思いがけず…本当に思いがけずかつてない良い釣りができた我々は、意気揚々と船着場へと引き揚げてきた。 荷物の重さもさほど気にならない。今回は大勝利だ。――そんな雰囲気が表情その他に表れていたのだろう。近所の食堂のご主人(?)が私に「釣れましたか?」と声をかけてきた。 その途端、饒舌になる私。 「出ました! 真鯛が出ました! 四〇センチ(欲目)くらいの奴です!」 「ヘエ! 最近じゃあまり聞かなかったけど、そりゃ良いのが出たね! ――他にも何か出た?」 「はい――やっぱ四〇センチくらいのサバがポコポコと」 (註――ポコポコ…間はあるもののそれなりにテンポが繋がる状態を指す。類似語――ポツポツ、ポツリポツリ、ビシバシ) 「お―ッ、そりゃ良いねェ。それだけでかけりゃ美味いよ!」 「いや〜ッ、こんな良い釣りはほとんど初めてですよッ」 頬が緩む緩む。いやはや、一時はどうなる事かと思った釣りだが、本当に良い結果になったものだ。 「近頃じゃ下手なのが増えてねえ。ウチでもバラした話ばっかりしてるんだよ。――ハリスは何号?」 「エエ、六号です。」 あっさり答える私。ご主人は感心したように、 「へぇ〜っ、そりゃまた太いの使ってるねェ。まあ、そのくらいあった方が良いんだろうけどねェ。」 おお、さすがは地元の方! 解っていらっしゃる。 「――で、晴れて来たみたいだけど、もう上がっちゃうのかい?」 「ええまあ――とりあえず予定通りって事で。後は昼飯食べて昼寝して――帰るだけです。土産もばっちりですし」 そこですかさずご主人が一言。 「飯ならウチで食べてくといいよ。釣りで疲れてるって言えば、ご飯大盛りにしてくれっから」 はっはあ〜、勿論、そう仰る事は解っていましたとも! こっちもそのつもりで振ったんです! 「ええ。これだ!ってお勧めはなんでしょう?」 「そうだねえ。やっぱりマグロ定食だね。今朝解体したばっかの奴があるよ」 「―――それじゃ、荷物さっぽり込んでから伺いますぅ」 ご主人に軽く敬礼(妙な癖だが)して、とりあえず車のもとに走る私。――別に走る必要などどこにもないのだが、それだけ私は浮かれていたのだ。 ――と、その前に自宅に電話する。勿論「釣れた」という報告をするためである。 ここで一つ説明しておこう。なぜ事前報告が必要なのか――それは、わが母者には奇妙な性癖があり、私もしくは親父殿が釣りに行くと、「釣り」イコール「魚」という図式が頭の中に発生し、その後、買い物に行った時に「釣り」の部分が抜け落ちて「魚」という単語だけが頭に残るらしいのだ。その結果、私が釣りに行った日には必ずと言っていいほど「魚」が買われている。――普段、いかに私が「釣れない釣り」をしているか窺い知れよう。 当然、これだけの獲物が手に入ったのである。この報告は、その屈辱的な買い物を阻止するためであった。三コール目に電話に出た妹に本日の釣果を報告。――完了。 雨でずぶ濡れになった磯シューズを履き替え、車を岸壁まで移動する。荷物を駐車スペースまで運ぶのは面倒なので、KOUを荷物番に待たせておいたのだ。 太陽は薄い雲に覆われているが、じりじりと熱くなってきている。我々はレインギアを脱ぎ、身軽になってから食堂に向かった。 ご主人推薦のマグロ定食を二人前注文し、まずはコーラで乾杯である。(ちなみに私もKOUも酒は余り好きではない。車の事を抜きにしても乾杯はいつもジュースである) 「いやあ、今日は良かった良かった。」 KOUも機嫌が良い。獲物がちゃんとある釣りなど、本当に久し振りなのだ。それに彼は前回の釣り――あの悪夢となってしまった二〇〇二年正月の八丈島遠征、藍ヶ江港で大波を食らった時、基本装備を殆ど丸ごとロストするという目に遭っている。言わばその屈辱からの脱却戦だったのだ。 「やっぱり平日なんだな―。これが日曜祭日だったらこうは行かなかったろうな―」 しみじみ、そんな事を言う私。今日の釣果はやはり、居島新提の先端部を場所取りできた事が最大の要因であると私は思う。 釣りには「一に場所、二に場所、三に腕」という言葉がある。しかし私の持論では「一に場所、二に場所、三に場所、四に場所、五でやっと腕!」―――である。勿論その日のコンディションその他があると言うだろうが、私が言っているのはもっと広義の事である。どれほどの釣り名人であろうと、駐車場の水溜りで魚は釣れまい! (中国の古典じゃたらいの中から魚釣りをする話があるそうだが。しかも三国志の曹操猛徳が自ら鱸をなますに造るのだ) こんな日は…まことに遺憾ながらこの先ないだろうと断言できる(いや、したくないけど)。これからのシーズン…夏が終わり、涼しい風が吹く秋には、エキサイティングなターゲット、回遊魚が姿を現す。そうなったら、たとえ平日であっても居島新提先端部を取れるかどうか…。八丈島遠征タックルをそのまま使用できる釣り場など、私の守備範囲ではここくらいしか知らない。しかし夜を徹して…船着場に寝袋を並べてまで場所取りをする根性を私は持ち合わせていないのだ。満足できる獲物が釣れれば場所を譲ってしまう私が、そんな連中と渡り合う事などできないのは自明の理だ。 夜を徹するといえば、かつてこんな事があった。 私と我が親父殿、そして我が隊長殿HIRO殿の三人で、茨城県鹿島港へと遠征した時の事である。 夜に出発し、「貞子」とか「リング」とか、なにやら不穏な単語を連発する深夜放送を聞きながら真っ暗な東関東自動車道(羽田空港があるため街灯がないのだ)をまっしぐら、丑三つ時に鹿島港に辿り着いた我々が目にしたものは…。 「…なんじゃこりゃあ!?」 三浦半島辺りで釣りをする者には驚天動地の光景。釣り人の車、車、車…。岸壁に所狭しと駐車している車の数よ。そして波間に漂うケミカルライトの数よ! それを見た瞬間、我々は一瞬で釣りをやる気が失せた。 しかし、それでもどこかで竿を出せないかと右往左往する我々の前には、更なる衝撃の光景が次々に出現したのである。 ――岸壁に鳴り響く発電機の爆音と、道路工事でもするかのような強力なライトで照らされる海面。 ―― 一〇トン級トラックを改造して宿泊設備を整え、システムスタンドテーブルで酒を飲みながら竿を出す釣り師たち。 ――深夜二時過ぎに、柵もない堤防の縁を、ライフジャケットすら付けずに走り回る子供(それも小学校低学年と見た)! ―― 一メートル以上の段差もものともせず、低くなっている堤防に置かれた乳母車で眠る赤ん坊! ――ここの連中は、一体何を考えているのだ!? 我々の常識を木っ端微塵に打ち砕く光景に、我々はただただ呆然とするばかりであった。いくら大物回遊魚も出る有名釣り場とは言え、ここまで人が集まり、ここまで我々と次元を異にする釣りが行われているとは…。 場所取りは重要だが、良い場所を独占して梃子でも動かないというのはどういうものか? せめて海の様子を見ようと岸壁の縁まで近付いたら「入るんじゃねェ!」と怒鳴られた。――まったく、何様のつもりだろう。基本的に、あらゆる堤防、岸壁は、釣りを「黙認」されているだけであって、そこはれっきとしたどこかの誰かの所有地である。そこで釣りをやらせてもらっている釣り師が、同じ釣り師に向かって頭ごなしに怒鳴る事ではあるまい。 と、まあ、本日の釣りがあまりに良いものであっただけに、屈辱の歴史が次々と思い出されてしまったのだが、やがて運ばれてきたマグロ定食が全て吹き飛ばしてくれた。 何しろ、遠洋マグロ漁船の基地として名高い三崎港である。ネタは新鮮、注文通りの大盛りご飯にまぶされたノリの香りの良い事。何しろ釣りに夢中でろくに朝飯も食べていなかったので、思わずトリップしそうになるほどであった。――釣りに行った先で魚を食うかフツー? …ええい! 黙れ黙れ! 美味いものは美味いのだ! しかもサービスで自家製のマグロの角煮と佃煮まで付けていただいた。これがまた実に美味い! KOUなどはきっちりみやげ物としてマグロの佃煮の瓶詰めを購入していた。 そして、最後の闘いが始まった。 腹の皮が突っ張ると目蓋がたるむ…が、ひと寝入りするには日差しが強くなりすぎ、周囲も騒がしい。おまけに気分も高揚しているので、我々はそのまま出発する事にした。 城ヶ島大橋を渡り、山側の道を辿って三浦海岸へ。道が混んでいる可能性もあったが、時間は一三〇〇時ちょっと過ぎである。さすがに帰宅者の群れはいないだろうと踏み、三浦海岸ルートを辿った。 海岸を見てみると、思ったより人の数は少ない、夏休み中だというのに、やはり冷夏が響いているのだろう。我々はスムーズに三浦海岸を走り抜け、高速に乗る前の準備としてコンビニに立ち寄り、眠気覚ましのコーヒーとガムを購入した。――何しろ、実質的に徹夜明けなのだ。 平日なので、空いている横浜横須賀道路を走るのは実に快適であった。何しろ走行車線を走る限り、制限速度八〇キロで走っていても、誰の迷惑にもならない。大体、私が自らハンドルを握っての時速八〇キロは未知の領域なのだ。車の性能限界よりははるか手前だろうが、別に急ぐ理由もないし、安全運転に徹する。 しかし、保土ヶ谷バイパスにいたる頃になって、なんだかKOUの様子がおかしくなり始めた。 この辺りの道にはそれなりに覚えがあるので、地図を確認する間隔が開いている。運転している私はひたすらガムを噛んでいたが、助手席のKOUは度重なる睡魔の攻撃に、遂に屈し始めたのであった。 「右〜ッ」 「おいおい、本当かよッ!?」 「いいんだよ。右〜」 「いや、だって左だろ!? ここ!?」 「ん〜?」 「ホレ! 標識はそうなってるだろ!?」 「…ああ。そうだな〜」 以上、その時交わされた言葉そのままである。 平日の昼間であろうとお構いなしに混み合う環状八号線を行く事数十分、ようやくKOUのアパート近辺に差し掛かったのだが・・・。 「トンネル抜けて〜左折〜」 「良いのか!? 本当に良いのか!?」 少し黙っているかと思うと「エンヤートット」と、地図を持ったまま舟をこいでいるKOUである。道をろくに把握していない私は再度確認するのだが、 「良いんだよ〜。トンネル抜けたら左折〜」 「・・・・・・」 どう記憶を辿っても、行きの時にトンネルを潜った覚えのない私は些か不安を覚えつつ、それでもKOUの指示通り直進した。道路の案内図を見ても、今ひとつ判りにくいことと、私にも睡魔の攻撃が襲っていたのが原因である。 トンネルを半ば頃まで過ぎたところで、突然KOUが顔を上げた。 「アァ!? トンネル抜けちゃまずいんだっけ!?」 俺に聞くな、俺に。 頭を一つ振り、脳の活動を再開させるKOU。 「――やっぱりだ。トンネルの手前で左折だッ」 「…今更言うなよ」 ほとほと、脱力した私であった。 とりあえず、トンネルを出たところで左折し、新たなルートを模索するKOUであったが、やはり脳の活動が完全でないため、「右だ。――いや左だ!」と、な事を言いまくる。恐らく、後でこの事を言っても、本人に記憶はあるまい。結局、路地を散々迷った挙句、辛うじて環八に戻り、トンネルを抜け直した我々であった。 様々な紆余曲折を経て、遂にKOUのアパートに辿り着き、獲物を分配する我々。明日、KOUは実家に出かけるのでサバのでかい奴を四尾持たせた。明日は彼も鼻高々であろう。 さて、KOUを下ろし、車中に一人となった私は、ガムを噛み、コーヒーを飲みつつ家路を辿り始めた。ここから先は一直線なので、地図に頼る必要はない。見慣れた道を辿るのみだ。 その内、妙な感覚が私を襲った。 「……?」 周囲の状況に対して、身体が勝手に動いているのである。信号が変わり、前方の車が止まるとブレーキを掛け、走り始めるとアクセルを踏む。勿論、車の運転とはそういうものなのだが、何かがおかしい。まるで身体が、車の一部と化し、意識だけが宙に浮いているような感覚である。 「――いかんいかん!」 これは良くない兆候だ。意識的な思考ではなく、本能で感じた。私はコーヒーをがぶ飲みし、ガムを噛んだ。その瞬間、少なくともガムの味が消える頃までは意識が持続する。 だが、ガムの味が絶える頃、再び意識が宙に浮いたような感覚! やばい…! やばすぎる…! 後に聞いたところによると、これは居眠り運転の一歩手前の状態だという。私自身、恐らくそうだろうと思ったので、必死に眠気を振り払うように、窓を開け、ラジオのボリュームを上げ、ガムを二枚まとめて口の中に放り込み、コーヒーをがぶ飲みする。残り――あと三キロ。 ――あと、五〇メートル…! そんな名台詞を残して殉職したボン刑事の最後が目の前にちらつく。ええい! 幻覚を見るな! ――続いて、なんたらかんたらのソナタ… 通常時に聞けばアルファー波が出そうな、クラッシックのスローテンポな曲がラジオから流れる。思わず意識がほわ〜っと跳びかけ――ええい! 却下だ却下! 自宅まですぐそこの、路地の入り口が見えた時には、私の頭は飽和状態に陥っていた。 一時停止…一時停止…左折…よっしゃ! 自宅前! 最後の締め、車庫入れに残る気力を集中! ――問題なし! 「帰ったぞ〜ッ。釣れたぞ〜ッ」 獲物を氷とともに洗面器にあけ、自慢タラタラ一席ぶち、竿とリールその他を真水でゆすいで陰干しに。そして水分を補給しようと冷蔵庫を開けた時、そこに「ビントロ」の刺身が鎮座ましましているのを見た時、私の気力は費えた。 よろよろと布団の元に行き、倒れ込む私。釣りと運転による心地良い疲労…なんて事はまったくなく、私はひたすら爆睡モードに突入したのであった。 その日、我が家の食卓には、その日に釣れたばかりの真鯛の刺身と、サバの塩焼きが登った。 釣り上げた魚は、ちゃんと食べる。私は今ひとつ魚の食べ方がうまくないのだが、今日の獲物は見事に平らげた。(アルバムを参照していただきたい) ――かくして、一年三ヶ月ぶりの釣りは、大成功の内に幕を下ろしたのである。 ――わっはっは!(勝利の雄叫び) おしまい 目次に戻る コンテンツに戻る |