第拾九話 陰陽師 1





 そこは、異様な雰囲気に包まれていた。

 何か、肌がぴりぴりするような緊張感。そのような季節ではないと言うのに、自然に噴き出してくる汗。手は固く握り締められ、感情の爆発が必死に押さえ込まれている事を伝えている。空気の変質に敏感な、例えば小動物などは、その雰囲気を察してここには近寄ろうともするまい。殺気の固まりめいた雰囲気を発している者、その数数十名。まさに次の瞬間、生き残りを賭けたバトルロイヤルが展開されたとしても、何ら不思議ではない。そう。その雰囲気は、これから戦争が始まろうかというものだった。

 その中心に立つ男の手が、動いた。

 手の動きに、突き刺すような視線を送る、目、目、目…。それこそ穴が開くか、焼け爛れてもおかしくない、強い視線。手の下にある巨大な熱源、ごおごおと燃え盛る炎よりもなお熱い視線であった。

「…こんなものか」

 ただでさえ表情の変化が乏しく、目元を隠す長い前髪のために表情の読みにくい男が静かに呟く。その口調の中には、明らかに困難な仕事をやり遂げたという満足げな響きがあった。周囲から注がれる熱い期待に応えられなければ【死】をも迎えかねない試みを、今、達成したのである。

 くるり、と男が振り向いた。ざあっと音を立てて緊張する空気! 

「…完成だ」

 と、学生服の上にひよこのエプロンと三角巾を纏った我らが真神の少尉殿、緋勇龍麻が告げると、三−C教室は歓喜の渦に包まれた。

「オーッ! やったー!」

「飯じゃあ〜ッ! 鍋じゃあ〜ッ!」

 胃袋を直撃しまくっていた鍋の香りに、飢餓状態にあった生徒たちの声は校舎のガラスをもビリビリと震わせた。

「落ち着けい! ――量は充分にあるのだ。総員出席番号順に整列! 配膳を受けた者より昼食を楽しめ。なお、おかわりは自由、早い者勝ちだ!」

『オーッ!!』

 クラス全員が唱和した歓喜の声が聞こえ、真神学園の校長室で一人ほうじ茶を啜っていた時諏佐ときすさ校長は、天井を見上げて嘆息した。

「…やれやれ。また、三−Cですね…」









「はふはふ…う〜ん、おいひい…」

「まさか教室で鍋を囲むなんて…。でも、ホントおいしいわ…」

「緋勇君って凄いのねー。こんな味付け、うちのおか−さんでも出せないよ」

「こ、こ、こ、これがっ! ほ、本物のマツタケェ!?」

「わ、私ッ、親戚の結婚式の時にこーんな小さいのしか食べた事ないわッ!」

「ば、馬鹿野郎ッ! 俺なんか小学校に入学したとき以来…うッうッうッ…」

「泣くなよオイ…! みじめったらしいから泣くなって…っ! うッうッうッ…!」

 クラス全員で材料を持ち寄り、龍麻がそれを鍋に仕立てる…。学校のしかも昼休みに鍋をつつこうなどという大胆極まりない…と言うか既に問題外のレベルである企画は京一の発案であったが、龍麻と葵を中心とした三年C組の結束力の前に、それは見事な鍋大会となった。馥郁ふくいくたる鍋の香の中、車座になったクラスメート達の感嘆と感涙と、舌鼓が重なる。その好評ぶりに、龍麻は非常に満足していた。

「それほど喜んでもらえると俺も嬉しい。そのマツタケは少々小ぶりではあるが、一流の料理人のお墨付きをいただいた国産の一級品だ。他にも香草や漢方食材のエキスも加えてある。高カロリーではあるが燃焼率もよい。ダイエット中の者も安心して食すが良い」

「ひーちゃ〜ん。ありがとー」

 日頃から【訓練】の後で龍麻特製の軍隊料理(これが実は美味!)を食している小蒔も、訓練とは関係なしに、しかもマツタケ鍋をつつける幸せに感涙している。そしていつもはこのような非常識な行為に口うるさい醍醐も、黙々と鍋をつついていた。

(作戦は成功だ。この企画にマツタケを導入したのは正解であった。香りだけとも評される食材にどれほどの価値があるのかと思ったが、なるほど。パイ老師のおっしゃるように、場の雰囲気さえ味覚に変える日本人の感性は真に奥が深い。これほど喜んでもらえるとは)

 などなど、何事にも研究熱心な龍麻が日本の食文化のあり方に感心していると、ご飯のおかわりをしに来た小蒔にご飯をよそってあげていた葵が声を上げた。

「うふふ…みんな本当に嬉しそう。――それにしても京一君、発案者なのにどうしたのかしら?」

 机そのものは教室の端に片付けられてしまっているが、京一の机に視線を向ける葵。この鍋大会を真っ先に立案した男は、今朝から姿を見せていない。

「そーんなの気にしない気にしない! どーせいつものサボリだって。宿題忘れるノリで鍋の事まで忘れちゃうなんて、ほーんと、アホだよねッ」

 口では酷い事を言いつつ、喜色満面の小蒔。このような食事の時は必ずライバルとなる男がいないので上機嫌なのである。クラスの同級生達は、飢えているとは言っても所詮、小蒔の敵にはなりえない。

「ふむ。進路を決めていない上に、出席日数も怪しい筈なのだがな。このままでは留年の可能性も否定できんな」

「あははッ! 京一ならありえるありえる!」

 まだまだ胃袋に余裕のある小蒔は、話しながらも油断なくお椀一杯に鍋の具をキープする。一抱えもある大鍋ではあるが、やはり四十余人が一斉に食べるのだから減るのも早い。龍麻は量に余裕をもたせたつもりでいたが、やはりうまい料理というものは箸が進むものである。

「でも小蒔…。ひょっとして体の具合が…」

「ないないなーいっ! そんなの絶対ないって!」

 心優しい葵の言葉を途中でぶった切る小蒔。葵は苦笑するしかない。

「なあ桜井。俺も京一はただのサボリじゃないと思うぞ」

「エーッ、なんで? だって醍醐クンもなにも聞いてないんでショ?」

「うむ。確かにそうなんだが、あの食い意地の張った男がこの鍋の事まで忘れるとは思えない。なにしろマツタケ入手の経緯を知っていればこその発案だった訳だし…それこそ京一なら、臨終の床からでも這い出して来るだろうに」

 親友を心配しているのかコケにしているのか判らぬ醍醐であった。しかし改めて言われてみると、確かに【あの】京一がこのマツタケ鍋を見逃すかどうか…。

「う〜ん…どーだろ?」

 一応、小蒔もちょっと首を傾げてみたりするのだが、やはり手の中の、そして目の前の鍋の方が大事である。考えるふりはしてみるものの、実際には口と手を動かす方が忙しい。

「また何か、ろくでもない事に首を突っ込んでなければいいのだが。――おっと、飯はもうこれだけか。おおい、飯が欲しい者はいるか!」

 もうムリ〜! 満足満足〜! という返事がクラスメートから返ってくる。龍麻が自衛隊から払い下げた【野外炊具2号(改)】(戦地、被災地等で炊き出しを行う飯炊き専用車両。壱号は大部隊用で同時炊飯能力一五〇〇名分、2号は小部隊用で同時炊飯能力五〇名分を誇る)で炊き上げたご飯は相当量あったので、充分にクラスメートのお腹を満足させたようだ。

「お鍋と言えば締めはおじやだけど…うふふ。あとお椀二杯でおしまいね」

 はふぅ〜とお腹を抱えて至福のひと時を過ごすクラスメート達を見やり、最後の二杯分は醍醐に渡す葵。礼を言って醍醐は最後の飯を鍋と一緒にぶっ掛けご飯にして口の中にかき込む。

「おお、綺麗になくなったものだな。若干余るかと思ったのだが」

「みんなが満足して、しかも残らなかったのだから良かったじゃない。でも京一君の分、残すの忘れちゃったわね」

「――良い良い。いない奴が悪いのだ」

 無情なる少尉殿の言葉に、しかし深く頷く醍醐と小蒔であった。

「お〜い緋勇、食器洗いは俺らに任せてくれ」

「そーね。緋勇君はゆっくりしててね」

 これもまた学生時代の忘れ得ぬ思い出。クラスメート達が快くそんな事を言ってくれる。一年前、明日香学園でクラスの人間からまったく相手にされなかった男と同一人物とは思えない。

「おお、そうか。助かる」

 そう言って龍麻が、葵の入れた茶に口を付けた時である。

「あああ〜〜〜〜ッ! 飯がッ! 鍋がッ! 終わっているゥ〜〜〜〜ッッ!!」

 まるでターザンの雄叫びのような声と共に、本来なら当然いるべきだった男、蓬莱寺京一が姿を現した。

「テメエら〜〜〜〜〜〜ッ! 自分達だけで鍋をつつきやがって〜〜〜〜〜〜ッ! お〜れ〜の〜マ〜ツ〜タ〜ケ〜な〜べ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!」

 不機嫌度MAXの双眸になにやら不穏な炎すら纏わせ、おどろおどろしい声を上げる京一。しかし、そこにいる者たち、龍麻を始めとする三−Cの面々の反応はなかった。――呆然としていたのである。

「――なんて薄情な奴らだ! 発案者たる俺の分を残しておかねェなんてッ! ――ええい! 舐めてやるゥ〜〜〜〜ッ!」

 クラスメート全員で、それこそ汁の一滴すら残さず平らげた後の鍋を、さながら化け猫のごとく頭を突っ込んで舐める京一。なんと意地汚い。

「――葵」

「――はい」

 差し出された龍麻の手になぐり(業界用語。ゴムハンマーの事)を乗せる葵。龍麻はそれを思い切り良く鍋に叩きつけた。

 ――ゴワワワワァァァァァァンン…! 

「ッッッッッッ!!」

 良い子は決して真似してはいけない凄まじい音の乱反響に脳を乱打され、パンチドランカ−状態になる京一。

「うが〜〜〜〜〜ッ! 耳鳴りがァ〜〜〜〜ッ! ――って、ひーちゃん! 何しやがるゥゥゥッッ!!」

 涙目になりながら、それでも京一は龍麻に食って掛かる。

「――小蒔」

「――はいッ」

 やはりすっと差し出された龍麻の手に、ハリセンを乗せる小蒔。一瞬後、スパーン! と景気の良い音がして、京一は教室の床に沈んだ。

「…それで、京一君、何があったの? そんな格好で…寒くないの?」

 葵の言葉に、おお、とクラスメート達が感嘆の声を上げる。一連の奇抜過ぎる京一の行動であったが、やはり最初に来る疑問は【それ】であろう。昼休みに登校して大遅刻――など、取るに足らない問題だ。彼がこの寒空に――夏服を着ていることに比べれば。

「京一…良い事教えてあげる。今は十二月。師走。英語ならDecemberだよ?」

「――うるせェな」

 ようやく、比較的まともな対応をする京一。その口調が不機嫌そうである事から、自覚はあるらしい。つまり、頭がおかしくなった訳ではないようだ。

「…何かのパフォーマンス?」

「うるせェっつってんだろがッ」

 馬鹿にされる事も承知の上だったのか、京一は声を荒らげつつも真っ直ぐ小蒔を見られない。

「耐寒訓練のつもりか? それにしても夏服はないだろう」

 小蒔に続き、醍醐にまで突っ込まれ、何事か反論しようとした京一であったが、代わりに飛び出したのは盛大なくしゃみであった。

「そんな格好をしているからだ。いくらお前が馬鹿でも、そんな薄着では風邪をひいて当然だぞ?」

「馬鹿は風邪ひかないって言うけど、最近の風邪は馬鹿でもひくからねッ」

「ええい! ステレオで人を馬鹿にするなッ! ――ぶえッくし!」

 くしゃみというものは、一度始まるとなかなか止まらなくなるものである。大声を出した事も響いたのだろう。――止まらなくなった。

「大丈夫なの? 京一君。そんな身体で無理してまで学校に来なくても良いのに…」

 さすがは真神の菩薩様。馬鹿丸出しの京一にも優しい言葉をかけて下さる。ただ、くしゃみの射程範囲からは見事に身を避けているが。

「ん――アァ、さっきまで家で寝ていたからな」

 さっきまで寝ていた…つまり、真剣に風邪をひいていたという事か? そんな身体を引きずってでも、マツタケ鍋が食べたかったと…? 龍麻の誤解癖が、この時ばかりは醍醐にも小蒔にも伝染していた。

「――ンな事はどうでも良い。――ひーちゃん! 俺と付き合ってくれッ!」

「……!」

 ザワッ!! と教室の空気が凍り付いた。

「頼む! 今夜一晩だけでもいいんだ!」

 なにやら猛烈にして熱烈に龍麻に迫る京一。クラスメートの男衆は全員が埴輪化し、女衆は「キャー♥」と黄色い声を上げた。

「――醍醐」

「――応ッ」

 差し出された龍麻の両手に、マツタケ鍋が入っていた大鍋が乗せられる。



 ――グワワァァァァァァァァァァァァァァンンンン…!! 



「ッッッッッッッ!!」

 古典的にも黄色の星を撒き散らしつつ、床に沈む京一。さらに彼の頭の上で、デフォルメされたスズメがピヨピヨと声を上げて飛び回る。――誰も驚かない。この程度でいちいち驚いていて、三ーCの生徒は務まらない。そう…ここは【魔人学園】。何が起きても不思議ではないのだ(笑)。

「貴様…! 白昼の校内で悪質な冗談を大声で…!」

 京一、復活! 

「――冗談なんか言ってねェ! 俺は本気だ!」

「――なお悪いわッ!!」



 ――ちゅどぉぉぉぉぉぉんっっっ!!



 龍麻が空中から出現させた超特大信楽焼きの狸に押し潰される京一。――やはり、誰も驚かない。それよりも何よりも、男衆は京一が龍麻に【愛の告白】(笑?)をした事に対して埴輪化した上タコ踊りをし、女衆はそれぞれ紅潮した顔を寄せ合って「緋勇君って受け? 攻め?」「総受けに決まってるジャン」といった不穏当な会話を交している。

「京一ィ…いくらキミがモテないからって男の子に走るなんて…よく思い切ったね?」

「さ、桜井…!」

 龍麻の周囲で【ゴゴゴゴゴゴ…!】と書き文字が躍っているのを見て【ムンクの叫び】状態になる醍醐。さらにその隣では、頬を朱に染めた葵が焦点を失った目を宙にさ迷わせている。

「うふ…うふふふふふふ…受けオンリーの龍麻っていうのもいいかも…。実は隠れM属性とかなんていったらもう…うふふ…ふふ…うふふふふふふふふふふふ…」

 完全に【妄想モード】に突入した葵。もともと女子高生というものはホモネタが好きであるらしい(勿論偏見である)し、美形に生まれた男子は女子の妄想のおかずになる事は義務(By暁弥生)であるらしい。

「…それで、貴様はどこの女性向同人作家に借金をした?」

 既に京一をどこかの同人作家の回し者と決め付けている龍麻である。

「お、俺は借金なんか…へっきし! ――へっくし!」

 狸に押し潰されたまま京一はくしゃみを連発する。そんな彼の姿に、さすがの小蒔も哀れを誘われたようだ。

「大丈夫? どこまでが冗談なのか全然判らないけど、冗談抜きで辛そうだね?」

「あのな! 俺は最初ハナっから冗談なんか言ってねェよ!」

「ほほう…」

 龍麻の左眼が赤い輝きを零れ出させる。コートの中からズルリ! と取り出したのはRPG−7…HEAT弾頭を装着した対戦車ロケットランチャーであった。

「わ――ッ! やめろ龍麻! それだけは堪えろッ!!」

 本気で自分の身が危なくなると知りつつも、龍麻を羽交い絞めにする醍醐! 

「ええい! 放せ醍醐! 今日こそこの赤毛ザルを叩き刻んで腐土と化してくれる!」

「やめんか! 京一には京一の事情があるのだろう!?」

「男色に走るような輩の事情など知った事ではないわ! それとも貴様も紫暮と込みで、奴と同類かッ!?」



 ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ンンンン…



 この瞬間、三−Cの教室を横切った光景。赤いふんどし一丁の醍醐と紫暮が左右対称にポージングし、正面にやはり赤いふんどし一丁の京一が、そして彼らの背後に、お揃いのふんどしを締めた筋肉隆々、全身をオイルで艶光らせた黒縁眼鏡にバーコード禿の【オッサン】がおおらかに微笑み両手を広げて後光を背負う構図。それは禁断の方陣技【不動禁仁宮陣】(笑)。

『――オゲェェェェェェェェェ……』

 龍麻の一言が招いた地獄絵図に瀕死状態になる3−C一同。これには他のクラスメートより耐久力があってしかるべき小蒔が…あっちの世界に行ってしまわれた。

「うふふ…あはは…醍醐クンが…醍醐クンが…紫暮クンと…京一と…うふふ…はは…あははははははははははは…」

 小蒔ですらその有様なのであるから、そのまま放置すれば三−Cの面々に致命的な精神外傷を刻むところであったろうが、その寸前にがらりとドアが開き、この状況にとっては救世の女神か地獄の使者か、真神学園新聞部部長、遠野杏子が姿を現した。

「やっほ〜ッ。お元気、皆の衆♪――って、何よ、あんたたち、教室で鍋を囲んでた訳? そんなおいしい事にあたしを呼ばないなんて、なんて酷い人たちなの〜ッ」

「…アン子…また唐突に現れたな」

 これまでで最悪の空気をぶち破ったのは良いとしても、今のアン子の雰囲気は奇妙に…いや、不気味なほどハイテンションである。鍋をのけ者…は三−Cの企画なのだから当然なのだが、アン子にそのような理屈をこねるのは無駄な事だ。しかし、そのアン子が理不尽な怒りをあっさり消したのである。――アン子の目は、夏服の京一を捉えたのだ。

「あ〜らあらあら京一君。や〜っぱり風邪ひいたのねェ」

 腹に一物も二物もありそうな意味ありげな笑いを浮かべつつ窓辺へと歩み寄り、学園青春ドラマ風に空を見上げるアン子。都会でもこの季節ならば見る事のできる澄み渡った空。ただし、それを眺めるアン子の顔は限りなく邪悪(笑)に見える。

「季節はもう冬…鍋のおいしい季節だものねェ…。風邪なんかひいちゃうと、治るのも遅くなるわよねェ…京一…?」

「て、テメエ…何が言いたいんだよッ!?」

 既に仲間達によって徹底的に叩きのめされているところへ、さらに追い討ちを掛けようかというアン子に対し、喧嘩腰になっている京一。しかしアン子は益々口の端を吊り上げ、いわゆる【二時間ドラマ系悪女】風の笑いを作る。

「あ〜らら〜っ、ここで言っちゃってもいいのかしら〜ッ」

 キラーン! と光るアン子の眼鏡。彼女と一度でも敵対した事のある人間にとって、それは恐怖の象徴。京一は束の間呆然としたが、次いでみるみる顔を青褪めさせた。考え得る最大最悪の予想が、京一の頭を駆け巡る。

「お、お前…まさか…!」

「うふ…うふッ…うふふふふふふふふふふふふふふ〜〜〜〜…お――ほほほほほほほほッ!!」

 まるで裏密と水角が入り混じったかのような高笑い。実は葵を上回る胸を反らして笑う彼女のなんという邪悪さ。たくましさ。亜里沙と組ませてボンテージファッションでショーをやらせたらさぞかしファンが増えそうだ――などと、先日の拳武館騒動が解決した時のように汗をだらだら流しながら縮こまっている京一を眺めつつ、龍麻はそんな事を考えた。

「まさか…まさか…見たのかッ!? ――あれをッ!?」

「お――ほほほほほほほほほほッ! ばっちり見させてもらったわよッ! ――守銭奴と呼ばれるも誉め言葉のあたしをして、このネタだけは出血大サービスの大盤振る舞いよッ! アンタが――」

 すぅ…っっ! と息を吸い込んだアン子の口を塞ごうと飛び出す京一! しかしアン子は彼の眼前で拡声器を取り出し――



「パンツ一丁で泣きながら歌舞伎町を駆け抜けるのをねッ!!」



「わ――ッ!! そんなでかい声でッ!!」

 クラスメートがガタガタとひっくり返ったのに対し、京一が拡声器の最大ボリュームの直撃を食らって平気だったのは、やはり龍麻の傍で彼が振るうガンの銃声を聞き続けていたためだろう。だがアン子の声は、その情報と共に真神学園内の隅々にまで届いてしまった。当然、職員室にも、校長室にもである。丁度時諏佐校長は時ならぬ声に一〇〇グラム四千円もする取って置きの高級玉露を噴いてしまい、恨めしげな視線を天井に向け、

「――やれやれ。またしても例によって例のクラスですね」

 と、ごちた。

 そして、当の三−Cでは…

「――パンツ一丁で、歌舞伎町をッ!?」

 小蒔の声を皮切りに、クラス全員の頭が再起動を始めた。

「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが…そこまで馬鹿とは…!」

「うふふ…京一君。そういう事はちゃんと予告してくれないと、ね?」

 笑うよりも何よりも、すっかり骨抜きになって脱力する三−Cの面々。醍醐は難しい顔をして額に手をやり、葵に至ってはすっかり京一を【純情じゃない女子の妄想】のネタ扱いである。

「うわァァァァァッッ! そんな目で俺を見るんじゃねェェェッ!」

 目の幅涙をぶわーッと流しつつ、両腕を振り回してブロックポーズを取る京一。どうやら彼は本気で泣いているようだ。

「…それで、何がお前をそうさせた?」

 ズン! と空気を重くする【鬼軍曹】の声。京一はピタ! と固まった。

「しょっ、しょうがねェだろッ!? 財布から学ランから、何から何まで一切合財、根こそぎあのイカサマ野郎に巻き上げられちまったんだからよォうッ!」

「…なに?」

 ピク、と龍麻のこめかみが引きつったのを悟ったのは醍醐一人だけであった。彼は身の危険を感じて三歩下がる。――巻き添えはゴメンだからだ。

 そんな事は露知らず、京一は涙涙の身の上を語りだした。

「昨日の夜…歌舞伎町を徘徊していたら、白い学ランを着たヤローが声をかけて来たんだよ。【花札で勝負していかねェか?】って」

「……」

「丁度、俺も懐が寂しくなってたトコだったからよ。ちょっとだけ稼いでいこうと思った訳だ。だが…あの野郎…! とんでもねェイカサマ野郎だったんだよッ!」

 その時の事を思い出したのか、京一の声が熱を帯びてくる。いっそこのまま熱くなっていれば、風邪など吹き飛ぶに違いない。

「冗談じゃねェッ! 十回勝負で【五光】が三回、【四光】が二回だぜッ! ンなコト、絶対にあり得ねェッ!!」

 この世に絶対などない…龍麻が常々言っている事だが、京一の頭からは綺麗さっぱり忘れられているらしい。そもそもギャンブルとは、自分が勝った時の事を想定して挑むものである。自分が勝てば【運も実力の内】と勝ち誇ろうが、負けたとなれば【運】のせいにするか、イカサマ呼ばわりするのは世の負け犬連中の常である。

「それで、お前は文字通り身ぐるみ剥がされたという訳か」

 チラ、と龍麻を眺めやり、醍醐は搾り出すように言う。醍醐のこめかみのあたりにも【怒りマーク】がピクピクと脈打っているのを見て、さすがに京一の頭も平熱を取り戻す。

「バッカじゃないのッ!? ――って、改めて言うほどの事じゃないけどッ! そーゆーのを自業自得って言うんだよッ!」

「京一君…。余りきつい事を言いたくはないけど、本当に身包み剥がされるまで勝負するなんて………(溜めてる)…………馬鹿よ?」

 グッサー! というゴシック文字が京一の胸に突き刺さる。これは龍麻の専売特許だった筈なのだが、いつの間にか葵も習得していたらしい。

「あううぅぅぅ…。ンなコト言ったって、相手はイカサマ野郎だぞッ!? 詐欺師なんだぞッ!? どう見たって、被害者は俺じゃねェか! ――なあ、ひーちゃんは俺の味方だよな? ――って、――――――ッッ!!」

 それはまさに、地獄の辺土リンボで燃える煉獄の炎! ――と見えたのは、龍麻から立ち昇る大いなる怒りのオーラ! 

「京一…」

 地獄の底からでも響いてくるような声音に、京一の足は凍りついた。

「賭け事はいかんとあれほど言っておいた筈だが…」

「ま、待て! ひーちゃん!」

「弁解無用! ――飛べい!」

 一切容赦なし! 窓から京一を放り出す龍麻。京一の「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜」という甘い声が尾を引き、途中で止まる。見れば龍麻の【降下訓練】用のロープが京一に繋がっているのだ。

「馬鹿たれが。しばらくそこで反省するがいい」

 階下から遠吠えのような啜り泣きのような、あるいは発情期の猫の鳴き声のような、奇妙にスプラッタな京一の悲鳴が響いてくる。

「あ〜あ。ひーちゃん怒らせちゃった」

「完璧に身から出た錆とは言え、あの格好のままでは風邪が悪化するな…」

「せめて簀巻きにしてからなら、思いやりもあったかも…」

 最後の葵の言葉に【思いやり…か?】と頭を捻る醍醐に小蒔。しかし龍麻はたった一言、

「知るか」

 と、無情に告げたのであった。









「…………それで?」

 この寒空に十分ほども【吊るされた男ハングドマン】にされた男は、今、木刀を床に置いて正座させられている。その正面には鷹揚に椅子に腰掛けた真神の少尉殿。その隣に立つのは真神の菩薩様、更にその二人を左右から挟むように、真神の【表】総番殿と【元】弓道部部長殿が立つ。傍聴人はアン子だ。そして全員の目が、正座する男を見下ろしていた。――まるで時代劇のお白州である。

「…うえ様に申し上げます。放課後、この私め付き合ってくださいませ」

 ――どうやら本当にそうらしい。

「理由を申してみよ」

「あの白ランのイカサマヤローに奪われた物を一切合切取り戻したくさふ…って! 舌噛んだ!」

 やれやれ、と一同は肩を落とす。

「イカサマイカサマって言ってるけど、相手は相当の腕前なんでしょ? 所詮、素人にはプロのイカサマは見抜けないと思うわよ」

 ふふん、と笑うアン子であったが、誰からも同意の声が上がらないので「おや?」という顔になった。

「安直だな。賭けで負けた腹いせに龍麻に頼るとは」

「それ、どういう事なの? 醍醐君」

「あ、そーか。アン子は知らないんだっけ。――ひーちゃんってば、実は凄いギャンブラーなんだよ」

 修学旅行からの帰りの新幹線に爆弾…どころか核爆弾まで仕掛けられていた事はアン子も知っている。しかし彼女は三日間に及ぶ取材でさすがにくたびれて、龍麻が爆弾解体に奔走していた間中、幸せそうに大口を開けて眠っていたのである。当然、賭け麻雀騒ぎも知らない。

「頼むひーちゃん! いや、龍麻様! どうか俺の仇を取ってくれェ!」

「くっつくな! 鬱陶しい!」

 ギャンブラーであっても、賭け事はいかんという主義の持ち主である龍麻はとことん頭に来ているようだ。しかし…

「まあ、京一の事などどうでも良いが、確か新宿区内には白い学ランの高校なんてない筈だ。よそ者に新宿でやりたい放題させておくというのは問題だな」

「そう言われればそうだよねッ。わざわざ新宿まで出てきて悪どい商売しようなんて、図々しいにも程があるよッ」

「確かに…京一君ほどではないにしろ、お金を取られたりした被害者がいるかも知れないわ」

 三対の視線が龍麻一人に注がれる。

「むう…」

 視線に込められた意思がビシバシと伝わってきて、龍麻は小さく唸る。なんだかんだ言っても、基本的に【真神愚連隊】のメンバーは身内に甘いのだ。そして地元のトラブルに無関心ではいられない。

「……仕方あるまい。ただし、今回だけだ。再びこのような事態を引き起こした際、貴様が内臓を売られようがカマ掘られようがSMクラブの奴隷になろうが、俺の知った事ではない。――解ったか?」

 言った人物が人物だけにやけにリアルな脅し文句にうろたえつつも、京一は感涙しながらまたも龍麻の足にしがみ付く。

「ひーちゃん…お前は本当にいい奴だッ! さすがは俺の相棒だ!」

「離れろ! 鬱陶しい!」

 やはりまたしても蹴り倒される京一。

 それを見てアン子がやや下品な笑い声を立てるが、ちょっとだけ表情を引き締めて龍麻に向かって言った。

「ま、そっちの件はただのイカサマ賭博だろうけど、龍麻は少し身辺に気を付けた方が良いかも知れないわよ」

「…どういう事だ?」

 身辺に気を付ける…今更言われるまでもない事だ。【力】を持たぬとは言え、アン子も【真神愚連隊】の一員として情報担当をしている(金は取るが)。当然、龍麻を狙う殺し屋が山のようにいる事も、そいつらがどのように【処理】されているかもある程度心得ている。その上でこんな警告を発するとなると…。

「龍麻には無意味な警告かも知れないけど…ここ一月くらい、二十三区内で結構な数の男子高校生が行方不明になっているのよ。――と、ここまでなら関連付けるのは強引なんだけど…あたしの調べたところによると、行方不明になった生徒たちは全員が、今年になってから転校してきた子らしいのよ」

「全員が…転校生だと…?」

 醍醐は龍麻を見て、重々しく腕を組む。

 現在ではすっかりクラスに馴染んでいるから誰もが忘れていそうだが、龍麻も三年生という珍しい時機に転校してきた男である。そう言えばもうだいぶ前になるが、紫暮も転校生の噂を良く聞くと言って不思議がっていた。

「当然、警察はこれを共通点としては捉えていないでしょうね。でももし事が【神威】絡みなら、狙われているのは龍麻かも知れないって事になるわ」

「なるほど…。先の一件も、法外な金を払ってまで俺達の抹殺を依頼した者が起こした事だしな。…もし、京一を身包み剥いだ奴が何らかの関わりを持っていると仮定すれば、狙いは龍麻にあるかも知れんぞ」

 推理と言うにはかなり安直な上、飛躍し過ぎているが、実際これまでの事件もすべて【事実は小説よりも奇なり】というようなものばかりであった。いっそ何でもかんでも関連付けて考えた方が、案外的を射ていると誰もが考えるようになっている今日このごろであった。

「…そこまで言うのならば、仕方あるまい…」

 どうやら真神の少尉殿は、どっとお疲れになったようである。

「そんなに肩落とさないでよ、ひーちゃん。ここは相手の出方を見るって手でしょ? ――アン子はどうするの。ボクたちと一緒に行ってみる? ひーちゃんの腕前が見られるよ」

「うーん…それはそれで興味あるけど…。今日はこれから日本橋に行くのよ。そこでやってる秋月マサキ様の個展が今日までなのよ」

「秋月マサキ…様ァ〜〜〜〜ッ!?」

 小蒔が素っ頓狂な声を上げるが、珍しい事にアン子からの反撃がない。いや、これはひょっとして【妄想モード】!? 

「アン子ちゃん…。秋月マサキって、あの画家の秋月マサキさん?」

 その発言をした直後、葵はドドドドッ! とばかりに突進してきたアン子によってほとんど壁に叩きつけられてしまった。(ゼロコンマで作動させた防御術でダメージはなかったが)

「さすが…さすが美里ちゃん! やっぱり知ってるのねッ!」

 葵の肩に両手を置き、ドババババ、と目の幅涙を滝のように流すアン子。あまりに珍しい光景なので一同は、龍麻でさえも呆然としてしまった。

「中央区の超エリート校、私立清蓮学院三年、秋月マサキ! この澱んだ世界に舞い降りた車椅子の天使! 高校生にして世界に名だたる画家達と並び称される天才画家! …あの大胆かつ柔らかなタッチの絵…あの浮世離れした、どこか儚げな風貌…ああ! もう! 護ってあげたい! あたしがあの人の足になってあげたい! おお神よ! 何であなたはあの人にそのような茨の道を与えたのですかッ!」

「「「「「…………」」」」」

 果たして突っ込んで良いのかどうかすら判らぬ、アン子の【妄想モード】大爆発である。

「代われるものならば、私が代わってあげたい! たとえ茨の道行も、あなたとならば歩いていける! 闇を切り裂き飛び行く先は、遠く輝く愛の星! あなたと掴む、夢の星!」

「…アン子ちゃん…」

「………壊れた」

 珍しいを通り越した光景に顔面蒼白の葵に、普段のように頭が廻らぬ龍麻。人は、自分にとって予測不可能な事態が起こると思考が停止してしまうと言うが、もしそうであるなら龍麻は今や立派な【人間】だ。

「アン子が京一になっちゃった…」

「うむ。京一だな」

 両手で茶を啜りながらダブルで的確に突っ込む凸凹夫婦(笑)。京一と同列視された事が現実回帰への切っ掛けになったか、アン子の表情が歪む。

「何よッ! アイドルオタクの京一なんかと一緒にされたら生きる希望もなくなるわよッ!」

「誰がオタクだッ! オタクってのはひーちゃんとかアランみてェな奴を…!」

「――なんだと言うのだ?」

 窓は閉まっている筈なのだが、教室内を吹きすさぶ寒風。京一のくしゃみが止まらなくなった。

「ふん! まったく墓穴を掘るのがうまいわねッ。――そーだ、龍麻もこんなアホに付き合うのはやめて、マサキ様の個展に行ってみない? マサキ様の絵、龍麻だったら気に入ると思うけど」

 くしゃみが止まらず呼吸困難に陥った京一から龍麻は視線を外した。

「ふむ…興味が湧かぬでもないが、何分、このアホをこのままにしておく訳にもいかん。それに、狙われているのが俺だとしたら、そのような会場に足を運ぶのはまずいだろう」

「…そっか。テロが憎ったらしいってよく判るわね。どこぞの誰かの勝手な都合で行きたい所にも自由に行けなくなっちゃうなんて。――まァ良いわ。もともと一人でいくつもりだったし。あ、と…京一ィ〜ッ。アンタのパンツ姿はしっかり激写しておいたから、後で校内掲示板に貼っといてあげるわね〜ッ」

「なッ!? ぬわぬいィィィィィィ〜〜〜〜〜ッッ!!」

 瞬時に顔が茹蛸になり、耳からピーッ! と蒸気を噴き出す京一。

「お――ほほほほほほほほッ! 今度の新聞を楽しみにしてなさい! カラー刷り特版第二弾よッ! 大ヒット再び間違いな――し!」

「鬼! 悪魔ッ! 守銭奴ッ! 水角の中身ッ! ――お前は人間じゃねェェッ!」

「お――ほほほほほッ! 痛くも痒くもないわね! ――それじゃ、またね。皆の衆♪」

 京一の悪口雑言などどこ吹く風、アン子は踊るように去っていった。何しろ先日の事件では、【命の危険がある】と龍麻に釘を刺されながら拳武館の取材を敢行したのは、京一が【生死不明】との情報を独自に入手してしまった為だったのだ。つまりこれは、自分を心配させた事に対する彼女なりの制裁なのだろう。彼女が生き生きとしているのも、京一を馬鹿にできるという事もさることながら、そのような日常が戻って来た嬉しさもあるからだ。

「あはは…京一ィ、こうなったら諦めるしかないね。アン子に見られたのが運の尽きだったんだよ」

「チクショーッ! 金はねェは身包み剥がされるわ風邪はひくわ鍋は食い損ねるわこの寒空の中逆さ吊りにされるわ、挙句に…! あのイカサマヤローに運もツキも根こそぎ吸い取られた気分だぜッ!」

 呆れ果ててこれ以上のコメント不可――とピサの斜塔になっていた醍醐であったが、京一の言葉でふと考え込む。

「運を吸い取る…か。ひょっとして、そういう【力】もありかな?」

「エーッ!? 運を吸い取るって…運なんてそもそも目に見えるようなものじゃないでしょ?」

「うむ…。何かの本で読んだんだが、【運】が良いとか悪いとか言うのも、その人間の持っているエネルギー状態に左右されるのだそうだ。エネルギー状態…つまり俺たちの場合は【気】と考えても良いんじゃないかな」

 あ…と小蒔も声を上げる。彼女も呼吸法によって【気】を吸収し、ある程度の自己回復が可能なのだ。【運】というものをエネルギー状態として捉えるならば、【気】をコントロールできる者には【運】を左右する事も可能なのでは…? 

「もしそうだとすると、龍麻がギャンブルに強いのも納得できるわね」

 龍麻の【気】は他の【神威】たちと比べて桁外れに強い。それが運に作用しているとなると…なんとなく頷ける話ではある。

「【運】を吸い取る【神威】の【力】だったら、ギャンブラー同士の対戦って事になるね。――なんだか面白そうッ」

「おいおい、桜井。まだ相手が【神威】と決まった訳じゃないぞ。――まあ、会ってみなければなんとも言えんが」

「うん、そうだね。とにかく放課後、歌舞伎町にレッツゴ―! だねッ」

「…肯定だ」

 元気な小蒔に対して、やっぱり気乗りしないような声で龍麻は頷いた。









 あ! と言う間に時は過ぎ、放課後。

 京一のくしゃみと愚痴はいまだ続いているが、とりあえず下らないのか馬鹿馬鹿しいのかよく判らぬ事件に向けて【真神愚連隊】は行動を開始した。

 先頭の龍麻はいつものように背筋を伸ばして歩いているのだが、今日は颯爽とした雰囲気がない。原因はやはり、その後で肩を落として歩いている夏服の木刀男のせいだろう。

「――にしても、アン子の奴、マジで新聞に載せる気かよ…」

「当然だろう。【あの】遠野がそんなネタを握って公開しないと思うか? ――こう言ってはなんだが…遠野の言う通り売れるだろうしな」

 いい加減、ぶちぶちとうるさい京一に嫌気が差したのか、醍醐の言葉には慰めの一欠けらもない。普段から彼の素行を注意している醍醐だから、今回の事は腹に据えかねたのだろう。

「う〜ん…さやかちゃんの時ほどじゃないにせよ、売れるんだろうなァ。京一ってなんだかんだ言っても下級生の女の子に人気があるんだもんね。この間も【キャー、京一センパ〜イ】なんて呼ばれてて、ボク、びっくりしちゃったよ」

「まさしく、知らぬが仏だな」

「ええい! しつけェんだよッ! お前らは!」

 ぶちぶちと愚痴るのもしつこいと思うのだが、京一が怒鳴り声を上げる。だが、次の瞬間にはがっくりと肩が落ちた。

「ああ…その人気も次の新聞が出るまでか…」

「京一ィ。だからって、内緒で男の子に走ったらダメだよ?」

「走るかッ!」

 また怒鳴り声を上げ、すぐにしぼむ京一。その落差が面白いのと、いつもはからかわれる方であったので、小蒔は少々意地悪になっているようだ。

「そんなに気になるってことはさァ…もしかして、ウサギさんの模様のパンツでも穿いてたの?」

「穿くかッ!」

「それじゃ、ビキニとか…」

「アホかッ!」

「エエッ!? するとやっぱり…赤いふんどしとかッ!?」

 その瞬間、小蒔の頭にチョップが落ちる。――京一の仕業ではない。先程、禁断の【禁仁宮不動陣】のイメージを他の者より鮮明に描いてしまった葵の仕業である。ただ、彼女にしても無意識の動作であったらしい。

 涙目になった小蒔が恨めしそうな視線を、自分が何をしたのか判っていない葵に向けると、その向こうからするすると近付いてくる女子生徒と目が合った。

「うふふふふふふふ〜。京一く〜んのパンツは〜うさちゃ〜んじゃなくて〜、ゾウさ〜んの柄よね〜」

 ご存知、真神の歩く怪奇現象娘、裏密ミサの登場であったが、足を動かさずに廊下を滑ってくる程度では、もはや誰も驚かなくなった。

「エエッ!? ミサちゃん、それホントッ!?」

「――ンな訳あるかッ!」

 ウサギがゾウに変わった所で、大した問題ではないだろう。更に何がどう【やっぱり】なのか小蒔を小一時間ほど問い詰めたいものだと龍麻は思ったのだが、小蒔たちにとっては重要な事らしい。

「うふふふふふ〜。だったら良いな〜と思っただけ〜。でも〜あたし〜も見たかったな〜京一く〜んの生パンツ〜」

「エエ〜ッ、なんでェ〜ッ!? 京一のパンツ姿なんか見たって何も良い事…一部の人にはあるか」

「…お前らなァ――いい加減、パンツの話題から離れろってのッ!!」

 ガルルルルルルルッ! と牙を剥き出す京一。凸凹夫婦の大きい方(笑)は、さすがにこれ以上は危険だと、話題を変えるべく話を振った。

「ところで、裏密。お前がこんな風に現れる時はたいてい俺たちに用がある時と見たが、今日も何か予言があるのか?」

 以前の醍醐なら、こんな事を自分から尋ねる事はなかったろう。しかしこれまでの戦いに加え、池袋での一件やらなんやらで、信頼と苦手意識は別物だと、彼の中でも割り切れたようだ。――事件のまったくない時は相変わらずだが。

「うふふふふふふふふふふふふ〜。醍醐く〜んにそう言われるなんて〜、ミサちゃん嬉し〜。――今日はアン子ちゃ〜んに頼まれた調べものがあるんだけど〜、出かける前に見ておいて〜」

 そう言って裏密が差し出したのは、短冊のような一枚の和紙であった。表面には墨で縦四本、横五本の線が格子模様を描いている。その上には、ミミズがのたくったような、しかし何らかの意味があるであろう文字が一つ書かれている。

「…【ドーマン】だな、これは」

「さすが〜。ひーちゃ〜んは知ってるのね〜」

 裏密は機嫌良さそうに笑う。しかし、京一たち四人には理解できない単語であった。相変わらずオカルト系知識に弱い一同にため息を付きかけた龍麻であったのだが…。

「は〜い、先生! わかり易い説明をお願いしま〜す」

 と、小蒔が手を上げる。

「…陰陽道で使用される呪術的図形だ。――以上」

「――わかんねェって!」

 たった一言で済ませた【説明】を即座に切り返す京一。

「…まともに説明したところで、簡単に理解できるものではないのだが?」

「あ! なんか、馬鹿にしてる感じッ」

 ちょっと拗ねたように小蒔が口を尖らせる。そこで龍麻は説明する事にしたのだが…。

「この世の森羅万象を二極一対、【陰】と【陽】に分け、そのバランスによって物事が成り立つという思想を体系付けたものを【陰陽説】という。さらにその性質について木火土金水という五通りの分類を行うものを【五行説】という。共に根本は中国の【風水】にあるが、この二つを統合し、日本独自の発展を遂げたものが【陰陽道】だ。星の運行や配列から吉兆を占う【占術】、神仏・鬼神を従え邪を滅する【呪術】、果ては将来の発展を促す建築物の建設や治水工事に至るまで、あらゆる呪法や科学、医学、薬学、建築その他を内包する日本最古のオカルティズムだ。………理解したか?」

 果たして返答は? 

「…………ZZZ」

 立ったまま逃避モードを通り越して寝に入っている京一と醍醐、そして小蒔。

「う〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜」

 溜めを効かせた裏密の笑い声が響くと、さすがに生命危機を覚えたか、三人はカッと目を見開いた。

「うん! よく解ったよッ!」

「なるほど、解り易い説明だった!」

「さすがひーちゃん!」

「…………」

 余りにも見え透いた【ヨイショ】に、しかし龍麻は(後で懲罰)を胸に刻んで裏密に向き直った。

「ところで裏密。その【ドーマン】をアン子はどこで入手したのだ?」

「うふふふふ〜。ひーちゃ〜んの考えてる通り〜、転校生が襲われた現場よ〜」

 今度はブラフではなく、京一たちの顔がさっと緊張する。アン子から入手した【転校生狩り】の情報が、このような形で絡んでくるとなると寝ている場合ではない。そして、再確認する。一見雑多な事件から【これは!】という事実を見抜き、龍麻たちに情報を与える――これが、アン子の戦い方なのだと。

「すると…誰かが陰陽道を使って転校生を襲っているという事なのね?」

 日本の警察はリアリズムの世界である。今年、幾度となく理解不能な事件が起こっていても、この本質は決して変わる事がない。【転校生狩り】の現場は警察の手によって現場検証が行われただろうが、そこに妙な模様の書かれた紙切れが一枚落ちていたからと言って、誰が気にするだろうか? そして、襲われた人間がすべて【転校生】である事に気付いた者が何人いる事だろう? しかし、それらの事実に気付いたとしても、【警察】という【組織】では無視されるのが常である。

「そういう事〜。でも〜わざわざ【ドーマン】を印すあたりに〜ただならぬ悪意を感じるわ〜」

「悪意って…どういう事なの、ミサちゃん?」

 陰陽道で使用される呪術的図形…龍麻はそう言った。呪術…呪う術と言うくらいだからなんとなく邪悪なイメージが付きまとうのは仕方ないだろうが、【ドーマン】を使用すると悪意がある、という理屈がよく解らない。

「もともと〜陰陽道で使用されるこの図形は〜【ドーマン】【セーマン】の二つ一組で伝えられてきたの〜。だけど〜【セーマン】という名のもとになった陰陽師、安部晴明あべのせいめいが〜有名になって〜、【ドーマン】の名のもとになった蘆屋道満あしやどうまんが〜朝廷の偉い人に呪いをかけたりしたから〜、【ドーマン】を使うのは悪い陰陽師〜というイメージが出来上がったの〜」

「安陪晴明とて権力者達、時には皇族の絡む事件を解決するなどした訳だが、未来予知を行い、世の理を研究するという陰陽道の性質上、世を達観視し、権力を笑い飛ばす性格の持ち主であったのだがな。しかし蘆屋道満は実力的に安陪晴明を凌駕し、世の全ての事象が空虚なものに見えていたらしく、呪殺もしくは死者の復活など、邪法の行使にも忌避感を抱かなかったという。…当然の帰結だ。望むものが望むままに手に入れられるという事は、もはや努力も向上も必要としない、人としては行き詰まった状態とも言えるからな」

「するってェと…」

 龍麻と裏密の説明を受け止めたのは、ある意味一番意外な人物であった。

「何でもかんでも手に入るようになっちまったら、本当に欲しいものの価値が判らなくなるって事か。未来の事が解っちまったら、先の楽しみがなくなるっていうか…」

「上出来だ、京一。お前も、確実に勝つと解っている賭け事などやらぬだろう? 金が目的ならばともかく、勝負事を楽しむ事はできん。――安陪晴明は術の行使を最低限にして世の移り変わりを気楽に楽しむ事を選んだが、蘆屋道満は気の向くままに呪法を施し、適当に波風を起こして憂さ晴らしをするようなところがあったのだ」

 何も解っていないのに、何もかも解ったつもりになって世の中を乱そうとする者と闘って来た一同だからこそ、この二人の陰陽師が抱いた気持ちがおぼろげながら理解できた。解ったつもりでいる連中は、自分の思い描く世界が実現できるものと信じ込んで騒動を起こすが、彼らはどんな未来が来るかあらかじめ解っており、自らの行動が未来にどんな影響を与えるかまで解ってしまうのだ。【風が吹けば桶屋が儲かる】という言葉があるが、彼らは桶屋を儲けさせる為に、【風を吹かせる】方法まで解ってしまっているのだ。未来が解る、変えられる――何も知らない者はそれを素晴らしいと思えるだろう。しかし、本当にそれが叶ったら、それはそれは味気ない世界になってしまうだろう。

「少し話がずれたけど〜、悪のイメージがあるとは言え蘆屋道満は〜優れた陰陽師〜。【ドーマン】を使用する者は〜彼にあやかりたいのね〜。そしてこの符は〜明らかに陰陽道の様式に則って描かれたもの〜。符に残った残留思念からも〜相手は相当の修練者つかいてと知れるわ〜。恐らく〜本物の陰陽師ね〜」

「陰陽師…かァ。…今更って気もするけど、そんな魔法使いみたいな人も、今でも残ってるの?」

 小蒔もそろそろ脳が働き始めたようである。ティーンエイジャーのソルジャーに始まり、人を操る妖刀、鴉を使役する者、夢を操る者、人を石に変える者、ゾンビー、深きものども、そして鬼。更には八俣大蛇だ須佐乃男命に櫛名田比売命だ、憑依師に、高校生の暗殺者。…これだけバラエティに富んだ怪奇事件と関われば、今更陰陽師が出てこようが宇宙人が出てこようが、もはや驚くものではない。

「電話帳には載っていないだろうが、日本各地にいることは確かだ。ただし、【式神】を打てるとなると、本物の陰陽師だな」

「【式神】?」

 新たな単語の登場に、首を傾げる京一たち。

「うふふふふ〜。【式神】っていうのは〜陰陽師が使役する鬼神の事よ〜。西洋の使い魔に似てるけど〜高位の陰陽師は〜こういう符を依代として仮初めの命を吹き込み〜自在に操る事ができるのよ〜」

「すると…転校生を襲っていたのは、その【式神】という事なのね? そんな事ができるほどの実力がある、本物の陰陽師でありながら、その術で人を襲っている…それが【悪意】の意味…」

「そういう事〜。詳しい事はこれから調べるんだけど〜」

 なにやら、またしてもオカルティックな厄介事である。転校生狩り、陰陽師の介在する可能性などから、龍麻は得意の推理を働かせ始めたのだが…。

「…情報が足りんな」

 現段階では、推論を述べるにも足りなかった。転校生だけを狙う動機が皆目不明であるし、ただ殺す事だけが目的ならば【式神】などけしかけるまでもない。

「……」

 ただし、狙われているのが自分だと仮定すると、少し話が変わって来る。

 先の拳武館騒動。あれは確かに拳武館の内部抗争に端を発しているが、その最中、龍麻の殺害依頼をした人物がいるのは確かだ。今回の事もそいつの仕業だとしたら…少し変だ。その場合、名指しで襲って来る筈で、わざわざ転校生に的を絞って超常的な攻撃を仕掛ければ、龍麻に警戒されてしかるべきなのに…。

「……ッ」

 そこで一つ、龍麻は嫌な推論に行き当たった。

 これまでの【敵】の行動パターンを分析すると、まるで龍麻を挑発するかのように、回りくどい手段で攻撃を仕掛けてくる。断片的な情報を与え、【力】を有する者をそそのかし、自分は高みの見物を決め込んでいるようだ。今回の一件も、【式神】を使役できるような陰陽師をそそのかしてやらせているとすれば、不特定多数の転校生を襲う意味、【式神】を使う意味も見えてくる。

 だが、真の目的はなんなのか? 

 自分を殺そうというのであれば、手っ取り早い(可能かどうかはともかく)手段はいくらでもある。今回の陰陽師も、いきなり【式神】をけしかけられたら龍麻でも苦戦は免れまい。だが事件の黒幕はそれをよしとせず、【転校生狩り】という形で事前に情報をひけらかしている。――不気味だ。狙われているのは確かなのだが、単に命を狙われているのではなさそうだ。

「情報か…。なあ龍麻、龍山先生なら何か知っているかもしれん」

「…ふむ。そうだな」

 推論は所詮、推論に過ぎない。醍醐の言葉を契機に龍麻は考えるのをやめた。

「そうそう〜。現代に残る陰陽師には派閥があって〜、東京には〜関東以北の陰陽師を束ねる〜東の御頭領と呼ばれる〜高名な陰陽師の一族がいるそうよ〜。明治時代に〜【土御門】と呼ばれる一族がいた〜【陰陽寮】は表向き廃止されたけど〜、今でも政界財界に〜強い影響力を持っているわ〜」

 元来、政治世界に呪術、呪法が関わる事は珍しくない。平安時代の頃のようには行かないが、時の陰陽師は朝廷の祭事に必ず助言と進言を行っていた。世界をちょっと見渡せば中国の長安などは風水に則って造られたものであるし、アドルフ・ヒットラーは重要な会議を【逢魔が刻】と呼ばれる深夜二時から三時ごろに開き、作戦期日を星占いで定めていたという記録も残っている。

「うむ。貴重な情報だ。感謝する」

「うふふふふふふふふふふふふふふふふ〜」

 裏密は嬉しそうに笑った後、ふと真面目な顔つきに戻り、一同を緊張させた。

「それじゃあ〜、あたし〜は行くけど〜、ひーちゃ〜ん達も充分に気をつけてね〜。特にひーちゃ〜んの事は〜、あたし〜の占いにも出なくなっているのよ〜」

 これはここ最近、裏密自身が言い出した事である。裏密が龍麻に絡む事件を占う時、彼女には混沌が見えるばかりで、形ある未来が見えなくなる事が増えてきたらしい。例を挙げるならば、池袋の事件の時、エルの、そして京一の行方を占った時など。――彼女の能力も上がっているから、未来予知などの精度は以前とは桁違いに高まっている。それなのに、龍麻に関わる事象は見えないというのだ。

「うむ。より、装備を充実させて出かけるとしよう」

 それを聞くと裏密は安心したのかどうかよく解らない、にや〜っとした笑いを浮かべ、「じゃ〜ね〜」と言い残して虚空へと溶けていった。

「う〜ん…ギャンブラーに陰陽師かァ…。ホント、盛り沢山だよね」

「ああ。狙いが龍麻にあるとしたら、その【式神】とやらに対する警戒も必要だな」

 凸凹夫婦の会話に、京一が異を唱える。

「お前らなァ、そんな事をこの場で考えても仕方ねェだろ。まずはイカサマヤローをぶちのめす! その陰陽師だかなんだかは、いつものように返り討ちにすりゃ済む事じゃねェか」

 一般の高校生の会話としては極めて物騒だろうが、ここでは普通の会話である。醍醐も小蒔も苦笑した。

「もうッ、京一ってば自分の事ばっかりなんだから」

「ま、俺たちはそうするしかない訳だがな」

 醍醐は肩をすくめ、龍麻を見やる。すると彼も、苦笑を洩らしていた。龍麻とて絶対無敵ではないのだが、京一はそんな事、露ほども考えていないらしい。京一が失踪した時、龍麻が彼の生存を疑わなかったのと同じだ。

(俺も同じだ。もはや下らぬ悩みや疑心など持ち込まんよ)

 先頭切って歩き出す二人の背を見ながら、醍醐は胸の内で自分に頷いた。









「うひょぉぉぉぉぉぉっっ! さっむぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっ!」

 玄関を出るなり、吹き付けてくる寒風。京一のみ我が身を抱えて縮み上がった。

「ま、当然だねッ。なんたって、半袖だし」

 同情のどの字もない声で言う小蒔は、しっかりとダッフルコートにマフラー、手袋の完全装備である。これは葵も同様だ。同じ【神威】と言っても、彼女達は体感温度の調節が不得手なので、先日、仲間内で寄り集まって冬物の買い物に出かけたのである。ただし、マフラーと手袋に関しては、新たなる仲間、孤高の暗殺者、徒手空拳【陰】の龍こと、壬生紅葉の手編み(!)の品である(彼は手芸部に属しているのだ)。

「チッ、テメエら、着膨れしやがって。ちったあ俺か小学生を見習え!」

「やだよ。この歳でそれやったら馬鹿丸出しじゃん」

 ヒュオオオォォ…ッ! 

 小蒔の言葉で再び風が吹く。京一は再びくしゃみを始めた。

「うふふ。確かに小学生には真冬でも半ズボンの子がいるわね」

「ああ。俺が小学生の頃にもいたな。ただ、それを見て教師が他の子供にもそれを強要した事もあったが…」

 なぜか遠い目をする醍醐。ひょっとして、彼が真夏でも学ランを着るのはその時の反動だろうか? 

 醍醐達がそんな思い出話をしていると、小学生時代が存在しない男がこんな事を言った。

「小学生がどうかしたか知らんが、何なら、着るか?」

 龍麻がコートの襟をつまんだのを見て、一同は驚きに目を見開く。

「お、お!? 良いのか!? 本当に良いのかッ!? いやあ、ひーちゃんはやっぱり俺の親友だぜ! 真夏の盛りに学ラン着込んでいるどっかのデカブツとはえらい違いだ!」

「京一…それは俺のことか?」

 醍醐がちょっぴり怖い声で言うが、京一はもう聞いていない。龍麻が着せ掛けるコートに袖を通して――

「ああ〜〜これでもう寒い思いはしなくて済む――ってえッッ!?」

 龍麻が手を離した瞬間、ビターンッ! と漫画的擬音を発して地面に張り付く京一。

「京一…って、何してるの?」

「お、重ッ! 潰ッ! い、息が…息…が…ッ!」

 ひょい、と龍麻がコートの襟首を掴むと、京一がゼエゼエと息を切らした。

「…………軟弱者」

 クワン! と京一の頭に洗面器が落ちてくる。

「痛ゥ――! ――って、ひーちゃん! 俺を殺す気か!? それ以前に、こんな重いコート着て平然とした顔をしてるな!」

「大げさな奴だ」

 京一からコートを取り返し、再び羽織る龍麻。風になびく様を見る限り、そんなに重いようには見えないのだが…? 

「アラミド繊維にチタン・メッシュと剛性粘液ハード・ゲルを挟み込んだ最新型の防弾コートだ。強度のお陰で装備が充実しているのを喜びこそすれ、文句を言われる筋合いはない。たかだか一〇〇キロくらいでヒーコラ言うな」

「たかだか一〇〇キロ…ねえ」

 いい加減、この常識外れの男に振り回されるのに飽きたか、小蒔も腕を組んで頷くだけだ。例のブレスレットのお陰で装備類は全て亜空間に保管できるようになったのに、どうも彼は銃の重みがあった方が安心できるらしい。

「ふふん…。京一、なんなら俺の学ランを貸してやってもいいぞ。だが非力なお前ではどうかな?」

 ここぞとばかりに京一をやり込める醍醐。最近、制服を駄目にする機会が増えているので、如月の工房で制服を防弾・防刃仕様に仕立て直したのである。日頃の肉体的鍛錬にもなるからと、チタン・プレートの厚みも一〇ミリからあるので重量も相当なものだ。総重量は実に一三〇キロ。ドイツの特殊警察部隊GSGー9の隊員が装備しているブルストル防弾ベストが約九キロである事を考えると、西洋の板金鎧よりも凄い事になるのだ。そのくせ、間接部分にはチタン・メッシュをふんだんに使用しているので、醍醐の技を阻害する事は一切なく、緊急時にはゼロコンマ五秒で除装できる。如月の自信作である。

「ちっくしょー! みんなして俺を馬鹿にしやがって!」

「………………………お前が悪い」

 地面にのの字を書き始めた京一目掛けて落ちてきた金だらいが、彼を沈めた。

「それで、どうするの? まだちょっと早い時間だよね」

「とりあえず腹ごしらえするか、それともぶらぶらしながら行くか…というところだな」

「…どっちにしても、京一君には酷ね」

 ビュオオオォォォォォォォォォォォッッ!! 

 かなだらいを頭に乗せたまま雪に埋もれる京一。今日はみんなから苛められる日だ。

「日頃の反省をするにはいい機会だ。このまま駅前を抜けて行くぞ」

 どうどどどどどうっどどどっどどどっ! (註:風の音。宮沢賢治著、【風の又三郎】より)

 やはりとどめは、龍麻の言葉であった。遂に雪だるまと化した京一を引きずって、【真神愚連隊】は新宿駅に向かって歩き始めた。









「――よォ、久し振りッ。渋谷神代の槍使いにしてロックバンド【CROW】のギタリスト、雨紋雷人サマだッ」

 社会人はもう少し後だろうが、帰宅ラッシュに突入した学生達でごった返す新宿駅東口で、馴染みの声が龍麻たちを呼び止めた。

「…雨紋、誰に説明しているのだ?」

「ン――!? あはは。最近目立つ機会がないからこうでもしないとさッ。前回の事件でも出番がなかったし、忘れられないようになッ」

 最近の雨紋は旧校舎の修行でも一人、あるいは少人数で挑む事が多くなっている。鬼道衆との戦いを経ている【神威】達はそれほどに強くなっているのだ。先日、フルメンバー参加による旧校舎探索は地下一三〇階を越え、雨紋のような古参メンバーは地下五〇階程度までならば二人編成でもこなせる。その一方で、龍麻がコスモレンジャー三人組や霧島、さやかなど、ルーキーの訓練に勤しんでいるため、顔を合わせる機会が少なくなっているのも事実だ。しかし――天に向かって挨拶とは…!? 

「ところで、元気一杯の格好の割にシケたツラしてんなあ、京一サン?」

 やはりこの寒空に、夏服を着ている京一は変に見えるのだろう。雨紋はちょっと意地悪そうにニシシと笑う。

「うるせェな。――それよりお前はどうしたんだよ? 待ち合わせに新宿って事は…ひょっとして【これ】か?」

 これ以上仲間内で馬鹿にされてたまるかと、京一は小指を立ててやり返す。雨紋が【そうだ】とでも言おうものなら、即座に雪乃に告げ口するつもりであった。【剣掌・鬼剄】を使えるほどに強くなったのに、やる事はせこい。

「へッ、相変わらずだねェ。生憎と俺サマはストイックな方でね。浮気なんて考えもしねェよ」

 【だって怖いし…】という言葉はきっちり飲み込む雨紋。雪乃は非常にさばけた性格なのだが、口より先に手が出る方だから、異性絡みで怒らせようものなら薙刀持って追い掛け回されるのだ。

「ケッ、余裕かましやがって。――じゃあ、誰だよ」

「アァ、――と、来た来た。おーい、如月サンッ!」

 人ごみの中でも一際目立つ真神の一同に負けず劣らず、女子高生の注目の視線を浴びながら改札口を抜けてきたのは、王蘭高校の制服を纏った如月であった。

「――そんなに大声出さなくても判るよ。この王蘭高校三年、茶道部部長にして如月骨董店店主、如月翡翠、耳は遠くない。――やあ、君たちも今、帰りなのかい?」

「…そのような挨拶が流行っているのか? ――うむ。そんなところだ」

 事件――と言うにはまだ早いので、龍麻の敬礼はラフなものだ。しかし、めったにいない美形同士の邂逅に、周囲の女子高生達が「ほう…」とか「ああ…」とかため息を付く。

「あらら…てっきり雪乃と待ち合わせかと思ったのに、如月クンだったなんて…。なんだか珍しい組み合わせだね?」

「あン!? なんだよォ、小蒔サン。――ホラ、この前百ウン十階まで潜った時、毒液くらっちまったじゃん? それで槍の柄をやっちまってさ。如月サンに新調して貰ったんだよ。しかもロハで」

 何ィ!? と顔を険しくする京一。以前、京一が似たような事を頼んだ時、如月は絶対値引きしないと一時間近く押し問答をしたのだ。

「丁度、穂先が使えなくなっている槍が蔵にあったからね。――蓬莱寺君。ひいきとか何とか言うつもりなら、先日壊した古伊万里の大皿、弁償してからにしてくれたまえよ」

 ビュオオォォォォッッ…! 

 突然吹いてくる寒風。再び京一のくしゃみが始まる。

「あははッ。今の京一じゃ逆立ちしたって無理だねッ。――でもなんで二人して新宿に?」

「ああ、僕が代金は要らないと言ったら、雨紋が夕飯を奢るって言い出したのでね」

 ちょっと物事を斜めに構えて見るような印象を与える雨紋であるが、これで実に義理堅い男である。中身のない人間や口先だけの者にはニヒルな態度を取るが、礼儀を弁えている者や信念を持っている者にはきちんと礼を尽くすのだ。また、面倒見がいいところなども、彼が周囲から信頼される要因である。

「ふうむ。それはそれで納得できたが、お前達、共通の話題なんてあるのか?」

 【真神愚連隊】はいざ作戦行動に移った時、個人の相性などを持ち込ませたりはしない。そして基本的には良く纏まっているし仲も良い彼らではあるが、例えばロッカールームなどで二人きりになった時など、お互いに無難な挨拶のやり取りのみになる間柄は存在するのだ。別にそれを何とかしろと言うつもりもないが、ハードロックのバンドマンと骨董屋の若旦那、それも忍者と来れば、醍醐の目にはかなり異質な組み合わせに見えるようだ。

「そりゃあもう!」

 新しいおもちゃを買ってもらった子供のように目を輝かせる雨紋。

「如月サンは忍者なんだぜ! それも代々続く本物のッ。――すっげェよなァ。如月サンとこもいろんなカラクリが一杯で、行くのがいつも楽しみなんだ」

 拳を固めて力説する雨紋とは対照的に、如月は苦笑をこぼしている。龍麻も同様だ。もっとも身近で気心の知れている真神の面々も、事が株式やら相場やらに及ぶとまるで話にならないので、龍麻は如月骨董店にもよく顔を出す。そこで、特別用事がある訳でもないのに雨紋が遊びに来て、如月の家に仕掛けられたトラップやらカラクリやらに引っ掛かる様を何回も目撃しているのだ。

「余り大声でそんな事を言って欲しくないんだけどね。最近では黒崎君も加わって、ちょっと困っているんだ。僕の家は日光江戸村じゃないんだから」

 コスモブラックこと黒崎も、雨紋と同じく忍者フリークである。彼のイメージカラーである黒は、忍者から取ったものであるらしい。彼もまたコスモブラックとしての【任務】と実家の店番(彼の家はスポーツ用品店である。彼は孝行息子だ)がない時には如月骨董店に遊びに来る。

「ふむ…。仲良き事は良い事だが、程ほどにな、雨紋」

「へへへッ。解ってるよ、龍麻サン。――ところで龍麻サンたちは、これからどこへ行くんだい? やっぱり、ラーメン屋かな?」

「そんなところだ」

 龍麻にしては珍しい、やや投げやりに聞こえる言葉に、雨紋も如月も少し首を傾げる。

「なんだよッ、ひーちゃん! お前はそんなに俺に付き合うのが嫌なのかッ!」

「――当然だ」



 ゴワァァァァァァンン…! 



 京一の言葉が言い終わらぬうちに即答する龍麻。龍麻得意のかなだらいが出現した事で、「ははあ」と雨紋は思い当たった。

「京一がそんな馬鹿丸出しの格好してて、龍麻サンが嫌がる行き先って事は、ひょっとして、歌舞伎町界隈に現れた花札野郎の件じゃないかい?」

 ほう、と醍醐が感心したように腕を組む。

「そっちにも情報が流れていたのか」

「ああ。神代高のヤツも何人かカモられているんだよ。そのうち俺サマがカタを付けてやろうと思っていたんだが…龍麻サンたちが行くんじゃ俺サマの出番はなしかな」

「そうそうッ。雨紋クンは渋谷で頑張ってるんだから、新宿の方はボクたちにどーんと任せておいてよ」

 胸を叩く小蒔に、雨紋は笑いながら頭を掻いた。

「はははっ、ま、それが一番手っ取り早いよな。――んじゃ、俺サマたちはそろそろ行こうか、如月サン」

「そうだね。――ところで龍麻君。君の事だからもう知っていると思うが…」

 周囲の目もあるので、如月は声量を押さえる。

「うむ。都内の高校生が襲われるという事件だな」

「――さすがだね。どの程度情報を持っているんだい?」

「襲われたのは全員転校生。手口は式神が使用されている――そんなところか」

 軽い驚きに苦笑を交える如月。彼の持つ情報網は超常現象絡みのものが主とは言え並ではない。それなのに龍麻に真っ先に情報を入れる人物は、それら裏社会の情報網に流れるレベルのネタを個人レベルで入手してしまっている。

「そこまで知っているなら、改めて僕が伝える情報はないね。――先の【シグマ】の一件もあることだし、充分気を付けてくれたまえよ」

「ほう。奴らはまだ残っているのか?」

「弱体化は必至だろうけどね。例によってトカゲの尻尾切りで、組織そのものの枠組みは残したみたいだ。そのあたりの事は壬生君の方が詳しいだろうけど」

 龍麻は頷く。壬生の所属する拳武館は、やはりどちらかと言うと【対人向け】の組織だ。明日香学園にて発生した事件の折には、壬生の【力】は覚醒の初期段階で、実戦に耐えうるものではなかったらしい。その代わり情報網はあまねく全国に張り巡らされ、【普通】の情報はたやすく入手できる。

「【シグマ】に関してはそれほど心配あるまい。奴らには奴らの敵対勢力があるようだからな」

「うむ。そちらの噂も聞いているよ。…なあ龍麻君。僕としても飛躍した推理だと思うが、ひょっとして拳武館で【シグマ】の実行部隊を壊滅させたのは…」

「…可能性はある。だが、今のところ我々の関知するところではなさそうだ」

 それは、レッドキャップスが他にも生き残っているという可能性。しかし「関知しない」と龍麻が口にした事で、如月も彼の心情を察し、これ以上この話題には触れまいと思った。レッドキャップス隊長であった九角が最後に発した命令は【人間らしく生きる事】。――彼らもまた、この空の下で戦っているのかも知れない。だがその戦いが、彼らが得た【大切なもの】のためであるならば、自分達は関わり合うべきではない。少なくとも、今は。

「そうだね。それが一番いい事かも知れない。…それじゃ僕らはもう行くよ」

「うむ。また近い内に寄らせて貰う。金の先物市場が慌しくなってきたのでな」

 もはや自分達が高校生であるなどとは考えていないであろう二人の会話。醍醐達は苦笑するしかないが、京一はぶちぶちと文句を言う。

「なんでェなんでェ。株だの金だのだって、ギャンブルみてェなもんじゃねェかよォ」

 次の瞬間、京一は炎のような殺気と氷のような殺気を感じて硬直した。言うまでもなく、龍麻と如月の殺気であった。

「…そのような安易で安直な考えの持ち主が、昨今の経済破綻を招いたのだ…」

「…投資はギャンブルとは違うんだよ。蓬莱寺君。今の君のように、損失を自分の責任で処理しない人種で溢れ返っているのはとても哀しい事だね」

 またしても地雷を踏んでしまう京一。この寒空の下、京一は二人の高校生個人投資家(!)によって、バブル崩壊の原因から住専問題、尽く失敗する経済改革の問題点に至るまで、延々とハイブロウなお説教を聞かされる羽目になったのであった。

「…なあ、俺サマの出番って、これだけ?」

「う〜ん…多分ね」

 蚊帳の外に置かれてしまった仲間達は、そんな謎の会話を交していたという。

















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