
第壱拾伍話 胎動 4
「先生ッ! 龍山先生ッ!!」
濃霧の竹林を進む時は周囲の警戒に専念していた一同であったが、見た目は異常のない龍山邸が見えた時、素早く散開して龍山の名を呼んだ。
「ジジイッ! いるなら返事しやがれ!」
「おじいちゃん! どこにいるのッ!」
醍醐と小蒔が玄関から、龍麻、京一らは庭先に回り込む。すると、竹林に浮かぶ満月を真正面に、縁側に一人座す龍山を発見した。
「大声を出すな。借金取りかと思ったわい」
出会い頭に、なんとも人を食った冗談など飛ばす龍山に、一同はほっと胸を撫で下ろした。
「ほほう…。ちょっと見ない間に、どの顔も頼もしくなりおったの。ところで――なんじゃ? その頭に、お主らの後ろにいる面白いのは。龍麻の同類か?」
「悪質な冗談はおやめ頂きたい。――お怪我は?」
「わしは大丈夫じゃ。それよりも、こんな形でまた会う事になろうとはの…」
「――彼は何処に?」
それを、龍山に問うまでもなかった。庭の真正面、竹林の中から、突風にも似た妖気が叩き付けられてきたのだ。もはや衝撃波といっても良いそれがざわざわと竹林を騒がせ、巨大ななにものかの慟哭のように感じさせる。
龍麻は竹林に向かって一歩踏み出した。
「…姿を現わせ、九角天童」
龍麻がその名を口にしても、誰も驚かなかった。コスモレンジャー三人組だけは訳が解らずきょろきょろしているが、【真神愚連隊】にとってこれほどの妖気を持つものは一人しか心当たりがいないのだから。
そして、空間を歪ませるほどの妖気を伴わせながら、竹林から一人の男が姿を現わした。
『クックック…この時を待ちわびたぞ…』
「九角…天童…!」
醍醐がきつく唇を噛み締める。
世田谷で決戦に臨んだ時と、何一つ変わらぬスタイル。長髪を高く結い上げ、長身を青い長ランで包み、手には朱塗りの鞘の日本刀。鬼道衆頭目、九角天童その人であった。
「嘘…! あの時皆で倒した筈なのに…!」
気配で解っていても、そして目の前に現れても、その全てを否定したいという小蒔の想いを、誰も責められるものではなかった。【魔人】たちが実に十四人…総がかりで倒した相手が、目の前にいるのである。
『ククク…そうだな。あの時死んだものがあるとすれば、それは俺の中で醜く垂れ下がっていた、人間の部分って奴だろうぜ…』
「そうかい…だったら今のテメエは、名実ともに化け物って事だな」
京一の肩に担がれた木刀が、【気】に反応して白く輝き出す。あの時よりは強くなっていると自分に言い聞かせる京一だが、今の九角もあの時のままではない。まだ人間の姿をしていると言うのに、【鬼】に変生した時にも匹敵するような妖気を放っているのだ。
『そうよ…。今の俺には何も残されていない。あるのはただ、この全身に滾る底深き怨念のみ…。三百余年に渡る、九角の怨念だけが今の俺を動かしている』
「そんな…九角さん…!」
この状況でも、葵が彼を見る目は哀しみに満ちている。だが九角はそんな葵を鼻先でせせら笑った。笑いの形に吊り上った口から、刃物のように鋭く牙が光る。
『クックック…美里葵…お前の肉は柔らかくて旨そうだな』
その一言が否応無しに、彼が人間の全てを捨てた事を認識させる。葵がビク! と体を竦ませるのを、小蒔が隣で支えた。
「戯れ言はそこまでにしろ、九角天童」
凛! とした声が、妖気を断ち切るように響く。
「お前がなぜ生きているのか――そんな事に興味はない。お前が再び敵に回るのならば、殲滅するまでだ」
言葉そのものはいつもと変わらず、しかし、今の彼の声には歓喜が含まれていた。口の端を吊り上げ、凶暴な笑みを浮かべながら拳の骨を鳴らす。
『クックック…。ならば来い、緋勇龍麻。この身に残っているのは生きとし生けるものへの怨みのみ。俺はこの東京のみか、日本中を灰にしてやるつもりだ。レッドキャップス・ナンバー9、見事それを止めて見せるか?』
「止めるとも」
ザッ…! と龍麻が前に出る。龍麻が何も言わずとも、京一と醍醐が左右に展開し、小蒔が弓を出現させ、葵が防御術をかけ始める。
だが――
「――ッッ!!」
龍麻が龍山邸の敷地を出た瞬間、地面から吹き上がった炎のようなオーラが壁となって龍山邸を包み込む。
「なっ! ひーちゃん!!」
叫んで飛び出す京一に醍醐。だが、凄まじい妖気が発生させた壁が強力な圧力を伴って二人の接近を阻む。前に出られない!
「――結界か。意外とせこい手を使うな」
『ふん――群れてるテメエらをまとめて相手にするのは面倒なんでな。――テメエを片付ければ、後は雑魚同然。ゆっくり料理してやるぜ』
まさか九角がこのような手段を取るとは!? ――考えてみれば、それも充分予測できる事であった。どのような理由があるにせよ、九角が甦ったからには、彼が同じ手段を取る筈がないのである。
「俺の仲間はそれほど弱くはない――が、彼らの出番はあるまい」
目の前に九角がいるにも関わらず、龍麻は首だけ後ろを振り返った。
「こういう次第だ。全員――その場で待機しろ」
「何だってッ!!?」
また出たか!? 龍麻の放言――。だがその反発はこれまで以上であった。
「ふざけんじゃねェぞ! テメエ! 何考えてやがるッ!!」
「龍麻! 相手はあの九角なんだぞ! オレ達全員でも勝てるかどうか――!」
「ひーちゃん! なんでそんなコト言うのさッ!」
「龍麻…!」
かつてない勢いで――しかし誰一人として龍麻に詰め寄ることができず、しかも、不意に浮かんだ龍麻の口元の笑みに怯んだ。
「――俺は、頼りにならんか?」
「――ッッ!?」
普段の、そしてこれまでの彼とは決定的に異なる、その不遜なまでの自信に満ちた態度。口調。彼と最も身近で闘ってきた真神の一同は、そのあまりの変化に戸惑うだけであった。
「俺は英雄ではない。武道家でも。目の前の敵と闘い、これを殲滅する。ただ、その為だけに作られた殺戮機械だ。――これまでは」
それから龍麻は、片手の親指で九角を指差した。
「彼も俺と同じだ。任務を果たす為だけに作られた殺戮機械。俺が一個の人間として生きる為には、どうしても断ち切らねばならない鎖だ。俺にとっての彼、彼にとっての俺が、人として生きようとする道を阻む壁だ。これを越えるのに、余人の手は借りられない」
つい、と振り返る龍麻。だがその肩に、断ち切るような鋭さはない。
「一対一だ。天童。それが――お前の望みだろう?」
『クックック…。言うようになったじゃねェか。だが、自惚れ過ぎじゃねェか? 大体この前だって、お前の仲間が総がかりで来たんだろうが』
「だからわざわざ彼らを見学させるのだろう? ――リングサイド一〇万でも惜しくない見物だ。解ったら、お前も無粋なおまけを引っ込めろ」
おまけ!? ――龍麻の言葉に、すっかり九角一人に気を取られていた京一たちが改めて周囲を見回す。すると――いた! よりにもよって、とんでもないおまけが…!
『――引っ込めさせてみろよ。お前の【力】で』
突如、竹林が闇の塊を産み落とした。
ただでさえ濃い妖気が、掴んで引けば取れるのではないかと思うほど濃密になる。地面に落ちた闇の固まりは五つ。それから影のカムフラージュが取り払われ、そこに現れたのは――
「きゃあァッ! なにアレェ!?」
「ま、またバケモノかよ!」
「し、しかもとんでもなくデケエ!!」
コスモレンジャー三人組の上げた恐怖の叫びも、今の京一たちには届かなかった。全身を駆け上がってくる戦慄が、目の前の【敵】以外の情報を認識することを許さなかったのだ。
「鬼道…五人衆…ッ!!」
そいつらもまた、決戦の場で仲間たち全員の力を結集し、倒した筈であった。しかし、どれだけ否定しようとも、現実に目の前にいる。そして最悪な事に、五人衆全員が既に変生した【鬼】と化して。
「――ひーちゃん! 逃げろォッ!!」
「退いてくれ! 龍麻ッッ!!」
「無理だよッ! いくらひーちゃんでも無理だよォッ!!」
「龍麻ッ! 逃げてェッ!!」
だが――龍麻は――
「…やれやれ。仲間を酷使し過ぎではないか? いい加減、眠らせてやれ」
変生した五人衆――その恐ろしさを知らぬ筈はないのに、龍麻の声は平然たるものだ。結界に阻まれ、見ている事だけしかできない京一たちにはもどかしいにも程がある状況であった。
『以前、テメエらが取った作戦さ。タコ殴りにされる気分ってのをテメエも味わって――』
そこで九角は言葉を切った。そこに信じ難いもの――龍麻の背中を見たのである。そして――
「――応援頼むぞ」
立てた親指で己の胸を指し、口の端に微笑を浮かべる龍麻。今度は――不敵でも不遜でもなく、しかし自信に満ちた態度。京一達は驚き、怒り、困惑し、そして――
「――よっしゃ! 任せた!」
「うむ! しっかりな!」
「ひーちゃん! ファイトーッ!」
「龍麻。無茶しないでねッ」
重く焦燥に満ちた表情が一転、同時に破顔する京一達。これには龍山やコスモレンジャーの方が驚かされた。自分たちが戦った最大の敵を前に威風堂々、自信に満ちた宣言をした龍麻の心境を理解し、全てを委ねる決心が固まったのである。同時に、ここにあってさえ、彼と共に戦っているのだとも。
『…なんだ、テメエら。その人数でやけに余裕――』
九角の言葉は、一本だけ立てた龍麻の人差し指に遮られた。
「一分待て、天童」
ピッ、とその指が九角を指差す。
「逃げるなよ」
一分―― 一体一二秒で倒すと言うのか!? 仲間たちが数人がかりで倒した強敵――鬼道五人衆を!?
いくら人の心を完全に無くした【鬼】と言えど、これほどの侮辱を無視することができようか!? 五人衆は一斉に吠え、最もスピードに優れる風角が空中から突っかけようと――!
ドッゴォォォォォンッッ!!
月夜を切り裂く、強烈な閃光と轟音! 風角の頭部――どころか上半身に至るまでが吹き飛び、残骸が青白い炎に包まれながら落下した。
『――ッッ!!』
龍麻の手の中で、巨大なリボルバーが金色の炎に包まれている。これまでの彼の拳銃とは異なる、非実用的な大型拳銃。コルト・アナコンダ・八インチモデル。ただし、IFAF対妖魔特殊工作員(専用、ストライダー・カスタムだ。
カッ――炎角が口を開く。そこから迸るのは、数千度の熱線!
するりと歩を進め、龍麻はそちらを見ようともせず、アナコンダの銃口のみを向けて引き金を引いた。炎を吐く一瞬の【溜め】を隙として狙われ、恐竜のような頭部に埋め込まれた人面をぶち抜かれ、仰け反り吹っ飛ぶ炎角は天に向かって炎を吐いた。飛び散った炎が竹林に着火し、周囲を炎に染める。
水角が、妖刀の切れ味を持つ鎌を二本同時に振り上げる。
鎌を振り下ろした時、龍麻は既にそこにはいなかった。誰にとっても意表を突く場所――水角の鎌に抱かれるような形で、その顎下にアナコンダを突き付けていたのである。発砲――水角の目玉が衝撃波で飛び出し、火山の噴火のごとく頭頂から脳漿が噴き出す。
『ブモオォォォォォッッ!!』
地響きを立てて岩角が突っかけた。一トンを超える猛牛〜魔牛の突進!
銃を握っていない龍麻の左手が上がり、彼の両足が踏み位置を変え、腰が僅かに落とされる。次の瞬間、焦げ茶の猛牛が取るに足らない人間に激突し――止められた!!?
「止めたッ!? それも片手で――!」
「ヒュウッ! マジかよッ!?」
京一たちの歓喜と驚愕の叫びを、轟音がかき消す。対重装甲用四四マグナムHESH(粘着榴弾)――弾頭を軟質な重金属にする事により、目標の外殻を伝導体に目標内部に衝撃波を叩き付ける特製弾は、龍麻の【気】をも乗せ、五〇口径重機関銃の猛射にも耐えた岩角の頭骨を撃ち抜き、内部から爆発させた。
『ウオオォォ―――ンッッ!!』
岩角を仕留める一瞬の膠着を狙い、雷角がライオンさながら飛び掛る。龍麻は避ける態勢にない! 殺られるか!?
龍麻は雷角の勢いに逆らわず、軽く仰け反るようにして地面に倒れ込んだ。龍麻の首筋に噛み付こうとしていた雷角は、目標が地面に自ら倒れたために龍麻に覆い被さるような形となり――
ドゴオオォォォォンッッ…!!
真下から撃ち上げられた弾丸が雷角の頭部を貫き、その巨体をも垂直に跳ね上げる。それが落ちてくる前に龍麻はひょいと後転し、立ち上がる。自然に伸ばしたアナコンダは、九角の眉間に不動の直線を描いていた。
「おお…ッ! 五人衆を本当に一人で…ッ!」
「強ェ…!」
あの決戦の折り、【魔人】たちをあれほどてこずらせた強敵が、本当に五匹まとめて…! それも…
『――締めて三十秒ってトコか。嘘は良くねェな』
「早い分には文句もあるまい」
そして龍麻は、信じられない事をした。たった今、五人衆を一発で葬り去った強力な武器、アナコンダを投げ捨てたのである。
「なッ――ひーちゃん!!」
なぜ!? どうして!? そんな問いすら、今の龍麻には無意味であった。彼は【武器庫】であるコートすら脱ぎ捨てたのだ。そして、軽く指を鳴らす。
「ガンは無粋だな? 天童」
『ふん。抜かしやがるぜ』
そして九角もまた、刀を地面に投げ捨て、腰のベルトに突っ込んでいたロングスライド・オートマチックも捨てた。
『――さあ、始めようぜ。俺達の闘いって奴を。――と、その前にその耳も取れ。どうにも緊張感がなくっていけねェ』
「――断る。気に入っているのだ」
今にも始まろうとする宿命の対決――に極限まで緊張していた京一たちがへなへなと脱力する。なんと言うか…【それ】に関しては全面的に九角に同意であると、ちょっぴり殺意すら込めて龍麻を睨んだ京一は、二人が笑っているのを見た。それも、これから死闘を演じようとする者たちとは思えない笑みを。
ほんの一時、秋の夜風が百年に一度しか咲かぬ花を付けた竹林を吹き抜け、さらさらとさざめく。月が雲間から顔を覗かせ、一人の影を濃く、一人の影を薄く地面に刻み付ける。
そして二人は、どちらからともなく歩き始めた。
「…やはりの。彼奴(らならば、そうするだろうて…」
互いに無手となって向かい合った二人を見ながら、淡々と呟く龍山。その口調は龍麻の勝利を祈ると言うよりも、二人が闘う事に対する哀しみが伺えた。
「ジジイ…悟ったようなコト言ってる時に悪いけどよ。この結界、何とかできねェか?」
「…何とかできぬという事はない。しかしそれには時間がかかる。それ以前に、この結界を抜けて、お主ら、あの二人の戦いに介入するとでも言うのか?」
「そんなつもりはねェよ。だが最悪の事態を考えておけってのは【俺たち】の流儀だってコトだ」
半分は本当だが、半分は嘘だ。――解っている。否、解っていたつもりだ。九角が、そして変生した五人衆が姿を現わした時、京一たち四人は恐怖と戦慄に一瞬とは言え支配された。――闘う前から恐怖を感じた者は、その実力を真に発揮する事ができない。そればかりか、この人数では勝てないとまで思ってしまったのだ。
だが今は、ごく自然にそう言える。結界を解いても、介入はしないと。龍麻は自信を持って【任せろ】と宣言したのだ。元より他人を過小評価せず、己を過大評価しない男が。
「仲間を信頼するのはとても尊い事じゃ。しかし、手を取り合う事が甘えとなるならば、たとえこの結界を解いたとしても、龍麻の足手纏いになるだけじゃ」
「ああ、その通りだぜ」
これまでの好々爺然とした龍山からは考えられぬほど冷酷な言葉であるが、一同は静かにその言葉を受け止める。ただ、少しだけ――京一の木刀は震え、醍醐の拳も骨を軋らせている。醍醐の腕を取っている小蒔の手も微かに震え、そして葵は、僅かに睫毛を伏せている。
自分たちは龍麻に信頼されている――それは事実だ。だが自分たちは、その信頼に応えきれているだろうか?
【お前の指揮は、仲間たちを殺す】――あの響豹馬、【ザ・パンサー】の言葉は、裏を返せば、信頼するに足りぬ仲間を指揮する事など止めてしまえ――とも取れるのだ。
しかし――
「――だがよ。俺達だっていつまでも甘ちゃんじゃねェ」
敢えて、言葉に出す京一。龍山は更に厳しい、しかし温かい言葉を投げかけた。
「いかにもそうじゃ。己の無力を悔やむ暇などあったら、今、龍麻の闘いを見届けることじゃ。彼奴らは共に、宿命の輪廻より抜け出そうと足掻く者たち。最も辛いのは、兄弟であり、家族であり、仲間であった友を倒さねばならぬ龍麻と心得よ。それを真に解ってやれるのも、お主達だけなのじゃからな」
「――はい。俺達は【仲間】ですから」
すう、と震えを止める四人。そうなのだ。この闘いは、龍麻自身が望んだ闘いだ。彼は九角を、己を縛る鎖だと言った。この鎖を断ち切るのに、余人の手は借りられないとも。【仲間】ならば、【友】ならば、自信を持って送り出してやるべき場面だ。
(そうだよな…。お前はいつだって、自分の中の殺戮機械と闘ってきたんだよな…)
(九角がお前の鎖…。お前が誇りとするレッドキャップスを、今こそ乗り越える決心をしたんだな。ならばお前の闘い、ここで見届けよう)
(ひーちゃんは負けないよ…! だってひーちゃんこそ…無敵のヒーローだもん!)
(龍麻…。あなたが自分の闇に立ち向かうのなら、私は何も言わない。あなたの勝利を信じます)
四人はぐっと顔を上げ、強い眼差しを向かい合う二人に向けた。
たとえ結果がどうなろうとも、最後まで見届ける――その気迫を感じ取り、龍山は在りし日の自分と、仲間たちの姿を思い返した。そして、自分達は――【こう】なれなかった事も。
(どいつもこいつもこんなに逞しくなりおって…。――それで良い。お主たちは、わしらと同じ道を辿ってはならぬ…)
静寂に包まれた月夜を乱すまいとするかのように、二人の死闘は静かに始められた。
サク、サク…と、二人が踏み締める竹葉の軋みすら無粋に思えるほど、静かな立ち上がり。あと僅かで凄まじい攻撃力を秘めた手足の制空権が触れると言うのに、二人の表情はいたって穏やかだ。
ゴク…ッ!
あと一メートル! 制空権が触れた! まだ――仕掛けない。
更に一歩! 突きも蹴りも、完全に間合いだ!
残り五〇センチ! 肘も膝も届く!
「――」
二人の笑みが、深くなった。
次の瞬間、二人の顔が重い衝撃を受けて吹っ飛んだ。
「ガハァッッ!!!」
『ゲフゥッッ!!!』
龍麻の拳が九角の腹部を、九角の拳が龍麻の横面を同時に捉えたのだ。いわゆる、クロスカウンター!
勿論、どちらもそれだけではやられない!
龍麻の拳が唸った。九角の蹴りが空を裂いた。
「だッ、打撃戦ッッ!!?」
これまでの二人からは考えられない、防御もコンビネーションもない、渾身の突きと蹴りの応酬であった。肉体を極限まで鍛え上げ、殺人技術だけを叩き込まれた男たちが初めてする、恐らく道具すら使えぬ原始人もやったであろう、ただのぶん殴り合い。徒手空拳【陽】の技も、九角流剣術も、共に身に付けた軍隊格闘術の技術すら使わず、ただパワーとスピードのみで殴り合う。二人の顔はみるみる痣に覆われ、龍麻の頬が切れ、九角の鼻がひん曲がる。
龍麻の拳に顎を打ち抜かれ、上体が地面に突っ込む九角! しかし彼は片足を跳ね上げ、龍麻の胴に絡めつつ地面に倒れ込んだ。
寝技勝負――!?
自分から仕掛けた分、九角の方が跳ね起きるのが早かった。仰向けに転がった龍麻に馬乗りになり、子供の喧嘩のようなパンチを彼の顔面に叩き込む。一見蕪雑なこの攻撃は、近年の【何でもあり(】ファイトで最も有功とされている戦闘スタイルであった。――相手が、龍麻でなければ。
『〜〜〜〜ッッッ!!』
顔面を打たれるに任せ、龍麻は九角の腿に指を食い込ませる。二〇〇キロを越える握力はそれだけで凶器足り得た。【何でもあり】と言いながら、噛み付きと髪掴みを禁じている時点でそれはスポーツ格闘技であり、五体全てを武器化している龍麻には馬乗りスタイルなど自殺行為に等しかった。
立ち上がった勢いに任せ、九角を地面に叩き付ける龍麻! プロレスのボディスラムだ。弾力性のあるマットの上では単なる見せ技だが、固い地面では一撃必殺の威力を持つ殺人技となる。背中を激しく打ち付けた九角はガハッと息を吐き出し、バウンドする。
間髪入れず突っかける龍麻! 地面に両手を付いたまま、カポエラ式の逆立ち蹴りでカウンターを取る九角! 龍麻は蹴りをバック転でかわし、九角も身を捻って立ち上がった。
「――暖まった…」
『――イイ感じにな…』
共に凄絶な笑いを浮かべる二人。頬の傷を拭い、血を嘗める龍麻。鼻血を噴き捨て、曲がった鼻を無理矢理戻す九角。
「ははっ、今までの闘いが――」
「ウォーミングアップってか…! ケッ、さすがだぜ!」
その言葉が絶対的に真実である事を証明するかのように、二人は同時に【本気】になる為のトランス状態に入った。
「ノル・アドレナリン、アルファライン超過――」『戦闘機動許可、発令――』
龍麻の前髪の中から、じわりと赤い輝きが零れる――
「戦闘機動状況レベルA+確認」『目前敵の完全沈黙まで全封印暗示解除』
九角の両眼が赤光を噴く――
「『アクセス! レッドキャップス・ナンバー9(0)!!』」
ダンッ!! ――と土煙を蹴立てて二人の姿が掻き消えた。
再び京一たちが二人の姿を捉えた時、既に二人は猛烈な突きを十数発づつ交していた。
レッドキャップスとして潜在能力を解放した彼らの動きは、通常時の三倍から五倍強! 接近戦に慣れた京一や醍醐さえ、龍麻と九角の技は残像としてしか捉えられない。そして使う技は、最速にして最短距離で敵を殺す軍隊格闘術。ただでさえ目に映るような代物ではない。そして――
「ッッ!」
九角の爪先が跳ね上げた土塊が龍麻の顔面を襲った。
構わず突きを放つ龍麻! ただでさえ前髪が目を覆っている龍麻だ。土塊ごときものの数ではない。吹っ飛ぶ九角は、しかし空中で竹を掴み、鉄棒の大車輪の応用で龍麻に両足蹴りを叩き込む。ガードは固めたものの、九角が全体重を乗せた蹴りだ。吹き飛ばしたつもりが、逆に龍麻の方が吹き飛ばされる。
更に追撃をかける九角! 竹を足場に、空中を走る。その思いがけない方向から、踵落し!
龍麻は真下に【円空破】を放った。
『――ッッ!!』
宙に舞い上がる大量の笹の葉。だが、それ以上のものではない筈なのに、龍麻の姿が掻き消えた。目標を失った蹴りに空を切らせ、地上に降り立つ九角。その背後に忽然と現れる黒い人影――
『チイッ!!』
腰の捻りから肘の瞬発力も乗せたバックハンドブロー! だが影が素早く伏せてそれを回避した瞬間、九角の腕が血を噴いた。
『ッッ!!?』
更に空を切り裂くものをかわし、三度トンボを切って後退する九角。人影――龍麻の手にしているものは、何の変哲もない笹の葉であった。柔らかな紙でさえ、スピードが加われば割り箸を切断する――龍麻は笹の葉で、人間の腕を裂いたのであった。
『フン…!』
龍麻の手から、無数の笹の葉が飛んだ。彼の手にかかれば笹の葉さえナイフ同然だ。九角は竹の枝を折り取り、真っ向から打ち下ろす。笹の葉のナイフはすべてその一閃で叩き落とされた。
ぱっと九角が地面に身を投げ出す。龍麻も同時だ。
跳ね起きた時には、互いの手に拳銃が光っていた。銃は無粋――そんなフェアプレー精神などクソ食らえと言う彼らだ。
ドン! ドンッ! ドオンッ!
ガンッ! ガンッ! ガウンッ!!
龍麻のグロックと、九角の四五口径ハードボーラーが取っ組み合いの距離で吠え合い、互いに銃口を逸らし、弾丸をかわし、硝煙を引きちぎる。――システマG。身を摺り合わすような至近弾の応酬の成果は――
「……」
遊底が後退したグロックを九角に向けたまま、左手を頭にやる龍麻。そこにあるべきネコミミは無残に撃ち飛ばされ、焼け焦げていた。
『ケッ、そんなモンが気になるのかよ、ナンバー9』
「……」
『……あ〜、いや、悪かった』
頭を描く九角。――が、その手がいきなり手裏剣を投じた。――龍麻も同時に。
キン! と空中で手裏剣が衝突し――それが落ちるよりも早く爪先で刀を跳ね上げる九角。鞘を払う間も惜しむように、左袈裟懸けに迸る銀光!
「龍麻ッ!!」
葵の叫びに、鋼の撃ち合う世にも美しい響きが重なる。一瞬の閃光と共に龍麻の腕に装着されたのは、伝説の金属オリハルコンで作られた手甲であった。
「ヌウゥゥゥッッッ!!」
『ムウゥゥゥゥッッ!!』
二人の動きが、止まった。
斬り付ける者と受ける者と、どちらも全力で相手を押し込もうとする。筋肉を限界まで酷使し、【気】を漲らせ、三〇センチと離れていない相手の顔を睨み付ける。僅かでも気を抜けば、その瞬間に相手の剣なり拳なりが吹っ飛んできて、その瞬間に決着が付く。それが解っているからこそ、龍麻も九角も力を緩めようとしなかった。刃と手甲が噛み合う場所に膨大な【陰】と【陽】の【気】がぶつかり合い、激しく火花を散らす。そして刃も手甲も二人の戦士が放つ【気】に耐え切れず、赤熱し、細かい破片を散らし始める。
九角が刀から左手を放した。しかし、圧力が減じない! 龍麻は両腕で九角の斬撃を受けているのだ。それが、跳ね返せない!
『ガアアァァァァ――ッッ!!』
九角の右袖が内側からの圧力で張り裂け、赤銅色の豪腕が出現する。爆発的に膨れ上がる妖気! これは――変生!!
「――――ッッ!!」
ボウリングの玉ほどもある拳による凄絶無比なボディーアッパー! 龍麻の身体がくの字になって吹っ飛び、竹を十数本へし折った上、さらに地面をゴロゴロと人形のように転がって行った。
「グブッ…ッバハァッ!!」
吐瀉物を吐き散らし、腹を抑えながらのた打ち回る龍麻。常人なら五体をバラバラにされていてもおかしくない。それだけで済んだのは最強の【魔人】故――だが、戦いの場にあっては致命的な隙を生み出してしまった。
ズシン! ズシン! ズシン! ズシン!!
一気に畳み掛けに来た九角は、既に【鬼】への変生を終えている。最終決戦で、特殊部隊員七人の犠牲と、【魔人】たちの総攻撃でやっと倒した【鬼】に。
「龍麻ァァッッ!! 来るぞォッッ!!」
「ッッ!!」
両手を突っ張って立ち上がろうとする龍麻! だが――遅い! 九角の巨大な手が龍麻の頭を掴み上げ、さらに追撃のボディーブローを叩き込む。衝撃が背中まで突き抜け、今度は血を吐き散らしながら吹き飛ぶ。だが――
「――堪えたッ!!?」
「――踏みとどまったぞ…ッッ!」
地面に深い溝を刻み込みつつ、今度は踏みとどまって見せる龍麻。相当なダメージを蒙った事は間違いなさそうだが、それでも顔を上げる。
『…よく耐えたな。だがもう限界と見たぜ』
九角が笑う。残酷に、虚ろに乾いた声で。
『次の一撃が最後になるだろうぜ。――鳳凰とやらはどうした? なぜV−MAXを使わねェ?』
「……」
龍麻は応えず、変形した肋骨のずれを直し、経絡の流れを整えた。さすがに【結跏趺坐】を行使する時間的余裕はないが、呼吸法で痛みだけは減じる。しかし【鬼】と化した九角に対しては、龍麻のあらゆる技が無効だ。今の彼に、どんな手がある?
『…まだ使いこなせていねェって事か? V−MAXをよ』
「…口数が多いぞ、天童」
ようやく、龍麻は応じた。この状況下、九角のお株を奪うような不遜さで。
「恨みや憎しみを糧に【鬼】と化す――か。確かに強い。それは認めよう」
『ほう…覚悟ができたかい?』
ツ、ツ、ツ、と龍麻は立てた人差し指を振り、舌を鳴らした。
「それは思い上がり過ぎだ。天童、お前は確かに強いが、全てが思い通りになる訳ではない。それは、お前が一番良く知っている筈だ」
『…ケッ、どの道、テメエはここで死ぬんだ』
ゆら、と九角が龍麻に迫った。
「…どうかな?」
龍麻の目から、赤い輝きが消えた。
この局面で【ナンバー9】を解除するとは!? 彼の真意を量り兼ねながらも、九角は地を蹴った。この一撃で全てが決まる、今更どのような策を弄しようとも――
「ッ龍麻ァッッ!!」
葵の絶叫に、【気】が生物の肉体を捉えた時に発する音が重なって響いた。
『ぐがあッッ!!』
竹林を薙ぎ倒して吹っ飛ぶ巨体。すぐに身を起こし、しかし地面に片膝を付いたのは【鬼】の方であった。
「なッ!? 何、今のって!?」
思わず顔を覆い、しかし最後までその光景から目を離さなかった小蒔であったが、その瞬間に何が起こったのか理解できなかった。彼女の目には九角のパンチが龍麻の顔面を捉えようとする瞬間、いきなり九角の身体が吹っ飛んだように見えたのである。
「――見たか、醍醐!?」
「見たとも。――さすがだ、龍麻!」
京一と醍醐には【それ】が見えたらしい。
肋骨が一本持っていかれたか、変形した脇腹を押さえて九角が龍麻に向き直る。
『ガアァァァッッ!!』
唸り飛ぶ剛拳! 当たれば――即死!
龍麻の上半身が、九角の拳が起こした風に乗るように流れた。そして明らかにタイミングを外した【受け】が九角の腕に触れ――
『――ッッ!!!』
自ら繰り出したパンチが急加速し、九角はパンチに振り回されるように大きくバランスを崩してつんのめった。その絶妙なタイミングで放たれる龍麻の――
「【螺旋掌】ォ!!」
『ぐはあッッ!!』
技を受けることはおろか、筋肉を締めることすらできぬタイミングで、先程の打撃箇所を正確に打ち抜いた【螺旋掌】は、身長差二〇〇センチ、体重差三〇〇キロをものともせず、九角に明確なダメージを与えた。――以前は、効かなかった技が!
龍麻の手が、優雅に旋回する。
腰を大きく落とすところは同じだが、徒手空拳【陽】の中にはなかった筈の【柔】の動き。摺足から始まる身体の捻りが、膝に、腰に、肩に、肘に、手にと伝わっていき、鮮烈な【気】の迸りを生む。どう見ても緩やかな手の動きが風を呼び、渦を巻き、笹葉を舞わせる。これは…この動きは――
「【ザ・パンサー】…響豹馬の太極拳…! いや、これも徒手空拳【陽】の技か…!」
あの修学旅行の時、たった一度だけ戦い、二晩だけ習った男の技。その動きを龍麻は自分の技に取り入れ――否、眠っていた技を甦らせたというのか!?
(解っていたつもりだが…なんて格闘センスだ…!)
これまでの直線的な動きとは違う、緩やかに蛇行するように龍麻が間合いを詰める。
『グヌウッ! ――しゃらくせェッッ!!』
凄絶無比な九角のフック! 龍麻は上半身を柔らかく捻りつつ摺足と転身で九角の内懐深く潜り込んだ。――八卦掌。
【掌底・発剄】! ゼロ距離から撃ち込まれた剄には【気】を反射する能力も役に立たなかった。今の発剄は従来のような【外気発射】型ではなく、生体の表面は破壊せずに内部を破壊する【浸透剄】であったのだ。見た目は軽く、地味だが、九角の体内で膨大な気が炸裂する。
『ゴアァァァァッッ!!』
さすがに最大最強の敵。最適のタイミングで叩き込まれた発剄の直撃に耐え、九角は鬼の身で軍隊格闘術の猛ラッシュを浴びせに来た。
パワー重視のワイルドパンチから、ストロークの短いパンチとキック、肘、膝、貫手、鈎手、組み付き、掴み、関節技――全て、空を切った。
よどみなく流れる八卦掌の歩法を見事に習得した龍麻には、殺人技術の粋とも言える軍隊格闘術、それもレッドキャップス専用の【システマGB】すら通用しなくなっていた。龍麻の攻撃力は凄まじいものではあったが、攻撃時には必ず【気】の【溜め】を行い、攻撃を繰り出した後には一瞬の断絶がある。これは九角クラスの相手には致命的な隙であり、前回はそれで追い込まれたのだ。しかし今の彼は八卦掌の歩法の中で【蓄剄】を行い、間断なく剄を繰り出すことができるようになったのだ。
恐るべきは中国四千年――豹馬の言葉を信じるならば六千年――。いや、その歴史を僅か二晩のレクチャーでここまで再現した龍麻こそ恐るべし。
『グググ…! テメエ〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!』
あの決戦時とはまるで逆――【鬼】と化した九角を一方的に追い詰め、圧倒しているのは龍麻であった。
間断なく落ち続ける水滴は、やがて岩をも穿つ。龍麻の発剄を浴び続けた九角もさすがにダメージが蓄積し、肩で息をする。
『調子に…乗るんじゃねェッッ!!』
カッ――!
「ッッ!」
九角の口が開いた瞬間、とっさに上体を傾がせた龍麻の肩口を何かが掠め、彼の学生服を引き裂いた。
そうだ。九角にはこれがあった。超音波や分子振動波をさらに凶悪に、攻撃的にした【鬼鳴念】。
『ゴルアァァァッッ!!』
立て続けに放たれる【鬼鳴念】! だが殺気の篭った攻撃は龍麻には――
「ぐあッッ!!」
全ての【鬼鳴念】をかわしたと思った瞬間、龍麻の背中に直撃が来た。呻きを上げる間さえ惜しんでその場から飛びのく龍麻。たった今、彼がいたところを背後から襲いかかった【鬼鳴念】が大きく抉る。
「あのヤロウ…反射させやがった!」
「龍麻! そこは危険だ!」
九角の【鬼鳴念】は無数に乱立する竹に反射させたものだ。龍麻にもそれは判ったのだが、打たれるに任せながらも彼をそこまで誘導してのけた九角がこの機を逃す筈はない。
『死ね! 龍麻ァァッ!!』
一気に勝負を決めるべく放たれた【鬼鳴念】は十数発! 内三発は龍麻を真っ直ぐに狙い、残りは全て異なる角度、方向から龍麻に襲い掛かる。
「龍麻ァァッッ!!」
十数発の【鬼鳴念】が同時炸裂! 激しい爆発は龍麻を飲み込み、もうもうと土煙を上げた。
『これで…どうだ…!?』
人間をはるかに越えた【鬼】であり、絶対の自信を持って放った技であろうに、九角の口からはそんな言葉が洩れる。彼にしても龍麻がこれほど成長しているとは予想外だったのだ。しかも龍麻は、九角が最も恐れていたV−MAXを使っていない。もしこれで倒せぬとすれば――
「…タネ切れか? 天童」
『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!』
そこにありえぬ声を聞き、驚愕する九角! それは京一たちも同じだったが、彼らの声には歓喜が篭っていた。
「ひーちゃん!」
「龍麻!」
確かに、それは龍麻であった。制服は吹き飛ばされ、傷だらけの肉体の上に新たな裂傷に創傷、打撲傷を負っているが、致命傷というほどのものではなかった。
『テメエ…どうやって…!』
答えを待つまでもなく、三度【鬼鳴念】を放つ九角! 三発の【鬼鳴念】が異なる方向から襲い掛かり――
『なッ――!?』
常人には不可視のエネルギーが炸裂し、確かに龍麻はその渦中にいた。しかし一瞬後、爆煙から姿を現した龍麻に、新たな傷はなかった。
「コイツは――舞ちゃんの…!」
京一はその技に見覚えがあった。【触れ得ぬ天使(】、如月舞の防御術〜【如月流・不知火】。目に映るは虚、目に見えぬは実。敵は決して、実を捉えることはできない。
「…真に鋭い攻撃であればこそ生きる防御術か。【各務】――なかなか使えるな」
それは龍麻が既に習得していた徒手空拳【陽】の防御術。全身を感覚器とし、弾丸の射線さえ見切る彼ならばこそ、この技を使う機会には恵まれなかった。元々【攻撃は最大の防御】という戦闘思想の持ち主でもある。だが九角のような強敵相手には虚実を使い分ける防御術は極めて有効に作用したのである。
『オノレ…ッッ!!』
グワ! と九角は天に向かって口を開けた。彼の狙いは、前周囲攻撃!
次の瞬間、猛スピードでダッシュする龍麻。予備動作がほとんど消えている為、一同の目には消えたようにすら映る。そして次に姿を現した時、彼は九角の真正面にいた。
「これだけ接近すれば、四方からの攻撃は無理だな。天童」
『…そうかな? この距離、俺にとっても必殺の間合いだぜ』
「そう思うなら好きなだけあがくがいい。――だが、お前はなぜ、鬼道衆などというテロ集団のリーダーになった?」
「!?」
何を今更そんな事を!? 九角は江戸時代から続く先祖の恨みを植え付けられ、CIA局員の陰謀に乗っ取って、日本を軍事大国へと作り変えようとしたのではなかったか? それすら方便で、本当は強大な軍産複合体に対抗する為、日本を牛耳ることで際限ない闘争を納めようと――
「あれは、お前のやり方ではない」
龍麻はきっぱりと言い放った。
「お前がその気になれば、CIAの陰謀など跳ね除け、この国を支配する事などたやすかった筈。なぜあのような回りくどいやり方をする必要があった?」
『それを知ってどうする? 全ては、既に終わった事だぜ!』
唸り飛ぶパンチ――と見せて、龍麻の組を掴みに行く九角。そこからムエタイ式の膝蹴りを――
「破ッ!」
豪腕に引き寄せられるままに放ったのは、見よう見真似の八極拳、頂心肘! 人間も【鬼】も急所は正中線にある。水月を龍麻の肘に抉られ、九角は血反吐を吐いて膝を付く。
「終わってなどいない。――お前がここにいる事こそその証拠だ。違うか?」
『テメエが知るには…まだ早ェ!』
カッ――九角が口を開く、【鬼鳴念】。至近距離からのそれを【各務】でかわし、ゼロ距離から発剄を叩きつけようとする龍麻――
ガチャン――!!
「ッッ!!」
突如【鬼】の巨体がしぼみ、龍麻の拳が空を切る。その瞬間に、彼の手首は硬い金属音を立てた。
『これで互角(だ』
ガッ――!
【人】の身に戻った九角の拳が龍麻の顔面を捉え、彼は吹っ飛――ばなかった。龍麻の左手首は九角の左手首とを手錠で繋がれていたのだ。
「ヤロウ! どこまでも汚ェ!!」
「だがあの態勢、九角にも不利だぞ!?」
手錠によって繋がれた戦い――チェーンデスマッチ! これでは【各務】を使えない。しかし徒手の技ならば、龍麻に一日の長がある。まして龍麻は、かつて九角に圧倒された彼ではない!
グン! とチェーンに引かれるに任せ、一気に踏み込む龍麻。九角の狙い澄ました突きを手首で受けるや、そのまま【円】の動きで九角の腕を制する。
『おッ!? おッ!? オッ!?』
筋力は【鬼】のままである九角の腕が、ぴったりと張り付いて離れぬ龍麻の手に翻弄される。力の流れを読み、受け流す、中国拳法の【化剄】だ。手錠で繋ぐ事によってかえって不利になったのは九角の方であった。
「――誰がお前のバックにいる? お前が素人を巻き込む事を容認せねばならぬほどの者がいるというのか?」
『素人を巻き込むだァ!? ――あァ、あのチンピラどもの事か。それとも――あの根暗女の事か?』
「――ッッ!」
動揺が技の乱れとなり、その隙を見逃さず龍麻の水月に急角度で九角の膝蹴りが突き刺さる。垂直に弾け飛ぶ龍麻に、さらに追撃のアッパーカット! さすがの龍麻も一瞬意識が飛び、その瞬間に九角の裸締めが極まった。
『あの小娘にゃ感謝しなくちゃな! 深層催眠で眠っていたナンバー9を呼び覚まし、V−MAX発動の切っ掛けを作ってくれたんだからなァ!』
「なに…!?」
『全ては【ヤツ】の思惑通りになったって事だ! あの小娘も宿星の一人! テメエに関わるのは必然だったって事だ! そしてテメエは【ヤツ】の狙い通り【ナンバー9】と【V−MAX】に連なる封印を解いちまった! もうお前は――後戻りできねェ!!』
「天童――まさか貴様――!!」
首を締め上げられ、思考力が低下した状態ながら、龍麻は恐るべき結論へと至った。今までの戦い、鬼道衆の暗躍にCIAの陰謀。そして中途半端な作戦展開に、こちらの情報を握りながら暗殺という手段に出なかった事、果てはわざわざ大戦争に発展しかねないクーデターを起こした事。その――真の目的は…
「俺たち――俺を、強くする為に――!?」
常識に照らし合わせればあり得ない、しかしそう考えれば、鬼道衆が行ってきた作戦全ての辻褄が合う。回りくどい作戦展開に、出来過ぎた出会い。比良坂兄妹を焼き殺した時、炎角がわざわざ名乗ったのも、レッドキャップスと因縁のある水岐をけしかけたのも、風角が事件の調査に来た一同の前で事件を起こしたのも、全ては龍麻を挑発し、事件に介入させるというシナリオに沿って展開されていた事なのだ。【玄武】の如月、【青龍】のアランを出会わせ、佐久間をそそのかして醍醐を【白虎】に目覚めさせたのも、レッドキャップスに深く関わっていたジル・ローゼスのもとに【朱雀】のマリィがいたのも、全て計画の内だとしたら!?
――どこの誰がそのようなシナリオを組んだのかは判らない。しかしそいつは、結果に満足していないのだ。そして、龍麻にとって最も脅威となるもの、九角を今一度甦らせたのだ。そして――
『のぼせるんじゃねェ! 自分の【力】にも気付かない未熟者が! だったらテメエに見せてやる! 闇に呑まれた連中の怒りをなァ!』
九角の貫手が龍麻の背に突き込まれる。剣士ゆえに指の鍛え方は徒手格闘家のそれには及ばないが、指先が食い込むだけで充分であった。膨大な陰気が九角の手を介して流れ込み、凶悪な毒素と化して龍麻の肉体を黒く染めていく。そして――
「ググッ…グゥゥアアァァッ!」
龍麻の口から、獣の唸りが洩れた。
黒く染め上げられた彼の肉体が、異形のものへと変じていく。ざわざわと波打つ髪が硬質の兜とも角とも判らぬものに変じ、口からは恐ろしい牙が飛び出す。これは――変生!?
「――龍麻! 駄目…ッッ!!」
葵が血相を変えて飛び出し、透明な結界の壁を叩く。
「ど、どうしたのッ!? 葵!!」
「龍麻の中で凄まじい怒りと憎悪が膨れ上がっていく…! このままじゃ龍麻の心が闇に呑まれてしまうわ!」
「なんだと…!」
それは醍醐にとって、最も忌まわしい記憶と直結する現象。怒りと憎悪を増幅され、心を闇に染め上げる。その果てにあるのは破壊と殺戮の地獄の愉悦。九角は龍麻に、そんな地獄を辿らせようと言うのか!?
龍麻はそれほど弱くない。――そう葵たちが信じようとも、龍麻自身には隙があった。これまでの鬼道衆の暗躍が、全て龍麻を強くするために行われたのだとすれば、全ての犠牲者は龍麻のために死んだ事になる――と。それを結果論だと言うのは簡単だ。だが、龍麻の思考はそんな逃げ口上を知らぬ。彼が知る、彼に関わりを持った者たちの顔が、敵として向かい合った者も、まったく見ず知らずの者も、この闘争の犠牲者となった全ての者の顔が龍麻の脳裏を走り抜けていく。その全ての顔が彼を恐れ、叫弾し、彼を否定していた。【お前さえいなければ】と。
「駄目よ龍麻! 鬼になっては駄目ッ!」
「そ、そんなコトさせるもんか!」
「クソ! こんな結界など打ち破ってやる!」
全身から【気】を発し、両手を前に突き出す醍醐。――京都で風見拳士郎より教えられた【這】と呼ばれる大氣拳の修練法だ。目の前にある巨大な壁を雄イメージを維持したまま、僅か十センチを一時間かけて進むという鍛錬は、【気】の練成において絶大な効果を生む。九角の結界ですら、醍醐の発する【気】の前に押されてたわみ、悲鳴じみた唸りを立てる。
だが、うろたえ、歯噛みする醍醐たちに一喝したのは、年老いた彼らの【先輩】ではなく、現在、緋勇龍麻という男の背中を守る男であった。
「やめろ馬鹿! この程度であいつらの勝負を邪魔するんじゃねェ! あいつを誰だと思ってるんだ!? 他ならぬ、あの緋勇龍麻だぜ!」
「で、でも! 京一!!」
「あいつがなぜ一人で立ち向かったと思ってるんだ!? この闘いは龍麻と九角の闘いじゃねェ。あいつらが、自分自身の影と戦っているんだ。俺たちにできる事は、あいつらの勝利を信じてやる事だけだろうが!」
「――ッッ!!」
凛として言い放つ、どこか龍麻にも似た京一の一喝。醍醐たちはまだ心のどこかに、龍麻を信じきっていない部分があると気付かされ、己を恥じた。急速に成長しているのは龍麻だけではない。京一もだ。そして彼は信頼すべき男の、自らが目標とする男の心をも察していたのだ。【あいつら】――龍麻が今、戦っている者の心さえ。
「龍麻は負けねェ。信じろ!」
その力強い一言に、葵たちが龍麻に視線を戻した時であった。
もはや爬虫類のそれと化していた龍麻の目が、爛! と輝いた。ナンバー9発動時に見られる赤ではなく、金色に!
「ウオオオアアァァァ――――ッッ!!」
『何ィッッ!!』
【鬼】の力による裸締めが、単純な力によってぶち切られる。二人を繋ぐ手錠は、余りにも膨大な【気】を照射されたために瞬時に蒸発してしまっていた。
『龍麻…ッッ!!』
初めて、九角の声が恐怖に震える。そして、歓喜が。
瞬時に【人】の身を取り戻した龍麻の全身が、燃え盛る黄金のオーラに彩られている。それは神々しくもあり、禍々しくもある、人間には理解不能な【何か】であった。人間レベルで無理に理解しようとするならば、ある種の獣…巨大な霊獣のようにも見えた。
「――俺は、鬼にはならんぞ、天童」
神威の【力】は想いを乗せて具象化する――【ザ・パンサー】響豹馬の言葉が甦る。【力】そのものは中立であり、善き事にも悪しき事にも、龍麻の意思一つで行使されるのだと。
「お前の闘争――ここで終わらせる」
彼の肉体に流し込まれた【陰気】の残滓が、眩い光と散じて消える。――【陰気】を破壊して消し飛ばしたのではない。【陰気】を浄化し、【陽気】へと昇華させたのである。それは九角の持つ【陰気】さえも浄化し、龍麻の力として吸収されていた。
膨大な【陰気】によりて【鬼】に変生すると言うならば、膨大な【陽気】によりては何に変生する!?
『遂に…遂にV−MAX発動か…! この時を…待ってたぜ…!!』
そして九角は、【陰気】を奪われて【人】の形に戻っていた右手を天に向けた。
(――泣けるよな。戦争って奴ァよ)
『ウルゥゥゥゥァァァァ――――――ッッ!!』
変生時に発する膨大な陰気の爆発! それらは全て九角に飲み込まれ、真紅の炎となって九角の全身を覆い尽くす。龍麻が巨大な黄金の龍ならば、こちらは真紅の鎧を纏った武者…巨鬼の武者だ。禍々しさよりも、むしろ神々しさを感じさせる、正に鬼神の類か。二人の放つオーラが珊瑚の触手のようなスパークを散らすや、空中で炸裂音が激しく鳴り響き、空気が二人の間に吸い寄せられていくつもの竜巻を生じさせた。世田谷での決戦時よりも凄まじい【気】の激突によって生じた超現象に、皮肉にも九角の結界によって守られている京一たちも目が離せない。
次の一撃で全てが決まる! 次の瞬間、二人は同時に動いた。
「『――天に還れッッ!! ナンバーナイン9(ゼロ)ッッ!!』」
技を繰り出すのも同時! 九角は【鬼道閃】! 龍麻は【秘拳・鳳凰】!
爆発的な光の乱舞の中、京一たちは見た。切り下ろす手刀から発した【陰気】の刃が霊獣・鳳凰を真っ二つに切り裂くのを。しかし二つに分かれた鳳凰はなお直進し、左右から九角を襲って彼の両腕を食い破る――
『――まだまだァッッ!!!』
攻撃意思そのものを武器に、身体ごと突っ込む九角! そして、龍麻は――
「――連射ァッッ!!?」
オリハルコンが負荷に耐え切れず吹き飛ぶほどの【気】を放ち、撃ち出される奥技は――
「【秘拳・大鳳(】――ッッ!」
『ッッガアァァ――――ッッ!!!』
轟音と共に黄金の火柱が、月をも焦がせと天へと膨れ上がる。その中から巨大な三羽の霊獣・鳳凰が黄金の光輝を散らしながら飛び立っていった。
さらさら、さらさら…さらさら、さらさら…。
優しさを取り戻した風が竹林を吹き抜け、白い花を揺らしている。暗雲は吹き払われ、月光が地上に優しく降り注ぐ静かな夜。――静寂が、戻っていた。
『ククク…良い、月だなァ…本当に良い…満月だぜ…』
「――そうだな」
『ああ…。だが…もう…よく見えやしねェ…』
それはそうだろう。今の九角は【秘拳・鳳凰】を更に昇華させた秘奥技【秘拳・大鳳】を受け、腰から下と、両腕を完全に消失していた。――瀕死の重傷――どころではない。この状態で生きているものがいるとすれば、それは人間ではない。まさしく――【鬼】。
「九角さん…!」
『――来るんじゃねェ』
己の足で立っている者と、ただ地面に横たわる事しかできぬ者と、一目で判る勝者と敗者の構図。両者の間にもはや殺気の片鱗もなく、そして葵は九角に近付こうとしたのだが、静かであっても風刃のごとき彼の制止によって足を地面に縫い付けられた。
『どんなに華やかな祭も、いつかは終わる。――人の命もそれと同じさ。俺の起こした祭はとうに終わっちまってるんだ。だから、余り苛めるなよ』
「苛めるなんて…そんな…」
立ち尽くした葵に、九角は爽やかとさえ言える笑いを浮かべて見せる。
『――まあ、良いさ。怨まれるのも恐れられるのももう慣れちまってる。それよりも…なァ、龍麻よ。それから――テメエらもよォ…』
九角は視線だけ動かして一同を見やった。
『良いか、テメエら。俺が今、ここにいる事の意味を忘れるんじゃねェぜ。なぜ俺が、こうして再び【力】を得る事ができたのかって事を――』
それを龍麻一人にではなく、自分たちにも告げた事に驚愕する京一たち。思えば、彼が京一たちの存在を直視したのはこれが初めてだったのだ。
「再び…【力】を…?」
「…どういう事だよ?」
九角はほんの少し目を見開き、ふうッとため息を付いた。
「テメエ! 今俺たちの事すっげェ馬鹿にしただろッ!?」
それは、龍麻が良くやるポーズ。そして彼の返答も、また――
『気にするな。その通りさ』
さもおかしそうに、九角はクックと喉の奥で笑う。
『テメエらは知ってる筈だぜ。陽(と陰(の間(に巣食う、底なき欲望の渦を。――忘れてんなら思い出せ。前世も現世も、陽と陰は同じ場所から生まれたって事をよ』
さらさら…さらさら…。
笹の葉ずれが再び響き、それと共に九角の身体が崩れ始める。
『――いずれにせよ、真の恐怖はこれからだ』
静かな崩壊の時を迎えながら、九角は一同に語りかける。
『この先、テメエらに安息の時はねェ。せいぜい、テメエらの言う大切なモンとやらを護り抜くが良いぜ。俺はとっくに、そいつをどこかに落としてきちまったがな』
「――そうでもない」
龍麻は彼の胸に、彼の持っていた銃――AMTハードボーラーを置いた。
「俺たちはお互い、互いを縛る鎖だった。だがもう、俺たちを縛るものは何もない。それでもなお、たった一つの誇りを抱いて逝くが良い。――対テロ特殊部隊レッドキャップス・ナンバー0・九角天童隊長」
『…………ケッ』
九角は、しかし照れたように吐き捨てた。
『お前って奴は、本当にどうしようもねェお人よしだな。――まあ良い、同じお人よし同士、お前はあの女を護ってやりな。お前とあの女が共にいる限り、テメエらに負けはねェ。その為にも――コイツはお前が持って行け。俺にはもう必要ねェが、お前にゃまだまだ必要さ』
「……」
龍麻は無言で、ハードボーラーを握り締めた。
『――良い銃だぜ。大事に使え。――さらばだ(、戦友(』
「――さらばだ(、友よ(」
その言葉が冥界の門を開く呪文であったか、九角は静かな笑みを残して消滅して行った。
龍麻は静かに、友と呼んだ男の消滅を看取る。誰一人、彼に声をかけることもできずにその背中を見続けた。
誰一人、破ることはできまいかに思われた沈黙。しかし、とうとう耐え切れずに醍醐が呟いた。
「あいつ――まさか始めから、俺たちにこの事を伝えるために――!?」
それは、この場の誰もが共通して抱いていた考え。それは、まったく事情を知らぬコスモレンジャー三人組ですら例外ではない。しかし、ただ一人、小蒔だけは身を震わせながらそれを否定した。
「そんな――! だ、だって、アイツは悪い奴だったじゃないか…ッ! アイツの――アイツのせいでたくさんの人が犠牲になって…!」
それ以上は声にならない。これまで様々な事件を起こし、三桁を越える人々の命を奪った鬼道衆の頭目が、まるで警告のような――否、自分たちに対する助言めいたことを告げて死んでいったのである。小蒔の混乱も無理はなかった。彼もまた、踊らされた一人だと判っていても、それでもなお、彼女は九角が許せなかったのだ。
「…そうかも知れない。けれど、龍麻にとって彼は隊長であり、仲間であり、血の繋がった従兄弟でもあるのよ…」
「わ…判ってる…判ってる…ッ! けど…けど…ッ!」
「あの人だけが悪い訳じゃない…。あの人は…何か…抗いがたい大きな力に飲み込まれて、押し流されてしまっただけ…。地上の権力とか、そういうものじゃない、何か大きな力に…」
彼女の瞳には、より明確に、九角が龍麻に託したものが視えていた。
「もしも…もしも時が違えば…私たちは違う出会い方ができた筈。あの人も…人としての安息を求めることができた筈…。こんな形で命を落とすことなどなかった筈なのに…」
「でも…でも…!」
もしも――筈――。それは全て仮定の、実現しなかった願望。
「そこまでにしてくれ、小蒔。――頼む」
「――ッ!!」
短い龍麻の言葉が、小蒔にそれ以上の激情の発露を止めさせた。
「嘉手納基地が消滅した時、俺と彼の立場が入れ替わっていたら、彼がお前たちの指揮を執り、俺がお前たちの敵になっていたかも知れん…」
より多くの死を防ぐために、泥を被る邪妖精。立場が違えば、誰もがそうなりうる可能性があった。それはナンバー9…龍麻でなくとも…。
「それは違うぞ、龍麻よ」
静かに、龍山が諭すように口を開いた。
「あ奴は、ここへ死に場所を求めて来たのじゃよ。鬼と成り果てた身に、僅かに残った人の心でな」
「龍山先生…」
龍山は葵に手のひらを向け、【しばし待て】と告げた。
「そして、あ奴の望みは、最後に龍麻と戦い、互いを縛る鎖を断ち切ること。――龍麻よ。お主は見事にその想いに応えた。その果てに散ったのならば、あ奴も本望じゃろうて」
「………」
それもまた、生者の語る奇麗事。決して知りえぬ、死者の想い。だが龍麻は、長い長い沈黙の果てに、小さく頷いた。
「けどよ…」
やがて京一が、やや遠慮がちに口を開いた。
「あいつが得た【力】って、なんだったんだ…?」
それもまた、全員の胸に共通して存在する疑念だ。九角は全身をガンに侵された身で戦いを挑み、己の肉体を変生させてまで戦い、倒れた筈だった。あらゆる怨念も、憎悪も、全て解き放って。――だからこそ、今回の九角の復活は、彼らにとって驚天動地の出来事だったのだ。
いや――龍麻はそれを知っている! 否、知ったというべきか!?
「まさか――誰かがあの人を【鬼】として甦らせた…!?」
葵の指摘に、醍醐も表情を硬くして後を継ぐ。
「強い怨念を抱えて死んだ者を、あるいは憎悪を人に憑かせて【鬼】と変える――。それが鬼道ということは…」
九角は龍麻たちが倒した鬼道五人衆を、その怨念のみを【鬼】と変える事ができた。そして九角が【鬼】として甦ったのならば、他にも誰か、【鬼道】を使える者がいるという事になる。脳裏に閃くのは、鬼道五人衆と五色の摩尼に付いて話を聞いた時の龍麻の疑問。――九角に解けぬ鬼道五人衆の封印を誰が解いたのか?
「…まだ、何も終わっちゃいねェって事かよ。いや、今までの戦いこそ、前哨戦に過ぎねェのかもな」
「うむ…。先生…。先生はご存知なのですか? 一体これから…何が起ころうとしているのか…?」
一同の真剣な眼差しを一身に浴びる龍山。やはり事情を悟れぬコスモレンジャーも、龍山の言葉を聞き逃すまいと真剣に耳を傾けている。
「――わしに言える事は一つだけじゃ」
ややあって、それこそ搾り出すように、龍山は口を開いた。
「刻(が迫っておる。この東京に眠る大いなる【力】が解き放たれる刻が。そして――それを手に入れるためだけに存在しているものの影が、この東京を覆い尽くす時が――」
それは、新たなる戦いの予感。戦いの始まりを告げる鐘の音――。一同の胸中を、無明の彼方に去った男の慟哭が木霊する。
――真の恐怖はこれからだ
重苦しい沈黙。一つの戦いが終わりを告げ、自らの力で取り戻した平穏が、音を立てて崩れていく。これまでの戦いこそ、前哨戦。真の戦い、真の平穏を取り戻すのは、まだまだ先の事――。
「…上等だ。どこの誰だか知らねェが、今度こそきっちり決着をつけてやるぜッ」
「…並大抵の覚悟でできる事ではないのじゃぞ?」
こんな台詞さえ軽い口調で言ってのける京一に、龍山はある男の面影を重ねて、諌めるように言う。
「当たり前さ。それ以前に――俺は影でコソコソ動くヤツは昔っから嫌いなんだよ」
このような時、いつでも雰囲気をポジティブな方向へともって行く京一に、小蒔も迷いを吹っ切ったような清々しい顔を見せた。
「そうだよね…! ボクもそういうのってムカつくよッ」
「俺も異議はない。これまで犠牲にされた者たち、そして踊らされ、悪の泥をかぶらされた者たちのためにも、この戦い――負けられん!」
「これで…全てが終わるのなら、私も戦います…!」
それは彼らの、新たなる決意。しばしの平穏に告げる別れの言葉。そして再びそこを訪れるための、遠い約束。――必ず、【ここ平穏】へ帰って来る――
一同の目は、自然に龍麻に向けられた。
「龍麻…」
龍麻は固く銃を握り締め、胸に抱いていた。右手にはコルト・アナコンダ。左手には、AMT・ハードボーラー。二人の戦士が彼に送った、新たなる力。
冷たい鉄の感触を愛しむかのように抱かれていた銃が、華麗に舞い踊り始めた。
その巨大さゆえに、決してバランスが良くない銃が二丁。それが緋勇龍麻という男の手の中で、優雅に、優美に、激しく踊り狂う。あたかも、銃に生命が宿っているかのように。あたかも、彼の身体の一部であるかのように。いや、彼の一部と化していくのだ。
激しい銃の回転は風を呼び、大きく振られる腕が旋風を生み、拳の道に生きるもの、緋勇龍麻と、銃の道に生きるもの、ナンバー9を融合させていく。拳と銃の達人が見せる、まさしく【拳】【銃】一体の演舞。それは新たな戦士の誕生の雄叫びとも、死せる戦士への手向けとも取れた。そして――激しく回転しつつ天へと差し上げられた銃は、その回転を緩めぬままに地へと駆け下り、彼の腰のホルスターにぴったりと納まった。
一瞬、彼の全身から闘気が膨れ上がり、パアッと弾ける。
それが、【儀式】の終りを告げた。
今までの彼と同じ、そして、今までの彼とは違う、緋勇龍麻がそこにいた。
「…これからの戦いは、【俺たち】の戦いだ」
「…ッッ!!」
龍麻の言葉に、熱い胸の高鳴りを覚える一同。彼はきっぱりと言った。【俺たち】の戦いと。
「この平穏が偽りであるならば、再び闘いに身を置く事を厭わぬ。そして今度こそ、真の平穏をこの手に掴む。――お前たちと共に」
「応ッ! そう来なくちゃな!」
京一が、醍醐が、小蒔が、葵が、龍麻の下に集まる。あと、コスモレンジャーも。
再び始まる戦いを前に、肩を叩き合いながら決意を新たにする一同に目をやりながら、龍山はかつてある日々を思い出す。
(とうとう…始まってしまうのじゃな…。この地の未来を賭けた…本当の闘いが…)
だが、彼らは自分たちとは違う。悔いの残る選択をしてしまった、自分たちとは。願わくは、如法暗夜の道行きに、今宵の月光のごとき光明が道標とならん事を。
真円を描く月は、昔も今も、冷たくも優しい光を惜しみなく地上に降り注いでいた。
第壱拾伍話 胎動 完
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