
第壱拾伍話 胎動 1
【足元の床板を持ち上げて下を覗いてごらん。君が地獄の真上に立っていることがわかるから】
―― ベンジャミン・T・セレスト
月が出ていた。
満月ではないが、ほぼそれに近い円を描く月。竹林を吹き抜ける風が肌寒く感じる季節の空気は澄み渡り、晧々とした光の帯を地表にまで届けさせる。そこかしこから聞こえてくる虫の音は、過ぎ去りし夏への名残歌だ。
「…今宵の月はまた見事なものよ…」
古びてはいるが、見た目以上にしっかりしている縁側にあぐらをかき、白蛾翁・新井龍山は手にした杯を口に運んだ。
【この世をば、わが世とぞ思う望月の、欠けたる事もなしと思えば】
平安時代、時の朝廷の実権を握り、栄華を極めた藤原道長の謡った歌である。あれから千年以上も過ぎ去った現在、一体どれだけの人間が、かの一族と同じ想いを抱いている事か。政界、財界、企業、一般市民、果ては不良少年グループに至るまで、己の卑小な精神が満足する範囲で、【世界は自分のためにある】と思っている事だろう。――それが、嵐の海を行く笹舟のようなものだとも知らずに。
この秋口、数ヶ月に渡って東京を恐怖に陥れた戦いは終わりを告げた。
【彼ら】は今、自分達の手で取り戻した平和を楽しんでいる事だろう。多くの者が知りつつも、誰もが素知らぬふりをして、感謝は胸の内に秘め――彼らもそれを良しとして。――月も、それを知っている。この東京を護り抜いた若者達の姿を。彼らと手を取り合った、心ある人々の姿を。
「身に凍みる秋風すらも、今宵は心地良く感じる…」
一人、独白するように呟いた龍山は、親しい友に向かってやるように杯を闇に傾けた。
「――お主も、この風に誘われたか…」
不意に吹きぬけた風が竹葉を揺らす。ザワザワと竹林がざわめく音は、大勢の何者かが笑っているとも、呻いているとも聞こえた。
「…そうか。さぞや苦しかろうよ。怨嗟の念はまだ消えぬか…。まだ常世の河を渡るには未練があるか…」
龍山の耳には、竹林のざわめきが亡者の声に聞こえるのか? 常人には目に見えず、耳に聞こえず、感じる事もできぬ【それ】に、龍山は訥々と語り続けた。
「…よく聞くがよい。因果の渦と宿星からは何者をも逃れる事はかなわぬ。そう…なにものであろうとな…」
それは怒りか、慟哭か。風は渦巻き、吹き荒び、竹林を更にどよめかせる。しかし龍山は静かに杯を傾けるのみで、彼の髪はそよともなびかない。
「それでも戦うか…。まこと…深き業を負わされたものよ…。いや…切っ掛けは彼奴らでも、お主たちは自ら道を選び取ったのであったな…」
竹林のざわめきがすう、と絶える。闇に潜む何者かは、龍山の答えに満足したようだ。
「龍麻よ…刻(は近い。――この東京が混乱と戦乱の闇に包まれる日は――」
龍山の手の中で杯が激しく震え出した。彼の震えではない。杯の中で酒が煮え立っているのだった。
「心せよ…。その刻は間近に迫っておる…」
遂に、龍山の手から酒があふれ出た。
それは、血の色をしていた。
「破ッ!」
薄暗がりに気合が迸り、異形の怪物が一撃で屠られ、瞬時に崩壊する。異形のものには、そのような結末が自分を待っているとは予想すらできなかったに違いない。この階層において最強を誇る彼の爪は目の前に現れた人間の胴を輪切りにする筈であったのに、それはふわりと優しく止められ、驚く間もなく清々しい【気】が自分を瞬時に滅殺してのけたのだ。
「ふむ…」
そいつで、この階層に発生していた異形は全て片付いた事になる。ここは東京都立真神学園旧校舎、地下六五階である。【階】と言っても、便宜上その方が解り易いだけであって、実際には異空間をあっちこっちに飛ばされているだけかもしれないし、あるいはこの場所自体がバーチャル・リアリティーを駆使した巨大なシミュレーターの中なのかもしれない。――と、それはさて置き、修学旅行から帰ってきてから一週間。龍麻は旅行中に学んだ技を元に、己の技能向上に余念がないのであった。
それに、【あの力】の事がある。【大地の力を受け継ぎしもの】の【力】。
自分の【力】は想いを乗せて具象化し、人も魔も救えるという。しかし龍麻自身、それがどういう事なのか判っていない。【力】を【道具】としてしか見てこなかったからだ。
これからは、それだけではいかんと思う自分がいる。京都の一件で学んだのは、これからの生き方の指標にもなり得る事だった。
【君はまだ、限りなく人間に近い機械に過ぎない】
【仲間の信頼に応えるのは、どちらの君だろう?】
【人を愛する事さ】
あの、響豹馬の声が甦る。
一年前の自分ならば、彼の言葉の意味を理解する事は無理だったろう。理解するどころか、無意味な単語の羅列として、記憶にとどめる事すらなかったに違いない。しかし今、数々の戦いを経て人間たらんとする龍麻には、極めて重要な指標の一つとなった。かつてナンバー0…九角天童が言った「せめて、人間らしく」の意味がようやく見えてきた。【対テロ特殊部隊・レッドキャップス・ナンバー9・緋勇龍麻】。全てを内包する、それが自分の、【人間として】の名前だったのだ。
血と闘争の世界に舞い戻り、再び捨てかけていた【人間】だが、これからは違う。
これまで自分と関わってきた人間達、友に、仲間に、その他多くの人々に、敵――。自分という存在は、彼らが与えてくれたものだった。人は一人では生きていけない。彼らがほんの少しづつ分け与えてくれるものを集め、自分は【自分】という自己を認識、確立できる。ならば手に入れた【自分】を自ら捨ててはならない。
「――これからの戦いは、自分自身の為の戦いだ」
龍麻は自分にそう言い聞かせ、拳を固めた。
いつもは青白く放たれる【気】が、黄金の輝きを放っていた。
十月に入り、過ごしやすい日も増えてきた。進路指導も本格化しているので三年生はこれからますます厳しくなっていくが、少なくとも今日は、まだのんびりムードが三−C教室内を漂っていた。
「あ〜、終わった終わった」
「早く帰ろうぜ」
「帰りに東急寄って行こ〜」
修学旅行というイベントも終わり、再び勉強の日々が、辛い浮世の現実と向き合う日常が帰ってきた。授業が終われば早々に帰りたいというのが多くの学生の気持ちだろう。
「あれ? 緋勇君、まだ帰らないの?」
「今日は、ホレ、合同部会の日だから、部活やってる連中はみんな会議中だぜ」
ふむ、と龍麻は顎に手をやる。そう言えば京一たちがそんな事を言っていた様な気がする。自分には直接関係がないことなのですっかり忘れていたのだ。
「あ、そう言えば緋勇君。さっき犬神先生が探してたよ。職員室で待ってるって」
「うむ。了解した」
頷いて立ち上がる龍麻。帰宅部の同級生達は、女子は手を振って、男子は軽く敬礼をして帰っていった。
(犬神先生が俺に用事か…。一体どの件だろうか?)
仁和寺での戦い、レジャー施設建設現場での戦い、帰りの新幹線内での賭け麻雀と爆弾処理など、思い当たる事は盛り沢山である。いずれも一週間ほど前の出来事だが、【あの】犬神の事だ。人間とは異なる時間感覚を持っていても何ら不思議はないし、たった今まで読んでいた新聞にも、偶然にも真神の修学旅行生が乗った新幹線に爆弾テロを仕掛けた犯人が逮捕されたという記事が載っている。それを解決したのが龍麻と承知している彼ならば、一言くらいあろうものだ。
ともあれ、別に敵対している訳でなし、学園では生徒と教師だ。龍麻はカバンをそのまま教室に置いて職員室に向かった。
職員室は例によって例のごとく、人がいなかった。とは言え、以前のような不自然さはなく、生活感が色濃く漂っている。合同部会は顧問の教師も参加するのだから、人がいないのはむしろ当然であった。
だが、目的の人物だけはそこに残っていた。
「よォ、緋勇。お前が一人とは珍しいな。――と、そうか、今日は合同部会の日だったな。他の奴らは今頃、来期の予算編成やら次期部長の選出やらに追われている頃か」
「肯定であります」
いつもながら固い返事ではあるが、その中にも奇妙な親しみの響きがある。龍麻自身の本質は変わっていないだろうが、彼の周囲を取り巻く雰囲気が和らいでいるのを感じ取った犬神はふっと笑みを洩らした。
「まあ、お前は部活がない分、暇な時間があるだろうが、下らん事にばかり首を突っ込んでいないで、少しは将来に関わる勉強はしているんだろうな?」
「肯定であります。この場で大学入試問題を出されても問題ありません」
とんでもない事を口走る龍麻に、しかし犬神はますます笑みを深くする。この男が笑いに人間味を込めるのは、龍麻を含めても数えるほどしかいない。
「お前は全国の受験生の敵だな。――ところで緋勇、修学旅行で泊まったホテルのある山の事だが――暴力団との癒着が発覚したレジャー開発会社が、地域住民の猛反対と行政指導を受けて山から撤退したそうだぞ。それどころか、どこかの資産家が山を丸ごと買い上げて、永久緑地に指定したそうだ」
「それは重畳」
龍麻の返事は、その一件に深く関わった者としてはそっけないと言えた。自分と因縁浅からぬ相手であったとは言え、龍麻としては【ザ・パンサー】一行の支援を勝手に行っただけであり、レジャー施設の開発が白紙撤回されたのは隆たちの努力によるもので、自分達は関係ないと考えているのだ。第一、あの山が本当に神聖な場所であると判った以上、IFAFの対妖魔セクションが放って置く筈ないのだ。今頃あの山には【們天丸】なる天狗を祭る祠が再建され、地元の信仰を集めている事だろう。
「まさかとは思うが、お前達、この一件にも首を突っ込んでいたんじゃないのか?」
「肯定であります。――そもそも犬神先生は、【まさか】などとは思っていらっしゃらない。そうではありませんか?」
犬神の笑みが苦笑に変わる。彼は全てを知っている。それを白状したも同然の笑みだった。
「結果的に良い方向に出たから良いようなものの、あまりにも無責任な行動だな」
「認めます。軽率に過ぎました」
殊勝に頭を下げる龍麻。これは当然だ。装備もろくにないまま、IFAFエージェントの【戦争】に介入してしまったのだから。
「救われた者がいるから良しとするが、調子に乗りすぎると足をすくわれるぞ。――お前なら二度目はないだろうがな」
「今回の件は自分にとって良い教訓となりました。得るべき事、学ぶべき事も多く、実に有意義であったと考えます」
「フッ…自省に自戒、お前の良いところだな。それができる人間はなかなかいない」
それから犬神は机の下をごそごそやって、三つの小包を取り出した。一つはなにやら細長い。
「二つは村の青年団からお前ら宛てだ。残りは、彩雲学園の連中から、お前個人に宛てた物だ」
「――この場にて開封の許可を願います」
そこでふと、犬神の顔つきが神妙になった。
「…ここでなきゃ駄目か?」
「彩雲学園の友人は、犬神先生に宛ててこれを送ってきています」
龍麻の雰囲気は穏やかで、どこにも緊張はない。犬神を、緊張も警戒も無用の相手であると信頼しているのだ。苦笑して、犬神は煙草を持った手をドアの方に向けて宙に紋様を描き、軽く頷いた。
青年団から届いた小包には京都土産の定番、生八つ橋が礼状と共に入っていた。ざっと目を通すと、天狗の祠が再建された事、元ヤクザたちと良い形で和解できた事、やはり【もんちゃん】や【ピセル】の事は信じてもらえなかった事などが書かれていた。更に、もう一つの荷物に関する事も。
「…【獅子心王の剣(】…」
細長い包みから現れたのは、【テンプル騎士団(】団長ジャック・ド・モレーの佩剣であり、ジル・ド・レエ伯爵が響豹馬と決闘した時に帯びた長剣であった。
『突然、このような物をお送りする無礼をお詫びいたします。実は先日、ピセルさんが夢枕に立ち、この剣を真神の緋勇龍麻様に送るようにと告げられました。緋勇様ご自身が手に取る事はなくとも、いつかこの剣を手にする者が現れ、緋勇様の助けとなるとの事です。それは緋勇様を始め、真神の御一同様がまたあのような戦いをしなければならないのかと不安を禁じ得ませんが、その時はピセルさんも馳せ参じるという事ですので、私たちは及ばずながら皆様の無事を祈らせていただきます』
「…まだ戦いは終わらぬ、か。――む?」
『追伸。剣を送る時は料金着払いで良いとピセルさんがおっしゃっていたのですが、本当によろしかったのでしょうか? せめて梱包代だけは私たちが出させていただきました』
さすがに、龍麻の眉が寄り、への字口の角度が鋭角になる。
「…犬神先生、この料金着払いというのは…?」
「ああ。代わりに払っておいた。ほら、請求書だ。後でも構わんが、ちゃんと払えよ」
「…それは構いませんが、なぜ一四三一年に亡くなった人物が現代の郵便システムを知っているのですか?」
「そんな事、俺が知るか。――そういう推理はお前の方が得意だろう?」
「むう…」
何かからかわれているような、釈然としない気分。どう記憶を捻っても、龍麻にピセルとの接点はないのだ。共に戦ったという言葉も謎のままである。
情報がないまま考えても時間の無駄だ。龍麻は残る小包に目を移した。
かの彩雲学園から届けられたという小包。これは、【獅子心王の剣】以上に問題であった。
これを取り出す時、犬神が少し顔を歪めていただけあって、包装紙に触れただけで静電気のような刺激が龍麻の指に走った。構わず包装を解くと、中から出てきたのは小型のジェラルミンケース。そして、その中に詰まっていたのは…。
「【アナコンダ】…」
拳銃開発からの撤退を決めたコルト社が最後に世に送り出した、コルト社最大の拳銃、コルト・アナコンダ・四四マグナム・八インチモデル。派手さを好まぬ龍麻に合わせたか、特注のクロームメタル・フィニッシュ。そして【彼ら】がわざわざ送りつけてきた物だけに、ただの拳銃ではなかった。アランが使用する霊銃と同様、仔細に目を凝らせば銃身からフレームに至るまで、極めて微細な祭祀呪文が刻まれている事が見て取れる。完璧に龍麻の手に合わせて製作された胡桃材のオーバーサイズド・グリップを握ると、鉄の冷たさとは異なる冷気がひんやりと手に伝わってくる。IFAFエージェント、【ストライダー】が使用する独特の処理を施されているのと、材質そのものに伝説の金属、オリハルコンが使用されているからだ。
「…特注弾丸が二種類…。一つは重装甲用四四マグナムHESH(粘着榴弾)、もう一つは対妖魔専用ダブルブリット…? タングステン使用のAP弾頭に浄魔処置済み水銀炸薬使用の炸裂弾を重ねた新型…か」
犬神がドアに【人払い】の術をかけたのはこのためか。龍麻はアナコンダの銃身やシリンダーに異常がない事をチェックし、弾丸を込めず、ダブルアクションで撃鉄が落ちる寸前まで引き金を引いた。トリガー・プル(張力)は一・二キロ。これだけの大型拳銃としては危険なほど軽い。
「――自分に化け物退治でもしろと言わんばかりですね」
「俺には向けるな。【それ】なら【俺】でも殺しきれるだろう」
龍麻はアナコンダをケースに収めた。
「そんなつもりは毛頭ありません。ですが、これはありがたく頂いておきます」
それから龍麻はふと、思い出したように付け加えた。
「失礼ながら、犬神先生はお幾つでいらっしゃいますか?」
「…幾つに見える?」
「外見は三十代半ば。【気】から察すると、最低でも八百年以上としか判りかねます」
一体龍麻は、自分が何を言っているのか判っているのだろうか? と、この場に彼ら以外の者がいれば、そう思ったに違いない。
「フッ、まったく凄まじい成長スピードだな。もう、【判る】ようになったか。――それで、【お前】は【俺】をどうしたい?」
「今の自分があるのは犬神先生のご指導あってこそです。今後ともよろしくご指導の程を。――では、失礼します」
そして龍麻はいつものようにきりっと敬礼し、職員室を出ようとした。と、その時、【人払い】の結界が破れて、少し慌てた様子のマリアが入ってくる。
「あ、アラ、緋勇君。どうしたの? こんな所で…」
龍麻と犬神が一緒にいる事が、マリアには意外だったらしい。どう答えたものかと龍麻が考えるまでもなく、犬神が答えた。
「ああ、緋勇宛てに小包が届きましてね。――あったでしょう? 地元のご老人を介助して家まで送っていったという一件が。その、お礼ですね」
相変わらずのとぼけた顔で、犬神はさらりと言ってのける。少なくとも嘘は付いていないし、ごまかす意図もないので、マリアも相好を崩した。
「まあ、そうでしたか。他人への心配りは、良い形で帰ってくるものですね」
「肯定であります」
こちらも相変わらず、ガッチガチの態度で応じる龍麻。ただし話題に合わせて柔和な雰囲気を保っているので、マリアの微笑も穏やかである。
「その心をいつまでも忘れないでね。――先生は私用でもう帰らなくちゃいけないんだけど――」
そこで龍麻は、彼を知る者には極め付けに意外な言葉を発した。
「それは残念です。お時間があれば、先生をデートにお誘いしようかと思ったのですが」
「エエッ!?」
思わず口調が小蒔になるマリア。
「地元商店街の福引で居酒屋さんの優待チケットをもらったのですが、興味はあるものの学生の身で居酒屋に入る訳にも行かず、ならばマリア先生にご同伴いただき、常日頃お世話になっているお礼をしたいと思った次第であります。無論、自分は酒を飲みませんが」
「そ、そうなの!? で、でも、それはまた今度ねッ。今日はちょっと先約があるから…ごめんなさいね」
「では日を改めて…いや、やはりあきらめます。教師同伴であればと思ったものの、むしろ先生の方が学生を居酒屋に連れ込んだと邪推されてしまいますしね」
「そ、そんな事はないと思うわ。学校の中だけでするのが勉強じゃありませんからね」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。学生には見えないような服装をコーディネートいたしますので、ご期待ください」
「え、ええッ。楽しみにしてるわ。ご、合同部会はもう終わったから、きっとみんなも教室にいると思うわッ」
あまりにも意外すぎることを言われたせいか、マリアの慌てっぷりは滑稽かつ愛くるしかった。しかし辛うじて教師の顔を取り繕うや、あたふたと去っていった。
珍しく、犬神が笑みではなく、口元に手をやって噴き出した。
「ハハハッ…お前が年上趣味とは知らなかったな。いつの間にそんな腹芸を覚えた?」
「新たな友人達におだてられまして。しかしマリア先生に釣合う為には二百年ほど修行が要りますね」
またしても謎めいた言葉を言い置き、龍麻は職員室を辞した。
残された形の犬神は、新しい煙草に火を点け、紫煙を盛大に吐き出した。
「これまでの例にないほど急激に成長しているな…。刻(は――近いのか…」
【獅子心王の剣】のみ【旧校舎】の【本部】に納め、生八つ橋と四四マグナムと、でたらめな取り合わせの贈り物を手に龍麻が教室に戻ると、そこにはいつものメンバーが揃っていた。
「あっ、ひーちゃん。良かった、まだ帰ってなかったんだねっ」
「――だから俺が言ったろ。ひーちゃんが俺たちを置いてさっさと帰ったりしねェって」
小蒔はともかく、京一の台詞は空々しい。醍醐は後で「まったく調子のいい…」と呆れている。葵は笑っているが。
「京一、その言葉に嘘はないか?」
「な、なんだよひーちゃん! 当たり前だろッ。俺とひーちゃんの仲じゃねェか」
おお、そうか、と答え、京一の肩に手を廻す龍麻。そしてその耳元で妖しく囁く言葉は――
「………………愛しているぞ、京一」
ピシイッッッ!!
生木が爆ぜ割れるような音を立てて石化する空気。京一は完全に石と化し、小蒔の頭からはミニひまわりが生え、醍醐の顎は一瞬だが床にまで届いた。
「…ほんの冗談だ」
ガラガラガラッ! と、何かが崩れる音。石化した空気が崩れたらしい。
「ひーちゃん! 悪質な冗談はやめろよなッ!!」
全身を襲う悪寒に体中をかきむしる京一。
「ひーちゃん…同人誌に書かれちゃうよ…。パロのパロやってどうすんのさ…」
何気なく危険な事をのたまう小蒔。醍醐は【ムンクの叫び】状態によりノーコメント。そして葵は…あっちの世界に行ってしまわれた。
「うふ…うふふふふふふふふふふ…龍麻なら受けでも攻めでも使えるわね…。うふふ…ふふ…うふふふふふ」
「葵! 駄目だよ! 帰ってきて!」
必死に妄想の桃源郷からの帰還を懇願する小蒔。麗しき友情である。
「さて、楽しい冗談はさて置き…」
「「「楽しくないッ!!」」」(ちょっと良いかも)
「――何はともあれ、かの村の青年団から礼状と贈り物だ」
机の上に生八つ橋を置くと、やっと平常を取り戻す一同。
「わあっ、生八つ橋!」
「おお〜っ、うまそう〜っ!」
今の出来事など(強制的に)忘れ、早速贈り物に手を伸ばす京一と小蒔。二五個入りだから五個づつ! と小蒔が言っているのに、両手で届く範囲をガメようとする京一に、醍醐の教育的制裁が叩き落される。
「それにしても、こんなに早く結果が出るなんて。あれからまだ一週間よ」
「そうでもあるまい。もとより全国各地で無駄な公共事業の見直しが叫ばれているところに持ってきて、建設会社と共謀していた元ヤクザ…我が同志までが味方についたのだ。裏ではIFAFも動いていただろう。しかし、きっかけを作ったのは隆殿と村の青年団である事は間違いない」
「それと、【俺たち】のお蔭だろッ」
口に生八つ橋を詰め込んだまま付け加える京一であったが、龍麻と醍醐の分にまで手を付けた事が判明し、今度は龍麻の教育的制裁に沈まされる。
「我々は単に成り行きから支援したに過ぎん。恩の押し売りはいかん。ましてや貴様、人の心づくしにまでその意地汚さを発揮するとはどういう了見だ?」
「いひゃい…ひーひゃん…ひゃめれ…ほれがふぁるはっは…」
涙目で京一が訴えた時、龍麻の力で思い切りつねられていた彼の頬は某ペ○ちゃんのごとく赤くなっていた。これは鉄拳制裁よりも痛い。
「でも、本当に良かったわ。あんなに素敵なところが壊されるなんて、あってはならない事ですもの」
「うむ。多少なりと関わった身としては、彼らの勝利を祝ってやるべきだな」
口ではそんな事を言いつつ、醍醐も自分の分を食べた京一への制裁を忘れない。さりげなく京一にヘッドロックをかまし、赤毛の頭にごりごりと拳を擦り付ける。げに恐ろしきは食い物の恨みである。
「それじゃ、みんなも揃った事だし、そろそろ…」
「うんっ。そうだねっ」
自分の分はしっかり小蒔に確保してもらっていた葵が、皆を促す。小蒔は元気良く肯き、復活した京一も木刀を肩に担いだのだが、龍麻と醍醐だけはきょとんとしていた。
「ん? なんだ? 今日は何かある日なのか?」
「あら? 忘れてしまったの、醍醐君」
彼女にしては珍しく、呆れたような響きを口調に込める葵。
「もうッ、しょうがないな。ボクなんて一週間前から楽しみにしてたのにさッ」
小蒔にまで言われ、本気で頭にハテナマークを浮かべる醍醐。見れば隣で龍麻も同じように考え込んでいる。
「あ、そうか。ひーちゃんは知らないよね。――エヘヘッ、今日は花園神社で年に一度の縁日があるんだっ。だから、皆を誘って行こうって葵と話してたんだ。ねっ、ひーちゃんも一緒に行くよね?」
しかし、龍麻は考え込む姿勢を崩さない。
「…その前に、縁日とは何だ?」
「あ…!」
初めて出会った頃に比べて随分と人間味を増した彼だから忘れていたが、彼はアメリカ軍の特殊部隊の兵士だったのだ。子供の頃から人間的感情を消す訓練を強いられ、この歳にして完璧な兵士として生きている彼が、縁日など知っている筈ないのである。
「そうだね…縁日っていうのは、お店の明かりが凄くきらきらしてて…」
(店がきらきら…)
龍麻の頭に、歌舞伎町のネオンサインが浮かぶ。【ピンクサロンXX】、【五〇〇〇円ポッキリ】とか、ああいう奴である。
「ああ、威勢のいいテキヤがヒヨコとか風船とか、時々手も出ないような高いものを売ってたりしたな」
【敵や】というのは何だろう? 武器商人を示す隠語か? ヒヨコとか風船とかと一緒に手が出ないほどの高価なものを扱う…龍麻の頭の中にアフガニスタンの武器市場の光景が浮かぶ。そこでは多少錆びの浮いている自動小銃やロケット弾頭に混じり、野菜や家畜なども売られているのだ。同時に、ある資産家の仮面を被った麻薬王を始末する為に潜り込んだサザビーのオークション会場も思い出された。
「おお、そこにきれいに着飾ったオネーチャン達が団扇を持って歩いていたりするともうたまんねェ!」
団扇を持った着飾った女性? 京一が喜ぶような? 龍麻の脳裏に浮かぶのはアラブの石油王のハレムにいた女性達である。金銀の宝飾品と薄絹で着飾った女性達が主人の為に豪華な羽団扇を優雅にあおぐ姿が蘇る。あの時は確か、ナンバー0とナンバー11、そして自分が女装(!)して潜入し、ターゲットを始末したのであった。ナンバー11がやけに乗り気だったのに対して、元々女性であったナンバー8とナンバー13は命令を断固拒否していたな。あの二人は爆弾処理に関わっていた為、精神凍結処置が施されない事が多かったから…と、しみじみと述懐する。
「うふふ…。小さい頃は私もそういうお姉さん達に憧れたものだわ」
「…そうなのか?」
現在の葵に、彼の認識内にある【お姉さん】達の衣装を重ねる龍麻。ローゼンクロイツの一件と、先の混浴露天風呂の一件を元に、完璧に再現する。
「…なるほど、似合いそうだな」
完全にして完璧なる誤解なのだが、更にその意味を取り違えた葵はぽっと頬を染める。正しく知らぬが仏…いや、菩薩である。
「それから、やきそば、わたアメ、かき氷、ソースせんべいに…ラムネッ! エヘヘッ、楽しみだなァ」
「まったく…お前の頭の中は食い物の事ばかりだな」
恋する少女のような眼差しを宙にさ迷わせる小蒔に、京一が茶々を入れるが、既に妄想モードに突入してしまった小蒔の耳には届いていない。そして一方の龍麻も、いくつかの情報を整理する内に訳が解らなくなった。ネオンサイン輝くオークション会場で髭面の武器商人が肌も露な美女達に羽団扇を仰がせながら、ツタンカーメンのマスクや失われたアーク、あるいはスティンガーミサイルやバルーン爆弾の紹介を行い、なぜかやきそばや綿飴が出てくると小蒔や京一も手を上げて競りに参加する…という、なんとも凄まじいのか馬鹿馬鹿しいのか解らぬ光景が想像されていたのである。
「ふむ、それじゃあ、皆で行ってみるか。龍麻、お前も来るだろう?」
「うむ…。何事も経験だ」
龍麻のこの台詞に、京一だけは「またなにか勘違いしてやがるな」と感じ取ったのだが、それはそれで面白そうなので黙っていた。
「よーし! それじゃ縁日にしゅっぱーつ!」
今日は一番乗り気な小蒔が号令を掛け、【真神愚連隊】は行動を開始したのであった。
「うふふ。皆で縁日だなんて、今から楽しみだわ」
「ウンッ。ワクワクするなぁ。ちょっと耳を澄ませば祭囃子が聞こえてきそうだもんッ」
玄関に向かう僅かな時間でも、話題の中心は縁日である。中でも小蒔のテンションが一番高い。
「はははっ、本当に桜井は祭りが好きなんだな。一番の楽しみは何なんだ?」
「馬鹿だな、醍醐。小蒔の頭ン中に食い物以外の事がある訳ねェだろ」
またも京一の茶々が入るが、小蒔はいつもの鉄拳の代わりに舌を出す。
「ベーっだ! 別にいいだろッ。あの雰囲気の中で食べる屋台物が最高なのッ。――ひーちゃんなら解ってくれるよねッ。イベント行き慣れてるんだから」
「…慣れているという事はないが、同意だ。明らかに高いと思うものでも、時に周囲の雰囲気に押されて衝動買いしてしまう事はままある」
どうやら【イベント】という単語が登場した事で、【縁日】の雰囲気を把握したらしい龍麻。彼の誤解は続いているのだが、京一も「そりゃあな…」と同意する。
「ま、何だ。食い物の話ばっかしてたら無性に腹が減ってきた。さっさと行って向こうでなんか食おうぜ」
と、だんだんとテンションの上がってきた京一であったが、その角を曲がれば玄関口というところでぴたりと足を止めた。
「どうしたの、京一?」
突然、戦闘中であるかのような緊張感を発して周囲を警戒する京一に、小蒔が目を丸くする。見れば醍醐もせわしなく視線を周囲に走らせているではないか。おまけに【白虎変】を発動した時のように、耳までぴくぴくと動いている。
「うふふふふふふふふふふふふ〜、気付かれちゃった〜」
「ぎゃああァァァァッッ! 今日は会わずに済んだと思ったのに!!」
背中合わせになっている下駄箱の、僅か数ミリの隙間から裏密が出現した事よりも、彼女と出くわしてしまった事に驚き嘆く京一と醍醐。彼女の巻き起こす怪奇現象は彼らの中でさえ既に日常と化したようだ。
そして、葵たちも――
「あら、ミサちゃん」
「そうだっ、ミサちゃんも縁日行く?」
――慣れたものである。
「バッ、バカ! 余計なコト言うんじゃねェ!」
「いいじゃないか、別に。ねっ、ミサちゃんも行こうよ」
京一が心底嫌そうに叫ぶのを無視し、小蒔は再度裏密に誘いを掛ける。しかし裏密は例によって何処を見ているのか解らぬ瓶底眼鏡をあさっての方に向け――
「うふふふふふ〜。あたし〜が神社に行ったら〜何が起こるか〜分からないわよ〜」
「な、何が起こるかって…何が起こるって言うんだッ」
普段、一番常識人の癖に、醍醐はこういうところで警戒心が足りない。彼女の不吉な物言いが気になり、その場で聞き返してしまう。すると案の定、裏密はニヤ〜っと【絶対何か企んでるっ】笑いを浮かべた。
「うふふふふふふふふふ〜。恐ろしくて言えない〜」
彼女の言う【恐ろしい】が恐ろしくなかった試しはない。ついでに【大した事ない】、【大丈夫】にも、時にこれが当て嵌まる。そしていつものように、京一と醍醐が固まった。
「う〜ん、相変わらずどこまでが冗談なのか謎だよね、ミサちゃんの言葉って」
「そうか? 全部本気だとしてもおかしくないと思うが」
龍麻としては、これまでの事件の事もあるので、裏密の言葉を決して聞き流したりはしない。仮に本当に冗談だとしても、真摯に受け取る事だろう。
それが分かるのか、裏密は機嫌が良さそうな声を龍麻に向けた。
「うふふふふふふふ〜、でもあたし〜、これから出掛けるところだから〜、どっちにしろ一緒には行けないの〜。ねえ〜、ひ〜ちゃ〜んは、あたしが何処に行くのか〜興味ある〜?」
これまた珍しい事である。いつも裏密は一方的に謎めいた事を予言して行くのがこれまでのパターンだ。それが今日に限り、龍麻に対して質問してくるような真似をする。
「…俺に関わる事ならば、興味はある」
龍麻に関わる事=戦争、テロ、その他の類似行為。葵たちは龍麻が相変わらず【気分は戦争中】にあるのを気にしている。それが今日、縁日に連れ出す計画にも繋がっているのだが…。
「うふふふふ〜、聞いたらきっと〜ひーちゃ〜んも行きたくなるよ〜?」
しかし京一がすかさず裏密の言を遮る。
「止めとけって! 聞いたら呪われるかもしれねェぞッ」
「うふふふふ〜、京一く〜んも聞いておいた方がいいわ〜」
話の腰を折った京一に怒るでもなく、無気味な笑いを浮かべながら続ける裏密。京一は「断固聞くものかっ!」と耳を塞いだのだが、ふと裏密が真顔になったのでさすがに表情を引き締めた。
「いずれ恒星の悪意(による大津波が〜、この東京を〜、さながら最後の大陸(の如く沈める日が来るの〜。うふふ〜、あたし〜はそれを阻止する為に〜、これから至高の民の子孫(から〜、未来形の力(を学びに行くの〜」
「………………………」
相変わらず難解にして、謎めいた単語の連発である。そしてその内容を理解できる者は、やはりほとんどいなかった。ほとんど、というのは――
「お前も重要な隊員の一人だ。俺の目の届かぬところで、危険な真似をしてくれるな」
龍麻には、裏密が何をしようとしているのか解っているのだろうか? 常識は弁えていない癖に雑学の知識だけは豊富な龍麻だから、裏密の言う事が理解できても無理はないのだが…。
「らじゃ〜、ひーちゃ〜ん」
彼女と、胸に抱いた人形の手が挙がって敬礼する。少なくとも裏密には龍麻の言いたい事が伝わったようだ。
「でも〜、ひーちゃ〜んたちは〜、目の前の凶刃に〜気をつけた方がいいかもね〜」
今度は、全員一致で顔付きが真剣になる。以前にもこのような言われ方をして事件に巻き込まれた。しかしその予言が無かったら、即座に行動できなかったのも事実なのである。嫌が応にも真剣にならざるを得ない。
「またかよ…。で、今度は何だってんだ?」
「うふふ〜、天の宿星が教えてくれた〜。竹花(咲き乱れる秋の宵〜、相見(える龍と鬼〜。いずれも〜、その死をもってしか〜宿星の輪廻より解き放たれざるものなれば〜。――心当たりがあるのなら〜用心と覚悟は〜しておいた方がいいかも〜」
それから裏密は、眼鏡の奥の目を龍麻一人に向けた。
龍麻と目を合わせる事は、前髪が邪魔してできない。しかし、視線は合っている。裏密はその中に、龍麻が肯くのを確認した。
「じゃ〜ね〜」
それだけ言い残すと、裏密は再び下駄箱の隙間(!)へと消えて行った。
「…相変わらず、謎の多い奴だ。日に日に人間離れしてくるし」
「でもボク、たとえ世界がどうなっても、ミサちゃんだけは生き残ってるような気がするよ…」
京一と小蒔のやりとりに葵は苦笑を浮かべ、醍醐は【激しく同意!】とばかりにうんうんと肯いたが、どこからともなく「うふふふふふ〜」という笑い声が聞こえたので血相を変えた。
「そ、そんな事より、早く行こうぜっ。なっ!?」
「そ、そうだねっ…って、ボクたち、ちょっと家庭科室に用事があるんだっ」
即座にこの場を逃げ出そうかという場面で小蒔が待ったを掛けたので、醍醐も上ずった声を出す。
「な、何だ? 課題の提出でも忘れたか?」
「エヘヘ…ちょっとねッ」
小蒔はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて言葉を濁す。
「悪いんだけど、先に三人で神社に行っててよ。後からすぐに行くから、待っててくれる?」
こういうパターンは以前にもあった。あれは修学旅行に出掛ける前の日であったか…。
「そ、そうか。必要ならばこの場で待っていても一向に構わぬが…」
なぜ龍麻がうろたえたか、もはや語る必要もあるまい。彼はあの時、仲間の女性陣によって初めて【フクロ】にされたのだ。巨大なニンジンにされて木から吊るされ、犬に吠えられ子供たちに棒で突つかれ、散々な目に遭ったのである。
「いいからいいからっ。先に行ってて。――エヘヘッ、ひーちゃん、楽しみにしててねっ」
「もう…小蒔ったら…」
意味深な小蒔の台詞に、頬を赤らめる葵。どうやら今回は小蒔が首謀者のようだが…
「う、うむっ。了解した」
【縁日】なる怪しいイベントへの誘い。そして意味ありげな小蒔と葵の言動。そして、裏密の予言。それらが彼の頭の中でピースを繋ぎあわせ、何事か形を成して行く。但しそれは戦闘時における明晰なそれではなく、かの【誤解コンボ】であった。
(むう…何事か企んでいるようではあるが、二度目はそうはいかんぞ)
などとあらぬ誤解をしている龍麻の背が、急にどやし付けられた。
「な〜に考え込んでるんだよ。何を企んでいるのか知らねェが、ここでこうしててもしょうがねェ。俺達は先に行ってようぜ」
「うむ。そうだな」
地形確認と状況走査は戦闘の要だ、と、しつこい龍麻は即座に肯く。しかし…
「おいッ、醍醐? …タイショー、どうかしたのかよッ?」
「ん…? ああ、何でもない」
龍麻とは根本的に異なる内容で、頭を悩ませていただろう醍醐はふと我に返った。
「どうせ裏密の言った事でも考えていたんだろうが、そんなの、気にするだけ無駄だって。さっさと行こうぜ」
「肯定だ」
さくさくと歩き出す京一と龍麻。その後に付きながら、しかし醍醐は一度浮かんだ考えを払拭できずにいた。
「竹に、龍に、鬼…」
これらのキーワードから連想される言葉は、彼らにとってかなり重要な意味を持っている。【竹】と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり新井龍山だ。醍醐失踪の折りにも、裏密の占いに【竹】が出てきたように。そして、【鬼】と言えば、やはり【鬼道衆】だろう。確かに等々力での決戦で鬼道衆は壊滅したものの、あの軍産複合体がトップのすげ替えごときで諦めるかどうか。――これは龍麻も言っていた事である。
だが、最後の【龍】とは?
(龍山先生の事を指すにしては、鬼と相見えるというくだりが不自然だ。【鬼】といえば鬼道衆…九角。九角と対したのは…龍麻…。まさか【龍】とは、龍麻の事を指すのか?)
こういう分析は、本来龍麻の役目である。しかしその男はと言えば、葵と小蒔が何やら画策しているのを誤解して、あらぬ推理に頭を働かせている。
(まさか――な)
考え過ぎるのは自分の悪い癖――醍醐はそう思う事で胸の内を整理しようとしたのだが、今一つ気分が晴れなかった。勿論、それは春霞ほどに薄いものではあったのだが。
「………遅ェ…」
早くも十数度を数える京一の愚痴。既に不機嫌になりかかり、声のトーンが落ちている。
街を行く人々の流れが花園神社に向いていたので、三人は思ったより早く花園神社の鳥居前に着いてしまったのだ。邪魔にならぬように隅にどいてはいるが、入れ替わり立ち代わり行き交う人々の浮き足立った雰囲気と、風向きの加減で直に漂ってくるたこ焼、イカ焼き、やきそば、焼きとうもろこし、お好み焼き、串ステーキ等々の匂いが渾然一体となって腹の虫を直撃する。事前に食い物の話をしていた為もあって、京一の胃は既に万全の戦闘体制を整え、【敵はまだか!】【獲物はまだか!】と喚き散らしているのである。
「何やってんだよっ! ったく! 早く来ねェと、置いてくぞッ!」
「まあ、落ち着け。せっかく二人が何か計画を立ててきたんだ。ここは乗ってやるべきだろう」
【計画】と聞いて、再び龍麻の推理が働く…が、とりあえずそれは普通の推理であった。【縁日】に付いてあらぬ誤解をしていた彼だが、こうして実際に目にする事で、自分のとんでもない勘違いにやっと気付いたのである。そして葵と小蒔が何を計画しているのかも、この【縁日】と関連付ける事で予測する事ができた。
しかし当面の問題は、この男である。
「遅ェ…。遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェ遅ェェェェェェェィ!」
「ふうむ。このままでは遠からず暴れ出すぞ。――どうだ、龍麻? 京一を押さえる程度に先に覗くか?」
義理堅い醍醐がそう口にするほど、京一は荒れている。なんだかんだ言っても、京一は龍麻に次いで攻撃力があるのだ。ハングリー状態で野性に帰られると、醍醐でも手に余る。
「案ずるな。暴れ出したら――これがある」
そう言って龍麻がコートの内側に下げた物を見せる。今日、響豹馬から届いたばかりの銃、コルト・アナコンダである。龍麻の銃の特性を知っている醍醐は、およそ彼には不釣り合いな巨大なリボルバーに目を見張る。思い起こす事半年前、初めて彼が見せた拳銃――コルト・ウッズマン二二口径と比べると、それはまるで大砲であった。
「た、龍麻…それは…?」
「今日、【彼】から届けられたものだ。できれば、このような物を使う戦いなどしたくないものだがな」
「……」
その時醍醐は、先ほどの疑問が再び蘇ってくるのを感じた。
この緋勇龍麻は、戦争から離れられない。身に付いた技術が、思想が、平穏を拒んでしまうのだ。
【戦いなどしたくない】――そうは言っていても、この男は事件が起これば闘いに行くだろう。自分が必要とされる限り。【彼】――響豹馬もそうだった。あの男も龍麻が闘いから逃れられない事を悟り、こんな巨大な銃を彼に送ったのだろう。
だが、不機嫌レベルがMAXに達しつつある京一の声が醍醐を現実へと引き戻した。
「あー! もう! 小蒔の奴、どっかの屋台に捕まってるんじゃねェだろうなッ!? あいつの食い意地は半端じゃねェからなッ!」
「――あらあら、女の子のコト、そんな風に言うものじゃないわよ」
人込みの中から掛けられた声に、はた、と京一が不機嫌ゲージを霧消させる。
「ありゃ、その声はエリちゃん!?」
「HI。やっぱりあなた達も来てたのね。もしかしたら、会えるんじゃないかと思ってたのよ」
そう言いつつ近付いてきたスーツ姿の女性は、ルポライター天野絵梨である。そして機先を制し、龍麻の敬礼を止める。
「言っておくけど、今日はプライベートだから敬礼は勘弁して。見たところ龍麻君達も葵ちゃん達と待ち合わせのようね」
「肯定です。少々遅れているようで、我々は猿回しの気分ですが」
待ちくたびれてイライラウロウロしている京一を酷評する龍麻。醍醐は苦笑し、天野も笑みを零す。
「――あらいやだ。私は笑っちゃ駄目ね。実は私も仕事が長引いちゃって、友達との待ち合わせに遅刻しちゃってるのよ」
「エリちゃんと、エリちゃんの友達かァ…。俺もお供したいぜ」
「ふふふッ、だったら一緒に来る?」
「い、いいのかよッ!? それは是非――!」
喜色満面で天野の申し出に飛び付こうとする京一であったが、その襟首を龍麻と醍醐の手が掴み止める。
そして、天野は京一の鼻先をチョンと人差し指で突ついた。
「駄目よ、京一君。女の子と約束している時に、他の女の誘いに乗っちゃ。――ふふっ、本音はちょっと残念だけど。――それじゃ、またね」
さすがは大人の女性である。やっぱりぴしっと敬礼する龍麻と醍醐に笑いながら手を振り、天野は境内へと入って行った。
「ああぁ…エリちゃん…行っちまった…」
「まったく未練がましい…と言うより、いい加減にその軟弱な頭の中身をどうにかせんか」
「ケッ、お前は小蒔がいるってんで余裕かましていられるかも知れねェけどよォ。それに中(てられるこっちの身にもなりやがれってんだ。なァ、ひーちゃん」
「な、何をッ!?」
いきなり痛いところを付かれ、耳まで真っ赤になる醍醐。
「京一…何を拗ねているのだ?」
「誰が拗ねてるかッ! 餓鬼じゃあるめェし!」
そうは言っても京一の反論はちょっぴり迫力がない。実のところ、京一はあの修学旅行で出会った一人の少女に一目惚れし、その直後に一方的に失恋するという体験をしている。まあ、アタックを駆ける前からその少女とあの男との間に、自分が入り込む余地など全くないであろう事は予想が付いていたのだが、それでもマンツーマンでの特訓を受けたり、【命懸け】で剣の語り合いをした事もあり、百万分の一の奇跡を祈って挑んでみたら…
【そ、そのっ、き、如月さんはか、か、かれッ、カレ…】
【カレーですか? 好きですし、得意料理ですよ。私、中辛が好みなんです】
【い、いや、そうでなくて…か、か、彼氏はいらっしゃるんで?】
【彼氏ですか? そういうニュアンスの方はいませんね】
【そ、それじゃあ…!】
【――許婚ならいますけどね】
【あ…ああ、あれ、おいしいですよね。酒のつまみに】
【それは椎名漬けですよ。婚約者です】
【ああ、テングサを煮て作る…】
【それはところてんですね】
【するとおでんで美味しい…】
【味噌田楽も美味しいですよ。コンニャクは】
【つ、つまりもう、結婚の約束までしていると…】
【はい。お父様は「理想の跡継ぎが出来た」って大喜びですし、弟はお兄さんが出来たってはしゃいでますし、唯一お母様ったら「お嫁に貰ってくれる人がいて良かった」なんて言うんですよ。酷いと思いません?】
と、ちょっと(?)変わった性格のお嬢様は止めを刺された上に駄目押しされた京一に、暁弥生によって耳を引っ張られて退場させられるまで延々とノロケ話を聞かせるに至り、その塩まで擂り込まれた傷口が未だにちくちくと胸を焼いているのだ。
「大体お前だって――」
似たようなもんじゃねェか――と続けようとした時、やっと現れた待ち人の声が聞こえた。
「まったく…そんな所で何を騒いでいるんだよッ。恥ずかしいなァ」
「遅ェ! ――って、わざわざ着替えてきたのかよ」
小蒔の格好はいつかも見た活動的な彼女お得意の、へそ出しノースリーブのタートルネックTシャツにジーンズの短パンである。真夏の盛りならまだしも、夕方には涼しい風が吹くこの季節にはちょっと…と思えるようなスタイルだが、元気が零れ出しそうな彼女にはそれも似合うだろう。そして、あまり装飾品に興味を持たない彼女には珍しく、両手首に銀のブレスレットを填めている。
そして、葵は――
「おッ、美里は浴衣じゃねェか」
女性に関する事ならば龍麻よりも目ざとい京一は、今までの不機嫌を一瞬にして消し飛ばして言った。
「いいねいいね〜そういうのッ。これぞ縁日ッ! ってモンだよな」
「ははぁ〜、そういう事だったのか」
この時ばかりは醍醐も、葵と小蒔の女らしい企みに自然に笑みを浮かべる。
実際、今時珍しくなりつつある黒髪でストレートロングの葵には、浴衣が実に良く似合っていた。色合いのセンスもなかなか。白地に藍色の花模様。清楚で慎ましやかな中にも、はっと目を引くような絢爛たる輝きが感じられる。
「…待たせちゃってごめんなさい。浴衣の着付けって久しぶりだから手間取っちゃって。せっかく小蒔に手伝ってもらったのに…」
「いいのいいのっ。葵の浴衣姿を見る為なら、何時間待っててもいいよねェ〜、ひーちゃん?」
珍しくポケッとしている龍麻に話を振る小蒔。そこで京一は、この二人の女らしい企みとともに、その裏の【作戦】も察しが付いた。
――龍麻の【朴念仁】は戦闘プログラムによるものらしい。ならばいかにも人間らしい精神的刺激を与える事によって、プログラムを打破する事も可能。そう言ったのは【あの】響豹馬である。そして龍麻は裸身にバスタオルを巻き付けていただけの(下に水着を着けていたが)弥生に色っぽく迫られ、豹馬と舞のラブラブバカップル(弥生がそう言った)ぶりを見せ付けられ、風呂から上がった後の歓談時に、風呂上がりの色気漂う彼女たちの浴衣姿を見ている。片肌はだけるような勢いの弥生や、どうかすると七五三のような唯は置いといて、和服が似合う舞の浴衣姿には龍麻も見惚れて(真神陣主観)いたのだ。しかも弥生が言うには、今こそが【調教時】(笑)…!
つまりこれは、龍麻に対する葵のアプローチ作戦だ。現に龍麻は、
「なるほど。幼き日に憧れた理由が良く分かる。実に似合っているぞ、葵」
などとのたまうのであった。【あの】鋼鉄の朴念仁が。
「あ、あ、ありがとう…龍麻…!」
作戦大成功! 頬を真っ赤に染めつつ、心の中ではガッツポーズの葵であった。
「エヘヘッ。良かったね、葵」
作戦に協力した小蒔も、ややからかいの口調を交えながら喜びを分かち合う。
しかし、二人はまだ甘かった。【あの】龍麻がその程度で済む筈ないのである。
【良く似合っている】は、確かに龍麻の本心である。彼は実に素直な賞賛を彼女に送った。――しかし、その後が良くない。落語とコスプレがそこそこ板に付き、現代劇ならば松田優作に沖雅也、ちょっと捻って竹中直人、時代劇ならば藤山寛美と高橋秀樹、萬屋錦之助と藤田まことを尊敬している彼である(全員敬称略)。そして浴衣から連想された時代劇の基本コンセプトは勧善懲悪。そして和服美人から連想されるものは――【ふぉっふぉっふぉっ、よいではないか】。
(ふむ。確かに【萌え】の要素が多いにあるな)
帯を取られて「あ〜れ〜」とのたまいながらくるくると回る葵。これはなかなか【絵】になるのではないか? しかし――
(いや、【燃え】の要素も捨て切れん)
今の葵ならば可能であろう、帯を取られて回転する勢いを利用してバックハンドブローから廻し蹴り、そして跳び後ろ回し蹴り。折れた歯を砕き散らかして吹っ飛ぶエロ悪代官をバックにジョジョ立ち(解らない人はググれ)して、ちゃらら〜〜〜ん、ちゃっちゃっちゃちゃ〜らら〜ら〜ちゃらら〜〜ん(仕事人のテーマ)、ちゃかちゃ!
(うむ。こちらの方が絵になるな)
――などと、とんでもない事を考えていたのである。
しかし、龍麻がまた何か妙な事を考えていると気付いたのは、【相棒】の京一だけであった。そして彼も龍麻の思考パターンに慣れてきているので――
(何だァ? 美里の浴衣に見惚れやがって。ひょっとしてひーちゃん、フェチなのかァ? 帯を引っ張って「良いではないか」とか――)
その瞬間、唸り飛ぶ拳!
「おわッ!!」
とっさに伏せる京一! 龍麻の鉄拳は見事に空を切り――
「どわッ!」
やはり地面に蹴り倒された京一であった。
「…フェイント成功」
ぼそっと呟く龍麻。
「――って、ひーちゃん! いきなり何しやがる!」
「…どうもこうもあるか。貴様、今、また馬鹿な事を考えていただろう?」
図星! のゴシック文字が頭に刺さる京一。
「まったく懲りん奴だ。お前は考えている事がすぐ顔に出る。妄想とは、なるべく他人に悟られぬようにするものだ」
「…何か言ったかしら、龍麻?」
その瞬間、しん、と冷える空気。小蒔が小さなくしゃみを洩らした。
しかし葵の爆発は未発に終った。醍醐が小蒔に声を掛けたからである。
「そう言えば、桜井は浴衣を着ないのか?」
「え? だって浴衣じゃ帯がきついし、動きにくいし…」
「ふむ…確かに食べ歩きには向かないだろうが、似合うと思うぞ」
以前の醍醐だったらガッチガチになって、そんな事など言えなかったであろう。それなのに、自分の言っている事が凄い殺し文句になっているとも知らぬげに肯いてみせる醍醐であった。
「と、とにかくさ! 早く中に入ろうよっ、ねっ!?」
先ほどの葵並に顔を赤くして宣言し、小蒔は真っ先に境内に入っていった。
「お、おい! 桜井!?」
やたら張り切っている小蒔を、少し慌てて醍醐は追う。龍麻たちの事は既にアウト・オブ・眼中のようだ。
「…どうしたのだ? 小蒔も醍醐も…」
龍麻のこの言葉に、葵も京一も「ハアッ」とため息を付く。この男の【朴念仁】を打破するのは、まだ当分先のようだ。
「気にすんな! 俺達も行こうぜっ」
龍麻の背を押しながら、葵に肩を竦めてみせる京一。葵は少し苦笑して、その後ろに付いて歩き出した。
祭囃子はますます賑やかに、周囲の空気をうきうきとさせていた。
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