第壱話閑話 【暗殺街】





 新宿区、歌舞伎町、二三三〇時



(付いて来ているな)

 都立真神学園への編入を果たした一日目が終わり、家路を急ぐ緋勇龍麻は、首筋の辺りにちりちりするような痛みを覚えていた。――今日はこれで四回目である。転校初日の今日、帰宅を急いだ理由は、昨日に引き続いて来襲するであろう暗殺者を始末する為であった。

 既に龍麻――レッドキャップスの生き残りが東京に来たという情報はこの街の闇に流れている。そして龍麻が【現役】であった頃に敵対した某麻薬組織の懸けた賞金がまだ残っていた事から、欲の皮が突っ張った連中が早くも群がってきているのだ。

(この感覚…手強いか)

 龍麻には、【敵】の存在を感知するレーダーとも言うべき超感覚が備わっている。多くの場合分隊レベル、最大でも小隊レベルでしか活動しない特殊部隊隊員として、視界の利かないジャングルや入り組んだ建物内に潜む【敵】の存在を感知する能力は必須だ。特に突入隊員と強行偵察員を兼任していた龍麻は索敵能力に秀で、後方支援の【鷹の目イーグルアイ】ナンバー11と共にレッドキャップスの【目】として活躍していた。

 街の喧騒から突如として滲み出した気配は、百メートルほど離れた所を龍麻と同速度で歩いている。ライフルでも持っていれば別だが、何かを仕掛けるには遠すぎる距離。その癖、龍麻が尾行に気付いた事を知りつつ、姿を消そうとはしない。

 ――誘いか? いや、殺気や敵意は感じない。まるで龍麻に、気配のみ放って信号を送っているかのようだ。こちらの正体を探ろうとしているのか?

 それが突如、変化した。

「――」

 誰にも悟られず、既に戦闘態勢に入っていた龍麻は滑るような歩運びで電柱の陰に身を隠した。



 ――カッ!!



 硬い音がして、すぐ近くのブロック塀が一部剥離する。――狙撃だ! 銃声はなし。消音器を使用している二二口径ライフルだ。

(…こいつは違う)

 弾丸の飛んできた方向と、気配の送り主は微妙に異なる。龍麻は素早く電柱の陰から飛び出し、風のような疾走で狙撃地点のビルへと向かった。――気配の主は既に消えている。

 狙撃された地点から約四〇〇メートル。次弾を警戒しながらも三〇秒とかけず雑居ビルの真下まで辿り着いた龍麻は周囲に鋭い視線を走らせる。映画やドラマならば狙撃手がエレベータを降りてくるか、非常階段を駆け下りてくる所だろうが、昨今のプロはそんな時間のかかる手段は取らない。

(……!)

 ビルとビルの境目に当たる路地を覗き込んだ瞬間、吹っ飛んでくる小さな飛翔物体。龍麻は地面に身を投げ出しざまにウッズマンを抜き、着地と同時に二連射ダブル・タップを放った。

「――ッッ!」

 声なき苦痛と動揺の気配。しかしそこにいた人影は荷物を捨て、逃走に移った。――制服を着た状態でも龍麻の抜き撃ちは〇・三秒未満ではあるが、今のウッズマンにはサイレンサーが装着されており、しかも不安定な状態で抜いたので狙いが僅かに逸れたのだ。

 跳ね起き、追撃に掛かる龍麻。――手傷を追わせた敵を野放しにしておく事は危険極まりない。まして、自分がこの東京にいる事を知っている暗殺者など生かしておく訳には行かない。

 だが、暗殺者の捨てた荷物――ライフルを飛び越えようとして、龍麻は慣性の法則を捻じ曲げるほどの勢いでブレーキを掛け、鉄製のごみ箱の陰に飛び込んだ。



 ――バシン!



 勘が告げた通り、間一髪、ライフルが爆発し、銃床に詰め込まれていた鉄釘が飛び散るのを回避する龍麻。――狙撃を行った後は、ビルの壁面をロープで伝い降りる為の足場となり、敵に追われた際には対人地雷ともなるライフル…一射一殺ワンショットワンキルにこだわるスナイパーには噴飯ものの仕掛けだが、効果的だ。少なくともこれで二〇秒は稼ぎ出している。

 この分では他にどんな仕掛けを出してくる事か。さすがの龍麻も警戒せざるを得ず、全身の超感覚を開放して路地を走った。そしていくつめかの路地を曲がった瞬間――

「――ッッ!」

 勘だけで掲げた左腕に強烈な衝撃! たった今、その瞬間まで何者も存在していなかった筈の空間から蹴りが吹っ飛んできたのである。しかも、まともに当たればガードの上からでも首をもぎ取るような一撃! 龍麻は瞬時に蹴りの方向へと側転して衝撃を緩和。同時にコンパスのように片足を跳ね上げて蹴りをお返しする。

 その瞬間、蹴り技を知る者には俄かには信じられぬ現象が起きる。

 首をもぎ取るほど体重の乗った蹴りを放った襲撃者だが、彼は何とそんな蹴りを途中で止め、【掛け蹴り】で龍麻の反撃を受け止めたのである。すると龍麻は噛み合った足を支点に身体を宙に跳ね上げて二段蹴りを放ち、同時に襲撃者もまったく同じ技を用いて龍麻の二段蹴りを蹴り止めたのだ。

 物理的、人体工学的にも有り得ぬ蹴り技の応酬。しかし襲撃者がトンボを切って着地、次の瞬間にはもう後ろ廻し蹴りを龍麻のこめかみに叩き込もうとして――寸止めした。

「――殺しの腕では、俺の方が上だ」

 龍麻の手に握られたウッズマンの銃口が額に向いているのを見て、襲撃者は少し口元を不満そうに歪めて蹴りを下ろした。――驚くべき事に、襲撃者もまた、学生服を纏った高校生であった。龍麻に雰囲気も風貌も似ているが、髪は視界を妨げない程度に短く、怜悧な眼差しを龍麻に注いでいる。

「――相変わらず、銃に頼っているんだね。あまり感心できないよ?」

「…俺は武道家ではない。――始末したのか?」

 見れば、ビルの壁にもたれるように五十年配の男が倒れている。――先程のスナイパーだ。龍麻の二連射の成果か、左腕と肩に銃創を負っている。しかし死因は、それではない。

「ああ。――しかし、余計な仕事が増えた。心臓が潰れた変死体なら鑑識の方で揉めるだけだけど、銃創を負っているとなると警視庁が乗り出してくる。まして一晩に五人の射殺体では…。――転校初日からこれでは先が思いやられるな、龍麻」

 スナイパーは完全に絶命しているが、龍麻の与えたもの以外、傷は見当たらない。しかし、司法解剖を行えば、その心臓のみが潰れている事が解るだろう。――人体で最も強固に鍛える事が可能な腹筋と、重要な内臓を護る肋骨の僅かな隙間を、下段から中段に跳ね上がる三日月蹴りの爪先で貫いたのだ。しかもその瞬間、【剄】を込めて。――警察は元より、現代医学に携わる者には、肺や肝臓には傷一つ付けず心臓のみ潰す方法など判ろう筈も無い。

「…向かってくる奴は始末する――それだけだ。例えどんな手段を取ろうとも」

 消費した二発の弾丸を補充し、ウッズマンをヒップホルスターに納める龍麻。

「それで、拳武館館長の懐刀、壬生紅葉みぶくれはがわざわざ出向いてくるとは何の用だ?」

「…余りそういう事をこんな所で言って欲しくないものだね。――先日、君の部屋に侵入した暗殺者の件だ。認めたくない事だが、どうやら情報の出所は拳武館ウチらしい」

「……」

 龍麻の表情は微塵も動かない。壬生紅葉という少年の表情も、また――

「驚かないね。予想していたのかい?」

「組織が大きくなれば、どこにでも起こり得る事だ」

 冷然と龍麻は言い捨てる。しかし壬生は彼のそんな物言いにも腹を立てる事はなかった。彼自身も、龍麻と同意見だったからだ。――龍麻が和歌山から上京する際、彼の身代わりを引き受けた壬生である。その途上で始末した暗殺者の顔ぶれは一流とは言い難いものの二流だと侮れぬ程度の実力者揃いであった。闇に流れる、ワンランク上の情報を漁れる連中である。

「現在の所、情報を漏洩した者を全力で洗い出している。そいつは近い内に割り出せるとは思うが、一度裏社会に情報が流れてしまった以上、君の所には今後も暗殺者が押しかけるだろう。もし君が望むなら、こちらで新たな部屋を用意するが?」

「…無用だ。自分の身は自分で護る――それがルールだ」

「――承知した。だが今は、手を貸そう」

 壬生の視線が路地の入り口に据えられる。龍麻の視線は、その反対側に。

 街角の暗がりから滲み出るように出現し、路地を塞ぐように立っているのは、一人はボロを纏った筋骨たくましい巨漢。もう一人は、子供と見紛う小さな老人であった。そして共に――

「――今度は中国人チャイニーズか」

「この威圧感…。恐らく、【九頭竜ヒュドラ】の殺手シャーチー(殺し屋)。だが――狙われる覚えはないね。【九頭竜】は【侠】の組織の筈だ」

 狙われる覚えはないと壬生は言ったが、向こうは違うらしい。気勢も洩らさず、巨漢と老人が突っかけて来た。巨漢は地を滑るように、老人は地を跳ねるように。――音も立てず。空気すら揺らさず――

 どんな理由があろうとも、仕掛けられて黙っている二人ではない。龍麻は巨漢に、壬生は老人に向かって構えた。

「キッ!」

 老人の口から小さく吐息が洩れる。次の瞬間、老人の小柄な体が宙に浮いた。――そうとしか見えぬほどの跳躍力。足首の一蹴りで三メートルは跳んでいる。

「シュッ!」

 空を切り裂く壬生のハイキック! 鳴滝直伝の徒手空拳【陰】の蹴り技、【空牙】! 技を繰り出す際に生ずる初動を極限まで小さくし、居合抜きのごとく放たれる蹴りは目で追う事が出来ない。

 ――それが、かわされるとは!?

 壬生が蹴りを放つ瞬間、老人は壁を蹴って急激に方向転換したのである。それも、人間ならば予想外の方向――真下へと。

「――ッッ!」

 攻撃の失敗を悟ると同時にトンボを切って後退する壬生。――掛け蹴りで即反撃する暇はなかった。老人の手首から伸びた鋼鉄の鉤爪は、鳴滝の直弟子として拳武館屈指の使い手である壬生のズボンを裂いていたのである。――即座に逃げねば足首を飛ばされていたタイミングだ。

「キキッ」

 老人がぺろりと舌を出し、綺麗に整っている歯を剥き出す。しゃがみこむような姿勢で肩を揺らす仕草――まるで猿だ。老人の姿をした、鋼鉄の鉤爪を持つ――猿。

「――【行者門ぎょうじゃもん】か」

 猿のような――ではない。今、この老人は猿そのものになりきっているのだった。

 中国拳法には象形拳という、動物の動きを模した拳法が存在する。ジャッキー・チェンが映画で演じた洪家拳の【五獣の拳】や、形意拳の十二形拳などは特に有名である。これらは龍、蛇、虎、鶴、豹、燕、鷹など、ありとあらゆる動物の特徴的な動きを取り入れ、その動物の持つ能力を模し、あるいは再現する。そして特に、自らに強烈な自己暗示を施す事によってその動物そのものの攻撃力を引き出す高レベルな技を行者門と言い、これは創始者が伝説の孫悟空とされているため、特に猴・・・猿の型を得意とする。

 傍から見れば、猿の物真似にも見えるそれを、壬生は侮ったりはしなかった。行者門を習得した者は、正に野生猿の凶暴性と攻撃力を帯びている。単純な腕力だけでも人間の三倍から五倍、跳躍力に至っては見ての通り――並みの人間に勝ち目はない。

 一方の龍麻も、巨漢を相手にてこずっていた。

 巨漢の身長は一九五センチに届き、あの醍醐雄矢よりも大きい。その手には分厚い青龍刀――どう見ても鈍重そうだが、その身のこなしとスピードは軽量級のそれだ。刃を振るう速度は飛燕でさえも落としかねない。そして――



 ――シュシュン! シュシュンッ!



 接近戦は不利と、早々にウッズマンを抜き撃ちにする龍麻だが、巨漢は何と、幅広の青龍刀を盾にして弾丸を弾き飛ばした。――全身これ筋肉の塊である巨漢に対して二二口径は打撃力不足であると、龍麻は急所を狙ったのだが、なまじ彼の射撃が正確な為にかえって射線を見切られてしまったのである。

 銃では倒せない。――ならば!

 横殴りに叩き付けてくる青龍刀をダッキングでかわし、その低い姿勢のまま足払いを飛ばす。巨漢は案の定、軽くジャンプして足払いをかわす。その瞬間――

「――破ッ!」

 身のかわしようがない空中の巨漢に向けて放つ【掌底・発剄】! 大地から駆け上る【気】を強くイメージする事によって物理的破壊力を有するエネルギーへと変換し、掌より放出する徒手空拳・【陽】の奥技。しかし――



 ――ギィン!!



 分厚い鉄扉をハンマーで殴ったかのような音――【気】の激突音がして、巨漢の青龍刀が砕け散った。――武器一つを犠牲にしつつも、必殺の【掌底・発剄】を防いだのである。そして――

「グッ!!」

 岩石を削りだしたような拳による崩拳ポンチェン(中段突き)! 龍麻は弾け飛び、ビルの壁面に叩き付けられる。――が、寸前で【気】のガードが間に合ったので、辛うじて足から着地する。

「――大丈夫かい、龍麻?」

「――問題ない」

 背中合わせに立ち、目は敵に据えたまま言葉を交わす龍麻と壬生。二人の殺手はじりじりと間合いを詰め――いきなり加速した。

 その瞬間、龍麻と壬生も動いた。――龍麻は老人の方へ。壬生は巨漢の方へ。

「――ッッ!?」

 背中合わせの二人が互いに背後の敵を狙うという不条理に、二人の殺手はゼロコンマレベルで幻惑される。そして龍麻と壬生にとって、それが最大のチャンスであった。

「――フンッ!」

「――破ァッ!」

 龍麻の【掌底・発剄】が空中の老人を吹き飛ばし、壬生の【昇龍脚】・・・丹田、水月、檀中、命門、喉、顎を打ち抜く空中連続蹴りが巨漢を跳ね飛ばす。老人はビルの壁に叩き付けられ、巨漢はコンクリートの地面でバウンドする。

「――殺ったか?」

「――気絶させるだけで精一杯だ」

 この両者の奥技を受け、失神のみに留めるとは!? 本来ならここでもう一撃を加えて完全に絶命させる。龍麻と壬生、この二人をしてそれが実行できなかったのは、自分達を見ている第三の目を感じたからであった。そしてそれは、先の二人より遥か上を行く強烈なプレッシャーを放っている。止めを刺す為に動けば、それが致命的な隙になる事を、二人は本能で感じ取っていた。



 ――パチ、パチ、パチ



 ひそやかな拍手が聞こえてきたのは、息の詰まるような沈黙が一分ほど続いた後であった。

「――お見事です」

 第三の登場人物は、血と闘争の現場にはそぐわない、静かな声の持ち主であった。

 かなり暗い路地に光が射し、龍が躍る。――正にそんな感じだった。中国拳法の表演服のようなサテン生地の功夫着。その表面には金糸銀糸で龍の模様が織り込まれ、それが路地裏の頼りない光を受け、躍動しているかのように見えたのだ。

 歳の頃は…二十代半ばか。このような殺し屋を従える者としてはかなり若い。彫りの浅い、アジア系の顔立ちではあるが、眉目がはっきりしていて、澄んだ目の輝きと静謐な雰囲気は世の女性を惑わせるに充分だ。しかしその静謐さの中には氷のように冷たく、鋭い牙が眠っている。それも、毒を含んだ牙だ。

「陰陽の龍、ここに集う。――突然の無礼、この李飛鴻リー・フェイウォンが御詫びいたします」

 右拳を左手でくるむ、中国武林における敬礼をする李。本心がどこにあるにせよ、この瞬間の誠実さだけは本物のようだ。挙措は優雅で隙がなく、攻撃の意思がない事を示すように、両足をきちんと揃えている。

李飛鴻リー・フェイウォン――【九頭竜】の総帥がなぜこの新宿に?」

 常と変わらぬクールな口調ではあるが、実の所、壬生はやや緊張していた。

 香港黒社会に君臨する組織、【九頭竜ヒュドラ】。その発祥は明の時代の塩賊にまで溯り、香港のみならず、中国本土、全世界の華僑のネットワークにまで及んでいる、恐らくは中国系最大の組織である。当然、この日本の裏社会にも深く根を下ろしており、政財界への影響力も並ではないと伝えられる。

 そんな組織の総帥が、若干二十五歳の青年である事は、裏社会でも余り知られていない。壬生は拳武館という日本の暗部で活躍する希有な組織の一員、それも第一線を任されるほどの実力者であったからそれを知り得たが、それでも【九頭竜】総帥の顔までは知らなかった。

「その質問に答える前に――宜しいですか?」

 視線で二人の殺手を示す李。連れ帰って良いか、という質問だ。

「この男達は、自分らの腕試しか?」

「――さて?」

「――好きにするが良い」

 壬生が何か言いかけるのを制して、龍麻は顎をしゃくった。

「感謝します」

 一礼してから、李は地に伏した巨漢と老人の背を指で一突きした。――それも中国四千年の秘術なのか、指のたった一突きで巨漢も老人も息を吹き返し、足取りの乱れもなく立ち上がった。李が下がるように命じると、二人は深く頭を下げてからその場を引き下がる。そして李の命令は絶対なのか、二人とも、たった今自分たちを倒した龍麻や壬生を見ても細波ほども感情の動きを見せなかった。

 巨漢と老人が狙撃手の死体を回収して路地の向こうに消えてから、改めて龍麻と壬生は、李と向かい合った。

「では、改めて聞かせてもらおう。――自分らを襲った訳を」

 いきなり、無礼とも言える龍麻の物言いであったが、李は優雅に一礼して答えた。

「まずお断りしておきますが、あの二人は元々、あなた方を狙っていた者ではありません。あのスナイパーを始め、あなたを狙っているのは【双頭蛇ツインスネーク】の殺手たちです。――我が【九頭竜】と【双頭蛇】は不戦協定を結んでおり、本来ならばその【仕事】に口出しする謂れはないのですが、我々のテリトリーで勝手な真似をされるのは極めて遺憾な事。狙われているのはあなただという情報を聞き付け、馳せ参じた次第です。可能ならばあなたを狙う前に始末を付けたかったのですが、あなた方の方が常に一歩先んじたという次第です」

「――それは、僕達を狙う理由にはならない」

 壬生が話に割り込む。

「先程の男たちは近接格闘を得手としていた。どう考えてもスナイパーの相手には不向きだ。あの二人は、明らかに僕たちを標的としていた。違いますか?」

 李は笑みを深くするのみで、答えない。壬生は軽く足の踏み位置を変える。龍麻の構えと同じながら、大地を掴んでいるのは親指の付け根――足技を主とする彼の戦闘態勢である。

「【九頭竜】は侠の組織だと聞いていた。しかし――そうではなかったようだね」

「――止せ」

 壬生が一歩を踏み出そうとしたところで、龍麻が彼の肩を掴み止めた。李の笑みはますます深くなり、しかし固さも増した。

「――なぜ止める? 君もこちら側の住人ならば、この世界の則は知っている筈だ」

「ならばこそ、【先輩】には従え、兄弟子」

「!?」

 龍麻の取り出したものを見て怪訝な顔になる壬生。それは何の変哲もない、一枚のティッシュペーパーであった。

 それを龍麻は、自分たちと李の間、何もない空間に向けて放った。

「――ッッ!」

 丸めてもいないティッシュはふわふわと宙を漂い、やがて落ちる。だがそれは地表に達するまでに二つになり四つになり…李の足元に届いた時には細切れになってしまったのである。

「これは――糸――か?」

 夜目の利く壬生をして、目を凝らしてようやく微細な輝きが、自分たちと李の間に張られているのを捉える。それはクモの糸よりも細く、しかし縦横無尽に張り巡らされ、触れなば切れん結界を形成しているのであった。僅かティッシュ一枚…ゼロコンマ一グラムの荷重を掛けただけでも抵抗なく切り込むほどの鋭利さで。

 もし龍麻が止めていなかったら、壬生にもティッシュと同じ運命が待ち受けていたに違いない。人間の身体は意外と不自由なもので、無意識に振り出した手、踏み出した足を途中で止める事は極めて難しい。龍麻や壬生ほどに鍛え抜いた人間でも、必ず惰性で動く瞬間が存在するのだ。

 しかし、目に映らぬほどに細い糸をどうやって操っているのか? そもそもいつ、そんなものを張り巡らせたのか?

「我が家に伝わる【霞刃かすみば】と申します。――糸の気配も消したつもりでしたが…さすがはレッドキャップス。どこかでこのような技を見た事がおありですか?」

「――H・K氏の著書を全て読破している。F・Y氏の忍法帖シリーズも」

 生真面目な顔でこの呆けた言葉。――眉を顰めたのは壬生だけで、李は今度こそ裏表のない笑みを口の端に乗せた。

「まさかこのような所で同好の士に出会えるとは思ってもみませんでした。――改めて無礼をお詫びします」

「光栄だ」

 龍麻の返答は半分本音、半分は嘘である。

 確かに龍麻は日本のハードボイルド伝奇小説家H・KやF・Yの著作を読破しているが、最初の取っ掛かりは【少佐】の命令であった。およそ現実離れした物語の数々ではあったが、それは決して無駄ではなかった。彼が従事した【任務】には、時に人間とは思えない連中が敵に廻る事もあったので、作品中の戦闘法や発想法は少なからず彼の命を救ってきたのである。

 そして、嘘の部分。――龍麻はほんの三ヶ月前、このような糸の技を使う怪物…莎草と戦っている。その経験が、路地を吹き抜ける風の僅かな変化と、【そこにある何か】を感知させたのである。――それをごまかしたのは、李の言葉の中に、レッドキャップスの秘密に関わる部分があったからだ。曰く―― 一度受けた攻撃は、二度通じない。――レッドキャップス開発に関わった科学者ですら一部の者しか知らないその秘密を、なぜこの男が知っているのか?

「では、先程の質問にお答えしましょう。――【双頭蛇】の殺手を始末に来たのは本当の事です。しかし元レッドキャップスがこの東京に来るという情報の信憑性を確かめる魂胆があったのも事実。まして共にいるのが拳武館暗殺組のトップ、壬生紅葉殿。未熟者と笑われましょうが、興味をそそられたのです」

「――将来、敵に廻るつもりで?」

「今の立ち合いを見る限り、そうならない事を祈ります。――あの者たちとて、一角ひとかどの殺手。得手とする徒手格闘で遅れを取った事はありませんでした。正直なところ、あなた方をこのまま帰すべきがどうか迷っています」

「自分は、この東京に戦いに来た」

 龍麻は言った。

「それがどのような戦いになるか、自分にも見当が付かない。だが自分は、たった一つの誇りを抱いて戦いに臨む。その前に立ちはだかる者があれば、これを殲滅する。――それだけだ」

 李は龍麻をじっと見つめた。

 前髪が邪魔をしている以上、龍麻の目を読む事は出来ない。裏世界の更に裏――拳武館と同じく暗殺を生業にしている組織の頂点たる李であっても、だ。しかし――

「――なるほど。承知いたしました」

 何事か納得したのか、李は静かに肯いた。

「私も【九頭竜】を預かる身。個人の興味を優先させるつもりはありません。そして【九頭竜】は侠の組織。あなた方が人の道を外れ、災いをもたらさぬ限り、あなた方の前には立たぬと誓いましょう。――我が名に懸けて」

「――感謝する」

 龍麻は敬礼し、李は深く頭を下げた。興味を持って接触してきたのは事実だが、これ以上事を構えるつもりはないらしい。一種の警告という訳だ。

 しかし龍麻は更に一言付け加えた。

「テストが済んだのならば、外してもらいたい」

 穏やかな微笑を浮かべている李の眉が小さく跳ねたのを、壬生は見逃さなかった。しかし同時に、龍麻の言葉に小さな疑問を覚える。【外す】とは、何を――?

「…驚きました。まさか、気付かれるとは思いませんでしたよ」

 龍麻と壬生に見えるように手を掲げ、小指を軽く折り曲げる李。そこに極めて細い光が幾筋か走る。――龍麻を縛り上げていた【霞刃】が回収されたのであった。一体どのような魔技か、李は指先一つで【霞刃】を送り出し、音も気配もないままに標的を縛り上げる事が可能なのだ。しかも彼は糸をポリグラフ代わりに、龍麻の心拍数や呼吸のリズム、血流量の変化まで読み取り、龍麻の宣言が嘘ではない事を確認したのであった。

 恐るべきは【九頭竜】総帥、李飛鴻。いや、真に恐るべきは、その超絶の魔技を見抜いた緋勇龍麻か?

 しかし――

「…いや、言ってみただけだ。――同好の士ならばそうするであろうと」

「――ッッ」

 一瞬とは言え、壬生も李も、暗殺を生業とする男たちが目を白黒させる。――目の前に存在すればその瞬間に常識となる――それが龍麻の思考パターンだ。しかも李が【同好の士】と口にした事から、小説世界の技を再現している事まで予測して――言ってみた。言わば当てずっぽうだ。

「技の師は【西新宿のせんべい屋】という訳だな。――見事な技だ」

「私ごときでは到底、【あの方】には及びませんよ」

 二人の会話に全く付いていけないのは壬生である。そして、裏世界に名高い【九頭竜】の総帥がこのような他愛のない会話に興じるとは想像もしていなかった。――緋勇龍麻という男と真剣に向かい合うと、それが何かしら一芸に秀でた者であるほど、屈託のない自分を再認識してしまうようだ。

 しかし、のんびりとした会話はそこまでであった。李が穏やかな微笑を浮かべたまま言葉を継いだのである。

「――【あの方】は数キロ以上の糸を操りますが、私はせいぜい百メートル。糸の結界も一流どころには通じません」

「――謙遜を」

「いえ、事実です」

「ならば奴は、一流なのだな」

 真っ先に空を振り仰いだのは壬生であった。

「――来るよ」

 ビルの隙間に覗く夜空をバックに、なお濃い黒のボディスーツを纏った人影が飛び降りてくる。そして――強烈な殺意の凝集!

「――破ッ!」

 ビルの壁面を蹴り、空中三角飛び蹴り――変形の【空牙】を放つ壬生! ――が、逆落としに降ってくる人影もまた、壁を蹴って急速に方向転換し、壬生の蹴りをかわした。共に、音もなく地上に降り立つ。

「ほう。これはこれは」

 李が感心したような声を上げる。

 地上に降りた人影は、両手の指を鉤爪状に折り曲げた、スタンスの狭い構えを取った。――中国拳法の象形拳にも見えるが、どこか微妙に異なる。空手でも拳法でも、古武道でもない構え。敢えて言うならば、人間が強力な爪を持っていたならばそうなるであろう構えだ。しかも――

「――女か」

 それほど背が高い訳でもなく、全体的に丸みを帯びたボディライン。顔は目出し帽の上に自動光量調節機能付きの赤外線暗視装置を装備しているので全く解らないが、胸元の盛り上がりが性別を示していた。

 ――だからこそ、龍麻はより一層油断なく身構えた。

 壬生の胸元が小さく裂けている。――先ほど彼が蹴りを放った時、するりと伸びた女暗殺者の手刀が切り裂いていったのだ。しかも…裂け目がブスブスと煙を上げている。――火ではない。強力な腐食性の毒の為であった。

「――あなたが先ごろ【双頭蛇】に雇われたという、売り出し中の【毒使い】ですか。――果たして狙いは誰です?」

 この場にいる三人が三人とも、狙われる心当たりが山ほどある。しかしこの三人が揃っている時に攻撃を仕掛けてくるとは何と無謀な――とは、誰も考えなかった。一流の暗殺者とは、暗殺を成功させるのみならず、確実に逃亡して、背後にある関係を決して知らせぬものなのだ。その為に暗殺者は【仕事】が完璧に実行可能な瞬間を迎えるまでチャンスを待ち続ける。――その暗殺者が【仕事】を実行に移したという事は、三人を同時に相手にしても勝算があるという事であった。

 いや――五人か?

「飛鴻様!」

 路地から影のように湧き出した老人の手から千本が飛ぶ。――全長三〇センチにも及ぶ針は殺傷力こそ高いが、投擲に不向きとされ、日本では一部の忍者にしか使われなかった武器だ。それが――弾丸のように空気を貫いて飛ぶ。

 【毒使い】が動いた。――前に!

 キン! と美しい音を立てて千本が【毒使い】の顔前で弾き飛ばされた。――李の【霞刃】とは比べるべくもないが、【毒使い】の手から伸びた細いワイヤーが千本を打ち落としたのである。その先端には錘代わりの小さなナイフ――【流星錘ルーチェン】だ。

「狙いは私のようですね」

 李の、むしろ華奢な手が袖口から完全に姿を現わす。その指が魔糸を振るうべく、ピアニストのように精緻な動きを示したその時――!

「!」

 龍麻は跳び下がりながら後ろ廻し蹴りを、壬生は後方にトンボを切りつつ蹴りを繰り出し、自分たちを襲った【流星錘】を撃墜する。――二人の実力ならキャッチしてしまう事も出来た筈だが、それをしなかったのは、寸前で【流星錘】にも毒が仕込まれている事に気付いた為だ。――二人の皮靴の踵は薄く煙を噴いていた。

「目撃者は殺せ――ですか。【双頭蛇】らしい、がさつなやり口ですね」

 ピウン! と空気が鳴った。

 李の【霞刃】と【毒使い】の【流星錘】が空中で噛み合った音である。李の操る【霞刃】は指一本に付き一本――計十本。対する【毒使い】は【流星錘】を片手に一本づつ――計二本。――数の上では李の方が圧倒的に有利だが、防御に徹すれば【毒使い】も【霞刃】と対等に渡り合える。

「――上だ」

 はっとして頭上を振り仰ぐ巨漢と老人――主人の戦いに気を取られていたのだろう。ビルのベランダから放たれた円盤状の刃――チャクラムに気付くのが遅れた。



 ――シュシュン! シュン!



 龍麻のウッズマンがため息を洩らし、チャクラムが弾け飛ぶ。その行為に二人が驚く間に、壬生がビルの壁を三角跳びの要領で蹴って飛び、バルコニー上の暗殺者に向けて――

「――破ァッ!」

 空中から放たれた【空牙】がチャクラム使いの首を一撃でへし折る。――そのまま頭から落下するかに見えた壬生は猫のように体を捻り、コートを翻して着地した。そして次の瞬間、コートの裾を跳ね上げ、【流星錘】を撃墜する。しかし有り得ない三本目――が弧を描いて襲ってきた時、龍麻のウッズマンがまたしてもため息を洩らす。【流星錘】が弾け飛び、壬生は破片をかわしてするりと下がった。

「――着地が甘い」

「――認めるよ」

 常人にしてみれば軽口の叩き合い、プロにしてみれば、深刻な命のやり取り。空中を移動する際、着地の隙は絶対的だ。龍麻の言う【甘い】は、壬生が【毒使い】の【流星錘】を二本だけだと認識していた点だ。――実際には、片手で三本づつ――計六本の【流星錘】を操っている。――常識では有り得ないが、プロの世界では言い訳にもならない。

 そして、ここにももう一人。

「――遊んでいるのか?」

 【毒使い】のサポート役は倒した。いくら防御中心とは言え、李の【霞刃】の同時攻撃をいつまでも凌げる訳ではない。しかも李と対峙していながら壬生にも攻撃を加えられる余裕――その答えは一つ。李が手加減しているのだ。

「いいえ。しかし、こちらの女性には良からぬ噂があるもので」

「――良からぬ噂?」

「ええ。――心臓が止まると、体内で猛毒が生成されて周囲に広がるとか」

「――ッ!」

 瞬間、【流星錘】の動きが乱れた。それは致命的な隙となり、打ち落とせなかった【霞刃】が【毒使い】の右腕を掠めた。

 二の腕からぱっと飛び散る血。しかしその香りと来たら――

「――息を止めろ!!」

 袖で口元を押さえ、後方に跳ぶ龍麻。壬生は即座に従い、李も指示を待つまでもなく大きく飛び退いていたが、巨漢が僅かに遅れ、激しく咳き込み始めたかと思うとみるみるチアノーゼ症状を呈して苦悶し始めた。

「――ッッ!」

 息を止めたまま巨漢の元に走り寄り、李は彼の背中を針で一突きした。――途端に巨漢は狂態を止め、そのままぴくりとも動かなくなる。

「――殺したのか?」

「いえ、仮死状態にしただけです。――それにしても、血液が空気に触れただけで毒ガスに変わるとは…事前には知っていても、目にしてみるまでは信じがたいものですね」

 李は――そんな場合でもなかろうが――しみじみと言う。

 殺人技術や拷問、処刑法が芸術のレベルにまで高まったと言われる中国には、【毒手】と呼ばれる肉体改造術が今も密かに伝わっている。これは文字通り己の手を毒の塊と変えるもので、緻密に計算された調合を基に作られた毒と、その解毒剤に交互に手を浸す事によって肉体を毒に慣らし、やがては手に毒の成分を染み込ませるという恐るべき技術である。その手で打たれ、あるいは小さな切り傷一つ付けられれば、そこから侵入した毒が皮膚を糜爛させ神経を破壊し、やがては脊髄を冒して人を死に至らしめるのだ。

 しかし目の前の【毒使い】は【毒手】など児戯にも等しい存在であった。血を流す――たったそれだけの事で毒ガス――恐らくホスゲン――が発生するなど。しかも剥き出しになった腕は、日焼けにしてはやけに濃い褐色をしており、見る者が見れば、それは【毒手】の一種である、【黒砂手こくさしゅ】だと解るだろう。しかも位置を考えるならば、恐らくは全身が。――ボディスーツで全身を隈なく覆っているのもこれで肯ける。

 だが、こんな敵をどうやって倒す? 殺すのは勿論、血を流させただけで毒ガスを形成し、その肉体のどこに触れても毒に侵されてしまうという肉体の持ち主を。――龍麻、壬生、李の三人の前に姿を現わしたのも道理。全身が毒の塊であるという事が、既に絶対的な防御になっているのだ。

「――自分がやる」

 ずい、と前に出たのは龍麻であった。

「――勝算は? いや、愚問だったな」

 龍麻は勝算というものを口にしない。彼にとっての戦いは試合ではなく、【絶対に勝たねばならないもの】なのだ。だからこそ可能な限りの装備を整え、無数の戦術を用意し、状況に合わせて自由な戦闘を行う。それは【確実に負けない】事を重視した戦いなので、勝つ事は二の次なのだ。

 今の龍麻にあるのは、目の前の【毒使い】を安全に制圧する事で、彼女に挑んで【勝つ】事ではない。そして龍麻が【やる】と言ったのならば、その目的を達成するのに必要な戦術を持っているという事だ。

 ただ、これだけは口にした。

「――以前、似たような者と戦った事がある」

「それなら――お任せします」

 レッドキャップスには二度と同じ作戦は効かない。龍麻が既にこのような毒使いと戦った事があるならば、既に対抗策は出来ているという事だろう。李に続き、壬生も後方に下がった。

 この時【毒使い】は即座に逃げるべきだったかも知れない。だが――自分の秘密を知られたためか、多少ムキになっていたようだ。その精神的な乱れが、龍麻には【気】の波動として感じられた。

 唸り飛ぶ【流星錘】! だが、軌道に乱れが見られる。龍麻はかわさずに突っ込んだ。

「――ッッ!」

 【流星錘】の制空圏がかなり広い事が、却って龍麻の接近を許した。そして――鋭く振り抜く【掌打】!

「ッッ!」

 顎先を掠める【掌打】をスウェイバックでかわす【毒使い】。――龍麻の狙いは皮膚の露出していない急所を、表面破壊のない【掌打】で打ち抜く事であった。殺さず、血も流さず、ただ昏倒させる――それだけがこの【毒使い】を制圧する唯一の方法だ。

 【毒使い】は牽制の蹴りと毒爪を同時に飛ばし、龍麻との間合いを保ちつつ攻撃する。――速い。柔軟で、リズムがある。特に蹴り技が多彩だ。女性ならではの股関節の可動範囲が、思わぬ角度からの蹴りを可能とする。幻惑されれば、その瞬間に死が訪れるだろう。

 ――相手が、龍麻でなければ。

 蹴り技主体の徒手空拳【陰】の遣い手である壬生と闘ってからせいぜい十分しかたっていない。まして壬生の技は暗殺用に特化した蹴り技だけに、元から見切り難い角度、軌道から襲ってくるのだ。龍麻の目はまだ蹴り技に慣れていた。

 脇腹の急所狙いと見せ掛け、急激にこめかみへと軌道を変える蹴り! 龍麻は逆にその蹴りを担ぐようにキャッチし、膝を砕きに行った。それを毒爪の一撃で引き剥がし、強引に間合いを取る【毒使い】。――龍麻の技に軍隊格闘術が含まれている事を見抜いたのだ。

「……」

 この寸刻のやり取りで、龍麻は【毒使い】の技を見切った。【毒使い】の格闘技術は攻撃力を重視したもので、一撃の威力は高いものの、防御の備えが出来ていない。技のコンビネーションは存在せず、守勢に転じると反撃が覚束なくなる。――最初から徒手格闘の専門家である龍麻に通じるレベルではない。

 パパパ、パン!

 リーチの差を生かし、【掌打】を連射する龍麻。【毒使い】は毒爪でその手を引っかこうとするものの、龍麻は手首から先の動きを巧みに変化させ、爪を尽く制服の袖で受ける。当然、制服がボロボロと焼け崩れていくが、構っていられない。左右の【掌打】を様々な角度で打ち込み、【毒使い】を追い詰めていく。――覆面が切り裂かれ、色素の薄い茶色の目が覗いた。冷たい――殺人者の目が。

 【毒使い】が【掌打】のリズムに慣れ始めた頃、龍麻は突然、小さく蹴りを飛ばした。――蹴りといっても叩き付けるそれではない。【毒使い】の膝を引っ掛けるようにして、彼女がバランスを失った瞬間に【掌打】を飛ばす。

「クッ!」

 狙いを顎先と見せ掛け、水月にヒット! 【毒使い】が弾き飛ばされる。だがパワーが不充分だったせいか、昏倒はしない。龍麻は素早く追い討ちを掛けようとして――吹っ飛んできたボディースーツをかわして跳び下がった。

「……!」

 【毒使い】はゆっくりと立ち上がり、覆面はそのままにズボンのベルトに手をかけた。

 上着を一瞬で脱ぎ去れたのも道理。彼女のボディースーツにはその様な仕掛けがしてあったのだ。路地の頼りない明かりの中で、まだどこか少女のラインを残しながらも良く発達した褐色の肌が露になる。黒いビキニのみ残す肉体は単に肉付きが良いだけではなく、鍛え込まれてもいた。激烈な鍛練と、潜り抜けた修羅場の数が、無数の傷痕となって残っている。

 この娘も修羅に生きる者か。壬生や李の目には鋭い光が宿る。――ここは同情や憐れみ、感嘆など無縁の世界なのだ。美しい肉体美は打撃用筋肉が造り上げたものであり、無数の傷痕は、彼女自身の戦闘用法を駆使した結果だ。それは――

 【毒使い】が先に動いた。

 黒い女豹のハイキック! 充分に体重を乗せたそれは、龍麻クラスの相手には逆に危険極まりない技であったが、龍麻はダッキングでキックをかわしつつ後退する。――反撃できない! 【毒使い】が裸体を晒したのは、龍麻の攻撃箇所をなくす為であった。

「――ッッ!」

 またも唸り飛ぶ【毒使い】の蹴り。間合いギリギリで放たれたそれは、本来ならばかわす必要がなかったろう。だが龍麻は両腕で顔面を庇い、その表面が細い煙を幾筋も立ち昇らせた。――汗だ。汗こそが腐食毒なのだ。

 全身これ毒の塊、汗までが毒である以上、下手な攻撃も防御も自らの死に直結する。攻撃できるのは――

 頭部に伸びてきた【掌打】を毒爪で切り落とす【毒使い】。――龍麻は手袋のみを犠牲に辛うじて爪をかわした。――狙う箇所が解っていれば、いくら龍麻のスピードが速くても見切られてしまう。

(――ならば!)

 龍麻はもう一度顎先狙いの【掌打】を放ち、【毒使い】がそれを迎撃しようとした瞬間、彼女の水月目掛けて蹴りを放った。

「グッ!」

 小さな呻き声を放つ【毒使い】であったが、龍麻がそう来る事も予測していたか、蹴りを受け止めたのは鍛え上げられた腹筋であった。そして龍麻の靴は、酸に侵されているかのようにボロボロと崩れ出す。――靴の先端に入っている鉄板まで腐食するのを見た龍麻は素早く靴を脱ぎ捨てた。――武器が一つ、これで消えた。しかし――

「――龍麻!」

「!!」

 龍麻と壬生は思考が似ている。龍麻が一見無謀とも思える攻撃を仕掛けた瞬間、壬生も同じ事を考えていた。上着を脱ぎ、【毒使い】に投げ付ける。――【毒使い】も決してこんな事態を予測していなかった訳ではないだろうが、龍麻にとってはベストタイミング、彼女にとっては最悪のタイミングだった。

「――破ッ!」

 【毒使い】との間に壬生の上着を挟み込んで放つ【掌底・発剄】! ギリギリまで出力を調節したそれは壬生の上着を介して【毒使い】の胴を直撃し、内臓へのダメージを伴わない形で彼女を弾き飛ばした。

「――やりましたね」

「――恐らく」

 李が呟き、壬生が肯く。――龍麻は素早く【毒使い】へと走り寄った。

 【毒使い】は腹部を押さえて喘いでいる。――演技ではない。【気】の衝撃を軽減できるのは【気】による防御だけだ。

 だが、こんな暗殺者をどう扱う?

 警察は論外だ。血を一滴でも流せば毒ガスを撒き散らし、たやすく周囲を地獄と変える。しかし殺すのも問題外。汗が腐食毒、血がホスゲンを生成するとなると、彼女が死んだ時に生成されるのはいかなる猛毒か? そんな危険極まりない賭けはできない。

「――降伏しろ。捕虜としての待遇は保証する」

 三十秒ほど考えあぐねた果てのこの言葉だったが、【毒使い】は覆面の中で口元を歪めたようだった。

 そして彼女は突然、地面を叩いた。

「ッッ!!」

 そこにあったのは、片付けられもせず放置されていた、ビール瓶の破片。それは【毒使い】の掌を貫き、直後にホスゲンを噴出させた。龍麻はとっさに息を止め――しかし少量ながらガスを吸い込んでしまった。

「――龍麻!」

 龍麻の足元がふらつく。その隙を見逃さず、無理矢理跳ね起きて毒爪を振るう【毒使い】。しかし彼女も狙いを外し、龍麻の左肩口を切り裂くに留まった。

「――あっ!!」

 そこにあるのは、邪悪な妖精の刺青。それを目にした瞬間、【毒使い】が驚きの声を上げた。一瞬、打たれたように立ちすくむ。

「――クッ!」

 ギリギリ残った余力全てを跳躍力に換え、ガスの立ち込める空間を抜け出す龍麻。――ホスゲンは窒息性のガスなので、吸い込みさえしなければ何とかなるのだ。

 そこで、闘争は唐突に終わりを告げた。

 我に返った【毒使い】が身を翻し、逃走に移ったのである。さすがにガスの壁を突き破る訳にもいかず、また、殺す訳にもいかないので、壬生も李も黙って【毒使い】を見逃すより他なかった。









「――大丈夫か、龍麻!?」

 周囲に暗殺者の影がなくなった事を確認し、壬生は龍麻に走り寄った。

「――問題ない」

 深呼吸を二つ――それだけで常態を取り戻す龍麻。ホスゲンは目の粘膜にも影響を及ぼすが、こちらは最初から瞼を閉じていたので問題はない。吸い込んだ毒素も、血液中に混入された抗体が五分とかけず分解してしまうだろう。

「…レッドキャップスはありとあらゆる悪条件の元で戦えるように訓練されていると聞きましたが、凄まじいものですね」

「――だが、逃げられた」

 李の賞賛を受けず、龍麻は簡潔に言った。――毒ガス耐久訓練は【普通】の海兵隊でも行われている事なので、龍麻にとっては賞賛に値しないのだ。

「しかし、今のタイミングで攻撃されていたならばもう少し深手を負っていたところだ。――あの女、なぜ途中で攻撃を止めた?」

 最後の瞬間、【毒使い】は確かに初手の一撃を外したものの、龍麻には二撃目をかわす余裕はなかった。しかし【毒使い】はその最大のチャンスを逸し、逃走に移ったのである。

「…あの女が動揺したのは、君のエンブレムを見た時だったな。――レッドキャップスの噂を知っていたのかも知れないよ。中途半端に追い込むと自分が危険になると思ったんじゃないかな」

「ふむ…」

 レッドキャップスの事を知っているならばなおの事この場でとどめを刺しにきても良さそうなものだが。――まあ、そのおかげで助かったのだが。

「しかし君も、余り人の事は言えないね、龍麻」

「――肯定だ」

 そんな言葉を交わす二人を尻目に、李は地に伏している巨漢に鍼を打ち直し、解毒処置を施した。巨漢は二、三度、腹の辺りを押さえて痙攣し、それから黒い反吐を吐き捨てると、多少ふらつきながらも立ち上がった。

「…とんだ顔見せになってしまいましたが、私はこれで失礼させていただきます。――ご心配なく。先程の誓いを違えるつもりはありません」

 龍麻も壬生も肯く。一連の殺し屋は【双頭蛇】の刺客であって、【九頭竜】は現在のところ、敵ではない。――それが明確になっただけでも互いに大きな収穫となった筈だ。

 だが、李は意外すぎる爆弾を持っていた。

「それと、これは【先輩】からの忠告です」

「【先輩】?」

「――真神学園【旧校舎】――あそこには近付かぬ事です」

「?」

 この男は何を言っている? そんな疑問が雰囲気に現れていたのだろう。李は微笑した。

「私は真神のOBなのですよ。つまりあなたは私の【後輩】に当たる。――違いますか?」

「……」

 世間とは広いようで狭い――良く使われる言葉だが、こんな実例があるものか。まさか、香港黒社会の総帥が真神のOBであったとは!?

「都立真神学園…通称【魔人学園】。――あなたは近い内に、この名の意味を知る事でしょう。その時あなたがどの道を選ぶのか、私はこの街の闇から見届けさせて頂きます。では――」

 忠告というには謎だらけの言葉を残し、李は身を翻して歩み去った。壬生は油断なく李の背に視線を据えていたが、彼が待たせていたリムジンに乗って去ると、ようやく緊張を解いた。

「…転校初日から香港黒社会の殺し屋に狙われ、更に超大物との会見とは、君のネームバリューには恐れ入るばかりだよ、龍麻」

「…俺にとっては迷惑な話だ。今の俺は軍役を退いた元一兵士に過ぎない。俺を殺したとて名が上がるとも思えんし、真神に在籍したと言っても、香港黒社会の重鎮に挨拶されるほどの大物ではない」

 クス、と壬生は苦笑を洩らす。――この緋勇龍麻の傍にいるとつい【これ】が出るな、と壬生は自分自身にも苦笑した。

「君自身はそう思っていても、周りの連中は放って置かないさ。君が身に付けている技能は大変価値があるものだ。――僕達も、あまり人の事は言えないけどね」

「それは気にするな。鳴滝氏の要請に応じたのは、俺だ」

 しかし、と龍麻は言葉を継ぐ。

「真神を指定したのは鳴滝氏だ。信用しているが、今の李飛鴻の言葉には何やら含みがあった。【魔人学園】という通り名の由来を知っているか?」

「いや、僕もその名は知っているが、その由来までは…。小耳に挟んだところによると、創立当初からの通り名らしい」

「…変わり者は多い。それだけは間違いなさそうだ」

 自分の事は棚に上げて言う龍麻。壬生は再び苦笑する。

「もう一つ、真神の【旧校舎】に関する情報はあるか?」

「【旧校舎】? 確かに李もそんな事を言っていたが…」

「うむ。近く解体されるとの話だが、予算の関係で工事は行われていない。しかしこの【旧校舎】にはどこか普通の建造物とは異なる雰囲気を感じた。――鳴滝氏は特に何も言っていなかったが、李は【近付くな】と言った。もとより塀に囲まれ、立ち入る事のできぬ建物だが」

 壬生は少し首を捻り、

「いや、僕も何も聞いていない。――君ほどの者が気に掛かるところなのかい?」

「俺は、この東京に戦いに来たと認識している」

 龍麻は言った。

「だが鳴滝氏は俺に人としての生活を送れとも言っている。つまり、俺の行動は全て俺自身の意志に委ねるという事だ。――生き延びる為には、情報は多ければ多いほど良い。身近なところに謎を残しておくのは好かぬ」

「確かにその通りだが、自重してくれよ。学校でも早速トラブルに巻き込まれたのだろう?」

「――うむ」

 李との会見の時にも動かなかった龍麻の表情が僅かに歪む。――僅か三ヶ月ほどの付き合いでしかないが、それでも龍麻の人となりを知っている壬生は少し驚いた。アメリカ軍を敵に廻して生き残り、今また【毒使い】を退けた男が、学校生活という極めて平凡な問題に苦渋を示したのである。

「実は、図らずも新興宗教の教祖的立場にあるという少女と臨戦体勢に入ってしまったのだ。今日のトラブルもその崇拝者である男たちが起こしたものだ。――【敵】は強かだ。今日の段階では俺の戦闘力を分析する為に戦力を出し惜しみし、実動部隊長を完全殲滅する寸前で止めに入ってきた。よもや俺の戦闘力が見切られたとは思わぬが、油断できん。明日はより武装を充実させて登校する所存だ」

「…君ならば、それほど気にする必要は無いと思うけどね」

 不謹慎である事は大いに承知しているが、壬生は努めて冷静に、内心では必死で笑いを噛み殺しながら言った。――鳴滝に頼まれ、今日一日の龍麻の行動を監視していた彼である。当然、朝の質問攻めも、生徒会長やショートカットの女生徒、木刀を持った男子生徒とのやり取りも、そして最後のリンチ騒ぎの顛末も全て知っている。――要するにそれらは、全て龍麻の多大なる誤解だ。

「必要なら、手を貸すよ?」

「いや、そんな些末な事でお前の手を煩わせる事もあるまい。俺の監視も今日までにしろ。先程のスナイパーの時、お前に気を取られて狙撃に気付くのが遅れた」

「……!」

「恐らく、これからも殺し屋はやってくるだろう。――拳武の関係者は俺の身辺から遠ざけろ。なまじ周囲をうろつかれると、殺し屋と区別が付かんのでな」

「解った。館長に伝えておく。――それからこれは、引っ越し祝いだ」

 龍麻との蹴り技の応酬、そして【九頭竜】の殺手との戦いの際にも手放さなかった紙袋を差し出す壬生。その中身は――

「…手編みのウサギか。相変わらず器用なものだな」

 ほんの数刻前、一人の命を奪った男が差し出したもの――それは毛糸で編んだウサギ…敢えて言うなら【ウサギちゃん】であった。ころりと丸い頭と胴、短い手足。そしてなぜか着ている学生服。――ファンシーショップに並んでいる品と比べても遜色ない出来である。拳武館という、東京の闇で活動する暗殺組織に属し、緋勇龍麻の徒手空拳【陽】と対を成す徒手空拳【陰】の使い手である壬生紅葉は、【表】では手芸部に属しているのだった。

「――君の部屋は殺風景だからね。机の上にでも飾ると良い」

「殺風景だと感じた事はない。だが、ありがたく頂いておく」

 並の高校生男子が見たら怖じ気づく光景かも知れないが、そんな物を差し出す方も受け取る方も共に無表情――ごく当たり前の事らしい。現役の高校生にして、元アメリカ陸軍特殊部隊と、現役の暗殺者。――似ていて当然だ。

「では、また――」

「グッドラック」

 徒手空拳、【陰】と【陽】の遣い手二人は軽く拳をぶつけ合い、それぞれの方向に向かって歩き出した。

 夜の新宿は闇を駆逐する人工の光に満ちている。二つの影はその中に溶け込み、たちまち見えなくなった。









「…どう思いますか、聖須華セスカ

 高空を吹き抜ける風に長髪をなびかせながら、【九頭竜】総帥、李飛鴻は、ビル屋上のフェンスによりかかって液晶テレビを眺めているツインテールの少女に問い掛けた。

「う〜〜〜〜ん…イマイチってトコかな」

 テレビの画面には、壬生と話している龍麻が映っている。しかし妙な構図だ。逐一動き続けているカメラアングルは、龍麻らの上空からのものばかりである。

「彼と向かい合った時、私は背筋が冷えましたよ。【九頭竜】には多くの殺手がいますが、あれほど奇妙な雰囲気を持つ者はいません。――感情を排除し、モラルを持たず、ひたすら非情に、冷徹に任務をこなす殺戮妖精レッドキャップス…。これほどのものとは思いませんでしたよ」

「そりゃそーよ。ただ単に、子供の頃から殺人技術を教えられただけじゃないもの」

 聖須華は風で煽られた髪を押さえつつ、小さな丸眼鏡を指先で押し上げた。――言葉の内容と口調、そして外見がまったくマッチしない。オーバーオールの胸元を内側から押し上げている膨らみはかなり豊かだが、一五〇センチ足らずの身長と童顔で、せいぜい中学生くらいにしか見えないのだ。その癖目の光には、人生の年輪を経た者のみが持つ深みがある。

「およそ戦闘技術と言えるものは何でもかんでも突っ込んで、それを合理的にプログラムしたマシンがレッドキャップスよ。その戦闘力は戦えば戦うほど増大する。でもコイツ、変よ。絶対に変」

「変…ですか?」

「――うん。飛鴻に言ったんでしょ? たった一つの誇りがどーたらって。――レッドキャップスがそんな事言う筈ないよ。そもそも、学校に通ってる事自体、マシンソルジャーには有り得ないわ。それに…うげげ。うさぎさんのぬいぐるみなんか貰ってるよ。なに? あの拳武館の彼っておホ○だちかなんか?」

 聖須華は明らかに失望した様子だ。裏の世界でも有名な拳武館の暗殺者を捕まえて、えらい言いようである。

「すると彼は、偽者ですか?」

「偽者って事はないだろーけど…プログラムが壊れてるってトコかな。飛鴻には悪いけど、こんなんじゃ【九頭竜】じゃ使いものにならないよ? もう一人の【毒使い】の方がよっぽど使えるかもね」

「…元々あなたが言い出した事ですけどね。彼をスカウトするという話は」

「データ通りなら良かったんだけどね。一年の潜伏生活で随分変わっちゃったみたい。――あんなんじゃボクもすっかり興味なくしちゃったよ。むしろあっちの【毒使い】に興味が出てきたよ。ボクが以前に【造った】子に似た能力だけど、どっちが強いだろう?」

 ぺろっと唇を舐める聖須華。――こういう仕種は普通の少女と変わりないのだが、言葉の端々がいちいち物騒である。

「…緋勇龍麻には興味なし、ですか。あなたはそれで良いでしょうけど、事はそんなに簡単には済みませんよ。彼が来た事で、裏の世界がざわめき始めています。そして彼は、この東京に戦いに来たと言いました。――彼のもたらすものは秩序か混沌か。いずれ――私と彼は戦う事になるかも知れませんね」

 その時ふと、聖須華の目が外見にあるまじき刃物のような光を噴いたのだが、李は敢えて無視した。いや、正面から受け止めた。

「それは――止めといた方がいいよ」

 恐ろしく冷たい声が街の喧騒を吸い込む。心なしか、気温まで下がったかのようだ。

「性格が少しくらい変わっても、下手に関わり合うと死ぬよ。――敵対の意志を持って立ちはだかる者があれば実力を持って排除せよ――この命令が骨の髄まで染み付いているんだから」

 ふわ、とツインテールをなびかせ、聖須華は彼に背を向けてフェンス越しに夜の街を見下ろす。そして、独白するかのように言った。

「多くの血が流される場所に現れ、旅人の首を狩り取る殺戮妖精レッドキャップ・・・…【彼ら】が引き寄せられてきたって事は、この東京が戦場になる日も近いのかもね。そうなったら…一杯死ぬよ。老いも若きも、男も女も。レッドキャップスは、そういう風に造られているんだから」

 不吉な予言とも取れる言葉は、聖須華自身の「あ!」という声に遮られた。

 彼女の手の中にあるモニターが突然ブラックアウトしたのである。その寸前に映っていたのは、蝙蝠を模したスパイ・カメラにウッズマンを向けた龍麻であった。

「…ちょっと訂正。この子、以前より鋭くなってるみたい。やっぱり、もう少し観察を続けた方が良いかもね」

 先程の意見をころりと変える聖須華に、李は苦笑する。本当は興味津々なのに、組織に身を寄せている事から、興味のないふりをしてみせる――そういう感情を、人は何と言ったか?

「セスカ…。存在し得なかった暦、十三月を司る筈だった全知全能の神の御名」

「……」

「ゼウスによって人界に落とされた神と同じ名を持つあなた。――この東京に、あなたが見ようとしているのは破壊か秩序か。――聞いても、答えてはくれないのでしょうね?」

「――答えようがないんだもん」

 唐突に、普通の少女のように聖須華は唇を尖らせた。――こういう仕種をすると非常に愛くるしくなる。

「解っているのは、【刻が動き始めた】ってコトだけなんだから」

 その時、理が何気なく見上げた夜空を、一筋の流れ星が駆け抜けた。いや、それを追うように、幾筋もの流れ星が夜空を切り裂いて走る。

 日本では流れ星を吉兆と見るが、中国では凶兆と見る。李は静かに呟いた。

「…この東京も、騒がしくなってきましたね」

 裏世界に君臨する男の目には、不吉な未来が見えているかのようであった。









 第壱話閑話 【暗殺街】 完



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