬな」
「ッッッッ!」
声にならぬ気勢を上げ、京一が、劉が、雨紋が一斉に斬りかかった。全身を怒りのオーラで包み、後の事など考えない乾坤一擲!
「なっ!」
光り輝く障壁に吹っ飛ばされたのは、【それ】に対する予備知識はあっても実体験のない、雨紋と劉であった。
(PPS!)
咄嗟に醍醐が京一の前に走り込み、咆哮を上げてのショルダータックル! PPS…【使徒】が使う【思念障壁】を十数枚突き破り、醍醐の突進が弱まったところで京一が木刀を刺突に構えて飛び出す。【面】で醍醐を捕えようとした障壁を【点】で突き破り、柳生の喉元に渾身の突きを――!
――ドズンッッ…ッ!
「ぐうッ!」
踏み込みが地面を陥没させる程に力を込めた木刀の切っ先が柳生の喉を捉え、しかし薄皮一枚傷付ける事も出来ずに止められる。その上、木刀を伝播する【陰】の【気】の奔流! 京一の目、鼻、口、耳、そして爪が全部弾け飛んだ指先が鮮血を噴き上げ、彼は壊れた人形のように崩れ落ちた。
「京一ッ!」
叫ぶ醍醐の胸にも鍛え抜かれた手が押し当てられ、醍醐の全身が毛を逆立てた。次の瞬間、醍醐の胸板がクレーター状に陥没し、彼は宙に吹っ飛んだ。
「ッ醍醐ォッ!」
こちらも重傷でありながら、醍醐を受け止めたのは凶津であった。【白虎変】が解除されてしまった醍醐は驚きに目を見開き、しかし口から血を噴き零れさせる。押しただけと見えた柳生の掌底は、【白虎変】を行使した醍醐の防御を突き破り、肋骨を粉砕してのけたのである。
「くっ!」
「許さんッ!」
「おのれッ!」
普段クールさが売りの如月、壬生までが怒りの形相も露わに突っ掛けた。しかし、我を忘れてなどいない。真っ直ぐ突っ込んでいく紫暮の陰に潜んで気配を消滅させ、柳生が気刃を放った瞬間、紫暮は二重存在を発動させて左右に、如月と壬生はそれぞれ左右上方に出現する。【飛水八双】、【龍落踵】、左右からの【掌底・発剄】の同時攻撃だ。
『――ぐわッッ!』
肺から全ての空気を放出するような苦鳴は誰が放ったものか。宙にあった筈の如月と壬生は、なぜか次の瞬間には叩かれた蠅のごとく地表に張り付かされ、紫暮もなぜか発剄を自分自身に叩き込んだかのように弾け飛んだ。
「ウオオォォォォォッッッ!」
アランが二丁の【ピースメーカー】を乱射する。実包はすぐに尽き、残りは気弾の嵐だ。だがそれも、柳生に届く前にPPSの輝きに弾かれてしまう。
「アオイ! タツマを連れて逃げるネ!」
「ッッ!」
全力で治癒術を行使しながら、龍麻の傷を塞ぐ事すらできていない葵が振り返る。雛乃もさやかも必死だが、胸の刺し傷にこびり付く陰気が強過ぎて、傷口を押さえる事すらできないのだ。このまま嵯峨野の夢から出たら、その瞬間に龍麻は絶命する。
「ここにいたら確実に殺されます! 私が術で龍麻さんを…ッッ!?」
御門がそこまで言った時、芙蓉が彼の前に進み出て扇を広げた。何を――そう思うが早いか、全く唐突にアランが血煙を上げて吹っ飛ぶ。【気】の弾丸にも跳弾の概念はあるのかその威力は減衰していたが、それはアラン自身が放った【気弾】であった。そして芙蓉が弾いたものも、また――
「正しく【凶星の者】。――晴明様、皆様と共に急ぎ脱出を」
「ふ、芙蓉!?」
「お急ぎを! かの者は私では止め得ませぬ!」
主人を振り返りもせずに言い放った芙蓉の背から、突如として鋼の刃が生えた。
「芙蓉さぁんッッ!」
目の前の速やか過ぎる殺戮劇にやっと思考が追随した小蒔が悲鳴を上げる。【悪い予感】とやらに従って推参した御門、芙蓉、村雨の能力によって判明した龍麻の居場所に来た途端、二分と保たずに京一、醍醐、雨紋、劉、如月、壬生、紫暮、アランが倒され、今また芙蓉までも…。
「――久しいな、天后。一五〇年ぶりか」
無限の距離〜空間歪曲の術をこれほど早く破ったのか、柳生は芙蓉の目の前にいた。
「私にとっては、現在と変わりなき事」
「ッッ!」
明らかに、芙蓉が自分の意志で笑った瞬間、彼女は爆発した。どう見てもこんな場面を想定していたとしか思えない装備…着物のたもとに忍ばせていた雷神の珠を数個以上まとめて起爆したのである。芙蓉はその憑代たる紙切れ一切れすら残さず消滅した。
「――やるな」
爆煙の向こうから、左腕と左半顔を焼け爛れさせた柳生が賞賛の言葉を発する。そして【それ】を見た御門が顔色を失い、葵も雛乃もさやかも表情が消え失せた。芙蓉が仮初めの命を捨てて浴びせた初の痛打が、治癒術の脈動すら感じさせぬまま、軽い身震い一つで元通りになってしまったのである。
「げに惜しきは棟梁の資質。貴様はここで果て、我が【黄龍の器】の糧となれ」
「くっ!」
御門は呪符を振り上げ、それが遅すぎる事を知った。
(時間を制する――そういう事ですか)
刀を振るモーションは飛ばして、既に形成された気刃が自分の首めがけて迫る凝縮時間の中で御門は悟った。
真っ向から挑んだ京一らはいざ知らず、視界に映らぬほど完璧に気配を絶った如月と壬生までもが倒されたのも道理。柳生は数秒から十数秒ほどの時間を無視して行動できるのだ。常に完璧な先の先、後の先を取れる者に、勝てる者などいる筈がない。
「――龍麻ッ!」
「龍麻さん!」
絶対的に無駄と解っていても、人ならばそうしてしまう行為…迫りくる刃を前に、葵とさやかは龍麻に覆い被さった。雛乃と雪乃、亜里沙と桃香、マリィまでもが両手を広げて龍麻の前に壁を作り、更にその前に霧島、紅井、黒崎が飛び出す。その人数分だけ気刃が荒れ狂い、全員の首から血飛沫が――
「ッッッッ!」
その瞬間を最後まで見据えていた霧島は、確かに自分の首が血を噴き、しかしそれがフィルムの逆再生のごとく元通りになるや、己の眼前まで戻された気刃が砕け散るのを目撃した。愕然として振り返ると、そこには無事な仲間たちがいる。気刃は、その全てが撃墜されていたのである。
「ひー…ちゃん…っ!?」
血まみれの顔を上げる事も出来ない京一が、茫と呟くように言う。醍醐もまた、龍麻を見ていた。葵に、さやかに抱き締められた龍麻の左手が、明らかに彼の意志によって上げられていたのだ。そして、前髪の奥から覗く、二つの赤い光点が…!
「た…龍麻…!?」
「龍麻…さん…っ!?」
夢魔の光景か重力が狂ったか、龍麻は踵を支点にしてふらりと立ち上がった。確かにしがみ付いていた葵とさやかの手には、水が指の間から零れ落ちたような感触が残る。その途端に襲い掛かる、胸にぽっかりと穴が開くような喪失感――
ヒュウゥゥ…
龍麻の口から吐息が漏れる。意識があるのかないのか、そもそも生きているのかいないのか、それが本当に吐息であったのかも定かではない。今の龍麻からは生気も覇気も、存在感すらも感じられなかった。
「心の臓を貫かれてまだ立ち上がるか。――その意気やよし。貴様は、今までの中では最高の出来だった」
柳生は刀を振った…のだろう。誰もが無造作に斬られる龍麻を思い描き、しかしその直後、リアルな幻覚は打ち破られた。逆袈裟懸けに斬られて吹っ飛んだのは、柳生の方であった。
「なっ…!」
苦しい息の下で、醍醐の目が驚愕に見開かれる。龍麻自身は何もしなかったのだが、見えぬ斬撃がどうなったのか、見えぬまでも感じた。時間を無視して放たれた気刃は龍麻の眼前で弾かれ、柳生自身に襲い掛かったのである。
「…しまった…ッッ!」
九角が血と共に呟きを吐き捨てる。龍麻の両目が赤く…今まで以上に、燃えるように紅く輝いていた。
――【身体機能に重大な障害あり】
――【――殺す】
――【ノル・アドレナリン並びにベータエンドルフィン無制限分泌開始】
――【――殺す――殺す】
――【バイオニック・セル機能限定解除。心肺機能代替活動開始】
――【――殺す――殺す――殺す――殺す!】
――【戦闘機動状況レベルG確認】
――【――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!】
――【最優先起動目標を選定】
――【――殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!】
――【戦闘機動に重大な障害あり】
――【――殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺す殺す殺す!】
――【ノーマル及びV−MAXモードでの身体機能回復を不能と判断】
――【――殺してやる殺してやる殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺!】
――【ノーマル及びV−MAXモードでの目前敵完全沈黙を不能と判断】
目の輝きに変化が生じる。宙を彷徨っていた視線が、柳生に固定された為だ。しかし、意思は感じられず…
――【Loading.dethbed program【ABADDON】】
――【I wish you luck】
――【Good Bye】
ふわり、と京一の頬を温風が撫でた。
視界が淡い金色に染められ、傷の痛みが溶けるように消える。同時に、怒りや憎しみに猛っていた心が安らぎ、幼き日に父の膝に抱かれたような安心感で満たされる。茫然と見回せば、醍醐も胸板の傷が、流された筈の血潮と共に失せ、如月や壬生たちも驚愕の視線をお互いに向ける。傷を負い、血を振り撒いた者が悉く常態に復し、奇妙な安らぎをも得て困惑する中、九角だけは元通りになった己の手足と龍麻を交互に見て、激しい焦りと後悔の表情を浮かべた。
「ひー…ちゃん…?」
「龍麻…?」
「龍麻…さん?」
自然に、誰もが視線を龍麻に注ぐ。この温もりが、彼と共にいる時に感じられるものと同種だと悟ったからであった。
しかし――
「ぬうっ!」
龍麻に対して初めて険しい表情を向け、柳生が刀を振るった。単なる気刃ではなく、京一のものよりも遥かに凶悪なエネルギーを帯びた【鬼剄】だ。
龍麻が左手を上げる。
「ッッ!」
直撃すれば周辺一帯が吹き飛ぶであろうエネルギーの塊が、虚空に虹色の波紋を散らす障壁に、爆発する事なく受け止められる。かつてその光景を見た事がある京一、醍醐、葵、小蒔の口から驚愕の呻きが漏れた。
「PPS…ッッ!」
それは、あの響豹馬の、【使徒】のみが持つという、喰った獲物の魂、【気】、魂魄…その他一切合財を時に盾に、時に矛に変える能力。しかしそれは恨みや憎しみを糧にするエネルギー体の発現であり、その掃き溜めと称される本物の【使徒】でなければ使えない筈ではなかったか?
柳生が三度、刃を振るった。
虹色の色彩がいくつか砕け散り、しかし斬撃の全てが止められる。それも承知していたか、柳生は刃を刺突に変えて突っ掛けた。
「うおっ!」
「きゃあっ!」
空間が引き攣れ、ひび割れ、京一たちの身体がゼロコンマの間だけとは言え引き伸ばされ、現実の三次元空間〜暗雲垂れ込める中央公園へと放り出された。二つの超エネルギー体〜PPSが激突し、量子力学に言うマイクロ・ブラックホールを顕現させた為に、亜空間の境界を引き裂いてしまったのである。そしてそれを引き起こしたエネルギーは、方や青の、方や黒の稲妻となって激しくぶつかり合い、死と破壊を振り撒いている。
「ぬううっ!」
柳生の刃は切っ先を龍麻の胸前に据え、それ以上は一ミリたりとも前に進まない。空間を穿つようなPPSの稲妻が切っ先に一点集中し、柳生のそれを食い潰しているのだ。
ずい、と龍麻が前に進み出た。
「ぐおっ!」
切っ先が喉に食い込むのも構わず無造作に伸ばした手が、その表面を焼かれながらもPPSを容易く突き破り、柳生の喉元を掴む。そして――緩やかに上げた足をバネのように弾き出す前蹴り! 受けもかわしもできず柳生の水月は陥没し、喉元は声帯ごとむしり取られ、彼は血を振りまきながら吹っ飛んだ。
「シュゥゥゥ…ッッ!」
龍麻の口から獣の唸りが漏れる。それと、牙が。
「あ、あれは…ッ!」
龍麻の背に覆い被さるかのように、何か巨大な獣のようなオーラが現出し、彼の肉体を取り込んでいく。まるで喰われているかのようなイメージ。現にオーラが取り込んだ龍麻の肉体には燃え盛る翼が形成され、手足には刺々しい鱗が何層にも折り重なって実体化されていくのだ。それは裏密が池袋で見た、悪霊に憑かれた龍麻が変異しようとしていたものの姿に他ならなかった。しかも、これは一体何なのか、地面を踏み締める龍麻の足元からは草花が芽吹き、一歩進むごとに秋深い公園の地面を若々しい緑が染めていく。それは京都で見た們天丸の起こした奇跡と似て、しかし朽ちかけの木の柵や不心得者が残して行ったゴミ…割りばしや爪楊枝さえもが芽吹き、コンクリートやアスファルトさえも突き破って緑が繁茂していく様は、自然の再生と言うよりは暴走と言う方が相応しく、感動よりも怖気を誘った。
喉を押さえ、刀を地面に突き立てて柳生が身を起こす。それを見た龍麻は 牙をぎらつかせ、笑いとも怒りとも判らぬ凶相で口を開いた。
カッ――ッ!
「うおっ!!」
「ぐわっ!」
その光景に既視感のあった醍醐は咄嗟に耳を押さえたが、唐栖は脳髄を直撃する高周波の唸りに悲鳴を上げた。しかしそんなものは柳生に比べれば遥かにマシであった。刀を立てて瞬時に展開した十数枚のPPSはまとめて粉砕され、柳生の顔面と上半身の肉が瞬時に沸騰して消し飛び、焼け焦げた骸骨と化したのである。そのエネルギーの余波はビルの壁面をこそげ取り、天にかかる暗雲に到達するや巨大な稲光と化して、無数の落雷で地上を叩いた。
「グヌヌ…ッ!」
だが、相手は【凶星の者】。龍麻の放った超振動波で骸骨と化したのも束の間、たちまち赤毛が伸び、肉が盛り上がって武骨な顔立ちを取り戻す。そしてその口元には笑いを刻んでいた。――負け惜しみではない。心底嬉しそうな、歓喜の笑いであった。
「なるほど、そうか。そういう事か。――良いぞ、緋勇龍麻よ。それでこそ【黄龍の器】、時代の棟梁よ!」
高らかに叫び、柳生は燃え盛る刀を高上刀に構えた。【柳生】の名を冠しながら、それは剣聖塚原卜伝の創始なる一撃必殺の太刀、【一ノ太刀】の構えであった。そして更に――柳生が気勢を上げると、雷が彼を打ち、膨大な【陰気】と交じり合って放出される。刺し違えてでも龍麻を倒すという、柳生の決意の具現であった。
「――ッシャァァァァッッ!」
獣の咆哮と共に、龍麻は地を蹴った。完全に翼ある生物の飛翔。何の躊躇もけれんもはったりもなく、柳生との最短距離を無造作に駆け抜ける。それは余りにも無謀、余りにも無策である筈だが、ある意味今の龍麻には最も相応しいとも言えた。
「――ふんっ!」
またしても、時間感覚の消失。京一たちは、振り下ろされる過程を省いて龍麻の額を捉えた刀を見た。そのまま龍麻の頭が断ち割られ、血と脳漿が飛び散り――
――ギィンッ!
重い金属音が響き、確かに目に映った光景が否定される。柳生の振るった刃はあろう事か、内包するエネルギーもろとも龍麻の頭突きによって弾かれ、態勢の乱れた柳生の両手首を龍麻が掴んだのである。
龍麻の両眼が細く引き締められる。
「――ぬがぁっ!」
なんと凶悪な握力か、握り潰され、ちぎり取られた柳生の両手首が刀を握ったまま地に落ちる。たまらずのけぞった柳生であったが、龍麻はそれすら許さず彼の足の甲を踏み抜く。――合気柔術の技法だ。腰砕けになった柳生が前のめりになった瞬間、理想的なタイミングでカウンターの…貫手! 先ほどのお返しと言わんばかりに、龍麻の貫手は柳生の胸骨を突き破り、背中まで抜けた。その手が握っていたのは、紛れもない柳生の心臓であった。
「ひ、ひーちゃん…!」
「た、龍麻…!」
京一や葵の声が、はっきりと恐怖に震えた。事前の準備を怠っていたら、恥も外聞もなく失禁していたであろう恐怖であった。
心臓を引きちぎられ、打ち捨てられてなお死なぬ柳生の頭を鷲掴みにし、龍麻は牙に覆われた口を大きく開いた。肉食獣の笑いとでも言うべき表情で柳生の首筋に喰らい付き、首を振って肉と食道、頸動脈をも食いちぎる。肉塊を吐き捨てた事だけが唯一の救いで、その後の光景は酸鼻を極めた。断末魔の狂態を見せた柳生の肩を掴み、暴れ回る両腕を肩からもぎ取る一方、彼の顔面に至近距離から超振動波を浴びせた。肩の傷からは血飛沫が盛大に上がって龍麻を染め、頭部を完全に消失した首の切断面からは炭化した皮膚が零れ落ちた。それでも龍麻は攻撃を止めず、振り上げた鉄槌で柳生の首なし肉体を地面に叩き付け、飛び出していた頸椎を掴んで脊椎を肉体から引きずり出し、更に大出力の発剄を打ち込んで肉体を肉塊に、更にミンチへと変えた。一片の肉はおろか、原子の塵の存在すら許さぬかのように発剄を、巫炎を打ち込み、拳を叩き付け、踏みにじる。ただでさえ凄惨な光景なのだが、それは子供が人形を壊して遊んでいるかのようにも見え、奇怪に明るく乾いた、生命というものを徹底的に軽視した残虐さがあった。
「おい馬鹿! やめろナンバー9! 命令だ!」
九角が怒鳴ると、龍麻がピクリ! と反応する。しかし――
「うおっ!」
そちらも見ずに放たれた裏拳が衝撃波を生み、一瞬前まで九角がいた場所にクレーター状の大穴があいた。しかも…破壊された地面がみるみる緑に覆われる。そのエネルギーの余波を受け、九角の刀の鞘までが新芽を吹いた。
「馬鹿野郎! 目を覚ませ!」
抜刀できなくなる前に鞘を打ち捨て、九角が叫ぶ。しかし、それがまずかった。柳生を破壊し尽くした龍麻は、明らかに九角を…次の玩具と認識したのだ。今の龍麻には本来の彼も、ナンバー9も、殺人者としての人格も感じられなかった。ただただ強大な力を振るう、【何か】。小さな昆虫に興味を示した幼児、あるいは揺れる猫じゃらしにじゃれつく子猫のような、無邪気な好奇心。背を貫く戦慄に、さすがの九角も肌が粟立つ。
「オイッ! テメエら! 手を貸せ!」
「な、何ィッ!?」
どうして九角がここにいるのか、何故そんな事を言うのか、今更ながらに困惑する京一。しかし九角の、見た事のない真剣かつ真摯な表情を前に、無理にでも冷静さを取り戻す。
「ビビッてる場合か! あの馬鹿を止めねェと、東京中がジャングルになっちまうぞ!」
「っっ!」
九角の言う通りだった。柳生の破壊が終わった為か、稲妻のごとく放出されるエネルギーの叩く所全てに緑が生じ、もはや自然とは言えない緑の魔境が領域を広げていく。柳生の放った妖気の為に人影が遠のいているとは言え、これだけの怪異を前に好奇心を刺激された者は少なくなく、そんな人々が次々に萌え盛る緑に埋もれて行った。既にその領域は中央公園に留まらず、道路を越えて都庁やヒルトン・ホテルにも緑の触手を伸ばしつつあった。
「龍麻! やめて!」
葵が叫んだが、当然のように応答はない。いや、一応、反応はあった。葵の声を受けて彼は天を仰ぎ、咆哮し、この土地を、鉄とコンクリートで固めた事に対する無限の怒りを訴えているかのようであった。
訴えている!? その通りであった。恐怖の権化と化している龍麻の咆哮は、苦しんでいるとも、泣いているとも、助けを求めているとも取れたのだ。無際限に高まって行く【気】は彼を翻弄し、その肉体を無理矢理拡張、巨大化させつつあった。その翼と尻尾は既に実体化して風を巻き地を叩き、巨大な爪と鱗を持つ足もアスファルトに足跡と爪痕を刻む。無論、手足もまともではいられず、まず筋肉が悪性の腫瘍のごとく醜悪に膨れ上がり、内側から破れた皮膚から血を振り撒き、骨を無理矢理引き伸ばして整合性を保とうとする。無論、その程度で【気】を飲み干す事などできず、溢れた【気】の作用でまず植物を異常成長させているのだ。そして成長した植物はことごとく奇形であった。
「――それでは、いかんな」
低く錆びた声が、龍麻の咆哮を圧して一同の耳朶を打つ。
「なっ! 柳生ッ!」
文字通り、不死の魔人か。たった今、ミンチにまでされた筈の男が、先程までと変わらぬ姿でそこに立っていたのである。身体の傷はおろか、服さえもが傷一つない。しかも、殺された事さえ気にかけている様子のない、むしろ良くぞやってのけたと褒め称えるような、男らしい太い笑みを口元に刻んでいる。
龍麻が振り返る。九角が変身した姿を半人半鬼と称するならば、こちらは半人半龍か。筋骨たくましい肉体は鱗と棘に覆われ、顔だけは辛うじて人の面影を留めつつも、額に鋭い角を生やし、その両眼は爬虫類のごとき縦に引締められた瞳孔を赤く輝かせていた。その目が、実に二十メートルの高みから柳生を見下ろす。
「しかし、もう少しだ。もう少しでお前は成る。――駆け上がって来い、緋勇龍麻よ! その【力】を己のものと成し、我が下に至れ!」
ガアッ! と龍麻が口を開いた。収束されたのは超高温のプラズマ球か――
そこに柳生が、何かを投げ込んだ。――意外と言えば、意外過ぎる代物。それは瓢箪であった。それは牙に当たると容易く砕け、中の液体が龍麻の口の中に飛び散った。
「――ッッ!」
人間の形をしていれば、あるいは吐き出せたかも知れない。しかし牙だらけの口は獲物を呑み込むのに都合良くとも吐き出すのは不得手で、龍麻はそれを呑み込んでしまった。そして、絞り出される苦鳴。汽船の汽笛か法螺貝のような野太い咆哮を上げた龍麻は大きく仰け反り、そのままバランスを崩してその巨体を地面に叩き付けた。そこでなお空中を掻くように手足をばたつかせたが、彼の肉体は急速に収縮し、翼や尻尾も萎れて塵となり、完全に人間の姿を取り戻したところで遂に動かなくなった。
「…ククク…。ハハハ…ハァーハッハッハ!」
嬉しそうにも、楽しそうにも聞こえる柳生の笑い声に、余りに異常な光景を見て気死していた京一たちも我に返る。
「テメエェェッッ!」
「許さんッ!」
怒りに任せ、しかし同じ轍を踏まず、京一は【剣掌・鬼剄】を、醍醐は【虎咆】をロングレンジから浴びせた。小蒔、アラン、如月も矢や弾丸を撃ち放ち、苦無を投げる。しかし今度はPPSの輝きどころか、全ての攻撃が柳生を素通りした。
そして、柳生は一同に背を向けた。
「待っているぞ、緋勇龍麻。そして、宿星に導かれし者どもよ」
ボウ、と柳生の身体が燃えるような妖気に包まれ、渦巻くと、彼の姿は虚空へと消え去った。同時に張り詰めていた空気が緩み、世界を宵闇に包んでいた暗雲も急速に薄れ、都会の喧騒が遠く耳に届くようになる。ただしその喧騒は、これから夜を迎えようとするもので、如月と壬生の持つ電波時計は急速に時間調整を行い、一八〇〇時ジャストを示した。一同は実に七時間近く、時間を飛び越えてしまっていたのであった。
「去った…のか?」
誰かが呟くように言う。その途端、さやかや雛乃、嵯峨野やサラが気を失って倒れた。さやかは霧島が、雛乃は雪乃が、嵯峨野とサラは九角が素早く受け止める。
「――感謝するぜ。良くやってくれた」
それから九角は、目の前で展開した光景のために激高し、動揺し、あるいは気死している【神威】たちに向かって怒鳴った。
「――何やってやがる!! 龍麻はまだ生きているぞ!!」
龍麻と同じ、鞭打つような声音に、呼吸さえ絶えさせていた【神威】たちが我に返った。
「龍麻ァァァッッ!!」
緑の魔境と化した中央公園に、二〇人からの若者の慟哭が木霊した。
第弐拾話 龍脈 完
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