第三幕 俺的大勝利




 
 最悪のコンディションに最悪の目覚め。私はそこそこ朝に強いが、今日は朝から不機嫌度MAXであった。

 近頃の若者が夜行性だろうがなんだろうが知ったこっちゃないが、人の安眠を妨害する権利はない筈だ。それこそライフルでも持っていれば片端から――とまあ、不毛な妄想はそこらに投げ捨て、我々は本来の目的である釣りの準備に取り掛かった。

 天気は…悪い。昨日は晴れていた空が、今日はどんよりと曇っている。風向きも悪い。雲が垂れ込めている方から吹いている。キャスティングへの影響はないが、一雨来る事が予想された。

 眠い目をこすりつつ、城ヶ島・居島新提への渡しをやっている釣具屋さんに向かう。〇四三〇時。渡船は〇五三〇時出船だから、まだ早すぎるのだが、用心の為だ。夏だし、平日なのだが、居島新提というのはそれなりに一級ポイントである。秋には青物と呼ばれるイナダやワラサ、時にはブリまで狙えるという場所なので、釣り人が入らない日は嵐の日くらいしかないのだ。その頃には船着場に陣取って夜を明かし、斥候一人を派遣して渡船手続きを済ませ、一番良い場所を占拠してしまおうという輩も出没するのだ。

 まあ、夏なのだからそこまで警戒する必要もあるまい――と思っていたら、いるではないか! 釣具店の前にけっこうお年の夫婦が!

「おはようございますぅ」

 釣り師は礼儀が第一であると思う。私は叔父サンに挨拶する。すると向こうも気持ちよく挨拶を返してきた。――いいねえ、釣り師はこうでなくては。

 まだ時間が早いのでとりあえずコーヒーを飲みながら叔父サンと情報交換である。叔父サンが上がろうと考えているのは青提と呼ばれる、投げ釣りのポイントであった。ただでさえ相模湾に突き出した三浦半島の先端部で、城ヶ島との間が水道(釣りの用語で潮の流れるところ)になっている三崎港である。投げ釣り仕掛け一本で様々な獲物が狙えるのだそうだ。

 残念な事に、我々は一年以上のブランクが空いている為に有益な情報提供はできなかった。しかし釣りの好きな者同士、会話は弾み、いつしか釣具店の開店時間、〇五〇〇時に至った。

 渡船名簿への記帳と餌の確保(渡船客には餌も買ってもらうとのことだった)を済ませ、陣取り(せこいとは思うのだが釣りもサバイバルである)に船着場へと派遣していたKOUの所に戻る。渡船は〇五三〇時だ。幸い、我々とあの初老の夫婦がいるだけである。

 だが、いよいよ時間が近付いて来た時である。突如、二台の4WD車が現れ、船着場の直前に停車したではないか! しかも中から現れたのは、完全装備の磯師!

 やばい…! やばすぎる…! 我々の背筋を嫌な汗が伝った。

 居島新提への渡船はこれで三度目になるが、前の二回は散々であった。渡船にある程度の人数と荷物を詰め込み、五メートルからある垂直の壁をはしごで登り、フック付きのロープで荷物の上げ下ろしをするのだが、やはりこれには協力が不可欠であると思う。しかし! しかしである。以前の二回は二回とも、たまたまトップに登った私が全員の荷物の内半分以上を上げたにも関わらず、後から登ってきた釣り師は自分の荷物が上がってくるや、さっさと居島新提一番のポイントに行ってしまったのである。当然、その段階で荷物の上げ下ろしは終わっていない。

 それでも、多少の良心があるなら場所の譲り合いくらいはあるだろう。一番の場所は、まあ、仕方ないにしても、隣くらいなら――と考えていたら、とんでもない。その釣り師はグループで来ており、外洋向きになる場所を五人ほどで占拠してしまったのである。

 この居島新提は巨大な堤防であるから、その気になれば百や二百の客も収容可能だ。しかしそれはあくまで三崎港の内向きの話であって、大物との接触確率の高い外洋向きのポイントは譲り合って五人、本気で良い釣りができるのは三人が限界と思われるほど狭いのである。そして彼らは同じ磯釣りでもフカセ釣り師であり、我々はカゴ釣り師である。フカセ師とカゴ師の反目はどこの磯でもけっこうあって、我々がやむなく新提先端部の内向きに付こうとすると、凄い目つきで睨まれた。カゴ釣りというのはコマセ(よせ餌)と一緒に仕掛けを遠くに放り込むので、魚が遠くへ行ってしまうという誤解があるのだ。

 テメエら磯釣りやってて潮の流れも読めねェのかバッキャロー…とも言えず、すごすごと撤退せざるを得なかった我々。


 ――釣り場では絶対に喧嘩しない


 これを信条としている我々は、どんなに我侭な釣り師が狼藉を働こうとも、こちらが引く事で争いを回避してきたのだ。喧嘩して良い場所を勝ち取った所で、気分の良い釣りはできないからである。このため、竿を出すには出したものの昼には引き上げてしまった。我々の装備では内向きは釣りづらく、潮が効いている時に内向きの奥地では良いものは釣れないからである。ちなみに一日中堤防に乗っていようが半日しか乗るまいが、渡船料は一律一人三千円。――無駄な労力と無駄な出費に終わってしまった。

 前日釣りをやらず、徹夜までした挙句の果てに、三度目の正直も悪夢の再来か!? ――そう考えてしまった私の心境は理解していただけるであろうか。決して良くない事とは知りつつも、ついちらちらと二人のフカセ師(装備で解る)に我が尊敬する椎名誠先生命名の「ずるむけビーム光線」を浴びせてしまう私であった。

 これ以上増えるなよ…という願いも空しく、若いカップルのフカセ師も現れる。磯釣りマニュアルにある渡船のマナーを忠実に護ろうとする我々には圧倒的に不利な状況になりつつある。そして運命の〇五三〇時が訪れた。

 青提に熟年夫婦を下ろし、荷揚げを手伝い、「頑張ってください」と声をかけていよいよ居島新提へ。久し振りに見上げる堤防は殆ど軍艦である。――本当にそのくらい大きいのだ。

 例によってトップに立ち、荷揚げを行う。一人では大変なのでKOUも上がってきた。上下二人づつに分かれて荷揚げを行う我々。一瞬、私の脳裏を悪魔の囁きがよぎる。


 ――先に場所取っちまえ


「・・・・・・」

 今回は最初から昼上がりを決めているので、そんな囁きを黙殺する私。荷物を全部上げ、フカセ師が二人とも上がるのを待つ。するとどうだ?カップルのフカセ師は別の所に行くようだ。そして――

「どちらに行かれますか?」

 前回にはなかった言葉がかけられてくる。本当は私が先に聞こうとしたのだが。

「ええ。できれば――先端の外向きを狙おうかと思うんですけど…」

 一年以上のブランクのために腰が引けている私。するとフカセ師は、

「そうですか。私ら、反対側の磯場狙いなんで、頑張ってください」

 へ…?

 にこやかに会釈し、彼らフカセ師は去って行った。

 私は幻聴を聞いたのではないか? 徹夜明けで頭がボケているのではないか? と極めて失礼かつ不穏当な思考に陥る私。しかし次の瞬間、私は復活した。

「よっしゃ! 行くぞ!」

 一二キロに膨れ上がったオキアミコマセの重さも何のその。居島新提最大のポイントに陣取る我々であった。





「ふんっ・・・はぁぁぁ〜〜〜〜っ!」

 と、久し振りの潮の香りにトリップしつつ、仕掛けのセッティングを行う。前回(二〇〇二年五月)の八丈島釣行の時より私の愛竿となったのはダイワのGLADER四号ベイトキャスティングリールタイプである。長さは遠投を重視した六・三メートル。セットするリールはアブ・アンバサダー7500C。私の乱暴な扱いにも壊れないで楽しませてくれるタフな奴である。道糸は7号。適当な発砲ウキに、二号のゴム付き中通しオモリ、二ミリ径のゴムクッション五〇センチ、コマセカゴと反転カゴをセット。ここまでは八丈島スタイルそのままだ。問題はハリスと針である。いくら大物が出る可能性がある場所とは言え、今日の獲物はどのくらいだろう・・・?

 悩んでも仕方ないので、ハリス六号フロロカーボンを四ヒロ(両手を一杯に広げて一ヒロ)。針はグレバリ八号を選択した。

 一応、補足説明を入れておくが、三浦半島においてこれは無謀なほど巨大な仕掛けと言える。このクラスとなると八丈島でもかなりの大物狙いだ。四〇センチくらいのメジナならゴボー抜きを可能とする。

 しかし、「それじゃ釣れないよ」という言葉は飲み込んでもらいたい。自分のタックルが大物専用ということは重々承知なのだ。仕掛けを細くすれば、獲物の幅は広がるかもしれない。だが、大物用の仕掛けを持ち込んだ以上、それに相応しい仕掛けをセットするのは当然の事である。小さい奴に用はない。年がら年中餌がまかれているのだから、でかい奴もいる筈だ。細い仕掛けでやっている時にそんなデカイ奴がかかって、逃がしてしまったらそれは笑い話にもならない。まして、自慢話には絶対にならない(世の中には何発バラしたかを自慢するかのように話す釣り師がいるのだ)。


 ――掛けたら取る!


 これが私の信条である。まあ、これを達成するのは並大抵の事ではないのだが。何しろ八丈島に行けば、私のようなサンデー釣り師でも、巨大魚との格闘戦が突如やってくるのだ。私はこれまで何回も、竿を起こす事すら許されない戦いを経験し、惨敗している。静かな湾内でウミタナゴと遊ぶのも、小さな堤防でアジやイワシを釣るのも好きな私だが、《大物が出る》可能性のある所で、雑魚と遊ぶ趣味はない!

 でもって、釣りの開始である。

 海を眺めても、潮の流れがまったく感じられない。水平線の彼方までベタ凪(波がない状態)である。しかし、時折イワシの群れが跳ねるところを見ると、魚はちゃんといるようだ。

 とりゃ! とキャスティング。一年以上のブランクは大きかった。ひょろひょろ〜っと飛んでいった仕掛けは二五メートルくらい先でボシャン! と落ちた。久し振りのキャスティングである事に加え、足場が高い事が私の腰を引けさせている。居島新提の先端は一段高くなっている所があり、キャスティングに問題ない広さがあるのだが、水面までは約八メートルある。ブランクが長いとさすがに高く感じ、ビビる。ブランクが一年と半年以上に及ぶKOUは「怖いから」という理由で低い方から投げている。私には彼を笑う事はできない。

 カゴ釣りのパターン通り、竿を大きく煽ってコマセカゴからコマセを振り出し、待つ。愛用のアブ7500Cからはするすると糸が出ているから、少しは潮の流れがあるようだ。しかし、何の反応もない。三分ほど流し、仕掛けを回収すると付け餌が残っていた。かじられた跡もなく、綺麗なものである。

「付け餌が残っている時は、とにかく何らかの反応がある所まで徹底的に流せ」

 磯釣り名人達はそう口を揃える。そこにはいないかも知れないが、どこかで餌が来るのを待っているのだと。――当然、私もそのようにした。ハリスが太いから食ってこないなどとは微塵も考えずに。

 投げては流し、流しては回収する。しばらくはそんな状態が続く。相変わらず潮は動かない。そして、少し風が吹き出してくる。

 すると、来た!

 ――残念ながら魚ではない。雨が降って来たのだ。

「あ〜あ。降ってきちゃったよ」

 私もKOUも磯釣り用のレインギアを着込んでいるから雨ごときどうという事はないが、やはり久し振りの釣りに水を差された事に変わりはない。とりあえず荷物にビニール袋をかぶせ、釣りを再開する。

 すると…おんや? 雨で叩かれている水面に、イワシの群れが跳ね始めたではないか。それも百や二百ではない。とりあえず私の立っている所を中心に半径五〇メートルほどの範囲がイワシまみれになったのだ。

「お−、少し流れ始めたようだぞ」

 雨の中ではあるが、少し気合を入れ直し、タナを竿半分(約三メートル)ほど深くする私。KOUは竿一本(約五メートル)のタナで攻めているそうだ。ただし彼はブランクが長かったせいもあり、キャスティングがうまく行っていない。堤防の縁に立てないので、堤防から一〇メートルくらいのところにボシャッと仕掛けが落ちている。竿の弾力が生かされておらず、力で投げているので、彼の足元は仕掛けが跳ねた際にこぼれたオキアミが派手に散らばっている。

 しかし、さすがは小鹿(笑)! 何か掛けた!

「来た来た来た来た! なんか来た!」

 おお、KOUの竿が良いしなり具合である。ちなみに彼の竿はがま磯VR四号。リールは私と同じアブ7500Cである。道糸八号。ハリス六号だ。

「巻け巻け巻け巻け巻け巻け!」

 なかなか良い反応だが、このタックルの敵ではない。私のアドバイス(?)はそれだけであった。

 ギラ! と光る銀色の魚体!

「お! シマアジかッ!?」

 光り方が縦にも広かったぞ!? コイツは金星か!?

「いや! カツオかッ!?」

 更に水面近くまで引き寄せられる魚体。前後に細長い魚だ。シマアジではないが、カツオでも金星だ。

 水面から顔を出し、見えたのは特徴ある唐草模様(?)。

「お−ッ! サバじゃサバじゃ!」

 なんだよサバかよ…という奴がいたら、ザリガニ釣りから修行し直すがよい。一年半以上のブランクに加え、雨天。キャスティングフォームも乱れまくり、堤防の縁に立つことさえ怖いと洩らしていた男が、三五センチオーバーの、ころころと太ったサバを見事に掛けたのである。

「あー、待て待て! 今、タモを出す!」

 かつての我々ならば思いっきりゴボー抜きサイズだが、記念すべき一尾である。それこそ壊れ物を扱うかのように柄の長さ六メートル、枠六〇センチのタモを差し出し、すくい取る。――成功。

「おー、やったやった!」

 なんと見事な食べ頃サイズ。夏サバは美味くないと母者が言っていたが、このサイズになると脂も乗っている。早速エラの付け根にナイフを入れ、水を張ったバケツに入れて血抜きをする。せっかくのお土産だ。直ぐに締めておけばおいしく食べられる。

 恐らく、イワシを追い掛け回しているのはこのサイズのサバだろう。そしてサバは大抵、群れでいるものだ。我々は俄然、気合を入れた。しかもよく海面を見てみれば、潮目らしきものができているではないか。なんとまあ間抜けな話ではあるが、幅二〇メートル以上のスケールを誇る潮目だったので、見落としていたのである。

 これならばどこに放り込んでも良い筈。私は早速腰の引けたキャスティングでひょろひょろと三〇メートルほど沖合いに仕掛けを放り込んだ。

 竿を煽り、コマセを振り出して待つ。リールのスプールを親指で操作し、潮の流れに合わせてブレーキを掛けながら糸を送る。と、その時、ツツツ…とウキが沈んだ。

「とりゃ!」

 リールのスプールを抑え、竿を大きく煽る。おお! 一年三ヶ月ぶりの魚の手応え! しかも、割と良い型と見た!

「来た来た来た来た!」

「なんだ?」

「まだ解らん」

 ヤツが首を振る手応えが手元にゴンゴン伝わってくる。なかなか良い走りをしている。八丈島で手堅くお土産にするムロアジより、確実に強い引きである。

「そ〜れそれ。ツラ出せ〜ッ」

 やや濁りの入った潮の中でギラリと光る魚体。一瞬、「お! カツオかッ!?」という声が洩れたが、水面に顔を出したのはサバであった。しかし、これは嬉しい。我々は食べておいしい魚ならば何が釣れても嬉しいのだ。

「よいしょ――とおッ!」

 竿の弾力を十分に生かし、一発ゴボー抜き! 空を切り裂いて上がってきたのは、四〇センチに届くサバであった。丸々と太り、実に美味そうである。

「今がチャンスだ。ドンドン行け!」

 出かけにちゃんと氷を買っておいて良かった。マニュアル通りにすぐナイフを入れ、水バケツにサバを放り込む。先程KOUが釣った分はとりあえず袋に入れてクーラーボックスへ。真にマニュアル通りにするならば、氷を浮かせた塩水の中に浮かべるのが良いのだが、クーラーボックスには朝飯も入っていたのでこれはやらなかった。

 急げ急げ。魚の釣れる時間は短いのだ。

 一年以上のブランクも何のその、仕掛けのセッティングは確実に以前のペースを取り戻している。腰の引けも大分なくなったキャスティングで、約四〇メートル先の潮目に放り込む。竿を煽り、仕掛けが馴染んだかな? と思った頃、再びウキがすうっと水面から消える。

「うりゃ!」

 掛け声は情けないが、確実な合わせ。スココココ…と走る獲物。これもまた同程度のサバだ。首を振る感じが同じなのですぐに判った。

 水面に上がってきたのは、やはり四〇センチに届くサバ。どうやらこのサイズがこの辺りにそこそこ群れを作っているらしい。勿論、とりゃっと一発ゴボー抜きにする。

 雨は相変わらず降っているが、釣りの内容は良い感じになってきた。三回に一回のペースでスココ…とウキが持って行かれる。しかも型揃い。これは、良い土産になった。しかも強力なタックルとは言え、引き味は充分に楽しめる。

 KOUにもヒット!

「ポンピングポンピング!」

 私の竿のGLADERに比べ、がま磯VRは柔らかい調子の竿である。同じ四号竿とは言え、同サイズのサバを相手にすると引き味は確実に彼の方が楽しめる。がま磯はプロ好みの竿なのだ。

「ゴボー抜きやってみろよ」

 八丈島に遠征していた頃は、彼も四〇センチくらいの獲物は楽にゴボー抜きしていた。そう思って口にしたのだが、こいつはまずかった。やはりブランクは長く、KOUは力任せに竿を煽ったのである。

(やばいッ!!)

 一瞬、総毛立つ私。ゼロコンマ数秒後、針が抜けてサバは落下した。

 思わずほっとする私。せっかくの獲物を逃したのは惜しかったが、今のタイミングでは針が解けたのは幸いであった。ゴボー抜きとは決して力任せに魚を抜くものではない。竿の弾力、糸の張力、魚の弱り具合を見て、無理な力を使わずに水面から魚を抜き上げるれっきとした技なのだ。KOUはその感覚を忘れてしまっていたらしい。しかも、ハリスが切れたのではなく、針の結び目が解けたところにブランクの長さが伺える。今ので竿を折らなかったのは、まったくもって不幸中の幸いだ。がま磯VRの柔らかさと、針が解けた事による相乗効果が定価四万円以上する高級竿を救ったのだ。

「…ゴボー抜きはやめとけ。ちゃんとタモを出そう」

 今のKOUでは感覚を取り戻す前に竿を折りかねない。私はそう決断した。

 その後もチョコチョコとサバが釣り上がってくる。だが、この調子で釣り続けたらクーラーボックスが満杯になってしまうのでは…? などという、凄まじいほどに虫の良い考えが発生した。

 そりゃあ、まったく釣れないよりは、たくさん釣れた方が良い。それは当然なのだが、何しろ四〇センチ級のサバである。塩焼きにして味噌煮にして竜田揚げにして…余り大量に釣れても困ってしまうのだ。一昔前ならご近所におすそ分け…なんて事もできたのだが、近頃はやれダイオキシンだなんだと、「買って来た物なら安全」という妙な思想が蔓延し、よほど親しい間柄でないとおすそ分けなどという行為もできなくなってしまった。

 その頃には、風向きが悪いとかでカップルのフカセ師が新提に上がってきていたので、一瞬、彼らに分ければいいじゃないかとの考えも浮かんだのだが、即刻この考えは却下した。なにが哀しくて、釣りをしにきているのに見知らぬ釣り人から獲物を分けてもらってうれしいものか。

 みやげ物は確保できている。残り時間は二時間ほど。ここは一発、何か別の魚を狙ってみようではないか。

 私は仕掛けはそのまま、一気にタナを竿二本(約一二メートル)まで下げた。

 この居島新提は、足元から深さ一五メートル前後あるという。そして沖に行くにしたがってみるみる深くなっていくのだ。竿二本分のタナなんてたいした深さではない。イワシを追っているサバは表層にいるだろうから、深いタナには別の魚がいるだろうとの判断である。

 四〇センチ級のサバを餌取り扱い…今までの我々には考えられない事態である。自らの意思で好釣果を打ち止めにするなど。だが、たくさん釣って持って帰っても、新鮮な内に食べきれなくてはサバに申し訳ないのだ。

 狙いは…《何か》。とりあえずサバ以外の顔を拝みたい(なんと贅沢な!)。

 案の定、アタリが止まる。イワシの群れは相変わらず跳ね回っているから、読み通りサバの群れも表層にいるのだろう。付け餌も戻ってくる。

 それでも良かった。既にサバには楽しませてもらっている上、今までにないみやげ物は確保できているのだ。

「ん…?」

 どうにもウキの動きがおかしい。この時海には少々のうねりが見え始めていたのだが、時折、うねりにウキが飲まれるのである。考えられる原因は二つ。まだコマセカゴにオキアミが残っていて、それがオモリとなってウキを沈ませている場合。もう一つは、ウキを沈ませるほどのパワーのない魚が引っ付いている場合。

 巻き上げ時の基本。一発空合わせをくれてから竿を立てる。すると、いかにも貧弱な手応えだが、何かが食いついている。こういう時こそ油断してはならじと、基本に則ってゴボー抜き。上がってきたのは手のひらサイズのオハグロベラであった。

「久し振りに見る顔だな、オイ」

 煮ても焼いても食えない外道だが、コイツは海釣りを始めたばかりの時に楽しませてくれたヤツだ。あの時は油壷湾で、二五センチはあったが、せっかく連れた魚なので釣り場移動の時も持ち歩いた記憶がある。コイツがまたえらく丈夫で、丸一日酸素供給もろくにないまま連れ歩いたのに、帰宅する直前まで元気であった。結局三崎港で逃がしたのだが、ヤツは「やれやれ初心者どもが、逃がすならもっと早くしろよな!」とばかりに勇んで逃げて行った。

 とにかく、外道には違いない。ちょいと針を奥まで飲み込んでいたのだが、何とか針を外し、海に返した。…八メートルの高さから。ヤツは少し気絶していたようだったが、やがてヒラを打つと「てやんでェ! バカヤローッ!」とばかりに逃げ去って行った。

 さて、食べられない魚が釣れてしまったが、ヤツは様々な情報を私に残していった。

 まず、付け餌がヤツの棲んでいる海底付近に届いているという事だ。丹念に攻めれば、別の魚もいるやも知れぬ。ベラも餌取りの一種だが、掛かるまでの時間から推測するに、数はいないようだとも。  タナを一メートルほど上に上げ、仕掛けを再投入。アタリを待つ。潮はゆっくりとだが動いていて、イワシのナブラ(追われている小魚が群れて水面を跳ねる現象)も頻繁に起こっている。ルアーでも投げれば何か釣れるかも知れないが、今日はルアーを一つたりとも持って来ていない。

  再び、ウキに妙な手応え。小刻みにチョコチョコ動いている。ウキの大きさは鶏の卵ほどあるから、小魚では引っ張り込めないのだ。

 早速巻き上げてみると、今度はネンブツダイである。体長は一二センチほど。その割に口が大きく、グレバリ八号も難なく飲み込んでいる。そしてコイツも、基本的には食べない魚だ。イカ釣り用の生餌としては使えるが、今は単なる外道である。やはり海にさっぽり込むと、「やれやれ、助かったぜ」と言うように去って行った。

 ベラに続いて、ネンブツダイ。こいつはなかなか難しい問題になってきた。カップルフカセ師の一人が私の隣に入り、ネンブツダイの群れに襲われているが、沖合いの表層はサバがいるために餌取りの姿はない。しかし深いタナにネンブツダイがいるとなると、大き目の魚はいないということか?

 いろいろ考えてみたりするのだが、やはりやる事は一つ。みやげ物は確保できているのだから、のんびりとキャストを繰り返す。KOUもサバが釣れたので今回の釣りは成功だと思っているのか、余裕をもってキャストを繰り返している。

 余裕ついでに、私は非常に間抜けな事もやらかしてしまった。

 人間社会でもそうであるように、サバの中にも気まぐれなヤツがいて、深ダナに合わせた私の付け餌に食いついてきたサバがいたのだ。一応、他の魚を狙ってはいたものの、来るものを拒むつもりはない。丁寧にやり取りしていると、そこに油壷からの観光船が現れた。

 観光船…。テレビの釣り番組などで磯釣りレポートをしているエド山口氏は、観光船が来ると気合が入るという。当然、八丈島の堤防でカゴ釣りのノウハウを実践してきた私も、東海汽船でやって来る観光客相手に魚とのファイトを見せた事もある。中でも笑ったのは、私とKOU、そして私の親父殿の隣で釣っていた内地の釣り師が、今まさに出港せんとする東海汽船の船べりに観光客が鈴なりになっている状態で、五〇センチクラスのウマズラハギを釣り上げたのだ。わっと湧き上がる歓声と拍手。そこで釣り師は一言、

「ありがっとおっ!」

 どこぞのアイドルか、テメエはッ!?

 ――と、まあ、なんともほほえましい思い出のある私は、今まさに観光船の目の前で魚とファイとしている現実から、「良いトコ見せちゃろかっ」と、普段の面白味に欠ける性格からは窺い知れない目立とう精神の元、「うりゃあっ!」とサバをゴボー抜きにした。

 ――が、それは思い切り裏目に出た。

 観光船とは言うものの、そのスピードはかなり速い。モタモタしていると観光船が行ってしまうと、サバが充分に弱っていない段階でゴボー抜きを敢行してしまった。その結果は、まだ水中に潜る余力を残していたサバを、《水面》からではなく《水中》から抜き上げようとしてしまったのだ。高さ八メートルからのゴボー抜きを成功させるには初速が足りず、岸壁にベチャッとぶつかったサバは針が外れて逃げて行ってしまった。

「ケケケケッ、目立とうとするからだろーが。馬鹿めーいっ!」

 私にはヤツがそう言っているのが聞こえた。目立つどころか、要らんところで恥を掻いた。やはり、エド山口氏を真似るには時期尚早であった。

 そうこうしている内に、一一〇〇時。そろそろ腹も減ったし、運転手もこなさねばならない私はそろそろ竿を畳もうと思い始めた。――極めて異例な事である。

「これで最後だ。」

 海を良く見て、目の前二〇メートルほどの所に潮目の細いやつを補足した私は、腰引けキャストでそこに仕掛けを放り込んだ。ひょろろろ〜っと飛んでいった仕掛けは見事に良い場所に落ちる。

「1…2…3…4…うりゃっ」

 仕掛けがタナに到達したのを見越し、竿を煽ってコマセを振り出す。二発…三発。最初にコマセを全部振り出すつもりで竿を大きく煽る。糸フケ分を巻き取り、待ちの態勢へ。雨が殆ど上がっているので、ウキも見やすい。

「…これで何でもいいから掛かればいいんだがなァ」

 そんな事を話しつつ、待つことしばし。ウキがツツツ…と横走りした。

「おっと…とりゃっ」

 合わせをくれ、竿がしなる。

「…おや?」

 今までにない引き味。サバの時はゴンゴンと首を振りながら横走りするのだが、コイツは首を振るところは同じだが、下へ下へと突っ込んでいく。

「お〜い。なんか違うヤツが来た。」

「なんじゃ?」

「わからん」

 なかなか良い手応えなので、大事にリールを巻き上げる。果たして、ギラリと光る魚体は…平たい!?

「おー、なんだなんだ!? メジナか!? クロダイか!?」

 更に水面近くまで引き寄せた時、そいつは反転して底に向かおうとする。その時見えた、頭でっかちな魚体! あれは…!?

「オオッ、これは…真鯛じゃ!!」

「えーッ、マジ!?」

 灰色の空を映す水面にぱっと散るピンク色。間違いない! 真鯛だ!

「おーし! 抜くぞーッ!」

 この居島新提では「出る」という話であったが、私の思い描いていたターゲットから、真鯛の姿は完全にロストしていた。まさしく、思いがけない獲物である。

 そのため、私は少々焦り、舞い上がっていたようだ。

「とりゃッ。――オオッ!?」

 四ヒロハリスと竿の曲がり具合の計算ミス! 道糸を充分に巻き上げておかなかったため、真鯛は岸壁にベチャッとぶち当たった。

(ヒイィィィィィィィッッ!!)

 観光船の悪夢再来に梅図かずおチックな悲鳴を心の中で張り上げ、それでも身体は最適の機動をする。ハリスが緩まないように竿を寝かせつつ素早く足場を移動し、この貴重な獲物を堤防の上に引きずり上げた。

「お−ッ! やったやった! 本物の真鯛だ!」

「お−ッ、スゲ−ッ」

 魚屋の店先や飲み屋の水槽で見る機会の多い真鯛ではあるが、自分の手で釣り上げたとなると感動はひとしおであった。綺麗なパールピンクの魚体に、メタリックなターコイズブルーの斑点。おでこの出っ張りがないところを見るとメスだろう。産卵シーズンは終了しているから太ってはいないが、それでも立派な真鯛である。体長は手で計って欲目で四〇センチ。船釣りで真鯛を狙っている人から見れば小物もいい所かも知れないが、磯師の目から見れば良型である。針も喉の奥の方にしっかり掛かっていたので、先程のサバのように外れなかったのだ。


 ――ハリス六号グレバリ八号に真鯛が食ってきた!? 偶然だ!


 そう言いたければ…言わば言え! 我が釣りのバイブル「釣りキチ三平」の著者矢口高雄氏は、復活した「釣りキチ三平」の中でこう語っている。


 ――ビギナーズラックだろうがなんだろうが、一匹の魚が釣れたって事は、その魚が釣れる条件が全て揃ったって事なんだぜ


 まさしく名言である。釣りの名人とは、まさしく狙った魚が釣れる条件を速やかに、確実に揃えられる人間の事である。そしてこの真鯛は、たとえ私のターゲットに入っていなかったとしても、偶然で釣れたのではない。潮目を発見し、そこに正確に仕掛けを打ち込み、コマセを確実に振り出し、潮の流れに対して最適なライン操作を行い、その瞬間、針もハリスも死角となって見えない位置にいた、この真鯛君が食ってきたのだ。――魚が釣れたという事実の前に、ハリスの太さや針の大きさを論じるのは無意味な事である。私の付け餌を横から見つけたヤツは、ハリスを見抜いたかも知れない。だが、私に釣り上げられた真鯛君の位置からはハリスの存在を見破れなかったのだ。


 結論――太さ一ミリ以上のハリスでも、正面から見れば点。


   これは、武道にも通じる事だろう。剣道ならば、例えば面打ちや胴打ちは比較的見切りやすいが、突き技を見切るのは難しいというところか。

 まあ、釣り場でそこまで考えている奴はいないだろうが。

「真鯛ですか〜?」

 隣に入ったフカセ師が聞いてくる。

「真鯛ですぅ。いや〜、こんなの釣るの、初めてですよッ」

 舞い上がって饒舌になる私。「凄いですね〜」という勝算を素直に受け止める私であった。

「カメラカメラ!」

 魚を写真に納めるには、やはり生きている時がいい。魚は死んでしまうと変色してしまうものが多いのだ。

 むう…適当な比較対象がない…。仕方ないので、片足(サイズは二五・五センチ)を差し出す私。せっかくなので、サバも適当に並べて一緒に写真を撮る。するとKOUが「撮ってやるから持て」と言い出したので、真鯛を両手に持ち、ハトヤ状態(魚が手の中で跳ねる状態)を堪えつつ二枚ほど記念撮影する。

「よっしゃ。タナは深いままだろ? きっとまだいるぞ。続け!」

 KOUを叱咤する私。そして私は…真鯛が針を呑んでいた為にハリスを切り、そのまま納竿とした。――以前の私だったら、必ず二尾目を狙っている所なのに。

 しかし、この後で運転手もこなさなければならないのだ。最後に真鯛という劇的な釣りができたところで、気分良く竿を納めた。

 一方、KOUはやはりキャスティングの感覚が戻らず、飛距離が出せない。後片付けは私がやるからと、ぎりぎりまで粘らせたのだが、潮が変わったのか、彼にはとうとう真鯛が来る事はなかった。

 やがて一二〇〇時。我々の磯上がりの時間がやって来た。

 私はカップルのフカセ師に、余ってしまったアミエビコマセと、私の知りうるすべての情報を提供してから居島新提を去った。

 釣具屋さんに餌を頼んでいたとは言え、このカップル釣り師は我々が荷物を下ろす事さえも手伝ってくださった。

 この釣行は、今までの釣り人生の中で、釣りの内容から獲物の内容、その他全般に至るまで、最高レベルのものとなった事は言うまでもない。


 一年三ヶ月ぶりの釣りは、実に素晴らしいものとなったのである。



   第三話 俺的大勝利    完



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