
第壱拾七話 魔獣行 後編 4
「――おっと、こいつは凄ェ」
一歩、公園の敷地内に足を踏み入れただけで、襲い掛かってきた妖気の濃さに京一が不敵な声を上げた。
「ああ、解る。これほど凄まじいのは、等々力での決戦以来だな」
「ウン。本当に一筋縄じゃ行かないね」
「強い…哀しみと痛みを感じるわ…。凄く…凄くたくさんの苦しみが伝わってくる…」
それぞれ感想めいた事を言い、一同はさやか、霧島、劉を振り返る。
「三人とも、大丈夫?」
「わいは平気や。慣れてるさかいに。せやけどこの妖気…ただ事やないなァ」
まだどこかに人目もあろうが、既に劉は青龍刀を抜いていた。油断なく周囲に視線を走らせる。
「僕も大丈夫ですッ! 行けます!」
「私もです」
やや緊張の感はあるものの、さやかも霧島も大丈夫のようだ。一同は互いに肯き合い、京一と醍醐を先頭に歩き出した。
噴水周辺、公園への入り口、植木と花壇の配置、エトセトラ、エトセトラ…。戦闘に際して必要になる情報を、京一も醍醐も目を通して吸収して行く。それらを有効に使うも不利にするも、全ては状況次第だ。
そして一同は、何かの集会のように集まっている【憑き物】の大軍と向かい合った。
「…ほう? テメエら、無事だったのかよ。少々テメエらの【力】とやらを見くびっていたかもなァ」
龍麻の分析通り、【憑き物】の群れが左右に割れ、杖らしいものを手にした、とことんくたびれた学生服を身に纏った男が進み出た。やたらと額が広く、赤く染めた髪を横向きに撫で付けているのは、やはり若禿を隠すために躍起になっているようだ。
「…オッサンだな」
「…オッサンだね」
「…禿げてますね。本当に…」
「…龍麻さん…なんで解るんです?」
「なんや、空恐ろしいわ」
とりあえずコソコソと喋っている一同に、葵が釘を刺す。
「みんな、お喋り中止」
そして、醍醐が一歩前に進み出た。
「お前が火怒呂か?」
周囲には無数の動物霊。龍麻の分析通り、おかしな具合に後退した頭を伸ばした髪で懸命に隠した妙なヘアスタイル。しわがしわを呼んでくたびれ果てた学生服。不健康に白い肌に、嫌われる為に存在しているかのような目つきの悪さ。――確認するまでもなく、この男が火怒呂だ。醍醐が声をかけたのは、挑発の布石である。
「ククク…そうよッ! この俺が希代の憑依師――火怒呂丑光様よッ!」
何と言うか、声までが甲高くて不快だ。
「改めて聞かされると、本当に変な名前ッ。――ひょっとして何かのシャレかな? ひどい事ばっかりするから火怒呂とか」
「霊を操るんだから、【ヒュ〜ドロドロ】から来てるんじゃねェのか?」
「あ! 言えますねッ、それ!」
すかさず入れた挑発に、もう見事なくらい火怒呂は乗ってきた。
「何だァ、テメエら! 馬鹿にしやがって!」
「ツッコミどころが多すぎるのが悪いやん」
劉も楽しげに挑発に加わる。彼の口調では馬鹿にしているようには聞こえないのだが、本当にただのチンピラでしかない火怒呂はすぐに頭に血を昇らせた。
「何がツッコミどころだ! ――俺様はただ、人間の本性を引き出してやっただけだぜ? その後そいつが何をやろうと、全部そいつが本心でやりたがってた事だ。テメエらが会った連中も、あの帯脇とかいう馬鹿もそうさ。人間は誰しも、獣の性を秘めている。それを下らねェ理性やら何やらで縛り付け、自分に嘘を付いていやがるッ。だから俺は、そいつらを正直者にしてやったのさ。まあ、あの帯脇って馬鹿は蛇としての素が弱かったから、せっかく憑けてやった大蛇の霊力を無駄にしやがったがなァ」
「やっぱりお前の仕業かッ!」
霧島が怒りの表情で前に出る。京一が一瞬彼を見たが、怒りがポーズだと悟るとにやりと笑い、視線を戻す。
「そのせいでさやかちゃんは散々な目に…! 帯脇だってお前さえいなければ、あそこまで酷い事にはならなかった筈だッ!」
「酷い? ヒドイだとォ!? 本能のままに生きられるって事のどこが酷いッ!?」
何がおかしいのか、火怒呂はげひゃひゃと下品な笑い声を立てた。それに連れて火怒呂の全身から赤いオーラが吹き出す。【中の下レベル】…やはり雑魚と京一は判断した。厄介なのは、動物霊を相手に憑ける能力だけだと。
「もうすぐ…もうすぐこの世は終末を迎えるんだぜェ。生き残りたけりゃ、獣の性を取り戻すしかねェ。殺し、奪い、犯す、修羅のみが生きられる素晴らしき混沌の御世。そして、その王となるのが、この俺様よ!」
何とまあ、程度の低い妄想であろうか? 不謹慎ではあるが、唐栖や水岐の方がまだ数段マシである。彼らは少なくとも、【力】に魅入られたり鬼道衆に付け入れられたりする程度には、悩み、苦しみ、ただ結論のみを間違えてしまったのだから。
だが、京一たちが呆れ果てたのとは対照的に、とてつもない殺気を放った者がいる。――劉だ。
「――あんさん、そないなコト、誰に吹き込まれたんや?」
「劉…!?」
その鋭い眼光。立ち昇る鬼気――。まるで、初めて【ナンバー9】を目覚めさせた時の龍麻であった。威圧するように全身から放射されたオーラは、【活剄】を使った時のような神聖な輝きを持たず、ただ激しく燃え盛っていた。そしてその色は…やや紫に近かった。いつ【陰気】に転じてもおかしくないオーラ…。
「そないに馬鹿げた事を吹き込んだ奴はどこにおるんや! はよ白状せんと、耳の穴から手ェ突っ込んで、奥歯ァガタガタ言わせたるでッ!!」
言葉だけならば関西系お笑いの脅し文句だ。しかし、今の劉の口から出ると、それは凄まじい抹殺宣言にすら聞こえた。そのあまりの変貌ぶりに、京一たちは焦る。
(なんなの!? 劉君の中で凄まじい哀しみと怒りが渦巻いている…! でも…見据えているのは火怒呂じゃない…。もっと…別の誰か…!?)
葵が彼のオーラを読んだ時、劉は青龍刀をすらりと抜き放った。ギラリ! と光った刀身は、劉の殺気そのものが光ったかに見えた。
「白状せんのやら、嫌でも唄わしたるわ…! ――覚悟せェッッ!!」
龍麻にも匹敵しかねない、突風のように放たれた劉の殺気! それに吹き飛ばされるように火怒呂は下がった。そうしなければ、殺気だけで殺されそうだった。
「くッ! こ、この世界の王になるのは俺様だッ!! 誰にも邪魔させねェェッ!!」
どう聞いても負け惜しみにしか聞こえぬ奇声を張り上げ、火怒呂は【憑き物】の群れの中に逃げ込んだ。――彼に言わせれば、それこそ【本能】のままに。
「逃がすかいッ、ワレェッッ!! ――【螺旋掌】ォォッ!!」
龍麻のそれよりも更に攻撃的な劉の【螺旋掌】! 火怒呂を守るように群れ集った【憑き物】が十数名まとめて吹き飛ばされた。まったく加減しない一撃。直撃を受けた何人かは四肢をでたらめにへし折られ、子供の癇癪に触れた人形のように地面に転がった。【憑き物】でなければ即死必至の一撃であった。
「バカヤロオッ!! ――劉ッ! なにやってやがるッッ!!」
物凄い勢いで飛び出して行こうとする劉を、タッチの差で京一と醍醐が止める。
「じゃかましゃぁぁっ!! あいつが――あいつがおるんやァッ!! あの外道を――ぶち殺したるんやァァッッ!!」
「――チッ!!」
劉を醍醐に羽交い締めにさせ、京一がボディーブローを一発! 劉が呻き、殺気を止める。
「諸羽ァ! ぶちかませッ!!」
「はいッ! ――【剣掌・旋】ッッ!!」
現時点で霧島が操り得る最大奥義。威力はまだ京一には及ばぬものの、群れ集ってきた【憑き物】は地面に叩き付けられ、薙ぎ倒され、その目を塞がれた。
「今だ! 逃げろッ!!」
劉の暴走で弱冠のピンチはあったものの、計画通りさっさと逃げ出す一同。劉の【螺旋掌】と霧島の【剣掌・旋】をくらって動揺したらしい【憑き物】たちも、倒れた仲間を踏み越えて彼らを追い始めた。
「劉! テメエ! 段取りを無視するんじゃねェ!」
「――えろうすんまへん。――つい夢中になって本気になってしもうてん」
「もうッ! 次は気を付けてよねッ!」
「ははは…。ほんま、堪忍なァ」
一同と共に走りながら、両手を合わせる劉に、小蒔は苦笑する。とりあえず窮地に陥らずに済んだのだから、それで良しとしなければ。
しかし葵だけは、劉の言動と殺気が本物である事を見抜いていた。
「――やはり、訳ありか」
手筈通り動かなかった仲間たちを、龍麻は長髪とコートの裾を風に弄ばれつつ、火怒呂の探知能力範囲外…遥かな高みから見下ろしていた。
劉は何か隠している。龍麻は劉の事情に関知しないつもりだが、仲間を危険に晒す事だけは止めねばならない。だからこそ、こうやっていつでも支援できる体制を取っていた。対火怒呂戦の最終プラン、遠距離からのグレネードによる無差別砲撃も辞さない準備をしていたが、京一の機転で切り抜けたようだ。そして計画通り、公園内からほぼ全部の【憑き物】が京一たちを追って出て行った。やはり計画外の攻撃が火怒呂にショックを与えた為だろう。
このあと京一たちは階段通りを駆け上がり、文化会館入り口突入後に入り口を閉鎖、地下を通ってサンシャイン60の玄関から脱出する。一見子供だましの陽動作戦だが、人間的な知能が確実に低下している【憑き物】には充分だ。
そしてその間は――自分の出番だ。龍麻はすっと立ち上がった。地上二四〇メートル。サンシャイン60屋上展望台の【縁】に。火怒呂の探知能力をかわし、一気に接近できる、最も意表を突く場所に。
「――良い子は真似しないように」
果たして誰に向けたものか、一言呟き、龍麻は思い切り良く空中に身を躍らせた。
「ハアッ…ハアッ…! ――なんなんだ、あいつは…!」
噴水の縁に身を凭せ掛け、火怒呂は額に浮いた生温い汗を拭った。
これほどの恐怖は、かつて味わった事がない。たった十七年。それも負け続けの人生…。その中でさえ、身体の奥底から込み上げてくるような恐怖を感じた事はない。餓鬼大将に殴られ続け、中学でも苛めに遭い、高校に入ってからも不良どもに殴られ、金を巻き上げられ、単なる憂さ晴らしの道具にされても、さっさと白旗を上げる事によってそれ以上の恐怖や痛い思いを回避してきたのだ。【火怒呂】の家系のせいでもあるまいが、彼はずるく立ち回る事にかけては天才的であった。
「クソ…! あいつら…絶対にぶっ殺してやる…!」
この世界の王になるのは自分だ。この【杖】があれば、ありとあらゆる霊を操る事ができると【あの男】は言った。それは【火怒呂】の家系に連なる自分だけにできる技だと。奪われたものがあるなら奪い返せ。誰かを消したいのならば殺せ――。【あの男】はそう言った。自分には、その資格があるのだと。間もなく終わりを迎えるこの世にあって、来るべき次代の覇者となるのが、自分の宿命だと。
「俺は世界の王になるんだ…! そうともっ! 俺こそが王だ…!」
ぶつぶつと呪文のようにその言葉を繰り返し、火怒呂は杖を噴水の中に挿し入れた。
霊は水に集まると言う――それが真実かどうかは定かではないが、霊はこの噴水から飛ばす事ができるのだ。火怒呂は杖で水を掻きまわし始めた。【強き怨念よ。我に従え】と唱えながら。
しかし――
「ッッッ!!」
彼の警戒ラインを、ほとんど真上からミサイルのようなものがぶち抜き、火怒呂は頭上を振り仰いだ。落下してくる人影を、一瞬、自殺者かと見紛う。だがここは、サンシャイン60からもプリンスホテルからも、【階段通り】を挟んで三〇メートルから離れている場所なのだ。
バッ! と黒コートが翻った。黒い翼を持つ天使がいるとすれば、正に【それ】であった。グン! と減速し、何もない虚空を漂う黒衣の青年――黒衣の堕天使…そんな、火怒呂の感性に似合わぬ言葉を連想させたのは、真神の少尉殿、緋勇龍麻であった。
「悪ふざけは終わりだ」
すっと伸びた左手からワイヤーが走り、一瞬にして火怒呂の手から杖を掠め取る。【それ】が、火怒呂が【力】を使用する為の媒介物だ。大きな鈴と紙飾りの付いた錫杖を一挙動でへし折る龍麻。
「ててて…テメエッッ!!」
【敵】のとんでもない登場に動揺し、派手にうろたえる火怒呂。唯一絶対の武器を破壊され、もはや火怒呂には打つ手がない。彼の【力】はすべて【杖】が制御していたので、彼一人では霊を見る事も感じる事もできないのであった。その彼の顔面を、手加減一切なしの龍麻の掌打が張り飛ばした。それだけに留めたのは、無論、背後にいるものの情報を得る為である。
「任務完了――」
龍麻がそう呟いた瞬間であった。
「――ッッ!!」
突如、龍麻でさえまったく何も感じられなかったと言うのに、彼の周囲を電撃の帯が走りぬけた。すんでのところで飛び退く龍麻。しかし稲妻は彼の周囲を巡り、噴水に火花を走らせ、彼の周囲を深紅の【気】で満たす。これは――結界!?
「――なんだ、これはッ!!?」
次の瞬間、噴水に湛えられていた水が鮮血と変わって立ち上がり、龍麻をその波涛に呑み込んだ。なす術もなく血の波に翻弄され、龍麻は見た。周囲を満たす鮮血に生じた、無数の亡者の顔を!
【暗い…冷たい…】
【苦しい…痛い…】
【死にたくない…死にたくない!!】
【苦しい…恨めしい…!】
【殺してやる…殺してやる! 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるゥゥゥッ!!】
(怨みと憎しみ…。お前たちの無念は解る。せめて、静かに眠…――ッッ!?)
龍麻が亡者を振り切ろうと、両手に【気】を込めた時であった。
――目醒めよ
結界が作動した時と同様、何の力も脈動も感じさせぬまま、サンシャイン60の屋上から放たれた稲妻が彼を直撃した。
「グオオオォォォォォォッッッ!!!」
龍麻の咆哮が闇夜を圧する。周囲の木立が、ベンチが、花壇がぱっと深紅の炎を散らし、東池袋中央公園そのものを真っ赤に染め上げる。いや、炎ではない。これはすべて、陰気を纏う【鬼火】であった。だが、真に恐るべき事態は、次の瞬間に起こった。サンシャイン60屋上と龍麻を結ぶ深紅の稲妻が、池袋全体を覆う暗雲を真っ赤に輝かせ、そこから竜巻が降りてきて公園を直撃したのである。正確には、そこにいた龍麻を。赤い輝きの一つ一つ…それらはすべて、恨めし気に咆哮する亡者の顔を持っていた。
――同時刻、龍山邸
「――ッ! ――ジジイ!」
縁側で月を愛でながら酒を呑んでいた青年が鋭い声を上げた。
「むう…! 天が哭いておる…! ――龍麻よ! 無事でおれ…!」
――同時刻、新宿中央公園
ベンチに横になっていた禿頭の老人がガバッと身を起こして天を振り仰いだ。
「…何が起こりやがった!? いや、起こしやがったと言うべきか? あのヤロウ…とうとう…!」
――同時刻、東京にあって東京でない場所
「――ッッ!」
どことも知れぬ豪奢な屋敷の中で、青年が絵筆を取り落とした。彼が様々な色彩を置いて行くべき白いキャンバスは、真っ赤に染まって血の滴を滴らせた。
「――様ッ!?」
青年の傍らにいた着物を纏った女性が声を上げる。
「大丈夫です。――すぐに二人を呼んでください」
「――もう来ているぜ」
襖が開き、柄の悪そうな男と、端整な顔立ちの青年が顔を出す。
「空が憎しみに染まっています。ですが星は…未だ時を告げてはおらぬ筈ですが」
「はい…。ですが、何者かが星の運行を変えた模様です。すぐに――!」
しかし青年は、ぐらっとよろめいて倒れそうになる。着物姿の女性が素早く支えて事無きを得たが、その顔は灯明の明かりの中でも青白い。
「まだです…! まだ、目覚めさせてはなりません…! すぐに【彼】と接触する用意を…!」
「それは無理です。我々もまだ動けません。我々の【時】もまた、満ちておらぬのです」
パチン! と扇子が鳴る。端整な顔立ちの青年は薄い微笑を崩していなかったが、扇子のきしむ音が彼の焦りを代弁していた。
「――なんだコリャあッッ!!?」
作戦通り公園入り口に舞い戻ってきた京一たちは、その光景を目にしてしまった。巨大な竜巻の先端…そこにある巨大な血色の人面が龍麻を咥え込むのを!
「い、嫌ァァァァァッッッ―――――ッッ!!」
半狂乱になって叫ぶ葵。全身を覆う青白いオーラが炎の如く燃え盛る。小蒔とさやかが彼女を支えようとしたが、葵はその手を振り払って後じさり、ビルの壁に背中が付いてしまってもまだ下がろうとした。
「どうしたのッ! これって、なんなのさッ!!?」
「解らねェッ! だが――ッ!!」
竜巻から吹っ飛んできた血色の塊を木刀で打ち落とす京一。が、それは切り裂かれると二つに分裂し、再度京一を襲った。
「な、なんだコイツゥッ!!」
京一が見たのは、赤い塊の表面に浮き出た、恨めし気な亡者の顔であった。
「【活剄】ッ!!」
ぎりぎりのところで劉の剣が赤い塊を両断し、浄化する。
「あかんであれは! なんや知らんが物凄い数の怨霊が天から降ってきとる! ――みんな! わいの後ろへ廻るんやッ!!」
空中に紙片――符呪を撒き散らし、素早く呪文を唱える劉。あらゆる魔物を退ける結界が働き、竜巻から弾き飛ばされてきた無数の怨霊は歯噛みしながら竜巻へと戻って行く。その奥から聞こえてくるのは、確かに龍麻の咆哮であった。
「龍麻ァッッ!!」
「龍麻さんッ!!」
京一たちが叫ぶが、龍麻の姿はまったく見えない。何が起こっているのかさえ理解できないのだ。
「劉! これは一体、何が起こっているんだ!?」
「わいにもわからへん! なんや、どこかから大量の怨霊がここに送り込まれとるんや! アニキは…アニキはその怨霊の群れに呑まれてしもてんねん!」
「なんだと…!」
その時である。通りの向こうの方から、犬の鳴き声と共に見知った者の声がいくつも届いてきた。
「京一! 醍醐サン!」
「みんな! 無事かッ!!」
バイクを駆って駆けつけたのは雨紋とアラン、その後ろには紫暮と如月が乗っている。犬は亜里沙の愛犬エルだ。その飼い主、亜里沙は勿論、裏密、高見沢、織部姉妹。マリィにコスモレンジャーまで、【神威】たちが勢揃いしていた。
「お前たち…どうしてここに!?」
「話は後〜、ひーちゃ〜んはどこ〜!?」
「龍麻は…あそこに…!」
醍醐の手が公園内を指差す。もうそこは天にまで届く巨大な血色の竜巻に覆われ、毒々しい【陰気】を街中からかき集めていた。
「遅かった…のね」
裏密の口調から、間延びした調子が消える。彼女がこれをやる時は、真の危機にある時だ。
「どういう事だよッ! 裏密ッ!!」
すでに男性陣は前面に展開し、竜巻から弾き飛ばされてくる亡者を相手にしている。通常の攻撃はまったく効果がないが、【気】を込めた一撃ならば辛うじて消滅させられる。だが数が多すぎる!
「あれこそ豊島区に渦巻く…いいえ、処刑された戦犯のみならず、かつての戦争で散って行った者たちの怨念そのものよ」
「な…に…!?」
「この数日、ひーちゃんに関わる全ての事象が占いに出なくなったの。そしてやっと出てきたのが、【大いなる大地の力の発現】。但しそれは、決して目覚めてはならない筈の力。それが、ひーちゃんの【力】の正体」
それはまさか、龍麻のV−MAX!? 裏密が探っていたのは、その正体だったというのか!?
「桜ヶ丘でもぉ、嵯峨野君やトニー君たちが大声で呻き出したのぉ。ダーリンが危ないってぇ〜。それで、みんなに連絡を取ったら〜」
「ウチではエルが凄い吠え方をして、首輪を外した途端に走り出したんだよ。まるで付いて来いって言ってるみたいだったから急いで追いかけたんだけど、そうしたら途中でみんなに会ったんだよッ」
雨紋やアランは得物が突然鳴り出し、何かあったと悟ったという。他の者もおおむね同様だ。紫暮は耐え難い胸騒ぎを覚えていたところに高見沢から連絡を受け、マリィはメフィストが騒ぎ出し、一緒にいたコスモレンジャーたちと池袋を目指したのだという。織部姉妹に至っては、以前にも龍麻に話した神宝の刀がひとりでに鞘から抜け出て池袋を指し、如月は商品の遁甲盤が一斉に【陰気】を放った事から異変を感じ取ったという。
だが、辿り着いた時には、既に事は起こってしまっていたのだ。
「恐らくあの中では、ひーちゃんが大戦で死に、苦しんだ者たち全ての怨霊と戦っているわ。いくらひーちゃんでも、一人だけでは勝てない」
「そんなッ! どうすればいいんですかッ!?」
霧島が怨霊を切り伏せながら、絶望的な声を上げる。【神威】たちがそれぞれ龍麻の危機を察して勢揃いした事は心強いが、事が起こってしまった今では怨霊の群れに呑み込まれないようにするだけで精一杯なのである。
「――わいに任しときッ!」
京一たちの目が劉一人に注がれた。そして、彼を知らぬ者たちの目も向けられる。
「わいかて伊達に修行は積んどらん。――あないになってしもたアニキを何とかできるんは、恐らくわい一人だけや。今のアニキは精神を怨霊に食われまいと必死で戦うてる筈。――わいがあの怨霊どもを切り開くさかい! 京一はんらはアニキをあの結界から引っ張り出すんや!」
「おッ、おい! 劉!」
返事を待たず、劉は結界を解いた。公園内に留まれずに弾き出されていた怨霊が向かってくるのを、劉は華麗に剣を舞わせて叩き斬る。
「ええか! チャンスは一度しかないで!」
「お、応ッ! ――如月! 黒埼も来い!」
京一と如月と黒崎と、メンバーの中でもトップクラスのスピードを誇る【神威】が劉の背後に付く。
(アニキ…アニキをこんなところで死なせはせんて…。わいはこの街でやらにゃならん事があるさかい…。けんど…アニキを失う訳にはいかんのや!)
「ほな、いっくで――ッッ!」
だが、劉が剣に【気】を込め始めた時である。彼らの作戦に異を唱える声が上がった。
「お待ちください! あの怨霊を断つだけでは、龍麻様を救う事はできません!」
「な、なんやて!?」
雛乃の言葉を、裏密が肯定する。
「もうひーちゃんの中には、無数の怨霊が取り憑いているわ。そのまま引っ張り出しても、次から次へと取り憑かれるだけ」
「ダーリンが自分から怨霊を引き剥がそうとしないとぉ、みんな離れないんだよぉ」
その時、がたがた震えていた葵が声を上げた。
「待って…それじゃあれは…龍麻が呼んだっていうの…?」
「な、何ィッ!!?」
これには一斉に雨紋たちも反発した。
「ちょっと待ってくれよ高見沢サン! 龍麻サンが、まさかそんなッッ!!」
「龍麻が敵と廻った者に屈するなどありえまいが!」
「いや、あり得るかも知れない! 今の龍麻君ならば…!」
如月が異を唱え、アランが首肯する。ある意味、最も龍麻に近い二人だ。
「どういう事だよッ!?」
「――この怨霊は先の大戦で死んだ者たちだ。そして龍麻は元軍人。つまり――そういう事だ!」
「――軍人だからこそ、怨みの対象に選ばれたって事!? そんな…そんな馬鹿な話があるかいッ! 龍麻はねェ、世界中で他人の為に戦ってきたんだよッ!?」
「アリサ…それは皆、同じ事だヨ…」
アランが彼らしからぬ沈んだ声で言う。
「僕たち軍人は、国の為、家族の為、愛する者の為に戦う。そう信じなければ、戦えない。だけどここに眠っているのは、そう信じて戦ったのに、それに裏切られた人たちネ。――ベトナム戦争の時も同じ事があったヨ。徴兵期間、懸命に国の為に戦って、カレンダーにバツ印を付けながら帰る日を夢見て、生き残って、やっと帰ってきたら、空港でニコニコ笑って迎えてくれた女の子たちのプレゼントの中に、犬の糞が入ってたなんて事が」
「……ッッ!」
「同じ境遇に立った事のある龍麻君が、彼らに一瞬でも同情しなかったと言えるのかい? 彼はもう、マシンソルジャー・ナンバー9じゃない! 人間なんだよ! だが――逆の場合すらあるんだ!」
裏密は警告していた。【憑依師と戦う時は平常心】――京一たちはそれを忘れ、戦いに際して高揚した精神の隙を霊に付け入れられた。だが龍麻は逆に、国の為に散った者に対して僅かに抱いた情を突かれてしまったのだ。
これまでの龍麻は、特にナンバー9が起動した時などは一切の人間的感情を排除するから、精神的な攻撃などまるで無意味だったに違いない――否、それこそ大きな間違いかも知れない。
霊に対抗する為には、強靭な精神力が必要とされる。平常心を保つ事も。だが、もしも龍麻が圧倒的な怨霊に対抗する為に戦闘知性体を起動させようとしたら? 人間的感情を持たぬ、戦闘マシンと化したら? ――温かい血肉を持ちながら精神を持たぬ戦闘知性体、ナンバー9…それはもしかして、怨霊どもの格好の獲物だったのでは…!?
「もしそれが正しければ…龍麻はもう…完全に乗っ取られて…いる…?」
【常に最悪の事態をも考慮に入れろ】――龍麻が常々言い続けていた事が、こんな形で再現されるとは!? 葵の声はこれ以上ないくらいに震えていた。
「そんな事あるか! あいつは! 龍麻は! そんな弱い男じゃねェッ!!」
「――その通りや、京一はん。アニキはそんな、弱い人間やない。――聞いてみ」
劉が注意を促す。耳をそばだてた全員の耳に、龍麻の咆哮が聞こえた。
「アニキはまだ戦うてる! まだ負けてないんや!」
「し、しかし何か方法があるのかッ!?」
全員が顔を見合わせる。怨霊の竜巻を制し、龍麻を救助、その精神まで救助する方法…。果たしてそんなものが存在するのか…?
裏密と高見沢が揃って手を上げた。
「私がぁ、ダーリンの精神に入りますぅ」
「――なんだって!?」
「私と高見沢さんの術を合わせれば、ひーちゃんの中に入り込もうとしている霊と同調できるわ。恐らくひーちゃんは霊の海に呑み込まれている。そこから引き戻さない限り、ひーちゃんは目覚めないわ」
「…危険はないのか?」
「……」
「裏密! 高見沢!」
醍醐が一喝すると、この二人からは想像もできない怒声が返ってきた。
「「他に方法があるなら教えてッ!」」
他人の精神の中に入る…それがどれほど恐ろしく、危険な事か。魔術に携わる者ならば、精神医療に携わる者ならば誰でも知っている。
人の精神とは、時に宇宙と表現される。心が【狭い】とか【広い】というのは、決して言葉のあやではないのだ。人間は機能限定された脳を使用して日常生活を送り、勉強し、情報を蓄えている。そして時に【無】から【有】を生み出す【想像力】を働かせる。人の精神は、正に宇宙のごとき創造と破壊のエネルギーに満ちた領域なのである。
龍麻は恐らく、怨霊によって肉体を奪われ、精神を汚染された状態にあるだろう。あるいは自我を深層意識に沈められ、閉じ込められているかも知れない。その最深部にまで侵入されたら、緋勇龍麻という人間はこの世から抹消される。彼の自我は分解され、怨霊といびつに融合し、異常な魂の持ち主と成り果てるのだ。例えば――【深きものども】のような。
「――やるしかないで、皆はん」
劉が剣を一振りした。
「幸いここには、【四神】を宿星に持つお人らもおる。皆、強いお人らや。わいらの【力】を合わせれば、できん事なんかあらへん。――みんな、わいの言う通りにしてくれへんか?」
彼を知らない【神威】たちは揃って劉を見る。この大事な局面に、初対面の相手を信用できるだろうか? どの目もそう言っていた。
「良いぜ、劉! お前に任せた!」
こんな時、最もポジティブな男が叫ぶ。
「俺達はどうすりゃいい? 早いトコ頼むぜ!」
「応ッ! そうだな! 京一がそう言うなら、オレも信用するぜッ!」
怪しい関西弁を話す奴…と、劉を一番疑いの目で見ていた雪乃が声を上げた事で、仲間たち全員の声が揃う。
「解った。君に任せる!」
「うむ! なんでも言ってくれ!」
一斉に、それこそ詰め寄られて劉はうろたえる。
「な、なんや! そないに凄まんといて! ――そやな…まず京一はんと霧島はんはわいと一緒にあの竜巻を斬るんやッ!」
劉の作戦はこうだった。
まず京一と劉、霧島が同時に剣による【発剄】を叩き付けて竜巻を切断する。
その隙を突き、裏密と高見沢が技を発動。高見沢が龍麻の精神に侵入する。葵、さやか、雛乃が方陣技を発動し、怨霊の動きを封じ、脱出路を固定する。この護衛として紫暮と雪乃が付く。
【四神】を担う者はそれぞれの方位に散り、龍麻を救出すると同時に方陣技を発動できるように待機。タイミングを外さない為にそれぞれ護衛の者が付く。小蒔、亜里沙、雨紋、コスモレンジャーだ。
「――ざっとこんなトコやな」
「上出来だ。――行くぜッ!」
『応ッ!!』
「破ッッ!!」
この世のどことも知れぬ、赤一色に染まった世界で龍麻は戦っていた。
自分が今、どこにいるのかさえ解らない。遥か天空から赤い稲妻に胸を貫かれた事までは覚えているのだが、そこから先が曖昧だ。天も地も真っ赤に染まった世界。足元を埋め尽くすどぶ泥のごときぬめりは、全て血と臓物であった。京都で魔道士プレラーティにより引きずり込まれた亜空間【黒い島】と似て、しかしそれだけではない。血の海から伸びた手が、腸が、龍麻をその血泥の中へと引きずり込もうとする。
【苦しい…】
【痛い…】
【死にたくない…】
【助けて…】
それらはすべて、既に死に果てた亡者であった。もはや個々の顔さえ定かではない、血のぬめりで作られた人体。それらがヨロヨロと、あるいは血を跳ね散らしながら這い進んでくる。――彼らは決して、敵対している訳ではなかった。ただ助けを求め、すがり付いてくるのである。死んでしまった痛み、苦しみに慟哭しながら。僅かでも温もりを求め、擦り寄ってきているのだ。
だが、それは龍麻には…
「ぐうう…ッッ!」
溺れる者は藁をも掴むという。そして、救助に向かった者にさえ無闇にしがみ付き、共に溺れてしまう事も。――今の龍麻が正にそれであった。彼らにすがり付かれる度に、龍麻の肉体は熱を奪われ、生命力を削ぎ取られる。その瞬間に走るなんとも言えぬおぞましさ。もし龍麻が元マシンソルジャーでなかったら、最初の数人分で発狂していてもおかしくなかった。皮肉にも霊の侵入を許してしまったナンバー9の意識が、【ここ】では龍麻の精神を正常に保たせているのである。
「ぬああァァァッッ!!」
顔面を覆う血まみれの手を剥ぎ取り、足に絡みつく腸を引き千切り、龍麻は気を発して亡者の群れを弾き飛ばした。だが亡者たちが跳ね飛ばされたのはほんの一時の事に過ぎず、砕け散った亡者は血の海に溶け、新たな亡者として立ち上がってくる。龍麻の立っている丘の頂上は、見渡す限り数万数十万の亡者の群れで埋まっていた。
「【秘拳・鳳凰】…ッッ!」
徒手空拳【陽】の最大奥義が炸裂する。強烈な【光】の照射に一瞬にして数十数百の亡者が消滅したが、それは大海をコップで汲むような行為であった。絶望や諦観とは無縁の彼でも、この状況は打破できない。焦燥感が彼の胸を焼く。平常心など保っていられない。
そこに、巨大な気配が背後に膨れ上がった。
「ッッ!!」
振り返り様、発剄を叩き付けようとする龍麻! しかし、そこにいたのはただの亡者ではなかった。巨大な獣…地球上で最大の陸上動物、象であった。
なぜこんな所に象が!? しかし視線を素早く左右に走らせた龍麻の視界には、象のみならず虎やライオン、サイやキリン、カバなどの野生動物が無数に混じっていたのである。
束の間の疑念が龍麻に躊躇させた瞬間、ふわ、という感じで象の鼻が龍麻の顔面を襲った。
「――ッッ!!」
象の鼻そのものは霊体に過ぎぬ為か、何の抵抗もなく龍麻の顔面を行き過ぎる。だがその瞬間が龍麻にとって致命的であった。
「こいつらは…ッ!」
絶対的な機械の意思をゼロコンマのレベルで失った龍麻の脳裏に、猛獣たちの怒りと哀しみの感情が流れ込み、ある光景をフラッシュバックさせたのだ。
一九四五年五月、敗戦色が濃厚になった軍部により、最も愚かな命令が下された。
【本土決戦に備え、国民は女、子供、老人に至るまで決起奮闘せよ。また、米国の爆撃に備え、全国に現存する全ての猛獣を処分せよ】
――この猛獣たちは、その時に犠牲になったものたちであった。
人間の都合で棲み家から引き離され、檻に閉じ込められ、しかし僅かばかりの幸福を飼育係との交流に見出していた猛獣たち。それが、同じ人間が起こした下らぬ争いに巻き込まれ、死ぬ事を強要された。上野で、名古屋で、大阪で…全国各地で数十頭に及ぶ象が、虎が、ライオンが、ヒョウが薬殺処分され、あるものは餓死させられた。大人しいと言われるキリンやシマウマ、カバやサイなどの草食動物に至るまで、【処分】の対象になったのだ。
決して望まぬ地での生活を強いられ、しかし人々に愛され、同じ人々によって殺される理不尽。動物たちに人間の都合などどうして理解できよう?
そして…龍麻は…!
「ぐっ…うっ…うおおおァァァァァァッッッ!!」
一瞬の油断が命取り――果たしてそう言っていいものか? 龍麻が機械の意思を失った瞬間、動物が動物である故に純粋な怒りと哀しみを数百倍の濃度で叩き込まれたのである。そして龍麻の精神は――実は幼い子供とほとんど変わらなかったのだ。戦闘知性体ナンバー9が人間・緋勇龍麻に思慮深さと先見性、高度な判断力を与え、育ち始めの幼い好奇心があらゆる物に興味を抱かせた。そして――彼は哀しみを意識しない。だがそれは、【哀しみ】をエラーと判断して表面に出させなかっただけで、彼の人間部分はいつも悲鳴を上げていたのだ。
理不尽に殺された者が持つ怒りと哀しみ。龍麻の精神は一瞬にして脆弱な自我の防壁を打ち砕かれた。途端に怒涛の如く襲いかかってくる亡者の群れ! 人間も動物も関係なかった。全てが龍麻に襲い掛かり――否、救いを求め、己の哀しみを、怒りを、憎しみを彼にぶつける。【彼】だけがそれを受け止められると解っているかのように。しかし龍麻には、そんな【力】はない…いや、【認識】していないのであった。
龍麻は咆哮した。魂からの慟哭であった。その両眼から…光を失った左眼からも涙が――血の涙が溢れた。全身の血が流れ出してしまうのではないかという勢いで血涙を流し、龍麻は絶叫した。ミッドウェーで、ガダルカナルで、ミンダナオで玉砕した将兵。中立条約を一方的に破棄されて虐殺された満州開拓民。シベリアに抑留された果てに死んで行った将兵。東京大空襲で、広島・長崎への原爆投下で死んだ非戦闘員。炎で焼かれ、煙に巻かれ、銃弾を浴びせられ、渇きに苦しみ、寒さに凍え、病に苦しみ抜いて果てて行った数十万の人間たち。そしてその愚かな戦争に巻き込まれて死んで行った動物たち。それら数十数百万の怨念全てが緋勇龍麻という少年一人に叩き付けられたのである。万物の霊長を名乗る者が巻き起こす【死】の嵐に、龍麻はなす術もなく翻弄され、精神を引き裂かれた。
その時――
――目醒めよ
【あの声】が響いた。
――目醒めよ
だがそれは、本当にあの時の声か? 酷く韻にこもり、抗いがたい蟲惑的な響きを持つそれが?
――怒れ
咆哮する龍麻の目が、金色の光を噴き始める。
――憎め
全身から、炎のように【陰気】があふれ出る。深紅のオーラ――それは【陰】に魅入られたものの証! すがり付く亡者そのものが炎となって燃え盛るオーラは爆発的に膨れ上がり、龍麻の口元が吊り上り、牙が伸びてくる。
――殺せ
龍麻のコートが、制服が張り裂け、その下の皮膚に鱗のようなものが生じ始める。瞳が縦に潰れて爬虫類のそれとなる。肩甲骨の辺りが盛り上がり、翼のようなものまでが伸び始める。
――怒れ! 憎め! 殺せ! 思うが侭に壊せ! 思うが侭に食らえ! 全ては貴様の思いのまま! 生きとし生けるものに徒なす人類を抹殺しろ! それこそが貴様の使命! それこそが貴様の権利! この世界を創り出したるものよ! 目醒めよ――ッ!!
ぐわ…と龍麻が牙だらけの口を開いた。
「ころ…す…! ニンゲン…ころ…す…!!」
――目醒めよ! 黄り…
「ダーリン! 駄目ッ!!」
突如走った声が、完全に狂気と破壊の意思に飲み込まれようとした龍麻の意識を引き戻した。
【ウオオオォォォォ……!】
【ヒヒャァァァァァァァ………!】
青白い光が天空より降り注ぎ、亡者が悲鳴を上げる。何もかもが血色に染まった世界の中で、たった一つ青白い輝きを放つのは、虚空に浮遊する舞子であった。それはこのおぞましい世界にたった一つ現れた太陽のように、血色の暗黒を照らし出す。
「ダーリン! 【闇】に取り込まれたら駄目! この子達も助からない!」
舞子が必死で声を張り上げたが、龍麻の唸り声は止まらない。しかし彼の全身から炎のように沸き上がるオーラが、血の色から紫に、ほんの一瞬清浄な青白い光に転じる。
――おのれ、小娘が…!
なにものかの怒りの波動が、舞子を一瞬にして弾き飛ばした。亡者の海に叩き付けられ、血飛沫を立てた舞子の身体にも、生者の温もりを求める亡者の手が無数に絡み付く。
『高見沢さん! 接続を切るわ!』
裏密の声が舞子に届く。
「待って! ダーリンがまだ…!」
龍麻のオーラは激しく揺らいでいるものの、まだ濃い陰気を払拭できない。むしろ自我が僅かでも戻った為に、のた打ち回って苦しむ。龍麻の苦しみは数万数十万の【死】そのものの苦しみだ。常人ならば一瞬で発狂死する。
『もう限界! 戻って!』
次の瞬間、光のロープが舞子の身体を亡者の海から吊り上げた。しつこく絡み付いていた亡者たちも急激な加速に耐え切れずに亡者の海に落下して行く。だが、このままでは龍麻を助け出せない!
「お願い! ダーリンを助けて!」
龍麻の意識界から引き離される寸前、舞子はそこにいた巨大な気配に向かって有らん限りの【力】を注ぎ込んだ。
そして舞子は、赤一色の世界から消滅した。
――邪魔が入ったか。まあ良い。奴は既に…ッ!?
【声】が明らかに動揺した。
既に人の形を成していない龍麻の前に、白く輝く象が立ち、彼を守っているのであった。象の放つ温かい光を浴び、亡者たちは恐れおののき、龍麻から離れて行く。それにつれて龍麻はゆっくりと、【人】の形を取り戻して行った。その全身を覆うオーラも、やがて淡く青白いオーラへと変わって行く。亡者に食われ果てたかに思われた自我も、象の放つ優しいオーラによって汚染が浄化されたかのようだ。
「何が…起こった…!?」
龍麻が呻き声を搾り出すと、象はゆっくりと振り返った。
「…ッッ!」
彼をして圧倒される、神聖な輝き。その象は白い身体に、六本の牙を持っていた。その目は、たいていの象がそうであるように、優しい光を放って龍麻を映していた。
つい、と象の鼻が伸びた。
龍麻はビクッと肩を震わせたが、象はまるで握手を待つかのように鼻を揺らす。その意を悟り、龍麻は恐る恐る手を伸ばした。
「ッッ!!」
指先が鼻に触れた瞬間、来た。その象の記憶。人間に受けた仕打ち。象の怒りと哀しみが。いかに人間に愛され、その人間に裏切られ、そして、そして…
「――ッッ!?」
仮にそれが人間であったならば、その状況には決してありえない感情が、龍麻の魂を激しく揺さぶった。
「う…ああ…ッ!」
龍麻の両眼に澄んだ涙が浮かぶ。彼が知らぬ、否、知ろうとしていた感情が生み出す涙。それは彼の頬に張り付いた血を洗い流し、彼の心を熱く震わせた。それに伴い、炎のように激しくも酷く頼りなく揺らめいていた青白い【陽気】が、神々しいばかりの黄金へと変わって行く。それは周囲に満ちる禍々しい【陰気】をも吸い込み、光へと転じて散じていった。亡者達から苦しみの相が消え、静謐にして優しい顔立ちに変わって行く。
【人】にあらぬものより伝えられたもの。それは――【慈しみ】。
【彼】は【人】を怨んではいなかったのだ。
怨み、妬み、憎む――これらは全て、人だけが持つものだ。【彼】が自らを【死】に至らせた【人間】に抱いたものは、【怒り】と【哀しみ】、そして【憐れみ】であった。偉大にして誇り高い野生の生き物には、怨みも憎しみも遠いものだったのである。
「ウオオォォォァァァァ――ッッ!!」
龍麻は泣いた。――マシンソルジャーとして生きる事を余儀なくされてから、初めて、心の底から泣いた。失われた命の為に。理不尽に奪われた命の為に。そして、人や動物といった区別のない、命そのものの偉大さと優しさに。
人の心には必ず【陰】と【陽】があるという。それは何も人に限らず、この世の全て、森羅万象が全て【陰】と【陽】のバランスの上で成り立っている。――龍麻にはそれがなかった。【陰】のみなのか【陽】のみなのか、それさえも分からず、ただ、彼は人として余りに不完全であった。それが祖父の虐待によるものなのか、それともマシンソルジャーとしての訓練によるものか、原因は分からない。しかし最も強固に育てられた【ナンバー9】が彼の自我として存在し、不完全でありながら並の人間以上の能力を発揮してのけたのだ。
その未熟な自分自身を、龍麻は初めて知った。初めて向かい合った、弱い自分自身。【ナンバー9】がまったく干渉しない、生まれたての子供のような精神。殺人者としての自分にすら護ってもらわねばならない心。だがそこに、偉大にして誇り高い獣が【力】を注いでくれたのだ。【慈しみ】という【力】を。
それが、彼本来の【力】を呼び覚ました。V−MAXと呼称される、制御不可能だった【力】を。少なくとも彼は、その【力】の使い方の一部を知った。それは怨霊たちの【陰気】をも吸い込み、【陰気】とも【陽気】とも違う高次元のエネルギーへと変換する。
【陰】と【陽】の完全なる調和――即ち【太極】。
龍麻の真の【力】は【太極】の力であった。そして、そこに座すものの名は…
「オオオォォォォォ――ッッ!!」
勢い良く立ち上がり、龍麻は咆哮を上げた。
彼はもう泣いていなかった。両手を広げ、【力】を無制限に解放する。彼の放った黄金の光は赤一色に染まった世界を切り裂き、全てを目映いばかりに輝かせた。足元を埋める血と臓物の海は豊潤な大地に、怒りと怨み、哀しみを溜め込んだ怨霊は、新しく美しい命の輝きに。――それが、龍麻の【力】であった。
そして――彼は【敵】の存在を悟った。静かに眠っていた霊を揺り起こし、恐るべき怨霊へと変えたものを。全てを怨み、憎しみ、破壊せんとする存在を。
「破ァァァァァァァァァァッッッ!!」
怒り、憎しみ、怨み、妬み…怨霊たちが彼に叩き付けてきたありとあらゆる【負】の感情は、全て龍麻に足りないものばかりであった。人として生きる上では思う様解放してはならず、しかし、それなしには【人間】を語れぬもの…。今、龍麻はそれを怨霊たちから【受け取った】。幾千幾万、理不尽に命を奪われた者たちの想いと、その根底に確実に存在する【愛】を。そして【慈しみ】を。――それを得て、【人】として新たな一歩を踏み出した彼の両拳に、異なる二種類の【気】が激しく渦を巻く。
右拳には、怨みと憎しみ、怒りに満ちた禍々しい深紅の【陰気】。
左拳には、友愛と情と、慈しみに満ちた清浄な蒼の【陽気】。
【ここ】に存在する全てのものの想いが龍麻に【力】を与える。同時に龍麻は、仲間たちの【気】をも感じ取った。彼らもこの瞬間、彼と共に闘っている!
(――――そこかッ!!)
天空に渦巻く赤い暗雲…その中心部に【敵】がいた。
【怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め怨め】
【破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊破壊】
【憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め憎め】
【滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡滅亡】
【殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ】
それはまるで、陰陽の理すら越えたような圧倒的な【闇】。人間には到底及ばぬそれに、怨霊たちの【力】を借りて龍麻は立ち向かった。
宇宙にも匹敵するかのように広がっていた【闇】が、闇夜に浮かぶ月のように、血に塗れた超巨大な髑髏のイメージにまで縮小される。それすら龍麻の数千倍もの大きさがあったであろう。だが龍麻は【やれる!】と信じた。
「――【秘拳・鳳凰】――ッッ!!」
怒りも憎しみも哀しみも憐れみも、およそ自分の中にあるありとあらゆるものを【力】に変えて撃ち出す秘拳! 無念の涙を飲んだ者たち全ての怒りを乗せ、彼らをここに招いたもの。龍麻の精神を堕とそうとしたものへと今まで以上に神々しい輝きを放つ鳳凰が襲い掛かって行った。
――閃光、そして爆発。音もなく、しかし確実に何かが消し去られた気配。
同時に、世界が崩れ始めた。
新しき命の息吹に満ちた世界が、しかし空間そのものにひびが入り、崩壊していく。だが崩壊は必ずしも【死】を意味していなかった。周囲を埋め尽くす【元】怨霊たちの顔、顔…顔…。それらは穏やかな、あるいは微笑を刻んでいた。そして一人、また一人と、蛍火になって散華する。
彼らもまた、還るのだ。魂があるべき場所へ。
間もなく全てが優しい闇に飲まれようかという時、あの象が光を放ち始めた。
「――君のお陰で救われた。――感謝する…!」
まさか、返事があろうとは。
『礼には及ばぬ。【大地の力を受け継ぎしもの】よ』
「俺は…なんなのだ? この【力】は…なんだというのだ!?」
『答は、汝の中にある。己の心に問え。だが一つ…汝が解放せし御霊を見よ。それこそが汝の力の在りし所。汝が成したる事よ。破壊も創造も汝の手の内にあり。その事をゆめゆめ忘れるなかれ』
光に包まれ、輪郭を失う象。だが龍麻は、後一つだけ聞きたい事があった。
「待ってくれ! 君の…名を知りたい!」
『我に名はない。…人の与えし名ならば…――…』
「――ッッ!」
その【名】を聞いた時、龍麻は激しく動揺した。
『さらばだ。――心優しき戦士よ』
そして象は光となって散華し、龍麻は暗黒に飲まれた。
「――ちゃん!」
「…ひーちゃん!」
「――龍麻さん!」
誰か、大勢の人間が名前を呼んでいる。耳に心地良い。見知ったものの声だ。
龍麻は目を開いた。
「ひーちゃん!」
「龍麻…良かった…!」
わあっと上がる歓声。その声が予想以上に多い事に、龍麻はまず驚いた。
「お前たち…どうしてここに?」
呼んだ覚えのない仲間たちが、それこそ全員が揃っている事にまず疑問を覚える。すると、呼んだ覚えのない仲間たちが猛然と詰め寄ってきた。
「水臭いぜ龍麻サン! こんなでたらめな敵を相手にするっていうのにどうして呼んでくれなかったんだよッ!」
「こんなやばい奴が相手だと分かってたら最初から来てたわよ!」
「このような時に呼んでもらえないなんて、あんまりですわ!」
「雛の言う通りだぜ! オレたちはそんなに頼りにならねェかよッ!」
「今回ばかりは無茶をし過ぎだと僕も思うよ。龍麻君」
「アミーゴ…今度のけものにしたら、あのコトばらすネ」
「龍麻お兄ちゃん! 葵お姉ちゃんに心配かけちゃ駄目だって言ってるのに!」
「マリィちゃんの言う通り! 俺っちたちに黙って危険な真似するなんて、水臭いぞ!」
「このコスモブラック、ひーちゃんの為ならどこにだって駆けつけるんだぜッ」
「そーよそーよ! 孤独なヒーローなんていまどき流行らないのよ!」
「「うむ!! 皆の言う通りだ!!」」
いつもなら龍麻に意見などしない彼らが、それこそここぞとばかりに口々に怒声を張り上げる。勿論、彼を責めるつもりなどないのだが、いくら京一たちや新戦力のさやかや霧島、そして劉がいたと言っても、更にそこに自分たちがいれば…と考えるのは、【魔人】たちが共通に抱える想いである。
しかし――
「奴はどうした?」
龍麻の言葉に、はっとする一同。そうなのだ。彼にとってまだ事件は終っていない。敵の殲滅を彼が確認し、初めて事件が終るのだ。
「ああ。片付いてるぜ。もっとも――壊れちまってる」
一応、京一と醍醐が見張っているのだが、もはやそんな必要があるとは到底思えなかった。膨大な怨念に満ちた結界の中に龍麻と共に取り込まれた火怒呂は、ものの数秒としない内に魂を汚染され、狂気の中に逃げ込んでしまっていたのだ。これでは【力】を振るう事はおろか、まともな生活を送る事もできまい。
「あれだけ〜精神を汚染されたら〜桜ヶ丘でも〜治せないわ〜」
今回で一番訳知りの裏密が、珍しく少し沈んだ声で言う。もう少し早く占いの結果を出せたら龍麻を窮地に追い込む事はなかったのだ…と落ち込んでいるようだが、本心では火怒呂の【憑依師】としての能力にも興味があった…というところも感じられる。その辺はさすが裏密! といったところだろう。
そして龍麻も、それ以上火怒呂には固執しなかった。【敵】に情けをかけるような男ではない。それ以前に、火怒呂はやり過ぎた。むしろ龍麻に殺されずに済むだけ、幸運と言えるだろう。
「――舞子はどうした?」
「――大丈夫ぅ。舞子、すっかり元気〜」
今まで後方支援要員としてほとんど…どころか一度も怪我をした事のない舞子にしてみれば初の重傷といえたが、彼女がそんな事を言う筈もない。火怒呂との戦闘を別にすれば、彼女が本日一番の功労者だった。何しろ龍麻を怨霊の渦巻く精神世界から脱出させる切っ掛けを作ったのだから。ただし本質的に優しい彼女にそれを言えば、彼女はみんなの力のお陰だと言うだろう。
「お前のお陰で助かった。礼を言う」
「ダーリンが無事なら、それでいいよ〜」
口ではそんな事を言いつつ、舞子が龍麻に擦り寄っていったので、葵以下、女性陣の表情が険しくなる。それを見た小蒔と雪乃が慌てて言う。
「そ、それならさッ! ひーちゃん! 劉クンも誉めてあげてよ! ひーちゃんが危なくなった時、とっさに指揮をこなしたんだからさ!」
「そ、そうだぜ、龍麻君よ! コイツ、胡散臭い奴と思ったけど、中々やるじゃねぇか!」
ナイスだ小蒔! 雪乃! と、男性陣が心の中でぐっとガッツポーズをする。まだ仲間になって日の浅い紅井と黒崎、霧島は呆然としていたが。
「そうか、劉。良くやってくれた。感謝する」
「はははッ。わい一人の力やあらへん。アニキの友達が皆強いお人らやったから旨く行ったねん。ほんま、凄いお人らや」
劉の感嘆は本心からのものであった。
実際、彼は龍麻の仲間たちがここまでやれるとは思っていなかったのだ。京一、霧島と共に発剄の合わせ技を叩き付けて怨霊の竜巻を切断するや、普通なら周囲に飛び散ってしまう怨霊を醍醐、如月、アラン、マリィら【四神】が結界の中に押し込める。更に葵、雛乃、さやかによる方陣技が怨霊の動きを封じ、再び龍麻に取り憑こうとするのを止める。その上で裏密と舞子が方陣技【呪言霊符陣】を発動させ、一部の動物霊をしもべとして召喚、舞子はその動物霊と精神をシンクロさせ、龍麻の精神に入り込んだのである。
それらは全て完璧なタイミングで実行された。サポート役も、作戦の段取りを完璧にする為に良く闘った。舞子は僅か数秒で帰還したが、見事に龍麻の精神をよみがえらせ、彼は戻ってきたのである。――あれだけいた怨霊を全て解き放って。
(緋勇龍麻…。こんな凄いお人らにこれだけ信頼されとるなんて、ほんま、大きなお人やで)
劉の感想は、簡潔な龍麻の言葉で肯定された。
「――そう言ってもらえると俺も嬉しい。重ねて、感謝する」
ここで、京一たちのように龍麻と付き合いの古い者は「お…?」と声を上げる。
何か、龍麻の雰囲気がまた変わっている。何か急に、存在が大きくなったような。今までも存在感は凄いものがあった彼だが、それは強大な力を持つ肉食獣がそこにいるかのような存在感であった。それが今は、もっと何か大きな、包容力溢れる存在に変わっている。
裏密は彼が怨霊によって精神を汚染されていると言った。あの苦痛に満ちた絶叫は、如実にそれを肯定していた。しかし今はどうだ? 彼は一回りも二回りも大きくなって戻ってきた。
「お前たちにも心配をかけた。――決してお前たちを信頼していなかった訳ではないが、今回は全面的に俺のミスだ。――ラーメン一杯で許してもらえるとありがたい」
【全面的に俺のミス】というところで醍醐とさやかが何か言おうとしたが、京一によって止められる。今の彼にはそんな弁護をする必要はないと。
「ラーメン一杯? うーん…安すぎると思うけど、まあ、いいか」
亜里沙が言うと、一同はやれやれと肩を竦めて同意する。結局のところ、行き着くところはここなのだ。
「ありがたい。劉――この辺りに詳しいのであれば、どこかいい店を知っているだろう。案内してくれ」
「勿論ええよ。わい、ラーメンならええとこ知っとるで」
「うむ。――では少し、待っていてくれ」
そう言って、龍麻は一人、噴水広場から木立の中へと分け入って行った。
そこに、自然石の石碑があった。これが、東京裁判で戦犯として裁かれた者を供養する為に作られた石碑だ。当時、丁度この辺りに、四台の絞首刑台があったのだ。そして東条英機首相以下、二六名が十三階段を上らされた。だが、戦犯と呼ばれた者たちの悲劇はここだけに留まらない。A級戦犯約二〇〇名。B,C級戦犯五六〇〇名強。ここスガモプリズンのみならず、横浜、上海、シンガポール、マニラ、ラバウル、マヌス等の五十数ヶ所にも及ぶ牢獄にて、実に九三七名が絞首刑や銃殺刑に処され、自決もしくは獄中死は一三一名、終身刑は三八五名、無期懲役は一〇四六名、有期懲役は三七〇五名。そして死因不明(事故とされているが真相は不明)が三二名という、歪んだ復讐劇の舞台に散って行ったのである。同時に、戦争協力者と称された各界の指導的立場にいた者、技術者や職人などが一斉に公職から追放され、その数は二一万人にも及んだ。彼らの家族、親類を含めれば、戦争の傷痕に苦しんだ者の数は計り知れない。そしてそれは――現在も続いている。
「…何度でも愚行を繰り返すのが人類の宿業か…。――いや、言うまい。お前たちの無念――決して無駄にはしない」
その石碑には、こう書かれていた。
――永久平和を願って――
時代は過ぎ、あの悲惨な戦争は人々の頭から忘れられようとしている。戦争を知らぬ、あるいは【知らされぬ】世代が増え、【真実】がどこにあるのかも分からぬ有り様だ。そして今も、【真実】を知らぬ人々がこの戦争を論じ、新たな争いの火種を作っている。――救いようのない堂々巡りだ。
――真実というものは実際最も耳に痛く語るに最も辛いものであるのだ。 私は真実を語るという事は辛い事だと言った筈だ。しかし嘘をつく事を強いられる事はもっと悪い
――オスカー・ワイルド
許せなくてもいい――憎んでいても。だがそれを声高に唱え、人心を乱し、新たな戦争の悲劇を生むのだけは避けねばならない筈だ。それが――人類の命題である。
「…俺は闘う事しか知らぬ。だがいつの日か、人類が戦争を捨てる事ができるものと信じる。お前たちの無念は俺が引き受けた。あとは…祈ってくれ。――平和を」
そして龍麻は、万感の想いを込めて敬礼した。
二〇人にまで膨れ上がった仲間たちにエルとメフィストを加えた一行は、相変わらず混み合っているサンシャイン通りを歩いていた。
「…ここも相変わらずだな。だが、ようやくカタが付いたと実感できる」
「ああ、まったくろくでもねェ事件だったぜ」
サンシャインシティの威容が、今は少し明るく見える。ついさっきまでは、無数の怨霊たちの巨大な墓標にすら見えていたのだが。そんな変化も、事件が解決した事による安心感からそう見えるのだろう。
「でもあの時、無数の人々の、そして動物たちの魂が解放されて飛び去るのが見えたわ」
葵の言葉に、舞子や裏密、雛乃にさやかが頷く。
「幽霊さんたちは、本当は寂しいだけなんだよ〜。だから、心優しい人のところに集まってしまうの〜」
「寂しいからこそ集まり、寄り添う…。人も霊も同じですわ」
「…龍麻さんが慕われるのも分かりますよね」
単純にさやかは龍麻を賞賛しただけなのだろうが、またしても女性陣の間にピーンと空気が張り詰める。
一応、サングラスを掛けているとは言え、目立ってはまずいだろうとさやかは一行の中央を歩いている。そしてそこは、龍麻の右隣だ。ちなみに左隣には葵とマリィ、後ろには裏密、舞子、雛乃、エルを連れた亜里沙、前を行くのは小蒔と雪乃、コスモピンクこと桃香。――はっきり言ってハーレム状態である。京一やアランなどはこの状況を非常に羨ましがったものだが、迂闊な発言は命に関わると、この時ばかりは必死で自制していた。
「でもさあ…」
張り詰めた空気を和らげる目的もあったが、小蒔は少し沈んだ声で言う。
「ついさっき、目と鼻の先であんな事があったのに、この街を歩く人たちは誰一人気付いていないんだね」
改めて周囲を見回す一同。周囲を行き交う人々は忙しく、あるいはのんびりと、歩く速度も表情も様々だが、龍麻たちが事件を解決する前も後もまったく変わらない光景であった。この界隈を賑わせている突発性の発狂事件は、今後二度と起こらない。仮に二人目の火怒呂が現れたとしても、その根元である怨霊が眠りに付いた今では、事件を起こす事は叶うまい。全国で数百万人もの死者を出したあの大戦争ですら忘れかけている現代だ。そんな事件があった事など、当事者以外は一月と経たぬ内に忘れ去ってしまうだろう。そして、あれだけの大異変があったとは言え、それを知覚できるのは【魔人】を始め、極一部の知覚力や霊能力に優れたものだけだ。この街の大多数の人々には、空が赤く染まったのも、天が落ちたのも、怨霊の竜巻が発生したのも見えなかったのである。――見えなければ、存在しないのと同じだ。
「そうやな…。ここは、わいが生まれ育った村なんかより、ずっと大きくて、便利で、キレイで、人もぎょうさんおる。…せやけど…なんやろなぁ、なんや足らんもんがあるような気ィするんや。こないに人込みの中におっても、無性に寂しい気分になったりせぇへんか?」
我が身の危険(笑)を顧みず、劉は龍麻に話を振った。
「…人とは、形だけ整えても、中身が整わぬものがある。あるいは、中身だけ整えても、形が整わぬものも。ここは…うるさいほどに形が整えられているが、中身は希薄な気がするな」
「……」
いつにもまして哲学的で、しかも実感のこもった彼の声音に、一同はしんみりとなる。
――ここには何でもある。だが、何かが足りない。物質的なものは揃い過ぎるほど揃っているのに、心の隙間は埋まらない。
「しかし、その為に心の熱さが実感できる。――そう考えれば、悪いものでもない」
一瞬、劉ははっとしたような顔をしたが、すぐにただでさえ細い目を糸のようにして笑った。
「アニキ…。アニキはほんまに大きな人やな。アニキやったら…きっと大丈夫やわ」
「…何の話だ?」
問い返す龍麻。しかし劉はうんと背伸びした。
「おっと! わい推薦の店はそこやで! ――おおッ! うまい具合に空いてるで! ほな、行きましょかッ」
「賛成〜ッ!」
小蒔が真っ先に声を上げた事で、龍麻の質問は流されてしまった。
「ホラホラ! 男どもはさっさと席を確保する! ――マリィ、あたしらはエルとメフィストを入れてもらえるよう頼みに行こう」
「ウン! アリサお姉ちゃんッ」
【真神愚連隊】の【女王様】に激を飛ばされ、あたふたと動き始める男性陣。――情けないとか言ってはいけない。
「ヘヘッ、行きましょか。アニキ」
「あっと――ちょっと待てよ、劉。一応、聞いておきたいんだけどよ」
とりあえず、最初にここに来た時のメンバーだけがいるところで、京一は劉に問い掛けた。
「今日はお前のお陰で随分助かったんだが…さっきのアレ――本当にただのマジボケだったのか?」
アレ…最初に火怒呂と向かい合った時の事である。あの時劉は、【憑き物】に対して有効な技を持っているにもかかわらず、容赦なく【螺旋掌】をぶちかましたのだ。
「そういえば…ちょっと実感こもり過ぎてたよ。劉クンってば、凄く恐い顔してたし…」
「あぁ!? わ、わいの顔が…恐いやてッ!?」
酷いショックを受けたかのように、劉はよろよろっと後ろに下がった。
「ううっ…小蒔はぁん、そらひどいわ…。わいかて好きでこないな細目に生まれてきた訳やあらへん。この傷かて、好きで付けとる訳やあらへんのにぃ〜っ。こんなお茶目なわいの、どこが恐いちゅうねん〜っ」
「え!? エッ!? ぼ、ボク、そんなつもりじゃあ…!」
「この【うっかり小蒔】ッ!」
袖で目元を拭う劉のオーバーアクションが【芝居】である事も分からず、小蒔がおろおろして、京一もちょっと失言だったかも…と思ったらしく、小蒔をこつんと小突く。しかし…
「…ちゅう訳で、気のせいやッ。――ツッコミどころがぎょうさんある奴にはとことん突っ込むんが礼儀やでっ。ほな、行こ行こっ」
カクン、と落ちる京一と小蒔の顎。劉はぺろっと舌を出し、「席が確保できたぞ」という紫暮の声に誘われて店の中に入って行ってしまった。
「…う、嘘泣きしたな――ッ!」
「こ、このッ! 待ちやがれ! 劉!」
すっかり劉のペースに乗せられた京一と小蒔が膨れっ面をしながら店の中に入って行く。【京一命(笑)!】の霧島も慌ててその後に付いて行った。龍麻たちは取り残される形になってしまったが、すぐに歩き始める。
「…うまくはぐらかされてしまったな。どう思う? 龍麻」
「訳ありなのは分かる。だが詮索は必要あるまい。――いつか、話してくれるだろう」
「……」
そんな事を言った龍麻に注がれる、三対の視線。
「…なんだ?」
「いや…何か急に、龍麻が大きくなったような気がしてな」
龍麻は醍醐の前に立ち、頭に手を当てる。
「…別に大きくなってはおらんが」
「うふふ。そうじゃなくて…何かこう…存在感が増したっていう感じよ」
「?」
自分自身の事だけに、龍麻にはそれが分からない。首を傾げる。
「要するに、更に格好良くなったって事です。――行きましょう、龍麻さん」
そう言ってさやかは、龍麻の腕を取った。
「……!!」
急速に膨れ上がる【葵菩薩】の怒気!
(しまった…! 早く逃げておけば良かった…!)
醍醐はそんな事を思ったが、既に後の祭りであった。
その日、池袋の某ラーメン屋が狂乱の宴の場になった事は言うまでもない事であった。
事件の翌日 〇六〇〇時
龍麻は一人、上野動物園を訪ねていた。
まだ開園時間には遠い。門を入ってすぐのところとは言え、不法侵入である。だが龍麻は構わず目的地の前に立ち、花束をそこに置いた。
【どうぶつたちよ、やすらかに】
その石碑には、こう刻まれていた。
――昭和二十年。敗戦色が濃厚になり、軍部が【本土決戦】を唱える中、爆撃を受けた際に備えて上野動物園にいる全ての猛獣を【処分】せよとの命令が出された。当時の動物園職員は血涙を流す思いで虎やライオンを薬殺処分したのだが、どうしても薬殺処分できなかった動物がいた。――上野動物園における悲劇の歴史を語る上で絶対に外してはならない三頭の象――ジョン、ワンリー、そしてトンキー…。
龍麻を救った象は、【トンキー】と名乗ったのだ。
――戦時中、全国で二十頭に及ぶ象が殺された。辛うじて生き残ったのは名古屋、東山動物園の四頭の象の内二頭だけであった。大阪、天王寺動物園でも二六頭の猛獣を処分することを決断。象、キリン、カバは餌不足による餓死や病死し、ヒグマ、ライオンなどには毒入りの餌が与えられた。ここでもやはり毒入りの餌を吐き出した豹は、当時の飼育係が命令され、泣く泣くロープで首を締めて殺した。このような悲劇が、全国の動物園で繰り広げられたのである。
その中で、広く語り継がれる悲劇の物語の主人公が、この【トンキー】であった。
頭が良く、芸に優れ、子供たちにもっとも人気のあったトンキー。彼にもまた、容赦ない【軍部】の【処分命令】が降りかかった。ライオンや虎は薬物注射によって殺されてしまい、しかし象の皮膚には当時の注射針では歯が立たなかった。次いで、毒入りのジャガイモを食べさせるという手段がとられたのだが、頭のいいトンキー、ジョン、ワンリーはそれを見抜いて口にしようとしない。そして、最後の手段――餓死させる事が決定した。
今となっては、【戦争】が悪かったとしか言えない。当時の人々は全員が【戦争】の狂気に翻弄されたのだ。誰を責める事も叶わない。
ただでさえ戦時中の事もあり、栄養失調気味だったジョンとワンリーは、餌を与えられなくなって一週間後に相次いで逝った。だがトンキーは、一ヶ月もの間生き続けたのである。断腸の想いで自分を見詰める飼育係の姿を見ては、痩せこけた身体で必死に膝を折って芸をするトンキー。そうすれば、餌がもらえると信じて…。だが【軍部】の命令は絶対である。トンキーに餌を与えれば反逆罪に問われ、非国民として自分も家族も迫害される。ただでさえ、【餓死させる】という決定の後も、【軍部】から人がやってきては「早く殺せ」と催促していたのだ。
そして、トンキーも逝った。象が象である堂々たる巨体を、骨と皮ばかりにやせ衰えさせた果てに。
――そのトンキーに、龍麻は救われたのである。戦争の道具として創られたマシンソルジャーが、戦争によって理不尽に命を奪われた【彼】に。
「……俺は、祈りの言葉すら知らん」
ポツ、ポツ、と彼の足元に水滴が落ちた。
「だが――感謝する。自ら捨て、君がくれたものを、俺は二度と手放しはしない」
そして龍麻は、敬礼した。無表情な頬を流れる涙を拭おうともせず。
それを遠くから見ている、二人の動物園職員がいた。
やや年配の職員は、開演前の不法侵入者を咎めようとしたのだが、若い方の職員がその袖を引っ張った。
「やめておこうよ。あの背中、よっぽど辛い事があったんだよ、きっと」
やや年配の職員は、【なんだこの若造】とは言わずに、肯いた。
「ああ。だが、無くしたものを取り戻したみたいにも見えるな…」
結局、職員たちは龍麻を咎めようとはせず、畜舎の方に歩き去って行った。
その時、若者が腰に下げていたラジオが、こんなニュースを告げていた。
――昨夜十時ごろ、東京都豊島区、東池袋中央公園で殺人事件が発生しました。被害者は同区内、狗狸沼(高校三年、火怒呂(丑光(君十七歳と判明。鋭い刃物のようなもので頚部を切断されており、警察では容疑者の特定と凶器の発見を急いでいます。繰り返します――
第壱拾七話 魔獣行 後編 完
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