第弐拾話 龍脈 1





 ――『自由に生きろ』



 十七年前、緋勇弦麻がしたためたという手紙には、ただそれだけ書かれていた。

 陰陽師との激闘、生き残っていたレッドキャップス・メンバーとの思いがけない再会の後、その足で訪れた龍山邸での事である。【オカマ】との戦いに難色を示していた何人かの仲間も龍山邸に馳せ参じていた。

 遂に真実を話す時が来たと、龍山は龍麻に全てを語った。十七年前に発生した、龍脈を巡る戦いを。龍麻の両親、緋勇弦麻と迦代の事。そして当時、【龍脈】に選ばれ、集った【神威】の仲間達の事。最後に――弦麻と迦代がその命を賭して【凶星の者】を封じた事を。

「本当に…強い男じゃったよ。弦麻は…」

 過去を懐かしみつつも、底知れぬ哀しみと後悔をも滲ませる声で、龍山は言った。

「やる事成す事破天荒でありながら、人一倍の仲間思い。物事の善悪よりも、必ず弱い方の味方をする癖があった。通りすがりのスリの子供を助けるために警官隊を蹴散らす事もあれば、馴染みの食堂の主人がテロに巻き込まれた時はテログループを壊滅させたりのお。その果てに辿り着いたのが、戦場じゃった。アフガニスタンの難民キャンプで用心棒をし、当時のソ連軍やゲリラを相手に大立ち回り。わしらに言わせれば無茶の一言じゃが、あ奴は地元で敵味方を問わず英雄視されておった。わしらもまた、そんなあ奴の魅力に惹かれて集い、共に戦う事を決意したのじゃ」

 やっぱり親子だな、と京一が小声で突っ込む。その場にいる者は誰もが同じ気持ちだったに違いない。

「長い戦いの果てに、遂にわしらは【凶星の者】の企てを阻止した。【凶星の者】は恐ろしく強く、わしらが総がかりでも勝てる気はせなんだったが、わざと土地を穢す事で龍脈の活性化を阻止した弦麻の発想力には本当に驚かされたものよ。しかし…まさか仲間たちを故郷に帰し、己を含め、病床の妻や生まれて間もない赤子さえも囮に使い、【凶星の者】を討ち取るなど、誰が予想できようか? 急報を受けてわしらが駆け付けた時には、既に弦麻と迦代さんの姿はなく、龍麻のみがこの手紙と共に残されておった。そして弦麻と迦代さんは――三山国王の岩戸に【凶星の者】を誘い込み、自分たちごと封印させたのじゃよ」

 そこで龍山は言葉を切った。占い師でありながら、掛け替えのない友の覚悟を見抜けなかった悔恨が喉を詰まらせたのだ。しかし、もしも仲間の誰か一人でもその事を知っていたら、誰もが彼らと運命を共にしようとしたに違いない。それが解っているから、緋勇夫妻は自分たちだけで決断し、自分たちだけでさっさと行動したのだろう。

「そして戦いは一応の終結を見た。だが――その時残された赤子をどうするかで、わしらは話し合った。弦麻の遺言では、龍麻は【客家】の長老に託されておったのだが、【凶星の者】の封印を成し遂げたとは言え、完全に倒せた訳ではないし、その配下の者も数知れぬ。現に三日と経たぬ内に報復が始まり、【凶星の者】の配下は餓狼の群れの如く龍麻を執拗に狙い、わしらは悩んだ。神威京士浪、鳴滝冬吾、龍蔵院鉄州、不破弾正、如月緋影、裏密マヤ、織部千早、壬生葛葉、凶津剛、マクシミリアン・ランバート、岩山たか子…皆、いずれ劣らぬ強者であったが、生まれて間もない赤子を護りながら闘えるほど強くはない。攻める立場にあった時とは異なる絶え間ない緊張はわしらを疲弊させ、その内に誰もが気付いてしまったのじゃよ。弦麻を中心に集ったわしらは、個に戻れば大して強い存在ではない事を。それ故に、最後の最後で弦麻を裏切ってしまった事を」

「え…?」

 龍麻以外、誰もが息を呑み、かろうじて葵だけが言葉を返す。その彼女も、龍山の次の言葉を察して表情が強張った。

「龍脈の【力】を手中にできなかったからと言って、【凶星の者】がそれだけで引き下がる筈はなかったのじゃ。しかし他ならぬ弦麻が戦いの終息を宣言し、仲間たちに帰郷を促した事で、わしらは安心してその言葉に従った。それが戦いに疲弊し、既に護るべきものを背負っていた仲間たちに対する、優しい嘘だと気付かずにな」

 ここに集う若者たちの、いくつかの顔に視線を向ける龍山。

「緋勇一家がその身と引き換えに【凶星の者】を封じたならば、その残党がいかに多くとも何も出来ずに消えていく筈じゃった。先ほどわしは龍麻だけが残されていたと言ったが、それは正しい言い方ではない。弦麻は迦代さんの療養の為と称して親子三人で三山国王の岩戸に籠り、【凶星の者】を待ち受けた。その裏で龍麻は密かに【客家】の長老に預けられ、彼の孫の一人として育てる手筈になっていたのじゃ。それが…わしらが駆け付けた事により台無しになった。残党どもは恨み骨髄に達する弦麻の血を引く龍麻の生存を知り、龍麻とわしらを抹殺するという新たな目的の下に結束した。その、もはや自分の命すら顧みない攻撃に晒され、弾正や葛葉、ランバートは重傷を負い、剛は自暴自棄になり呑めもしなかった酒に溺れた。やがて【客家】の者にも犠牲者が出るようになり、そんな事態を招いたのが自分たち自身である事に気付いた時、わしらの結束も目に見えて揺らぎ始めたのじゃ」

 一度龍山は目を伏せ、再び顔を上げた。全てが過酷、全てが重要な話だが、ここから先は龍麻自身に関わる話となり、それも愉快な話ではないと想像するのは容易かった。

「そんな折、迦代さんの実家の方から打信があったのじゃよ。『駆け落ちし、家を捨てた娘は許せぬが、その子供にまで罪はない。当方で預かろう』とな」

「で、でもそれって…!」

 その後の事情は、この場の誰もが知っている。思わず小蒔が声を上げそうになったが、醍醐が肩に手を置いて彼女を黙らせた。小蒔は彼の大きな手をぎゅっと握り締める。――そうでもしていないと、倒れてしまいそうだ。

「九角家は陰に属していたとは言え日本有数の旧家。日本内外の政治的影響力も強く、米軍にも大きなコネクションを持っていた。そして九角家の次期当主九角博正は迦代さんの実兄であると同時に弦麻とは親友じゃった。それこそわしらは…冬梧と弾正は反対したが、その話に飛び付いてしもうた。彼ならばきっと弦麻の忘れ形見を護ってくれるとな。――しかし、そうではなかった。既に博正はその細君もろともアフガニスタンでテロに遭い、亡くなっていたのじゃ」

 再び龍山は言葉を切り、龍麻を見た。

 相変わらず目元は見えないし、口元はむっつりへの字口。まるっきりいつもの龍麻である。自分の事、両親の事を言われているというのに、まるで感じ入る様子を見せない。

「…それから十七年。お主は自らこの地に戻ってきおった。宿命という名の星に導かれてな…」

 そこで一応、話の区切りが付いたものと悟ったか、葵が口を開く。

「それでは…龍麻が新宿に来たのも、得体の知れない事件に関わるのも、龍麻のお父さんの時代から続く宿命だと言うのですか?」

 それは質問と言うより、非難の調子が強かった。葵は龍山に風水を学び、自らの宿命である【菩薩眼】を肯定的に捉えようと努力している。しかし、そんな彼女さえ、龍山の話には懐疑を覚えたのだ。

「人にはそれぞれ、持って生まれた星…【宿星】というものがあるのじゃよ。――お主らも秋月の当主と会ったならば話は聞いておろう?」

「それは…そうですけど…」

 秋月は言っていた。【宿星】とは【天命】と同義であり、この東京を護るのが龍麻を始め、自分達一同の【宿命】だと。

「【死生命有り。富貴天に有り】――【宿星】とは人が生まれながらにして背負う定め。人の進むべき道というのは、天命によって、現世に生を受けると同時に定められておるのじゃよ」

「するってェと、何か…?」

 龍麻が口を開くのは最後だろう。この場合は話の腰を折る事にはなるまいと、京一がつまらなそうに口を挟んだ。

「俺たちは生まれた瞬間から、進む道ってやつが決まっていて、今こうやって闘っているのも、最初に天命とやらが定めた通りだってのかよ? ……納得できねェよ、そんな馬鹿話」

 人は自分の意志で人生を歩む――これが単なる理想論である事はまだ若い一同でも解っている。確かに人は、生まれや育ち、周囲の環境によって人生の選択肢を減らされてしまうものなのだ。

 しかし、いかに選択肢が少なくとも、選択したのは自分だ。こればかりは譲れない。そして現在の自分達があるのは、数知れぬ選択をしてきたからであって、その積み重ねが良くも悪くも現在の自分に影響を与えている。それを【天命】やら【宿星】やら【運命】やら、取って付けたような言葉で軽々しく扱うべきではない。

「――もしそれが本当だってんなら、馬鹿馬鹿しくて付き合いきれねェ。俺だったら何もかも投げ出してどっかに逃げ出してるぜ」

「…確かに。だが俺は、そんなに悪い事ばかりでもないと思うがな」

 自分の手を握ったり開いたりしながら、醍醐は龍麻を、そして一同を見回した。

「俺には【白虎】の【宿星】があった。それは確かに理解しがたい事だったし、随分悩みもした。しかし俺は、多くの仲間に支えられて、自分を見詰め直す事ができた。それ以前に、これだけ多くの仲間と共にあるのは、何よりもまず、龍麻が真神に転校してきたからだ。その事に関してなら、俺は【運命】とやらに感謝しても良い」

「そっか…そういう見方をすれば良い事も一杯あるよね」

 醍醐の言葉に深く頷く小蒔の傍で、さやかも小さく頷く。――【運命】という言葉をロマンチックに捉えるのはやはり少女である。

「しかし、十七年前の中国でも、今の東京のような事件が起こっていたとはな…」

「ああ。そっちの方も、俄かにゃ信じられねェな。あの馬鹿師匠はそんな事、一言もしゃべりゃしなかったし、たか子センセーも…。勿論、知ろうとしなかっただけなんだろうけどよ」

「俺サマもだぜ。まさか師匠がそんな事に関わっていたなんて…!」

「私たちもですわ…」

 龍山の話の中に出てきた名前…それは何も龍麻に関わる者ばかりではない。神威京士浪と言えば京一に法神流剣術を伝えた師匠であるし、龍蔵院鉄州は雨紋の師匠、鳴滝冬吾は龍麻と紅葉の師匠だ。紅葉の母に、裏密の母、如月の祖父、織部姉妹の叔母もいる。龍山は言うに及ばず、桜ヶ丘の岩山院長、凶津煉児の父親。更にマクシミリアン・ランバートは【レッドキャップス騒乱】時に壊滅した嘉手納基地から龍麻を収容し、後に【一般人】として明日香学園へと潜伏させた人物であるし、不破弾正と言えば龍麻にとっては心の師…魔獣と化した身で龍麻と戦い、秘拳への道標を示して散った男だ。

「僕も…君たちと同じ気持ちだよ」

 飛水流忍者の継承者として、始めからこのような事件と深く関わってきた如月でさえ、そう言った。

「如月緋影…おじい様は僕に様々な術を伝えたけど、十七年前の事件については何も話してくれなかった。正直、僕も混乱している」

「僕もデース。僕に霊銃を授けてくれた人が、ヒスーイのグランパだったなんて…」

「それに…凶津クンのお父さんがお酒に溺れていたのも、そんな事があったからだったなんて…」

 最後の方は醍醐を慮って少しだけ声を押さえる小蒔。酒に溺れ、家族に当り散らし、息子に恨まれ、遂には刺されてしまった凶津剛…それが緋勇弦麻を、その息子を守れなかった自分の不甲斐なさを思い詰めたゆえの悲劇であったとは…。

「……」

 紅葉も、無表情ではあるが、心中では衝撃を受けていた。

(母さんの身体が弱い原因が、そんなところにあったなんて…)

 あの鳴滝が、当時幼い子供に過ぎなかった紅葉に声をかけたのも、かつて共に戦った仲間の子供という事があったからだったのだ。そして、母親の医療費を稼がねばならないという理由から、紅葉は必死になって腕を磨いた。――鳴滝はわざと紅葉をそのような環境に置く事で、龍麻と対を成す【陰の龍】たる実力を付けさせたのだ。そして恐らく、母もその事を知っていただろう。

 しかし紅葉も、母や鳴滝の心情が理解できるほどに成長している。若き日の母が身を挺して護った龍麻と出会い、この道が自分の決めた道だと肯定された。母の事はともかく、自分自身に関しての衝撃はそれほど大きくない。

 明らかになる真実に、いろいろと思うところがある一同だが、葵は敢えて話を先に進めた。

「魔星の出現と共に龍脈が活性化する…このこと自体は世界各地で起こっていたにせよ、その【龍脈】の【力】を巡って陽と陰の戦いが起こった…それが十七年前の事件と、今回の一連の事件なのですね」

「うむ…。そして先生が、いや、先生たち当時の【神威】が戦った【敵】が、今、俺たちを…正確には龍麻を狙っているという事になる」

 葵も醍醐も浮かない顔をしている。十七年前の事件でどれほどの被害者が出たか語られていないが、今年になってから発生した事件の被害者総数は四桁に達する。その被害者の中には自分達の見知った者もいるし、やむなき事とは言え、自分達の手で引導を渡した者たちもいるのだ。

「そうじゃ。わしの易には【遇大過之震於坤】という卦が出ておる。すなわち坤――南西より訪れた大いなる災禍がこの地を震撼させる。これを【雉鳴竜戦】――天下に異変の起こる予兆と見る。――かつて弦麻が命を賭してあやつを封じた客家封龍、三山国王の岩戸は、この東京の南西に位置する。大地を震撼させるとは、まさに【龍脈】の活性化を意味する。――あやつが封印を解き、現世に舞い戻ったのであれば、再び【龍脈】の力を求め、魔星の出現したこの日本に現れるのも道理。そして――」

 龍山は龍麻に視線を向けた。そして、一語一語区切るように告げる。

「龍麻よ。お主が狙われるのもまた、道理なのじゃ」

 はっきりと言い切る龍山であったが、これにはちょっと…【真神愚連隊】の面々にはピンと来ない。龍麻が狙われるのは日常茶飯事であったし、狙撃やら爆弾やら毒薬ではなく、【神威】を唆してあわよくば…というやり口には【本気なのか?】と疑問を覚えてしまう部分があるのだ。

「方法はともかく、動機は? いくらひーちゃんが、自分を封印した人の息子だからって、理由としては弱くないかな?」

「うむ。【坊主憎けりゃ袈裟まで憎い】という言葉もあるが、今までの連中は全部返り討ちにしているしな」

 【敵】の狙いは龍麻にある――それは間違いなさそうだが、緋勇弦麻に対する恨みを息子の龍麻に晴らそうというのはお門違いであろう。そんな事をすれば、しっぺ返しどころでは済まない。緋勇弦麻は徒手空拳の武道家だが、その息子は勝つための戦術に制約を持たない戦闘家だ。個人だろうが組織だろうが、根こそぎ殲滅されるだろう。政界財界司法などから町内会レベルまで世界中に散らばる、友情や信頼で成り立つ彼の知己の事まで考慮するならば、まともな神経を持ち合わせる限り、龍麻には極力手を出すまい。

「確かに、弦麻に対する恨みだけでは、あやつが龍麻を狙う理由とはならん。あやつはもはや、個人を恨むような存在ではなくなっておったからの」

「では、なぜ――?」

 数瞬の沈黙。ここまで来て今更隠す事などない筈だ。しかしそれゆえ、龍山がこれから話さんとする事の重要性が予想できた。

「弦麻はの、【龍脈】より得られる【力】以上に、【緋勇】の血筋にのみ受け継がれる人並み外れた気の【力】を持っておった。そしてお主はその弦麻と――」

 龍山の目が、一瞬だけ葵に向いた。

「【菩薩眼】の娘、九角迦代との間に生まれた子じゃ」

 ざわ! と空気が凍った。

「な…んだって…!?」

 驚愕の声は京一。後に続いたのは、醍醐。

「龍麻の母親が【菩薩眼】――!?」

 【菩薩眼】の娘――【龍脈】の流れを見通す者。かつて時の権力者達が追い求め、常に争乱の渦中に追い込まれた、哀しき運命を背負う者。そして鬼道衆が、九角天童が軍産複合体【Z−GRAT】と対等に渡り合うために欲した者。

「私と同じ…【菩薩眼】を持った人が…龍麻のお母さん…?」

 それ以上の言葉を失い、龍麻を見る葵。龍麻もまた、葵を見ていた。例によって前髪が邪魔しているが、二人の視線は確かに噛み合っていた。

 九角天童も、その事は知っていたのだろう。しかし彼が知る限りではもはや九角の血筋は残っておらず、正直な所、【菩薩眼】の顕現を疑っていた節もあった。何しろ九角家は一度、江戸時代にお家取り潰しにあった家である。生き残れたのはごく僅かで、後に生き残りが【鬼道衆】として江戸の町に暗躍するのだが、これも飛水流を始めとする幕府の公儀隠密によって殲滅させられている。そんな九角家が再び力を取り戻すのは大正の世になってからだ。それからも動乱や戦争が起こり、九角家は発展と分裂、消滅を繰り返し、表舞台における権力争いには敗れたものの、政治世界の暗部に潜む事によって現代まで続いてきたのだが、その血は確実に薄くなっているのである。

 葵に【菩薩眼】が顕現したという事は、彼女も九角の血に連なる者である証拠だが、美里家自体は九角家と何の関わりもない。その辺りにもまだ謎がありそうだが、さしあたってそれは問題ではあるまい。

「お主と葵さんが出会うたのも、わしにはすべて、因果の輪の事と思えてならぬ。のお、龍麻よ。少しは運命…【宿星】というものを信じる気になったかの?」

「否定です」

 これほどまでに複雑に絡み合い、しかも全てが一つに繋がっている驚愕の真実を前にして、実も蓋もない、ついでに言葉の重みもない即答に、龍山は思わずガクッとなった。醍醐達も同様である。例外は、京一一人だけであった。

「そ、そうじゃな。無理に信じる必要もないのじゃ。ただ、己の道を見極め、思うように進むがよい。そうすれば自ずと道は開けるものじゃ」

「肯定です」

 こちらは軽く頷く。龍山は自分が十数年間に渡って秘め隠し、思い悩んでいた事が徒労だったのではないかと思い始めていた。いくら【あの】弦麻の息子とは言え、これほど重い宿命をあっさりと受け入れる事などないと思っていたのだが…。

「弦麻と迦代さんは、お主と、お主が生きる世界を護るために戦い、そして、遂には二人とも帰らなんだ。しかし【緋勇】の【力】と【菩薩眼】の【力】――大いなる二つの【力】を受け継いだお主にはまだ知らねばならぬ事、やらねばならぬ事がある」

「……」

 やはり、龍麻は答えない。ただ静かに、龍山の言葉に耳を傾けている。いつもと同じく、真剣に。

「…楢崎道心に会うが良い」

 それを告げるのに、龍山は少し迷った。真実を告げる覚悟を固めていた筈なのに、どうもこの龍麻は、弦麻以上にやりにくい。自分の話をきちんと理解しているのか、この重大事をどのように受け止めているのか、まったく読めない。【暖簾に腕押し】――まさにそんな感じなのである。

「楢崎道心というと…先ほどの話に出てきた、龍山先生と共に戦ったという方ですよね?」

「うむ…。若い頃には高野山金剛峰寺にて密教の修法を学び、後に神仙に至る道を求めて山に入り、修験の僧となった男じゃ。その果てにあやつが何を見出し、何に絶望して山を下りたのかは知らぬ。じゃが、わしらが出会うた時には、既にあやつは破戒僧であったよ」

 龍山の口元に苦笑が過ぎる。しかしその目は懐かしさに満ちていた。十七年前の戦いにも多くの者が集い、共通の目的のために闘ったのだ。その一人を思い出したのであれば当然の事であろう。

「破戒僧だって? なんつーか、肉も食えば酒も飲む、時には女も抱くっていう、要するに生臭坊主の事じゃなかったっけか?」

 一生を仏道に捧げるからこそ、僧侶と呼ばれる。だが現在では僧侶にも婚姻が認められているし、法事ともなれば酒の接待も受ける。――京一の定義で捉えたら、現代の僧侶は殆どが生臭坊主という事になりかねない。

「まあ、そうじゃ。じゃが俗世との関わりを断った寺僧とは対極に位置する彼らは、実は純粋な求道者かも知れぬよ。煩悩を断ち切る事で修行する者と、煩悩をありのまま受け入れる中に道を見出そうとする者と、な。ただ、あやつの求めるものは決して人の手に入るものではなかったとわしは見る。それでもなお、自分以上に破天荒な生き様を送る弦麻の内に何かを見出し、共に行く事を決めたのじゃろうな。――先の戦いにおいても、密教の秘術と修験の験力をもって、弦麻ら若者の中に立って先陣を切って戦った男じゃ」

 現代の闘いでは、いわゆる【大人】は実戦の場に立ち会っていない。当時の【神威】たちがどれほどの戦闘能力を有していたかは解らないが、その楢崎道心も相当な実力者であった事は想像に難くない。

「龍麻のお父さんと一緒に戦った人…。それなら、私たちの力になってくれるかも知れないわね」

 葵は龍麻の方を向いてそう言ってみたが、彼は無反応、無表情を貫いている。――彼は彼なりに、いろいろと考える所があるようだ。他の者ならばいざ知らず、葵を始め【真神愚連隊】の面々にはそれが解る。

「案ずる事はなかろうの。あやつは底意地悪い所があるが、必ずお主に力を貸してくれる筈じゃ。道心とは十七年前に中国で別れたきりじゃが、数年前に日本に戻り、各地を放浪しておったらしい。風の噂では腰を落ち着けたと聞いたのに、このわしにも挨拶の一つもよこさんが、それもあやつらしいと言えば言えるがの」

 そう言って龍山は笑って見せたが、まだ何事か考えている龍麻はにこりともしない。元から礼儀の塊なのだから、重要な事を話している年長者に砕けた態度を取る筈がないのだが、その態度は酷く龍山を不安にさせた。

「あれから十七年…。長かったようで、余りにも短かったの。…今まで真実を隠しておったわしを、幼き日のお主を捨てたわしを、お主は恨むかの?」

 余りにも冷淡と言える龍麻の態度に、遂にそれを口にした龍山の視線を追い、京一達の視線も全て龍麻に向けられる。両親の事、十七年前の戦いの事、預けられた九角家での虐待、レッドキャップスに組み入れられた事、血と硝煙、死体に塗れた日々。戦いの中で出会い、別れ、多くの死を見てきた緋勇龍麻。倒れた仲間の血の熱さ、救えたかも知れぬ命を救えなかった悔恨。それら全てが、十七年前の龍山たちの選択ミス…酷な言い方をするなら弦麻への裏切りと責任放棄にあるのならば、龍麻が龍山たちを恨む理由は余りある。その時の事情を思えば龍山たちの行動も気持ちも解らぬではないが、気の良い雨紋やアラン、心優しい霧島でさえも、いつしか拳を握り締めていた。しかし――

「………………………なぜですか?」

 心底理解できないといったように首を傾げ、龍麻は聞き返した。これには龍山を始め、全員が…京一とさやかを除いた全員がコケた。龍麻が戦闘時以外の重要な場面ほどマジボケするのはよく知っているが、まさかここでこんな…! 

「わ、わしを恨むのは仕方のない事じゃ。ただ、己の運命からは決して目を逸らしてはならぬよ…」

「肯定です。しかし、なぜ自分が龍山老師を恨まねばならないのでしょうか?」

「ちょ、ちょっと待て、龍麻…!」

 龍麻が安易に人を責めたりするようなタイプでない事は重々承知だ。しかし醍醐には、龍麻の質問が龍山を追い詰め、苦しませるもののように聞こえた。事情を全て話した上で、恨まれて当然と覚悟を決めている者に、恨む理由が解らないなどと聞くなど…。

「よせよせ。醍醐も、じーさんも」

 重苦しい空気を切り裂いて、涼風のような京一の声が上がった。

「恨むの恨まないのって、お前ら馬鹿か? お前ら今まで、ひーちゃんの何を見てきたんだよ? ひーちゃんがそんな安い人間かどうか、ま〜だ判らねェのか?」

 手をひらひらさせて笑う京一と、その隣でコクコクと頷くさやかに、怒気と困惑が入り混じった視線が集中する。そんな痛いような視線を見事に無視し、京一は龍山に向き直った。

「なあ、じーさん。ひーちゃんのオヤジさんがスゲエ人だったってのは良く判ったけどよォ、ここにいるのはその緋勇弦麻って人じゃねェ、緋勇龍麻なんだぜ? 真神の少尉殿、さすらいのギャンブラー、笑えない噺家、スパイ○ーマン、そして、レッドキャップス・ナンバー9だ。そこんトコ、解ってるか?」

「う…うむ…」

「それが解ってるなら、つまらねェ事言うなよな。宿星だ? 運命だ? ――下らねェ。そんなもんに縛られるなんてゴメンだぜ。――なあ、ひーちゃん?」

 ニヤ、と笑い、龍麻に視線を向ける京一。龍麻は【考え中】のポーズから元に戻った。

「肯定だ」

 全員の視線を集めつつ、龍麻は龍山に向き直った。

「龍山老師。自分は、今の自分が好きです。――他人には、自分の十七年は苦しみに満ちて見えるのかも知れません。しかし、今の自分を作り上げてくれたのは間違いなく、その十七年に関わった者たちです。レッドキャップス、標的部隊、レッドキャップスに関わった軍人、科学者、作戦を共にしたアメリカ海兵隊、SEALS、デルタフォース、SAS、スペツナズ…世界各国の特殊部隊員。自分達を【欠陥品】と呼び、廃棄処分を決定したアメリカ軍首脳部も、自分を将来的に利用するために保護したIFAFも。そして…」

 龍麻は、部屋の中にいる真神の一同を、そして、部屋を覗き込んでいるすべての【仲間】たちを一人一人、静かに眺めやる。

「今この瞬間、肩を並べて戦う【仲間】たちも。この戦いの中で出会った人生の先輩たちも。平穏の中で挨拶を交わす街の人々も。今までの自分に関わってきた全ての者たちが、今の自分を作り上げ、叩き上げ、ここまで引き上げてくれたのです。今まで闘って来た者たち…俺を覚醒させ、この闘いに身を投じる切っ掛けを作った莎草、唐栖、凶津、死蝋、水岐、佐久間、帯脇、火怒呂、阿師谷親子、鬼道五人衆、そして九角に、不破弾正氏…果てはレッドキャップスとして闘った多くのテロリスト、犯罪者、取るに足らない街のチンピラに至るまで、今の自分を作り上げた、自分という人間の一部です。そして龍山老師、自分が、今の自分になるための最初の一石を投じたのは、間違いなくあなただ。もしくは、当時のあなた方だ。あなた方は自分に平穏な生活を望み、自分を闘いから遠ざけんとして九角家に預け、結果的に自分を虐待させ、レッドキャップスに入隊させ、修羅の世界に放り込んでしまったと後悔しているのかも知れない。マクシミリアン中佐がクーデターを起こした自分を擁護し、普通の高校生として生活させ、怪異への介入を阻止しようとしたのも理解できます。しかし、それら一連の事件なくして、今、自分が好きな今の自分はありえなかった。感謝こそすれ、恨む筋合いなどないのです」

「……ッッ!!」

 これが…! 龍山は、何か巨大にして偉大なものと相対したかのように目を見張った。

 これが、緋勇龍麻という男なのか。当年とって僅かに十八歳。それでいて、なんという器の大きさか。並みの者ならば自らの出生を呪い、嘆き、苦しむだろう。そして、自分の持つ宿命の重さに、あるいは逃げ出したくなるかも知れない。少なくとも、弦麻の遺志に反し、【平穏な暮らしを…】を枕詞に龍麻を戦いから…自分たちをも戦いから遠ざけようとした龍山たちの選択ミスを責めるには充分すぎる程、彼の人生は苦難に満ちていた。

 だが、この緋勇龍麻はそれら全てを見事に受け止め、呑み込んでしまったのだ。今の自分が好きだから、今までの自分に関わった全ての者に感謝を――と。

 【よほど器が広いのか、それともただの考えなしか】――陰陽師の東の棟梁を務める御門をしてそう言わしめるほどの男。緋勇龍麻は、実に巨大に、雄々しく成長してのけた。



 ――俺と迦代の餓鬼だぜ。ヤワじゃねェ。俺たちがいなくたって、俺より強くなってみせらぁ。



 当時、余りにも無責任に聞こえた弦麻の遺言。だが、その言葉は真実だったのだ。そして弦麻が期待する通り、龍麻はこれほどに大きく成長した。もし弦麻に後悔があるとすれば、成長した我が子の姿を見られない事だろう。

 いや、弦麻に後悔などあるまい。そして、彼はこうも言うだろう。



 ――龍麻は俺たちの子だ。だが、強くなったのは龍麻自身の意思だ。俺たちの血を引いたから強いんじゃねェ。あいつが、あいつ自身で強くなったんだ。



 運命というもの、宿命というものを尽く笑い飛ばした、いかにも緋勇弦麻らしい言葉。――人は、自ら道を選ぶ。血筋も家柄も、本人の選択に僅かな修正を加えるのが関の山だ。少なくとも弦麻はそう信じ、自らが思うままに生きてきた。戦いの果てに死ぬ事すら、自らの選択の一つだと、最後まで信じきっていたのである。――恐ろしいほどに芯の強い人間だった。

 その息子もまた、これほどまでに強くなった。弦麻の付けた道筋こそ外れたものの、過酷としか言いようがない環境であったからこそ出会えた多くの師に導かれ、人並みならぬ見識と思慮深さを得、常に自制と自戒を忘れぬ真の【漢】に…これを結果論に過ぎぬと謗る者は、自分の意志を持たない敗北主義者の木偶人形だ。

(弦麻よ…。見ておるか…? お主たちの息子はこれほどまでに大きく…!)

 胸の内の言葉でありながら、言葉に詰まってしまう龍山。龍山が、当時の【仲間】たちが十七年間抱え込んでいた悔恨が、他ならぬ龍麻自身によって見事に洗い流されたのである。厳しい叫弾を覚悟していた。憎悪を向けられる事を覚悟していた。――そんな覚悟を、龍麻は逆に【感謝している】と言ってのけるほどに大きくなっていたのだ。

 感動で胸の詰まった龍山がもたらす沈黙。誰もその沈黙を破ろうとはしなかった。ただし葵や小蒔、雪乃や雛乃、さやかなどは目尻の涙を押さえ、声を押さえて啜り上げる。

 しかし、過去の決着は付いても、真に重要なのはこれからの事だ。龍山は毅然として顔を上げた。若い世代に、これからの世代に全てを引き継ぐために。

「…龍麻よ。中央公園に道心を訪ねるが良い」

「ああ!? 中央公園だァ!?」

 重厚な空気を破る素っ頓狂な声。しかし、誰も非難しなかった。龍山の言葉が意外すぎたからである。

「その道心ってジジイ、中央公園に住んでるのかよッ!?」

「エエ〜ッ!? でもそれらしい人なんて、ボク、一度も見た事ないよ?」

「そうだな…。俺も毎朝ランニングしているが、そういう人を見た記憶はない」

 新宿中央公園と言えば、特に真神の人間には馴染みの場所である。仮に【力】枯れ果てようとも、【神威】の気配を龍麻や葵が見逃す筈はない。

「ほっほ。それは当然じゃろうな。あやつは世間との関わりを極力持たんようにしておる。普段は己の張った方陣の中に隠れて暮らしておるんじゃよ。並みの人間は勿論、お主らにも容易に悟らせぬ別の空間じゃ」

「…今日の浜離宮のようなものか」

 如月の言葉で、ああなるほど、と頷く一同。

「すると、どうすればその道心先生に会えますか?」

「なに、案ずる事はなかろう。刻が迫っているのをあやつが知らぬふりを決め込む筈はなし、あやつの方でお主らを方陣に招き入れるじゃろう。――じゃが、あやつの事じゃからお主らを試す為に底意地の悪い罠の一つや二つ、用意しているじゃろうな。力量なき者に知識は要らぬというのが、あ奴の信条じゃ」

 わしらもそれで苦労した、としみじみ述懐し、それから龍山は一つ、忠告を発した。

「そうじゃな…。あやつの方陣に足を踏み入れたならば、決して名前を言ってはならぬぞ」

「名前を…ですか? 誰かに名前を聞かれても名乗ってはいけないと?」

 龍麻や如月、雛乃などはピン! と来たが、とりあえず黙っている。龍山の心づくしを邪魔する無粋者はいない。

「そうじゃ。例え偽名を名乗っても、それに答えてはならぬ。それさえ守れば、お主らの【力】でどうとでもできるじゃろう」

「了解しました」

 龍麻がきりっと威儀を正して頷いた時、柱時計が二三〇〇時を告げた。

「もうこんな時間か…。それでは先生、俺たちはそろそろ帰ります」

「あぁ。すっかり長居しちまったな」

 龍山の独白を十七年分。その要所だけを抜き出したとは言え、時間が経つのも忘れるほど重要な話であった。しかし休前日と言えども、家族持ちの学生にはまずいだろう。

「うむ。雪乃と雛乃、さやかと霧島はタクシーを利用するように。あとの者は電車と徒歩で良いな? ――それでは龍山老師、今日はこれで失礼致します」

「うむ」

 ここに訪れた時と少しも変わらぬ龍麻。しかし龍山には確実に大きく見える。その背中の雄大さ。こんな背を見せる男だからこそ、この若者達は付いて行くと決めたのだろう。

「陽と陰の争乱が眠れる龍脈の【力】を呼び覚まし、臨界まで膨張した【力】がこの地を揺るがす強大なうねりとなって放出されるまで、もはや時間がない。――龍麻よ、心せよ。これから先、お主を襲うは、数百年に渡る時の狭間で輪廻の輪を彷徨い続ける怨霊ぞ。わしらの戦いは結果的に敗北であったかも知れぬが、お主ならば、きっと――」

「――いつもと同じであります。そして、自分は一人ではありません」

 ピシリ! と敬礼する龍麻。しかし、その時初めて、彼は龍山に笑顔を見せた。占い師として多くの人々を見てきた龍山にしても、これまでの人生の中では数えるほどしか見た事のない、美しい笑みであった。

「――本日はこれにて解散。明朝、〇九〇〇時までに中央公園正門前に集合。参加は自由。――以上だ」

 力強く言い、リーダーらしく率先して行動を起こす。丁寧に部屋を辞す龍麻の背が見えなくなった時、不覚にも龍山の目尻から、押さえに押さえていた涙が一筋流れた。

「本当に…本当に強くなったの…。お主たち…これからも龍麻を頼むぞ」

「――へへッ、心配いらねェよ、じーさん」

 木刀で軽く自分の肩を叩き、京一はにやりと笑って部屋を出て行った。

「そうだよッ。ひーちゃんにはボクたちが付いてるからねッ」

「龍麻の事は任せておいてください。――とは言っても、相変わらず色々な意味で最強ですが」

 口々に、龍麻への賞賛と、辛い話を打ち明けた龍山への労わりの言葉を告げながら、【真神愚連隊】の面々は部屋を辞していった。

 最後まで残ったのは、葵であった。彼女は龍山が、最後まで伝え切れなかった言葉を悟り、それを待っていた。

「葵さんも…気をつけてな。それと龍麻に…ありがとうと…」

「――はい。確かに伝えます。それでは龍山先生。これで失礼します」

 にっこりと笑い、葵も皆の後を小走りに追って部屋を辞して行った。

 たった今まで、二十人に届く若者がひしめき合っていた空間にただ一人残された龍山であったが、やがて誰にともなく呟いた。

「わしらは…許してもらえたのじゃな」

「――やっと、肩の荷が降りたってところか、ジジイ?」

 真っ先に部屋に入ってきたのは、傲岸不遜を絵に描いたような男。青い長ランに高く結んだ長髪。そして左手に握った朱塗りの鞘を有する日本刀。――元アメリカ軍対テロ特殊実験部隊レッドキャップス・ナンバー0にして、元鬼道衆頭目、九角天童であった。

 その後に、初老と呼ぶにはまだ早い大人達がいた。

「弦麻の事――龍山先生一人に押し付けて申し訳ありませんでした」

 龍麻たちをして気配を悟らせなかったのも道理。その男は拳武館館長、鳴滝冬吾であった。

「全くだ。何も一人で泥を被ろうとするこたァなかったのによ。ま、おかげであいつと直に話せた訳だがなァ」

 今時珍しい、着流しを着た男。左手に握った白鞘の日本刀のため、一見すると古い仁侠映画に出てくる用心棒のようだが、その身に纏っている【気】は清流のごとく鮮烈で、ダークな雰囲気は微塵もない。――神威京士浪…かつて弦麻と共に闘った【神威】の一人である。

「――言えてる。それに、女にモテるって点じゃ、既に親父を越えてやがるな」

 こちらは高級そうなスーツを見事に着こなした男である。レイバンのサングラスをかけた甘めのマスクはやや軽そうに見えはするが、その挙措には全く隙がない。――龍蔵院鉄州…雨紋の師匠だ。

「あんな子だったら、姪っ子を安心して任せられるんだけどねッ。――誰かさんとは違って」

「うふふ。そんな事言ってはいけないわ、千早」

 続いて現れたのは、ごく平凡な主婦のようであるが、背筋をピンと伸ばして歩く姿と言い、隙のない挙措と言い、一角の武芸者である事を告げている。やや太りじしではあるが、かえってそれが【たくましいおっかさん】的な雰囲気をかもし出している。

「――っと、無理しちゃいけないよ、葛葉。龍山先生、ちょっと失礼しますよ」

 千早と呼ばれた女性は、彼女とは対照的に痩せ型で、あまり顔色の良くない女性…葛葉の身体を支え、囲炉裏端に座らせた。

 ――織部千早、壬生葛葉。共に十七年前の弦麻の仲間だ。そして最後に現れたのは…。

「ほら、あなたも入りなさいな」

「いや、俺は…」

 一人は朱と紫の法衣を纏った女性、そしてその女性が腕を引っ張ったのは、着ている物から何からみすぼらしい、無精髭の男である。

「何遠慮してんだい? こうして顔を合わせるなんて久し振りの事じゃないか」

「俺は…お前達と違ってドロップアウトしちまったからな…」

「――なに言ってるんだよ、剛。本当にそう思っているなら、酒断ちなんかしねェだろ。――なあ、マヤ?」

 龍蔵院がにやりと笑って見せた法衣の女性は【新宿の母】こと裏密マヤ。――裏密ミサの母である。そして無精髭の男は――凶津剛。あの凶津煉児の父親であった。

 期せずして集まった、否、この刻だからこそ集まった、かつての【神威】たち。本当は岩山たか子や如月緋影といったあと幾人かが加わるのだが、仕事が忙しい身の上や、風の噂すら届かぬ放浪の身だ。それはやむなき事としても、その内の既に二人…不破弾正とマクシミリアン・ランバートは既にこの世の人ではない。

 先程まで二十名余りの若者が占めていた空間に、総勢八名の【元】【神威】達。人数こそ半分以下に減りながらも、その身が放つ【気】は今なお鮮烈で、且つ重厚な為、九角はやや息苦しさを覚えた。

「さて、年寄りには積もる話があるようだから、若造は引っ込ませてもらうとするぜ」

 傲岸不遜にそう言い、背を向けた九角であったが、不意に背筋を襲った小さな殺気にぱっと振り返る。手は――居合いの形に。

「――別に若造が混じってたって構わないんだぜ、九角の坊や? 酒だっていける口だろう」

 楊枝を指先で弄び〜投げてはいなかったのだ〜つつ言ったのは、着流し姿の神威京士浪であった。

「…いや、酒くらい、のんびり飲みてえからな。遠慮するぜ」

「なんでェ。付き合い悪ィな。――誰かさんとは大違いだ」

「…誰の事だよ?」

「なに、気にすんな。こっちの話だ」

 手をひらひらさせる神威。こちらの方がずっと大人ではあるが、九角はその仕草や言い回しに、龍麻の仲間である蓬莱寺京一の姿をダブらせつつ、彼自身にも理解しがたい親近感と言うか、懐かしさを覚えて困惑した。絶対に面識がないと断言できるのに、殺気を飛ばされてなお、それを冗談だと許してしまえる自分がいる。

「それに、せっかくダチが酒断ちを決めたんだ。ここは協力してやらなきゃな。ま、その内付き合え」

「…………ああ、その内な」

 背筋に僅かな寒気と、胸中に奇妙な温もりを覚えつつ、九角はそう言って部屋を辞した。

「……チッ。妙にモヤモヤしやがるぜ。――龍麻の悪い癖でも感染うつったか?」

 部屋の中では、十七年前に集った【神威】達の、ささやかな再会の宴が始められている。今戻れば自然にそこに馴染めてしまいそうな気がして、しかし彼は頭を一つ振り、そこに背を向けた。

 目の前に本人がいなくても、九角には杯を傾ける相手がいる。彼の脳裏には、今日、龍麻が再会した、レッドキャップスの仲間たちの顔が浮かんでいた。

















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