第壱拾四話  京洛奇譚 1





That is not dead which can eternal lie,



And with strange aeons even death may die.



永遠に横たわること能うものは死するに非ず



そして奇怪なる永劫のうちには死すらも死なん



アブドゥル・ハルハザード著  【ネクロノミコン】より









「おはよー」

「おはよーサンッ」

 大多数の生徒たちにとっては、いつもとまったく変わらない登校風景。特に意識される事もなく繰り返される日常の光景。その中を美里葵は一人、歩いていた。

(もう生徒会の仕事も終ったのに…。うふふ。この癖は直りそうもないわね)

 周囲にいる生徒は、部活の朝練に出る者か、受験準備に追われている者たちである。他の生徒たちはあと三十分ほど家でのんびりしてから登校する事だろう。そんな時間に葵が登校してしまうのは、ずっと生徒会の関係者として、そして二年、三年と生徒会長の籍に身を置いていたからである。

 しかし、習慣づいた日常をこうして振り返る事ができる幸福を、葵は今、しみじみと噛み締めていた。

 この数ヶ月間、身を置いていた、非現実と非日常の世界。今日も世界のどこかで戦争が起こっていたとしても、現代日本の高校生が決して体験する筈のない血と闘争の世界にいたのだ。【力】――【神威】と呼ばれる力に目覚めた自分と、その仲間たち。およそ平穏と切り離された世界を生きてきた男と共に闘った日々。それらは全て決着が付き――こうして日常を、こちら側の世界を堪能している。【彼】もその筈だ。

 ふと葵の顔に、悪戯っぽい表情が浮かぶ。

(もし最初に……だったら…)

 今朝、起き抜けに考えていた事。その実行を辻占いに託し、葵は歩を進めた。【彼】はいつも、この時間に現れる筈だ。正門に続く坂道を降りきった所で、【彼】と出会うのだ。

 しかし――

(…いない…?)

 期待すべき人物がいないと知った時、葵の顔に失望の色が流れた。辻占いに敗れたか――?

「…どうしたのだ、葵?」

 いきなり背後から声を掛けられ、葵は飛び上がるほど驚いた。

「た、龍麻! …お、おはよう…!」

「Good Morning」

 その【彼】――緋勇龍麻はいつものようにきりっと敬礼してみせた。

(勝った…!)

 思わず心の中でガッツポーズなどしてみせる葵。考える前に答を出すような指揮官の下にいた彼女も、目覚しい成長と変化をしていたのだ。しかし――

「葵――隠し芸の練習は自宅で行う方が良いぞ」

「は…?」

 ボケた事を言う龍麻に、思わず間抜けな対応をしてしまう葵。

「実は数分前から声を掛けるべきか否か考えていたのだが、結局ここまでお前の珍妙な顔芸を拝見していたのだ。しかしやはり屋外での練習は避けるべきだ。事情を知らぬ者が見れば、いかがわしい妄想に耽っていると取られかねない。――おおッ!?」

 表情は菩薩の笑みのまま、【本気】の京一並の速度で鞄を龍麻の頭に叩き付ける葵。完全に不意打ちだったので、龍麻はあっけなく校門前に沈んだ。



 ―― 忍ぶれど、色に出りけり我が恋は ――



「…もうッ!」

 繊細な女心も純な乙女心も見事に粉砕した朴念仁を【殲滅】した葵は憤然と、大股で校舎の中に入っていった。その一部始終を目撃した数少ない生徒は、容姿端麗な生徒会長、美里葵の見せたナチュラルな姿に感涙したという。

 結局龍麻は、マリアに拾われるまで目を覚まさなかった。









「――それじゃ今日はここまで。みんな、明日は遅れないようにね」

 マリアがそう締めくくると、鼻の頭にバンソウコーを貼った龍麻が大声を張り上げる。

「総員起立! マリア先生に最大の敬意を表し、敬礼!」

 教室中がビシ! と敬礼する様に苦笑しつつ、マリアは教室を出て行く。――もう諦めたのだ。

 【着席!】の号令がかかった直後から、教室内は喧騒に包まれる。明日からは修学旅行だ。皆、買い物や待ち合わせなどの話題に花を咲かせている。

「おーおーおー、みんな随分浮かれてやがんな。京都だ奈良だって、中学の時にも行っただろうによ」

 例によって例のごとく、龍麻の席の前までやってきてごちる京一。しかし京一は、龍麻が熱心にスケジュール表をチェックしているのを見て、口をへの字に曲げる。

「なんだよ、ひーちゃんも楽しみでたまらないってクチか?」

「肯定だ。日本国内を電車で長距離移動するなど、初めての体験だからな」

「ん――それもそうか」

 龍麻はそれこそ世界中を飛び回ってきた男だが、その全ては戦う為であり、そこがどこであろうと戦場以外ではない。航空機以外の公共機関で、しかも観光を目的にのんびり旅行するなど、確かに龍麻には縁がなかったに違いない。

「ははは、一度行ったくらいでは何も見ていないのと同じだろう、京一。それより龍麻、旅のしおりも見てみろ。各班の面子が載っているぞ」

 醍醐が、小蒔と連れ立って現れる。班の編成は学校側が指定したのだ。

「三−Cの第七班はボクと葵、それに醍醐クン。京一もひーちゃんも一緒だよッ」

「なんだよ。それじゃいつもと同じじゃねェか」

 ボソッと洩らした京一にすかさず小蒔が「文句あるってのッ」と凄む。

「最高のメンバーだよねッ、ひーちゃん」

「ほほう…。学校側も粋な計らいをするではないか」

 龍麻はそう言ったが、実のところ、この編成は葵とマリアによる裏工作(笑)で組まれたものであった。何しろ三日も団体行動をするのだから、当然、龍麻の目の事や体の傷の秘密も守らねばならない。そしてなにより、問題児(笑)は一箇所にまとめておく方が監視しやすいと葵自ら(!)進言したのであった。

 そんな事は露ほども知らぬ小蒔は、この編成を組んだ張本人に顔を向ける。

「でも葵も大変だね。こんな時まで班長なんて」

「うふふ。旅行が楽しくなるように、私も班長として頑張るわ」

 先ごろやっと生徒会長という役職から解放されたというのに、旅行用の班とは言えまたしても役付きである。しかし自分が言い出したことであるせいか、葵は楽しそうだ。

「いよッ、頼もしいねェ」

「無論、俺たちも協力するからな」

 教師たちから見ればいろいろな意味で問題児の彼らであるが、共に【死線】を潜り抜けてきたメンバーである。ある意味、葵の負担はクラスの中で最も軽いかもしれない。

「ええ。龍麻も、楽しい旅行にしましょうね」

「肯定だ。一週間前から準備は整えてある」

「…そ、そう。本当に楽しみなのね」

 一週間前と言えば、桜ヶ丘を退院したその日ではないか。龍麻が常に先を見て行動する事は知っている一同ではあるが、自分の全存在と共に、人類の未来すら賭かっていた戦いを終えた直後に、早くも修学旅行の準備を始めていたとは…。やはりこの男はよく判らない。

「当然だ。後は英気を養い、出発時間を待つのみだ」

「ウン、英気を養うためにも、ラーメン食べに行こうッ」

 龍麻の行動力に呆気に取られた時、次のアクションを起こすのは京一の役目だったが、小蒔にもその素質ありだ。早速京一が賛同する。

「おー、そうだな。今の内に食っとかねェと、三日間お預けってパターンになるかもしれねェからな。――醍醐、お前も行くんだろ?」

 関西方面の料理はダシが決め手のあっさり風味――というのが関東人の主観である。濃口の味に慣れた彼らでは、京都・奈良の料理は味が薄すぎるかも知れない(偏見である)。

「そうだな。丁度、腹も減ってきたし、行くとするか」

「それじゃ、私も行こうかしら。良いわよね、龍麻」

 厳密には校則違反になるのだが、珍しく葵が自分から同行を申し出たのを、龍麻は別段不思議とも思わずすぐに肯く。

「無論だ。食事は大勢の方が楽しい」

 龍麻の返事に、思わず笑みを零す一同。龍麻も言うようになった。

「――って事は、あたしも一緒に行っても良いわよね」

「わあッ、アン子!」

「て、テメエ、いつのまにッ!?」

 背後から突然響いた声に、飛び上がって驚く京一と小蒔。龍麻が小さくため息を付く。

「十数秒前からいたではないか。――無論、同行を拒む理由などない」

「エッヘッヘー、さすがに龍麻は話が分かるわァ。よし! 今日は特別にあたしにラーメンを奢らせてあげる」

 悪びれないアン子の言葉にへなへなと脱力する一同。

「ったく、お前は鬼かッ!」

「問題ない。先の戦闘ではアン子も充分に働いてくれたのだ」

「…まっ、そうだな」

 コロッと態度を変える京一であるが、おおむね、醍醐たちも同じ意見だ。アン子の機転のお陰で、危うい所で九角を倒す事ができたのだから。――ラーメン一杯で済むなら安いものだ。

「うんうん、アンタ達も話が分かるようになったわねー、と言いたいところだけど、自分の分くらいちゃんと払うわよぉ。それじゃ行きましょ、皆の衆ッ」

 と、以前にもあったように、いつのまにか場を仕切るアン子。しかし、小蒔がポンと手を打った。

「あっと、そうだった。ボク、ちょっと用事があったんだっけ。アン子、悪いけど協力してくれる?」

「え? 何よ、桜井ちゃん。また唐突ねえ」

「ウン。でもアン子が手伝ってくれれば早く済むからさっ」

 このタイミングでは意外すぎる小蒔の申し出に困惑しつつ、アン子は何気なく京一や醍醐にも視線を走らせた。そして(はは〜ん)と何事か納得する。

「まあ、このアタシをあてにしてくれるって言うなら一肌脱ぎましょうか。その代わり、協力料は高いわよ」

「がめついなあ。――それじゃ、悪いけど先にラーメン屋に行っててね。すぐ追っかけるから」

 皆に何も言わせぬまま、そそくさと教室を出て行く小蒔に、龍麻の鋭い観察眼が向けられる。

「小蒔がラーメンに優先するほどの用事だと…?」

「こ、小蒔のこったから、どうせ大した用事じゃねェだろ。俺たちは先に行ってようぜ」

 妙にどもりつつも威勢良く、京一は龍麻たちを促して教室のドアを開ける。しかし威勢が良かったのはそこまでで、なぜか京一は醍醐ともども廊下の様子を窺ったりしている。

(どうだ、京一?)

(いねェみてェだな…)

「二人とも…どうかしたの?」

 二人してひそひそと何か話している京一と醍醐に、葵が眉根を寄せて話し掛ける。【菩薩眼】の目は全てを見通すが、さすがにこんな場面では使う気にならないらしい。

「いや、何でもねェんだ。ちょっと廊下の確認を、な」

「…正直に白状しろ、京一、醍醐。誰に借金をした?」

 龍麻のボケは毎度の事だが、妙に迫力のある声音にちょっと怯んだ醍醐が何事か口を開きかける。

「いや…その…俺は反対したんだが…」

「ば、馬鹿! 余計な事言うんじゃねェよ!」

 醍醐の腹に肘鉄を入れて黙らせ、京一は頭をぼりぼりと掻いた。どうやらこれで誤魔化しているつもりらしい。

「気にすんな、ひーちゃん、美里。俺たちはただ、未確認歩行物体の接近を許しちゃならねェと――」

「…ならば失敗したな、京一。――足元を見ろ」

「足元? ――ッんぎゃあああッッ!!」

 絶叫を放ったのは京一だけではない。醍醐も【それ】を目にした瞬間に魂の抜けるような悲鳴を上げ、二人して葵(!)の背後に隠れてガタガタと震えた。

「うふふふふふふふふふふふふ〜、ミサちゃん参上〜〜」

 京一と醍醐。【魔人】達のトップスリーの内二人までをここまで脅えさせたのは、廊下から【生えて】いる生首(!)、【あの】裏密ミサであった。

 するするする…と廊下から全身が生えてくる裏密。京一と醍醐はもちろん、葵もさすがに目が点になる。そして龍麻だけは、やはり平然としていた。

「ほほう。空中浮遊レビテーション分子浸透モレ・インターを同時に行うとは、ますます腕を上げたな、裏密」

「うふふふふふふふ〜ミサちゃんうれし〜。でも〜許さないわ〜」

 理由は不明だが、どうやら真神の魔女殿はご立腹あそばしているらしい。

「どうしたの、ミサちゃん?」

 先ほどから小蒔たちの様子が不審なのも気になる葵。どうやら裏密は事情を知っているらしい。

「うふふふふふ〜。神聖なる形成界イェツィラーの彼方より、ひーちゃ〜んを救いに来たの〜」

「龍麻を!?」

 【あの】裏密が龍麻を【救う】という図式に、とてつもなく不穏当なものを感じる葵。しかし裏密はいつもより「ふ」を多くして笑うだけである。ちなみに裏密は上機嫌の時と不機嫌な時に「ふ」を多く付ける習性がある事が確認されている。

「我が鏡占いカトプトロマンシーに〜見抜けぬものはない〜。ひーちゃ〜んを狙う甘美な罠〜。うふふふふふ〜教えて欲しい〜?」

「…俺を罠にかけるだと?  それは聞き捨てならん。返り討ちにしてくれる」

 龍麻の言葉に、サーっと顔から血の気が引く者が約二名。しかし、龍麻の頭の中では特異(誤字にあらず)の分析が始まっていた。

(甘美、完備、艦尾…なんだろうか? 藤山寛美という俳優がいたが、まさか俺に二代目を襲名しろとでもいうのだろうか…?)

 これも一つの平和の証。久々炸裂の誤解コンボである。しかしこの男、自分が名優藤山寛美に比肩し得ると考えている辺り、いい度胸(根性)をしている。

「うふふふふふふふ〜。もしかしたら〜聞かない方が良いかも〜。ねぇ〜京一く〜ん、醍醐く〜ん」

 龍麻にすくまされ、裏密に止めを刺されたか、歯をカチカチ鳴らしながら、それでも何事か覚悟を決めたらしい醍醐が半歩(一歩ではない)前に進み出た。

「ううううう裏密ぅぅぅぅぅ…おおおおおお前にぃぃぃぃぃぃ…うううううう占って欲しい事がぁぁぁぁぁぁあるんだがぁぁぁぁぁぁ…」

 まるでハウリングを起こしたスピーカーのような、ビブラートのかかった醍醐の声に、龍麻も葵も「!?」となる。

「醍醐く〜んが〜?  …うふふふふふふふ〜友達思いね〜醍醐く〜ん。それはそれで〜面白そう〜。うふふふふふふふふふふふふふふふふ〜」

 どうやら今度は上機嫌の笑いらしい。裏密は【絶対何か企んでるッ】的ないつものニヤ〜っとした笑いを浮かべた。

「だ、醍醐…お前って奴は…」

「言うな京一…! この貸しは十倍返しだぞ…!」

 普段貸し借りという言葉をあまり使わない醍醐をして、【十倍返し】とは。どうやら醍醐は並々ならぬ決意をして、この困難に立ち向かわねばならんらしい。

 訳の解らん問答は専売特許の龍麻も、京一と醍醐のやり取りが理解できていない。しかし醍醐は、

「た、龍麻! これは言い訳でも自己弁護でもないが、俺は最後まで反対したんだ! 本当ならこんなやり方は――おおおッ!!?」

 突然醍醐はバランスを崩して廊下に両手を付き、立ち上がれなくなってしまう。それどころか、そこに留まっている事さえできない。

「さあ〜行きましょう〜醍醐く〜ん。めくるめく魔術の園〜霊研へ〜」

 裏密が制服の裾をつまんでいるだけで、醍醐の巨体が廊下を【滑って】行く。どうやら途中での脱走を防ぐ為に、魔術で醍醐の摩擦係数をゼロにしたらしい。

「ああああああぁぁぁぁぁ〜〜〜ッ!」

 まるで地獄の淵に引きずり込まれて行く亡者のような声を上げて、醍醐はそのまま裏密に連行されて行った。

「…やっぱり変だわ」

「肯定だ」

 裏密が相手では手の出しようもなく(見捨てたとも言う)、龍麻たちは腕組みした。何か見えない所で陰謀が巡らされているのは解るのだが、その目的がさっぱり分からない。龍麻に至っては、

(醍醐…名優藤山寛美にいくら借金をした?)

 ――などと考えているのだから始末に終えない。

「醍醐…お前の犠牲は無駄にしねェ…!」

 拳を固め、目の幅涙を流しながら天を仰ぐ京一に、さすがに龍麻と葵の不審な視線が向く。

「京一…お前は何か知っているのか?」

「あ? いや、俺は何もッ」

「醍醐が自ら裏密の元に赴くなど、尋常な事態では有り得ない。何が起こっているのだ? そのような愉快なパントマイムでは誤魔化されんぞ」

 いつのまにか妙なブロックポーズを取っている京一であったが、慌てて場を取り繕う。

「良いじゃねェか、別に。―― 一人の戦士が戦いに赴き、そして果てた。それだけの事じゃねェか」

 既に過去形扱いの醍醐。こいつら本当に親友か? と京一と醍醐の関係を疑ってしまう龍麻であった。

「いいからいいからッ。そんな事より、早くラーメン屋に行こうぜッ!」

 口で言い訳するよりまず行動とばかりに、京一は二人の背を押した。









「あ―――――ッ!」

 校門を抜けた所で京一がわざとらしく(龍麻主観)大声を上げる。

「…今度は何だ?」

 さすがに冷めた口調で聞く龍麻。その口調に少し怯んだ京一だが、何とか事前に考えておいた台詞を言う。

「わ、悪い! お、俺、教室に忘れモンしてきちまったぜ!」

「…何を忘れた?」

「う…え…英語の教科書…――ッッ!!」

 一瞬! 正しく一瞬の内に、京一の口の中に二つ並んだ巨大な銃口が突っ込まれた。ご存知龍麻のソードオフショットガン…【マッドマックス】である。戦いは終った――というのは、対鬼道衆においてであって、この万年戦争男の頭の中では未だに銃弾が飛び交っているのであった。

「貴様! 何者だ!」

「ひ、ひーひゃん…!」

 凄絶な殺気と共に放たれる詰問に、京一が硬直する。

「あの低能ボンクラ万年二等兵赤毛ザルの京一がそのようなものを欲する事など、賄賂を受け取らぬ政治家の存在以上に有り得ん! 何が目的だ!」

「あ、あの…龍麻?」

 どこから見ても、目の前の男は京一である。そして事、ここに至り、龍麻ほど鈍くない葵は仲間たちの悪巧みの正体がやっと解った。

(罠ってこの事だったのね。でも、皆も人が悪いわ。龍麻は迷惑かも知れないのに…)

 とは思ったものの、朝の一件をかんがみるに、この悪巧みにはむしろ感謝すべきであろう。恐らく首謀者は京一と小蒔で、醍醐は巻き込まれたクチだ。ただ、罠を仕掛ける相手が悪かった。筋金どころか鉄骨入り、鎧を重ね着した上、戦車にまで乗っているような朴念仁の龍麻には、彼らの【イベント直前に二人きりにしてやろう作戦】など、かけらほども気付く筈がない。

「龍麻、京一君は修学旅行が本当に楽しみなのよ」

 葵は今にも引き金を引きかねない龍麻にそっと言った。傍から見れば仲の良い恋人を諌めているように見えるが、葵の心境は人質を取った重犯罪者を相手にしている交渉人ネゴシェーターである。

「良くあるでしょ? 遠足が楽しみのあまり興奮して寝付けなくて、当日に寝込んでしまう子供の話。きっとあれと同じなのよ。一種のパニック症候群ね」

「…なるほど。一理ある」

 これでもかとばかりに京一をこき下ろす葵に、龍麻は同意して銃を納めた。計画を立てた張本人である京一はへなへなと地面に尻餅を付き、何でこんな目に遭うんだと、よよと泣き伏す。

「ならば行け、京一。そして速やかにストレスを発散し、万全な状態で明日に備えろ。――では行くぞ、葵」

 バッ、とコートを翻す龍麻に、半歩遅れて付き従う葵は、京一の方を向いて片手拝みした。そのため京一もほんの少し報われた気分になり、「頑張れよ」と親指を立ててみせた。









(前にこうして二人だけで歩いたのは…花見の時だったわね…)

 あれからもう半年にもなる。こうして振り返ってみると、あっという間に過ぎたかのようだ。苦悩して、苦しんで、哀しんで…嬉しい事、楽しい事もたくさんあった。それらは全て、前に進み続ける男、緋勇龍麻に率いられる事で、葵の成長の糧となっている。

 これからもこうして歩いていたい。それが今の、葵の偽らざる想いであった。これまでの龍麻の歩調では、彼が一歩行く間に葵は二歩進まねばならない。それが今は、葵の歩調に合わせてゆっくりと歩いているので、こうして肩を並べていられる。その事が葵は嬉しいのだ。

「…葵、先ほどから何を妄想している?」

「…ッ!」

 思わずガクッとする葵。後はこの鉄壁の朴念仁さえ何とかなれば良いのだが。

「べ、別に妄想している訳じゃないわ。ただ、明日からの旅行、いい天気になればいいなって」

「それは問題ない。公共機関の天気予報から軍の気象情報に至るまで、旅行中の快晴は保証されている」

「京都ではもう紅葉が始まっているかしら?」

「一部地域では始まっているらしい。山菜摘みも間もなく佳境に入るようだ」

「私、中学の時も京都に行ったんだけど、もっとたくさん見たい所があるの。金閣寺とか二条城みたいに凄く有名じゃなくても、素敵な神社仏閣がたくさんあるのよ」

「うむ。京都の地形や周辺道路は全て記憶済みだが、GPSの用意もある。多少の寄り道も問題ない」

 さすがは先を読んで行動する指揮官。しかしその入れ込みように葵も思わず笑みを零した。

「うふふ、気合充分なのは良いけど、明日になってから倒れたりしないでね」

「勿論、そのつもりだ」

 話の内容と口調さえ聞こえなければ、仲の良い恋人同士の語らいに見えなくもない。途中で遭遇した真神の生徒達は男女を問わず、二人に羨ましそうな恨めしそうな視線を注いでいる。時折、殺気や敵意が飛んでくるので、龍麻は無警戒ではいられなかった。ただ、敵意の原因がなんであるのか気付かないのは、龍麻らしいと言える。

 その警戒ラインに見知った者の【気】が触れたので、龍麻は通りの向こうを振り仰いだ。

「うん? マリィに舞子か」

「あら、ホント…。マリィ、高見沢さんッ」

 葵が呼び止めると、二人ともこちらを見付け、小走りに駆け寄ってきた。

「わあ〜い、ダーリンみっけ〜ッ」

「龍麻お兄ちゃんッ!」

 往来の真ん中であろうとお構いなしに抱き付こうとする舞子はするりとかわし、ぴょんと飛び付いてくるマリィは受け止めて片手で抱き上げる龍麻。普段から男女差別をしない彼ではあるが、やはり彼なりに優先順位は存在するのだ。

「ぶう〜ッ、ダーリンの意地悪〜ッ」

「…別に意地悪をしているつもりはない。それと、常日頃から言っているが、この界隈に来る時は上着を着用するように」

 新宿の往来を看護婦ルックで歩いていては、否応無しに目立ってしまう。近くに病院があったとしても、いわゆるイメクラの関係者に邪推される事は必至だ。

「うふふ、龍麻ったら。高見沢さんは桜ヶ丘に通院しているマリィを毎日迎えに来てくれているのよ。いつも本当に助かっているのだから、怒ったりしないで」

「そうか。それは済まなかった」

 すかさず謝罪する龍麻に、舞子はぶんぶんと首を横に振った。

「いいんだよ〜、ちょうど学校から病院に行く通り道なんだから〜。それにマリィちゃんと一緒にいると楽しいし〜。そうだ、ねえ、ダーリン。マリィちゃんって、すっごく偉いんだよ〜。お注射の時だって、絶対に泣かないんだから〜」

「ウン! マリィ泣かないよ。龍麻お兄ちゃん…マリィの事、誉めてくれる?」

 ほとんど額が触れ合うかのような距離で龍麻の顔を覗き込むマリィ。この距離ならば、彼の目を見る事もできるのだ。だから、彼の目が優しく細められたのも見えた。

「おおそうか。偉いぞ、マリィ」

 例のアルカイックスマイルとは違う、普通の微笑。これも滅多に見られず、また、彼にそれを浮かばせる事は容易ではないので、この時ばかりは少しマリィに嫉妬してしまう葵と舞子であった。

「ウン! マリィ、これからも頑張るよ」

 小さな拳を固めて力説するマリィに合わせ、彼女の肩に乗っているメフィストもニャン! と鳴く。彼(?)も気合を入れているつもりなのだろう。

「そうそう、マリィちゃんが頑張ってるから、治療の効果もすっごく上がってるんだもんね〜。ダーリン、あの子達も随分良くなってきてるよ〜」

 舞子の言う【あの子達】とは、マリィと同じく龍麻の【兄弟】、サラ、イワン、トニーの事だ。【力】のオーバーロードの反動で酷い自閉症になった彼らだが、岩山はさほど時間もかからず元通りになると保証しており、最近では笑顔も良く見られるようになっている。龍麻も彼らと嵯峨野の治療経過を定期的に確認するのが習慣になっていた。

「うむ。それは喜ばしい。これからも頼りにしているぞ、舞子」

「わ〜い。ダーリンに誉められちゃった〜」

 ピョンピョン飛び跳ねて喜ぶ舞子。こうして並んでいると、マリィの方がずっと大人に見えてしまう。

「舞子お姉ちゃん。そろそろ行かないと」

「あっ、そうだね〜。――それじゃあダーリン、今度修学旅行のお話を聞かせてね〜」

 マリィはぽんと龍麻の腕から降り、舞子と手を繋いだ。

「じゃあね、龍麻お兄ちゃん。――お邪魔虫は消えます〜」

「え!?」

 無邪気なマリィの言葉に頬を染めたのは葵一人で、マリィも舞子もニコニコと笑っている。本当に悪気はないのだろう。

「うむ。気を付けてな」

 恐らくは舞子や亜里沙辺りに色々と仕込まれているらしいマリィの言葉にも、やはり、いつもと同じ龍麻であった。









「あらら、龍麻に葵じゃない。二人きりなんて珍しいわねー。ひょっとして、デート中?」

 艶っぽい声でいきなりそんな事を言われ、またも赤面してしまう葵。声の主は藤咲亜里沙であった。

「おお、亜里沙ではないか」

 ラフな敬礼。亜里沙の言葉にも、龍麻はまったく堪えない。これには亜里沙も苦笑するしかなかった。

「やれやれ、相変わらず龍麻はこんな調子なワケ? 葵も苦労するわね〜」

 しみじみと言う亜里沙に、ますます顔を赤くする葵。

「ところで亜里沙、今日は新宿で何か用事か?」

「ええ、まあね。雨紋に助っ人頼まれちゃってさあ。下僕志願者が一杯いるからって」

 どうやら渋谷の紛争調停委員会会長(龍麻命名)殿は、今日も元気に紛争の調停に走り回っているらしい。

 と、そこに話題の人物が姿を現わした。

「よおッ、龍麻サンに葵サン。それに姐サン。良いタイミングで会うもんだな」

 龍麻の真似をして、ピシ! と敬礼などする雨紋である。例によって、槍を持参している。

「おお、雨紋。――新しい槍の調子はどうだ?」

「ああ、もう絶好調ッて感じかな。ちょっと前まではもてあましてた筈なのに、今じゃすっかり馴染んでる」

 鬼道衆との最終決戦で雨紋は今まで使っていた槍を無くしている。その後、如月の店で以前から目を付けていた槍――【ゲイボルク】を購入したのだが、その調子が良いというのだ。

「うむ。それだけお前が成長したという事だな」

「ヘヘッ、龍麻サンにそう言われると、ほっぺた緩んじゃうぜ」

 他の仲間相手ならばざっくばらんな雨紋も、龍麻の前ではより素直な自分を晒すようだ。それを見て葵も亜里沙も思わず笑みを零す。

「さて、雨紋。アタシらはもう行こうか」

「え!? まだ良いじゃん。奴らはまだ――」

「馬鹿。野暮言ってると馬に蹴られるよ」

 悪戯っぽい亜里沙のウインクに、ようやく雨紋も納得が入ってぽんと手を打った。

「こりゃまたお邪魔だったかな? それじゃお二人サン、ごゆっくり」

「もう! 亜里沙! 雨紋くん!」

 珍しく葵が頬を膨らませるのを見て、雨紋は笑いながら亜里沙と共に去っていった。

「ふむ。元気な奴だ。相変わらず、頼りにされているようだな」

 恐らく彼の学園と、新宿のどこかの学園が揉めているのを、仲裁しに来たのだろう。【事件】が起こる前から、彼は度々そのような事をしていたのだから。

「偉いわよね。雨紋君って。亜里沙も、すっかり元気になって良かった」

「肯定だ」

 短い言葉の中には、龍麻の彼らに対する信頼が溢れていた。









 もう少し歩きたいという葵の希望を受け入れ、龍麻は中央公園を目指す事にする。そして新宿通りを行く事にした二人であったが、葵は【菩薩眼】とは関係ない女の直感で、どのルートを辿ろうとも、この二人きりの時間を誰かに食い潰されるであろう事を予感していた。

 そして、予想はものの見事に当たった。

「HA−HA−HA! アミーゴ! ちょっと久しぶりですネ」

 出会い頭からテンションの高いアランと、後ろで苦笑している二人を見回し、龍麻も微笑と共にラフな敬礼をする。

「今日は親睦会か? これであと織部姉妹と出会えば全員制覇だな」

「はっはっは。確かに新宿まで買い物に来る事など俺には珍しいからな」

「僕は客先に商品を届けた帰りだよ。紫暮君とはさっき出くわしてね。アランは、僕が新宿に行くと言ったらついてきたんだ」

 豪快に笑う紫暮の手には、レコード屋の袋が握られている。如月は手ぶらだが、和服姿だ。骨董業のお得意さんの相手をしていたのだろう。

「HA−HA−HA。ヒスーイと一緒なら、女の子に声をかけやすいデース。黙っていても、女の子の方から来てくれマース」

 なるほど確かに、如月に向けられる熱い視線がそこかしこから感じられる。和服姿の若旦那は幅広い年齢層に受けるらしく、少女からOL風、熟女までが如月を遠巻きに眺めていた。如月は憮然とし、葵と紫暮は苦笑したが、龍麻の反応は彼らの斜め上を行っていた。

「なるほど。京一と同じく、成果の上がらぬナンパに精を出しているのだな」



 ――ピキン!



 実も蓋もない龍麻の言葉に石と化すアラン。

「時間を無駄遣いできるとは、平穏を実感できる良い事だ」



 ――ピシッ…ポロポロッ…!



「しかし如月をおとりにしては見向きもされまい。自虐的行為は程々にするように」



 ――ガラガラガラッ…!



 恐らく、多分、なんとなく、龍麻に悪気はないのだろうが、石と成り果てた上に崩れ去るアラン。

「ア、アミーゴ…僕の事、嫌いデスカ?」

「うん? 何を言っているのだ。俺は挑み続ける者には敬意を払うぞ。たとえ目的が果たせずとも、人は成長するものだ。そして可能性は限りなくゼロに近かろうが、ゼロではない」

「NO…!」

 止めを刺された上に、駄目押しである。さしものアランもばったりと倒れ付した。

「龍麻君…彼は彼なりに頑張っているんだから、止めを刺してはいけないよ」

 鋼鉄の朴念仁に完膚なきまでに叩き潰されたアランにさすがに哀れを誘われたか、如月が執り成すように言う。しかし、それは薮蛇であった。

「うむ。しかし京一といいアランといい、努力の方向性が間違っているような気がするのだ。既に特定の女性と深い関係にあるお前ならば解るだろう?」

「なっ――!!」

 座右の銘が【無】である如月らしからぬうろたえぶりに、葵も紫暮も目を丸くする。

 【あの】如月に、【深い関係】のある女性!? 龍麻の次くらいに朴念仁で、アイスマンの彼に、特定の彼女!? 葵と紫暮の耳がダンボと化した。

「た、龍麻君! べ、別に彼女とはそういう関係では――!」

 余りにもさりげなく発せられた爆弾発言を、思いっきり肯定してしまう如月。ちなみに二人の言う【彼女】とは如月のクラスメートである橘朱日の事で、鬼道衆との決戦前に負傷した如月を介抱して以来、龍麻たちの秘密を知る一般人の一人となった女生徒であるが、確かに葵も紫暮も彼女には会った事がなかった。

「何をうろたえているのだ? ――おお、そうか。若い男の一人住まいに【通い妻】というのも【萌え】のシチュエーションの一つであったな。それを秘匿するところに、更なる【萌え】の要素が…」

 そこまで言ったところで、龍麻の首にひやりとしたものが押し付けられた。冷たい金属の感触。忍者の隠し武器の一つ、苦無である。

「…何の真似だ?」

 そう言いつつ、彼の右手に握られたソードオフも如月の胸をポイントしている。殺気を感じた瞬間に体が動く――それが彼だ。

「…君の欠点を一つ上げるなら、戦闘と経済情報以外は全て鵜呑みにしてしまうところだ。彼女はごく普通の、ありふれた、同じクラスの、ただの、友人だと言った筈だよ。そんな話を一体誰から聞いたんだい?」

「情報に誤りがあるのか? 雨紋や醍醐、アランたちから得た情報を整理した結果だ。織部姉妹も情報を肯定している。――お前がパパになるという話は、残念ながら信じてやる訳には行かなかったが」

「パ、パ、パパ…パ!」

 今度こそ酷いショックを受けたか、貧血を起こしたかのようにふらふらっと倒れかける如月。しかし葵と紫暮は【何が残念なの(なんだ)!?】と心の中で突っ込んでいた。

「た、龍麻君…。その情報は一体誰から…?」

「うむ。マリィからの情報だ」

「…ッッ!」

 恐らくこの如月にして、そんな怪情報を流した者は、たとえ【仲間】といえども…! と、物騒な決意を固めていたに違いない。しかし、相手がマリィとなると、怒るに怒れない。

「計算高いお前が俺の贈った紙オムツを処分した事からも情報の誤りは推察できるが、多少の誤解があったとしても、良い傾向ではないか。年頃の少女が話題に富むのは喜ばしい」

 それはそうかも知れないが、できればマリィには純真無垢な心を忘れないで欲しいと願う葵たちである。この辺は、ワイドショー好きな舞子の影響だろうか? マリィの教育方針をちょっと変えてみようかな? とか考える葵であった。

 アランに続き、如月も撃沈である。紫暮はなんとなく嫌な予感がして、買い物袋をさりげなく龍麻の視野から隠す。しかし【仲間】の動静に常に気配りを忘れぬ真神の少尉殿が、それを見逃す筈はなかった。

「ところで紫暮は、タ○ーレ○ードで何を買ったのだ?」

「い、いや、なに、大したものではない」

 こんな物を事もあろうに龍麻に知られたら…! 紫暮の顔が青くなる。しかし、紫暮は忘れていた。龍麻の特技を。

「舞園さやかの新曲か」

「なッ――!」

 なぜ判った!? と聞くのは、もはや龍麻相手では愚問であろう。しかし、真実を言い当てられた紫暮と、この無骨一辺倒の紫暮とアイドルという組み合わせに驚愕した葵は、聞かずにはいられなかった。しかし――

「いや、言ってみただけだ。京一がそのような事を言っていたのでな。確か今回限りの限定発売だとかで、奴は百枚もの応募はがきを出したのだが、抽選漏れしたと嘆いていた。お前は何枚出したのだ?」

「さ、三百枚…」

 それは単なるあてずっぽうだったのか? しかし紫暮は巧みな誘導尋問に引っ掛かった上、あまりにもさりげない龍麻の質問に答えてしまっていた。――葵の前で! 

「…ぷっ…くくっ…!」

 笑ってはいけないと思いつつ、葵は堪えきれずに吹き出してしまう。筋金入りの男子校、鎧扇寺学園の空手部主将にして、伝統派空手の猛者、【二重存在ドッペルゲンガー】を駆使する魔人の一人、醍醐以上に【固い】と言われた男が、アイドルの新曲の注文に三百枚もの応募はがきを…。身長一九五センチ、体重一〇五キロのいかつい顔をした巨漢がアイドルの新曲に耳を傾けているという図を想像しただけで…! 

「うむ。やはり努力の差だな。――良い音楽は精神をリラックスさせ活力を生む。紫暮、お前の努力は常に良い結果を導くものだな。実に天晴れである」

「お…応…」

 日の丸センスを振りながら今更そんなフォローを入れられても…。向こうを向いて肩を震わせている葵を、どことなく恨めしげに見る紫暮であった。

「さて、そろそろ我々は行く。アラン、路上で寝ると風邪を引くぞ。それから如月、その格好で愉快なパントマイムは止めろ。紫暮、お前には言うまでもないだろうが、鍛錬に怠りなく。では、さらばだ」

 自分で三人とも撃沈しておいて、どこまでも偉そうな龍麻は、まだこっそりと爆笑している葵を連れてその場を立ち去った。









「――いよっ、龍麻君に葵じゃん」

「おお、雪乃に雛乃ではないか。――やはり親睦会だな」

「あん? 何だよ龍麻君、親睦会って?」

 中央公園まであと少しというところで、ぼそりと呟いた龍麻に、連れ立って現れた織部姉妹の姉、雪乃が不思議そうに聞いた。

「うふふ。今日はいつのまにか、みんなが新宿に顔を出しているのよ。雪乃さん」

「まあ、そうでしたか」

 葵の説明におっとりと微笑み返す雛乃。しかし、そこに妙な風が吹いているのを、雪乃は気付きたくないのに気付いてしまった。

 当面の敵、鬼道衆は壊滅し、異変は一応の終息を見た。なお、【一応】と考えているのは龍麻と如月のみで、他の者は【終わった】と見ている。それは織部姉妹も例外ではない。と、なれば、【普通】の高校生らしい事をしようではないかと、勉強に、部活に勤しむ【魔人】たちである。そして当然、良くも悪くも個性の塊である一同の間で恋愛感情が生まれるのはもはや必然であった。醍醐と小蒔の毒気(笑)に当てられたせいもあるが、如月の同棲疑惑(笑)もあり、「そろそろ俺(私)も…」と考える者が多くなってきた今日この頃である。

 そして雪乃自身、先の最終決戦以来、雨紋といい雰囲気になっている。新たに発見した方陣技の一件もあるが、実にウマが合うのだ。しかし、それで面白くないのは双子の妹である。同じ学校だというだけで醍醐と小蒔の毒気に辟易している京一よりも、双子の姉妹として日がな一日一緒にいる雛乃の方が、毒気の影響は大きい。しかも相手は雛乃が苦手な【金髪】である。そして、ある部分においては姉以上にしっかり者の妹が恋愛対象として選んだのは、事もあろうに真神の少尉殿だったのである。

(め…目が怖ェぞ、二人とも…!)

 改めて確認するまでもない事だが、あの鉄壁の朴念仁、万年戦争男、受けない噺家、誤解コンボ男、コスプレキング、スパ○ダーマンこと、緋勇龍麻はいわゆる美形に属する。加えて、凄絶な人生経験から来る思慮深さと先見性、しっかりと裏打ちされた信念と誇りを持ち、かつ自省と自戒を忘れず己を過大評価せず他人を過小評価しない、圧倒的なカリスマ性を誇る。実際、宿星の導きがどうこう言う前に、魔人たちは彼の魅力一つで共に戦うことを決めたのだ。そして女性ならば、もう一つの感情を抱くのはむしろ当然であったかもしれない。つまり、【魔人】としての戦いの場では信頼し合える仲間である彼女達は、戦場を離れれば龍麻を巡るライバルになるのだ。

 少し前までは雪乃もその中の一人だった。実の妹がライバルと言えたし、遡れば親友の小蒔とも。しかし小蒔が醍醐のもとに落ち着き、自分が雨紋と良い仲になってくると、修羅場(笑)の様相が客観的に見て取れるようになった。そして出た結論は、【できれば関わりたくない】である。さりげなく確認したところ、まず葵、裏密、舞子、亜里沙、マリィ…はちょっと意味が違う気がするが、更に番外としてアン子、未確認だが天野、噂だけならマリア、果ては近頃真神学園に出現した非公開組織【緋勇龍麻ファンクラブ】なる集団や、先日の決戦でちらっと見た警察の女性キャリア官僚、龍麻とのキス疑惑のある女殺し屋までがいるとかいないとか。

 先ほどの亜里沙との遭遇では、亜里沙自身フランクな性格なので何事もなかったが、【思い込んだら一途】と【キレたら怖い】という部分が共通する葵と雛乃が面と向かえば、周囲の気温が冷える事請け合いである。特に、その場に龍麻がいるとなると――

「――時に龍麻様。御身体のお加減はいかがですか?」

「うむ。万全だ」

 何が起こっているのか判らぬ龍麻(この朴念仁!)は胸を張って答える。

「それはようございました。それを聞いて私も安心いたしました」

「ええ、本当に。後遺症も全くないそうだし、桜ヶ丘があって…今では【力】があって本当に良かったと思ってるわ」

「…私も呼んでくだされば良かったのに…」

「うふふ。遠い所をわざわざ呼び出す訳にもいかないって、龍麻が言うものだから」

「水臭いですわ。龍麻様の為でしたらどこへなりと参上いたしますのに…」

「うふふ…」

「クスクス…」

 愛くるしい笑顔を向け合う葵と雛乃。しかし目はどちらも笑っておらず、背後には火花散らす竜虎の幻影すら見える。はっきり言って、これは怖い。

「ところで二人とも、今日は買い物か何かか?」

 事情は悟れずとも、龍麻の入れた絶妙なフォローに雪乃は心の中で拍手を送った。

「そうそうッ。来週から修学旅行でさ、今日はこいつの買い物に付き合わされているんだよ」

「姉様ったら、そんな言い方しなくても…。旅行の前なのですから、普通は買い物くらいしますわ」

 笑顔の睨み合いを中断して、少し唇を尖らせる雛乃。いつもおっとりしている彼女には珍しい表情である。

「そうは言っても、お前の買い物は長いんだよ。なあ、龍麻君だって、女の買い物に付き合うのは辛いだろ?」

「…辛いという事はないが、服飾その他の助言を求められるのは困る。【ときメモ】、【With you】、【To Heart】 …。いずれも、俺の手には負えなかった」

「……」

 こんなタイミングで美少女ゲームの話を持ち出されても…。しかし、考えてみれば、これは龍麻が女性に興味を持ち始めているという事なのか? 

 いや、早合点は危険だ。この男のことだから、きっとどこかにとてつもない落とし穴が潜んでいるに違いない。

「そ、そうか。大変だな、龍麻君も」

 とりあえずお茶を濁す雪乃であった。

「うむ。お互いに誠意をもって話し合いに臨めば、戦争には発展しないものだ」

 女の買い物と美少女ゲームと戦争と、どこに接点があるのか判らないが、少なくとも臨戦態勢にあった葵と雛乃は顔を見合わせ、互いに【今はここまで!】と納得しあったようだ。

「そう言えば、真神も明日から修学旅行だと伺いましたが、どちらへ行かれるのですか?」

「ええ、京都に奈良…。うふふ、お決まりのコースね。ゆきみヶ原はどこかしら?」

「うちは私立だからな。沖縄ッ。――真神は都立だから仕方ねェけど…って、そう言えば龍麻君って、沖縄出身だったっけ」

 なにげなく口にしてしまってから、「やべッ!」と口を押さえる雪乃。葵も雛乃も、少しだけ表情を強張らせる。

 龍麻にとって、故郷の沖縄には苦い思い出しかない。祖父に虐待されつづけた幼少期と、レッドキャップスに対する標的部隊として訓練された日々、そして、レッドキャップスが全滅した地でもある。嘉手納基地にはいまだに巨大なクレーターが残り、基地の存続について政府と地元住民との対立が続いているらしい。

 しかし――

「おお、沖縄は良い所だぞ。気候は温暖で海は綺麗だ。食い物もうまい。ヒラヤーチーやラフテー、ソーキなどは俺も推奨するし、最初は抵抗あるかも知れんがミミガーなども一度味わっておいて損のない珍味だ。建築物ならば何と言っても首里城が見事であるし、武道ならば琉球空手の那覇手、首里手、本部宇殿手などがある。どれも一見の価値があるぞ」

 誇らしげに語る龍麻に、葵たちはほっと胸をなでおろす。どうやら龍麻は九角と決着を付け、レッドキャップスとしての自分を完全に受け入れる事ができ、全ての過去を己の内に呑み込む事ができたようだ。それは【人間】としての成長であった。

「楽しみですわ。でも私、京都に行かれる皆さんも羨ましいです。趣があって、落ち着いた素敵な場所ですもの」

「ええ、そうね」

 いつのまにか、寒い風が絶えている二人。こんなほのぼのとした空気など、鬼道衆との【戦争】中には考えられない事だったのだ。

「それじゃ、俺たちはそろそろ行くぜッ」

「それでは、ごきげんよう。龍麻様、京都のお話、楽しみにしてますね」

 それでもさりげなく龍麻にアピールをかける雛乃を引き連れ、雪乃は冷や汗混じりに手を振りながらその場を足早に歩み去っていった。









 思いがけず、あるいは意図的に新宿に集まってきた仲間達との出会いや、きっかけとなった事件などを振り返る内に、二人は中央公園に辿り着いていた。

 この時間帯、人影はまばらである。噴水広場の周囲には子供連れの主婦が二組と、散歩をしている老夫婦が一組いるきりだ。繁華街と比べるとやや寂しさを覚えるが、落ち着いた、平和な光景である。ここで血生臭い妖刀事件が起こったなどと、そして数週間前には鬼道五人衆の一人、岩角率いる鬼道衆忍群との一大戦闘が行われたなどと、誰が信じるであろう。あえて言うならば、その後でビルの谷間を跳び回っていたというスパイ○ーマンの噂なら、信じる者はいるかもしれないが。

「…なんだか今日はいろんな人に会ったわね」

「うむ。皆、元気そうで何よりだ」

 男性陣の何人かは、龍麻が沈めちゃったけど…と、葵はクスクス笑う。それから一転して、少し緊張をはらんだ顔になる。

「そのお陰でちょっと言い出し辛かったんだけど、その…私、龍麻に聞いてもらいたいことがあるの。良かったらここで…もう少し話さない?」

「俺はいつでも話を聞く用意ができている」

 相変わらずの口調に少し怯む葵。考えてみれば、龍麻は戦闘指揮官としてだけではなく、プライベートでも仲間達の相談事を持ち掛けられている。彼の雑学の知識は驚異的だ。恋愛関係と芸能関係以外なら、例えば海外の先物取引に関する助言すら行える始末だ。しかし、できればもう少し態度を軟化させて欲しいと思う葵であった。

 噴水脇のベンチに腰を下ろした二人であるが、龍麻は例によって椅子に深く腰掛けてはいない。座る前にも軽く周囲を見回し、危険のないことを確認した上で座り、コートの前は空けている。そして右手は、常に空いている。全て――無意識に。

 鬼道衆との戦いは終わった。だがこの男は、どこまで行っても戦いから離れられない。そう考えた時、葵は目の前に広がる平和な光景が、突如蜃気楼のごとく消えてしまうかのような錯覚にとらわれた。今、自分達のいる平和な現実は、自分たち自身で勝ち取ったものだ。しかし今日もどこかで、世界を崩壊させぬために血を流している者たちがいるのではないか? レッドキャップス、ケルベロス、ナイト・ホークスら、各国の特殊部隊員。あの九角さえも、より巨大な大虐殺を行わせぬために命を賭け、泥をかぶってきたのだ。

「…龍麻。本当にもう、終わったのよね…?」

 本当は別の事を言いたかった筈なのに、口をついて出たのは別の事であった。そして、言った途端に後悔した。



 【俺たちの流す血が、一部の下らぬ者達の利益の為ではない、俺たちが愛するもの、大切なものの為にこそなって欲しい! ――その為ならば、血も流す。命も賭ける】



 あの時の言葉は、まだ耳に焼きついている。それはつまり、そのような戦いがあればいつでも彼は戦いに赴く覚悟があるという事だ。そんな彼にこんな疑問をぶつければ、返って来る答えは――

「いや、まだ天野殿が残っている」

「○☆△×ッッ!?」

 思わずベンチからずり落ちそうになる葵。

「葵、足元には気を付けろ。――案ずるな。内密な話であっても、これ以上邪魔は入るまい。各国諜報部に対しても釘を刺してある。監視は行われていない」

「そ、そう…」

 またしてもボケと超現実のコラボレーション。この先もこの男に振り回される事になるのだろうか? と、少し葵はげんなりとした。

 しかし、このチャンスを逃す訳には行かない。

「ううん。今日、聞いて欲しいっていうのは、そういう事じゃないの。…私の…気持ち」

「?」

 葵はみるみる顔を真っ赤にしたが、龍麻の方は全く変化がない。ただ黙って、葵が口を開くのを待つ。

(怯んじゃ駄目! 今こそ言うのよ!)

 心の中で精神力強化の【主天使ドミニオンの黒】を唱える葵。龍麻風に言うならば、【精神強化処置完了! 戦闘機動に問題なし! 真神愚連隊美里葵衛生班長、戦闘開始コンバットオープン!】――と、いったところか。

「私…あなたの事…」

 しかし、顔から湯気が出そうになるほどの緊張と共に紡ぎ出された言葉は、最後まで発せられる事はなかった。

「よおよお、ニイちゃん。ずいぶんといい女連れてるなぁ」

「俺らの縄張りシマで、いい雰囲気じゃねェかよ」

「そーゆーのはよー、ふーき上困るんだよねえ。取り敢えず有り金全部とその女を置いて消えれば、命だけは助けてやるぜェ」

 いつの間にやら寄って来た【ゴロツキご一行様】と看板を出している輩からの、捻りもなければセンスもない、ついでに凄みも全くない台詞に対する答えは、「はああ……ふうう…」という葵のかくも盛大なため息であった。敢えて言うならば、九角と対峙した時以上に緊張していた葵の体内は、【乙女の純情】で爆発寸前なまでに内圧が高まっていたのである。それを妨害された今、未発に終わった内圧を吐き出す必要があったのだ。それが、ため息という形で現れた。

「…どうしたのだ、ため息など付いて?」

 追い討ちをかけるように、鉄壁の朴念仁が不用意な発言をする。いつもなら苦笑一つで済ませるのだが、今日という今日は、怒りゲージが瞬時にMAXに達した葵である。

「アア!? 訳わかんねェコト言ってんじゃねェよ。さっさと消えろ。さもないと、ぶっ殺しちゃうぜェ」

 【殺す】という単語が出たことで、ようやく龍麻は【ゴロツキご一行様】に視線を向けた。どうやらたった今、この瞬間まで【アウト・オブ・眼中】であったらしい。時々見られる龍麻の性癖の一つ、【アリを踏み潰しても気付かないのと一緒】現象である。

 しかし【ゴロツキご一行様】に、龍麻は気付いてしまった。それどころか【殺す】と言ったことで、彼らは龍麻に宣戦布告してしまったのである。

「…龍麻、無茶しないでね…」

 台詞だけなら、葵が龍麻の身を案じているように聞こえる。しかし、暗がりでしかも背後からこんな声が聞こえれば、気の弱い者ならちびってしまいかねないほど底冷えしていた。普段ならば【やり過ぎるな】というものだが、今日に限っては【私の分も残しておいて】というものである。

「ふむ? 具体的にはどうすればいいのだ?」

「銃は厳禁。急所攻撃も不許可。首を折るのも眼をえぐるのも駄目。手足くらいなら何回へし折っても良いわ」

「了解した」

 いかに腹を据えかねたとは言え、ここまで言った葵に動じもしない龍麻も龍麻だ。そして万年バイオレンスな龍麻なら、おそらく葵が言った通りの事を実行するだろう。しかし――

「…なあ、醍醐ォ。ちょいと留守にしてただけだってのに、もうこんなガラの悪いのが湧きやがるんだなァ」

 心底疲れ果てたような声音が、命知らずにも龍麻相手にナイフを抜こうとした不良たちの動きを中断させた。

「…全くだ。もう少し真面目に掃除しておけば、少しは報われただろうに…」

 こちらも、がっくりと肩を落としている姿が想像できそうな声である。

「気持ちは解るけど、この際だから大掃除しておこうよッ。ボクも少し知名度を上げておかないとねッ」

 前の二つとは打って変わって元気な声。言うまでもなく、京一、醍醐、小蒔の三人であった。その後ろにはしっかりカメラを構えたアン子もいる。

「おお、お前達、早かったな」

 仲間達の悪巧みなど想像もしていない龍麻は偉そうに言う。その台詞にげんなりする一同。

「まあなあ…ひーちゃんのこったからこうなるんじゃねェかって気もしたんだが…」

「…だから言っただろう。こんな悪巧みさえしなければ俺もあんな目には…」

「う〜ん…ひーちゃんだからなァ…」

 困ったように腕組みする三人に、ようやく【ゴロツキご一行様】が活動を再開した。

「テメエら! いきなり現れやがって、舐めた口利いてんじゃねェぞ!」

 殊更に大声を張り上げたのは、こうまで完璧に無視された事など初めてだからだ。不良は怖がられてこそ存在意義があるのに、この連中ときたら自分達がいることは知っているのに、最初から相手にしていない。

 幸い(?)京一がジロ、と【ゴロツキご一行様】を睨んだ。

「ったく! テメエらのお陰で計画がぶち壊しじゃねェか! こちとら口ン中に散弾銃まで突っ込まれたってのによ!」

「俺は…思い出したくもない…。せめて貴様らが邪魔しなければ多少なりと救われたかも知れんが…!」

 何をされたのか、巨体をブルッと震わせる醍醐。しかしその震えは怒りのマグマを触発しているようだ。放っておけば【白虎変】を発動しそうなほど【気】が膨れ上がる。

「ああッ!? テメエら、俺たちを誰だか判ってて口きいてやがんのかッ!?」

 もはや滑稽なほどに大声を張り上げる【ゴロツキご一行様】。しかしそんな彼らに、きちんと応対してくれるありがたい声がかけられた。

「そりゃ、お前達の方だろ」

 この新宿界隈では、人に声をかけるときは呆れた声で、などという誤解が生まれそうである。しかし実際、龍麻たちを知る者には呆れるしかない状況であった。

「て、テメエ! 雨紋! またテメエか!」

「そ、それに藤咲! 何でお前まで新宿にいるんだッ!」

 どうやら龍麻たちより、雨紋たちの方が知名度は上らしい。噛み付くような【ゴロツキご一行様】の罵声に、しかし雨紋も亜里沙も既にやる気なしである。

「…全くお前らも、喧嘩を吹っかけるならもう少し相手を考えろよ。絶対にこの新宿で暴れるなって言っておいただろうが。せっかく止めに来てやったってのに、寄り道なんぞしやがって」

「それで最悪の結果を招いてりゃ、世話ないわね。――アンタ達、自分らが喧嘩売った相手、判ってんの?」

 呆れつつも、楽しそうに亜里沙が言うのへ、【ゴロツキご一行様】がますます金切り声を上げる。

「ああッ!!? こんな雑魚連中がなんだってんだよッ!? ――ケッ、そんな事より、雨紋に藤咲! テメエらは前から気に入らなかったんだよッ。ここでぶっ潰してやるぜッ」

 【ゴロツキご一行様】、戦闘態勢。ナイフやら特殊警棒やら、鎖やらを取り出す。

「…この界隈でトラブルは困るぞ、雨紋」

「――済まねェ、龍麻サン。本当は新宿まで持ち込むつもりじゃなかったんだけどさ」

 そこでようやく、【ゴロツキご一行様】の鈍い頭でも様子がおかしい事に気が付いた。渋谷神代の雨紋といえば、渋谷の【顔】である。近隣の不良にとっては迷惑な話だが、争い事を嫌う彼は不良同士の勢力争いや諍いが発生すると必ずといっていいほど現れ、仲裁もしくは喧嘩両成敗をしにやって来る。墨田の藤咲もそうだ。不良同士の喧嘩などは放っておくが、恐喝や弱いもの虐めとなると現れては、得意の鞭で犯人を痛めつける。――そんな二人が、このカップルに妙に敬意を払っているのである。

「こいつらはあたし達がチャッチャと片付けるから、アンタ達はデートの続きをしてて頂戴。あ、言っとくけど葵。これで一歩リードなんて考えない方がいいわよ」

「――わたくしも同感ですわ」

「――ッ!?」

 【ゴロツキご一行様】の背後から、凛と響く少女の声。

「お前ら…ここで何やってるんだ…?」

 さすがに京一が驚き、呆れる。今の怖い声の主は織部雛乃であり、その向こうには引きつった笑顔の雪乃がいる。隣には舞子とマリィ、そして裏密。ここまでが女性陣で、紫暮に如月、アランもいる。要するに、期せずして【神威】が勢揃いしてしまったのだ。

「いや、この先で皆とばったり会ってさ…」

「HA−HA−HA。アミーゴ、抜け駆けはずるいネッ」

「マリィは、今日はお薬をもらうだけだったから早かったヨ」

「俺たちは…少し頭を冷やしていこうと思っていたんだが…」

「ふ…ふふふ…ふふ…」

「うふふふふふふふふふふふふふふ〜。うまく〜逃げたわね〜醍醐く〜ん」

「わあいッ。みんな勢揃いなんて、凄い偶然〜ッ」

 これだけの個性派が一堂に会すると、さすがに一種異様な光景だ。そのただならぬ雰囲気に、【ゴロツキご一行様】も虚勢を張り続けるのが困難になってくる。

「て、テメエら…一体なんなんだ…?」

 【ゴロツキご一行様】は総勢八名。カップルを脅すには充分すぎるほどの人数だろう。しかしあれよあれよという間にカップルの味方らしい連中が集まる事十二名。その中には彼らも名を知っている雨紋雷人、藤咲亜里沙、鎧扇寺の紫暮兵庫、ゆきみヶ原の織部姉妹までがいるのである。あとの和服やラテン系や、壜底眼鏡に看護婦、猫を連れた少女にしても、彼らでも判るほどに常人とは異なる雰囲気をかもし出している。

「なんでェ、やっぱり知らねェでそいつに喧嘩売ってたのかよ」

 言外に【身のほど知らず】と【命知らず】と【不幸者】という単語をたっぷりと匂わせ、京一は木刀を肩に担ぐいつものポーズを取った。

「だったら教えておいてやるぜ。そいつは俺たち【真神愚連隊ラフネックス】の隊長殿、緋勇龍麻少尉だ」

「ゲッ…!!」

 劇的な変化というものは、まさにこのようなことを言うのだろう。【ゴロツキご一行様】の顔が派手に引きつって真っ青に、更にそこから真っ赤に染まった。それが再び青く染まり、最終的に紙の色になる。恐怖によって血の気が引き、アドレナリン活性により血流量が増大し、やっぱり怖くて全身が萎縮する――実にわかりやすい反応であった。

「ま、ま、ま、【真神愚連隊】…ッッ!!? て、テメエらが…!」

「ま、真神の緋勇ッ!!? ――ってことは、テメエが真神の蓬莱寺に…醍醐ッ!!?」

 知名度というものには二種類ある。一つは顔と名前が同時に知られているもの。人の噂に上る時、その容姿、背格好、持ち物など、かなり具体的な情報が語られるタイプである。雨紋や亜里沙、紫暮などはその典型であろう。

 そしてもう一種類。人に聞けば必ずその名前を知っているのに、具体的な情報となるとまるで出てこないタイプ。実際に遭遇した者は固く口を閉ざし、ただその名前のみが伝わり、様々な憶測情報のみが飛び交うタイプである。その典型が龍麻であった。――高校生でありながら、本物の銃を振り回すデンジャラス・マン。その名に挑んだ者たちの多くが闇に消え、永久に帰って来ない、敵対した者は皆殺し、バックにヤクザがいようともそのヤクザまで殲滅する生きた最終兵器。他にも人の生き血をすするとか、拳一つでビルを倒壊させるとか、実は人間社会に送り込まれたターミネーターだとか、酷いのになると緋勇龍麻はMIBのエージェントで、コートは尻尾を隠すために着ている…などという荒唐無稽(一部真実かも(笑))な噂もある。

 幸い(?)な事に、【ゴロツキご一行様】は龍麻以下、真神の三人の噂を知っていた。しかしこの状況下で、それがなんの役に立つ? 既に彼らは龍麻に喧嘩を売ってしまい、葵が全身全霊を賭けた【告白タイム】を妨害してしまったのだ。その上、自分の死刑執行令状にサインするような事まで言ってしまったのである。

「へ…へへへ…そうかい。テメエが緋勇龍麻か…」

 【ゴロツキご一行様】のリーダー格と思しき男が携帯電話のスイッチを押す。

「――って事は、テメエをぶっ潰せば俺たちがナンバーワンだ! 覚悟しなッ!」

 あちゃあ、と、京一以下、真神愚連隊の面々は天を仰ぐ。

「へへっ、二分もすれば百人からの仲間が集まってくるぜ。男どもは全殺し。女どもは…ケケッ、覚悟して置けよ」

 やれやれ、と頭を掻いたのは雨紋と亜里沙である。

「馬鹿もそこまで行くと救いようがないわね。アンタたちのアテにしてる百人。本当に来ると思ってんの?」

「ああッ!? 何言ってやがんだ、藤咲!」

「お前らの仲間は、とっくに俺と姐さんとで片付けちまったって事だよ。――もっともあの程度の連中じゃ、百万人いたって龍麻サンにゃ傷一つつけられないぜ」

 再び、ゲッ、となる【ゴロツキご一行様】。しかし――

「…いつまでそんな雑魚に喋らせておくつもり? さっさと片付けて」

「――了解」

 この場でもっとも暴力と縁がなさそうな葵の言葉に愕然とする間もなく、噂の男がするりと動いた。そして――以下略。

「さて葵、邪魔ものは片付いたぞ。続きを聞こうか」

「…もういいわ」

 そりゃそうである。全身全霊のアタックを妨害した輩は既に噴水に漬け込まれて大根のごとく【たゆ〜ん】と漂っているが、この場には仲間全員が集っているのだ。そんな状況で何を言えと…。

「心配いらん。ここにいるのは信頼できる仲間達だ。たとえお前にどのような悩みがあっても、俺を含めて親身となって相談に乗ろう。それとも、彼らにさえ相談できぬような話なのか?」

「そ、そういう訳じゃないけど…」

 例によって例のごとくの龍麻の朴念仁発言に、京一達【真神愚連隊】男性陣が手指で話し合う。内容は【早期撤退】。

「そうか…。それほどまでに重要なのだな。――では矢無を得ん。お前達、暇ならば先に【王華】に行くように。――安心しろ葵。たとえお前がどのようないかがわしい秘密を持っていようとも、俺は誓って口外しない」

「…なんですって、龍麻…?」

 血相変えて回れ右! 前へ進め! とその場から立ち去ろうとする男性陣。

「今朝の一件を考慮するに、色々と悩みもあろうが案ずるな。女性心理と身体的変調の発生についても研究が進んでいる。ストレスを溜め込んではいかん。適度に発散してこそ、心理的肉体的バランスが取れるものだ。しかし過度な刺激や通販由来の小道具の使用は控えた方が良い」

「「「「「…………」」」」」

 女性陣がさっと頬を紅潮させた瞬間、京一達は思わず合掌、アランは十字を切ってしまった。

「…龍麻」

「うん? ――なんだ葵、その手は?」

 ゆらりと天を指したのは、葵の右手。龍麻の【秘拳・鳳凰】に迫る破壊力を有する葵最大の攻撃術【ジハード】の構えである。

「私…あれからも少し練習しているの。うふふ、お陰でよりコントロールが正確になったわ。そう…人一人を狙い撃ちにできるくらい…」

 そっと耳に忍び込んでくるような、超低温の葵の声に、龍麻の頬に汗が一筋流れた。

「むう…スパイ○ーネ…ッッ!!?」

 いくら龍麻が言語道断な鈍感男でも、この時ばかりは葵が激怒している事が判ったのだろう。しかし先制の【スパイ○ーネット】を放とうとした龍麻の腕が両側からがっしりと捕まえられてしまった。

「な、何をするのだ? 雛乃!? 亜里沙!?」

 この万年戦争男の事だから油断していた訳ではないのだが、この瞬間、葵に全神経を集中していた龍麻は不覚にも亜里沙と雛乃に腕を取られ、関節まで極められてしまった。しかも彼の足元に真っ黒なタールの沼が生じ、そこから伸びた手が両足をも掴んでいる。身動きができない! 

「…アンタのボケ発言はいつもの事だけど、ちょっと喋りすぎじゃない?」

「…龍麻様、口は災いの元だと、以前にも申し上げましたわ…」

「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ〜」

「む!? 俺は何もおかしな事は言っていないぞ。もてあました性衝動を自己処理することはあらゆる生物にとってごく自然な…ッッッ!!」



 ――ギリギリギリッ! 



 脇で見ている方が恐ろしくなるほど、龍麻の腕が締め上げられる。

「舞子お姉ちゃん。セーショードーって何?」

「舞子わかんな〜い。だからマリィちゃんも、早く忘れようね〜」

 純真無垢なマリィと、ボケボケ(笑)っぽいながら実はしっかり者の舞子の掛け合い。チラ、とそちらを眺めた葵の目が、龍麻に視線を戻す。

「うふふ…龍麻、マリィに変な言葉を教えたら許さないから…」

「お、俺は断じて…!」

 龍麻の顔中をだらだらと脂汗が流れ落ちる。かの九角と闘った時でさえ、彼はこんな顔はしなかった。なるほどこれが、彼の恐怖に引きつっている顔であった。

「もうちょっと、純な女心を理解できないものかしらねェ、龍麻?」

「龍麻様…殿方の煩悩で作られた美少女ゲーム(グサッ)などでは、オタクな皆様(グサッ)の下衆(グサッ)で愚かな願望(グサッ)プラスXXXの無知な妄想(グサグサグサッ)に汚染されるだけですわ」

 亜里沙の言葉はともかく、雛乃の言葉に身悶えしつつ七回ほど胸を押さえてから倒れたのは京一、アラン、紫暮(!)である。

「ね、ねえ雪乃…。雛乃って…ああいうキャラだったっけ…?」

「そ、そんな訳ねェだろッ。な、なあ雷人…あれ…止められねェか…?」

「ゆ、雪乃サン! 無茶言わねェでくれよ!」

 親友の初めて見る姿に驚く小蒔に、妹の豹変に頭を抱える雪乃、そしてかなり本気で嫌がる雨紋。渋谷の紛争調停委員会も、新宿真神絡みのトラブルは手に余る…と言うより、この事態は【神威】たちであっても手に負えまい。

「…ここは一つ、建設的な意見を述べさせてもらおう」

 咳払いを一つして、如月が告げる。京一達も彼の言葉に耳をそばだてた。

「――巻き込まれる前に、逃げよう」

「「「「「乗った!」」」」」

 いいのかそれで!? 無情なるかな、信頼する指揮官殿をその場に残し、逃げ去る【神威】たち。京一たちはもはや当初の計画など、忘却の彼方に追いやっていた。

 真神愚連隊隊長、緋勇龍麻。

 その日、彼は女性のたくましさと恐ろしさを思い知った。

 ――十数分後。

「アラ、龍麻君。――って、何してるの?」

 ほとんど親睦会と化したその日、真神愚連隊に直接関わる女性、フリールポライター天野絵莉は、なぜかオレンジ色の寝袋に突っ込まれ、緑の葉っぱを頭に付けられ、木に吊るされている緋勇龍麻と遭遇した。

「…恐れながら、説明すれば長くなります。自分――いえ、僕はニンジンなのだそうです」

「僕…? それにニンジンって…………………ああッ!」

 ぽんと手を打ちかけ、天野は思いとどまる。

 (僕はニンジン…朴念仁とか言いたいのね。でもこれが判ると私もオヤジ臭いとか言われるだろうし…)

 黙考三秒。天野は決断を下した。

「――なんだか忙しそうね。それじゃ、またね、龍麻君」

 あなたも見捨てるか、天野殿。

「お待ちください。恐れながら、下ろしていただけるとありがたいのですが。せめてこの呪符だけでも取っていただきたい」

「…それは駄目よ。龍麻君にそんな真似ができるのって葵ちゃんたちしかいないでしょ? できれば助けてあげたいけど、私、女の子の味方だから。――ごめんね」

「そうですか。それはまことに残念です。――おおっ!?」

 ひゅるりら〜と吹いて来た風に煽られ、くるくると回り始めてしまう龍麻。後ろから見ると確かに巨大なニンジンがぶら下がっているようで、不気味だ。妙に哀愁も漂っている。

 (誰の発案かは知らないけど、龍麻君に毒されているわね)

 天野がそう思った時、ラーメン屋【王華】で葵が小さなくしゃみをしたが、当然、天野の知るところではなかった。

 その後もアンダーグラウンドの重鎮やら美貌のキャリア官僚やらと遭遇した龍麻であったが、みな笑うか呆れるかするものの助けてくれる者はなく、結局は葵を始めとする女性陣がラーメン屋から戻ってくるまで、中央公園で一人寂しくぶら下がっていたという。

















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