第参話閑話 FNG





 
【FNG】――Facking New Guy ――直訳「くそ新兵」。正規の訓練を受けていない、短期養成兵の意。









(――こッ、殺される・・・ッッ!)

 薄暗がりに支配された空間がぼやけて見える。すぐ目の前にいる筈の【仲間】・・・否、【教官殿】の背中さえ、陽炎のように頼りなく見える。――極度の疲労と、渇きのためだ。

(何をどう間違って…こんな事になっちまったんだ…)

 背中に背負ったリュック・・・アリスパックと呼ばれる大型リュックの背中には一リットル入りの水筒が二個も入っていたが、既に二つとも空っぽである。確か最後に飲み切ったのは・・・三時間前の事だ。

(もう何時間歩いているんだ…? 四時間? 五時間か…?)

 このままでは本当に死ぬ。アリスパックの背負い紐ストラップが思う様食い込んだ身体は鉛のように重く、固くて馴染まないジャングルブーツを履いた足は痛感神経だけが残る棒と化している。闘って死ぬならともかく、筋肉痛と靴擦れと肉刺マメを抱えながら歩き疲れて死ぬなんて嫌だな・・・と、日本国・東京都立真神学園三年生・蓬莱寺ほうらいじ京一は朦朧とした意識の中で自嘲気味に笑った。実際には顔筋が引き攣っただけであるが。

(渇きが・・・これほど辛いとは・・・!)

 訳の解らない、無気味な笑いを浮かべて振り返った親友を見て、同じく真神学園三年生・醍醐雄矢は、精神が現実逃避するような形で、某有名ボクシング漫画のワンシーンを思い出した。――架空の存在でありながら、その死に際しては葬式まで出されたという伝説のボクサーは、主人公との試合のために言語に絶する減量を行い、飢えと渇きのために狂いかけたのだ。

 自分は・・・自分たちは僅かに三時間。――最初は水も食料もあった。だが、この【訓練】を始めて一時間とたたぬ内に滝のような汗をかき、渇きに耐え切れず水を飲み干してしまったのだ。

 水が切れてから三時間、水分の補給なしで歩き続けているのである。それもただ歩いているのではない。ジャングルブーツで踏み締めるのは四〇度を越える斜面であったり、膝まで埋まる泥沼であったり、つるつる滑る岩盤であったりする。そこを重い砂袋入りのアリスパックを担いで歩き、時には走るのだ。タフで回復力もあるが、巨漢の常で持久力に欠ける醍醐は転ばないようにバランスを取る事さえ困難になりつつあった。

(水・・・水が飲みたい・・・!)

 左右にフラフラと揺れる巨漢の背後で、これまたそのリズムに合わせるようにフラフラと進むのは、小柄な少女であった。名は桜井小蒔。前を行く彼らと同じ、高校生である。

(水…一滴でもいいから…水…!)

 彼女もまた、既に飲料水を飲み干していた。重量こそ男性陣ほど重くはないが、それでも基本装備に差はなく、総重量十五キロ。登山の標準装備並みの重さがある。そして彼女には登山の経験はなく、ましてや山あり谷あり泥沼ありの地形をランダムに走ったり歩いたりする事など、これまでの人生には考えられない事であった。既に足はガクガクと震え、歩みを止めたら二度と動かなくなる事は間違いない。

 おまけに、体中が痒い。――渇きと疲労が酷くて余り意識していないが、少しでもそちらに気が向くと全身を掻き毟りたくなるほどだ。服の下に相当量のダニが入り込んでいるらしい。

(想像以上に…辛い…!)

 自らの呼吸音がひゅうひゅうと掠れるようになった事に、隊列の殿を歩く美里葵は今更ながらに気付いた。

 彼女もまた、前を歩く者たちと同級生…高校生である。だが俄かには信じられぬ事に、彼女だけは他の三人と違い、僅かなりと体力に余裕があった。確かに頭脳明晰スポーツ万能の彼女ではあるが、やはり普通の高校生であるという点で、条件的には他の三人と大差ない。しかし疲労こそ色濃いながら、他の三人よりは確かな足取りであり、二本の水筒の内一本は、あと半分ほど中身が残っていた。

 なぜその様な違いが出たかと言うと――

「――全体停止! 十分休憩!」

 隊列の先頭を進んでいた【教官殿】が鋭い声を上げるのと同時に、京一、醍醐、小蒔はその場にべったりと坐り込んだ。

 それをじろりと眺め――前髪で目元が見えないからそんな気がするだけだが――先頭にいた男はアリスパックを下ろした。――この【訓練】の【教官殿】である。

 彼はアリスパックを下ろすと、素早く戦闘ベストのファスナーを下ろし、ベルトを緩め、野戦服のボタンを外した。首に巻き締めたスカーフも緩め、ヘルメットも取ってしまう。ジャングルブーツすら、ファスナーを踝まで下ろしてしまった。およそ身体を締め付けるものは時計まで緩め、腿と脹脛を良く揉み解してから、アリスパックを枕にごろりと横になる。しかも、手頃な石に足を軽く乗せて。

 それを見ていた京一らは、何とも嫌そうな、恨みがましい顔を作る。口にこそ出さないが【付き合ってられねェよ】という心の呟きが聞こえるようだ。

 しかしただ一人、葵だけは彼の真似をした。

 アリスパックを下ろし、ベルトを緩め、靴を半脱ぎにし、足を揉み解し――不馴れなせいもあって【教官殿】の真似をするには三分以上の時間を浪費してしまった。そして貴重な水筒の水を、ほんの一口分だけ口に含んだ。

「〜〜〜〜〜ッッ!!」

 生温い、ただの水がなんという美味か! 渇いた身体に水分が染み渡っていくのは快感ですらあった。そのまま一気飲みしたくなる衝動が体奥から突き上げて来るが、引き剥がすように我慢する葵。ふと気付くと、京一、醍醐、小蒔がギラギラした目を葵に、正確には水筒に向けていた。その目に込められた妄執の物凄さ。――渇きが彼らの本能的な獣性を引きずり出したかのようだ。親友の、そしてこの男たちの意外すぎる一面を知って葵の顔から血の気が引いた。

 その時である。コポ、と水音が別方向で鳴った。

 ギンッ! と一斉にそちらを向く視線。その音源は、【教官殿】の水筒であった。しかも――中身のたっぷり詰まった音。ひょっとして分けてくれるか――そんな淡い期待が一同の脳裏を過ぎり、しかし――

(あ゛〜〜〜〜〜ッッ!!)

 三人の、血涙も混じりそうな絶叫が心の中に響き渡る。――【教官殿】は何と、丸々一リットルも残っていた水を一滴も口にしないまま、傍らの地面に吸わせてしまったのである。

 これほどの嫌がらせがあるだろうか? 強烈に膨れ上がる怒気が、殆ど殺意にまで達したのは解っているであろうに、【教官殿】は常と変わらぬ無表情のまま元の姿勢に戻った。

 少し変わった行動を取ったのはその時である。アリスパックのポケットから取り出した小ビンから塩を少し振り出し、それを舐めたのだ。先程は同じタイミングで、一〇〇パーセントレモン汁を舐めていた。――京一たちには理解不能な行動である。そして彼は今まで水を一滴も補給していなかった。

(クソ…! なんだってコイツ、こんなに平然としてやがる…!)

 一時間歩き、時には走り、十分の休憩を挟む――このサイクルを繰り返す事もう五時間。しかもコースは同じところをぐるぐる回っているだけである。一周約四〇〇メートルのアスレチック。ただし【教官殿】はそれをどのくらい続けるか明言していない。正に、果ての見えない堂々巡りだ。

 それでも、どっかりと腰を下ろしている時間は貴重であった。水が飲めれば最高だが、願わくばこのまま何もかも忘れて眠りたいところである。

「行軍二分前!」

 鋭い声と共に、至福の時間が終わりを告げようとする。――宣言と同時に、素早く動き始める【教官殿】。外し、あるいは緩めていた装備を元に戻して行く。靴を真っ先に整え、ズボンのベルトを締め、それから野戦服のボタンやベストのファスナーを締めて行く。身に付けるものが全て整ってから、アリスパックを背負う。――彼のアリスパックは背負子フレームの付いた本格的な物で、その中身は道路工事用の一〇〇キロに及ぶ鉄板を二枚…二〇〇キロある。そんな物を背負っていながら彼はふらつきもせず、更には弾倉こそセットしていないものの、銃剣バヨネット付きの中国製五六式突撃銃…ロシア製AK47のコピー銃を両手に持つ。――勿論、それは本物だ。どこまで真実かは解らないが、殺し屋から徴発したものだという。

 京一らはそれを呆れて見ていた。

 これだけの運動をしているのに、間に挟む休憩は僅か十分。たった十分しかない休みなのに、この【教官殿】は休憩時間の前後四分を装備の着脱の為に浪費してしまう。ただでさえ少ない休憩時間を、自ら縮めてしまうのだ。――訳が判らない。

 当然、京一らは時間ギリギリまでべったりと腰を下ろしていた。

「行軍開始! ――葵! 遅れるな!」

「は、ハイッ! ――い、イエッサー!」

 【教官殿】の真似をして装備を外していた分、葵は休憩時間も少なく、行軍開始までに装備を整える事が出来なかった。しかし…

『〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!』

 時間一杯休んでいた筈の京一ら三人が、立ち上がったその場で全身をガクガクと震えさせていた。しかも三人とも、声にもならない悲鳴を上げている。足を前に踏み出そうとしているのだが、足が激痛に襲われて動かす事が出来ないのだ。いや、体中全ての筋肉と骨格が悲鳴を上げ、激痛をサインに休憩の続行を要求している。

 それを無視するのは、【教官殿】の叱咤。

「――モタモタするな! 行軍開始!」

 ようやく装備を整え終わった葵が歩き出しても、京一ら三人はまだその場に立ち止まっていた。アリスパックの重量が一気に倍にもなったかのように感じられ、足の裏が地面に吸い付いたように動かない。――否、動けない。

「どうした! そんな所に突っ立っていては、訓練は終らんぞ!」

「グッ…クツォ…!」

 京一が辛うじて一歩を踏み出し、しかしそこで膝から崩れ落ちるように地面に転がった。手も足もピクピクと痙攣し、まともに動かせないのは誰が見ても一目瞭然だ。しかし――

「――フン! 思った通りだ。貴様のような軟弱者は常に口先だけと相場が決まっている。その中身のない頭を支えるほどの体力もないのだからな。――貴様のような猫のクソにも劣るクズを少しはマシにしようなどと、俺もまったくヤキが回ったものだ!」

「て…テメエ…!」

 歯を剥く京一は、しかし身を起こす事も出来ない。そんな彼をほったらかしにして、【教官殿】は醍醐と小蒔に向き直った。

「どうした? お前たちもそこの軟弱者と同じ猫のクソか? ――さっさと歩け!」

「ツォんなコト言ったって…う…クウッ…!」

 もはや涙も出ない泣き顔で、小蒔が歩き出そうとする。だが彼女も京一と同じく、一歩進んだだけで転んだ。両手を地面に付いて何とか堪えるが、それ以上はやはり動けない。すがるような視線を【教官殿】に向けた彼女であったが、彼は面白くもなさそうに鼻を鳴らしただけであった。

「なんだ、その面白い顔は? ――俺は最初に言った筈だぞ! 貴様らの苦しむ顔を見るのが楽しみだとな! ――俺は一つ賭けをやっている。誰が真っ先に尻尾を巻いて逃げ出すか――とな。この分ではどいつもこいつもまとめて逃げ出しそうだな!」

 言葉では馬鹿にしているようだが、口調には楽しげな響きがまったくない。励ますつもりなどないのは明白だが、本当に蔑んでいるかどうかも怪しい、変な口調である。

 だが、効果はあった。

「――無茶苦茶言いやがって…! ツこツィくらい気ィ使いやがれ…!」

 両手を突っ張り、辛うじて身を起こす京一。

「ほう。悪態を吐く元気はあるようだな」

「ぬうっ…!」

 背を向けている【教官殿】に向かって一歩踏み出す醍醐。だが、二歩目を踏み出そうとしたところで体勢を崩れさせ、地面に片膝を付く。

 【教官殿】の視線が醍醐に向く。

「貴様はまだガッツを残していそうだな。もっともそのくらいでなければ、その無駄にでかい身体もゴリラの風船バルーンに劣る」

「ぬうう…っ!」

 無表情にこんな台詞を吐かれる事がこれほど頭に来るものか、醍醐は怒りと屈辱に表情を歪ませたが、【教官殿】にはまったく通用しなかった。

「まったく、揃いも揃って無駄飯食らいのボーフラもどきが! 体が動かないふりなどして少しでも休もうという魂胆だろうが、俺には通用せんぞ! 貴様らの三文芝居の為にもう三分も時間を無駄にしている! ――向こうの角まで駆け足だ!」

『〜〜〜〜〜〜ッッ!!』

 心底疲労困憊している三人に向けて、非情極まりない【教官殿】の怒声! しかし、誰も動けない! 本当に、身体が限界に来ているのだ。

「調整時刻は絶対に守らねばならん! 五時間三十分以内に味方を支援せねばならぬ時、あるいは悪性の伝染病患者にワクチンを投与せねばならぬ時、五時間三十分を十秒でも過ぎたならば十時間遅れた場合と変わりない! 一分一秒に生死が懸かっていると知れ!」

 こんな出鱈目な極限状態でそんな事を言われても、果たして誰が反応できるか? ――誰も反応しなかった。そもそも【教官殿】が挙げた状況こそ、現代日本の高校生には縁遠いものだ。いや、恐らく大多数の日本人が、一分一秒を争う場面など知らぬだろう。仮に知っていたとて、それは学校や会社の遅刻であったり、電車やバスの発車時間が関の山だ。あとは株や先物取引くらいか。

 しかし【それ】を知っている【教官殿】には関係ないようだ。

「――貴様らまだ三文芝居を続けるつもりか? さっさと立て! ――立てぬと言うのであれば、俺が立ち方を教えてやろう!」

 そう言うなり、【教官殿】は手にした銃にカーブを描く弾倉をセットし、コッキング・ボルトを引いて初弾を装填した。

 それを手にしている人物が人物だけに、全てが本物だ。京一たちは総毛立った。

「――これは中国製五六式小銃。――ロシア製AK47カラニシコフのコピーだ。オリジナルとコピーを合わせ、全世界に七千万丁から一億丁は出回り、最前線の兵士達に最も信頼されている。傭兵、ゲリラ、テロリストもこれを使用している場合が多い」

 そして龍麻は、銃口を天井に向けて発砲した。



 ――ドォンッ!



「――うわあっ!!」

 耳をつんざく轟音と一緒に、天井から細かい石片が落ちてくる。――本物の銃に、本物の弾丸。いくら龍麻がプロとは言え、こんな状況で発砲するとは…!

「セミオートでは銃声もこの程度だ。しかし実際の戦場ではいちいち狙いを付けてから発砲などせん」

 龍麻は銃のセレクターを全自動射撃フルオート・ファイアリングに合わせた。そして―― 一同に銃口を向けた!



 ――ドドドドドドォンッ!



「うわわわっ!」

「ひゃあぁぁぁっ!!」

 京一、醍醐、小蒔の足元で弾丸が弾け、三人は転がるように逃げる。それでも飛び散った砂利が手足を打ち、ヘルメットに弾かれた。

「ひ、ひーちゃん! テメエ、俺達を殺ツつもりかッ!?」

「…訓練中は【教官殿】と呼べ! ――この日本でテロが行われた場合、まず使用されるのはこの銃だ。この銃声と威力を良く覚えておけ! この程度の銃声で怖気づくならばさっさと家に逃げ帰れ! ――このAKは大口径弾の使用と格闘戦にも耐える堅牢さ、メンテナンスの簡便さなどから非常に優秀な突撃銃アサルトライフルだが、その一方で反動リコイルが強く、フルオートで撃つと銃口の跳ね上がりが大きく命中精度が悪い。従って最初の一発さえかわせば生き延びる確立は跳ね上がる。――身体を低くして全力で走れ!」



 ――ドドドォンッ! ドドォンッ! ドドドドドォン!



「うわわわァァァッッ!!」

「ひゃァァァッッ!!」

「うおおおォォッ!」

 もはや一歩も動けないと感じていた三人であったが、【教官殿】の容赦ない銃撃に尻を叩かれ、正に死に物狂い――全身の激痛すら忘れて走り出した。――自分でも意識できない体力がまだ残っていたようである。

「――葵! なぜ走らん!」

「い、い、イエッサーッ!」

 彼女は怒られていた訳ではなかったのだが、思わぬとばっちりで彼女も駆け足を余儀なくされる。――彼はいつもこうだ。一人がミスをしでかすと、全員が頭ごなしに怒鳴られ、時には殴られる。

「――全力で走れ! 敵は待ってくれんぞ!!」

 天井に向かって適当に発砲しながら、【教官殿】は銃声にも匹敵するような怒声を張り上げた。

 その日、日本の現役高校生には無意味としか思えない行軍訓練はこのあと三時間に渡って続けられた。











「――整列! ――モタモタするな!」

 【教官殿】の雷の如き怒声が薄暗い閉鎖空間内に響き渡る。怒鳴られた方は飛び上がるような勢いでビクッとし、慌てて声の主の元に駆け寄って整列する。しかし水分補給を許され、浴びるほど飲んだ水が急激に汗となって噴き出し、全員が泳いだばかりのように全身ずぶ濡れ、荷物も降ろしたばかりで息も絶え絶えに喘いでいるため、整列するまでに軽く三〇秒は浪費してしまった。

「――遅い! 今が実戦であれば貴様らは全員死んでいたぞ! 小休止の際も気を緩めるな! 全員、気をつけェ!」

 頭ごなしに怒鳴られ、整列した四人は首を縮めて姿勢を正す。――普段ならば刃向かって当然のような言い草なのだが、とにかく疲労困憊し、逆らえばもっと酷い懲罰が待っているので何も言い返せないのだ。

 いや、何も言い返さなくとも、この男は何かに付けて言いがかりめいた文句を付けて来る。

「京一! 服装を乱すなと何度言わせる! その耳は飾りか! 貴様の頭は張りぼてか!」

「・・・・・・ッ!!」

 名指しで怒鳴られ、慌てて服のボタンを首の所までかけ直し、捲り上げていた袖を戻す京一。――自由奔放にして快活なこの男が、目の前で胸を張って立っている【教官殿】に対してはもはや何も言い返せない。

「小蒔! お前もだ!」

 鞭打つような声音が、小蒔をぴょんと跳び上がらせた。――【教官殿】の指摘した個所は、小蒔の着ている野戦服の第一ボタンだけである。

「きょ、教官殿・・・で、でも・・・暑くて・・・」

 蚊の鳴くような小蒔の声は、落雷の如き怒声に叩き潰された。

「反抗は許さん! 暑い寒いなど理由にはならんと何度言わせる気だ! それが元でどういう目に遭ったかもう忘れたか!」

 小蒔は怒声に気圧され、今にも泣き出しそうになりながらも上着のボタンを掛け直した。

 それを目にした醍醐はなにやら言いたげに口元を歪める。整列時には視線を上げておくという決まりになっていたが、ついつい怒りを含んだ目を【教官殿】に向けてしまう。

 【教官殿】の目元は見えないが、醍醐の視線を感じたらしい。

「・・・何だその目は?」

「い、いや・・・いいえ! 何でもありません! 教官殿!」

 内心は腸が煮え繰り返りながら、しかし反抗の一つも出来ず直立不動で答える。――真神の総番長と言われる彼にとっては、教師以外の者、特に同じ学校の生徒に対して敬語を使うなど初めての事だ。しかもこれほど傲慢で不遜な相手に対して【教官殿】とまで言わねばならないとは・・・!

「ふん! 全く図体ばかりでかいだけのモンキーどもが! いや、貴様らはモンキーまでもいかん! 少なくとも奴らは同じ失敗を二度は繰り返さんからな! ――言われた事は一回で覚えろ! 俺に何度も無駄口を叩かせるな!」

「イエッサー!!」

 半ばやけくそで叫ぶ醍醐。怒りで拳がぶるぶると震え――なかった。そんな力などまるで残っていなかったのである。今叫べたのもぎりぎり残った体力を消費しての事である。

 ただ一人、葵だけは、服装にも姿勢にも非がないに思われたが、【教官殿】はその葵にも矛先を向けた。

「――よし葵! なぜ服装を乱してはいけないか、その理由を言ってみろ!」

 葵はビクッとしながらも声を絞り出す。彼女だけは最後までギリギリ体力を残していたのだ。

「や、野戦服はただの着衣にあらず、せ、戦闘、あるいは行軍時において弾丸や爆風で飛んでくる破片、地面や立ち木等による裂傷や擦過傷を軽減し、破傷風や敗血症の予防に繋がるものだからです・・・」

「――それだけか?」

「ね、熱帯性気候の土地では毒を持つ生物が多く、ひ、皮膚の露出はそれらの生物の標的になるからです・・・。特に昆虫類には病気を媒介するものも多いため、着衣の隙間を作らぬように善処する必要があります・・・」

「――解っているならなぜ守らん!」

 結局、葵も頭ごなしに怒鳴られる。――どこにも隙がなかったかに見えた彼女であったが、首に巻いたスカーフはゆったりと弛んでおり、袖口のボタンも一番ゆるい所に掛けられている。――行軍訓練最後の休憩終了時に、慌てて服装を整えた為につい引き締めるべきポイントを手抜きしてしまったのだ。そして【教官殿】は自ら【終了】を告げるまで、決して気の緩みを許さない。――彼とて既に八時間以上、水分の補給なしで【訓練】に付き合っているのだが、袖口はリストバンドで留め、スカーフも余りを出さぬように首に密着させて巻き締められたままだった。

「最後まで気を緩めるな! 甘えなど捨てろ! もっと頭を使え! ――明日は飲料水を一リットルに限定! 虫ジュースの使用を禁じ、着衣のみで防虫対策を徹底させる! それが出来ん奴はただでは済まぬと思え! ――以上だ! 装備類を片付け、解散!」

 長髪の為に目元は見えないが、もし見えていたらすくみ上がる事間違いなしの声で、長髪の【教官殿】…真神学園三年C組への転校生、緋勇龍麻は怒鳴った。

『サー! イエッサー!』

 薄暗い洞窟内に木霊する声は、四人がかりのものの方が遥かに弱かった。











 結んでいた髪を解き、スカーフを外し、上着のボタンを外すと、それだけで物凄い汗の匂いがムッと鼻を衝き、さすがに葵も顔をしかめた。

「う〜、痒い〜ッ。・・・今日はダニにも一杯刺されちゃったよ、ボク・・・」

 ぎゅっと搾れば汗が滴り落ちるほどに湿っている野戦服を脱ぎ散らかし、小蒔は下着だけの少々はしたない姿で古ぼけた椅子に腰掛けて、手足は元より、腋の下や腰など、汗の溜まり易い部分に無数に出来ているブツブツ…虫刺されの痕に息を吹きかけた。

 ――ここは東京都立、真神学園旧校舎一階、かつての理科準備室である。三日前まではここも他の教室と同様、荒れ放題の埃塗れであったが、今は見違えるほどに清掃され、痛みの少ない机や椅子が並べられ、生活空間として立派に通用するまでになっている。光源は今のところ充電式のカンテラだけだが、近々ちゃんとした照明器具を取り付け、水道も使えるようにする予定が立っていた。壁に掛けられた真新しい時計も龍麻が自費で用意したものだ。現在は午後五時四十五分を指している。――八時間も地下にいた筈なのだが、実際の時間は二時間足らずしか経っていない。

「あっちこっちが酷い筋肉痛だし、足は肉刺だらけだし、…今日は喉がカラカラになっちゃったし…おまけに本物の鉄砲を撃たれるし…! …たった三日でこんなになっちゃうなんて…こんなコト続けてたら、身体中傷だらけになっちゃうよ…。ひーちゃん…ホントはボクたちのコト、嫌いなのかなァ…?」

 ペットボトルの水でタオルを濡らし、汗を拭きつつ小蒔はため息を付く。――身体中に作ってしまった擦り傷に切り傷、そして虫刺されの痕がひりひりして、タオルがそこに触れる度に彼女は小さな悲鳴を上げた。

「そんな事ないわ。確かに私たちには厳しすぎる内容だけど・・・龍麻君は間違った事を言ってないわ。――これを見て」

 汗まみれの野戦服を上下とも脱ぎ、シンプルなスポーツタイプの下着姿を晒すと、果たして白い肌の表面にはいくつもの痣が浮かんでいた。――戦闘負傷ではない。転んで作った擦過傷と打撲傷である。当然のように、肘と膝が特に酷い。そして特徴的なのは、肩口に走る蛇のような痣。アリスパックの背負い紐が食い込んで作った擦り傷だ。

「気を付けていれば大丈夫なんて思っていたけど、甘かったわ。自分の身体がこんなに自由に動かないものだったなんて…。――龍麻君の言う事を良く考えておけば、転んだくらいじゃこれほどたくさん擦り剥く事はなかったでしょうね。この肩の擦り傷だって…。この前のアレを繰り返したくなかったからこういう仕立てにしたんだけど…」

 葵の眉が寄り、頬が紅潮する。小蒔も同様だ。脳裏に先日発生した【アレ】が甦ったのである。







 真神学園【旧校舎】は、不可思議極まりない空間である。そこでは【常識】がまったく通用せず、【魔物】、【妖怪】としか呼べぬような生物が多数存在し、所によってはマグマが噴き出し、氷河が存在し、砂漠が広がり、湿地帯が続き…環境もそこに棲む生物もいっそ滑稽なほど劇的に変化する。そこでは時間の流れさえも異常で、正に地獄の入り口と称するべき魔窟なのだ。

 そんな所がなぜ存在するのか? なぜ政府の手が伸びていないのか? 学校側はこの事を知っているのか? ――様々な謎や疑問はあるものの、【そこ】を訓練場と定めた男、緋勇龍麻はきっぱりと言い切った。



 ――ここは訓練場として最適だ。それ以外の事に興味はない。



 こんな台詞は、あの男だからこそ言える事であるが、だからと言って一学生に過ぎない自分達が何かできるとも思えず、全ての疑問を頭の片隅に追いやって、彼の訓練を受けているのである。――否、受けさせてもらっているのである。

 自分達を訓練して欲しいと言い出したのは三日前の事であった。

 例の妖刀事件後、妙に忙しそうな龍麻の後を京一達が尾行した所、彼の通う先が旧校舎であると知って驚くと同時に、彼が何をやっているのか興味を引かれた四人はその後を追って旧校舎の【地下】の秘密を知った。そして龍麻が、そこを【訓練場】として利用している事を。――今後遭遇するであろう事件に対しては通常の訓練では足りないと、この特殊な環境を利用している事を。

 それを聞いて奮い立ったのは、やはり京一と醍醐である。――つい先日発生した妖刀事件…あの折り、龍麻は京一らに対して野犬の掃討のみを命じ、たった一人で妖刀村正を携えた剣鬼と戦ったのだ。つまり彼は、口にはせずとも京一や醍醐が足手纏いになる事を危惧していたのだろう。

 それを考えると、腸が煮え繰り返そうになる。龍麻に信頼されていない、自分自身に対する不甲斐なさに。――そう考えられるところに、彼らの人間的な強さがあるのだが、自分たちも訓練に参加させてくれという申し出に、龍麻は中々首を縦には振らなかった。

 結局、京一たちが龍麻に追い付いたのは地下に降りた後だったので、なし崩し的に戦いに参加する事になった。それを訓練初日とするならば、それは極めて悲惨な結果に終ったのである。

 最初にして最大の被害は、取るに足らないちっぽけな虫による、虫刺されであった。

 【旧校舎】地下は洞窟である。現れたり消えたりする階段を使って階層を移動するのだが、妙に暑かったり寒かったり、乾燥していたりじめじめしていたり、環境が著しく変化する。当然、そこには環境に順応した魔物がいるのだが、それ以外の生物も多数生息していた。――やがて魔物となろう、クモやムカデ、蛭は言うに及ばず、ナメクジや団子虫など、嫌悪感を抱かせる虫は特に多かった。そして彼らを一番難儀させたのが、こちらを獲物として狙ってくるヒルとダニであった。

 龍麻が一同の訓練を拒否したのは、旧校舎で危険な目に遭った事のある彼らが、着の身着のままで地下に潜ってきた事も原因であったのだ。

 例えばジャングル戦では、敵以上に自然の脅威と戦う事の方が圧倒的に多い。そしてこの旧校舎地下もそれに近い環境にある。――龍麻がまず指摘したのは、危険が予測できる場所に赴くのに特に何も用意してこなかった一同の現実認識であり、第二の指摘は彼らの着衣であった。男子制服は多少マシだが、女子制服のセーラー服が戦闘服となるのは虚構の世界だけである。

 ところが、それらの指摘を彼らは一笑に付した。考え過ぎだと。龍麻が苦もなく魔物を殲滅した事もあり、このレベルの敵が相手なら大丈夫だと言い張ったのだ。ならば好きにしろと言いつつも、戦闘には絶対に加わるなと言った龍麻であったが、この時に最初の事件が起こった。京一が龍麻の【命令】を無視して、最初から妙に弱っていた魔物を倒した時、そいつの体から大量の蛭がわっと飛び出してきて、彼らの全身に食い付いたのである。

 犬ほどの大きさのある【魔物】には注意が向いていても、体長一〇センチほどの【巨大】な蛭には見向きもしなかった始末がこれである。勿論、龍麻は蛭の対策も知っていたので事なきを得たが、彼ら一同にとってはとてつもなくおぞましい体験であった。基本的に都会人である彼らには、蛭に吸い付かれるなどという経験はない。しかも山蛭が【跳ねる】という事を知っている者は一人もいなかった。――せっかく初手の一撃を回避した葵と小蒔も、不用意に京一らに近付いた事で襲われてしまったのである。

「――蛭の処理は要注意だ」

 葵と小蒔は勿論、京一と醍醐をして泣き出したくなるような状況下、龍麻は厳しい口調で言ったものだ。

「蛭は鋭い牙で生物の皮膚に喰い付いている。無理に引っ張ると牙が折れて残り、傷口を化膿させる。――そこで使用するのが火、もしくは高温を発するものだ。煙草、ライター、線香、マッチなどを蛭の背に押し付け、驚いて牙を離した隙に摘み取るのが、もっとも基本的な処理法だ」

 これまでの調査で地下十階までの環境は把握済みの龍麻は、魔物以外の毒虫に対する装備も用意していた。――煙草を吸わない龍麻が用意したのは小型の半田鏝であったが、そこで取るに足らない(龍麻主観)問題が起こったのである。

 蛭は高度な赤外線センサーを有し、獲物の接近や剥き出しの皮膚をたやすく探り当てる。しかも大抵の蛭は牙に麻酔毒を持ち、獲物にそれと気付かせず血を吸い取る事を可能とする。そして厚い体毛を持たぬ人間は絶好の獲物だ。着衣の中に侵入できれば、運動の大部分を視覚に頼る人間は血を吸われている事に気付かぬ事も多い。――そこで龍麻は一同に「服を脱げ」と言い放ったのである。

 おぞましさは無論だが、そこは現役の高校生。葵と小蒔がそんな命令に素直に従える筈もなかった。すると龍麻は更に言葉を継いだ。

「蛭を甘く見るな。古代中国には【チ】または【鳴子】と呼ばれる凶悪な蛭がいて、そいつらは眠っている生物の口や肛門から体内に侵入し、血を吸うと共に卵を産み付け、生物の移動に合わせて繁殖地を広げて行く。これは生物兵器として利用され、僅か袋一杯――三〇匹程度の蛭が投げ込まれただけで、人口五千の城塞都市が三ヶ月後に全滅した。――俺の調査ではこいつらもそれに似た性質を持つが、腹を食い破られた果てに東京を壊滅させる気か?」

「〜〜〜〜〜〜ッッ!」

 こんな言われ方をして、何でたまろうか? 京一も醍醐も慌てて服を脱ぎ散らかしたが、葵と小蒔はまだ躊躇した。龍麻の性癖――性差別一切なし――が明らかになったのはその時である。わずか二〇秒足らずの躊躇の為に葵も小蒔も問答無用で地面に押し倒され、強姦魔よろしくスカートを捲られセーラー服をたくし上げられ、蛭を処理する間中、おぞましいのと恥ずかしいのと、両方に耐えねばならなかったのだ。――文句を言えなかったのは、自分たちは後回しで良いと言った京一と醍醐が、その後一分足らずの間に貧血を起こし、そのまま失血死の危機にすら陥った為であった。――蛭は自分の体積の五倍もの血を吸う。一〇センチもある大蛭が三十匹がかりで血を吸えばどうなるか、彼らは身を以って体験する羽目になったのだ。

 結局、全ての蛭を処理した頃には、四人ともすっかり気死して、龍麻に刃向かう気力をなくしていた。たった一つの注意を無視しただけでこの有り様であったのだ。

「目に見えるものだけが敵と思うな。取るに足らない虫けら一匹が、我々全員の命を奪う事もあるのだ。ツツガムシ、ゴケグモなどは一センチに満たぬ身体でありながら人間を殺せる毒を有し、蚊や蚤、ダニは伝染病を媒介する。また、密林の樹木や洞窟の岩には休眠状態の細菌やウイルスがいる事も珍しくない。――密林に居住する裸族は肌を露出する事でこれら毒虫の発見を容易にし、獣脂を肌に塗って予防に努めているが、我々の場合は着衣を正しく身に付けることで被害を軽減する事ができる」

 だったら最初にそう言ってくれ! ――と、誰もが思ったのだが、龍麻の基本知識と京一たちの基本知識はそれほど大きくかけ離れていたのだ。つまり、龍麻にしても何から教えれば良いのか解らなかったのである。それが――訓練拒否の理由であった。

「これに懲りたのであれば、二度と妙な考えは起こすな。【力】に目覚めたからといって、無理に戦う必要はない」

 龍麻はこれで四人が引き下がってくれる事を期待した。ところが――言い方がまずかった。この四人は昨今の若者とは異なり、いわゆる求道精神や不退転の意志が備わっていたのである。龍麻の言葉は、逆に彼らの闘志を煽るものとなってしまったのだ。

 ここで逃げたら全てが駄目になる。四人は必死に龍麻に食い下がり、もう少し様子を見てから決めるようにと、何とか彼の説得に成功した。そして彼――元アメリカ陸軍特殊攻性実験部隊レッドキャップス隊員、緋勇龍麻は、自分がかつて受けていた訓練カリキュラムの基礎を一同に実行させたのである。基礎とは言え、つい先日まで普通の高校生であった者に課すには、厳しすぎる訓練を。







「う〜ん・・・やっぱりそうかぁ…。確かにボクはあまり擦り傷は作らなかったけど・・・葵は虫に刺されてないし、靴擦れも少しだけでしょ? それに今日はボクたちより余裕なかった?」

「余裕なんてないわ。龍麻君の真似をしたから水は最後まで残ったけど、ずっと喉が乾きっぱなしで我慢するのが大変だったもの。虫刺されの事だって…それだけよ。靴擦れは靴下を二枚履いていたから良かったけど、リュックで作った擦り傷は私が一番酷いでしょうね」

 葵は自分の野戦服を広げて見せた。

 【訓練】三日目の今日、着用したのは味も素っ気もない緑色・・・オリーブドラブの野戦服である。これは全員が同じ物を着用しているが、葵の服と小蒔の服では見た目からして違っていた。葵のそれは服の各所に布地の弛みを引き締める縫い取りがあり、小蒔のそれには思い切って布地をカットして縫い直し、余った布地で肘や膝に当て布が為されている。――裁縫を得意とする葵は服の原形を崩す事を由とせず、布地をカットせずにズボンの裾上げの要領で服そのものを引き締め気味に仕上げたのだ。そして小蒔はとにかく服が大きすぎた為に布地を大きくカットせざるを得ず、代わりに子供の頃の経験を生かして怪我をしやすい肘や膝に厚めの当て布をしたのである。それでも余ってしまった布は、龍麻の野戦服の真似をして肩と背中に貼り付けておいた。その結果、葵は虫刺されこそ少なかったものの擦り傷を沢山作り、小蒔はアリスパックの背負い紐や転んだ時の擦り傷が少ない代わりに、虫刺されが多くなってしまった。――互いの長所と短所は見事に入れ替わった形になったのである。

「龍麻君の言っている事には何一つ無駄がないわ。服の事も水の事も…はっきり言って、私たちが手を抜いたり逆らったりした分がそのまま害になってしまったのだから・・・自業自得ね」

「ウン・・・そうだね…」

 【訓練教官】たる龍麻は、ゼロからの新兵教育を知らない。文句一つ、泣き言一つ言わない、感情なき子供達に対し、教官たちは技術を見せ、時間を計測するだけであった。格闘技術、射撃技術もシミュレーションによる教育の後、即実践に入る。――余計な知識も感情もない子供達にはそれで充分だったのだ。ただ一言命令するだけで、一つの技術を完全に習得するまで反復し、失敗の原因を探り、改善し、効率を上げ、時には想定以上の成果を上げる。――スポンジが水を吸収するのと同じように、命令するだけで機械兵士の肉体にはあらゆる戦闘技術が吸い込まれていくのだ。そして――習得した技術を決して忘れない。

 したがって龍麻は、基地や派遣先で幾度か見た光景――新兵訓練の内容を再現し、真似している。――奇しくもそれは正しい手段であった。感情あるものには脅し、すかしなどの手段が必要不可欠であり、分隊長であった龍麻には訓練教官としての才能が眠っていたのである。

 そして、【訓練】というもののあり方を最初に理解したのは、意外もここに極まれり――葵であった。

「一つ一つ、直せるところから直して行きましょう。――特に、水は極力大事にしなければいけないわ。――小蒔、龍麻君が水を捨てた時、どう思った?」

「え…? 勿体無いって…その、酷い嫌味だって…」

「…私も最初にそう思ったわ。でもその後の龍麻君の行動を見た? 龍麻君、塩を少し舐めていたでしょう?」

「ウン…見たけど…」

「私もやってみたの。やっぱりただしょっぱいだけだったけど、唾が出て、少し喉の渇きが納まったの」

 小蒔の目が驚きに見開かれる。

「レモン汁も同じだったわ。ほんのひと舐めで、どうにか喉の渇きが我慢できるくらいになるの。――もっと早く気付けば良かったんだけど、龍麻君がわざと水を捨てるまで意味が判らなかったわ」

「嫌味って訳じゃ…なかったんだ…」

 あの行為にそんな意味があったとは…! 驚きは勿論、あの時龍麻に殺意すら届きそうな憎しみを覚えた事に、小蒔は酷く落ち込んだ。目の前の辛さばかりに目が行って、龍麻が伝えようとしていた事を完全に見落としていたのだ。

「それだけじゃないわ。十分しかない休憩の前に、龍麻君は装備を全部外していたでしょう? 最初はそうしなきゃいけないのかと思って真似したんだけど、小蒔たちは休憩時間のあと、すぐに立てなくなったでしょう?」

「ウン…。休んでいた分、余計に身体中が痛くなった感じがした…」

 その後、本物の銃で追い掛け回された事を思い出し、小蒔はぶるっと震えた。疲労の為に一歩も動けなくなった事を【三文芝居】と言い切った龍麻の言葉は真実で、それこそ恐怖が、自分でも気付かなかった体力を振り絞らせたのであった。その代償は…またしても酷い筋肉痛である。

「…休憩時間が短くなっても、装備は全部外した方が良いって事なのね。五分くらいしか休めなかった割りに身体の方は随分楽になって、次に歩き出す時にそれほどきつくなかったもの。勿論…今だからそう思えるんだけどね」

「そうだったんだ…」

 小蒔にしてみれば、目から鱗が落ちる事ばかりである。不可解と思っていた龍麻の行動は、全て意味があった事なのだ。葵は何の先入観もなしにそれを真似した為にそれほど苦しまずに済み、自分達はいろいろと反発したり疑問を覚えたりするばかりで、その行動の意味を考えようともしなかったので酷く苦しむ羽目になったのだ。

「今日だけでも覚える事が沢山あるわ。いつまで続くか判らない行動の時は、水を特に大事にして、塩やレモン汁を嘗めて喉の渇きを我慢する。休憩する時は荷物を降ろして装備を外し、身体をちゃんと休める。靴下を二枚履いて、蒸れてきたらすぐに取り替えて靴擦れを予防する。後は…目先の事にばかり気を取られないようにしなくちゃいけないわね。――鉄砲の事はともかく、服くらいは明日までに直しておかないと」

 龍麻は同じ説明や注意を繰り返さない。それを聞き流し、あるいは忘れた者は、その為に痛い思いをする。――この痛い思いこそが反省を促し、技術の完璧な習得に一役買うのだ。これは恐らくどんな学問、スポーツにも共通することであろうが、武道の経験がない葵だからこそ、真っ先に気付くことができた。経験者の言う事には素直に耳を傾け、疑問を解消するのは後で良いのだと。更に言うならば、経験者のやっている事は、指摘もしくは注意されない限り極力真似して、必要な知識を貯えるのが軍隊式の教育法であると。

「ウン…」

 訓練中の龍麻は一々行動の理由を説明しないが、葵にそう言われて納得し、小蒔も自分の野戦服を広げてみる。京一には【餓鬼っぽい】と揶揄されたが、おかげで誰よりも擦り傷を作らなかった。しかし虫刺されには弱かったのだ。

 そもそも、この野戦服を渡された時もかなり面食らったものだ。――自分達を訓練して欲しいと告げた次の日、体操着とジャージ姿で現れた一同を見て彼は気難しい顔をし、その後与えられたのが訓練時に使用する野戦服とジャングルブーツであったのだ。ところが・・・





「ひーちゃん、コイツ、俺にはちょっとでかすぎるぜ」

 まず京一がそんな文句を垂れ、全員がそれを口にした。

「俺には小さすぎるな」

「ボクなんかブカブカすぎだよ。手も出ないし」

「私にもちょっと・・・」

 とりあえずL、M、Sの三サイズがあるものの、どれもアメリカ人の体型に合わせたものなので、日本人の体格にはうまく適合しない。ブーツも同様だ。

「この靴も固すぎるしよォ。ぴったりした奴はねェのかよ、ひーちゃん?」

 すると龍麻は言ったものだ。

「訓練中は【教官殿】と呼べ。――少しばかり頭を良くしてやろう。軍隊にサイズは二つしかない。大きすぎるか、小さすぎるか、二つに一つだ。ならばどうすべきか、自分の頭で考えろ。――既に訓練は始まっているぞ」

 しかし、こんな不親切と思える発言では、誰にも解らない。

「解らんのか? 簡単な事だ。――ここに針がある。そして糸と、同色の布地だ。まず余った布を一杯に切り詰めろ。今日一日で、自分の身体に合うように仕立て直せ。ブーツは大き目のものを選び、ソックスで調節しろ」

 つまり、訓練初日は自分の服を作るために使うという事だ。そこで当然のように京一が声を上げた。

「――オイオイ。俺は裁縫なんかやった事ねェぞ」

「俺も、こういう細かい作業はちょっとな・・・」

「ボクも、裁縫は苦手だなァ」

「寸法を合わせてくれれば、私がやっても良いけど・・・」

 そりゃ良いと京一は喜んだのだが、龍麻は首を横に振った。

「――否定だ。極力、自分の手で間に合うものは自分で行う。それがルールだ」

 今思えば、この時から既に龍麻は怒りをたぎらせていたのかも知れない。

「――ンなコト言ってもよォ、せっかくこうして集まったってのに、皆でお裁縫かよ? 家庭科の授業じゃあるまいし」

「これも重要な訓練だ。さっさと仕立てろ。時間を無駄にするな」

「こんな事やる方が時間の無駄だろ? さっさと地下に潜ろうぜ。実戦に勝る訓練なしって言うだろ?」

 事、ここに至って、それに対する返答は雷のごとき一喝であった。

「――生意気をほざくな!!」

 静かな口調からの一転――しかも腹の底まで響くような怒声に一同は飛び上がらんばかりに驚いた。

「貴様らはここに何しに来た? 戦いを貴様らがやってきたような遊びと混同するな! 貴様らのようなヒヨッコ風情に必要なのは武器でも戦闘技術でもない! その腑抜けた根性を叩き直す事こそ急務だ! ――役立たずの脳みそを使う前に言われた事だけをさっさとやれ! それが嫌ならばさっさと帰れ!」

「――ちょっと待てェ! 何だその言い草ァ!」

「龍麻! いくらなんでもそこまで馬鹿にされる覚えはないぞ!」

 先ほどまでとは余りにも異なる彼の態度に、京一と醍醐は一瞬で沸騰した。小蒔は声こそ上げなかったものの、彼らと同様に腹を立てた。しかし・・・

「何度でも言ってやろう! 貴様らがやってきた事は餓鬼の遊びに過ぎん! それを少しはマシにして欲しいと言ってきたのはお前達ではないのか? なるほど、貴様らの脳容積では、自分の言った事も覚えてはいられぬか! 実戦に勝る訓練なしだと? 貴様らの昨日のザマは何だ! 貴様らごとき、虫ケラ相手に全滅するわ!」

「――テメエッ!!」

 龍麻らしくない――その時まではそう思っていた――酷く口汚い言い草に猛然と立ち上がった京一であったが、木刀まで握った彼に対して、龍麻は無表情のまま彼をせせら笑った。

「ほう! 言葉を理解する程度の脳が貴様にもあったか! よかろう! かかってくるが良い! ――その棒きれを捨てる必要はないぞ! 貴様ではそいつをチンパンジー程にも使えまい!」

「――ッッ!!」

 恐らくこの時京一は全力で突っかかって行っただろう。しかしその代償は凄まじかった。スポーツ武道と【本職】の決定的な違い。――京一が十年以上も慣れ親しんだ木刀を振りかぶった時には既に龍麻は彼の間合いを奪っており、彼の腹に強烈な…反吐を吐くほどのパンチを見舞った。それを見た醍醐が怒りの咆哮を上げて彼に掴みかかると、先日の勝負がいかに醍醐に有利であった事か…踏み込んだ膝を真正面から蹴られた醍醐が激痛に怯んだ瞬間、顎先を強烈なパンチが襲って彼に脳震盪を起こさせ、更に追撃の延髄蹴りが彼の巨体を床に叩きのめしたのである。

「――小蒔、お前も来るか?」

 呼吸一つ乱さずそう告げた時の龍麻の迫力! 小蒔はガタガタと震えながら首を横に振った。

「――二時間後に服装点検を行う! それまでに仕上げておけ! ――葵!」

「――は、はいっ!」

「五分後にそこの二人を治せ。――作業開始!」







 その後、不器用な手でエッチラオッチラ、皆で自分用の野戦服を作る事になったのである。葵は裁縫が得意だったので仕上がりに問題はなかったが、小蒔は前述の通り見た目が子供っぽくなり、京一と醍醐に至っては継ぎ接ぎだらけになってしまった。そして当然、それに付いてまた叱責がある事を予想していた四人であったが、四人の服装に付いて龍麻はごくあっさりと言った。

「余った布地は取っておけ。後で必要になるぞ。――切れ端一つたりとも無駄にする事は許さん」

 見るからに不恰好な服の仕上がりに関しては良いとも悪いとも言わず、もはや捨てるしかないと思うほどに小さなはぎれを「名札にしろ」と命じ、彼は解散を告げたのである。――その時に欠点を指摘しなかったのも、いずれ身をもって体験する事だからであろう。現にこうして擦り傷をこしらえ、虫に喰われている。

「考えが足りないとか、無駄口が多いとか言われっぱなしだけど、私たちの考えが徹底的に甘いのは間違いないわ。――こんな状態のまま実戦に出たら、本当にどうなっている事か・・・」

 つい先日起こった、中央公園の妖刀事件を思い出して葵はため息を付く。――確かにあの戦闘では皆がそれなりに活躍し、事なきを得たが、あの稀代の妖刀を龍麻が一人で相手にした理由が今更ながらに解る。

 龍麻と自分達とでは、戦いに臨む姿勢が違う。――龍麻自身は多くを語らぬが、彼は【本物】の戦場を駆けて来た男だ。目の前でどんな事が起ころうと沈着冷静、正確に情報を把握し、的確な判断を下し、確実に【敵】を殲滅する手際は、正に彼が【向こう側】の人間である事を証明するものだ。

 だが――自分たちはついこの前までただの学生であったのだ。そしてただの学生は、教育も身体造りも、およそ軍隊のそれには遠く及ばない。――学生では単に成績やテストの点数が下がり、怒られるだけで済むが、軍隊では自分の命、同朋の命、ひいては国家そのものの存亡にも関わってくるのだ。

 その認識の違いが、実戦では致命的な差を生む。先の妖刀事件の折、自分達が口々に【村正】の脅威を語るのを、龍麻は「ナンセンスだ」の一言で切り捨てた。あれは妖刀の伝説を信じていないのではなく、闘う前から相手の脅威に呑まれるなという意味だったのだろう。人を操ろうと操るまいと、【刀】という【道具】の使い方が変わる訳ではない――無闇に恐れる必要などないと。

 もし【実戦】に対する認識違いのまま【村正】に対峙していたらどうなっていた事か。――結果は火を見るより明らかだ。戦う前から【村正】に脅威を抱いていた自分たちは、気持ちを切り替える前に一撃で殺されていた事であろう。

 自分達に実戦は早い。――確かにその通りである。龍麻が一同の訓練を一から…基礎中の基礎である【行軍】訓練から始めたのも、実に理に適った事であったのだ。

 その行軍にしても、ただ荷物を担いで長距離を歩くのではない。龍麻が魔物を殲滅した階層を、全員が十キロの砂袋を詰めたアリスパックを背負い、アップダウンの激しい地形を歩き、時に走らされるのだ。

 勿論、葵は例外として、一角の武道家(一般人主観)である京一達は、このような行軍訓練には意味がないと反発した。筋肉の酷使と過度な負荷は肉体を損なうだけであると。これは最新のスポーツ生理学でも証明されている事だと。

 それに対する返答はただ一言――「嫌ならやめろ」であった。

 訓練初日の時点では、彼は怒りも呆れもしなかった。本当に一同の自由意志に委ねていたのである。ただし葵達にしてみれば、いきなり最後通牒を付き付けられるようなものであったので、当然、ここで引き下がる訳にも行かず、訓練に参加した。するとその後は一切の反抗を許さなかった。どれほど疲れ果て、遂に地面にひっくり返ろうとも、罵声を浴びせ、時には水をぶっ掛け、最初に提示した条件を達成するまでは決して手を休めようとしなかった。――当然のように訓練途中で全員が酷い筋肉痛を起こしてしまい、葵の治癒術を行使する羽目になったのである。

 そして葵の治癒術が有功と知った今日の訓練内容は更に過激さを増したのだ。アリスパックの重量を増し、所持する水の量を制限し、駆け足から並足、忍び歩きまで行った。足場もぬかるみや水溜まり、果てはわざと油を撒いて滑りやすくした岩場など、歩き難いところを選んだ上で尚、速やかな移動と足音の減音を命じられた。しかも彼は突然「走れ!」、「止まれ!」、「伏せろ!」、「凝固!」と怒鳴るので、足元だけに注意を払っていられない。全員が例外なく、【命令】が飛んだ瞬間に注意が逸れ、肘や膝を擦り剥き、尻餅を付き、泥に顔を突っ込んでしまった。そして、喉の渇きと疲労、筋肉痛に苛まされる事になったのだ。

 特に今日は、実戦に対する姿勢の違いを認識させられる事件もあった。

 まだ全員の体力に余裕があった頃、唐突に龍麻が手信号で【凝固】の指示を出したのである。ちなみに【凝固】とは、その場で素早く身を伏せ、あるいは屈み、息を潜めて動かない事を言う。敵の接近を感知した際に重要な技術で、野生動物は自然にこれを身に付けている。あらゆる動きを止め、目を凝らし、耳を澄ませて、周囲の状況を読み取るのだ。

 その時は、全員が遅れる事なく【凝固】した。しかし、場所が最悪であった。京一と醍醐は腰まである水溜まりを渡っている最中であり、葵と小蒔が身を寄せた岩柱には大きな蜘蛛と百足が這っていたのである。

(コイツ…俺たちに恨みでもあるのか!?)

 声にこそ出さないが、京一は恨めし気な視線を龍麻に向けた。この階層では湿っぽいところに必ずといって良いほど蛭がいる。水溜まりなんて言ったら巣も同然だ。――と、数秒を経ずしてオレンジ色の軟体動物が野戦服に張り付き、ぬるぬると登ってきたのである。

 一方の葵と小蒔も、泣き出したくなるような状況に置かれていた。蜘蛛も百足も積極的にこちらを襲ってくるような事はないのだが、せわしなく這いまわっている彼らは動きを止めた葵と小蒔の身体をのそのそと乗り越えて行く。――蜘蛛、百足、蛇といえば女性に嫌われる生物のベスト五入りする連中である。葵と小蒔にとっては拷問に等しい状況であった。

 だが、龍麻は【凝固】の命令を出したまま動かない。――自らも掌ほどもある蛭にたかられ、それが皮膚の露出部分を求めて登って来ているというのに!

 それが急激に変化したのは、葵が小さな悲鳴を上げて壁から飛び退いた時であった。――小さな…それでも十五センチもある百足が肩から降りてほっとした刹那、それを追いかけて掌ほどもある蜘蛛が胸元に飛び付いた為である。

 その瞬間、龍麻は弾かれたように泥を蹴り、この階層にはいない筈の人型大蝙蝠に襲い掛かった。――【凝固】を命じたのは正にこの為だったのだ。銃抜きで戦うにはまだ手強い人型大蝙蝠を発見し、確実に仕留めるチャンスを窺っていたのだ。

 結局、人型大蝙蝠が超音波を発する前に龍麻の銃剣がその首を貫いたので事無きを得たが、あと一〜二秒でもタイミングがずれていたら多少の苦戦は免れなかったに違いない。――訓練だからと、龍麻が魔物を殲滅し切った筈だと思い込んでいた一同では。

 龍麻は言っていた。自分が教えるのは【生き残る為】の技術だと。

 真に危険な局面であったからこそ、龍麻は【凝固】を命じた。それなのに葵は、落ち着いていれば無害であると見抜けた蜘蛛に驚いて、あろう事か敵の注意を引いてしまったのだ。それは正に、戦いに対する認識の甘さであった。

「でもさあ…ボクたちはついこの間まで普通の学生だったんだから…」

「――小蒔、それは言わない約束でしょう?」

 思った以上に訓練が辛い為、弱気になるのも解るのだが、葵は敢えて小蒔の言を遮った。

「龍麻君は、自分の訓練の時間を割いて私たちを鍛えてくれているのよ。訳も解らず【力】に目覚めて、どうすれば良いのか見当も付かない私たちに…。【普通】とかそうじゃないとか言ってはいけないわ」

「ご、ゴメン…葵…」

「ううん、謝る事ないわ。私だって随分ひっぱたかれて結構逆恨みしている節があるもの…。でももう少し…もう少し我慢しましょう。龍麻君は決して理不尽な事は言っていないわ。龍麻君の感覚では、私たちに【実戦】なんて早すぎるのよ」

「ウン…」

 小蒔が力なく肯いた時、ドアがノックされた。

「お〜い…まだかぁ〜…」

 今にもぶっ倒れそうに弱々しい京一の声。今のところまともに使える部屋はここだけなので、交代で着替えているのだ。――鍵も掛かるし隙間もないが、葵も小蒔もさっとタオルで身体を隠す。

「ご、ごめんなさい! もう少し待って」

 時計を見ると、ここに入ってから既に五分が経過している。――無駄を徹底的に省く龍麻の着替えは二分以内だ。これはさすがに一同には適用しなかったものの、余り遅いと良い顔はしない。

 取り急ぎ濡れタオルで体を拭き、それから葵は治癒術を使って自分と小蒔の怪我を治した。――訓練中の軽傷はその場の応急処置のみとし、治癒術を用いるのは訓練終了時であると定められている。怪我をしたら治せば良いなどと、甘い考えを植え付けない為だ。

 訓練中に身に付けていた物は一切合切替え、真神の制服に戻る。――少し治癒術を強めた為に血色も良く、筋肉痛もそれほど痛くない。その様子からは誰も、彼女たちが軍事訓練を受けていたなどとは解らぬであろう。

「――ゴメン、お待たせッ」

「――ホントだぜ。おお、いてえ…」

 転倒による打撲も多いながら、訓練中の不平が一番多い京一は何度も龍麻に殴られているので頬が腫れている。醍醐も似たようなものだ。今まで自分たちが【強い】と思っていた二人は、身体だけではなくプライドまでずたずたになっていた。

「着替え終わったら呼んでね。治すから」

「ああ、ありがとう、美里…」

 巨漢の醍醐が藁のように頼りなく部屋の中に消えるのを、葵も小蒔も嘆息して見送った。











「――蓬莱寺京一以下四名! 着替え終了しました!」

「よし、解散! ――気を付けて帰れ」

 【解散】を告げた瞬間から、龍麻は【教官殿】から【緋勇龍麻】に変わる。最後の台詞はごく普通の口調であった。

 その変わり身の早さに、京一も醍醐もはあっとため息を付く。これほどまでに自分を使い分ける人間を、かつて見た事などなかった。しかも表面を取り繕うのではなく、どちらも彼のパーソナリティと来た。

 治癒術のおかげで怪我はすっかり治っているのに、尚重い身体を引きずって教室を出ようとしたところで、葵はふと、龍麻がまだ帰り支度をしていない事に気付いた。汚れた野戦服はそのまま、環境整備用に持ち込んだ材木や塩化ビニールパイプなどをチェックしている。

「龍麻君・・・? 龍麻君は・・・まだ帰らないの?」

「肯定だ。まだやる事が残っている」

「やる事って・・・」

 京一ら四人の訓練時に、自らも数倍に及ぶカリキュラムをこなしながら、まだこの上何かやろうというのか? 確かに彼は疲れている素振りを見せないが、それにしても・・・。

「環境整備その他、色々だ。――下校時刻が迫っている。早く帰れ。栄養豊富な食事と睡眠をたっぷり取れ。宿題を忘れるな」

 それきり彼らの方は見ようともせず、龍麻は五六式小銃の分解整備を始めた。

「――邪魔しちゃ悪いよ。行こう、葵」

「え、ええ・・・」

 小蒔に袖を引かれながら、しかし葵は後ろ髪を引かれる思いで龍麻の姿を見やった。カンテラの明かりの中で黙々と銃の分解整備をする彼の姿は酷く孤独で、別世界の人間である事を強く意識させるものであった。











「・・・・・・」

 【仲間】たちを帰らせてから十数分後、龍麻は再び地下に潜った。

 京一達が聞いたらどう思う事だろう。彼は旧校舎の環境整備を終えた後、自分用の訓練をするために一人戻ってきたのである。

 幸いと言うべきか、旧校舎の【地下】では時間の進み方が極端に遅くなるので、放課後二時間で京一たちの訓練を八時間分、残り三〇分で自分用の訓練時間を二時間は取れる。

 自分の戦技訓練に二時間。――これから出会うであろう【敵】の事を考えると、多いか少ないか判断が微妙な所である。単純に銃で片付く相手ならば、この二時間で錬度維持に努めれば良い。だがそれ以外となると、通常の訓練では明らかに足りない。

 そんな事情にも関わらず、京一ら四人の訓練時間を長く取ったのは、ひとえに彼らの現実認識と精神力に問題があったからである。

 確かに彼らは【力】を得たが、それは武術的応用レベルであり、深刻な社会問題を引き起こすような類のものではない。極端な話、放って置いても問題はなかった。しかし龍麻の目的を知り、その戦いに参加すると表明してきた以上、捨て置くには重大すぎる問題が、彼らの現実認識の甘さであった。

 【力】は、例えば銃と同じだ。使いどころを考えれば、強力な武器である。しかし使い方を間違えれば極めて危険な代物だ。――そんなものを扱うためには、【力】に振り回されない強固な精神力が必要だ。非情な戦闘の中で己を見失う事のない、強靭な精神力が。強大な【力】を制御しうる【理性】が。

 かつてのアメリカで、ベトナム帰還兵が起こした犯罪が深刻な社会問題となった事がある。人々はこれを単純に考え、戦争が良くないと、軍隊が悪かったと口にした。

 ――勘違いも甚だしい。確かに戦争という異常な状況に置かれた若者達の多くが心を病み、犯罪に走ったのは事実である。だが真に重要な事は、凶悪犯罪を起こしたベトナム帰還兵の多くが、【徴兵】され、僅か二週間ほどの戦技レクチャーを受けただけで戦場に放り込まれた者たちであったという事実である。

 基本的に志願兵、正規兵は、初期訓練だけで最低三ヶ月を過ごし、軍人精神の基礎を身に付ける。その際に肉体的精神的虚弱者は淘汰され、強い者だけが残される。

 銃を持たされるのはそれからだ。とは言え最初は銃の構造や整備法、その威力等のレクチャーを徹底的に行い、実弾射撃を行うのは随分先の事である。――強い【力】を持つ銃を扱うには、それだけの基礎を必要とするのだ。

 銃を持たされてからの訓練は実に過酷だ。戦闘技能だけでも徒手格闘、ナイフ術、銃剣術、射撃、爆薬の扱い、ブービートラップの設置と対処法その他諸々あるのに、二人編成、分隊編成、小隊編成に中隊編成でそれぞれ異なる戦術行動訓練を受ける。行軍訓練も平原、岩山、泥地、湖沼その他を想定して行われ、その全てに対応しなければならない。――脱落者が最も多く出るのがこの頃である。

 そんな目まぐるしい訓練に明け暮れ、肉体と精神を徹底的に鍛え上げたと認められた者が、晴れて軍隊最下級である【二等兵】の位を授けられるのだ。

 これだけの訓練過程を経てきた者たちは、軍人としての誇りも尊厳も持ち合わせている。肉体的にも精神的にも極めて頑強であり、痛みに、苦しみに耐える事を知っている。また、究極的なところ人殺しを生業とするが故に、【生命】の大切さを正しく認識し、【暴力】を提供する場面を誤らず、不必要な争いを徹底して避ける。――そんな【本物】の軍人たちは、滅多な事では壊れない。彼らは正しく、国家と市民の為に地獄で戦い抜き、生き抜く術を身に付けた気高い者たちなのだ。

 しかし、戦争の激化に伴って徴兵され、ろくな訓練もなしに戦地に送り込まれた者は、当然のようにそんな精神も肉体も持ち合わせていない。彼ら【Facking New Guy】たちは前線勤務の一年が無事に過ぎるのをひたすら指折り数え、士気は総じて低かった。――当然の事である。【平和】な世界で粋がっていたチンピラがいきなり銃を持たされ、地獄の【戦場】に放り込まれたのだ。

 そんなFNGの中にも多少は自分でものを考え、行動できる者はいた。しかしそんな【優秀】な連中は真っ先に死んでいった。実戦の最中には【勇気】と【無謀】の違いを悟る暇などなく、一発の銃弾は理想も哲学も容易く打ち砕いてしまう。鍛えられていない精神は戦場の狂気に飲み込まれ、狂う事こそ救いの道だと己に信じ込ませてしまう。マリファナやモルヒネで恐怖を忘れ、血に酔う事で敵より強い存在だと自身を鼓舞し、人間としての誇りも尊厳も地べたに叩き付け、正義を踏みにじる事で生きる力を得ようとする。――鍛えられていない者は、誰でもそうなってしまうのだ。

 特殊部隊に所属していた龍麻から見れば、京一達も立派なFNGである。常人よりちょっとばかり毛色の違った【力】を身に付け、常人よりちょっとばかり強いだけの人間だ。少しばかり武道に手を染め、ルールのある【試合】で何度勝利を納めようが、街の【喧嘩】で何連勝しようが、そんなものには何の価値もない。むしろ、そんなものがプライドになっている分、性質タチが悪いとさえ言える。

 龍麻は違う。戦場の狂気に呑み込まれず、冷徹に任務をこなすべく、感情すら凍結されていた特殊部隊隊員だ。誇りや人間の尊厳など遠く、命令に絶対服従し、必要とあれば女子供でも確実に殺すように訓練された。【それ】なくしては生き残れない【戦場】に赴く事を想定されていたからである。

 そんな【戦場】の実例を挙げるならば、有名なアメリカ陸軍特殊部隊【デルタ・フォース】が一九九三年に直面したアフリカ、ソマリアでの【アイリーン】作戦だ。国連平和維持活動の一環としてソマリア人将軍モハメッド・ファッラ・アイディードの側近二人を捕らえ、彼らが軍事的包囲している者たちへの食糧援助を実施するという背景の中、実行されたこの作戦は、順調に行けば一時間とかからぬ任務であった。ソマリア民兵が放った対戦車ロケット砲RPG−7によりブラックホークヘリ二機が落とされるまでは。

 最大の障害となったのが、アイディード派の民兵とともに暴徒化したソマリア人住民であった。彼らは目標を確保したレンジャー達と、彼らを救助する地上部隊との接触を阻止する為に市街地にバリケードを作り、孤立したレンジャー達を銃撃。本来はレンジャー達を支援、救出するだけであったデルタ・フォースも、彼らを救うために降下し、アメリカの国連平和維持活動期間中、最大の市街戦に突入する事になってしまったのだ。

 予期せぬロケット砲撃が引き金になり、総兵力一六〇人のデルタ・フォース、レンジャーの混成部隊は二〇〇〇人以上の民兵と暴徒を相手にする事になってしまった。包囲網に取り残された九〇人のデルタ、レンジャー隊員達は、作戦決行日の翌日早朝、マレーシアとパキスタンの国連部隊が救援に来るまで防戦に徹したが、一八名が死亡、七三名が負傷するという結果に終わった。しかもその際、アイディード派の民兵が盾として利用したソマリア人住民(暴徒)を銃撃したとして国際世論の非難を浴び、生き残った隊員たちと発砲許可を出した隊長が軍事裁判に掛けられるという事態も発生したのである。――負傷したヘリのパイロットが暴徒の群れに襲われるのを見過ごせず、命令違反を承知で降下した二人のデルタ隊員が血祭りに挙げられた事は、世論に無視された。後にパイロットを救おうとした二人のデルタ隊員は英雄的行動を称えられ、勲章が贈られたが、その命が還って来る事はない。また、残虐行為を指揮したと罵られた指揮官は、発砲を許可しなければデルタもレンジャーも皆殺しにされていたと反論した。

 ――【実戦】とはそういうものなのだ。陸軍でも特にグリーンベレー隊員やレンジャー部隊員、第八二空挺部隊員の中から特に優秀だと選りすぐられ、更に過酷な体力テストと精神鑑定その他に合格して初めてデルタ・フォース隊員と認められるという、エリート中のエリートが集まった部隊でさえ、予期せぬ事態の前にどう動くべきか判断に苦しむのだ。

 そんな【戦場】にどんな【正義】が求められるか? そんな【戦場】で生き残るためには何が必要か?

 ――答えなどある訳がない。ただ一つはっきりしているのは、口先だけの【正義】や、安いプライドではないという事だけだ。【戦場】にはS・スタローンやA・シュワルツネッガーの扮する一騎当千のヒーローや、愛だの友情だのを掲げて殺戮を繰り返すひねくれた超人不良少年の居場所は存在しない。ガムを噛み噛みゲラゲラ笑いながら人殺しをする兵隊もいなければ、最新鋭の武器を振り回し、弾丸を湯水のように使う傭兵やテロリストも存在しない。――皆、生き残る事に必死。それが【戦場】だ。

 無論、京一達は軍人ではない。また、軍人になろうとしている訳でもない。だが、【実戦】に挑む為には【力】を制御しきれる【理性】は絶対的に必要なものだ。マリアが言っていた【心の強さ】というものがこれに該当するかどうかは不明だが、最低でも【実戦】に対する【本物】の心構えくらいは培っておかねばなるまい。スポーツならば楽しみながら肉体を鍛えるのも良かろうが、強い【力】を行使する者は常に理性的であらねばならない。そしてその為には、甘えを許さぬ過酷な訓練が必要だ。

 それは、自分も同じだと龍麻は考えていた。

 京一達に課した訓練は新兵が行う基礎訓練を簡略化したものだが、負荷を大きくしても、今の龍麻には不充分である事が判明した。筋肉量の増加にともなうパワーの向上が認められる分、肉体の切れが甘く感じられる。また、戦闘技能も常に磨いておかないとたちまち錆び付いてしまうものだ。そしてこれから身に付けねばならぬのは、銃を使えぬ状況での素手による非殺傷戦闘能力――鳴滝に仕込まれた徒手空拳【陽】の技をより磨かねばならない。同時に、彼ら四人の命を預かる指揮官としての能力も。――やらねばならぬ事は多い。

 既に旧校舎地下五階には、龍麻の手によって様々な資材が搬入され、かなり本格的なアスレチック・ジムが出来上がっていた。丸太とロープと針金――それだけでも意外なほど多様な訓練設備が出来るものだ。更に暗幕やスポットライトを配置する事で様々な状況を作り出す事も出来る。闇夜、雨天、逆光…考え得る限りの状況を想定して訓練を行っていれば、いざその様な場面に出くわした時に一秒でも二秒でも早く行動できるのだ。

 龍麻はスタート位置に付いた。まずは基本――銃器による戦闘訓練からだ。ブランクは実に、一年に及ぶ。

 アスレチックの広さは縦五〇メートル、幅三〇メートルの長方形。途中には二五〇センチの塀が三枚、地上四〇センチに張り巡らされた針金、乱立する木の杭、丸太の橋、油を撒いた板が配されている。――距離にして約二〇〇メートルのコース。そのそこかしこに計二〇個の投影式マン・ターゲットがセットされており、それぞれがランダムに作動するようになっている。

 龍麻の装備は【現役】時のそれだ。短時間急襲型のジャングル戦装備――野戦服の上下にニーパッド、エルボーパッドを付け、ボディ・アーマーとタクティカル・ベストを重ね着する。メインウェポンは実戦向きの五六式小銃。サイドアームは愛用のウッズマンで、これは腿に括り付けたホルスターに納める。五六式の三〇連弾倉マガジンが鈴なりになっているベストの左肩には、柄の部分を下に向けてセットしたコンバットナイフ。そして、今回の訓練には使用しない為に火薬と信管を抜いた対人手榴弾と焼夷弾、閃光弾。――装備重量は軽く十五キロを越えているが、これで最も軽い装備である。

 京一たちに担がせた砂袋は基本装備の重さに合わせてある。これがジャングル行軍の装備ともなると、まして敵拠点の破壊工作ともなると、弾丸や爆薬、地雷、食料は言うに及ばず、下着類、工具セット、バズーカ砲など、一般の歩兵でも約三〇キロから四〇キロの装備を担いで行かねばならぬのだ。特殊部隊は更に、そんな装備を担いだままHALO(高高度降下・低高度開傘)、HAHO(高高度降下・高高度開傘)を行なわねばならない状況も存在する。――スポーツ生理学? 戦場では愚にも付かぬ戯言だ。

 ストップウォッチのスイッチを入れ、スタート!

 十五キロ程度の軽装備では龍麻の速度は殆ど変わらない。五六式を抱え、地面に身を投げ出すように第一関門…針金の下に飛び込む。――匍匐前進を十メートル。

(――遅い!)

 わざとぬかるみにした中を恐るべきスピードで這い進みながら、龍麻は自分の身体が思い通りに動かないのを知った。

 現役当時――身長一五〇センチ、体重四〇キロの彼ならば同距離の匍匐前進を三秒でこなしていた。それが身長一八〇センチ、体重八二キロの今では五秒以上かかっている。――かつて従事していたような特殊任務ではまず通用しない速度だ。

 針金の下から這い出した龍麻の背で、小さく火花が散る。

「――!」

 これもまた、ブランクの長さを物語る。――針金にはショックを受ける程度の電流を流しておいたのだ。これが実戦ならばとうに焼け死んでいる。

 パチ、とターゲットが出現する。

 五六式が吠え、銃をこちらに構えた男の眉間と心臓に三つづつ穴が空く。――厳密には高密度の粘土の素体に穴が空いたのだ。このマン・ターゲットはFBIやSWATが訓練用に使用しているもので、暴漢やテロリストの絵を十枚以上持っており、それらをアトランダムに投影する。――単純に銃をこちらに向けている暴漢だけではなく、人質に銃を向けているもの、爆弾を持っている者、男、女、果ては子供や老人までもがテロリストとなっている場合さえある。

 射撃に関しては問題なし。――京一達には命中精度が悪いと言ったが、全自動射撃を三点射にコントロールできる者には関係ない。特にAKシリーズはNATO制式の七・六二×五一弾よりも火薬を抑えた七・六二×三七の弾丸を採用しているので、【現役】時に使っていたH&K・G3A3よりも反動が軽く扱いやすいとさえ言える。

 続いて、高さ二五〇センチの塀に取り付く。

 レッドキャップスの身体能力を駆使すれば一蹴りで飛び越せる塀だが、それ故にレッドキャップスでは塀の向こう側の状況をまず確認する。――実戦では鏡も使用するが、今は首を一瞬だけ出してターゲットの人数と配置を確認後、塀を跳び越える。塀の上で二名のテロリストを排除、地上に降りてから三名を排除し、人質二名を確保――せずに射殺した。

「……」

 【誤射】を判定する赤ランプが点滅するのを尻目に、次の障害へと走る龍麻。乱立する杭の間を擦り抜けて行く途中で、次々にターゲットが現れる。テロリストも、一般市民も、警官も。

 ――龍麻は目の前に現れる者全てに銃弾を叩き込んでいた。

 成長した身体の切れが鈍い――それが彼を苛付かせる。いや、苛付くと言うのは彼にはおかしい。敢えて言うならば、整備不良のエンジンが不快な唸りを上げているような感覚。思い通りに動かぬ肉体に対するもどかしさが、攻撃という形に出た。

 レッドキャップスに叩き込まれた最優先命令。――敵は殺せ。確実に。

 丸木橋を駆け抜け、乱立する杭の上を渡り、確実にターゲットを…人質ごと始末して行く龍麻。今の彼にはテロリストと人質の区別が出来なかった。否、区別しようという意志が働かなくなっていたのである。

 目の前に現れるもの…動くものは全て敵だ。コンマ一秒でも早く銃を抜け! 敵よりも速く引き金を引け! ここは戦場だ! 味方でなければ、敵だ!

 全ての障害を駆け抜け、叩き付けるようにストップウォッチを停止させる龍麻。

 戦闘評価、敵十二を殲滅、人質確保――ゼロ。これがシューティング・マッチならば確実に予選落ち…失格だ。しかし、龍麻は――

(――オールクリア。敵残存戦力なし)

 冷徹な意志がそれを確認し、確実に目標をクリアーした事による僅かな達成感を覚える。射撃技術の低下は認められず、このコンディションで目標をクリアーした事は評価でき――

「……!?」

 【目標】…【目標】は何であったか?

 レッドキャップスが求められたもの――【敵】の完全なる殲滅。それは間違いない。間違いではないが…この状況は、どこかが間違っている…?

 自分はレッドキャップス・ナンバー9だ。――いや、違う。緋勇龍麻だ。アメリカ軍の追跡を逃れ、とある組織に身を寄せ、厳重な監視体制のもと、【普通の人間】として生きる事を許された。

 しかし、今の自分は何をしている!? 【普通の人間】として生きる事を選択した自分が、ここで何をしている?

 ――簡単な事だ。これも自分の選択だ。自分の技能を必要としている者がいて、その招聘に応じたのは自分だ。そしてここには、自分でなければ相手にできぬ【敵】が存在する。それを見付け次第殲滅するのが自分の任務――



 ――本当にそうなのか?



 ――【敵】を殲滅するだけで良いのか?



 ――他にもやる事があるのではないか?



 ――解らない――解らない…。



 ――いや、一つだけ解る――覚えている。



 ――【そんな連中から皆を護れるのは、お前しかいないもんな】



 それは、現在は少しばかり離れたところに住む【友】の言葉であった。

 【友】は戦う力を有してはいなかった。自分は自らの身に危険が及ぶ事を承知で【敵】と戦い、これを殲滅した。――何ら利するところのない戦いに、自ら飛び込んで行ったのだ。

 否、【利】はあった。貴重な人命を二つ、救助する事が出来た。それだけに留まらず、自分の正体を知りながら、それを怖れる事も忌避する事もない、【友】を二人も得る事が出来たのだ。それを考えれば、充分に意味ある戦いであった。

「…今のままではいかんな」

 口に出して言ってみる。――自分はこの東京に戦いに来たのだ。先日、四人の若者が一度に【覚醒】した事からも解るように、この東京には自分でなければ対抗し得ない【敵】が存在する。しかし、京一たちがそうであったように、【力】を持つ者が必ずしも【敵】になるとは限らない。――見付け次第、殲滅するだけではいけないのだ。

 ――お前しかいない。焚美はそう言ったが、ここに来て自分は【力】を持つ【仲間】を一度に四人も得た。そして彼らは未熟ながら、自分以外の誰かの為に戦えるという、強い意志を持っている。この戦い――決して自分一人だけのものではなさそうだ。

 味方でなければ敵――こう考えるのは容易いが、この戦場はそれを許さぬようだ。ならば今の自分は、未熟すぎる。敵を殲滅するだけならばともかく、自分以外の誰かを護りながら戦うには。

「…俺自身も鍛え直さねばならんな」

 京一たちに教えているのは、【生き残る】技術。――今の彼らにはそれが必要だ。だが自分には、彼らが戦力として歩き出してからも、彼らの命を預かる指揮官としての責務がある。――重大な責務だ。だが、やらねばならない。これからの戦いは【護る】戦いなのだから。そして、彼らを鍛える事は、自分自身にとってもプラスになる。彼らは――豊かな人間性を持っているのだから。

 龍麻はターゲットを補修し、再びスタート位置に付いた。

 目的――【敵】勢力の殲滅、人質の救助。目標――【敵】勢力の殲滅、人質の確保。

 龍麻はスタートを切った。

 その後二時間かけ、龍麻は目標の【誤殺ゼロ】を達成した。











 第参話閑話 FNG    完



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