
第壱拾四話外伝 ホットタブ・パーティ
「…ふう…」
現時点における最大奥技【秘拳・鳳凰】を連発し過ぎた影響か、身体のあちこちが痛むが、龍麻は一人で占有するには広すぎる露天風呂に身を沈めた。
宿に戻ってからマリアと一悶着あったものの、豹馬たちの担任である宇津木講師の計らいでエスケープは不問になった。豹馬たちは別館に戻り、龍麻たちもそれぞれ自分達の部屋に戻った。そして龍麻は当初の予定通り、一人で深夜の露天風呂を堪能しているのである。
既に深夜なので、ホテル中の照明が必要最低限のレベルまで消灯されている。当然露天風呂も、いくつかの石灯篭に光が点っているのみだ。当然、たったそれだけでは山深い闇を追い払うには足りない。その代わり頭上を振り仰げば、満天の星と見事な月が浮かんでいるのが見える。ある意味、彼が一番贅沢をしているとも言えた。
それにしても、と龍麻は乳白色の湯を弄びながら先ほどの戦いを思い返してみる。
【仲間だからこそ、家族だからこそ、自分の手で殺してやるのも情と言うものさ】
あの響豹馬――ザ・パンサーの言葉がやはり引っかかる。あれは確かに彼の本心であったろう。【使徒】は互いに戦い、喰らい合う事こそ宿命――戦いは歓喜、死ですら彼らの前では喜びであるという。
しかし、ただそれだけであのような敵と戦えるものだろうか。全力を出す為に己を蝕み、自らも滅びかけながら、先に滅び行く者への羨望、生き残る事への恐怖。孤独への恐れ…。あらゆる場面で【人】と異なる思考。まるで――全力で死にたがっているかのようだった。相手が伯爵でなければ、あのような形で納まる事はなかったであろう。
そして彼の仲間達。風見拳士郎は【あいつを殺せなかった】と言った。【あいつ】とは豹馬の事だ。心底仲の良い親友であると解るのに、彼は同時に豹馬を付け狙っているのだ。そしてあの如月舞。彼女は、朴念仁の龍麻をして、豹馬を愛しているのが解る。それなのに――彼女こそが、豹馬を殺す最先鋒であるという。現に彼女は豹馬がプレラーティに取り込まれた際、本気で彼を殺しにかかっていた。
龍麻は豹馬の行為を、自分と照らし合わせてみる。
鬼道衆との最終決戦の折り――暴走する【鬼】と化した九角を倒すため、龍麻はV−MAXを起動しようとした。彼自身にも良く判っていない【力】ではあったが、あの時は全員が生き残るために、それしかないと思ったのだ。そして龍麻はあの時告げたように、【死ぬつもり】でV−MAXを起動しようとしたのではない。
だが、豹馬は違った。あの【変身】が己の生命を削り仲間をも危険に晒すものだと承知の上でそれを実行したのである。しかも――如月舞の抹殺宣言にこそ、安心して。
やはり、龍麻には彼らの心境が理解できない。いや、解らなくもないが、やはり命を無為に捨てるような真似をするなと言いたくなる。昔の自分――政府や軍上層部の望んだ形でのレッドキャップスを見ているような気がするのだ。
自分はレッドキャップス――対テロ部隊の一員だ。テロリストと戦うのは当然であり、命を賭してもテロに屈する事はない。その戦いで果てるのも【仕事】の内だ。そこまでは、どこの国の軍隊も同じだ。
だが彼の戦いは違う。義務や責任云々を語るまでもなく、彼の敗北は人類の危機に直結する。彼はそれを認識しながら、しかし人類の未来も、仲間の心情も知った事ではないかのようだ。それは舞を始め、彼の仲間たちも同じだ。【仕事】と称していても、使命感や義務感に駆られている様子はなかった。
「…それとも、彼の強さはそこにあるのか…」
龍麻は口に出して言ってみる。自分以外の存在などどうなっても構わないという、信じられないほどの傲慢さ。【最弱】であればこそ、自分以上の力の存在を【餌】と言い切る度し難いエゴイズム。死を恐れぬが故に――否、死を望むが故に強大な敵にも平気で立ち向かい、身をすり減らしながらも敵の喉笛を食いちぎるまで戦いをやめない悪鬼…。――【最弱】でありながら無敵と呼ばれる男には、そんなものこそ必要なのかも知れない。
満天の星空を眺めながらそんな物思いにふけっていた龍麻は、ふと、脱衣所の方から何者かが近付いてくる気配を感じた。
人とも魔物とも…双方が入り混じるこの気配は、【彼】だ。
「先客ありか」
果たして、姿を現したのはかのザ・パンサー、響豹馬であった。薄い笑みが、彼が【普通】である事を示している
「貸し切り気分のところを悪いけど、邪魔するよ」
「独り占めするには広すぎる」
こちらも自然に笑みを返しつつ、しかし龍麻は僅かに緊張した。
湯に沈む豹馬の肉体に視線を走らせる龍麻。――別に妙な気を起こした訳ではない。龍麻の眼が吸い付けられたのは、ひとえに彼の全身に刻まれた傷跡の凄まじさ故であった。
龍麻とて戦場を駆けて来た身だ。水泳の授業を免除され、今こうして深夜の露天風呂に一人で浸かっているのも、全身に刻まれた戦争の傷跡を知られぬ為だ。弾痕、ナイフ傷、そして最近刻まれた刀傷もある。
そして、その名のごとく猫科の猛獣のような発達を遂げている豹馬の肉体にも、おびただしい異形との戦争の傷跡が刻まれていたのである。中でも目を引くのは、左鎖骨から右脇腹にかけて走る、クレーンのフックででも引き裂いたかのような傷。普通ならば、それほど巨大な傷を付けられれば即死している筈だ。そして左脇腹の、大きく爆ぜたような傷跡。それは胴を貫いて背中に抜けていた。厳密には、背中から何かが入って脇腹に抜けた傷だった。後は大小取り混ぜて、どんな獣とも解らぬものの爪や牙による裂傷に創傷――いくつあるのか数える気にもならないほどの傷跡が彼の肉体には刻まれていた。
この男はこれまでどんな戦場を渡り歩いてきたのだろう? 龍麻たちレッドキャップスは、彼の所属していた【ドラグーン】を手本として構成されたと聞いている。そして実際、龍麻たちは一般のテロリストのみならず、ダゴン秘密教団やネオナチなどの宗教的カルト集団、あるいは常識では考えられない異形との戦闘に関わってきた。しかし、これほど強い男にこんな傷を付けられる相手など、今夜の一件がなければ龍麻にも想像できなかった。
しかし豹馬は別の事に関心を示した。
「君も、刺青をしているのか」
はっとして左腕を見る龍麻。他人に決して侵されてはならない、彼の誇り、仲間達との絆、そして彼の、もっとも大きな傷。
だが龍麻は、豹馬にも同じ位置に刺青がある事に気付いた。レッドドラゴンに跨る白銀の騎士の紋章。竜騎兵の紋章だ。既に失われた、世界最強の部隊の紋章…。
「…一つ聞きたいのだが、よろしいか?」
「…何だ?」
「…貴殿はなぜ戦っているのだろうか?」
す、と豹馬が目を開いた。底知れぬブルーの瞳が龍麻の姿を映す。龍麻は、まるでそこに吸い込まれるような感覚を味わった。
「…死にたくない。――それだけでは理由にならないかな?」
「自分が戦う理由も、究極的にはそうかも知れん。しかし…貴殿の戦い方は、失礼ながら、戦いを楽しみつつも、死に場所を求めているようにも見受けられる」
「…そうだとして、何か問題かな?」
別段、口調に変化はない。しかし龍麻は湯の温度が下がるのを感じた。
「自分も世界各国で戦い、それなりに多くの死を見続けてきたつもりだ。何も感じぬマシンとして。敵が倒れても、仲間が倒れても、それは一つの戦闘要素が消えただけ――それは自分の死に対しても同じだった。だが、今の自分は死ねない。たとえこの先どんな戦いが待ち構えていようとも、自分は逃げない。そして、諦めない。これは自分で始めた戦争だ。自分が緋勇龍麻という人間である事を肯定する闘いだ。自分自身のために、俺を人間としてくれた仲間の為に、自分は死ねない。また、仲間達の誰も、死なせない。たとえ今夜限りでも、貴殿は自分と共に戦った【仲間】だ。【俺】は【仲間】に、死に場所を求めて戦って欲しくはない。――底の浅い理想論ではあるだろうが、それが俺の目標であり、行動指針だ」
「……」
しばらく、静寂が辺りを支配した。
秋の宵に鳴く虫の声や、湯口からたぎり落ちる水音が、やけに大きく聞こえる。そこにかすかな笑い声が重なったのは、数分後の事であった。
「ククク…クハハハハ…はっはっはっはっはっ!」
「……」
やはり、笑うか。しかし、腹は立たない。龍麻自身はおかしな事を言ったつもりはないが、他者から見れば甘い考えであるとも解っているのだ。
「ククク…今時、そんな事を真顔で言える男がいるとは思わなかった。全くたいしたヒーローぶりだ」
「俺はヒーローなどでは――」
龍麻の言は、豹馬が差し出した手によって止められた。
「口に出さないだけで、俺だって同じさ。そして俺は一度たりとも、死を求めて戦った事などないよ。舞たちにもよく誤解されるが、俺は死ぬつもりなんかないし、むしろ臆病な方さ。俺の戦い方がそのように見えるとしたら、それは君が意識しないどこかで、君自身が死を求めているからじゃないかな」
「!!」
「勘違いは良くないな、緋勇龍麻。いや、レッドキャップス・ナンバー9。君はまだ、極めて人間に近い機械に過ぎん。いくつかの戦いを経て人間を取り戻したようなつもりでいるらしいが、まだまだだな。――戦いから逃げない? 仲間の為? 自分自身の為? 格好良い、一度は言ってみたい台詞だけど、それは子供向け番組のヒーローの台詞だよ」
「…どういう事だ?」
豹馬はふっと鼻先で笑った。しかし、馬鹿にしての笑いではない。何か、不思議な笑みであった。
「人間って不思議な生き物さ。自分の感情のままに行動する事を自ら理性で押さえ、それが美徳だという。正義を唱え殺しを否定しながら、【自分の正義】に反するものは容赦なく殺す。孤独が嫌いな癖に、他人と寄り添えば傷付け合う。平和であればこそ血と暴力を求め、自ら始めた闘争で相手を憎む。見れば見るほど、解らん生き物だ」
「……」
「だが、君はそうじゃない。人を憎む事を知らず、哀しむ事を知らず、常に自分をコントロールしてのける。――それは君が、まだ機械である証拠だ。人間になりきってはいない」
彼はまるで、自分も人間ではないかのような言い方をする。それだけに彼の言葉は風刃のごとく、龍麻に鋭く切り込んできた。
「今の問いは、君にこそ聞きたいな。君はなぜ戦っている?」
「自分か? 自分は――」
豹馬は光る目で龍麻を見つめている。人間のものとは異なる、しかし恐ろしく澄み切った目で。その目で見られているだけで、何もかも見透かされてしまうかのような感覚。
そして龍麻は戦慄した。判っていた筈の答えが口から出てこない事に。
「――戦う理由を、君は持っていまい」
豹馬は冷然と告げた。
「さっきの戦い方を見ても判る。俺が撤退を勧めた時、君は帰らず、そのまま戦闘に介入した。結果的に【俺】は君と君の仲間たちの存在があってこその勝利を得た訳だが、死なせたくない仲間の命を危険に晒したのは誰だ?」
「――ッッ!」
「仲間に対する指揮もそうだ。明らかに自分達には不慣れな敵でありながら、君は最初に指示を出した後、仲間たちの自由裁量に任せた。それはなぜか――信頼しているからなんて戯言は聞かん。君自身は、レッドキャップス・ナンバー9は、仲間たちを疎ましく思っている」
「俺は断じて…!」
「そうは見えないな。どんなに否定しようとも、君はマシンソルジャーだ。絶対的なリーダーの下で働く、忠実な手足だ。君はそこで、完璧な統率と連携の中で動いていた。レッドキャップスの最強伝説は伊達じゃない」
「……」
「しかし今、君が指揮する仲間は、自由意志を持つ、兵士ですらない一個人だ。確かに軍隊としての体裁を整えて、それなりに戦場の悲惨さを知り、避け得ない宿業を背負う覚悟もあるようだが、根底にある精神は軍人とは大きく異なる。言い方は悪いが、素人の軍隊ごっこだよ。戦闘力はかなり高いしこれからも伸びていくだろうが、君との間には一枚の壁があるんだ。【俺達】がとうの昔に乗り越え、しかし【人間】には容易に越えさせてはいけない壁だ。この壁を越えさせていない限り、彼らは機械でも兵士でもない、ただの【人間】だよ。――連係プレーは見事だったが、君がサポートするパターンはなかった。違うかい?」
「……!」
龍麻は反論できない。豹馬の言っている事は、軍隊における一般常識だ。指揮官たるものは、部下の動向全てを把握し、【支配】せねばならない。先駆け抜け駆けは勇者の誉れとも言うが、指揮官はそれを許してはならず、また、それを為すためには、同じ戦場に立つ事はあっても、先頭を切る事は許されないのだ。手足となって動く兵士が死ぬことがあっても、指揮官は死んではならない。一兵卒が守るのは自らの任務と命だけだが、指揮官が守るものは自らの任務と、自らの指揮する全ての兵士たちの命を守る、自分の命であるが故だ。
龍麻の脳裏に、これまでの戦いが去来する。
渋谷の事件、墨田の事件、小蒔が拉致された時はどうだった? 自らが死蝋に囚われた時は? 水岐の時は、自ら望んで戦いに行かなかったか? 【人】を殺させたくないという言葉を理由に、仲間たちに「帰れ」と告げた。あれは、仲間たちを【信頼】していなかったからではないのか? 【盲目のもの】との戦いはどうだ? 武装は対風角用のものであっても、真に恐るべきは【盲目のもの】であった筈だ。あの場面では、自分は絶対に仲間の下を離れてはならなかった。たとえ彼らだけで倒せると判っていても、それは自分の目の届く場所で行われなければならなかったのだ。それなのに自分は、風角を倒すために自らフォーメーションを崩した。全員の命を守るべき指揮官が、勝手に部隊から離れたのだ。
そして、醍醐が失踪した時も――小蒔をたった一人で醍醐の下にやった。敵の待ち伏せが当然予想されるというのに――
ローゼンクロイツでもそうだった。あの時、自らの正体を明かす必要などなかった。かつて訓練された通り、迅速に、確実に、反撃すら許さずジルを始末すれば良かった。それをわざわざ正体を明かし、銃器で武装した兵士を招き入れ、仲間たちを危険に晒した。
自分は、彼らを信頼しているつもりでいただけなのか!?
鬼道衆との――九角との最終決戦でも、自分は一人暴走した。【変生】した鬼道五人衆が出現しているのを知りながら、九角一人に挑みかかっていった自分。あの時の自分は、戦いを欲していた。自分の存在を肯定できる戦いを。戦いの中にしか居場所がない、ナンバー9を肯定する戦いを――
【それが、殺戮機械の限界だ。全てがまやかし。見せ掛けの人間だ】
ナンバー0…九角天童は知っていたのか。自分がナンバー9であり続けていることに。どれほど人間らしく振舞い、仲間の信頼を得ていても、究極的な場面では、仲間たちでさえ裏切る殺戮機械としてのプログラムが生きている事を。そして自分は、その言葉を否定できない。あの時、【鬼】と化した九角を倒すために自分はV―MAX…自分にさえ未知の能力を発動させようとした。殺戮機械としての最終目的【敵の完全殲滅】を実現するために、仲間たちの危険さえ顧みず、V−MAXを発動させようとしたのだ。【自分】の命が、自分一人の命ではないと認識したばかりなのに…!
「俺は…緋勇龍麻…。レッドキャップス…ナンバー9…」
言葉に出して言ってみる龍麻。だが言葉は、それ以上のものにはならなかった。酷く曖昧で、頼りない。まるでここにある自分が、自分でないような感覚。酷く…恐ろしい。
「…君の中にある人間部分は確実に成長している。既にナンバー9としてのプログラムに拮抗し得るほどに。しかしその事が君の精神に負担を与えている。君自身は意識していないだろうけど、ナンバー9としての能力――例えばプロファイリング等を行った時、君は必ず下らない冗談などを飛ばして精神的均衡を保とうとする。ナンバー9としての君が人間的感情をエラーと判断し、人間部分を否定しようとするのに対抗する為だ。人間社会への潜入プログラムから派生した君の人間部分は、管理プログラムであるナンバー9を恐れ、疎んじている。しかし互いが存在しなければ、現在の緋勇龍麻はありえず、互いを否定しつつも肯定せねばならないというジレンマを抱えている。一種の分裂症と言っても過言じゃないね。――ただの人間ならば【変わった奴】で済むが、兵士としては致命的な欠点だ。まして指揮官が勝手に英雄的行動を取るなど、本来は言語道断な事だ。冷徹なナンバー9の立てた作戦に、君の人間部分が介入する事によって作戦そのものが意味を為さなくなったら、君の仲間は尽く死に至るぞ」
他の者がこれを言ったならば、そして他の者がこれを聞けば、あるいは怒り心頭に達する言葉であったろう。豹馬は龍麻の戦い方を、【仲間を死に追いやる】と言っているのだ。しかし龍麻は元マシンソルジャーであり、豹馬は現役の妖魔ハンター【ストライダー】であった。共に世間的な人との触れ合いを知らず、血臭と硝煙を呼吸してきた戦闘士だ。そんな彼らの所属する世界では、豹馬の言葉が絶対的に正しいのである。
「俺は、ここにいるべきではないのか?」
「それは、君自身が決める事だよ。――だが、俺が思うに、人間の心を持つ機械と、機械の心を持つ人間は違う」
「?」
豹馬はすっと目を閉じた。そして湯の中に深く身を沈める。
「自らの意思があるものには、己が何者であるかなんて大した意味を持たないって事さ。――君自身がどう考えているにせよ、君は仲間達に信頼されている。後は君がその信頼にどう応えるかだよ。冷徹にパーツ扱いして生き残らせるか、【人間】らしい仲良しこよしに扱って死なせるか」
「…俺には解らない…」
「…すぐに答えが出るようなものでもないよ。だがこれからも戦い続けようと思うのならば、早めに答えを出さねばならんさ。もっとも、正解のない問題かも知れないけどね」
静かに目を閉じている豹馬を見ながら、龍麻はじっと考え込む。戦う理由…。ナンバー9としてならば、【テロリストを倒す】――これに尽きる。レッドキャップスはその為に作られた部隊だからだ。だが、人間・緋勇龍麻として、戦う理由は――
「…俺が戦う理由は、単に死にたくないからだ」
ややあって、豹馬が口を開いた。
「言葉にすればそうなる。――君も見た筈だ。俺は、そもそも人間ですらない。物心ついた頃から、俺はああいう連中と暮らしていた。俺の住んでいた山を襲ってくる、ああいう連中を殺して食っていた。たとえ今、不死身しか能のない最弱の【使徒】であっても、やる事自体は変わっていない。したがって、今夜のような事は日常茶飯事だ。――俺には、人間のような小難しい理屈をこねたスローガンは必要ないんだ。奴らを食わなきゃ俺の身体は二週間で腐り始め、蠢く汚物に成ってしまう。自己意識も維持できなくなり、原始本能の赴くままに生物非生物を問わず吸収と融合を繰り返す、奴らそのものと成り果てる。そんな姿のまま宇宙が滅びるまで生き続けるなんて御免だからね。戦うしかないのさ」
恐らく、彼の言う通りなのだろう。彼が【変身】する直前、舞が言った【あなたを殺す】の意味。それは不死身であるが故の悲哀、死ねるチャンスがあるならば、その時にこそ殺して欲しいという願いだ。【使徒】の肉体に【人間】の精神。【非有限生命体】である肉体に、【有限生命体】である人の心。【全てを救え】――それが彼の宿命だとジル・ド・レエは評していたが、それはあまりにも過酷な道だ。人の心を持つならば、逃げ出したくなるのも無理はない。龍麻ですら、その過酷さを思えば肌が粟立つ。そのような道行を成せるのは、それこそ神や仏の領域に達したものだけだ。
いや――そうではない。決して、それだけではない筈だ。龍麻はその考えを否定した。
如月舞を始め、彼の仲間達が彼に寄せる信頼は本物だ。そして彼も、仲間達に全幅の信頼を置いている。自分が魔物と化す事を恐れぬのもその為だ。仲間達がいるからこそ、彼は平気で全開戦闘に臨める。それは決して、自らの生命維持の為だけではない筈だ。人としては生きられない? あれほど仲間の信頼を得ている彼は、自分より人間的に見える。
「それでは、貴殿にとって仲間とはなんなのだ?」
仲間…共に戦うもの。一緒にいて、居心地が良いもの。助け合い、支えあうもの。龍麻とて、それは解る。だからこそ、龍麻は人間らしい心を取り戻したのだ。それが仲間を殺す元になると言う豹馬にとって、仲間とはどのような存在なのか?
「……」
応えはない。見れば豹馬は、顔まで湯の中に沈んでいくところであった。
「――豹馬!?」
慌てて駆け寄り、豹馬を引っ張り上げる。その途端、龍麻の全身を異様な脱力感が襲った。彼に触れたところから体力、気力が抜け…いや、奪われて行く。
「むう…!」
龍麻は丹田に意識を集中し、己の【気】を高める。そして圧力を増した【気】を体内に向けることで、体力の流出をガードする。
恐らく、まだ【変身】の悪影響が残っているのだ。湯の温度が妙に下がったような気がしたのも、決して錯覚ではなかった。ありとあらゆるエネルギーを【無】へと誘う【闇】の存在。無貌なるもの――ナイアーラトテップ。それは彼にとっても恐ろしく危険な、諸刃の剣であった。
「…過酷な運命もあったものだ」
拳士郎の悲痛な言葉が、ひしひしと実感を持って迫ってくる。確かに、彼に対して【人間】がしてやれる事など限りなくゼロに近い。心の支え――そう言えば聞こえは良いが、果たして…どうあっても先に死んでしまう人間が、触れ合う事すら許されぬ人間が、彼の心の支えになり切れるのか。楽しい時間を共有すればするほど、避けえぬ別れが辛くなりはしないだろうか。
「それでも…何もせずにいられるものか」
龍麻は【気】のガードをやめた。たちまち彼に触れている手が黒ずみ始めるが、龍麻は【秘拳・鳳凰】を撃つ要領…天地の【気】を取り込んで己の力に還元し、【気】を吸われるに任せた。目に見えるオーラの放射と共に彼の手が元の色を取り戻し、しかし豹馬もまた、際限なく【気】を吸収していく。生命の根源とも言える【気】を生むものと、【気】をいたずらに浪費し続ける宿命を背負ったもの――奪うものと与えるものとの、これも戦いであった。
「――豹馬君、いるの?」
急激に高まった【気】に気付いたものか、少し慌てた、金鈴を震わせるような声音。如月舞だ。
「こっちだ、如月殿」
豹馬の異常をなんとかできるのは彼女だけだ。龍麻は彼女を呼んだ。
「え――緋勇さん!?」
「ッッ!?」
ひょい、と岩陰から顔を出したのは、紛れもなく如月舞であった。しかしその格好ときたら…温泉なのだから当然と言えば当然なのだが、裸身にバスタオルを巻きつけただけだったのである。こんな場合ではあるが、例の【覗き】の一件を思い出し、龍麻は顔色をなくして【気】を乱れさせてしまい、急激な脱力感に襲われて膝から崩れた。――いかにも彼らしい反応である。
「ごめんなさい。――大丈夫ですか?」
しかし舞は躊躇なく湯船に入ってきて、豹馬の腕を取った。「大丈夫ですか?」は龍麻に向けてかけられたものである。
「自分は問題ない」
なぜかこの少女を前にすると、豹馬に対するものとは違う意味で緊張してしまう龍麻。理由は判らない。
「良かった…。本当にお強いんですね」
「いや…そんな事はない。今も響殿にアドバイスを頂いていたのだ」
「豹馬君が!?」
大きな眼をぱちくりさせる舞。
「珍しいですね。…あの、どのような事を言われたんですか? あ、別に無理に聞きたい訳じゃありません」
物静かながら、思慮深さと知性を感じさせる声音と、澄んだ黒瞳。迷いや悩み、苦しみや哀しみを映してきたと思しき、しかし美しく澄み切ったその瞳に、龍麻の口は自然に動いていた。
「自分の戦い方は、仲間を危険に晒すと言われたのだ。――情けない事に、指摘されて初めて気付いた。確かに…その通りだ」
「そんな事を言われたんですか!? ――もう…豹馬君たら…!」
しかし当の豹馬は意識を失っている。彼女一人で連れて行くのは無理のようだ。
「必要ならば手を貸すが…」
「大丈夫です。少し休めば回復できますから。――お邪魔でなければご一緒してもよろしいですか?」
「じ、自分は問題ないが…如月殿は…その…構わんのか?」
それが彼女の驚きの表現なのだろう。舞は再び目をぱちくりさせた。
「や、やだ…私ったら…。豹馬君はそういうコト気にしない人ですから、つい…。――緋勇さんは気になさいますよね」
「いや、自分も気にした事はなかったが、一般常識をわきまえるように努力しているのでな。如月殿が望むなら、自分は先に出るが…」
先程の豹馬の言葉に衝撃を受けていたせいもあるかも知れないが、龍麻がこれほど他人を気にする事、ましてどもる事がどれほど珍しいか、舞には解らなかったようだ。
「ま、まあ、そうですよね。でもここは一応混浴ですし、タオルも持っていますから、どうか気になさらないで下さい。緋勇さんも、この時間でなければここに入れないでしょうし…」
「う、うむ。了解した」
舞と同じくやや顔を赤くして(龍麻には奇跡である)、再び身体を湯に沈める龍麻。舞も豹馬を支えながら、自分も湯に身を浸す。この状態の豹馬に触れるのは彼女だけだという事らしいから、必要ならば風呂でも共にいなければならないのだろう。幸い龍麻には、二人のそんな関係を邪推するような下卑た根性の持ち合わせはなかった。
意識を失っている豹馬を除き、二人ともしばらく沈黙の時を過ごしたが、やがて舞が口を開いた。
「…豹馬君に言われた事、あまり気になさらないで下さいね」
「…いや、響殿の言う通りだ。自分は仲間を信頼していると思い込んでいただけで、心のどこかで彼らを所詮素人と侮っていたのかも知れん」
やや固い口調の龍麻に、舞はくすっと笑って見せた。
「凄く生真面目なんですね。――緋勇さんのことは風見君から色々と聞きました。レッドキャップスの事も、ここ数ヶ月の出来事の事も」
ピク、と頬が跳ねる龍麻。舞は穏やかな微笑を崩さない。
「この周囲には結界を張りましたから、盗み聞きされる事はないですよ。――怒らないで聞いてくださいね。――私も、豹馬君の言う通りだと思います。ただし、理由は多分、豹馬君の考えとは違いますけど」
「……」
「緋勇さんはとても強い方です。相手の戦力を冷静に分析し、弱点を探り出します。極めて冷徹に。でも今日の緋勇さんの戦い方を見て、私は緋勇さんが、いざとなったら自分の命を省みない人に見えました」
「いや、自分は…」
「そういうのって、自分ではなかなか気付かないものですよ。緋勇さんはマシンソルジャーとして育てられた期間が長いために、はっきり言って精神的に未熟なんです。もし緋勇さんが心のままに何か行動を起こそうとすれば、それは幼い子供と同じになるでしょう。純粋であるが故の残酷さを秘めた、強大な力を振るう子供です。ですが緋勇さんの場合、その未熟な感情をナンバー9がコントロールする事で、並みの大人以上の冷静さと判断力を得ているんです」
「…うむ…以前にも指摘された事だ。やはり、未熟だろうか…?」
神妙に自問する龍麻に、舞は再びくすっと笑いを洩らす。
「本当に生真面目なんですね。普通の人だったらこんな事を言われたらまず怒りますよ」
「いや…如月殿の意見は正しい。自分はいまだに、人の心というものがよく判らぬ機械なのかも知れん」
「一口に心と言っても、実は誰にも解らない事だと思いますよ。世の中には偉そうな事を言う人が一杯いますけど、果たして本心からものを言える人、そのような言葉を聞いてあげられる人がどれだけいるでしょうか? ――緋勇さんは凄い人ですよ。人の話をちゃんと聞いて、自分を省みる事ができます。人を思いやる心も持っています。そもそも未熟という言葉を使ったのがいけませんね。生きていく上でどうしても染まってしまう穢れを持たない、純粋さとでも言いましょうか。緋勇さんは、機械なんかじゃありませんよ」
「しかし、自分の中にいるナンバー9は、時に暴走する。仲間の命を気にかけることなく、ただ敵を殲滅するためだけに戦う。敵を殺すために手段を選ぶ事もない。自分はそれが…恐ろしい」
少しどもった龍麻を、舞は小首を傾げて見やった。澄んだ目が、自問の姿勢を保ったままの龍麻を映す。
「…それは多分、ナンバー9を恐れている訳ではありませんよ」
「?」
「そうですね…緋勇さんは、ご自分の事は好きですか?」
「…意味がよく判らんのだが?」
「ごめんなさい。私もどう言ったらいいのか…。つまり、ナンバー9と、今の緋勇さんと、どちらが好きですか?」
「……」
龍麻は沈黙した。舞の質問の意味がまるで理解できなかったのだ。
レッドキャップス・ナンバー9。緋勇龍麻という男の正体。あるいは、緋勇龍麻という男に擬態している殺戮妖精。戦いの中で生まれ、戦いの中に生きる戦闘マシン…。
「言い方を変えます。――私は、豹馬君に出会うまで…いいえ、弥生たちに出会うまで、自分が嫌で嫌でたまらなかった時期があるんです」
「…それは…なぜ?」
舞は手を上げ、風呂に入っているにも関わらず填めているヘアバンドに触れた。
「さっき、ご覧になりましたよね? 私のこれは、私自身でもコントロールすることのできない【力】を押さえる為の、いわば能力制御装置なんです。私の家系は少し変わっていまして、身体能力の基礎レベルが常人より高く、鋭い感応力があって、他人の思考を読み取ることができるんです。この能力を使って江戸時代には公儀隠密として活躍し、幕府がなくなってからは世界を股にかけたトレジャーハンターになったそうです。それは、私の祖父の代まで続きました。正確には、その能力は男性にのみ受け継がれ、子が女性のみであった祖父母が、自分の代を限りとすると定めたのです」
かつて【仲間】から聞いた話との一致ぶりに、龍麻は少し驚いたが、彼女の話に水を差す事はなかった。【仲間】〜如月翡翠の話では、当時の当主が幕府を裏切り、あろう事か【鬼道衆】の一員となったとの事であったからだ。しかし同時に、現在では両家に確執はないとも聞いている。――当然だ。一世紀以上前の出来事で現代を生きる者を責めるなど愚の骨頂だ。
「すると如月殿は…隔世遺伝を?」
「はい。入り婿として迎えられた父は異能者と呼ばれるような力は持っていませんでしたが、私と弟にその能力が発現したのです。しかし今まで女性には発現しなかったのと、祖父母が弟の修行にかかりきりになった為に、私にもその能力がある事は見過ごされてしまったのです。そして私自身もその能力が特別なものと気付かずにいましたから、思慮の足りなかった私はたくさんの人を傷付けてしまいました。それで周囲から孤立して、誰とも関わらないようにしてきたんです。今でもこれがないと街を歩く事も…いいえ、学校内を歩く事さえ満足にできません。なぜだか判ります?」
「…いや」
「…人の心って、決して綺麗なものだけでできている訳じゃないんですよね。他人の考えがラジオのオープンチャンネルのように解ってしまうのって、凄く怖い事です。緋勇さんは男性でいらっしゃるから判り難いかも知れませんけど、その…今、自分を見ている人が、心の中で悪口を言ったり、自分の裸を想像しているとしたら、どう思います?」
自分を真っ直ぐに見つめる舞の目に、僅かに滲む哀しみの色。その意味は龍麻でも理解できた。
「…つまりそれは、他人が自分に対して抱くイメージが直に判ってしまうという事か」
龍麻は、他人が自分をどう見ようと、それを気にすることはない。あるものは人殺しと忌避する。あるものは殺人機械めと罵る。しかし彼は常に「それがどうした」と切り捨ててきた。自分は自分であり、他人が抱くイメージなど知ったことではない。自分を肯定するものは自分だけ――それが当然だったのだ。
しかし、舞は女性なのだ。朴念仁――豹馬に言わせればそれすらもプログラムだろうが――の龍麻にしても、舞は美しい少女であると思う。そんな彼女に対して世の男たちが抱くイメージは、龍麻でさえも想像に難くない。最初こそ「可愛い」「綺麗」で済むかも知れないが、一歩進めば、それは肉欲の対象に変わる。同性ならば、嫉妬や差別の対象となるだろう。周囲の人間たちが勝手に思い描いて作り上げる【壁】が感覚的に捉えられるというのがどれほど恐ろしい事か。出会う男全てが自分を欲望の対象として見、あるいは妄想するのが、そして同性の者が上辺では仲良くしながら、嫉妬や差別意識を燃やしているのが解ってしまうとすれば、人間不信どころの騒ぎではない。悪くすれば発狂するだろう。
かつて醍醐が言っていた。【人はどうやったら他人を傷付けずに生きていけるのだろうか。どうやったら他人を理解してやれるのだろうか】と。醍醐は親友と呼んだ男の心を理解してやれなかった事を悩んでいた。人はどれほど足掻いても、他人を理解してやる事などできないのではないか――と。
それに対して自分はどう答えたか? 【自分の事も理解しきれぬ人間が他人を100パーセント理解しようなどというのは傲慢な考えだ。他人を傷付けず生きることも不可能だ】――そう答えた。触れ合おうとすると傷付けあう――それを哲人は【ヤマアラシのジレンマ】と呼んだ。
しかし、舞の悩みとは、それらとは対極に位置するものなのだ。他人が何を望んでいるか、何を求めているか、知りたくもないのに判ってしまうという現実。そして多くの場合、真っ先に伝わってくるのは醜い人間の本音。他人を真に理解するという事は、人間の深層心理に必ず存在する、黒くどろどろとした領域にも触れねばならぬという事だ。彼女の場合、触れ合おう、理解し合おうと思う前に、他人のそれを先に知ってしまう。だから彼女は、ヤマアラシに例えるならば、先に棘を立ててしまう。それを見た他人は彼女を忌避し、遠ざける。しかしその者の見えない棘は、確実に舞を傷付けているのだ。
「自意識過剰――そう言われればそれまでです。でも、他人に見られる度に裸にされたり切り付けられたりするイメージが伝わってきてしまうんです。弥生や唯ちゃんに対してもそうです。自分一人だけなら、まだ我慢できました。だけど弥生や唯ちゃんにまでそんなイメージを抱くなんて許せなくて…。そして、そんな事が解ってしまう自分も許せなくて…随分、悩みました」
「………今は、違うのだな?」
龍麻がそう言うと、舞はにっこりと笑った。
「はい。――理解できるという事と、理解しようとする事は別なんですよね。その事を私は弥生や唯ちゃん、風見君や小早川君に教わったんです。みんな、私の秘密を暴露されても【それがどうしたの】って言ってくれました。読まれて困るような事なんか考えてないし、どんなに妄想したって、妄想は妄想なんだって。そしてそれがなくちゃ子孫繁栄だって出来ないって。特に風見君は凄くエッチですけど、裏表がないんですよね。弥生は本能と煩悩が直結してるから、なんて言いますけど、その…風見君の場合、妄想の中でも女の子に凄く優しいんですよね。そんな人もいるんだって、私、凄く安心したんです」
つまりそれは弥生たちが、心を読まれる事を恐れず、内にどろどろした感情を溜め込んでもいなかったという事か? 今時そのような人間がいるとは――と思いかけ、しかし龍麻は妙に納得してしまう。見知らぬ他人とあっさり打ち解けてしまえる圧倒的な陽性、武術への真摯な取り組み、異次元の妖魔と戦いうる強さ、そして、【魔物】と化す男を大切な【仲間】と言い切り、それを侮辱される事を許さぬ器量。他人より多く苦しんだ身であればこそ、それを優しさに変えられた稀有な存在。世の中には、そんな人間もいるのだ。自らの強さに溺れず、他人のために命を賭けられる人間が。魔物とすら打ち解けられる人間が。
「…前置きが長くなっちゃいましたね。私は、私を親友と呼んでくれる弥生たちのために、この能力を使う事を躊躇いません。むしろ皆の役に立てるという事で、そんな能力がある自分を好きになれました。ありのままの自分を見てくれる人がいてくれた事が、今の私を作ってくれたのです」
【ありのままの自分】というところで、舞がやや口調を強めたので、龍麻にも彼女が言わんとしている事が見えてきた。
「緋勇さんは、出会ったばかりの頃の豹馬君と凄く似ているんです。立場的には真逆で、豹馬君は人間世界と隔絶された秘境で育った野生児で、緋勇さんは世界を守ることが義務だと骨の髄まで教育された軍人さんでしょうけど、他人よりは確実に強くて、多くの事を自己処理できます。基本的に、他人の手助けなど不要なほどに」
「……」
「だから私たちが【奴ら】と戦う事を最初は凄く反対したんです。いざ戦う事になっても、いつでも真っ先に飛び出して行って、一人で戦おうとするんです。実際、豹馬君はそれを成し遂げるだけの力もありましたし、私たちも弱かったですし…。でも、何よりも、私たちが【殺し合い】をする事を嫌がっていたんですね。今でも【俺の獲物を取るな】なんて嘯(きますよ」
その気持ちは、龍麻にも解る。あれは…水岐と戦った時だ。あの時龍麻は【仲間】たちに【人】を殺させたくなかった。だからこそ彼らに【帰れ】と告げたのだ。それは彼らを信頼してい………ッッ!?
龍麻の困惑顔に、舞はそっと笑みを浮かべた。
「すみません。下手な説明で。でも、解っていただけたようですね」
舞はまだ眠っている豹馬の顔を振り返り、頬にかかっている髪を撫でつけた。
「【仲間】に殺し合いをさせたくないのは、信頼しているかどうかとは別問題ですよね。でも戦っていれば血を浴び続け、心を病んで、遠い将来か極めて近い未来か、いずれ【死】を迎える事もあるでしょう。豹馬君は【家族】である【ドラグーン】を【奴ら】によって失っています。自分自身も【奴ら】の奪い合いの果てに魔物として生きることを…いいえ、死ぬ事すら許されぬ身にされ、【使徒】同士で殺し合う宿命を背負わされ…もう誰の流す血も見たくないというのが、豹馬君の本音なんです。豹馬君は世界中で戦って、血と死を見過ぎて、それでもまだ見続けて、その中でしか生きられない事に耐えられなくなって、何とかそれを止めようと戦いに身を投じているんです。だから、言う事もやる事も時に酷く冷淡で、冷酷です。【使徒】にとっては殺す事こそが慈悲であり、食べられてしまう事だけが安らぎを得る唯一の手段…だから、誰もが豹馬君を誤解するんです。【あいつは戦争が好きな怪物だ】って。そして豹馬君は、もともと人類を仲間なんて思ってませんから、そんな声は聞こえません。ますます孤立し、恐れられ、蔑まれ、それでも【家族】の願い…平和のために戦い続けて、同時に…死にたがってもいる…。――私も最初、豹馬君の事をそういう人だと思っていました」
彼女の表情に憂いが流れ、しかし口調に変化がないのは、今では完全にそれを克服しているからだろう。舞は言葉を継いだ。
「でも、それだけじゃなかったんです。豹馬君は自分を【人間】ではないと思っています。だからむしろ、恐れられ、憎まれる事さえもが、自分と世界の繋がりだと感じていたんですね。魔物になりきることは、【ドラグーン】の【家族】達が望むところではない。魔物と戦い、人類を守ることが【ドラグーン】の役目。その為には、【使徒】との戦いを自分だけのものにしてはならない。【人】との繋がりを捨ててはならない。たとえ恐れられようとも、無視される事さえなければ死を求めてでも――豹馬君はそんな戦いをしてきたんです。自分には酷く厳しく、他人には酷く優しい――緋勇さん。あなたもそうではありませんか?」
「…!」
「人の事がよく見える人ほど、自分の事は解らないものですね。――豹馬君の中に【魔物】が潜むように、緋勇さんの中にも【ナンバー9】が存在しています。そして【ナンバー9】は紛れもなく緋勇さんの【力】の根幹を為しています。でも緋勇さんは【ナンバー9】を恐れていらっしゃる。だから、【ナンバー9】として弾き出した作戦を、無意識の内に否定してしまうんです。【人間】であるならば【仲間】に【信頼】を寄せるのは当たり前――確かにそうですけど、指揮を取る立場にいるならば、緋勇さんは【ナンバー9】でいることが望ましい筈です。なまじ未熟な【人間】が指揮を取るより、皆さんの生存率が高いですから」
それは、豹馬にも言われた事だ。一種の分裂症…確かにそうかも知れない。生き残る事、身を潜める事を熱望しながら、戦いを求める何かがいる。完全な【機械】ならば、そんな感情とは無縁だ。敵地で【身を潜めろ】と指令を出せば、目の前で子供が溺れ死のうが無視する筈だ。しかし今の龍麻は、そんな場面で子供を見捨てる事はない。それは恐らく、人間であれば普通に行える事だからだ。しかし同時にそれは、敵に発見され自分のみか仲間の命さえも危険に晒すリスクとなるジレンマを抱える。機械でありながら、人の心を持つ――それが緋勇龍麻だ。
「でも、勘違いなさらないで下さいね」
舞の声に、はっと我に返る龍麻。
「全てを【ナンバー9】に委ねると、緋勇さんはただ計算のみで動く機械になってしまいます。また、全てを【人間】に委ねると、緋勇さんは幼い子供と変わらなくなってしまいます。――理想的なのは、【ナンバー9】の力を受け継ぐ【人間】ではありませんか?」
豹馬の言葉で引き出された何かが、舞の言葉で繋がりかけている。九角の残した言葉――【せめて、人間らしく】。【殺戮機械の限界】。【自分の為の戦い】。【生きた証】。九角天童の目指したもの――否、真に目指したものは――
「そうか…そういう事なのか…」
胸の内に溜まっていたヘドロのような疲れを吐息と共に吐き出すかのように、龍麻は嘆息した。
「つまり…【俺】も【ナンバー9】も、等しく【俺】という存在なのだな。どれほど恐れ、否定しようとも、常に俺の中に存在し、俺の命を、仲間の命を守り続けてきたもの…。俺が恐れていたのは、結局のところ自分自身であったと…」
これを滑稽と言わずして、なんと言おう。自分は結局、戦う理由すら持たぬままに、ただプログラムによってのみ動いていたのだ。【ナンバー9】が統括する下位プログラムから派生した感情を【人間】と誤解し、戦闘プログラムからかけ離れた【趣味】を持つことによって自分を【人間】だと信じ込ませて…。
「それは違いますよ、きっと」
舞があっさりと否定したので、龍麻は我に返った。
「緋勇さんは確かに【ナンバー9】を恐れてきました。でもそれは、本当に【ナンバー9】を恐れていたのでしょうか? 戦闘知性体なんて呼び方をされていますけど、【ナンバー9】もまた、【人類】を守る為に作られた、あなたという【人間】の一部なんですよ。現に先程、伯爵を救う為に力を貸してくれたではありませんか」
「……!」
「普通の人間だって、結局は教育や環境から、【これが正しい】とされているプログラムに従って行動しているだけです。緋勇さんはテロリストと戦う事を目的にプログラムされていますが、今でも吸収するべき知識、成長する感情をお持ちです。それは多分、【ナンバー9】も同じですよ。【緋勇龍麻】として行動する中で、自分の存在意義を認識して、情報を取捨選択して、どうしても答えを出せない時、【緋勇龍麻】に頼ったりしたのではないですか? もしそうだとしたら、【ナンバー9】は既に機械ではないですよね」
心臓の鼓動が早くなる。舞が言っているのは、正に九角と戦った時の事だ。レッドキャップスとしての能力を開放してなお、九角〜ナンバー0に勝てぬと悟った時、ナンバー9は戦闘放棄した。しかしその為に【緋勇龍麻】が覚醒した時、再起動して能力を開放した後、肉体の支配権を【緋勇龍麻】に委ねたのである。そして機械ならば絶対にありえぬ言葉――【Good Luck】
「自分でも偉そうな事を言っていると解っていますけど――もっと、自分を好きになってください。【ナンバー9】も好きになってください。【ナンバー9】は恐れるものでも、克服するべきものでもありません。緋勇さんの一部であり、決して切り離してはならぬものです。その意味が判った時、緋勇さんはより強固な【自分】を知ることができます。それだって、【人】として生きる道にとってはほんの一歩に過ぎないかも知れませんし、あるいは…完全な機械的思考でなければ太刀打ちできないような、聖人のような、修羅のような自分と出会うかも知れません。それと向き合った時に緋勇さんがどのような道を選ぶか…。こればかりは他人が口出しする事じゃないですね」
龍麻には、やはり舞が何を言わんとしているのか、おぼろげにしか判らない。プロファイリングを学ぶ上で心理学や人間行動学を【入力】された彼ではあるが、その中には自己分析までは入っていなかったのだ。これは、自分で考えるしかないが…確かな手応えは感じる。
「…難しいですよね、人間って。私も、自分で何を言っているのか判らなくなってきました。…でも、ヒントくらいなら出せるかも知れません。――手を出していただけます?」
「?」
唐突な申し出に戸惑いつつも、神秘的な光を放つ舞の瞳に誘われ、龍麻は手を伸ばした。舞は、その能力を制御しているというヘアバンドを外し、そして、二人の手が重なった。
「――ッッ!?」
脳裏にフラッシュバックする、光の爆発のようなイメージの乱舞。それは舞が、響豹馬と共に歩んできた戦いの日々であった。安っぽい恋愛小説のような出会いと、垣間見た闇の世界。【そちら側】に身を投じ、どんな時でも【負けなかった】というだけに過ぎぬ戦い。勝利者にはなりえず、戦いに疲れ果てた身を横たえ、星空を見上げる日々。もはや泣く事さえ忘れ果てるような血と闘争の無間地獄。その絶望の海の中で気付いた、ただ誰かに縋り付いて泣きたいだけの自分。習い覚えた技術を存分に振るい、殺戮を思うさま堪能する自分。それらを凌駕し、今、たった一つながら確固たる自分を知った。それが【彼】と共にある【自分】だった。
「むう…!」
一瞬に凝縮された異次元との戦争の日々。それは龍麻の心にも衝撃を与えた。戦場を渡り歩いた龍麻でさえも、想像を絶する恐怖と絶望。その中を彷徨する男の姿。だが、全身の血が流れ尽くすような闘争の果てに【彼】が得たものはこれほどに…。
彼をしてめまいを起こす戦慄の記憶を垣間見、龍麻は深く、本当に深く息を吐き出した。
「…そうか…今度こそ判った…いや、判ったような気がする…」
「…はい」
頬を染めて頷く舞。彼女が、基本的には使いたくない【力】を使ってまで、龍麻に伝えようとした事は…。
「こういう質問は極めて無礼だと承知しているが…辛いと思った事はないのだろうか?」
「ありません」
舞はきっぱりと言う。
「ただ守られているのではなく、肩を並べていられる…。それだけで私、とっても幸せです。――それに私、そんなにおとなしい子じゃありませんから。何度突き放されても、ガムみたいにくっついてここまで来たんです。そうしたら何時の間にか、彼が背中を任せてくれました。――緋勇さんも本当は、自分の限界に挑み、自分の中にある【何か】と向かい合いたいのですね。だけど仲間と共に戦う時は、仲間の指揮を取り、全員の命を守らねばならない。それを無理に両立させようとしたら、豹馬君の言う通り仲間の命を危険に晒す事になるでしょう」
「それは…判る…。いや…判りかけている。だが…今の俺では答えに辿り着けそうもない」
事、戦闘となれば、優先されるのは仲間の命だ。それは絶対的に動かない。【信頼】という言葉を言い訳にして【自分の為の戦い】をしていては、いずれ仲間に【死】をもたらす事になる。ならば、自分の限界に挑戦する為には、自分が仲間から離れるべきでは――
「――それも一つの方法でしょうけど…蓬莱寺さんたちを苦しめてしまうかも知れませんね」
「……」
心を読まれているというのは、どうにも変な気分だ。裏表というものを持たぬ龍麻であればこそその程度の認識で済んでいるのだが。
「ちょっと禅問答みたいになっちゃいますけど、良いですか? どうして緋勇さんは戦えるのですか? 今の緋勇さんには守るべき人も、護るべきものもない。故郷もなければ家族もいない。人を愛してもいないというのに」
それは、豹馬の質問の繰り返しであった。先程はうまく答えられなかったのだが…
「それが…問題なのか? 守るべきものがなくては闘ってはいけないのか?」
自分はテロと戦うために作られた。戦う事が龍麻の存在意義であり、それを否定されたらその存在そのものを否定…――ッッ!?
「それは、人として不自然なんです。家族の為、国家の為、主義主張の為、お金の為…幼稚ですけど、自分の力を誇示したいというだけでも、人間らしい理由なんです。闘争本能の赴くままに戦うのであれば、子孫を残すという生物の基本的なプロセスすら持たなかった超古代の原生生物と同じですし、本当に特別な理由もなく他者を傷付けたり殺したりできるものがいるとするならば、それこそが最凶最悪の怪物ですわ。――ですが、たとえ緋勇さんが戦いを捨てても、緋勇龍麻という存在は決してなくなりません。今の緋勇さんなら、判りますよね?」
「…肯定だ」
「私は、私の大事な人の為に戦っています。でもそれは私自身の想いであって、その人に押し付けるものではありません。私は勝手に戦い、勝手に死ぬだけです。でもその果てに得たものが、肩を並べて戦える人なんです。――それは、役目とか義務とか、そんな言葉では言い表せません」
そうか…。と、龍麻はようやく納得した。響豹馬の――【ザ・パンサー】の戦い方というものを。
彼らは究極的に、自分の為にしか戦っていないのだ。世界を守るとか、人類を守るとか、そのような大義名分など彼らには関係ない。彼らが貯えた【力】は彼ら自身の我侭――はっきり言ってエゴイズムを押し通す為にのみ使われるのだ。それが自分以外の誰かを護るというものであっても、その事が誰かを縛ったり、誰かに恩を着せたりする事はない。勝手に戦い、勝手に死ぬ――その事が世界の為になろうと人類の為になろうと、それは単なる派生結果であって、彼ら自身の目的ではないのだ。
自分の為に戦う者が一番強い――かつて誰かがそんな事を言っていたが、そうではない。【譲れない信念を秘めた自分】の為に戦う者が、恐らく一番強いのだ。
響豹馬も、決して【仲間の為】などとは口にしない。如月舞も。恐らく拳士郎も貴之も、弥生も唯もそうだろう。【敵】に汚染されたら【仲間】でさえも容赦なく殺さねばならぬ戦場で、そんなヒロイズムは通用しない。あっさり汚染されるような【仲間】など無用。汚染された【仲間】を殺す慈悲の弾丸は無駄弾。死を迎える時は【敵】の何匹かを道連れに――そんな狂気に満ちた戦場で自ら望んで戦ってきた彼らは、いつしか肩を並べて戦う事を容認し合える【仲間】になったのだ。そこから生まれた想いは【信頼】という言葉だけではまだ物足りない、敢えて言うならば、恐ろしく強固な【絆】であった。
だからこそ、誰もが勝手に戦う。それが何時の間にか、【仲間】の為にもなっている。そんな彼らに指揮官は必要ない。作戦を組み、戦術を駆使するのは、誰にとっても都合が良い時だけだ。そんな時でさえ、【仲間】が命を投げ出すような真似をしても、必死になって止める訳ではない。【仲間】がそれほど弱くない事を知っているためだ。そして誰もが…傲慢なほどに期待を裏切らない。その境地に達する為、常人では遠く及ばぬ修業と研鑽を繰り返してきたのだ。時にそれは【敵】にすら適用され、例えばあのジル・ド・レエのような、【使徒】と成り果てて尚、精神まで腐っていないものとは全力で戦いを楽しむのだ。
龍麻自身も、自己の存在意義の追及が理由であると、胸を張って答えて良かったのだ。他の者はいざ知らず、【仲間】はそれに頷いてくれる。戦いの為の戦い、殺戮の為の殺戮を求めているのではなく、己を律し、護るべき戦いに身を投じていると理解しているからだ。だから手を貸すし、庇いもするし、命令も聞く。戦場を離れれば冗談も言える。笑う事も出来る。明日の夢を語り合う事も出来る。それが――【仲間】だ。
そして、如月舞の戦い方だけは、他の【仲間】達とは一線を隔す。響豹馬を殺す事を受け入れ、響豹馬自身も彼女に殺される事を受け入れている。二人の間にある、特別な【絆】の為に。
【それ】を表現する言葉を、龍麻は一つだけ知っていた。知っていても、今まで使う場面に恵まれなかった言葉だ。
「人の想いの強さか…。俺は判っていたつもりでいただけなのだな。それほどまでに強いものか――【愛】というものは」
「…あの、あまり真顔でストレートに言わないで下さい…。恥ずかしいです…」
最後のところはぶくぶく…と言葉を濁らせる舞。真っ赤になった顔を半分ほど湯に沈ませてしまう。単なる言葉だけでは伝えきれない想いを、舞は自分の【力】で龍麻にイメージとして伝えたのである。それは――本来は他人に秘すべき事まで見せてしまったという事だ。【鋼鉄の朴念仁】である龍麻であるからこそ、辛うじて見せられる事を。
「謝罪する。いつも朴念仁だとなじられているのだが、なかなか改善できんのだ」
「…これから少しづつ変わってきますよ。でも、皆には黙っててくださいね。できれば…忘れてください」
龍麻は右手を上げた。
「宣誓する。如月殿と響殿の秘め事に関して決して口外しない」
「で、ですからそういう事をストレートに言わないで下さい!」
ますます真っ赤になった舞が思わず声を大きくした時である。
「何!? 何ですってェ――!?」
誰の気配も感じなかった岩陰から、聞き覚えのある声が響いてくる。舞は飛び上がるほど…実際に少し飛び上がって驚いた。
「やっ、弥生ッ!!?」
颯爽と現れたのは、やはりグラマーな裸身にバスタオルを巻きつけただけの弥生であった。同じ格好の唯がその隣にいたのはまあいいとして、問題はその後にいる二人である。
「葵…。小蒔も、ここで何をしているのだ?」
そこにいたのは、自分の部屋に戻ったはずの葵と小蒔である。風呂なのだから当然と言えば当然なのだが、やはりバスタオルのみである。
「エット…その…ボクは如月さんに、弓の出し方を聞きたくって…」
「わ、私も…汗かいちゃってたから…。その…決して盗み聞きするつもりはなくて…」
最後の方は尻すぼまりに消え入ってしまう、真っ赤な顔の葵の言葉。しかしそれでは盗み聞きしていた事を白状するようなものであった。舞は龍麻の秘密を護る為に結界を張ったと言ったが、既に結界内…露天風呂の中に入っている者には意味なしだったのである。
「もう…二人ともそんな言い訳しなくてもいいのよ! この温泉だってホテルのものでしょ。そんな所で内緒話なんかしたって、聞かれる方が悪いのよ。――まあ、龍麻君が先にいたから期待通りの展開にはならなかったけど」
「き、期待って、なにを期待したのッ!?」
真っ赤になって拳を振り上げる舞。結構殺気立っているのだが、はっきり言って迫力不足。むしろ可愛い。
「ふっふ〜ん。深夜の露天風呂に心底ラブラブな若い男女が二人っきり、しかも片方が欲求不満と来れば、もうアレしかないでしょ。いやはや、あの【鉄の処女】舞ちゃんも成長したものねェ。感心感心」
「や、弥生…!」
武術の実力は舞の方が上らしいが、それ以外では何もかも弥生の方が【姉御】であるらしい。彼女のストレートな物言いの前に、舞はぶくぶくぶく…と撃沈してしまった。
「ホラホラ、そのくらいでめげないの。――龍麻クン、あたし達もご一緒するわよ」
「じ、自分は構わんが…」
「おっじゃましまーす」
例の【覗き騒動】はなんだったのかと思うほどあっけらかんと、弥生も唯も躊躇なく湯の中に浸かった。
「ん――? どうしたの、葵さんも小蒔ちゃんも、入らないの?」
「エッ!? で、でもひーちゃんたちが…!」
そこで弥生は、まるで初めて気付いたかのようにぽんと手を打つ。
「ああ――そう言えばそうねェ。でも龍麻君は気にしていないみたいだし、せっかくだからお宝でも見せてもらえば?」
「……」
平然とそう言ってのける弥生に、葵も小蒔も無言のまま真っ赤になる。葵など今にも頭から湯気が出そうだ。これが正常な年頃の少女の反応だろう。
「…まったく、何を吹き込んでいるんだ」
周囲に満ちた賑やかな【気】と、ずっと舞が【気】を送り込んでいたためだろう。豹馬が目を覚まし、そんな事を言う。
「やあねえ、冗談よ。でも舞だけなんて、ちょっとずるくない?」
「今夜、君のベッドに招待してくれるなら考えよう」
弥生も弥生なら、豹馬も豹馬である。葵と小蒔が顔を真っ赤にするようなやり取りも、彼らにとってはごく普通の会話らしい。しかも――それこそが【絆】の深さか、その場にいる舞までが怒る素振りも見せない。それどころか――
「あら良いわよ? 隣に舞も唯ちゃんもいるけど、四人でイイ事する?」
「…今夜はのんびり過ごす予定だ」
「なんだ、つまんない。――冗談はさて置き、葵さんも小蒔ちゃんも、気にし過ぎる方がかえって失礼よ。――大丈夫。龍麻君は鋼鉄の朴念仁みたいだし、パンサーはこっちから誘惑しない限り抱き枕にしても貞操の心配のない鉄壁の甲斐性なしだから」
「……」
なにやら酷い言い様だが、要するに二人とも、この年頃の少年にありがちな制御不能の性衝動など持ち合わせていないという認識だろう。信頼されていると言えば聞こえは良いが、裏を返せば子供扱いされているような気もする。
そこまで言われては、葵も小蒔も頷くしかなかった。それに一応、自分達に関してはちゃんと防備もしている事であるし…。
葵と小蒔が湯に浸かると、弥生は手ごろな岩にもたれて「ふわあ〜〜っ」と大きく息を吐いた。
「はあ〜っ、ビバノン♪」
「…弥生、おじさんみたいよ」
「ふ〜んだっ、別に良いじゃない。実際、良い湯だし」
そんな事を言いつつ、湯の中から白い足をにょっきりと太腿まで水面上に上げる弥生。これにはむしろ、葵と小蒔の方が慌てる。だが、男二人の反応はなかった。
「もう…。男の子がいるのにそんな事しちゃ駄目よ」
「アラ、妬いてるの? まあ、可愛い彼女が隣にいるのに、他の女の子に見惚れられたら気になるわよねぇ」
「もう! そうじゃなくて! 美里さんも桜井さんも驚いているでしょう!」
実際、【覗き事件】の時の凄まじさを目の当たりにした葵と小蒔は目が点になっている。何で同じ【仲間】なのに、拳士郎と豹馬とではこうも彼女たちの対応が違うのか?
「驚いているのはパンサーと龍麻クンの態度にじゃないの? 大体美女が五人もいるっていうのに、何でアンタ達は反応ゼロなのよッ」
なにやら弥生はご立腹の様子である。どうやら根っからのスケベは許せないが、とことん無関心というのも頭に来るらしい。女心とは複雑である。
「…温泉に浸かっている時にそんな気分になるものか。風呂場の三助を希望するなら背中だけじゃなく身体中を喜んで流してあげるけどね。――君もそう思うだろう?」
いきなりリアルで過激な台詞に葵と小蒔が真っ赤になるが、水を向けられた龍麻はもっと凄かった。
「否定だ。温泉は身体の疲れと汚れを取るためにある。十八禁ゲームではよく見られるシチュエーションではあるが、温泉内における性交渉は身体構造上女性に負担が――おおッ!?」
「うおッ!?」
龍麻と豹馬の頭に手桶が【カポ〜ン!】とぶつかる。この二人をして避けられない弥生のツッコミであった。
「誰がそこまでリアルに言えっつったのよッ! 本ッ当にムカつくくらいの朴念仁に甲斐性なしどもね。舞と葵さんの苦労が判るわ」
「「な、何で私が出てくるの(んです)ッ!?」」
「だってぇ〜、見てて結構もどかしいじゃない。女の子の方からアタックするのってすっごく勇気が要る事なのに、この男どもと来たらまるで手応えなしのコンニャク野郎どもなんだもん」
龍麻は例によって例のごとく、何を言われているのか判らなかったのだが、豹馬は違った。
「それは誤解だ。俺はムード重視派だからな。舞の意思を尊重している。この月明かりが乙女の帯を解かせるなら、俺は速やかに狼となろう。――むぁ〜いちゃん」
この男、やはりいろんな意味で只者ではない。二枚目面で歯が浮くような気障な台詞から急転直下、ドタバタラブコメの三枚目助平男に成り下がった豹馬はひょいと手を伸ばし、舞の肩を石垣に押し付けた。
「ちょ、ちょっと…! 豹馬君…!」
瞬時に顔を真っ赤にして抗議する舞だが、その声には喜びの響きがある。本気で嫌がっている訳ではない。それを承知しているためか、豹馬は葵たちの驚きの目があることも構わず、唇を舞のそれに寄せ、手をバスタオルにかけ――
シャキン――…ッ!
「…ごめんなさい、豹馬君。やっぱり人前でなんて、恥ずかしいですぅ…」
真っ赤な顔で照れに照れながら言う舞。【あの】龍麻をして「む…」と声を上げるほど可愛いが、その手に握られている白刃がちょっと…そもそもどこからそんな刀を取り出したのか?
「オーケー。降参だ、降参ッ。――って言うか刺さってる、刺さってるってッ」
寸止めではなく、下がらなければきっちり喉に食い込むであろう殺意満々の白刃に押し返され、数万の【使徒】を一方的に虐殺でき、数百万の【使徒】を友に持つ男が顔を愛想笑いに引き攣らせて全面降伏する。――この男は本当に、【あの】地上最強の妖魔ハンター【ザ・パンサー】なのか? 【人としては生きられない】とか言っている割に、こんなやり取りを楽しむ彼はそこらの人間よりも人間的だ。
だが、そこで一つ龍麻は気付いた。先程彼から得られなかった質問の答え――【仲間とはなんなのか】。彼にとって【仲間】とは、【彼】を人間として扱い、人間に留めておいてくれる者の事なのではなかろうか。
人間は、自分とは異なる者を忌避し、迫害する。肌の色が僅かに違うだけで、宗教が異なるだけで、一つの土地の中に勝手に引かれた境界線の内と外というだけで争い、傷付け合う。【人】と【魔物】となれば、その確執は恐ろしく根深いだろう。それなのに彼らは、そんな差別意識など微塵も考えさせないばかりか、こうして笑い合う事も、馬鹿をする事もできるのだ。舞などは、彼を愛して…。
(…とても敵わんな)
何がどういう風に【敵わない】のか、龍麻には判らなかった。しかし、なぜか真っ先に頭に浮かんだのは、その単語であった。
「夜は長いから良いもんね。――という訳で、俺はいつでも舞の想いに応える事ができる。そういう事は彼に言ってやれ」
「…なぜそこで自分が出てくるのだ?」
相変わらずの朴念仁発言をする龍麻を、豹馬は親指で示した。
「彼はこういう男だ。これは朴念仁などという言葉で片付くレベルじゃない。戦闘用プログラムが恋愛感情を不要のものとして拒否させている。だが――そのプログラムももはや絶対的なものではなさそうだね」
そこで一旦言葉を切り、豹馬は清麿の刃を喉元から外して、再び舞の肩を抱き寄せた――のみならず、彼女を完全に腕の中に抱きすくめた。今度は――二枚目のままだったので舞も切り返せない。
「俺が寝てる間に何を知り何を【視た】のか知らんが――舞は俺の嫁だ。もし舞を寝取ってやろうなんて考えやがったら、一秒未満で原子のチリにしてやるぜ」
うわお、と弥生と唯が声を上げ、葵と小蒔は息を呑む。【地上最強】の名を冠する者らしいシンプル且つ豪放な発言に、舞は照れに照れて顔がホニャホニャになってしまう。
「い、いや。それは承知している。外見や素性に一切左右されぬ貴殿らの関係は実に麗しい。自分は断じて、貴殿らの仲を裂こうなどとは思わん」
「ふん。【断じて】と言う割に、その微妙などもり方は気になるね。そもそも、容易く諦めたりしないのが【人間】だしな。それに【俺たち】のようなタイプは、安らぎを与えてくれる姉系や世話女房タイプに弱いものさ。現に今、俺に殺意めいたものを覚えただろう? そいつは【嫉妬】という感情だ。――機械にはないぜ」
「……」
少し意地悪い豹馬の言葉に、龍麻は反論できなかった。今日一日で、彼は自分の中で何かが変わるのを感じていたのだ。豹馬との戦い、伯爵との戦い、人と魔の狭間で戦う男の精神と、彼を想う舞の心に触れ、【人間】に対する洞察が深まり、豹馬言うところの【プログラム】に修正が加えられている。それが機械的な思考に対する破壊行為なのか、より思慮深くなる為の改善なのか、龍麻には判断が付かない。
「…どうなんだ? 惚れたか?」
「……判らん」
「考えるな。感じ取れ。――お前は何がしたいんだ? その目で追っている者に、何を求める?」
「……ッ」
僅かに頬が跳ねる龍麻。指摘されて初めて、いつの間にか舞や弥生を眼で追っていた自分に気が付いたのである。そして彼の場合、それが戸惑いとなって表情に出る。
「…あらあ? ちょっと…薬が効き過ぎちゃったかしら?」
なんとなく、バスタオルの合わせ目をきつくする弥生。
「いや、彼はクソ真面目だ。俺のような煩悩はかけらほども持ち合わせていないよ。裸の女性がベッドを暖めてくれてても、彼はソファーで寝るだろう。だが――それじゃいつまで経っても機械のままだぜ、龍麻」
「むう…」
「恋のライバルとゴキブリはいない方が良いんだが…その鋼鉄の意志を打ち直すには相当な熱量が必要だな。ただし自分の魅力に気付くだけなら良いが、とんでもないプレイボーイに大化けしやしないかって不安もあるね」
豹馬の言葉に絶句する葵と小蒔。しかし次の瞬間――
「プッ…。うふふッ。アハハハハハハッ!」
笑いを堪えようとしたのは僅か数秒の事で、それ以上はたまらず、二人とも腹を抱えて笑い始めてしまった。
「…なんで笑ってるの?」
それなりに意外な二人の反応に、弥生たちも首を傾げる。
「だ、だってェ、ひーちゃんが京一みたいにナンパしてるところを想像したら…アハハハハハハッ!」
「わ、笑っちゃいけないと思うけど…うふふっ…おかしくって…!」
ああ、なるほどと豹馬は苦笑を洩らした。
「確かに龍麻がナンパしたら面白い事になるな。――【お嬢さん、僕と対テロ戦術について語りませんか】」
ああ! と、弥生たちも手を打つ。
「普通にやれば成功率高そうだけど、そんなこと言われたら女の子は引いちゃうわね」
「でも、面白いって言って貰えるかも知れないよ?」
「そりゃ面白いかもしれないけど、ちょっとねェ…」
「もう…駄目よ、そんなコト言っちゃ。せめてご本人には聞こえないところで…」
本人を前にして、言いたい放題、笑いたい放題である。龍麻には自分がネタにされている事は判るのだが、なぜ葵や小蒔までが笑っているのか理解できない。そもそも男女関係についてはあらぬ誤解をしている彼なのだ。
しかし、【人間とは何か】を日夜(美少女ゲーム等で)研究している彼である。
「…豹馬。先程からの貴殿らの会話を聞いていると、そこはかとなく馬鹿にされているような気がするのだが?」
「勿論、ちゃんと馬鹿にしているよ」
「豹馬…」
自分でも時々やるが、他人にこうもはっきり言われると龍麻でも怒る。しかし豹馬の口元に浮かぶ笑みは、嘲笑とは無縁であった。
「ほら、怒れたじゃないか。――変化を恐れる事はないよ。生きるって事は変わるって事でもあるだろう。その辺は、実は人間も機械も差はないと思うよ。君が伯爵を救おうと決めた時、きっとナンバー9も同じように考えたのさ。損得勘定は抜きにして、伯爵を救いたいとね」
「…うむ」
変わるという事と、成長するという事は、必ずしも同義ではないであろう。だが龍麻は豹馬と舞の言葉の中に、一つの光明を見出したような気がした。
自らに訓練を課し、節制に努め、日々を戦いの研鑚に努める――それは龍麻の中にプログラムされたものかも知れない。しかしその過程で成長していった人間的感情は、いつしか龍麻の中で大きな割合を占めるようになった。自分が【人間】である事を認識し、【戦闘機械】を否定する日々。それは時として二重人格的要素を孕み、【暴走】を引き起こした。だがそれは龍麻自身が、【どちらか一方】の人格のみを肯定しようとしたためであり、舞の言うように【ナンバー9】である自分と【人間】である自分をありのまま受け入れていれば、そのような事にはならなかったのだ。そしてより強固な【自分】を知るためには、ありのままの自分を好きになれと。戦闘マシンとして育てられようが、たとえ本性が魔物であろうが、人の強い想いはそれを凌駕する。豹馬はそれを舞に教えられ、魔物である自分を受け入れた。彼も龍麻と同様、【それ】を拒否する事が強さだと信じていたが、戦いにはまったく無用としか思えなかった【それ】が、実はもっとも強い【力】を生むものだと悟り、それこそが豹馬の強さの根幹となったのだ。
【それ】は――【愛】。
「龍麻、【人】って、限りなく不完全で弱い存在だよ」
かつて犬神が言っていたのとそっくり同じ事を、豹馬は口にした。【人間以外】のものが【人間】を評する時の言葉だ。
「だから、手を取り合って良いのさ。誰かに頼るのも縋るのも恥じゃない。誰かに支えられた分、自分も誰かを支えられる程に強くなればね。それぞれが不完全でも、お互いに足りない部分を補い合えば、人間はいくらでも強くなれる。懸命に背伸びするのも悪い事じゃないが、そのうち疲れてコケるぞ」
「……」
「人を愛する事さ、緋勇龍麻。人間がもっとも人間らしい瞬間は、人を憎む時と愛する時だ。人種、国家、宗教、年齢、性別、出自、家柄、職業、地位―― 一人の人間が人間であるためには驚くほど多くの情報を必要とするが、この二つの行為を行う瞬間だけは、もっとも自然な本来の自分を曝け出す。弱い自分と向かい合え。強い自分を見つけ出せ。それが叶えば、君は今より遥かに強くなる。君が望むものの為には、それが必要だ」
龍麻の望み…戦う理由――生きる理由。――今なら、自信を持って答えられそうだと龍麻は思った。
対テロリスト部隊として世界各地で戦い、見てきた現実。――どこかで誰かが流す涙を、もう見たくない。今までは他人の組んだプログラムに従っていただけだったが、その陰で人間部分は悲鳴を上げ、嘆き、悲しみ、怒りに燃えていた。これからは――【それ】を抑圧せず、【それ】に呑まれず流されず、より巨大な破壊を阻止するために矢面に立つ。――自分の意志と力で。
「俺は、レッドキャップス・ナンバー9、緋勇龍麻だ」
先程とまったく同じ言葉。しかし今度は、何かが確実に違っている。今まで抜け落ちていたものが、元の場所にぴたりと納まったかのような爽快感。確かな自分が、そこにいた。
「…それでいい」
龍麻の口調に明らかな変化を感じ取った豹馬は、ただそれだけを口にした。見れば舞も弥生も、唯も淡い微笑を口元に刻んでいる。こればかりは、戦士としての道を葵たちよりも早く歩み始めた彼らだけが判るものだろう。
「さっすがよね。渋沢先生たちが惚れ込むのも無理ないわ。――さて、固い話はその辺にして、一杯呑まない?」
弥生がそんな事を言い出し、龍麻はふと、素に戻る。
「否定だ。アルコールは脳細胞を――」
「やあねえ、ノンアルコールに決まってるじゃない。お風呂でアルコールなんか飲んだら悪酔いするわよ。そのくらいジョーシキよ、ジョーシキ」
「そ、そうか。ならば良いが…」
あっさりさっぱり切り返される龍麻。今日は本当に、珍しい事ばかりだ。殆ど欠点などないかに思っていた龍麻の意外な一面が次々と露になる。女性にこうも頭が上がらないところを見るのも初めてだ。
更に、もっと珍しい事に――
「それとも、酔って乱れるアタシ達を見てみたいのかな〜?」
さすがに現役女子高生モデル。胸前で腕を組み、バスタオルから零れる胸の谷間を強調するようにしてやや前かがみになる、道に入ったセクシーポーズで、ぐっと龍麻に迫る。葵と小蒔が息を呑んだが、龍麻の反応は予想を上回っていた。何と彼は、顔を赤くしてうろたえたのだ。
「い、いや! 自分は女性に対してそのような不埒な行いは断じて行わん!」
「あらァ? 龍麻クンってば照れてるの? アハッ、かーわいい♥」
いまだかつて、龍麻をこのように評した者は老若男女ひっくるめて一人もいない。夜な夜な魔物と闘い、己の魂と世界の命運を賭けて闘いながら、それを【自分の為】と言い切る上、こうして心の底から笑う事ができる少女には、龍麻のようなハード一色の人生を送ってきた男も、【普通の男の子】でしかないのだろう。
「なんならちょっと触ってみる? 前の時とは違うかもよ〜?」
「いや、それは…」
迫られた分、身を引く龍麻。確かにその態度は、眼のやり場に困っている、生真面目な少年そのものであった。
「素直になりなさいよ。断じてだなんて、それもつまらない話よ。キミ、顔も中身も良い男の子なんだし」
「…!?」
「女の子から見れば、そーゆーのってちょっと罪作りって事よ。女心って複雑で怖いのよ〜っ。スケベなのは許せなくても、あんまり無関心なのもプライド傷付くのよねェ」
「…ッッ」
ちょっぴり怖いジト目で睨まれ、これまた珍しいを通り越して奇跡のように固まる龍麻。しかし今回は助け舟が入った。
「…弥生。彼はその件に関しては子供と同じなんだから、もう許してやれ。それ以上は、今のままじゃ無理だ」
「やーね、パンサーのエッチ! なんで解るのよッ?」
「当たり前だろう。君たちが温泉に入りに来るのをケンが見逃す筈はない。それにそちらの二人も同伴して、今、ここにいられるという事は、俺たちの目など平気だからだろう?」
まるで龍麻のような、豹馬の推理力である。当の龍麻は、珍しく頭が働いていない。
「何なのだ、それは?」
「もうッ! しょうがないわねェ…こういうコトよッ」
龍麻が驚くのも構わず、弥生はぱっとバスタオルを取った。
「――ッ!!?」
【あの】龍麻がごく普通の少年と化した一瞬! しかし、星明かりの中にぼうっと浮かび上がった弥生の裸身は、しっかりと水色のビキニで包まれていた。彼女たちは最初から、ちゃっかりと水着を着込んでいたのであった。
「あらら、びっくりした!? ――ふっふ〜んッ。なんだかんだ言っても、龍麻クンもやっぱり男の子よねぇ。ちょっと安心しちゃったわ。もう、えっちぃ」
「……」
あまりの事に一言も言い返せない龍麻。この弥生には彼、【緋勇龍麻】も【ナンバー9】もまるで太刀打ちできないのか!?
「でもねぇ、パンサーとか龍麻クンくらいイイ男だったら、本当にご一緒しても良いとか思わない? ねえ、美里さんに小蒔ちゃん」
「エ、エッ!? そ、そんな!」
「あ、暁さんッ…!」
いきなりの爆弾発言に、葵と小蒔が真っ赤になったのを見て、弥生はぬははと笑った。
「冗談よ、ジョーダン! んもう! みんな、可愛いのねえ」
それから弥生は、再びバスタオルを身体に巻き付けた。
「でも、これだけでも気分は出るでしょ? こんな風にドキドキできるのって今だけかも知れないじゃない。――さっきも人間がどうとかプログラムがどうとか言ってたけど、そんな小難しい事考えなくても、【緋勇龍麻】は生真面目で、【ナンバー9】はクソ真面目でいいじゃない。でもね、そういうガッチガチに固いところもキミの魅力なんだろうけど、頭固いままだとぜーったいダメ。青春は短いんだから」
「う…うむ…」
チョンと鼻先をつつかれ、やっとそれだけ言った龍麻であったが、これほどやり込められていながら、不思議な温もりと安心感をも覚えていた。この感覚は…例えばHIROと接する時に近い。まるで…頼れる【姉】に言われたかのように。
「…ふうん。なんとなく、キミの事判っちゃったかも」
意味ありげに頷いた弥生は、ある意味暴挙――龍麻の頭をその胸にかき抱いた。
「あ、暁殿ッ!?」
「ホラホラッ、動かないのっ。そのままじっとしてなさい」
葵や小蒔が絶句する中、幼い子供をあやすような声音に、龍麻が硬直する。両頬に当たる感触は勿論、目のやり場にも困った龍麻は豹馬に救助を求めたが、彼も舞も、静謐な眼差しで龍麻を見ていた。
――彼らには判っているのか? 弥生の行為の意味が。
「…やっぱりね。キミって、こんな事されても少しも邪な気分にならないし、心臓もドキドキしない。こういう事すると女が怒るって知っているだけで、確かに煩悩を持っていないのね」
そう言って弥生は龍麻の頭を、幼い子供にするように撫でた。
「酷い事言うようだけど怒らないでね。キミ、お母さんにも甘えた事ないでしょ? だから誰かに頼ったり甘えたりするのを無意識の内に避けるのよ」
「ッッ!」
「どんな事情があるのかあたしは知らないし、知っても仕方のない事だけど、これだけは言わせて。キミのお母さんはキミが生まれた時にとっても喜んで、キミの事を抱き締めてるよ。キミが覚えていられないほど小さな頃にね。そうでもなければ、今、キミが女の子に優しくできる筈ないもの。それは、お母さんが子供に最初に注入する、泣いたり笑ったり、驚いたり喜んだりする為のプログラムなの。それさえあれば、キミはれっきとした人間よ」
「……ッ」
並の男ならば返事どころではない状況であろうが、たった今指摘された通りの男である龍麻の脳裏には、かつて出会った新木場の老婆〜七〇余年の人生で一万人以上を取り上げた産婆であるおキヌ婆さんの言葉が去来する。
――子供が可愛くない親なんて、この世にいちゃあいけないよ。赤ん坊をしっかり抱き締めてやれば、親の言う事をちゃんと聞ける子に育つし、親だって自分が【親】になったっていう自覚が持てるもんさ。アンタを見りゃあ、アンタの両親がそりゃあ良い人だったと判るさね。このババアの目に狂いはないよ。
「だからね、後から注入されたプログラムで生き方を限定しちゃダメ。幸せになる権利は誰にでもあるし、幸せになるのを邪魔して良い権利は誰も持っちゃいないもの。――別に助平になれって言ってる訳じゃないよ? キミって強いし頭も良いんだから、もっと柔軟な発想で生きて良いって事よ」
すっと遠ざかる優しい感触。実際に抱擁されていたのはほんの一、二分であったろうが、龍麻には一時間以上にも感じられた。――幼い頃から悪性貧血の幼馴染を助けようと尽力してきた彼女は、この歳にして圧倒的な母性を持っていた。両親の顔も知らぬ龍麻が、母の面影を彼女に見るほどに。
「…了解した。いや…努力しよう」
「うん。素直なトコも、キミの良いところよね。――はい」
笑顔の多い彼女をして初めて見せた屈託のない笑みに怯みつつ、龍麻は彼女の手から清涼飲料水の瓶を受け取った。
「まあ、だからと言って、あそこまで柔軟になれとは言わないけどね。――ていッ!」
突然、弥生は振り返り様、中身の入っている缶ジュースを岩陰に向かって投げ付けた。
「どわッ!!」
まったく気配を感じなかった岩陰から上がる男の悲鳴。
「いってえな! 弥生! 何しやがるッ!!」
瘤のできた頭を押さえ、涙目で立ち上がったのは、あの風見拳士郎であった。しかし、顔を出した次の瞬間、顔面に第二撃! ドポーンッ! と水柱を上げて湯に沈む拳士郎。
「何しやがるじゃないわよッ! まったく何度も何度も性懲りもなく…!」
「な、なに言ってやがる! そもそも温泉に水着で入るなんて邪道じゃねェか!」
深い哲学的雰囲気を徹底的にぶち壊し、訳の解らん事を拳振り上げ力説する拳士郎に、更にもう一発飛ぶ教育的制裁!
「アンタみたいなのがいるから油断も隙もないんでしょーがッ! それ以前に! 危険物剥き出しで立ち上がるんじゃないわよ!!」
温泉なのだから、当然拳士郎も裸である。しかも彼は温泉に浸かる作法に則り、タオルを持っていなかった。幸いと言うべきか、彼の上げた水飛沫の為、彼の男の主張(笑)を見ずに済んだものの、葵も小蒔も舞も、真っ赤になった顔を手で押さえる。ただ、指の間からしっかりそちらを見ているところに、この年頃の微妙な心理を窺わせる。
だが――
「ええい! なにをおっしゃるウサギさん! 見よ! この肉体美! そして! 一ミリたりともほっかむっていないこのスーパーマグナム…!」
「【自主規制拳】ッッ!!」
確かに日本人には珍しいギリシャ彫刻のような肉体美を誇る拳士郎だが、極め付けに不穏当な台詞を吐いたために、大量のお湯と共に弥生の【気弾】で吹っ飛んでいった。しかし、その先で――!
「おわッ!? か、風見ッ!?」
「な、何だ!? どうしたッ!?」
拳士郎が上げた水飛沫をまともに浴び、たった今脱衣所から出てきたばかりの男たちが声を上げる。
「――きょ、京一ッ!! 醍醐クンッッ!!?」
「え゛ッッ! ええええええッッ!!?」
その瞬間、ばっちり目が合ってしまった四対の視線。
「み、美里! 小蒔ィ!? そ、それに舞ちゃんに弥生ちゃんに、唯ちゃんッ!!?」
「……ッッ!」
驚愕の声に隠しようもない喜びの混じる京一に、ブシュウッ! と鼻血を噴いて沈む醍醐。
「…彼は女にしか目が行かないのか?」
「全身全霊で肯定だ」
と、何気なく京一をこき下ろす龍麻と豹馬。それを聞いた京一は――
「おわッ! ひーちゃんに、響豹馬ッ! ――って、何でテメエら舞ちゃん弥生ちゃん唯ちゃん美里に小蒔と混浴してやがるゥゥッッ!!」
ガルルルルッッ! と、野性に帰ったが如く唸る京一。その隣で貴之が、眼鏡に付いた水滴を拭い、冷静な声で分析する。
「状況を整理させていただくと、まず豹馬と緋勇さんが入浴していたところに、暁さんたちが乗り込んできたという訳ですね。そして良からぬ事を期待して忍び込んでいたケンを鉄拳制裁した――っと言ったところですか」
「何よォ、貴之君。乗り込んできたなんて、失礼ねえ」
「――違うんですか? 恐らく豹馬を介抱しに来たであろう如月さんがどうするか覗きに来たんじゃないかと推測できますけど」
図星を指され、ぐ…! と詰まる弥生。こんな事を平然と言ってのける貴之も、やはりただ者ではない。しかも彼も豹馬と同じく、照れる様子がまったくない。彼も不感症(笑)か?
「いけませんよ。温泉は純粋に楽しまないと。――ではちょっと、失礼しますよ」
呆気に取られる真神一同を尻目に、そそくさと湯に身を浸す貴之。
「何してるんです? 蓬莱寺さんも、醍醐さんも、早く入っては? 良い湯ですよ」
「お…オウッ…」
貴之が余りに平然としているので、ついつい肯いてしまう京一。葵と小蒔が真っ赤な顔を伏せているので、醍醐は巨体を見る影もないほどに縮こまらせていたが、機械仕掛けの人形のようにぎくしゃくと湯船に浸かった。
「ま…待て…俺も…!」
「アンタはそこにいなさい!」
弥生が何も持っていない両手を天に掲げ、それを振り下ろすと、なぜか虚空から巨大なバンザイ招き猫が出現して拳士郎を押しつぶした。
ドブン! と上がった水柱の飛沫を浴び、わっと悲鳴を上げる一同。しかし――
「あ、あの…暁さん? それって手品かなんかですか?」
「え?」
両手で抱えるほど巨大な招き猫を出現させておきながら、数瞬、質問の意味が解せない弥生。拳士郎はその下敷きになり、湯船の底に沈んでいる。
「…ああっ、【これ】の事? 別に大した事じゃないわよ。特定の空間に亜空間への入り口を開け――って、ん――舞、説明お願いッ」
こういう説明は苦手なのか、あっさりと舞に説明を押し付ける弥生。
「もう…。――簡単に言えば、異次元をポシェット代わりにしているというところでしょうか。異次元空間に倉庫を作って特定のものを入れておき、必要に応じて取り出す術です」
小蒔には何が何やら理解できぬ説明であったが、そこで龍麻が絶妙なフォローを入れた。
「おお。ドラ○もんの四次元○ケットと同じ理屈だな」
あ…! と舞が声を上げ、にっこりと笑う。
「その方が凄く解りやすいですね。私たちは豹馬君のように自前ではできませんから、このブレスレットで力場を発生させているんです。後は特定の品を念じれば取り出すのもしまうのも自由自在です」
舞がブレスレットをチン、と鳴らすと、彼女の手にあった清麿がかき消すように消えた。もう一回鳴らすと、今度は弓が出現する。
「なるほど。便利なものだな。装備類を身に付けず持ち歩く事ができるのか」
「アタシたちの仕事って、武器なしじゃ始まらないからねッ。だけどこれ見よがしに武器を持ち歩く訳にも行かないでしょ? 人目もあるし」
それは、龍麻たちも同意できる。特に長柄の槍や薙刀、弓などは目立つ事この上なく、移動の手段をもっぱら電車に依存する【真神愚連隊】にとっては、頭の痛い問題であったのだ。
「…それは解ったのだが…なぜ暁殿はそのような招き猫などを…?」
「――武器以外に強烈なツッコミを入れる為の道具を入れておくのは、弥生の趣味だ」
それはまあ、確かに強烈無比なツッコミではあるが…。
「なによォ、別に良いじゃない。面白いし」
「弥生は面白いだろうが、そろそろケンでも限界だぞ」
ブクブクバシャバシャと暴れている拳士郎の手が、目に見えて動きが鈍くなっている。
「チェッ、なんだかんだ言って、す〜ぐケンちゃんの味方するんだから」
拗ねたような弥生の言葉に、龍麻はふと、豹馬の口元に苦笑が浮かんでいる事に気付いた。
(…豹馬が守りたいのは、この【場】なのかも知れんな)
【仲間など知った事ではない】と言い切った彼ではあるが、裏を返せば【放っておいても大丈夫】という意味もあったのだろう。現にさっさと罠に填まったと見せ、拳士郎たちが存分に力を発揮する場面を導き出した。今夜は龍麻がいたからこその勝利となったと言えるが、伯爵を【倒す】事にのみ限定するならばどうにでもしてしまえたような気がする。そしてこの【場】を護る為、そこにある自分の居場所を空白にしない為に、彼は命を賭けて、生き長らえる為の戦いに身を投じているのだ。【自分には酷く厳しく、他人には酷く優しい】――舞の言う通りだ。
しかし、そんな彼でもこういう場合はいかんともしがたいであろう事は、次の瞬間に発生した。
「もう…そんなコト言わないの。風見君だって悪気があってやってる訳じゃないんだから、ね?」
「そりゃ解ってるけど、物事には限度っつーものがあるのよ。――せーのッ…って…!」
「――――ッッ!!」
特大招き猫をどかそうとした少女たちの動きがはた、と止まった。
「Wow…」
「「「あ…!」」」
豹馬と、唯、葵、小蒔が声を上げた次の瞬間――
「「――キャアァァァァァッッ!」」
あの激闘の最中でさえ上げなかった悲鳴を上げ、湯の中に飛び込む舞と弥生。【溺れるものは藁をも掴む】を忠実に実行してしまった拳士郎は、事もあろうに彼女たちのバスタオルを水着ごと引っぺがしてしまったのだ。弥生は反射的にバスタオルを取り返そうなどとしたものだから、片手だけではグラマーな胸を隠しきれず、舞に至っては弥生たちのように水着を着けていなかったために一瞬とは言え全裸を晒してしまった。
「見ちゃ駄目――ッッ!!」
男ども、特に京一にとってはゼロコンマ何秒かの至福! が、次の瞬間、唯の両掌から繰り出された発剄により湯が津波に変わって叩き付けられてきた。なす術もなく大量の湯の直撃を受け、湯船から放り出される男たち。龍麻や醍醐、貴之などは完ッ璧に巻き添えである。しかし――
「「キャアァァァァァァァァァァァッッ!!」」
次いで悲鳴を上げたのは、葵と小蒔の二人であった。
男どもが湯船から放り出され、それが湯の津波によるものから当然タオルも吹っ飛ばされ――と来れば、どのような状況にあるかは説明するまでもない。
「ブハッ! ――ゼイゼイ…死ぬかと思った…ッッ!」
と、そこに全ての元凶となった男が湯から顔を上げる。――両手にしっかりとバスタオル二人前と、弥生のビキニを握り締めながら。
「ケェェェェンちゃァァァァん…ッッ!!」
「か・ざ・み・く・ん…ッッ!!」
二人とも湯にどっぷり浸かって胸を両手で隠している為、得物を手にしてはいないが、その放つ殺気だけで地上最強の男の【相棒】を凍り付かせた。
「ま、待てッ! 誤解だッ! これは事故だッ!」
後ずさりしながら必死で弁解する拳士郎。しかしその後頭部に、ゴリッと冷たい金属が当たった。
「何が誤解だ? 何が事故だ? ケン・ボーイ…?」
と、地上最強の男がアナコンダを付き付けながら言った。文字通り水も滴るイイ男…と言えば聞こえは良いが、被った湯の量はドリフのコント並だ。さすがにちょっぴり怒っているようで、彼の金髪がざわざわと揺らめいている。
「まったく…僕たちは良い迷惑ですよ」
こちらもどっぷりと湯に呑み込まれたものだから、咳き込みつつ眼鏡を拭き拭き、貴之がごちる。後に聞いたところによると、彼には姉が三人もいて、三人とも陽気で開放的な性格の上に弟を溺愛している為、男女関係の区別が曖昧になってしまったらしく、このような状況をなんとも思わないとの事だ。
「拳士郎…なんて羨ましい…もとい、なんて真似をしやがる! お前は同志だが…俺はお前が許せねェ!」
風呂場にまで木刀を持ち込んでいる京一は、目の幅涙を流しながら拳士郎に詰め寄る。醍醐は、貧血どころか出血多量でそのまま逝ってしまいそうな勢いで鼻血を流しているのでコメント不能だ。
「わあッ! 待て待てッ! お、落ち着いて話し合おうじゃないかッ!」
「この状況で落ち着けってのッ!? さっさとそれ、返しなさいよッ!!」
ようやく、ずっと握り締めっぱなしのバスタオルと水着に気付く拳士郎。しかし、この瞬間、京一の同志である事と龍麻並のボケ(笑)を有する事を暴露してしまう。
「――わお! パッドなしのEカップ♥」
「――!!」
ドゴォォォォ――ンンッッ!!
そりゃあもう、物凄い音を立ててぶん殴られ、至福の表情のまま吹っ飛ぶ拳士郎。多分、死なずに済んだのは彼自身の耐久力云々ではなく、弥生が片手で胸を隠していた分、威力を削がれたからだろう。
「このドスケベ〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
ゴゴゴゴ…と弥生から立ち上る炎のごときオーラと、掌に収束される【気光】! 更に、取り返したバスタオルを身体にきつく巻き付け、涙目のまま清麿を振り上げる舞が加わった。
「風見君の…エッチ――――ッッ!!」
一瞬とは言え恋人以外に諸肌見せてしまった乙女の怒りが炸裂する。風見拳士郎、十八歳。心身極めて健康――過ぎて、絶体絶命――!
「――如月流天覇の太刀【比翼閃光刃】…ッ!!」
「――そこまでだ、舞」
仲間だというのに容赦なく奥義を放とうとする舞を、そっと後ろから抱き締める豹馬。清麿の輝きが未発のまま消え、拳士郎は命拾いをする。
「だ…だって、だって…!」
涙目の舞の可憐さに、京一が【萌え氏ぬ】寸前まで行く。しかし――
「君の手をドスケベ魔人の血で汚してはいけない。お仕置きは弥生に任せておけ」
「――うわあああん! 豹馬クゥゥン!」
幼児退行を起こしたような舞の子供泣き。振り返った舞はその格好のまま豹馬の胸に顔を埋めて抱き付く。京一のみならず、葵も小蒔も舞の大胆極まりない行動に息を呑み、彼女を抱き締めた豹馬の言葉にさらに度肝を抜かれた。――と言うか、頭の中が真っ白になった。
「大丈夫。俺がちゃんとお嫁に貰ってあげるから。子供もみんなで野球が出来るくらい作ろうね」
…………
「うが〜〜〜〜〜ッッッ!!」
「ぶ――――――ッッ!!」
今時、トレンディードラマの白痴的主人公どころか、低年齢対象少女漫画でも使われなくなったような歯の浮く台詞に、京一が全身のジンマシンをかきむしり、弥生が盛大に噴いた。葵と小蒔と醍醐はポカン、と開いた口が塞がらなくなり、貴之と唯は何事もなかったかのようにサイダーを啜る。しかし舞はと言えば、その一言で泣き止み、髪を撫でる豹馬の胸に頬ずりして甘えた。
「あ、豹馬の奴、羨まし」
「――なに言ってんのよッ! このドアホッッ!!」
せっかく命が助かったのに、次の瞬間には命知らずの発言をして弥生のハリセンを食らう拳士郎。今度こそ、彼はプカ、と湯船に浮いた。
「ううむ…………奥が深い」
拳士郎だと息の根を止めそうな勢いなのに、豹馬だと平気――舞にしろ弥生にしろ、同じ男相手なのにこうまで対応が違うとは…。妙なところで人間関係の複雑さと奥深さを納得する龍麻であった。
しかし――
「ええい! いつまでラブラブ光線を振りまいておるか! このバカップルはッ!」
「うおッ!?」
「きゃん!」
スパン! ズパンッ!! と鳴り響く景気の良いハリセンの音。一瞬でツッコミの道具を取り出せるのは便利だな、などと考える龍麻である。
「…物凄く痛いじゃないか」
「弥生…ひっどーい」
とりあえず抗議の声を上げる二人であったが、ブン! と風を唸らせるハリセンに押し黙る。要らんところで弥生の怒りの矛先が向いてしまったらしい。
「うるさいわね! あんたたちが状況も弁えずにイチャイチャし始めるからでしょーがッ!」
「やだ…イチャイチャなんて…」
ぽっと染まった頬を押さえ、照れまくる舞。変わり身が早いと言うか…立ち直りが早い。やはり、豹馬に肩を抱かれているせいか?
「まだ言うか、このカマトト娘は!」
「弥生ちゃん…それよりも早くこれ…。男の子達が見てるよ」
「へ…?」
怒りまくって我を忘れ、胸を片手で隠しただけで拳士郎他を殴っていた弥生。恐いのと色っぽいのを秤に掛けると、百パーセント色っぽい方に軍配の上がる彼女である。慌てて凄い勢いで湯に身を沈めた彼女だが、当然の事ながら今更遅い。いくら開放的な性格とは言っても、ぎりぎりの手ブラ状態を龍麻たちに晒してしまい、さすがに恥ずかしさに限界が来たらしい。顔を真っ赤にして怒鳴る。だが――可愛い。
「な、なに見てんのよッ! コラ! あっち向けッ!」
「え〜、できればもうちょっと…」
「――何か言った!?」
鞭打つように鋭く怒鳴られ、全面降伏の証に両手を挙げる豹馬。彼がすごすごと後ろを向くと、龍麻たちもそれに習った。京一と、呆れるほどに復活の早い拳士郎だけは何とかして見られないものかと後ろを窺ったのだが、巻き添えを怖れた龍麻たちによって頭を固定される。これ以上の騒ぎは御免蒙りたいのだ。
二人の色魔を絶対的監視に置いた事が功を奏して、タオルをきっちり巻き締めた弥生が、今の出来事をすっかり忘れたような調子で宣言した。
「――さて、気を取り直して――こうして知り合ったのも何かの縁って事で、乾杯しましょ。――あ、男ども! その岩からこっちに来たら殺すわよ! それから、あんまりこっちをジロジロ見るんじゃないわよ!」
つまり、湯船の中にある背もたれ用の岩一つが、軍事的境界線という訳だ。当然、龍麻たちに否やはなかったのだが――
「チェッ、なんでェなんでェ。ちょっとくらい見せてくれたって良いじゃねェかよォ。減るもんじゃあるまいし」
いつもなら、これは京一の台詞だろう。しかし今回、拳士郎がそれを口にした瞬間、巨大な銃をその口に突っ込んだのは豹馬の仕業だった。
「貴様のせいだというのが解らんか?」
「まいっふぁ…ほれがふぁるふぁっふぁ…」(参った。俺が悪かった。)
「本当にそう思っているのか? そもそもこの時間に風呂に入る許可を取り付けたのは俺だけ…俺と龍麻だけだった筈だ。それをなぜこれほど騒がされねばならん?」
龍麻も豹馬も、人に知られてはならない傷を持ち、刺青をしている身だ。だからこうして特別許可を貰ったのだが、なぜか共に仲間たちが勢揃いである。静かに温泉を楽しむつもりだった二人には、確かに迷惑だったかもしれない。
「しかし、貴殿は楽しそうだ」
不意に、龍麻がそんな事を言ったので、豹馬はちょっと驚いた顔をした後、苦笑してアナコンダを消した。
「…否定はしない。だが、もう少し風情を楽しませて貰いたいものだ」
「肯定だ」
龍麻が同意すると、豹馬は静かに湯に浸かり、目を閉じた。その様子を見て、拳士郎や弥生も【もう静かにしよう】と思ったのか、それぞれおとなしく手ごろな岩に身を凭せ掛ける。
やっと、まともに温泉を楽しむ事ができるとほっとする龍麻。豹馬が現れてからずっと緊張していた事に、今更ながら気付く。そして改めて、自分と豹馬を取り巻く状況に頭を巡らせる余裕を持てた。【覗き】の一件ではあれほど怒っていた舞たちが、なぜ自分から【混浴】を受け入れたのかも、今なら理解できる。豹馬がフェミニストという事もあるだろうが、皆、彼の事が心配だったのだ。そして、思ったより豹馬の状態が良いので、安心していつものような馬鹿騒ぎをやっていたのだ。そんな雰囲気こそが、豹馬が護りたいものであり、彼に平穏を与えているものだろう。
(多分、俺にも…な)
そんな事を考えていた龍麻は、しかし騒がずにはいられない男が声を上げたのでムム!? と眉根を寄せた。
「…風情ねェ。温泉で風情っつったら、やっぱコレだろっ」
もはやこの連中が何を何処から取り出そうとも驚かなくなった真神の一同。しかし、拳士郎がコトッと石畳の上に置いたものを見て、京一がおっと目を輝かせ、醍醐が渋い顔をした。
「オオッ、さすがだぜ拳士郎ッ」
「はっはっは。温泉にはこれがなくちゃ始まらねェよな」
IFAFエージェントとしての実力を抜きにして、ただの高校生でありながら妙に手慣れた手つきで一升瓶から杯に酒を注ぐ拳士郎。そして誰もが止める間もなく、キューっとやる。
「かぁ〜っ、これぞ温泉の醍醐味! ――どうだ、京一。一杯やるか?」
「お、オウッ!」
喜色満面で杯を受け取る京一であったが、背後から醍醐に羽交い締めにされる。
「何を馬鹿な事を言っているんだ、お前たちはッ! 風見も、未成年の飲酒が禁止されている事くらい知っているだろう!」
例によって例の如く固い真神の総番殿であったが、今回は相手が悪かった。
「んん〜っ? なんだ、醍醐クンよ。思い切り体育会系なのに、酒が飲めないのか?」
そう言いながらまたも酒を注ぎ、キューっとやる拳士郎。
「当たり前のように酒を呑むなっ! 俺が言っているのは単なる法律的な事だけではなくてだな…!」
「なんだなんだァ? 酒くらい呑めねェと、世の中渡っていけねェぞ」
「だからそうじゃなくてだな!」
醍醐が説教を始めようとすると、拳士郎はいきなり彼の肩に手を置いた。
「まあまあまあまあまあまあ、固い事言いっこなしっつー事で…呑めッ!」
「うおッ!!?」
いきなり醍醐の口に一升瓶を突っ込む拳士郎! 突然の事に醍醐がおたおたしている間にトクトクトクッ…と減って行く【大吟醸・美少年】。
「ぬはは。これでおのれも共犯じゃ」
「だッ、醍醐クン!」
「ちょ、ちょっとちょっと! ケンちゃん!」
ブハアッ! と醍醐が息を付いた時、一升瓶の中身は一気に半分ほども減っていた。
「おーおーおー。なかなか強いじゃん。さすがは【白虎】ッ」
「か、か、風見ィ〜〜〜〜〜〜ッ!」
温泉に浸かっているのと、彼には免疫のない刺激の連発であった事もあって、醍醐の酔いはメチャメチャ早かった。真っ赤な顔で、目が据わっている。
「お? やるか? ――ちょっと待ってろ」
ニヤニヤ笑いながらこちらも一升瓶から一気呑みを敢行する拳士郎。皆が唖然とする中、一升瓶の中身はみるみるなくなっていった。
「…止めんのか? 豹馬」
「…いや、タイミングを逸した」
「危険だぞ。アルコールは脳細胞を破壊――」
「ふふっ…ふははッ…わははははははっ! やるじゃないか、風見ィ〜〜ッ!!」
「ククク…カカカ…あはははははははっ! 当然だろうが、醍醐君よ〜〜〜ッ!」
………
龍麻がいつもの台詞を言い終える前に、突発的にハイテンションになった男たちの野太い笑い声が響いた。
「――すると心配する暇も与えてくれんな」
【あの】龍麻をして、表情が固い。そこに、とんでもないものを見てしまったからだ。
「わはははははは! 京一ィ〜ッ! なるほど酒とはうまいものだなぁ、ああん!?」
「だ、醍醐…!」
そうなのだ。今、げらげらと笑いながら京一の肩をバンバン叩いたのは、あの真神の総番殿、醍醐雄矢だったのだ。
「んん〜〜っ!? どうしたんだァ、龍麻ァ? そのしかめっ面はァ?」
「………壊れたな、醍醐」
「わははははははははっ! 何を言っているんだァ、龍麻ァ。俺は壊れてなどいないぞ。そう〜れ、この通り…唸れ! 疾風の大腿筋…!」
「――【螺旋掌】ッ!」
その戦慄の掛け声! もはや条件反射で掌法の奥義をぶっ放してしまう龍麻であった。その一方で京一、葵、小蒔の三人はおぞましい(笑)記憶が蘇り、頭を抱えて身悶えする。そして――
「うわはははははッ! 龍麻ァ、突然何をするんだァ?」
「ムウッ!? 気絶すらせんだとッ!?」
【あの】龍麻の【螺旋掌】をまともにくらい、吹っ飛んだ醍醐であったが、彼は何事もなかったかのように笑いながら立ち上がった。さすが、【魔人】たちの中で最強の防御力を誇る男――と、まあ、そんな事はどうでも良かった。高笑いしていた醍醐が、急にさめざめと泣き始めたからだ。
「ねェ…醍醐クンって、笑い上戸に泣き上戸?」
「ぼ、ボクは知らない! こんな醍醐クン、知らないよッ!?」
「わ、私も…!」
そりゃそうだろう。いつもいつも仲間たちが羽目を外し過ぎる事を諌め、仲間内からは【お父さん】&【頑固親父】と呼ばれている醍醐である。当然、彼が酔ったところなど、今まで誰も見た事がなかったのだ。
「そうか…そうなんだな…龍麻。お前は俺が嫌いなんだな」
「な、なぜそうなるのだッ!?」
「…酔っ払いの論理に定義付けは不可能だ」
かなり本気でうろたえる龍麻に、律義に説明する豹馬。しかし彼はこそこそと龍麻の傍から離れていく。
「そりゃあな…俺は頑丈なだけが取り柄で足は遅いし、不器用だし、幽霊と裏密が苦手だし、女性にも弱いし、テーマソングを聞くと変身してしまうけどなァ…そんなに嫌わなくても良いじゃないかっ!」
巨大な身体でよよと泣き伏し、ぶちぶちと愚痴る醍醐。珍しいというか滅多に見られないというか、しかしとてつもなく鬱陶しい。
「…テーマソングって…そりゃひーちゃんの仕業じゃねェか?」
「京一! 貴様余計な事を…!」
だが、さめざめと泣く醍醐の耳がピク! と動く。どうやらしっかり聞こえてしまったらしい。
「そうか…! そうだったな! いつもいつも面白くもない(グサッ)寒いギャグ(グサッ)を聞かせる上に、妙なコスチューム(グサッ)を押し付けるのも…龍麻! お前だったな!」
今度は怒り出す醍醐! もはや手が付けられない。
しかし今度は、冷静沈着が売りの龍麻も怒り出した。胸を押さえる手が震えている。
「むう…貴様、言いにくい事をはっきりと…許さん!」
「それはこっちの台詞だ! コスプレ落語オタクめ! ――【破岩掌】ッ!!」
「何を言うかッ! プロレスオタクめがッ! ――【円空破】ッッ!!」
岩をも微塵に砕く広範囲破砕型発剄に、徒手空拳【陽】の拡散型発剄が激突し、派手に湯飛沫を跳ね上げた。考えてみれば【魔人】たちは模擬戦闘はやっても、喧嘩などする者はいなかった。それを最初に、しかもこんな低レベルな切っ掛けで破ったのが、事もあろうに指揮官の龍麻と、お堅い醍醐であったとは。
「わはははははっ! やれやれ〜っ」
そもそもの切っ掛けを作った張本人は、無責任にも新たな一升瓶を抱えて声援なぞ送っている。場を納める気などまったくないらしい。
「拳士郎! 自分がなにやったか分かってるのかッ!」
「どーするのよ! 龍麻クンと醍醐クンが喧嘩になっちゃったじゃない!」
「わはははははっ! 火事と喧嘩はお江戸の華でいッ!」
「…ここは京都だよ、ケン…」
「あはははははッ! 細けェ事は気にすんな! それよりも、まァ呑め呑め」
「わぶっ…!!」
この瞬間、迂闊に過ぎた京一。醍醐とまったく同じパターンで拳士郎の豪腕に捕まり、一升瓶を口の中に突っ込まれる。
「こ、コラ! ケンちゃん!」
慌てて止めに入った弥生であったが、京一もよたよたよたっと湯船に倒れ込む。やはり一升瓶の半分ほども一気呑みさせられてしまったのだ。
「おーおーおー、さすがは我が心の友! 良い呑みっぷりだ!」
げらげら笑いながら更に酒をラッパ呑みする拳士郎。その後頭部を弥生がどついた。
「更に煽ってどーすんのよッ!! まったくこの馬鹿は…!」
「弥生。危ないぞ」
唐突に豹馬が警告を発し、弥生が「!?」となった時であった。いきなり拳士郎が彼女に抱き付いた。
「キャーッ! なにすんのよッッ!!」
何をするもくそもない。だらしなく笑み崩れた拳士郎の口はタコの口と化していた。
「酒の上での不埒じゃあァ〜ッ! お許しを〜ッ!」
今まさに弥生の唇が奪われる寸前、拳士郎の後頭部でゴスッという音が響き、彼は湯の中に沈んだ。彼の後頭部を襲った金属バットを持っているのは舞である。
「大丈夫? 弥生…」
「舞。危ないぞ」
またしても唐突な豹馬の警告。しかし舞はその瞬間にぱっと身を伏せる。そのため、「むゎいちゅゎ〜ん!」という掛け声とともに彼女に抱きつこうとしていた京一は舞を飛び越え、ダッパーンとお湯飛沫を上げる。だがすぐさま顔を上げた、目が半開き(ある意味イッちゃった目)の京一は、目の前にいた弥生に抱きついた。拳士郎を警戒していた弥生は反応が遅れ、京一はあろう事か彼女の胸にすりすりと頬擦りするという自殺行為(笑)までしてしまった。
「弥生ちゃ〜んッ! 酒の上での不埒ィ! お許し…!」
「京一ッ! このアホ―ッ!!」
小蒔の右ワイルドパンチで頭を、弥生の跳ね上げた膝で股間を強打され、哀れ一撃で悶絶する京一。しかし鼻血を噴いて湯に沈む彼の顔は至福の表情であった。
「どぉうりゃぁぁぁぁっっ!!」
「オォォォォォッッ!!」
こっちはこっちで、高レベルなのか低レベルなのか解らぬ喧嘩を続けている龍麻と醍醐。
「む〜〜〜っ! もうアッタマ来たわッッ!」
弥生の両手に光と共に篭手が装着され、珊瑚のような触手を飛ばす【雷気】が集約する!
「やばっ! 葵ちゃん! 小蒔ちゃん!」
「キャッ…!?」
「わッ!?」
機転を利かせた唯が葵と小蒔の腰を抱いて湯船を飛び出し、豹馬と舞、貴之も湯から離れる。次の瞬間――
ドババババババババババババッッ!
「「「「んぎゃああァァァァァァァァァァッッ!!」」」」
湯船全体に広がった高圧電流に、龍麻たち四人の悲鳴が重なって響き渡った。
「ふう…良い月ねぇ…」
「あはは…ホントに…」
清澄な月明かりの中、夢の中の天女の如く微笑む弥生に、引き攣った愛想笑いで応える小蒔。
「うふふ…静かで、本当に良い夜…」
今し方の出来事など忘れ去ったかのように両手で持った猪口を口元に運ぶ葵。中身は勿論、清涼飲料水である。
「ホントだよねーっ。お肌つるつるーっ」
「ここは肌に凄く良いお湯なんですって」
「ふっふっふ〜。アタシたちにはピッタリよね〜」
あれだけ暴れまわった後だというのに、実に頭の切り替えが早い【姉御】の言葉に、女の子たちは笑いを洩らす。そこには男性陣の姿は一切ない。彼らは今、露天風呂の隅っこの方に追いやられ、その内の約二名は簀巻きにされて転がされていた。悪酔いした醍醐はとりあえず葵が【解毒】を施したので、猛省している。そして龍麻は…長髪を天然パーマにした状態のまま、むっつりへの字口を鋭角にして湯に浸かっていた。葵に治して貰えなかった大小のたんこぶが痛むらしい。
「後で背中を流しっこしましょ。好きなオトコノコの為にも、キレイにならなくっちゃね〜っ」
「も、もう…弥生ったら…!」
「あ、暁さん…!」
真っ赤になった顔を伏せる小蒔と舞。そんな二人の肩を、弥生はぽんぽんと叩く。
「からかってる訳じゃないわよォ。せっかくイイ男を捕まえたんだから、逃がさないようにしなくちゃね〜。ね、葵さんも、そう思うでしょ?」
「え!? ええ…」
不意に話を振られた葵だが、ちょっと動揺しながらも微笑み返す。すると弥生は急に声を潜めた。
「ねえ、やっぱり葵さんは、龍麻クンが好きなの?」
「え…!?」
突然の質問に、ぱっと赤くなる葵。それが何よりも、弥生の質問を雄弁に肯定していた。
「そんなに恥ずかしがる事ないでしょ? 龍麻クン、カッコイイもんね」
「わ、私は別に…」
葵が言葉を濁すと、弥生は少し真面目な顔つきになった。
「駄目よ、葵さん。もし本当に好きなら、引っ込んでいちゃ駄目。そうよね、舞?」
「わ、私?」
「そうよ。舞なら解るんじゃない? 龍麻クンって、出会ったばかりの頃のパンサーにそっくりだもんね」
「え? そ、そうなのっ!?」
小蒔が身を乗り出す。今の豹馬を見ると、とても龍麻とそっくりだったとは想像できないからだ。
「IFAF機動海兵隊【龍騎兵隊(】と、アメリカ陸軍対テロ特殊実験部隊レッドキャップス…似てて当然でしょ? 多分龍麻クンも、あんな風になったのってここ最近の事じゃない?」
「え、ええ…。初めて会った頃はもっと…冷たい感じでした」
「やっぱりね…。うーん…おせっかいとは思うんだけど、ちょっとアドバイス良いかしら?」
「アドバイス?」
弥生は舞と顔を見合わせ、肯いた。
「そう。ああいう男の子の口説き方…じゃなくて、うーん、なんて言ったら良いかしら?」
うまい言葉が見つからないのか、弥生は少し考え込む。その様子はとても真剣で、先程までふざけ合っていた時の彼女とは違っていた。そしてこれもまた、弥生が皆から好かれる基なのだろう。真剣ではあるが、不必要に親身ではなく、本当にアドバイス程度に留めようという気持ちが伝わってくる。
言葉に困っている弥生に代わり、舞が口を開いた。
「…葵さん。これは私の体験なんですけど…戦士を好きになったら、躊躇っていては駄目です。戦いの中に身を置いている戦士は、周りの事が見えていません。どんなにそばにいても、目に映っていないんです。そんな人に自分を見てもらうためには、胸倉を掴んででも振り向かせないと駄目なんです」
それはどちらかと言うと弥生の方が似合いそうだけど…と小蒔は思ったが、葵が真剣に聞いているので口を挟むような愚は冒さなかった。考えてみれば、自分もそうだったような気もする。
「豹馬君も緋勇さんも、自分の命よりもまず他人の…任務を遂行する事だけを教育されてきた人たちです。ですから他人の事は気にもかけません。時には自分の命さえも。だから周りの人は誤解してしまうんです。特に豹馬君は、自分が人間である事さえ拒否していましたから、言う事は凄く冷淡で、反感を買うような事ばかりでした。緋勇さんは気配りの上手な方ですからそんな事はないと思いますけど、【それ】が最良であると判断した時、自分を省みないところは同じだと思います」
「…それを変えさせたのが、パンサーの場合はこの舞ってワケ」
弥生は舞の両肩にそっと手を置いた。
「アタシたちも最初はあんな化け物の存在なんか知らなかったし、パンサーがIFAFのエージェントだなんて事も知らなかったからね。パンサーが妙な疑いを掛けられたりした時、正直なところ疑ったり非難したりしちゃったのよ。連日連夜、あんな化け物と闘っているのを、夜遊びしているだなんて、今思い出しても自分に腹が立つわ。――でも、舞だけは最後の最後までパンサーを信じてたのよ。周り中がパンサーを敵視しても、最後まで彼を信じきったのよね。パンサーの正体がばれちゃっても、態度を変えなかったのは舞だけだもの。でもそれからのパンサーはもう酷くて酷くて…はっきり言って凄いひねくれ者だったわね。味方なんて要らないって言いきるし、瀕死になっても誰の手も借りようとしない。手足を切り落とされてもほっとけなんて吐き捨ててたしね」
「……」
「パンサーは大きな猫みたいなものだったのよね。不必要に構われるのが嫌いで、一度敵対すると二度と見向きもしなくなる。だけどそれだけに、凄く孤独に見えて、放っておけなかったのよ。そして一番体当たりで彼を振り向かせたのが、この舞だったのよ」
体当たり…というところで、少し顔を赤らめる舞。
「凄かったよねー。舞ちゃんってば、豹馬君と本気で闘っちゃうんだもん」
エエッ!? と驚く、葵に小蒔。【あの】魔物と化す男と、この少女が本気で闘った?
「…そうでもしないと、豹馬君が死んでしまうと思ったんです。実際、あの時の豹馬君は死に掛けていましたから、私が勝ったのはただの幸運です。でも、それがあったお陰で豹馬君は私の方を向いてくれるようになりました。死にたがるような闘い方をするのも止めてくれましたし…今ではそれで良かったと思います」
「…それまでのパンサーって、空っぽだったのよね。ずっと一人で生きていて、初めて得た家族…【ドラグーン】の皆も亡くしちゃって、今のIFAFもパンサーを体(の良い猟犬くらいにしか考えていない。都合の悪い時だけ呼ばれて、命懸けで闘って、【奴ら】をやっつけたらハイサヨナラ――どころか、石もて追われるんだもの。助けてもらっておきながら、魔物は死ねとか何とか言いたい放題。人間不信も、当然よね? ――だけど、そこに舞が飛び込んだのよ。それこそもう、ストーカー並のアタックよ。手作り弁当攻撃に膝枕攻撃。それまでの舞からは信じられないくらいにアタックを繰り返して、とうとう公認の彼氏にしちゃったのよ」
「弥生ちゃん…それ…酷い言い方…」
凄まじく重い話から一転、軽い口調に切り替える弥生に、唯がコソッと突っ込む。言葉だけ聞けば舞をからかっているようにも思えるが、舞の方は照れまくるだけで少しも気にしていないようだ。
「やだ…公認だなんて…」
「…少しも堪えてないな、このカマトト娘は。――まあ、男嫌いで有名だったこの子もパンサーに一目惚れしてからこんな風になっちゃったんだけど、以前のお澄まし人形さんみたいな舞より、今の舞の方があたしは好きよ。舞がこんなに強くなるなんて、人を好きになるって本当に凄い事だと思うわ。復讐に凝り固まっていたパンサーを、あんな風に笑えるようにするくらいだもの」
「ううん。それは、私だけじゃないわ。弥生も唯ちゃんも、風見君も小早川君も、皆が豹馬君を心配して、一緒に闘ってくれたからよ」
「ふっふ〜ん。でもアタシたちは、彼の部屋までは押しかけてないわよね」
いきなりの爆弾発言に、舞は真っ赤になる。今更という気がしないでもないが。
「でもそのお陰で、パンサーが心を開いてくれたんでしょ? あの時の舞って通い妻同然だったもんね〜」
「だ、だって、あれは豹馬君があんな状態だったから…(ブクブクブク)…」
「その間にも色々あったでしょ。パンサーが強姦事件の犯人にされた時には生徒会の正義の味方気取り相手の大立ち回りで庇ってあげたし、プールに落とされて溺れそうになった時も真っ先に飛び込んで助けてあげたじゃない。そんなこんなで任務解任された彼にボランティアを強要しなかったのもそうでしょ。こんなに身体張ってるのを体当たりと言わずして何と言おうか」
やはり響豹馬絡みでは【普通】の恋愛話にはならないようだ。しかもこの如月舞のイメージからは情景が想像し難い。
「そんなに色々あったって…なんだか話だけ聞いていると、まるでふた昔前のトンデモ学園アクションドラマみたいですね」
小蒔の言葉に、弥生はぬははと声を上げて笑った。
「そうそうッ。ちょっと陰のあるクール系気取りのヒーローがパンサーで、ネコかぶったお嬢様ヒロインが舞の、学園青春ドタバタラブコメディーそのまんまね。最初は――パンサーに秘密を嗅ぎ付けられたエロ教師が女の子を脅して強姦事件をでっち上げた件だったわね。で、彼が黙って頭に血の昇った連中のリンチに遭ってたのを、舞が蹴散らしたのよ。で、舞がそんな事をするからにはパンサーが不埒な真似をしたに違いないと、別の連中が彼をプールに突き落としたのよね。彼が金槌だって事は知られてたから確信犯の殺人未遂だったんだけど、それも舞が彼をプールから引っ張り上げたんでうやむやにされたと。さすがにあたしらもなんか変だって思ったわよ。やられた方が平然とし過ぎなんだもん」
それはそうだろう。たかが学生ごときが正義の味方を気取って振るう暴力など、【不死身】の男に何の意味がある?
「要するに、彼にとってはお節介だったんだろうけど、それが彼の琴線に触れたんでしょうね。日本刀で刺された上に車で撥ねるような真似をした挙句に自分を追い出した連中を、バンパイアもどきの集団から護ってくれなんてお願いを聞いてあげたんだから。ま〜条件付きではあったけどね」
あ…と口元に手を当てる葵。夕食後の風呂で聞いた、一日奴隷の件だ。
当時の事を思い出したか、苦笑しつつも弥生は楽しそうだ。嫌な記憶ではあろうが、それを凌駕する想い出もあるのだろう。
「普通ならこの野郎! ってなる条件よね。トラブル一件につき十万ドルが相場で、払えないなら一日俺の自由になれ、だもんね。どんな事を要求されても逆らわないなら受けてやるって。――こんな条件、即答する方もどうかしてるわよ、舞?」
彼女にとっては恥ずかしい思い出なのか、顔半分沈んでいる舞の頭をぽんぽんと叩く弥生。
「ま、とーぜん、周囲は猛反対よ。助けてもらっておきながら酷い罵詈雑言の嵐だったわね。【人間】ってこんなに醜いものかって最初に思った事件だったけど、彼ったらそれを楽しんでるみたいでさ。それまであたし達だけは何とか普通に接してきたつもりだったけど、すっごく遠い存在に感じちゃったわよ。自分とは住む世界が全然違う人なんだって」
葵と小蒔が同時にはっとする。龍麻と共に歩んだ日々の中で、何度か自分たちも直面した事だ。元軍人であり、殺人も経験している、明らかに【普通】の高校生とは相容れない存在。それが――緋勇龍麻という男だ。彼の無表情なまま流す涙を、夜の青山墓地で【帰れ】と告げた時の激昂を、彼女たちは忘れていない。
だが、自分達はそれを知って尚、彼に付いて行く事を決めた。理由は上げれば切りがないが、あえて一つ上げるならば、緋勇龍麻という【人間】に惹かれて。
「彼もそう考えてたみたいでね。舞が約束を守った時には驚いてたわよ。――そりゃそうよね。あたし達だって止めたし、舞を狙ってた生徒会長なんて拉致してまで止めようとしてたんだから。でもこの子ってば、約束を守り通したのよ」
「で、でもその後の顛末は…」
再び、ぬははと笑う弥生。舞の顔がバシャバシャと水面下に浮き沈みするのも構わず彼女の頭をぽんぽんと叩く。
「その通りッ。ま〜心配したのがバカバカしくなるくらいに普通のデートだったわよ。遊園地で二人してはしゃいで、カラオケボックスで歌って、少し早めの夕食にお蕎麦屋さんに入って…そこが本来の目的地だったなんてね」
「は、はあ…。でもなぜにお蕎麦屋さんに…?」
「お兄さんの入れ知恵でね。遊園地やらカラオケボックスには可愛い女の子と行けって言われてたんですって。で、お兄さんが好きだって言うお蕎麦も食べてみたかったんだけど、彼、箸がうまく使えなくてね。きれいな箸使いの舞を誘いたかったんですって」
「エエッ!? そんな事が十万ドルの代わりなの?」
「そう。彼にとっては、命がけの戦いをするに足る報酬だった訳ね。そんな、あたし達にとってはごく普通の事が…」
それも、龍麻にそっくりだ。葵がまだ彼と知り合って間もない頃、彼から聞いた事にそれがあった。【普通】に振舞ったならば、【自分】を否定しなければならないと。【自分】を否定する事は、失ってはならぬ仲間たちの記憶さえも捨て去る事であると。
【普通】ではない人生を送ってきた男たちだからこそ、【普通】である事の大切さを知っている。そしていくら自分たちが【普通】に振舞おうとも、それに染まる事はない事も。戦いに生きてきた者が、戦いを知らぬ者に満ち溢れた世界に混ざろうとしたところで、それは水と油の関係に近い。濁って浮かび上がるのか、重く沈殿するのか、いずれにせよ彼らは、世界から孤立してしまうのだ。
「そしてパンサーはね、その日を境に【こちら側】と決別したの。【休暇は終わりだ】って言ってね。それからはバンパイアもどきとの戦い三昧。夜は【奴ら】を、昼間は【奴ら】の信奉者だったり、正義の味方面する【人間】を相手に孤立無援の戦いよ。――今思えば、彼があたし達の学園に送り込まれたのも、彼を殺す作戦だったのね。【使徒】を相手に消耗した彼に【人間】をけしかけて昼間も休めないようにして、飢えて、狂って、暴れさせる為の」
「…ッッ!」
「でも、そうは問屋が卸さない。これが運命だって言うなら、こりゃ〜神サマってのは相当ひねくれてる、意外と純情な奴かもね。――【使徒】と戦って穢れた【気】を変換できる子が、そういう男に一目惚れするなんてさ」
舞の肩にガシッと手を廻し、実際にはヘッドロックをかまして笑う弥生。
「恋は盲目とは言うものの、この子ってばパンサーがデビルマンかホイミスライムかって身体に変身する事も承知の上で、平気で接してたもんね。ある時なんか、目の前で溶けてスライムみたいな身体になっちゃったパンサーをバケツに入れて運んであげたり、翼があると寝難いだろうってうつ伏せに膝枕させてあげたりね。正直、専門用語で言うなら舞のSAN値が下がったのかと思ったわよ」
SAN値…クトゥルフ・テーブルトークRPGに言うところの【正気度】の事である。確かに葵も小蒔も、知人がスライム状に溶けてしまったらパニックを起こすだろうと考え、それをあっさり【バケツで運んだ】という舞に対しては【ちょっと変かも…】思ってしまう。
「でもね、パンサーも他人の行為を無碍にするような今時のヒネ餓鬼ヒーローじゃないし、割と女の子の頼みを断れないタイプだから、色々な乙女攻撃を押し切られちゃってね。そのおかげで彼が意外と能天気で子供っぽくて姉萌えの甘えん坊でついでにスケベだっていう人となりが周囲にも理解されて、以前みたいに怖がられなくなったのよ。ホント、愛って奴は言葉や数字じゃ現し切れないミステリーよね〜」
ヘッドロックをかまされて尚、恥ずかしさのあまり撃沈する舞の頭を優しく撫で、弥生は葵に向き直った。
「葵さんも、龍麻クンを人殺しだとか、戦闘マシンだなんて思ってないわよね?」
「も、勿論ですッ」
「それならもう、アタックあるのみじゃない? 時にはなりふり構わず攻めてみなくちゃ。確かに龍麻クンって凄い朴念仁だけど、復讐とかそういうのに縛られている訳じゃないから、意外と落とすの簡単かもよ?」
「そ、そうでしょうか…?」
葵のこの台詞に、小蒔が「おっ」と声を上げかける。
「うん。ああいう朴念仁なら、いきなり大胆に迫っても変な目で見る事はないからね。現にさっきだってやり過ぎかな〜と思ったけど、彼ってば子供みたいな照れ方して、可愛かったでしょ? 彼が闘いから離れたら、うんと甘えてみるとか、甘えさせてみるとかしてみるといいわ。むしろアタシ的には…今こそが調教のチャンスだという気もするわね」
「そ、そうですか…」
頬を染めながらも、肯く葵。小蒔はそんな彼女の様子に驚きつつも、これは良い兆候だと思った。確かに今までのような引込み思案では、到底龍麻の朴念仁を克服する事などできないからだ。しかし…
「弥生、悪い顔してる。今すっごく悪巧みの顔になってるわよ」
「えっ?」
「今更ペコちゃん顔しても駄目です。今、緋勇さんをおかずにして凄くえっちな事考えてたでしょ? しかも豹馬君と掛け算とか…」
「ま、舞!? ヘアバンドしてるのに何でッ!?」
「その位解りますッ。豹馬君は純情な女の子に恋するノーマル路線をひた走るんです。そういう妄想は許しませんっ」
「どゎ〜れが純情じゃ、この耳年増が。うちに来た時、平積みのレディコミ読み漁ってたクセに」
「だ、だってあれは、弥生がアレを読んで勉強しなさいって…!」
「お? おっ? まさかアレを実践したの? マジでバニーの格好で接待プレイとか、裸エプロンの新妻プレイ?」
舞の顔がぼっと火を噴く。それは、【アレ】とやらを実践したという事であった。
「お〜お〜っ! それは是非感想を聞かなきゃね。お〜い、パンサー…って、ゴボゴ゛ボガボッ!」
手を振って豹馬を呼ぼうとした弥生は、しかし裸締めにされた挙句に湯船に顔を沈められる。ものの弾みではあろうが、軍隊格闘術の殺し技である。
「そんな事聞かせませんっ! ――注意して下さいね、葵さん。緋勇さんって意外と暗示に弱いタイプみたいですから、変な事を教えられても真に受けちゃいますよっ」
「は、はあ、それは確かに…」
思慮深いし先見性はあるし大局的な視点を持ってるし…と、賞賛すべき点が多々ある男である筈なのに、なぜか京一あたりのガセを鵜呑みにしてしまうなどの間抜けっぷりも有する龍麻である。舞の指摘は的確だ。
「そうだねー。気を付けてないと、風見君みたいに家来にされちゃうかもー」
「――唯ちゃんッッ!?」
いきなり無邪気な唯の言葉に、今度はゲホゲホと咽ていた弥生が真っ赤になった。
「あれ…? や、やっぱり風見君って、弥生さんの彼氏…」
「そッ、そんなワケないじゃない! やあね、もう! 小蒔ちゃんったら!」
思い切り否定するところが、かえって怪しい…と言うより、傍から見ていて、そう思わない方が不思議である。どうかすると京一よりもスケベな拳士郎に対して、いつもプンスカしている彼女であるが、本心から怒っているようには見えないのだ。
「良いんですよ、小蒔さん。弥生と風見君って、うちの学校じゃ知らない人はいないほど仲が良いんですから」
ニマ〜っとちょっぴり悪巧み顔の舞が二人の仲を肯定する。どうやら舞は、正式な風呂の時間にからかわれたお返しをしたいようだ。言い回しまでそっくり弥生の真似をする。
「も、もう! なによ、舞ったら!」
「恥ずかしがらなくても良いでしょ? 私にとっては理想と憧れのカップルなんですもの。――弥生と風見君って、生まれた時以来の幼馴染なんですよ。家も部屋もお隣同士で、姉弟みたいに育ったんですって」
「そ、そうなんですか…ッ!」
憧れの人の恋愛談義に、ちょっと興奮気味に聞き入る小蒔。ベタベタラブコメディ的設定もまた良い。
「ええ。小さい頃の風見君は身体が弱くて、いつも弥生が世話してあげてたそうですよ。元気になるようにって、おままごとでもイモリの黒焼きとか羊の脳みその肉団子とか本物の薬膳料理を作ってあげたり、彼が空手を習い始めたら自分も一緒に習いに行って女鉄腕アトムって異名を馳せたり。風見君をあんな風に強くて優しい男の子にしたのって弥生なんですよ。そして今では学園でもトップレベルの武道家になるほど元気になって、いつも仲良くいがみ合えて、これって理想のカップルですよね?」
子供のままごとにイモリの黒焼きとか食べさせ、女鉄腕アトムと呼ばれ、元気一杯にぶん殴れるのが理想…か? 舞の意見に無条件に賛成して良いものかどうか、ちょっぴり悩んだ葵に小蒔であった。やはりこの如月舞、SAN値が下がっているのでは…という考えを必死で脳裏から振り払う。しかし…
「――そうか、弥生。お前の気持ちはよっく解った」
「け、ケンちゃんっ!? いつのまにッ!!?」
そこにいる筈のない男が忽然と背後に現れ、激しく動揺する弥生。舞たちも同じである。
「か、風見君ッ!? あっちで簀巻きになってた筈じゃ…」
「わはははははッ! たとえ発剄をくらい、電撃を浴び、関節を外されて簀巻きにされようとも、我が愛を妨げる事はできん! さあ弥生! ここで葵ちゃんに愛のレッスンを…!」
「この…ドアホ―――ッッ!!」
何度酷い目に遭わされようとも少しも堪えない拳士郎に、弥生の強烈なアッパーが飛ぶ。鼻血の尾を引きつつも、笑いながら吹っ飛ぶ拳士郎。
「はあはあはあ…! まったく…どうやって抜け出してきたやら…!」
【これ】を見て、本当に楽しそうに見えるのか? 葵と小蒔はただただ呆然とするばかりなのに、舞も唯も笑っている。拳士郎が湯の中に沈んだっきり、浮かんでこないのに…。
「あの、風見さん、大丈夫なんですか?」
「う〜ん、今度ばかりはどうだろ?」
「良いのが入ったけど…多分あと五秒もすれば…」
そんな呑気な事を言っている間に、水面が盛り上がり、傷一つない拳士郎が身を起こした。
「あー、やっぱり平気だ」
「風見君だもんね」
葵や小蒔ら【魔人】であっても驚かずにいられない拳士郎のタフネスぶりは、彼女たちの中では日常の一部に過ぎないようだ。
「そこ! それだけで納得するんじゃないわよッ!」
「ぬはははははッ! 恥ずかしがる事はないぞ弥生!」
「誰が恥ずかしがってんのよッ! わッ! こっち来るなッ! セクハラターミネーター!」
再び怒涛の発剄を放つ弥生! しかしターミネーターとは良く言ったもので、拳士郎は吹っ飛びはするものの、すぐに立ち直る。どうやら拳士郎にはまだ酒が残っているらしく、とても一発や二発では沈めきれないようだ。
「ちょ、ちょっと舞! 笑ってないで手伝いなさいよ!」
「えー、でも、邪魔しちゃ悪いわ」
「なっ、何の邪魔よ!?」
「だって、楽しそうだし」
本当に? 本当にそう思っているのか!? 葵と小蒔はそう突っ込みたかったのだが、舞の邪気のない笑顔に圧倒されて何も言えなかった。
「喧嘩するほど仲が良いって言いますもんね。豹馬君も、風見君の十分の一くらいで良いから積極的に迫ってくれないかな〜とか、時々思いますし」
「………」
見た目も中身も【お嬢様】な舞の口からこんな言葉が出るとは…。人を好きになるという事は、確かに凄い事だ。
(如月さんって、本当に響さんの事が好きなのね。…羨ましい)
自分の気持ちを正直に出す事ができないでいる葵には、照れながらもそんな事を言ってのける舞がとても眩しく見えた。同時に、凄い勢いで怒っていながら、確かに楽しそうに見える弥生も。
(私も…変わらなくちゃ…。もっと強く…)
葵は顔を上げ、湯船の反対側にいる龍麻に視線を向けた。
龍麻は豹馬を相手に、難しい顔をしていた。しかし現在彼の頭はドリフ大爆笑の森光子(敬称略)状態なので、真面目な顔をすればするほど間抜けである。
「豹馬…やはり自分には、女心というものが理解できない。なぜ温泉に入るという行為に生死を賭けねばならんのだ?」
「気にするな。気にしたら負けだよ」
「むう…。それにしても、なぜにケンはこうまでタフなのだ。醍醐でもこうはいかんぞ」
「女性に攻撃されると、かえってパワーアップするんだろうな、奴の場合」
「ふむ…まるで京一と醍醐を足したようだ」
「「ひーちゃん(龍麻)!! 俺(X2)を引き合いに出すなっ!!」」
簀巻き状態の京一と、岩に頭を擦りつけて猛省中の醍醐が怒鳴る。
「楽しければ良いだろう? 特に女の子がニコニコしているのを見るのは気分が良い」
「それは同意できるが、その先はいまだ理解が及ばん。重要な事だとは思うが、困難な課題になりそうだ」
クック、と豹馬は喉の奥で笑った。無邪気な笑み。見るものをほっとさせる笑みである。
「そんな生真面目に、課題だなんて考える事はないよ。――女性とは実に素晴らしい存在だよ。温かくて、柔らかくて、優しくて、安らぎをくれる。母となったら子を育み、命を未来へ繋ぐ。お婆ちゃんになったら、蓄えた知恵を授けてくれる。男なら、こんな素敵な存在を護らずにはいられないさ。俺の場合は、姉さんの影響が一番大きかったけどね」
「なるほど。確かに個性的且つ魅力的な姉上方だ」
「あまり迂闊な事は言わない方が良いぞ。筆おろしには年上が良いのは確かだが、今の姉さん達だと絞り尽くされるぞ」
リアルで過激な豹馬の言葉で、京一と醍醐が真っ赤になったが、少しも普通ではない龍麻はふむと頷いた。
「今の自分には早かろう。女心のおの字も知らぬ自分では、女性に失礼というものだ」
豹馬は苦笑して頭を振った。さすがの彼も龍麻の朴念仁っぷりに呆れたらしい。
「君の場合は女心云々よりも、人生観に柔軟性を持つ方が先かな。弥生も言っていただろう? 【人間】の青春は短いぞ。君がいつまでもそのままだと、泣く女性が多そうだ。女を泣かせる奴は許せないな」
「そうは言うがな、自分にどうしろと言うのだ?」
「他人に指図されるような事じゃないよ。――さっき弥生に抱き締められた時、君はどう思った?」
「困った。いつ殴られるかと怖かった」
即答である。しかし豹馬は光る目を彼に向けた。
「それだけかい?」
「他には――特にない」
「本当に?」
繰り返される質問をしつこいとは思わなかった龍麻だが、それこそが彼が知りたい事なのかと思い当たり、少し掘り下げて思い起こしてみる。
「ふむ…あのような事は未経験なのでうまく言えんが…気分が落ち着いたな」
「へえ。――他には?」
「う…む。何か、自分が小さくなったような感じがしたな。確かに殴られそうな怖さはあったが、暁殿が大変優しい女性だというのは良く解った。全て任せてしまっても構わぬというような、安心感を覚えたな」
その時龍麻は、豹馬の口元が笑いを刻むのを見た。
出撃前にも見た、あの笑みである。それを浮かばせたのが自分であると誇れるような、美しい笑み。
「彩雲学園の男子のみならず、彼女を知る全国の青少年諸君憧れの弥生の胸に抱かれて【それ】とはな。まったく恐れ入るばかりの朴念仁っぷりだが、安心したよ」
「安心…?」
「弥生は特別母性たっぷりな素敵な女性さ。君もちゃんと彼女の優しさを感じ取れたし、安らぎも感じられた。それが解るようなら、無理に馬鹿になってナンパしまくるような真似をしなくても良い」
「…ふむ」
「しかしあの胸に抱かれて煩悩の一つも湧かないようじゃいけないな。俺も同じ事をしてもらった時、つい頬擦りして拳骨ももらったよ。俺も母親の記憶はないが、あれはお母さんに叱られる時の一撃だろうな。痛かったが、温かかったよ」
「…なるほど」
「弥生の言う通り、君自身は意識していなくても、君は筋金入りのフェミニストなんだろうな。それに君には既に、愛というものに手本と言うか、理想像があるみたいだ。それも飛び切りの純愛って奴が」
はっとした龍麻の脳裏に過ぎる、ナイフ使いの少年と、妖魔にされつつある少女。理不尽に引き裂かれ、一人は血みどろの修羅の道を行き、一人は一片の希望のみを糧に恐怖と屈辱の日々を耐え、いつか必ず再会せんと戦う若きカップル。己に利がなくとも、チャンスあらば救いたいと最初に思わせた者たちだ。
「そういうのを知っているとなると、俺の真似は出来まい。君の場合は、武術を通じて学ぶ方が早そうだ。俺で良ければ教えるよ」
首を彼の方へと巡らす龍麻。――身体ごと振り向いたら女性陣から何かが吹っ飛んできそうだからだ。
「俺が、太極拳を?」
「後は、八卦掌もね。――君の戦い方は直線を制する速攻型、力で相手を制する剛法だ。君の攻撃力を持ってすれば大抵の奴は片付くだろうけど、耐久力に優れている奴相手には苦戦するんじゃないかな」
「――その通りだ」
「だったら、学ぶべきは柔法だ。剛柔相済は武術の基本だし、君の格闘技にも柔法の片鱗が見られるから、相手の力を利用し、受け流し、無効化する【化剄】を身に付ければより強くなれる。失われている技術を甦らせる事も出来るかも知れないよ」
「それは願ってもない事だが…自分が習得できるだろうか?」
「戦う為だけに教えるんじゃないよ。太極拳も八卦掌も、力をぶつけ合う技じゃない。反発する力を受け流し、優しく受け止め、消し去るのは、人生全てに通じる。相手の気持ちを推し量り、望むものを与え、あるいは間違いを正し良い所は伸ばして和合する。まあ、もう少し自分を見る女性の気持ちを理解して、人生を楽しめって事さ」
「そういうものか。――いつから教えてもらえるだろうか?」
「たった今からさ。まずは――戦争の中でも青春を謳歌できる素晴らしきお気楽者たちに――」
まるで花火の如く次々と炸裂する【気弾】の乱舞を横目に苦笑しながら、龍麻と豹馬はジンジャー・エールの瓶を軽くぶつけて乾杯した。
「…やれやれ。騒がしい事だ」
「まあまあ、エエやないか。楽しそうやし」
「引率の教師としては、そういう訳にもいかんのだがな、【門天丸】」
「そないな固いこと言わんと、あんじょう見逃してやってや。――刻(が迫っとる。ああやって笑えるんは、今だけやも知れないんや。なあ、ピセルはんもそう思うやろ?」
「はい。笑いとは、心を豊かにすると教わりましたわ」
先程感動的に消滅してのけながら、ちゃっかりと【昔馴染み】の所にいる【門天丸】とピセルがにこりと笑い、手の中に小さな【石】を転がすのを見て、犬神はふっと口元に笑みを浮かべた。
「…そうかも知れんな」
犬神は白衣のポケットに手を当て、そこに【門天丸】達が手にしているものと同じ【石】が入っている事を確認すると、苦笑めいた穏やかな笑みを浮かべてタバコをもみ消した。
第壱拾四話外伝 ホットタブ・パーティー 完
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