
第拾参話 外法都市 1
――さあ来いモンキー野郎ども! 人間一度は死ぬもんだ! ――
――第二次大戦中、名も知れぬ下士官が残した言葉
「…ここだな」
「よっしゃ、んじゃ、早速――」
ここは東京都文京区目赤不動。彼岸も近いので墓参の人波があちらこちらに見受けられる中、龍麻たち一行は唯一人気のない境内の一角に足を運んでいた。目的は無論、五色の摩尼の封印である。鬼道五人衆を倒し、全ての珠が揃った今、一刻も早く封印しておくに越した事はないと、都内全域に警察の警戒態勢が敷かれる中、行動を開始したのであった。
「OK。封印完了」
例によって珠が自らぽんと飛び、祠の中に吸い込まれ、龍麻風に言うと自動販売機のように、身代わりを勤めていた品が滑り出してくる。それは見事な大粒の、紅玉の指輪であった。
「ほほう。これは見事な」
京一から指輪を受け取り、日の光にかざしてみる龍麻。これらの品の鑑定は全て如月に任せているのだが、貴石の価値なら龍麻にも判るのだ。何しろ、戦場では紙幣など紙屑同然なのだから。戦場で武器を商う商人が信用するのはまず砂金、そして宝石だ。場所によっては塩やラクダ、オイルに変わる事もある。当然、武器を売る方も買う方も、代価に対する鑑定眼がなくては勤まらない。
「粒の大きさといい透明度といい、【力】を抜きにしてもざっと三百万は下らぬ代物だな」
「さッ、三百万円…!」
普段、龍麻の人並み外れた経済感覚を聞かされている彼らも、現物を前にして具体的な金額を提示されるとリアルに感じ取れるらしい。龍麻以外の四人は絶句した。
「闇ルートに流せば二千万は行くと思うが?」
「だ、ダメダメッ! 皆で決めた事じゃないかッ! 発見した遺物は危ない所には流さないって!」
「そ、そうだぞ龍麻! それじゃまるで盗賊じゃないか!」
「ふむ…ロマンに欠ける奴らだ」
龍麻の事だから、多分、冗談ではないだろう。指輪を無造作にポケットに仕舞う。
「これで残るはあと一つだ」
「楽勝だな」
龍麻の言を受けて京一が言う。彼の手の中で黄色の珠が跳ねる。
「だといいが…」
「何だよ。ジジイも珠を封印すればいいって言ってたじゃねェか」
慎重派らしい意見を述べる醍醐を、京一が茶化す。しかし醍醐に援護射撃が入った。
「もうッ、お気楽もここまで来れば立派だよ。鬼道衆だって全滅した訳じゃないし、九角って人の事だってぜんぜん解ってないんだよッ」
「そら、そうだけどよ」
「京一、俺たちはいつも鬼道衆に対して後手後手に廻っているんだ。五人衆を失って鬼道衆も必死だろうし、やはり最後まで気を抜けんぞ」
二人がかりで槍玉に挙げられ、口をへの字に曲げる京一。
「何が気を抜けねェ、だよ。屋上でいちゃいちゃ二人して弁当食ってんのはどこの誰だ、ええ?」
「「な――ッ!?」」
京一の言葉が正しくクリティカルヒット! 二人の顔はみるみる真っ赤になる。
「なんだお前ら? まさか、気付いてないとでも思ってたのかよ!? なあ、ひーちゃん。【醍醐クン、はい、アーン】」
「【うむ。旨いよ、桜井】」
その時の情景を再現する京一に、すかさず応じて醍醐の口真似をする龍麻。最近、こんな冗談のやり取りまでできるようになった龍麻である。醍醐と小蒔は絶句し、顔を真っ赤にする。
「見事なものだな小蒔。それこそ数多ある恋愛シミュレーションにおける王道、【手作り弁当】イベントだ。この【萌え】フラグさえ立てれば多くの場合ハッピーエンドを迎えられる重要性を持つ。しかしこの【萌え】という単語だが、誰が最初に言い出したのだろうか?」
「ひーちゃん…。醍醐に止め刺してるぞ」
頭に血が昇り過ぎてのぼせたのだろう。醍醐は鼻血を流し、立ったまま気絶していた。
「萌え尽きたか…」
「だからやめろって。――そんな事より、最後の…目黄不動ってのは何処にあるんだ、美里? …美里?」
京一の呼びかけに、はっと我に返った葵。どうやら龍麻たちの掛け合いもろくに聞いていなかったらしい。醍醐の鼻血を見てから驚いたくらいであるから。
「どうしたの、葵、元気ないみたいだけど」
この数日、葵が沈みがちである事を小蒔はとうに気付いている。それとなく聞いてみたりもしたのだが、いつでも「大丈夫」と微笑むばかりで要領を得ない。今回もそうだった。
「ううん。大丈夫よ」
いつもの微笑みで返し、メモ帳を取り出す葵。そんな親友の姿に、小蒔はちょっとだけ落ち込む。
(ボクには言えないような事かな…)
それとなく龍麻の方を見る小蒔。すると龍麻も葵を見ていた。葵の精神状態が常と違う事は彼も見抜いているのだろう。だから醍醐を犠牲にしてまでギャグを飛ばしたのだが、葵はまったく反応しなかったのである。
「あったわ。でも目黄不動…そう呼ばれるお寺は二つあるけど、どちらが本物かしら?」
「二つ?」
辛うじて復活した醍醐が鼻を押さえて聞き返す。
「ええ。江戸川区の最勝寺と、台東区の永久寺。どちらも江戸五色不動の一つとして紹介されているわ」
「…両方行くとなると手間だな。時間のロスは鬼道衆に付け込まれる可能性もあるし」
しかし現時点では、それしか方法がなさそうだ。どちらを先にするかは龍麻に一任する一同であった。
「江戸川だな」
龍麻は葵のメモにざっと目を通して判断を下した。
「江戸時代の地図と照らし合わせると、江戸川の方が可能性ありだ」
「カーッ、江戸川まで行くのかよ。俺の貴重な青春が無駄に過ぎていくぜッ」
江戸川区までは結構な距離がある。加えて、京一にとっては苦手な人物がいるのも江戸川だ。あの陽気なラテン青年は、実は泣く子も黙る海兵隊上がりなので仲間たちの信頼も厚いのだが、なにぶん普段がお調子者のナンパ気質なので京一は気に入らないらしい。いわゆる近親憎悪だ。
「そう言うな。鬼道衆さえ倒せばいくらでも青春の無駄遣いができるさ」
「無駄遣いたァなんだ! 醍醐!」
どうやら醍醐は、先ほど京一にやり込められたお返しをしたらしい。
「自己鍛練の時間を削り、キャッチセールスのごとく女性に声を掛け捲り、その全てに付き合いを断られている。醍醐の言葉は真実だ」
やはりすかさず止めを刺す龍麻。さすがは指揮官。平等である。
「クッ…覚えてろよ。ひーちゃん」
「覚えているとも。俺の知る限り、お前が春から声をかけた女性は通算四一二人。誘いに乗った女性は皆無だ。………(溜めてる)………アホ」
「グハァ…ッ!」
龍麻の言葉がクリティカルヒットし、盛大に倒れる京一。そんな彼を醍醐に引きずらせ、龍麻たちは帰路に付いた。
「あ〜あ、結構遅くなっちゃったね」
一行が新宿に着いた時、既に日はとっぷりと暮れていた。しかしここは眠らない街である。むしろ日が落ちてから本格的な賑わいを増す。
「ああ。結構歩いたしクタクタだ。これで明日は江戸川くんだりまで行こうってんだからなァ」
「はははッ、そう言うな。ラーメンでも食えば気も晴れるさ。なあ?」
「そうだねッ」
小蒔が真っ先に賛成し、京一も復活する。しかしその背後から、葵がおずおずと声を上げる。
「あ、あの…私、今日は家族で外食の予定なの…」
家族…という事は当然、マリィも含まれているだろう。彼女が籠の中から放たれたのはつい先日の事であるから、家族と外食というのはマリィにとって未体験のイベントに違いない。
「そっかー、そういう事なら早く行ってあげないとね」
「ごめんね…」
残念そうな顔をする葵。その表情から、何が残念なのか読み取れるのは、やはり親友である小蒔だけだろう。
「それじゃ、ひーちゃん。もう日も暮れてるし、葵一人帰らせるのも危ないから送ってあげてよ」
「? …俺は別に構わんが」
【なるべく単独行動は取るな】――鬼道衆との決戦が近いと踏まえ、仲間たち全員に下した命令である。先のローゼンクロイツの一件があってから、より周囲の状況に注意して動けとも。当然、葵が家に戻るまでの数百メートル、龍麻は彼女を一人にするつもりなど毛頭なかった。しかし全員で行っても大して回り道にならぬのに、指名されるとは…。
(小蒔…それほどまでに早くラーメンが食べたいのか…)
親友とラーメンを秤にかけるとは…などというとてつもない誤解は、龍麻にとってはいつもの事である。しかし葵はそんな事を知る筈もなく(知っていても敢えて無視して)即答した。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ…」
作戦成功。どこか沈みがちだった葵の表情がぱっと明るくなり、小蒔は龍麻に見えないようににっと笑う。
「それでは俺たちはちょっと寄り道してから帰るとしよう」
ちょっと寄り道…【王華】だろう。そのくらいなら、それほど問題ではあるまい。
「へへッ、ひーちゃん。送り狼になるんじゃねェぞ」
「送り狼…狼が獲物を狙う時に使用するストーキングだな。しかし日本語の使い方を間違えているようだな、京一。俺は護衛の方だ。――お前たちも気を付けろ。奴らはいつでも俺たちを見ているぞ」
「何!? それってどういう意味――」
龍麻の最後の言葉に引っ掛かりを覚えた小蒔がその意味を問い質そうとした時、龍麻と葵は密度の濃い雑踏に呑まれて見えなくなってしまった。
「行っちゃった…」
「…まあ、気にするほどの事はねェだろ。ひーちゃんが警戒し過ぎるほど警戒しているのはいつもの事だからな。それに俺たちだって…」
「――それほど油断はしていない…だな、京一」
「その通り! …ま、美里はひーちゃんに任せておけば大丈夫だろ」
「そうだね…」
小蒔は少しの間、二人の消え去った雑踏を眺めていたが、醍醐に促されて歩き始めた。
一九〇〇時ともなれば、残業から解放された会社員なども家路に、あるいは盛り場に繰り出す頃合いなので、新宿駅東口は不馴れな者では呑まれて押し流されてしまうほどに人が溢れていた。その中で龍麻は緩やかに歩を運び、決して他人と肩が触れ合う事もなく進んでいくのだが、葵はそうはいかない。龍麻も歩調を合わせてゆっくり進んでいるのだが、どうしても葵は遅れがちになる。
「葵。一本裏手に廻るぞ」
「え、ええ」
無造作に葵の手を取り、雑踏を抜ける龍麻。葵は顔を上気させながら小走りに彼に付いていく。
【魔界都市・新宿】。かの伝奇小説に描かれる世界そのままに、新宿というのは不思議な街である。表通りから一本外れただけで、きらびやかなイルミネーションも喧燥も、そして人いきれさえも絶えて、静かな闇の世界が横たわっている。表通りのものとは根本的に異なる、没個性の街灯がぽつぽつと道を照らしてはいるものの、暗闇に何処までも続く頼りない光は、人を異世界へと誘う道標のようである。
龍麻と葵は、そこを歩いていた。
「…私って駄目ね…。いつも皆に迷惑をかけてばかりで…いつも皆に護られて…」
「葵、俺はいつも言っているが――」
「うふふ。別に敗北主義に落ち込んでいる訳じゃないわ。ただ…」
そこで葵は言葉を切った。龍麻は静かに黙って待つ。しばらく、葵の靴音だけが静かに響いた。龍麻の靴音はしない。
「なんだか…最近恐いの…。何か…不思議な夢を見たりして…夢の内容は覚えていないのに、酷く胸が切なくなって…。私が…私自身でいられなくなるような気がして…皆と離れ離れになってしまうような気がして…」
「俺はここにいる」
表情も口調も変えない、龍麻のただ一言。しかし、その一言の効果は絶大だった。これがゴールデンタイムに放映しているトレンディードラマで使用されたら、そのシーンは笑いを取るだけだろう。多くを語ることなく一言にあらゆる意味を込められるのは、それなりの年輪を経てきた人間だけだ。
「貴方はいつもそうやって私を励ましてくれるのね…。貴方はほんの一言で、笑み一つで誰かを救う【力】がある」
「…笑いは取れんが?」
「うふふ。それはこれからの課題ね。――私の課題は…もっと強くなりたい…。心も身体も…。そうすればきっと――」
突如、龍麻がふっと前方の暗闇に顔を向けた。
【どうしたの?】という言葉を葵は呑み込む。いつのまにか、周囲を複数の気配が取り囲んでいたのだ。通りの前後、左右の家々の壁や屋根の上などに、見慣れた忍び装束の一団が現れる。数は――良く解らない。
「緋勇龍麻と美里葵に相違ないな…」
恐らくは中忍クラスの混成部隊。忍び装束の色がまちまちだ。そして暫定的指揮官であろう中忍が問い掛けてくる。質問でも、確認でもない。自分達の名を名指しされた事で、葵の顔が不安に彩られる。しかし――
「【萌え】という言葉の起源を知っているか?」
「――!?」
この状況下で出る言葉ではあるまい。葵は腰砕けになる自分を必死で支えた。鬼道衆忍軍はと言えば、何を言われたのか理解できず、互いに顔を見合わせる。
「夕闇の濃い裏通りにうら若き男女が二人きり。これもまた【萌え】のシチュエーションの一つだ。お前たちはそれを邪魔する【お邪魔虫キャラ】という訳だ。解るか?」
「……」
敵を前に、まるで講釈を垂れるかのような龍麻の口調。鬼道衆忍軍の殺気が何やら酷く頼りなくなる。
「そしてお邪魔虫キャラは常に主人公によって殲滅される運命にある。その扱いは仮面○イダーの戦闘員よりも酷い。後で相手をしてやるから、出直してくるがいい」
そして龍麻は葵の手を引き、すたすたと歩き出した。彼らの前方にいた忍群は余りに堂々とした龍麻の態度に、思わず道を開けてしまう。しかし二人が包囲網を抜け出たところで、はっと顔を見合わせて我に返る忍群。
「ま、待て! ――その首、貰い受ける!」
ようやく自分達の任務と、恐らくは自分達が思い切り馬鹿にされた事に思い当たり、鬼道衆忍軍はそれぞれ得物を抜いて殺気を放った。どうやら彼らは【お邪魔虫キャラ】に成りきる事を選択したらしい。
「せっかちな奴は嫌われるぞ? 台詞にもセンスがない」
「うるさい!」
勇んで切りかかろうとする中忍。しかし、龍麻が手のひらを突き出す。攻撃の形ではないが、ビクッとして立ち止まる中忍。
「まあ待て、これが最後だ。――お前たち、その格好のまま新宿まで来たのか?」
「……」
沈黙。それは――肯定。
「…プッ」
龍麻が口元に手をやって吹き出す。鬼道衆忍軍の胸に【グサッ】という矢印が刺さり、あるいは金だらいが頭に直撃する映像が葵の視野にフラッシュバックした。
「…し、死ねェィッ!!」
馬鹿にされた上とどめまで刺され、憎悪の【気】をたぎらせて殺到する鬼道衆忍軍。
だが、止めておけば良かったかも知れない。龍麻のコートが閃き、抜き出された両手にはイングラムMAC−11が握られていた。
ボボボッ! ボボボボボボッッ!!
サイレンサーの為に、銃声よりも撃たれた人体が地面を叩く音の方が大きい。通常、片手で全自動射撃が可能なのはフィンランド製ヤティ・マティックくらいのものだが、最近の龍麻は腕力が尋常でないほど上がっているので、手の中で暴れるイングラムを苦もなくねじ伏せる。それが可能ならば、より小型のSMGを選ぶのは当然の事であった。そして、龍麻の巧み(?)な話術によって包囲を破られていた鬼道衆忍軍は、自らがイングラムの射界に呑まれていた事に最後まで気付かなかった。
鬼道衆忍軍は二〇名ほどもいただろうか? しかしそれらは二丁のイングラムが一連射しただけで尽く全滅してしまった。
「…行くか」
イングラムの弾倉とカート・キャッチャーを交換し、まるで蚊を叩いたかのような気安さで歩き出す龍麻。葵はろくに肯く事もできないまま後に続く。後ろを振り返りながら。
「…このところ俺たちの周囲をうろついている奴らだ。もう百ほど片付けたが、まだタネ切れしないらしいな。――見ろ」
「――これは!?」
葵の見ている前で、鬼道衆忍軍の死体は炎に炙られた灰のように自壊し、塵となっていく。まず肉体部分が崩れ去り、次いで忍び装束が、得物がボロボロと崩れて消え去っていった。一分とたたぬ内、闘争の現場には何一つ、硝煙の残り香のみ闘争の証として、何もかもが消え去ってしまったのである。
「――これが鬼道という奴だ。詳しい原理は分からんが、奴らは無尽蔵に兵隊を製造できる。もし鬼道衆が本格的にどこかの軍隊と手を結んだら、いくらでも補充の利く兵隊の出現で世界の軍事バランスは崩壊するだろう」
「…!」
それがどれほど恐ろしい事か、世界情勢に疎い葵にも解った。
いつの時代でも、戦争の主役は【人間】である。先の湾岸戦争のように兵器自体のハイテク化が進み、コンピュータ搭載のミサイルや無人戦闘機の実用性が見せ付けられたとは言え、最終的に決着を付けるのは多くの歩兵であり、工作兵である。敵の本部をピンポイント攻撃するミサイルで破壊したとしても、それで戦争は終らない。敵陣地を制圧、占領し、敵勢力を根絶して初めて戦争は終る。核ミサイルを使用すれば一発で相手を殲滅できるとは言え、核汚染された土地の再利用が適わないのでは意味がない為、どんな軍事大国でも核ミサイルは政治上の発言力強化や紛争の抑止力程度に考えているのが現状である。
しかし、実質的に核ミサイル抜きで戦争するとなると、物を言うのはやはり物量だ。先の世界大戦では、同盟により当時のハイテク兵器を駆使した日、独、伊三国は、戦争当初こそ連勝を飾ったが、戦線の拡大につれて戦力が分散され、連合国側の各個撃破戦術の前に戦力を削られ、最終的には資源不足、生産力不足が露呈して敗北するに至った。戦争が長期化すれば、最終的に物資を多く有する国が勝利するのである。
こんな世界情勢下、無限に生産できる歩兵を有する軍隊が出現したらどうなるか? 成人した若者を徴兵し、一人前の兵士に鍛え上げるにはそれなりの時間も費用もかかる。たとえばアメリカ海兵隊の場合、徴兵期間は二年。初期訓練の三ヶ月間は徹底的にふるいにかけ、かの有名な悪口雑言等を駆使して肉体的精神的虚弱者を叩き出す。その後に格闘、ナイフ、銃器類など、あらゆる戦闘技能を教育し、通信、医療、サバイバル技術、その他諸々、一人の兵士と仕立て上げるまでに教育せねばならぬ事は山ほどある。そして当然、軍服を始めありとあらゆる装備類、食事、訓練施設、弾丸、その他一切合切を計算すると、たった一人の兵士を育てるのにかかる諸費用はとてつもない金額になるのだ。更に戦闘機やヘリコプターのパイロットともなるともっと予算を食い潰す。一人のパイロットを養成するのに最低二年。その間の機材、装備、食事に加え、ジェット燃料まで含めると戦闘機一、二機分以上の金がかかるのだ。
それらの問題点を一切考えなくていい鬼道衆忍軍は、ある意味世界最強の軍隊に成り得る可能性を秘めているのだ。養成期間がどの程度必要なのか不明だが、これまで出現した人数と、鬼道衆の規模、そして隠密性が保たれている所から推察するに、組織の規模はそれほど大きくないながら、忍群の製作期間は極めて早いと見ていい。忍群が千人も二千人もいれば当然、待機場所には相当のスペースが必要になるし、それだけの大所帯ともなれば人目に付きやすくもなるからだ。
「だが、今のところ知能はそれほど高くない。あの程度の話術で混乱するほどだからな。用心するのは当然だが、油断さえしなければ恐れる必要はない」
「……」
あの訳の解らん質問が、実は戦術の一つだと…? 本当にこの男の神経は解らない。彼は今まで、自分の本心を仲間たちに晒した事があっただろうか? 葵はふと、そんな事を考えた。
「…俺はここにいる。京一たちも。その意味を良く考えろ。自分を痛めつける事だけが強くなるという事ではない。人が強くなる切っ掛けなど、その辺の道端にすら転がっているものだ。――そこの角を曲がれば待ち合わせの場所だろう? 難しい顔は止めて、楽しんでこい」
龍麻はそこで立ち止まる。ここから先は家族の時間だ。たった今硝煙の匂いを身に染みつけたばかりの自分が立ち入るべき隙はない。
誘っても龍麻がそれ以上来ない事は解っている。葵は少しだけ憂いを含んだ微笑を見せた。
「…送ってくれてありがとう…。また明日…学校でね」
「Good night」
二本指のみ立てたラフな敬礼。葵は一度だけ振り返って敬礼を返し、角を曲がって姿を消した。丁度家族の者も来ていたのか、マリィの喜ぶ声も聞こえる。
「…もう一仕事か」
龍麻は表通りの華やいだ空気に背を向け、イングラムのセフティを外した。
果てがないかに思える闇に閉ざされた細道に、再び殺気と妖気が満ち始める。
その発現点に向けて、龍麻はゆっくりと歩き始めた。
夜は、まだ始まったばかりであった。
【…ン……イン…ナンバー9…!】
耳元で囁くような声が明瞭になる。ナンバー9…【彼】の認識番号だ。
【ナンバー9。状況を知らせよ。繰り返す。状況を知らせよ】
命令は【彼】の直属の上官…隊長より上の、スウェイニー・ラング少佐からのものだ。だが、【彼】は答えられなかった。目指す標的は目の前で息も絶え絶えに喘いでいる。八〇近い老人でありながら、見事な銀髪を蓄えた、鷹のように鋭い目をした老人である。痩せ型だが長身で筋肉質だ。手にした一刀はこの歳にして人体を両断し得る。しかし今は九ミリ弾を撃ち込まれた腿からの出血が上等な畳に不気味な染みを広げ、放置すれば老人の命があと幾ばくでもない事を告げていた。それでも老人は刀を畳に突き立て、それにすがりながらぎらぎらした殺意を【彼】に向けてくる。
【彼】はH&K・MP5SD6を油断なく構えながら、しかし引き金が引けなかった。
【ナンバー9。撃て。何をしている】
バックアップのナンバー11が通信してくるが、【彼】は動けなかった。目の前の老人に、記憶が触発されている。精神凍結処理が不完全だったのか、戦闘時に必要ない記憶が呼び起こされる。
突如、老人が動いた。下から斬り上げる一刀! 【彼】は体を右にかわし、刃をやり過ごす。次の瞬間、老人は傷付いた腿で大きく踏み込む。斬り上げた一刀に鋭い弧を描かせ、斬り下ろすその速度!
【彼】のゴーグルがザン! と切り裂かれた。
その途端、老人の顔が更に凶悪に歪む。
「うぬは…うぬは…!」
【撃て。ナンバー9。――ナンバー11よりナンバー0。ナンバー9が戦闘不能。攻撃指令求む】
【ナンバー0よりナンバー11。構うな。離脱せよ。俺が行く】
【ナンバー11、了解】
無線を通じて、【彼】にはそのやり取りが聞こえている。この豪奢な屋敷を中心に展開している仲間たちも既に脱出シーケンスに移ったようだ。そのため、【彼】も任務を思い出した。SD6を老人に向ける。
「撃つのか? ワシを! ――育ててやった恩も忘れて!」
ピク、と揺れる銃口。その瞬間を見逃さず、老人が斬り込んできた。
「ちぇりゃあぁぁっっ!!」
右袈裟懸けに走る銀光! 【彼】はかわせない!
ピュン! ピュピュピュピュン!
銀光が【彼】を捉える寸前、横殴りに襲ってきた弾丸が老人を弾き飛ばした。【彼】と同じSD6。サイレンサーの性能が良いので、弾丸の着弾音だけがやけに大きく響く。
「――何をやっている、ナンバー9。撃てと命令した筈だぜ」
【彼】は返事をしないまま、座敷に上がってきたナンバー0を見た。前髪の一部が切られ、刀傷の走る左眼が覗いている。
「お前にとっても恨みのある相手だぜ。もっとも、恨むなんて感情も忘れちまってるだろうがよ」
そしてナンバー0も、ゴーグルを取った。
「ま、まさか…! うぬは…!」
「…久しぶりだな。クソジジイ」
もはや喘鳴を洩らすだけの老人に、ナンバー0は唇の端を吊り上げて狂暴な笑みを見せた。
「そして、さよならだ」
ずい、と上がる銃口が老人をポイントする。老人の顔にはっきりとした恐怖が浮かぶ。放っておいてもまず出血多量で助かるまいが、ナンバー0は完全抹殺を目論んでいる。
「な、なぜ! なぜなのじゃ! うぬは…うぬはおのれの…!」
「関係ないね。――ナンバー9。命令する。こいつを撃て」
「…了解」
【彼】も銃口を老人に向けた。
「や、やめろォッ! やめてくれェッッ!!」
ボボボボッ! ボボボボボボッ!!
二丁のSD6から吐き出される九ミリ弾が容赦なく老人を貫き、灰色の作務衣を黒血の斑模様に染め上げた。双方三〇発づつ撃ち込み、老人の絶命を確認しながら、【彼】もナンバー0も申し合わせたかのように弾倉を交換、更に三〇発づつ弾丸を撃ち込んだ。――九ミリ軍用弾を計一二〇発である。老人は原形を留めぬミンチと成り果てた。
「任務完了(。…って言うより、仕返し完了…かな?」
ナンバー0は畳に突き立てられている刀を取り、無造作に一振りした。血糊が全て飛び、輝くばかりの刀身が現れる。
「……」
「…気にするな。ナンバー9。こいつは死んで当然の外道だ。それとも、忘れちまったか? そこを見ろ」
ナンバー0の指先を追う【彼】。その先の中庭にあったのは、太い鉄格子で造られた檻と粗末な犬小屋。古ぼけた鉄の皿に、太い鎖の付けられた手枷足枷。――この光景が【彼】の記憶を触発し、精神凍結処置に綻びを生じさせた。ここは――【彼】がかつていた所であった。
「…今の俺たちも、目に見えないだけであの中にいる。権力者の都合って奴でな。だが俺はこの檻をぶち壊してやる。誰にも縛られねえ。俺とお前の鎖の一本だったこのクソジジイは始末した。次は、俺たち全員を繋ぐ鎖を断ち切る。――付いてこい、ナンバー9。いや…緋勇龍麻」
「…了解。ナンバー0」
「その言い方も止めろ。昔の名で呼べ。ひー…」
龍麻はかっと目を開いた。
睡眠状態から覚醒するタイムラグは、彼には無縁だ。ベッドの【下】から飛び出し、隣室のドアに頭から飛び込む。床を叩いただけで跳ね上がるハッチを開けて滑り込むまで、僅かに二秒!
次の瞬間、緋勇龍麻の隠れ家の一つが大音響と共に炎に包まれた。
時ならぬ早朝の爆発音に、新宿区民の一部が叩き起こされる。爆発があったのはバブル時代に狂乱地価の煽りを受けて住民の絶えた雑居ビルだったので、後の警察・消防の発表では、恐らく浮浪者の火元の不始末が、僅かに残っていたガスに引火、爆発を引き起こしたものとされた。――少なくとも表向きは。
もうもうと上がる黒煙から二〇〇メートルほど離れた空き地に、黒い猫がトレードマークのトラックが停まっており、その傍らに硝煙をたなびかせる作業着姿の男が一人、感情を排除した声を無線機に向けた。
「――状況終了。――死体を確認しますか?」
『――いらねェよ。そのくらいで死ぬようなタマじゃねェ。――さっさと戻って来い』
スピーカーから流れ出す尊大な声に、しかし作業着姿の男は表情一つ動かさずRPG−7…対戦車ロケット砲の発射筒を放り出し、トラックを発車させるように運転手に命令した。
そのトラックが朝靄に紛れるように姿を消した頃、緋勇龍麻は瓦礫の下から這い出してきた。
コートに付いた埃を払い落とし、時計を見る。
「〇六〇〇時…少し早いが、途中で朝食を摂れば頃合いか」
そして彼は、奇跡的に焼け残っていた宿題のレポートを拾って、破壊され尽くした隠れ住まいを後にした。
朝食を何にするかは、まだ決めてない。今更騒ぐほどのものではない、いつもよりちょっとだけ派手な襲撃など、既に彼の脳裏から消え去っていた。
【王華】でやっている【朝一ラーメン】で軽い朝食(チャーシュー麺二杯にチャーハン、にんにく抜きギョーザ一皿、野菜サラダ山盛り一皿…龍麻基準)を済ませた龍麻は、登校するなり小蒔に詰め寄られた。
「ひーちゃん! 昨日葵から電話で聞いたんだけど、ひーちゃん達も鬼道衆に襲われたんだって?」
「…大きな声を出すな。ここは教室だ」
まだ早い時間帯だからいいものの、ぼちぼちクラスメートたちも登校してくる頃である。鬼道衆との闘いは、絶対に一般生徒の耳に入れる訳には行かない。【力】を持たない者で事情を知っているのはアン子他数名に限られている。
「ご、ゴメン…。でも、ボクたちは三人一緒だったから大丈夫だったけど、あんな街中でいきなり襲ってくるなんて思わなかったよ。あれから何もなかったから良かったけどさ…」
「まったく呑気な奴だぜ…」
ウィース、と気のない返事と共に現れたのは、いつもより制服に乱れのある京一であった。
「ボクのどこが呑気なんだよッ」
「本気で何もなかったと思ってるのかよ? 俺なんか家に着くまでに二回も襲われたぜ」
「エエッ!?」
ふわあ…と超特大のあくびをする京一。
「…それだけじゃねェ。家に着いてからも新手がしばらく辺りをうろついてやがった。下手に気を抜くと寝首を掻かれそうだぜ。おかげでこちとら、眠くて眠くて…」
「そんな…ボク、ぜんぜん気付かなかったよ…」
仲間のもとにいる事で緊張が緩んだのか、あくびを連発する京一であったが、小蒔もツッコミを入れるどころではない。青い顔をして絶句する。
「無理もないさ。奴らは巧妙に気配を殺し、俺たちの周囲を取り囲んでいる。姿こそ見えないが、俺も昨日から尾行(られっぱなしさ。今朝、登校中にも気配を感じたからな。――先日、如月が襲われた一件以来、奴らの動きが活発化している。恐らく俺たちの編成や住所も、奴らに知られているだろう」
「……」
こんな状態ならばすぐにでも寝に入る京一も、顔をしかめつつ話に加わっている。さすがにふざけてはいられない。
「…いつでも俺たちを殺(れるって訳さ…。で、ひーちゃんの所はどうだったんだ?」
「そうだな…葵を送っている時に一回襲われて、その後一晩かけて奴らを狩りまわってざっと二〇〇人ほど始末したか」
「へ…?」
京一、醍醐、小蒔の目が点になる。
「とりあえず気配を感じた奴は全て殲滅したが、〇三〇〇時を廻ってしまってな。隠れ家の一つで宿題を終わらせて休んでいたのだが、明け方ロケット砲を撃ち込まれて目が覚めた。おかげで少々寝不足だ」
「…………」
解っている。いや、解っていたつもりだ。しかし、やはり、この男は【変】だ。どうしてこうも重大な事をあっさりと言ってのける? しかも、ロケット砲を撃ち込まれた? この日本で? 新宿で?
「昨夜の段階で雨紋たちにも第一級警戒警報を発令しておいた。アランだけが出歩いていて襲われたようだが、返り討ちにしたとの事だ。――気にするな。今日、最後の不動に行く。守護結界さえ機能すれば、雑魚がうろつく事はなくなる。ところで、葵が来たようだな」
すると龍麻の指摘通り、葵が教室に姿を現わした。
「おはよう、皆…」
「おはよー…って、葵、どうしたの? 顔色悪いよ」
今の話を聞いていた事もあるだろうが、それ以上に、【気】の状態も乱れている。目はやや充血気味で、疲れているようだ。
「ええ…少し体調が優れなくて…。でも大丈夫。家で薬も飲んできたし、今日の放課後には最後の不動に行くんですもの。私だけ休んではいられないわ」
「でも葵…本当に調子悪そうだよ?」
「うふふ、放課後までには良くなっているわよ。だから、心配しないで」
「葵…」
いつもと同じ微笑を浮かべる葵に、しかし小蒔は不安げな表情を消せなかった。ちょっとした仕種、表情から、葵が何か思い詰めているような感じを受けるのである。
その時、始業のチャイムが鳴り、マリアが教室に入ってきた。一時限目は英語である。
「葵。一時限目終了後、保健室で病気点呼を受けろ。いいな?」
「え? でも私…」
「命令だ。いいな?」
「…はい」
少し口調を強めた龍麻に、肯くしかない葵。しかし、龍麻の言う事なら葵も聞くだろう。小蒔は少し安心した。
「それじゃ、続きは次の休み時間に」
「そうだな。無理はいかん。龍麻の言う通りにした方がいい」
「さて…俺は寝るとするか」
三人とも、自分の席に戻っていく。その後ろ姿を見ていた龍麻の耳に、葵の囁きが届いた。
「あの…龍麻に相談したい事があるんだけど…後で聞いてくれる?」
「俺はいつでもそのつもりだ」
龍麻は葵に肯き、次いで席を立って大声を張り上げた。今日は、彼が日直であったのだ。
「総員起立! マリア先生に――敬礼!」
一般的に、眠っていた脳が本格的に目覚めるのは起床から一時間後の事である。しかしながら、多くの学生が不得手とする英語が一時限目の授業では、生徒達の大半が程よく【たれ】ていた。京一などは爆睡している。無理もないのだが。
「――それでは、今日はここまでにしましょう。クラス委員長はノートを集めて職員室まで持ってきて。…クラス委員長? ――美里さん?」
「…は、はい…」
いつもは即答する葵が、二度以上呼びかけられてやっと反応する。それでもボーッとしている葵は、どこか夢うつつである。
「…副委員長、ノートを集めて。美里さんは、保健室に行きなさい」
「あ、平気です…。私…」
「いいですね?」
マリアに念を押されて肯く葵。龍麻の【敬礼!】の号令が終ると同時に、小蒔が葵の席まで飛んできた。
「やっぱり具合が悪いんじゃない。ボクと一緒に保健室に行こッ」
【文句は言わせないよッ】っとばかりに葵の腕を取る小蒔。
「ごめんね、小蒔…」
「いいからいいからッ。あ、ひーちゃんも一緒に来て」
龍麻もそのつもりであったか、すぐに席を立つ。
「行くぞ」
無造作に差し出されるその手。葵はその手を取ろうとして、一瞬躊躇った。しかし龍麻が半ば強引にその手を掴む。
「ごめんなさい…ありがとう」
「問題ない」
「済みませーん…って、誰もいないね」
「不用心だな。いや…しかし…」
とりあえずベッドに葵を寝かせ、少し考え込む龍麻。
「ごめんね、小蒔。龍麻も…」
「いいから気にしないのッ。ゆっくり休んで。――で、ひーちゃんは何を考え込んでるのさ?」
小蒔も、龍麻の態度に疑問を覚えたようだ。
「うむ…現在の状況に付いて考察していたのだ。医薬品等、重要なものがある保健室が、なぜにこれほど不用心なのか?」
「へ…?」
「これも一つの【萌え】のシチュエーションであると聞くが、今はまだ理解できん。こんな不用心な所に葵を置いてはおけんな。――どれ、いくつかトラップを――」
例によってコートの内側から何やら怪しげな物品を取り出す龍麻。クレイモア対人地雷にワイヤーギャロット(絞殺具)である。
「ひーちゃん! 学校の中にそんなもの仕掛けちゃ駄目だって! 何なら――」
こんな状況であるが、小蒔の脳裏に取って置きのアイデアが浮かんだ。
「ひーちゃんが残ってくれればそれでいいじゃない」
「ええッ!?」
驚いたのは葵である。しかし、身を起こそうとした葵はすぐにヘタッと力を失って倒れた。
「葵はこんな状態だし、先生もいないんじゃそれしかないじゃない。どうせひーちゃんは教科書でも参考書でも読めばテストでも満点が取れちゃうんだからさ」
つまり、授業など出なくても平気だという事で、龍麻にエスケープを勧めているのだ。実際、龍麻が勉強する所など、誰も見た事がない。授業中でも株式情報を聞いている男だ。
「何か釈然とせんが、まあ、良かろう」
「ウン! それじゃ、ヨロシクね!」
我ながら旨く行った、「ボクってキューピットだね」とほくそえむ小蒔であったが、保健室のドアを閉める寸前、龍麻がコートの内側から取り出したものを認めて盛大にコケた。レミントンM1100ソードオフショットガン――どうやら龍麻は本気で【護衛】に徹するつもりらしい。
完全に脱力した小蒔の足音が聞こえなくなった所で、龍麻はおもむろに口を開いた。
「…相談があるそうだな?」
葵は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。本当の思惑は別として、自分と龍麻を二人きりにした小蒔に感謝しつつ、しかし話を切り出すタイミングを掴めずにいたのである。そして切っ掛けは、龍麻が作った。この男は何でもお見通しである。
「…昨日言った事、覚えている? あの夢を…今日も見たの…」
「……」
それは、葵自身にも記憶のない光景であった。
古めかしい、しかしきらびやかな十二単を纏った自分。そして、深刻な顔をした、やはり裃(をつけた初老の男達。何を喋っているのかまでは思い出せないが、自分が問題の中心にいる事は分かる。最後に現れたのは、これから戦争に行くような格好、陣羽織に鎧兜を帯びた、鋭くも優しい目をした初老の男性。【護ってみせる】と言い残し、彼は炎の中に消えていく。
暗転。
どこかの屋敷に、仲間たちと良く似た面影を持つ若者達が集っている。侍、僧侶、弓士、槍使いなど…。彼らもまた、【戦(】という単語を口にする。何の為の戦いか、誰も口にする事はない。そして彼らもまた、炎の中へと消えていく…。
「…とても懐かしい感じがするの。まるで自分がそこにいた事があったみたいに…。でも、それを思い出そうとすると酷く胸が締め付けられて、涙が止まらなくなるの…。そして…なぜかは解らないけど、それを完全に思い出した時、私はここにいられなくなるような…ううん、いちゃいけないって気になるの…。――ごめんなさい。こんなこと急に聞かされても、迷惑よね?」
「肯定だ」
「…!」
龍麻の返事に、少なからずショックを受ける葵。しかし龍麻は静かに言葉を継いだ。
「自分では有益な答えを出せないのでな。しかし、気分が良くもある。迷惑をかけるのもかけられるのも、人同士では当たり前の事だ。言い方を変えれば、頼り頼られるのは悪い事ではない。弱音を吐くのも愚痴を零すのも大いに結構。全て――以前の俺には考えられない事だ」
「龍麻…」
珍しく、龍麻は遠くを見ているような雰囲気を放ちつつ続ける。
「嵯峨野の事件を覚えているか? 葵が夢に囚われた時の事だ」
「ええ…」
「あの時…嵯峨野を含め、お前たち全員の力を借りて倒した男は、俺の上官だった男だ。スウェイニー・ラング少佐。俺たちレッドキャップスにあらゆる殺人技術を、生き残りの技術を叩き込み、俺たちを創り上げた。ドクター・スカル…ジル・ローゼスと共にな」
「……」
「…俺の手は血に染まっている。世界中で、多くの敵と闘い、この手に掛けてきた。断片的な記憶だが、その中には、かつての育ての親もいた」
「…!」
それは龍麻の片目を奪い、背中一面の火傷を負わせ、最後には当時五、六歳の龍麻に銃弾を撃ち込んだという、彼の祖父の事か?
「昨夜、久しぶりにその時の夢を見た。無様に命乞いをするその男に、俺はありったけの弾丸を撃ち込んだ。――その時の俺も何も感じなかったが、今、その時の夢を見ても、やはり何も感じない。――では聞こう。そんな人殺しの俺は、ここにいてもいいのか?」
「…!」
絶句する葵。龍麻は、ショットガンを撫でているだけで葵の方を見ない。そもそも、そんな銃そのものがこんな所にあってはならぬものだ。それを持つ男も、また――
(私はまた…龍麻を否定して…!)
恐ろしく強靭な精神の持ち主だけに、龍麻は決して自分の悩みなど他人に打ち明けない。他人を諭す時、自分の体験を引き合いに出す――そういう時にその断片を窺い知る事ができるが、それだけだ。
闘いに感情は不要――そう仕込まれてきた彼は、仲間たちの悩みや苦しみを受け止めつつ、自分のそれはたやすく切り捨てる。どれほど自分が傷付いているのか、それすら気付かない有り様だ。涙を流す時でさえ、哀しみを意識していなかった。
「――こう言われて、葵は迷惑か?」
唐突に龍麻が自分の方を向いたので、葵は全力で首を横に振った。
「俺は、そういう者こそ【仲間】だと認識している。遠慮など要らん。俺はここにいる。大いに悩み、苦しみ、それを糧にしろ。辛い時には弱音を吐き、愚痴を零せ。すっきりしたら、立ち向かえ。いくらでも手伝ってやる。それが――人間というものだ」
龍麻の事が酷く胸を打つ。重くて、暖かい。手応えを感じる事のできない悩みに苛まされていた心が軽くなるほどに。
酷く気にかかる、得体の知れない夢。しかし、夢は夢だ。決して現実に関わってくるものではない。そんなものの為に悩んで、目の前の現実から目を逸らす訳には行かない――
「ありがとう、龍麻…」
葵の口から自然に、そんな言葉が滑り出した。
「礼などいらん。今はゆっくり休め。そして小蒔にもその笑顔を見せて安心させてやれ」
それから龍麻は、ショットガンをコートの内側に突っ込んだ。保健室の主が戻ってきたのだ。
「俺は戻る。おとなしく寝ているように」
近所のデパートで特売のトイレットペーパーを買い込んできた不用心なオールドミスの保健医を説教(!)した龍麻は、ラフな敬礼をして保健室を辞した。
「よお、緋勇。今は授業中だぞ。サボリか?」
保健室を辞し、教室に向かって歩いていた龍麻は、音も気配もなく現れた犬神に呼び止められた。
「否定です。犬神先生」
視線を合わせぬように天井を見ながら(例によって意味なし)敬礼する龍麻に、犬神はふっと鼻先で笑って見せる。
「冗談だ。美里を看病していたのだろう。しかし、保健医が保健室を開け放しにしておくとは、蓮沼先生にも困ったものだな」
「同感です」
「これではお前も気が休まらんな。――三−Cの次の授業は社会科だったか。今更授業に戻った所で浅井先生に嫌味を言われたお前の独演会になるだけだろう。暇ならコーヒーでも付き合え」
龍麻はちょっと考え、
「了解しました」
と言った。
数分後、転校初日、京一に聞かされた怪談話以外にも、色々と怪しげな噂の付きまとう生物室に龍麻は足を踏み入れた。正確には、その隣の準備室である。そこはほとんど犬神の私室同然で、荷物はてんでバラバラに置かれ、机の上には書類や教科書、参考書、生物工学書などが乱雑に積まれている。おまけにボウルほどもあるクリスタルの灰皿には、ひん曲がったシケモクが山盛りになっている。良く火事を起こさないものだと龍麻は思った。
しかし同時に、見た目の乱雑さとは裏腹に、この部屋が清浄な【気】に満たされている事にも気付いた。くたびれた換気扇くらいでは追い出すまでに十年もかかりそうな煙草の煙が数秒を経ずして分解され、香木にも似た芳香と変わる。あまり日当たりが良いとも言えない室内に無造作に置かれている鉢植えも、生の輝きを高らかに謳い上げているようだ。
(出会った時からただの人間ではないと思っていたが…)
実の所、龍麻は犬神やマリアに対して、いつもある程度の距離を置くように接している。
見た目はただの人間だ。少なくとも、表向きは。そう考えるようになったのは、急速に【力】を増してきたこの数ヶ月の事である。
落ち着いて考えるならば、二人ともただの高校教師にしては妙な点が多すぎるのだ。マリアはあの花見――妖刀事件の時に一同の【力】を垣間見ている。そしてあの【村正】を龍麻が保管するという事にあっさりと同意してみせた。これは教師として本来あるまじき事である。先のローゼンクロイツ学院での一件では自身が誘拐され、その後学院そのものが爆破されるという大事件になったにも関わらず、彼女は龍麻たちに事情聴取すらしなかったのだ。
そして、犬神。――彼も良く解らない。
初めて旧校舎で怪異に遭遇した時、外に連れ出してくれたのはどうやら彼らしい。仲間たちには内密にその件に付いて礼を言ったのだが、否定も肯定もしなかった。そればかりか、旧校舎の秘密に気付いた龍麻がそこを実戦訓練に役立てたいと申し出たら、彼は何と「勝手にしろ」と言ったのだ。そこで龍麻は持ち前の技術を総動員して旧校舎内部を改造、言わば秘密基地化してしまったのだが、一度犬神を招いた折りには「凝ってるな」の一言だけを述べた。
敵ではない。それだけは解る。だが味方かと聞かれれば、無条件にそうとは言えない。マリアは一時期、妙に龍麻の事を監視している節があったし、犬神はいつも皮肉な口調で何やら助言めいた事を言うものの、積極的に龍麻たちに関わろうとはしない。龍麻たちの生死など知った事ではないと言わんばかりに。
「…砂糖はいくつだ? ミルクは?」
「ブラックで頂きます」
解剖用トレイにコーヒーを乗せ、犬神が机に戻ってくる。龍麻も本を片付け、僅かばかりのスペースを作ったが、そこに置かれたものを見てさすがに少し面食らう。
「…何ですか、これは?」
「お前は、コーヒーを見た事がないのか?」
「虚構の世界ではありがちですが、現実にビーカーに入れられたものを見るのは初めてです」
そう言いつつも、龍麻は遠慮せずに口を付ける。まあ、高校の生物室程度ならば、悪質な病原体が付いている事もなかろう。
「…お前の見立てでは、美里の具合はどうだ?」
ゆっくりとコーヒーを味わいながら、犬神はそう言ってきた。
犬神は葵の担任ではない。そして相手が龍麻だと承知でそう聞いているのだ。儀礼的な質問でない事はすぐに解る。
「良くありません。何かに思い詰めている。体調不良も心因性のストレスが原因でしょう」
「ふむ…人は時として、何かを護ろうとする為に己を殺し感情を押し込めようとする。自己犠牲――聞こえはいいが、下らんな。本心を偽り、己を殺す事が他人の為になると思っている」
プカ、と紫煙を吐き出す犬神。龍麻の返事を待っているようだが、彼が何も言わないので続ける。
「特に美里はその傾向が強いな。見ていて危ういほどだ。何も美里だけに限らんがな」
「同感です」
「…そう思うなら、美里からしばらく目を離さん事だ。お前のように感情を理性でコントロールできるタイプではない上に、当人に自覚がない。一旦事態が動き出すと、厄介な事になり兼ねん」
「…承知しています」
龍麻はビーカーを手の中で弄ぶ。彼にしては珍しい行動だ。
「緋勇…人間はこの上なく弱い生き物だ」
「……」
「だからこそ、他人と手を取り合い、すがり合って生きていこうとするんだろう。だが緋勇、それは人の、自然な姿だ。力を合わせる事は恥でも何でもない。くどいようだが、何もかも一人で成せると思う事こそ思い上がりだ。そんな考えはいずれ、大きな過ちを生み出す原因となる。お前も含めて、仲間たちにも今一度良く言っておくといいだろう」
龍麻はくいっとビーカーを干した。
「貴重な助言、感謝します」
積極的に何か行動する訳ではないが、多少の示唆程度はするという事か。犬神は敵にはならない。こちらから敵対しなければ。たとえ彼が…人以外のものであったとしても。
「これでも教師の端くれだ。そのくらいの事は言うさ。――そろそろ授業も終る頃だな」
「ご馳走様でした。緋勇龍麻、戻ります」
丁寧にビーカーを置き、椅子から立って敬礼。龍麻はもう一言付け加えた。
「そう言えば、先日の一件の礼を言っておりませんでした。この場を借りて礼を述べさせていただきます」
「…先日の一件?」
ピク、と犬神は頬を引き攣らせる。
「先生の事情はどうあれ、自分も仲間を官憲の手に委ねる訳には行きませんでした。感謝しています」
それは、醍醐が【白虎】として暴走した時の事である。あの瞬間、実に二〇名以上の人間が鬼籍に入ったのだ。仲間たちは敢えて触れないが、醍醐は小蒔を護る為に二〇名以上の不良をミンチに変えた。その残骸が放置されていれば間違いなく大事件になったろうが、髪の毛一筋、血の一滴すら発見されなければ、犯罪そのものが成り立たない。佐久間を含め、あの二〇名は今でも行方不明扱いだ。
「何の事か解らんな。それより、感謝する気持ちがあるなら少し自重しろ。教頭達が騒ぎ始めている」
「了解しました」
龍麻はもう一度敬礼し、生物準備室を辞した。
僅か二〇分にも満たぬ会見だったものの、互いに得る所は多かった。今の距離を保つ限り、犬神は敵にはならない。龍麻はおぼろげながら、それを確信した。
龍麻が教室に戻るべく歩きかけた時、ポケットの携帯電話が振動を始めた。素早くトイレに入り、人がいない事を確認して電話に出る。
「龍麻だ」
『僕だ。例の件だが、ようやく調べが付いた。今から出られるかい?』
「問題ない。――旧校舎か?」
『ああ。あそこが良い。十分後に落ち合おう』
「解った。――気を付けろ」
よほどの緊急事態でない限り、仲間たちは授業時間帯に連絡を取り合う事はない。それを無視したのは如月が初めてだ。よほど切迫した事態らしい。
事態は動き出す。いつでも突然に。それを嫌というほど知っている龍麻であった。
「おッ、やっと戻ってきたぜ」
既に全ての授業が終了し、教室に残っているのは京一、醍醐、小蒔の三人だけである。
「葵はまだ戻っていないのか?」
龍麻が聞くと、三人とも【意外!】という顔をする。
「なんだよ、ひーちゃん。美里の所に入り浸ってた訳じゃねェのかよ? てっきり添い寝でもしてやってんのかと――」
そう言うと同時に、龍麻の拳によって床に沈まされる京一。相変わらずである。
「何か、あったのか?」
「色々だ。まずは不動に行く。それから全員を集めて、作戦会議だ」
三人の顔色がさっと変わる。床に寝ている場合じゃないとばかりに京一も跳ね起きた。
「いよいよ決戦か、ひーちゃん?」
「肯定だ。そのための編成を行う。少々厄介な事態になったのでな」
知らず、三人とも手に汗を握っている。
今まで数々の事件を起こし、大量の犠牲者を出してきた鬼道衆。それが遂に、決戦の時を迎えるというのだ。
「落ち着け。奴らは逃げはせん」
「そうだね…。でも、不動巡りはどうするの? 葵の体調も悪いし…」
小蒔は昼休みに葵の様子を見たそうだが、良く寝ているのでそのままにしておいたという。
「もう半日も眠りっぱなしだからな。もしかしたらあの実験とやらの後遺症かも知れんし、一度桜ヶ丘に連れていった方が良いかも知れん。美里抜きで決戦は有り得んだろう、龍麻?」
「うむ。珠の封印は俺一人で済ませてくる。お前たちは葵の護衛だ」
できれば皆一緒に行きたかったなあ、という小蒔の声を背に、龍麻は珠を京一から受け取る。
「そう言うな、桜井。鬼道衆の動きも派手になっているんだ。やはり封印だけは早目に済ませるべきだろう」
「ウン…。でも、これで最後の封印だからなァ…」
すると、小蒔の言を断ち切るように教室の扉ががらりと開いた。
「あ、葵!」
「もう起きても大丈夫なのか?」
葵は小蒔と醍醐ににこりと笑いかけ、龍麻に対しては少し眉根を寄せた。
「龍麻…私を置いていくつもり?」
「お前だけではない。俺一人で行く」
「…私は…頼りにならない…?」
「……!?」
突然、葵がそんな事を言い出したので、京一たちはぎょっとする。今まで、たとえどんな命令であろうと、龍麻に逆らわなかった葵が、である。
「時間が惜しい。珠を封印後、全員を集めて作戦会議だ」
「…私もちゃんと見届けたいの。今まで私たちがやってきた事の結末を…」
「結末はこれからだ」
「龍麻…お願い」
理詰めでは龍麻に絶対かなわない。葵は女性の論理を引っ張り出した。
すると、案の定と言うか、他の三人から助け船が入る。
「なあ、ひーちゃん。本人が行きてェって言ってるんだから、いいんじゃねェか?」
「ボクは葵の気持ち解るよ。だって、やっぱり皆で見届けたいもんね」
「俺たちがサポートするから、どうだろうか、龍麻?」
三人とも、自分の考えは言った。後は龍麻の胸先三寸である。
黙考五秒。龍麻は言った。
「途中で体調を崩した場合、即座に桜ヶ丘に行き先変更。それが絶対条件だ」
最後の珠をピンと指で弾き、京一に渡す龍麻。珠の管理と封印は彼の役目だ。最後まで。
「よっしゃ。それじゃ、行くとするか。最後の不動へよ――」
五人揃っての移動となると、やはり足は電車となる。葵の体調を鑑み、タクシーを使うかという意見もあったのだが、鬼道衆がタクシーに攻撃を仕掛けてきた場合、防ぎようがないと思われたので却下。今の所、さすがの鬼道衆も龍麻たちを始末する為に電車ごと脱線させるなどのテロ行為は行わないようだ。つまり、この期に及んでまだ世間に知られたくないのであろう。
新宿駅から総武線を利用し、江戸川区は最勝寺に辿り着く。
「この雰囲気…。どうやらこっちで正解のようだな」
「ああ。ラッキーだぜ」
京一も醍醐も境内の雰囲気がこれまでの不動と同じ事に気付き、少しほっとする。無駄足は嫌なものだし、やはりこの緊張感はいただけない。
「それじゃ俺たちで祠を探してくる。ひーちゃんは二人を頼むぜ」
「うむ。気を付けろ」
「ああ。行ってくる」
京一と醍醐は連れ立って境内の裏手に消え、龍麻はもっとも見晴らしの効く位置に立ち、コートの前を開ける。もし妨害があるとすれば今日がピークであろう為、彼のコートの中はいつにも増して兵器庫と化している。勿論、外見からはまったく判らない。
「あいつら…いるね」
「…判るか」
「ウン。凄い殺気だけど、今のところ襲ってくる気配はないみたいだね」
小蒔は直接戦闘に携わる龍麻たちほど【気】の探知能力に優れていた訳ではない。しかしこれまでの激闘を経て、後衛である小蒔も確実に成長している。優れた狙撃手(はスコープに敵影を捉えずとも、【そこにいる】気配だけで撃てるようになるものだ。良きライバルである雛乃が仲間に加わった事もあって、小蒔もその境地に達しつつある。今朝、いくつかのコツを教わっただけで、敵の気配を感じ取れるようになるほどに。
「タイミングを窺っているのかしら? 龍麻、気を付けてね」
「問題ない」
懸念があるとすれば、敵方の狙撃兵の存在だが、鬼道衆忍軍クラスにそれだけの腕を持つものはいない。少なくとも、これまでは。
考えるべき事は他にもある。この封印が完了後、鬼道衆の行動に劇的な変化が現れる筈だ。こちらの総攻撃も、鬼道衆が戦術を変化させる前に行う必要があり、その為にはかなりの危険を覚悟しなければならないという事など。
「あったぞおッ!」
境内の裏手の方から、万歳三唱するような京一の声が響いてくる。龍麻たちは油断なく移動を開始したが、同時に、鬼道衆忍軍も距離を保ったまま付いてきた。
(みすみす封印を施させる気か…。何を考える? 鬼道衆…)
一同にとって既に見慣れた祠の前に、京一と醍醐が待っている。京一の手の中では雷角から入手した黄色の珠が、金色の輝きを放っていた。これが最後の締めくくりの為、京一は全員が揃うまで封印を待っていたのだ。
「まあ、いつもと同じだろうけどよ。最後の封印をするぜ」
「頼む」
封印役は最後まで京一だ。彼が祠に近付くと、これまでと同じように珠はひとりでに跳ね、祠に納まる。そして代わりに何かの木札のようなものが出現した。何か急に景品(?)の質が落ちたような気がする五人であったが、用心しつつ手に取ってみると、何か強力な呪力が込められているらしい事が解る。そして――
「――あ!」
「――おッ!?」
「――ほう!?」
「……ッ!」
「…結界が繋がったようだな」
これまでは神社の境内だけを包んでいた、結界が張られた事を証明する清涼感のようなものが、神社の敷地範囲を超えて東京中の空に広がっていくのを龍麻は感じた。江戸五色不動の結界が完全復活し、再び江戸――東京が首都を保護する結界に護られる事になったのだ。
いつのまにか、周囲を取り囲んでいた鬼道衆忍軍の気配も絶えていた。
「任務完了。帰投する」
そう、龍麻が宣言した時であった。
――目覚めよ――
あの時と同じ声が、葵の頭の中で響く。次の瞬間、葵は叫んだ。
「龍麻! 避けてッ!!」
「ッッ!!?」
何を!? と問う愚を龍麻は犯さなかった。上半身を傾がせながら思いきり横っ飛びする。その直後、龍麻の頭があった辺りを走り抜けたものが石畳を砕き散らした。
遅れて響いてきた銃声。狙撃だ!
「隠れろ!」
葵を横抱きに、社の陰に飛び込む龍麻。京一も、小蒔を庇いつつ醍醐もそれぞれ遮蔽物の陰に身を寄せる。今の一発で狙撃の方向を全員が見抜いたのは見事だが、それだけでは甘かった。
「京一! 伏せろ!」
「何ィ!」
とっさに伏せた京一の頭上で、石灯籠が砕ける。そのパワーと衝撃波――五〇口径ライフル弾だ。
龍麻は素早く周囲を見回し、社務所の背後に廻り込むように仲間たちに指示する。そして自らは神社の壁を蹴り、見事な瓦の葺かれた屋根へと跳び上がった。
素早く敵の狙撃ポイントを探す。一個所だけ確認。しかしそこは直線距離で二キロはある!
(この距離で…! 超一流のお出ましか…!)
龍麻もAUGを構えるが、長銃身をセットしても最大射程を越え、この距離をカバーするスコープもない。頼りとするのは今まで培ってきた戦闘勘だけだ。
龍麻は目を閉じ、【気】による索敵範囲を前方にのみ限定、距離を伸ばした。しかし【敵】の存在を感知するだけならまだしも、攻撃の為の照準を定めるとなると、この距離は彼でも手に余った。しかし――
「龍麻、もう少し上よ」
「――葵!?」
葵の身体から金色のオーラが立ち上り、その瞳までもが金色の輝きを帯びている。龍麻は彼女から伸びたオーラと、自分の【気】が相乗効果を起こすのを感じた。その感覚は【方陣技】のそれと同じだ。しかし、微妙に異なる。
(敵が…視える!?)
まるで視力が百倍化したような感覚。龍麻の目には狙撃手の姿がはっきりと捉えられ、次の瞬間、龍麻は激しく動揺した。バレッタM−82A1・五〇口径狙撃銃を構えている、長い茶髪を後で結んだ男の顔。あれは…あの男は…!
「――龍麻!」
葵の叫びで我に返る龍麻。しかし、引き金が引けない! 不動の迫力が失われ、殺気が雲散霧消している。――初めて見る顔なのに、良く知っている男だと判ったのだ。
「――小蒔ッ!」
「う、ウンッ!」
龍麻が撃てないと瞬時に悟った葵は、小蒔を振り返る。しかし小蒔は弓を構えながらも、ライフル狙撃に対抗できるかまったく自信がなかった。弓と銃の飛距離は歴然とした差があるのだ。しかし――
(ええッ!? 敵が視える!?)
その瞬間、小蒔にも敵が視えた。葵のオーラが小蒔の【気】と融和し、【敵】の姿を彼女にも捉えさせているのだ。体奥から湧き上がるような力と自信。【やれる!!】という想いが小蒔に弓の弦を引かせた。その時既に、龍麻には【敵】が視えなくなっている。
「――行け! ――【火龍】!!」
上方四五度で構えられた弓から、炎のオーラを纏った矢が弾き出された。空を弾丸もかくやというスピードで切り裂いた矢は、まるでミサイルのごとく急速に弧を描き、【敵】の潜むビルの屋上へと正確に飛来、爆発した。
「やった!」
快哉を叫ぶ小蒔。本来の自分の【力】を遥かに超える距離、二キロ先の狙撃手を射抜いた――その手応えがあったのだ。
「いいえ。寸前で逃げたわ」
ゆっくりと首を振る葵。そして彼女から、金色の光が消えていった。
「そっか…でも凄いよ、葵! いつからそんな【力】が使えるようになったのさッ!? 最初は方陣技かと思ったけど…」
「わ、私にも良く解らないわ…。でも、こうすれば良いって感じがして…」
葵と小蒔が話しているのを、呆然と見ている京一と醍醐。そこに龍麻が飛び降りてきた。
「――どうしたんだよ? 顔色悪いぜ、ひーちゃん?」
京一の指摘通り、龍麻の顔には脂汗が浮かんでいた。そして、あまり見せない焦燥感のようなものが彼の全身を覆っている。心なしか、手が震えているかのようにも見えた。
「本当にどうした? 龍麻が躊躇うなんて珍しいな」
「――必中の自信がなかったものでな」
それは嘘だ。敵の姿をはっきりと捉えた龍麻が、引き金を引く事を躊躇う筈がない。しかし龍麻の嘘は、京一にさえ見抜けなかった。――ただ一人を除いては。
「既に狙撃手は去った。帰投するぞ。それから――作戦会議だ」
やや硬さを帯びた声で告げる龍麻。その背中は、少しだけ頼りなかった。
――旧校舎地上一階、【真神愚連隊(】本部。
「Attention」(注目)
たった今まで好き勝手に談笑し、あるいは机に足を投げ出していた者たちが、居住まいを正して席に付き直す。【彼】はそれを強制した事は一度もないが、並の人間たちとは一線を隔す【魔人】達に自然とそれを行わせる男、緋勇龍麻が現れたのだ。
「――皆も既に知っている事だが、鬼道衆の実行部隊隊長である鬼道五人衆は先日のローゼンクロイツ学院での戦闘で全て撃滅した。そして本日、東京を守護する五色不動の結界をすべて作動に成功し、東京全体に結界が形成された。これにより鬼道衆の活動はほぼ封じ込める事ができたと見て良い。まずは全員に労いの言葉を贈ろう」
龍麻がそれを口にした事で、全員の雰囲気がほのかに緩む。全員、少し緊張し過ぎていると見た龍麻の、指揮官としての気配りである。
「本来ならばここで英気を養い、最終決戦に備える所なのだが、本日、かねてより探索していた鬼道衆の本拠地が所在すると思われる地域を特定できた」
ざわ、と仲間たちがざわめく。敵の本拠地が判明したという事は、自分達は初めて攻勢に出られるという事だ。
ひとしきり仲間たちのざわめきを眺め、龍麻は手を上げて皆を黙らせる。
「皆、鬼道衆に対して一方(ならぬ敵意を持っている事だろう。もちろん、決戦には全員で当たるつもりだ。否、全員で当たらねば勝てぬ戦いだと俺は断言する。それを念頭に置き、これから言う事を良く聞くように。――まず、如月から敵地の説明がある」
龍麻に指名され、如月が教壇に上がった。彼は電気を消すように指示し、大型のプロジェクターに地図を映し出させる。サポート役はアランだ。
「これは見ての通り、世田谷区の地図だ。――これまでの鬼道衆の足取り、事件の性質、また、この地区における事件などを探索した結果、鬼道衆の本拠地はここ、世田谷区にあると断言する」
「……!」
全員がさっと緊張する。そのただならぬ雰囲気に、マリィの肩の上でメフィストが不安そうに鳴く。
「しかし、僕自身が探索したところによると、鬼道衆の本拠地は、いわゆる目で捉えられる世田谷区上に存在するものではない」
「エッ? なにそれ?」
思わず、全員の代弁をする小蒔。如月は軽く肯き、アランに指示して世田谷の地図に別の図形を重ねあわせる。
「これは世田谷区で発見した結界の呪力ポイントを示したものだ。世田谷区等々力渓谷付近を中心に、世田谷区を取り巻くように形成された結界だ。このポイントは全部で五個所。一つ一つの結界の規模はそれほど大きくないが、五色不動の結界と同様、互いに相乗効果を起こす事により、世田谷区全体を覆う結界となっている。そしてこの結界は、本来の世田谷区とは異なる、鬼道衆が潜伏する世田谷区を隠す役割を持っている」
「?」
仲間たちがまだ理解不能という顔をしているので、如月はやや苦笑してから続けた。
「平安時代の陰陽師達が多用した五芒結界と同様のものだ。正しい道は一つだけ。そこから、鏡に映した世界の中に入り込んでいるとでも言えば良いかな」
「…それなら…なんとなく解るかも…」
珍しく亜里沙も首を捻って考える。普段は彼女も逃避モード組だが、今回は決戦に関わる事だから真剣である。
「正しい道を知らぬ限り、僕たちは【表】の世田谷区にしか行けず、従って鬼道衆と決着を付ける事はかなわない。そして誤った道に入った場合、【力】を持たない者は多少道に迷うくらいで済むが、僕たちは異空間に放り出されるか、即死するか、いずれにせよただでは済まない」
そこで龍麻が再び教壇に上がった。
「まず、この結界を攻略する」
レーザーポインタで結界の呪力ポイントを示す龍麻。
「ここからが重要なところだ。――この世田谷の結界も五色不動の結界と同様、五個所全てが揃う事で【裏】の世田谷区を維持し、守護していると説明があったが、こちらには敵を退ける為の巧妙な仕掛けが施されている」
一端言葉を切り、全員の注目を集める龍麻。
「【裏】の世田谷区に侵入する為には、当然、この結界を破らねばならない。だが、この五個所の呪力ポイントは互いに干渉し合い、一つが破壊されると残りが即座に修復にかかる。よって、同時に破壊せねばならない。また、全てを破壊したとしても、この呪力ポイントにパワーを供給する元を断たぬ限り、結界は何度でも復活する。予測数値だが、ポイント破壊時の誤差と結界内への突入許容時間は二分弱だ」
一同、しんとなる。龍麻の言葉の意味は――
「…質問。――それはつまり、戦力を分散させる必要があるって事か?」
戦闘時と同じく、鋭い質問を浴びせる京一に、龍麻は肯いた。
「それはまた…危険な話だな…」
「なるほど、どうあっても攻め手は戦力を分散せざるを得んという事か」
雪乃が呟き、紫暮も難しい顔をする。全員が揃っているならばどんな敵でもどんと来いと言わんばかりの彼らではあるが、個人での戦闘となると不安は大きい。まして相手は無尽蔵の鬼道衆忍軍になるだろう。一同は少しの間ざわめいた。
「可能な限り危険は避けたかったが、今の所我々にはこれしか攻略法がない。正しい道を知る事ができた場合、全員で突入――これをA案とする。そしてB案――これは部隊を分ける。鬼道衆本拠地への突入班と、結界破壊班だ。そして結界破壊班は更に分散。任務に当たる」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ龍麻サン! 俺たちの人数で頭割りしたら良くて二人一組、最悪前衛一人で闘うって事じゃねェか!?」
「そういう事になるな」
今度ははっきりとざわめく一同。総がかりで倒すような相手は、恐らく鬼道衆頭目だけと思われるが、それでも二人一組、最悪一人で鬼道衆忍軍と闘うのはきついなんてものではない。
「コラ! その位でうろたえんじゃないよ!」
亜里沙の怒声で、場が納まる。
「その通りだ。確かに我々の【力】を以ってしても個人レベルで鬼道衆忍軍を相手にする事は危険極まりない。――そこで不本意ではあるが、実戦射撃経験を持つ一般人の傭兵を募る事とする。浦安レンジャース、埼玉レッドドラゴンズ、湘南ウインドナイツ、奥日光第二小隊、下北沢ナイトウォリアーの協力を取り付けた。更にバックアップとして空手道・北辰会館と渋沢流柔術の有段者が補給路を確保、救護班として鈴ノ宮看護学校の生徒達が桜ヶ丘を中心に待機する事になった。彼らに可能な限りの重装備をさせ、鬼道衆忍軍を撹乱。各自通信機を使用して戦況を把握。結界を同時に破壊する。突入班は【裏】の世田谷区に侵入後、結界の【核】を見つけ出して破壊する事を最優先。結界破壊班は結界消滅後に侵入、突入班と合流する。決戦はそれからだ」
「……!」
まさか、龍麻が部外者の介入を許すとは!? しかも列挙した名前はサバイバルゲーマーとスポーツ格闘家である。本物の【戦争】に【戦争ゴッコ】や【試合】の達人を呼ぼうと言うのだ。
仲間達の不安を感じたか、龍麻が言葉を継ぐ。
「本物の傭兵を雇えば、こちらの戦力、戦術も見抜かれる恐れがある。だが、協力者達の戦闘力も決して低くはなく、かつて俺自身の指揮の下で異形相手の実戦も経験済みだ。更に名は明かせないが、超一流の傭兵と警察の高級官僚にも応援を要請してある。――俺の予測では最大十五パーセントほどの被害を見込んでいる。これ以上も以下もない、ぎりぎりの数値だ」
「六人に一人は殺(られる可能性がある訳か…」
京一の呟きに、全員が水を浴びせられるような思いを味わうが、だからと言って今更文句を言う訳にも、作戦を降りる訳にも行かない。鬼道衆を倒さぬ限り脅威は消えないし、自分達が敗れれば東京が、日本が、世界さえ滅ぶかも知れないのだ。それなのに、大人達の政府も警察も大して宛てにできないときた。
「幸いなのは、これまでの戦いとは異なり、補給線を確保できる点だ。彼らには任務終了後、充分な報酬を与える所存だ。――それでは、各員の編成を発表する。A案採用時にはそれぞれが分隊として活動。B案採用時には独立して任務に当たる」
「…!!」
今度こそ、全員のざわめきが絶える。緊張の面持ちで、自らの名が呼ばれる時を待つ。
「A班――雨紋雷人、アラン蔵人」
「「OK!」」
真神の五人と共に、最も長く闘ってきた槍使いに、アメリカ海兵隊出身のガンスリンガー。
「B班――藤咲亜里沙。裏密ミサ」
「任せてッ」
「うふふふふふふふ?」
ある意味もっとも早く【力】を発現させ、魔力を行使してきた不思議少女に、中距離戦闘に多彩な技を持つ女王様。
「C班――紫暮兵庫」
「応ッ!」
二重存在を駆使し得る空手家。一つの思考で二つの肉体を操る近接戦闘の要。彼ならば一人でも、二人分の活躍が期待できる。
「D班――織部雪乃、織部雛乃」
「おうッ!」
「はいッ!」
まだ仲間になって日は浅いが、一同の持つ【力】に対して深い理解を持つ姉妹。二人揃う事で、その【力】は二乗倍される。
「E班――醍醐雄矢、美里葵、桜井小蒔、マリィ・クレア」
「――ッッ!?」
ここで、醍醐たちは返事をしなかった。ただ一人、マリィだけが元気に「任せて!」と言ったのみである。
「ちょっと待て、龍麻…!」
「後にしろ――救護班、高見沢舞子。B案採用時は桜ヶ丘に待機。バックアップ組を指揮し、負傷者に備えろ」
「は〜い」
癒しの力を持つ見習い看護婦。葵と同じく、救護班の要。
「突入班は自分、蓬莱寺京一、如月翡翠で当たる。――以上、質問は?」
当然のように醍醐が立ち上がる。
「龍麻、突入班が三人だけとはどういう事だ?」
「結界の破壊を最優先。突入班はスピードのみを重視した。我々は可能な限りの重装備で敵本部に突入、結界の【核】を破壊後、合流ポイントまで離脱する。――先走りはしない」
最後の一言は、醍醐のみならず全員を安心させる為か。
【全員で闘う。一人では闘わない】――これが龍麻の取り決めた【真神愚連隊】の唯一のルールだ。戦力分散という危機を前にして、自らがそれを破る事はないと、龍麻はここで口にする必要があった。そしてその結果、全員の懸念が氷解したのである。曰く、【龍麻は一人で闘うかもしれない】。
「相手がどれほど強大で凶悪であっても、我々は負ける訳には行かない。そして俺は誰一人として死者を出すつもりはない。各員の奮闘を期待する。情報漏洩を避ける為、この場で作戦開始時間は定めない。作戦実行まで緊急時以外の携帯の使用は厳禁とし、専用メールにてA案採用時には【コード777】、B案採用時には【コード666】発信を以って作戦開始とする。なお、以降、この作戦を【D作戦(オペレーション・デストロイ)】と呼称する」
「はは。まさに鬼退治だな」
不敵に笑いつつ、京一が茶化す。
「さしずめひーちゃんは桃太郎ってところか?」
「あ! マリィ知ってるヨ。お供におサルさんと、キジさんと、イヌさんがいて…」
全員の目が京一に注がれる。
「サルは決定だな…」
「何ィ?」
「虎はいるし朱雀はいるし青龍はいるし…後はピ○チューとかラ○ウとか…」
亜里沙の混ぜっ返しに、男性陣の一部が憮然とする。
「するとボクはキジ? う〜ん…ちょっとなあ…」
「女王様とかお雛様とか…看護婦さんとか…」
場を煽るように口を挟む雨紋。
「まんまだな…。すぐ噛み付くから雪乃が犬か?」
「誰が犬だッ! 木刀赤毛ザル!」
「誰が木刀赤毛ザルだ! ――なに笑ってんだ如月、テメエ、カメの癖に!」
「カメ…!? 君…今、カメと言ったかい…!」
ゴゴゴゴゴ、と殺気を立ち上らせる如月。雨紋が慌ててフォローする。
「それから、菩薩様とか」
「……」
ツッコミも何もない葵に、ふと、全員の視線が集まった。
「――葵? ッッ葵!?」
「葵お姉ちゃん!」
小蒔とマリィが慌てて跳びつく間もあらばこそ、葵は崩れるように椅子からずり落ち、床に倒れた。
「葵! ねえ! 葵ってば!」
一同、騒然となり、葵を取り囲むが、彼女は血の気を失った顔でただ眠り続けるだけであった。
葵の意識は、どこまで続くかも知れぬ暗闇の深淵へと果てしなく落下していった。
恐怖は感じない。否、感じないというより、圧倒的すぎる恐怖の為に、何も感じる事ができないというべきか? 恐るべき落下速度にいつしか服が引き剥がされ、肉も骨も剥げ落ち、意識だけが暗闇に落ちていくかのようである。
それがいつもの【夢】の始まりだと、葵は悟った。目覚めると覚えていない【夢】。しかし酷く胸が苦しく、切なくなる感覚だけは残る。
それにしても、今日は特別だ。自分が【夢】の中にいると自覚できるとは!?
するとこの先、待ち受けるものは!?
葵は意識して、暗闇の先を【視よう】と念じた。
暗闇に小さな光点が点る。それが爆発的に広がるや、急に現実の光景が蘇ってきた。
龍麻がいる。京一がいる。醍醐も、小蒔も。見渡せば、仲間たち全員がいる。これは、作戦会議の最中ではなかろうか?
しかし、その場にいる者たちのみを残し、見慣れた教室だけがグニャグニャと変形し、まったく別の場所に変貌する。そこは古風な藁葺屋根の大きな家。【仲間たち】の服装も古風なものに変わり――
(――ッッ違う!?)
そこにいたのは、顔立ちこそ龍麻であったが、まったく別人であった。その証拠に、ぼろぼろの武道着を纏った男には、両目があったのだ。剥き出しの肩にも、龍麻が誇りとする紋章(はない。
では、この男は誰なのか? そして周りにいる者は?
(皆…違う…!?)
縁側で杯を傾けていた剣士が言う。
「――なんて関係ないね。俺は、この剣を振るえりゃ、それでいい」
「そんないい加減で、どうするのさッ」
弓を持った少女が剣士に文句を言う。どこをどう見てもそっくりだが――違う。京一でも、小蒔でもない。
「我ら鬼を打倒せんが為に集(ったもの。そのような事では困るぞ」
僧形の巨漢。網代笠を上げたその顔は――醍醐。しかし、眦に傷があり、別人だと分かる。
「鬼か――」
初めて、龍麻似の男が口を開く。しかし――
「鬼は、己の内にいると知れ――」
「なッ――!!」
男の手から発する膨大な閃光! 瞬時にして剣士も、少女も、僧も消滅し、家そのものが吹き飛んだ。
「…これで満足か? 菩薩眼の娘」
「!!」
男が話し掛けた相手。そこにいたのは十二単を纏った姫。しかし、その顔は…!
(わ、私…!!?)
葵はその光景のみを見ているのか、男はそのまま言葉を継ぐ。
「親も一族も死に絶え、お前を護ると誓った男は鬼と化した。城も領地も失い、民も逃げ去った。そして幕府の狗どもも死に果てた。鬼と呼ばれた者たちも。――お前には、何も残っていない」
「……」
「覚めない悪夢なんてものはない。だがお前のは、最初から夢ではなかった。後は、お前自身が決める事だ。俺と奴――いずれが生き残ろうと、もはや何も変わりはしない。大海に放り込まれた石は、どこまでも沈んでいくしかないのさ。全てを見通すお前の目には何が視える? 絶望か、無為な死か」
「!!」
次の瞬間、男の胸板が鮮血を吹き上げた。
【姫】が懐剣を男の心臓に突き立てたのである。男はかわさなかった。かわしても無駄、否、かわす事など不可能であると言わんばかりに。
「やはり…そう来るか…」
ゴボリ、と血の塊を吐き出しながら、男は狂暴な笑みを浮かべた。
「だが、お前には視えている筈だ。こんなものでは終らないとな…」
そして、男も倒れた。
【姫】は血に塗れた己の手を見て、はらはらと涙を流す。
「…私の【力】が皆を殺してしまった――」
(ッッ!!)
「私の中に流れる呪われた血――私の命と共に絶えてしまえば――」
(やめて――ッッ!!)
【姫】が懐剣で両目をひき切ると同時に、ぱっと闇が飛び散った。
(ああ…!)
再び、闇に閉ざされる葵。しかし今のあまりにも衝撃的な光景は、葵の目に焼き付いて離れなかった。
「――いッ! …葵!」
自分に呼びかけてくる声に引っ張り上げられるように、葵は目を覚ました。
「こま…き…?」
目の前にいるのは確かに小蒔だ。酷く視界がぼやけているのは、目に涙が溜まっている為だった。
「ここ…は? 私…一体…?」
「作戦会議中にいきなり倒れたんだよ、葵。ここは桜ヶ丘」
「いきなりだったから〜舞子〜びっくりしちゃった〜」
あの場に高見沢がいたのは僥倖であった。即座に高見沢が【気】の状態をチェック、同時に裏密も以前のような【術】に掛けられていないか確認し、どうやら軽い貧血という判断を下し、ここ桜ヶ丘に運び込んだのである。
「顔色も〜だいぶ良くなったみたい〜。もう大丈夫〜」
「私…どのくらい眠っていたの?」
「えっと…五時間くらいかな」
作戦会議を始めた時、既に夕方だったから、もう十時過ぎである。葵は少し慌てて上体を起こした。
「あっ、まだ横になってた方が――」
「大丈夫。――きゃっ!?」
いきなり葵の額に押し当てられる手。その主は龍麻であった。
「…過信は禁物だ」
龍麻はいつもの口調で言う。
「家の方には岩山先生から連絡済みだ。今日はこのままゆっくり休め。我々もお前に倒れられては行動を起こせん。だが今は、健康を取り戻す事だけを考えろ。…どうした?」
龍麻を見つめる葵の唇が微かに震えている。これまでにも似たような光景はあったが、今日のはどこか違っていた。
(脅えている?)
誰にも見えないが、龍麻の眉が寄る。
今までにも何度か彼女を脅えさせた事のある龍麻だ。自分が彼女にどのような影響を与えているか、ほんの少し(本当に少しだけ)解っているつもりである。だが多くはその場限りで済んでいた。そして今、龍麻には彼女が脅える理由が思い当たらない。
「ごめん…なさい…。なんでもないの…」
「……それなら良い。ゆっくり休め」
因果な性分だな――外見はまったく変えぬまま、龍麻は胸の内でため息を付いた。
葵の悩みを見抜きながら、敢えてそれに触れようとしない自分がいる。その苦しみがどんなものか理解しようと務めながら、それが自分の行動にどのように関わってくるか――有り体に言えば有利になるか不利になるか、冷静に分析している自分がいる。
葵は今でこそだいぶ打ち解けてきてはいるが、【白虎】に覚醒するという人生観が激変するような体験の果てに自らを見詰め直した醍醐と違い、犬神の指摘通り未だに悩みを内に抱え込む性癖が強い。
「明日、また来る。――学生の本分は勉強だぞ」
まるで犬神のような事を言い置き、龍麻は全員に退室するように命じた。
「それじゃ、また来るね」
「ゆっくり休んでくれよ」
「じゃあな。ちゃんと寝とけ」
口々に言って病室を退出していく真神の仲間たち。最後に病室を出ようとする龍麻の背中を見て、葵はあっと声を上げた。
「…どうした?」
龍麻が右肩から振り返る。その時、一つだけ残った彼の目が見えた。底知れぬほど深い黒瞳だ。だが美しく澄み切ったそれは、澄み切っているがゆえに冷たかった。
「い、いいえ…。ごめんなさい…迷惑かけて…」
「…トラブルは困るが、迷惑なら歓迎する」
ピシリ、と敬礼を残し、病室のドアは静かに閉じられた。
独りきりになった葵は、急に襲いかかってきた孤独感に我が身を抱き締めた。
一人取り残されてから、ようやく自分が、誰の傍にいたいのか理解した葵であった。
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